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8-1.温もり [峠◇第1部]


ケンの喫茶店は、武井の自殺によって、しばらく封鎖されてしまった。
幸一や怜子たちは一通りの事情聴取を受け、夜には解放された。
「なあ、せっかく、町に居るんだから、どこかで飲んでいかないか?」とケンが誘った。
和夫はすぐに同調したが、幸一と怜子はそんな気分ではなかった。
幸一は、疲れているからと誘いを断り、寺に戻ると言った。怜子も、家に帰りたいと言った。
大通りでタクシーを拾って、玉浦へ戻る事にした。

タクシーに乗り込んでも、しばらくは、無言だった。
過ぎ行く町の明かりが途切れ、暗い田舎道になり、やがて峠が見えてきた。
そこでようやく怜子が口を開いた。
「幸一さん、これからどうするの?」
幸一はすぐには答えられず、少し考えてから、
「村に来た目的も果たせたし、寺に留まることもできない。近いうちに名古屋へ戻ろうと思う。」
怜子は、夜の予定を訊いたつもりだったが、幸一から、村を離れるという答えが返ってきて戸惑った。
「そう」とだけ答えて、車の外へ視線を向けた。
峠道に入った。怜子はもう少し幸一と一緒に居たいと思い、峠を下りきったところで、急に
「運転手さん、すみません。停めてください。」と言った。

二人は、タクシーを降りた。夜風が涼しく感じられる季節になってきていた。真夏の蝉のシャワーから、草むらからの涼しげな音色に変わっている。
「ねえ、少し歩きましょう。」と怜子が切り出した。
「そうだね。夜風も気持ちいいし・・」と幸一は返した。
二人は四方橋に向かっていた。
「ねえ、お母さんの事、おしえて?」と、怜子が出来るだけ明るく訊いた。
「そうだね。君のお母さんなんだからね。」と幸一は、返してから続けた。
「すごく働き者だったよ。僕が、朝、目覚めるともう仕事をしていた。父が始めた居酒屋を一緒にやっていたからね。朝から仕込み、店を開けるのは夕方、常連も多くって、夜中までやっていたよ。母は、美人だったから、もててたみたいだね。特に、父が亡くなってからは、未亡人って事で、ほとんど男性客だった。でも、どんなに言い寄られても、すぐ「お父ちゃんに怒られるよー」って逃げてた。とにかく、働き者で明るくてね。」
「そう。ここでの悲しい境遇とは正反対みたいね。」と怜子。
「でもないさ。時々、夜中にうなされてたんだ。記憶を失っているはずなんだが、うなされた日の朝は、別人みたいになっていた。何も出来ず、ただ、蹲って動けないんだ。時々、うなされている時にね、『私の赤ちゃん・・私の赤ちゃん・・』てうわ言で言ってたのを聞いたことがある。僕の事だと思って、『僕ならここだよ』って言ってたけどね。今思うと、きっと、怜子の事を探してたんだね。」と幸一。
ふと、怜子の顔を見ると、はらはらと涙を流している。
母を知らずに生きてきた怜子にとって、幸一の話は,自分の存在がより確かに、玉谷家の人間にしていくのだった。
幸一は急に立ち止まった。そして、怜子の後ろに回って、やさしく包み込むように抱きしめた。
怜子は、少し驚いたが、温かい幸一の腕に身を任せた。幸一が怜子の耳元で、
「僕が辛い時、母はいつもこうやって抱きしめてくれたんだ。そして、こう言った。『顔を上げなさい。下を向いてちゃ、先は見えない。どんなに、泣いていても顔を上げて前を見るんだ。』ってね。」
幸一は精一杯の想いで怜子を抱きしめた。そして、母の言葉を伝える事で、二人が兄妹であり、お互い抱いている恋心は、兄妹愛に変えていかなければならない事を伝えたかった。
怜子は、幸一に抱かれながらも、まるで、母に抱かれているように心の中が溶けていくように感じていた。そしてまた、はらはらと涙が零れてきた。ただ、悲しいのではない。今まで味わった事のない、安らかな感触に、ここ数日積もっていた悲しみや辛さが全て溶けていくように感じていた。
二人は、月の光に照らされながら、四方橋の袂でしばらく動かなかった。

浜から、車が1台走ってきた。ライトに照らされた二人は、そっと離れた。
二人の前で車が止まった。
「お嬢さん!心配しましたよ。」
運転していたのは、玉水水産の営業部長の史郎だった。一連の事故の最中でも、彼は忠実に仕事をやっていたようだった。
「さあ、帰りましょう。会社の人間は、皆、心配してます。さあ、乗って下さい。」
と怜子を連れ帰ろうとした。あまりの無粋さに、怜子も仕方なく、帰ることにした。
「それじゃあ、幸一さん。・・」と怜子。
明日の約束をしたいと思ったが、言い出せず、史郎に、車の後席に押し込まれたようになった。
史郎は、幸一には目もくれず、運転席に座ったかと思うとさっさと車を出してしまった。
走り去る車の後姿を見ながら、幸一は、「これでよかったんだ」と思っていた。

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