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1-1 真夏の巡り逢い [スパイラル第1部記憶]

「お昼のニュースです。はじめは、先日のボート火災事故の続報です。伊勢湾で火災を起こしたボートは、上総CS所有と判明し、遺体で発見されたのは上総CS社長、上総英一氏と特定されました。警察関係者の話では、自宅に遺書が残されていた事から自殺と見て裏付け捜査を進めているとの事です。・・では、次のニュースです。・・・」

「さあ、そろそろ、行くか。」
4トントラックの後部簡易ベッドからむくっと起き上がった男は、もぞもぞと運転席に移るとカーラジオのスイッチを切った。そして、助手席に置かれていた運行表を取り上げ、しばらく見つめ、エンジンキーを回した。そして、ゆっくりとドライブインの駐車場から発車した。

トラックの運転手が、この話の主人公。小林純一、35歳、独身。

純一は、三河市の臨海地区工業団地にある「鮫島運送」で運転手として働いていた。幼い時に母を亡くし、児童養護施設で育った彼は、中学を卒業すると、鮫島運送で作業員として働いた。社長の好意で、定時制高校に通うことが出来、通新制大学も卒業していた。中学を出てから、もう20年、鮫島運送で働いていることになる。
「ただいま戻りました。」
純一はトラックを倉庫に着けると、運行表と伝票を持って、事務所に戻った。
「おや、早かったのね。」
そう言って、彼を出迎えたのは鮫島運送の社長の奥さんだった。事務机が小さく見えるほどの巨体だった。奥さんはそう言うとすぐに立ち上がり、事務所の奥の休憩所に行き、冷たい麦茶を一杯持ってきた。
「これ、運行表と伝票です。千賀水産は、荷が準備できないからと断られました。」
純一がそういうと、ソファで黙って新聞を読んでいた社長が慌てて立ち上がった。
「何だ、またか。よし、社長をとっちめてやらなきゃな。」
そう言うと、そそくさと事務所を出て行った。
「また、あんな事言って、どうせ、飲みに行くつもりでしょう?」
奥さんは、社長が出て行く姿をあきれた風に見送っている。
「もう上がっていいわよ。」
「ケンは?」
「そうねえ・・30分ほど前に上がったわ。このところ、近距離ばかりだからね。・・そうそう、明日から、三日ほどの長距離をお願いしたいんだけど、良いわよね?」
純一は、少し考えたが、特に予定も無かった。
「良いですけど・・・どこです?」
「青森までの配送。その先で1日、そこの配送の応援もお願いしたいのよ。」
「わかりました。」
「じゃあ、今日はゆっくり休んでね。」
純一は、奥の休憩室で着替えを済ますと、裏手の駐車場に出た。時間は6時を少し回ったところだった。今は、7月末、太陽は西に傾いていたが、まだ煌々と輝いている。
駐車場に停めた自分の車に乗り込むと、コンビニへ向かった。
青い看板を掲げたコンビニは、仕事帰りに必ず寄る事にしていて、店員とも顔見知りになっていて、自動ドアが開くと、すぐに店員から声を掛けてきた。
「今日は少し早いんですね。・・ああ、いつもの本、入ってますよ。」
「ああ、ありがとう。」
純一は、小さく返事をして、窓際にある雑誌のコーナーに足を運んだ。雑誌の棚を一通り見てから、一冊の雑誌を手に取った。中をぱらぱらと見てから、手に持ったまま、弁当売り場で、日替わりの幕の内弁当を取った。レジに向かうと、先ほどの店員がちょうど奥へ引っ込んでしまって、最近入ったばかりの新人の女の子がにこやかに微笑んで、バーコードをスキャンした。
「温めますか?」
「ああ・・。」
レジの脇で、ホット飲料のコーナーから緑茶を取り出して、レジに出し、精算し、弁当が温まるまでレジの脇でぼーとしていた。夕方なのに、客は少ない。
「ありがとうございました。」
若い頃は、一人夕飯を作って食べることもあったし、ファミレスで食べる事もあった。だが、最近は、一人で食事をするのが何だか侘しく感じるようになって、誰も居ない場所でさっと済ましてしまった方が気楽に感じるようになっていて、最近はほとんどコンビニで弁当を買い、お気に入りの場所で食べるようになっていた。
コンビニから海へ向かう産業道路を走り、最近出来た体育館の中通路を抜け、松林のでこぼこ道から海岸に出る。ほとんどの海岸が高い防波堤が作られているが、この場所だけは自然の海岸が残っていて、車を停めるとすぐ前に、小石がごろごろしている、波打ち際が見えた。
海岸に着いた頃には、夕日が沈みかけていて、辺りはオレンジ色に染まっていた。
純一は、さっきの弁当と緑茶を取り出し、ぼんやりと海を眺めながら食べた。特に何の感情もなく、機械的に食事をしているようだった。食べ終わると、眠気が襲ってきて、シートを倒して目を閉じた。
1時間ほど眠っただろうか、目を覚ますと辺りは真っ暗になっていた。時計を見ると9時近くになっていた。純一はため息を一つ着いて、シートを起こした。
エンジンキーを回し、車のヘッドライトを点けた。ぼんやりと海の方へ視線をやると、車から10メートルほど先に、何か白い塊がライトに照らされて浮かび上がっている。
「何だ?あれ。」
純一は、目を凝らしてその白い塊を見た。ちょうど、人くらいの大きさだった。さらにじっと見つめると、やはりそれは人のようだった。
「土座衛門?」
何か妙に古い言葉を思いついてしまった。
溺死体なのか?見なかったことにして立ち去ろうかとも考えたが、何か、このまま立ち去るのは憚られるようで、仕方なく覚悟を決めて車のドアを開けた。ゆっくりと、ライトが照らす先へ足を進める。二歩三歩近づいてみると、白い塊の端に、足のようなものが見える。
「やはり溺死体みたいだな・・・」
純一は心の中で呟き、すぐに警察に通報するのが正しい選択だ心に決め、もう少し近づいてちゃんと確かめようと考えた。そして、さらに足を進める。
もうすぐ手が届く位置まで近づいた時、足が動いたように見えた。

1-2 救急 [スパイラル第1部記憶]

「生きてるのか?」
どうやら、女性のようだった。
細い足が伸びている。白く見えたのはパーカーを羽織っているからだった。だが、全身ずぶぬれだった。辺りを見回してみたが、周囲に他に人影はないようだった。もう少し近づくと、「うう・・」と何か苦しそうな声を出したように聞こえた。

純一は咄嗟に近づき、「おい、大丈夫か?」と声を掛けた。だが、返事はしない。
白いパーカーが上半身を隠していて表情が見えない。
純一は手を伸ばし、顔に掛かっているパーカーを外した。長い黒髪、端正な目鼻立ち、色白で美しい若い女性だった。そっと、顔を近づけ域をしているか確認すると、僅かながら息遣いを感じた。
頭の中が混乱した。
なぜこんなところに若い女性が倒れているのか?どこから来たのか?生きているようだがどうしたらよいのか?こういう状況なら、心臓マッサージか?人工呼吸か?一辺に色んな疑問が噴出していた。「落ち着け!」純一はひとつ深呼吸をした。
そして、携帯電話を取り出して、119番通報した。
「消防ですか?救急ですか?」
返答がやけに事務的で少しむっとしたが、純一は状況をゆっくりと説明すると、「すぐに救急車を回します。それまでそこに居てください。苦しそうなら救命術を施してください。」
そう言われて、咄嗟に「はい」と答えてしまった。
情けなかった。救命術と言われてもどうしてよいのかわからなかった。
とりあえず、女性の脇にしゃがみこんで、表情を見た。特に苦しそうな表情ではなさそうだったが、息遣いはさらに弱くなっているように思えた。
「おい、しっかりしろ、すぐに救急車がくるからな。おい、しっかりしろ!」
そう言って励ますのが精一杯だった。ものの数分でサイレンが聞こえてきた。松原に赤色灯の光がちらちらと見えた。

純一は立ち上がると、「おおい!こっちだ!」と手を振って合図した。
救急車は純一の車の脇に停まって、救急隊員が担架を抱えて走ってきた。
救急隊員は、すぐに女性を仰向けに寝かせる。そして、体を覆っていたパーカーを広げた。下は真っ白なワンピースの水着姿だった。水に濡れてなまめかしく光った体が目に飛び込んできた。救急隊員は、特に動じる事も無く、手際よく、脈を取り、呼吸を確かめ、すぐに担架に載せ、救急車に運んだ。
同時に、パトカーがやってきた。パトカーから二人刑事と思しき人物が降りてきて、二言三言、救急隊員と言葉を交わした。救急車は後ろのハッチを閉めて、すぐに走り去った。その間、純一はずっと波打ち際でその光景を見ていた。
すると、先ほど刑事らしき男が純一の立っているところへ向かって歩いてくる。一人はかなり年配のようだった。もう一人はまだ若い刑事のようだ。
年配の刑事が、周囲を見回しながら純一に近づいてきた。そして開口一番に言ったのは、「お前が第一発見者か?」だった。
なんともぶっきらぼうで、その言葉は、お前が犯人じゃないかと聞こえるほどだった。純一は不快に感じ、年配の刑事以上にぶっきらぼうに「はい」と答えた。
「ふーん?」
年配の刑事はそういうと純一を足元から頭の先まで怪しい目つきで舐めるように見る。
「こんな時間、こんなところで何してた?」
「それが何か?」
純一は眉間に皺を寄せて答えた。
「ほう・・言えないような事をしていたのか?・・正直に答えろ!あの女性に何をした?」
年配の男の言葉は、まさに犯人扱いだった。
「私があの人に何かしたと言うんですか?・・・私はたまたま見つけ、人命救助と思って通報したんですよ。感謝されてもおかしくない。何ですか!犯人扱いですか!」
純一は食って掛かるように言った。
「じゃあ、ここで何をしていたんだ?」
「何って・・・コンビニで弁当を買って食べてから・・車の中で少し眠っていただけですよ。目が覚めたら、そこに女性が倒れて・・」
純一が話し終わらないうちに、年配の警官は遮るように言った。
「だいたい、犯人はなあ・・第一発見者を装うもんなんだよ。よおく、考えてみろ。こんな人気のない場所で、水着の女性が全身ずぶぬれで行きも絶え絶えになってるなんて、変だろ。」
確かに、年配の警官が言うとおり、こんな辺鄙な場所に女性が一人倒れている状況はあり背ない事だった。
「誰かにここに連れてこられたしか考えようが無いじゃないか。そしてここに居るのはお前だけ。お前がどこからか連れてきて、変な事をしようとして抵抗されたから溺死にでも見せかけようとしたが、良心が咎めて、通報した。そんなとこじゃないのか?」
純一は、答えるのも馬鹿馬鹿しかった。
「本当にそうなら、通報した後すぐに逃げますよ。そんな間抜けな犯人がいるんですかね。」
純一は少し小馬鹿にしたように言った。年配の警官はわざと懐中電灯の光を純一の顔に向けて照らして厭らしく言った。
「そうやって嘯くのも犯人の常套手段さ。・・よし、詳しい話を聞くから署に来い!」
年配の男はそういうと純一の腕を掴んだ。
「何するんですか!」
純一は思い切り振りほどいた。
その勢いで年配の男が足元がふらついて転んだ。いや、わざと転んだようだった。ゆっくり起き上がると、
「あーあ・・公務執行妨害だな・・いや、傷害罪の現行犯か・・さあ、大人しく来るんだ。さもないと、逃亡罪までくっつくぞ!」
年配の男はにやりといやらしい笑みを浮かべて言った。
そのやり取りを見ていた若い男が、懐中電灯を手に二人の傍にやってきた。

1-3 悪い夢 [スパイラル第1部記憶]

「あれ?純一さん?純一さんじゃないですか。僕です、ほら、港交番に居た・・。」
その若い男は、春まで港地区の交番勤務だった古畑という刑事だった。
「どうしたんです?こんなところで。・・・ああ、結城警部、この人は港の鮫島運送の従業員、小林純一さんです。交番勤務の時、随分世話になりました。この人はおかしな事をする人じゃありません。」
古畑は、純一を年配の刑事にそう説明した。
結城警部と呼ばれた年配の刑事は、「ふん」と言ったきり、その場に座り込んだ。
「状況を説明してください。」
古畑は改めて純一に聞いた。
純一は、鮫島運送を出てここで女性を発見するまでの経過を出来る限り正確に話した。

「あの女性とは面識はないんですね?」
古畑は、純一の話をメモを取りながら聞いてから、改めて尋ねた。
「ああ、初めて見た顔だった。ここに来た時、海岸には誰も居なかったと思うし、目を覚ましたらそこに居たんだ。不思議だった。」
純一はそう答えた。
「そうですか・・・判りました。・・申し訳ありませんが、一応、お聞きした内容の裏取りはさせてもらいます。・・それと、明日、もう少しお話を伺う事になるかもしれませんので、携帯電話の番号を教えてください。」
「わかった。それが警察の仕事だからな・・。」
「済みません。犯人の疑いを持っているわけではありませんから・・・。」
そう言うと、敬礼をして、結城警部とともにパトカーへ乗り込むと、サイレンを鳴らしながら、戻って行った。

遠ざかるサイレンの響きを聞きながら、純一は、ぼんやりと思い出していた。
弁当を食べたところまではいつもどおりだった。
少し眠って目が覚めてから、経験した事のない事続きだった。
足元の波打ち際、ライトに照らされた女性のなまめかしい肌の色が急に浮かんできた。あの警官が言ったとおり、この暗い海に若い女性が一人倒れているのは尋常な事ではない。誰かに連れてこられたか、海を泳いでここまで辿り着いたのか、いずれにしても、これ以上、関わりたくないものだと感じながらも、あの女性の顔が頭から離れない。

ふと足元にキラリと光るものがみえた。
そっと手を伸ばし拾い上げてみると、ペンダントのようだった。銀色でやや太い鎖、そしてペンダントヘッドには1センチほどの透明の玉が着いている。先ほどの女性のものだろうか?明日にでも、あの警官にでも渡せば良いだろうと考え、そっとポケットの中に入れた。

それから、純一は車に戻り、自分のアパートに戻った。
純一のアパートは、港地区からは車で20分ほどのところにあった。就職したばかりの頃、社長の家の離れに住まわせてもらっていた。その後、社長の家の周囲が一気に開発されて住宅地になった。社長はもともとこの辺りの資産家で田畑をたくさん持っていて、住宅開発の波に乗って、地所にいくつかのアパートを建てた。純一もその一つに住んでいた。
アパートの駐車場に車を入れていると、社長の奥さんが庭に出ていた。純一のアパートは社長の家の隣に立っていた。
「あら?遅かったわねえ。・・そう言えば、海岸辺りにパトカーが居たようだったけど何かあったのかしら。物騒な事じゃなければ良いけど・・・。」
奥さんは、ゴミ箱の蓋を閉めながら独り言のように呟いた。
純一はその当事者だったが、説明するとまた一騒動起きそうで、何も言わずアパートの階段に向かった。
純一の部屋は、3階建てのアパートの最上階の南東側の一番良い部屋だった。
最初は、1階の小さな部屋に居たのだが、最上階の部屋が空いたので社長が住むように勧めてくれた。賃貸アパートにしては大きく贅沢な作りで、家賃も高かった。いや、家賃が高くて誰も住まないから、純一を居れたというのが本当だろう。
4LDKで日当たりも最高で広い。独身の純一にはもったいないが、社長の事情もわかったので、二つ返事で転居した。
部屋のベランダからは、遠く海岸の松原も見える。周囲に余り高層の建物が無いため、見晴らしは抜群だった。意外に純一はこの部屋を気に入っていた。
部屋に入ると、純一はすぐにシャワーを浴びた。何だか妙に体がだるい。いつもなら、玄関脇の小さな部屋に篭るのだが、今日はそんな気になれず、髪を乾かすと早々ににベッドに入った。

夢を見た。
海岸で見つけた女性が、玄関に立っていて、じっと中を見ている。全身ずぶぬれで、手をそっと肘で曲げて何か恨みを持った目をしている。それはまるで幽霊のようた。
はっと目が覚めた。
「そうか・・・彼女、自殺をしようとしたんだ。」
ベッドに座って、再びあの光景を思い出していた。
「しかし、自殺をしようとするのに、あの水着は変だよな・・・。泳いでいる時溺れてしまったか?・・それも妙だな。パーカーを着たまま泳ぐなんてしないだろう。・・・沖の船から落ちたとか?・・・・」
まるで推理小説を読んでいるような感覚だった。
ふと時計を見ると朝の5時を回ったところだ。窓からすでに白み始めた空が見えている。
純一は、もうひと寝入りしようと、再びベッドに横たわり眼を閉じた。
浅い眠りの中で、純一は再びあの女性の夢を見た。
今度は、恨めしそうな表情ではなく、ぽつりと浜辺に座っている。純一が近づくと、僅かな微笑を浮かべて純一を見た。その表情がどこか懐かしく感じられた。

1-4 古畑刑事の訪問 [スパイラル第1部記憶]

翌日から、純一は、青森までの長距離配送の仕事に就いた。長距離の仕事は最近めっきり減っていて、久しぶりだった。長い道中、時折、純一の脳裏にあの女性の姿が浮かんでいた。無事に命は取りとめただろうか、もう逢う事もないだろうな等とハンドルを握りながら考えていた。
予定より早く仕事が片付いて、三日目の午前中には、会社に戻ることが出来た。
「ご苦労様・・明日から二日ほどお休みにしてちょうだい。・そうそう、留守の間に、警察の人が何度か来たわよ。・・人助けしたらしいわね・・その件で何か話したいことがあるって行ってたけど・・。」
奥さんが事務所で純一に伝えた。
「そうですか・・・」
純一はそう答えて、帰り支度をしアパートに戻った。長距離運転は思いのほか疲れる。純一はアパートに戻ると、ベッドに横たわって少しうとうとした。そして、あの女性の夢を見ていた。暗い海にあの女性が立っている。海岸で見つけた時と同じ、白い水着にパーカーを羽織って、遠くを見つめている。それを純一はぼーっと見ているのだった。

突然、インターホンの呼び出し音に目が覚めた。
『一体、誰だ?』
滅多に訪れる人のいない純一のアパートに訪問者など、きっと何かの勧誘だろうと思いながら、インターホンを取ると、モニター画面には、昨夜の刑事、古畑が玄関前に立っているのが写っていた。少し頭がぼんやりしている。
純一が玄関ドアを開けると、古畑は手帳を片手に妙な笑顔を浮かべている。
「何の用ですか?」
純一は少し不機嫌に訊いた。古畑は一層の笑みを浮かべて言った。
「小林さんの疑いは晴れました。コンビニの防犯カメラ、体育館の通路のカメラの映像で、小林さんが一人であの海岸に来られた事が確認できました。コンビニの店員からも証言がありました。」
「それを伝えに?・・それなら、電話でも済む事でしょう?」
「いえ・・先日は、結城警部が大変失礼な事を言いましたので、お詫びも含めてご報告に参りました。」
「そう・・わかりました。じゃあ・・。」
純一がそう言ってドアを閉めようとすると、古畑が、
「ちょっと待ってください。実は・・あの女性の事でひとつお願いがありまして・・。」
とドアの中に身を入れて純一を引き止める。
警察からの頼みごとなど厄介な事に決まっている。しかし、昨夜の女性の事と言われ、純一も少し気になった。
「ああ・・そういえば、昨夜の女性は助かったのですか?」
純一は古畑に訊いた。
「ええ・・担当医の話では、随分と衰弱しているので、暫くは入院が必要だが命には別状ないそうです。」
「そうか・・無事だったか・・・それで、頼みごとって何ですか?」
純一は、彼女が無事と聞いて少しほっとして、つい訊いてしまった。
「詳しくはここでは・・一緒に市民病院に来ていただけませんか?」
「あの女性の事で何か?・・」
「一緒に来ていただければ判ります。さあ、お願いします。」
古畑は、純一の腕を取ると少し強引に部屋から引っ張り出そうとした。
「ちょっと・・待ってくれ・・。着替えもしていないし・・・。」
そういう純一を更に強引に引っ張る。
「判った!判ったから・・行くから・・そうだ、30分ほど待ってくれ。」
純一の言葉に、古畑は手を離し、敬礼をした。
「ありがとうございます。では、下でお待ちしています。」
そういうと、古畑はカンカンと靴音を響かせて階下に降りて行った。
純一は、彼女に再び会えるのかと思うとどこかドキドキとする自分に気付いていた。すぐに、顔を洗い髭をそり、着替えをした。

階下に降りていくと、アパートの入口にはパトカーが停まっていて、古畑が脇に立っている。古畑は、階段を下りてくる純一を見つけると、足早に階段を上ってきた。
「さあ、行きましょう。」
そう言って純一の腕を掴む。そのまま、まるで何かの事件の容疑者のようにパトカーの後部座席に押し込められた。
「まさか、サイレンは鳴らさないだろうな・・。」
純一が考えると同時に、頭上の赤色灯が回り始め、けたたましい音を立ててサイレンが響いた。
「おい!サイレンはないだろ!これじゃあ、容疑者の護送みたいじゃないか!」
純一の声も聞こえないのか、古畑はタイヤを鳴らすほどの勢いで急発進した。

病院の玄関に着くと、古畑は「救急の入口から入ってください。私は車を置いてきます。」と言って純一を玄関前で降ろした。純一は、ひとり救急センターの入口へ回った。
入り口あたりで行き場を失ってうろうろしていると、
「小林・・純一さんですね?」
「ええ・・」
振り向くと、紺のタイトスカートに白いブラウス、そしてグレーのカーディガンを着た若い女性が、そう言って近づいてきた。
「この病院のケースワーカーをしている吉崎恭子と申します。」
女性は小さな名刺を取り出して渡した。純一はそれを受け取ると、そのまま、女性の後について救急センターの奥にあるカウンセリングルームに入った。
暫く待っていると、古畑と、白衣を着た若い医師、そして先ほどの女性が部屋に入ってきた。
先ほどの女性が口を開いた。
「こちらは、心療内科の谷口先生です。」
そう言うと、谷口医師が椅子に座った。手には、カルテのファイルを持っていた。
「では早速、女性の容態をご説明いたしましょう。」
谷口医師は、そう言うとカルテを開いて説明しようとした。

1-5 病院の相談 [スパイラル第1部記憶]

1-5 病院の相談
「ちょっと待ってください。何故、私が女性の容態を知る必要があるんです?だいたい、あの女性とは何のかかわりもありませんし、見ず知らずの他人です。偶然、見つけただけですから・・。」
谷口医師は少し困惑した顔で、ケースワーカーの吉崎を見た。吉崎は、古畑を見た。
「すみません。・・まだ、小林さんには何の事情も説明していません。とりあえず、ここへおいでいただいて先生の話を聞いてからと思いまして・・・。」
古畑は慌てていい訳じみた事を言った。
「事情って何ですか?・・私と彼女が何か関係でもあると?・・私は彼女に何もしていませんし・・偶然見つけただけです。」
「いえ、そうではないんです。確かに、発見されただけの事なんですが・・・。」
ケースワーカーの吉崎は困惑しながら答えた。そして、
「一つ、貴方にお願いしたいことがあるのです。でも、それには、彼女の状況をきちんと知っていただく必要がありまして・・ですから、先生にも容態をお話ししていただく必要があるのです。・・・小林さんの疑問は良く判ります。ですが・・一通りご説明を聞いていただきたいのです。」
純一は、不承不承、話を聞く事にした。

再び、谷口医師がカルテを開いて話し始めた。
「ここへ搬送された時、かなりの衰弱状態にあり、すぐに処置をしました。精密検査を行ないましたが、幸い、大きな外傷はありませんでした。」
「衰弱状態って?やっぱり海を泳いで来たと言う事でしょうか?」
純一が思わず質問してしまった。
「いえ・・そういうのではないでしょう。数日間、食事を取っていなかったのが原因でしょう。」
「食事を取っていない?」
そこまで聞いて、古畑刑事が付け加えるように言った。
「それと、腕と足首に縛られたような跡もありました。どこかに監禁されていたとも推察できます。そこから逃げ出したか、解放されたか、今、その線でも捜査をしています。」
純一はそれを聞いて更に疑問が生まれた。
「・・彼女は意識が戻っていないのですか?・・」
「いえ・・二日ほど昏睡状態でしたが、昨日には回復しました。今朝には食事も取りましたから、数日で退院できるほどになるでしょう。」
医師は冷静に答えた。
「なら、彼女に訊いてみればすべてわかるじゃないですか・・どこに監禁され、どうやって逃げたのか、そして、何故あの海岸にいたのか・・私が何もここに呼ばれることもないでしょう?」
純一の言葉を受けて、ケースワーカーの吉崎がようやく重要な事を告げようと立ち上がった。
「じつは・・彼女は、記憶を失くしているのです。」
「記憶喪失ということですか?」
「ええ・・自分の名前も年も、何処にいたのか、まったく覚えていないようなのです。」
「ドラマでは聞いたことはありますが・・本当にそんな事があるのですか?」
純一は驚いて、谷口医師に訊いた。
「健亡という言葉はご存知ですか?」
「健亡?」
「ええ・・何らかの原因で記憶を喪失する事を言います。・・事故等で外傷を受けた時、前後の記憶が曖昧になったり、すっかり抜け落ちてしまうのを外傷性健亡と呼びます。ですが、彼女の場合、外傷は見当たらないので、むしろ心因性健亡と考えられます。」
「心因性?」
「ええ・・何らかの精神的ストレス・・あるいはショックに近い強い記憶・・自分の心を守るためにそれまでの記憶を自ら消してしまおうとするような事もあるのです。」
「そんな事があるのですか?」
「人間の脳というものは、まだまだ判らない事が多いのです。記憶を封印すると言う事も充分にありうる事なのです。」

彼女は、何かとんでもない境遇にあったのだと純一は想像した。
監禁などとは尋常ではない、黒い服装に身を包んだ怪しげな集団とか、薬物の取引とか、抗争とか。とにかく堅気の人間とは無縁の世界の女性なのだろうと想像を膨らませていった。
「小林さん、そこでお願いがあるんです。」
純一は、あらぬ方向に想像を膨らませていたが、吉崎の言葉で我に返った。
「・・お願い?・・いや、その前に・・・彼女の記憶は戻るのですか?先生。」
谷口医師は困惑した表情で言った。
「今まで、これほどのケースは診た事がありません。失われた記憶がすぐに戻ることもありますが・・・なんともいえませんね。いや、むしろ記憶を取り戻さないほうが良いかもしれませんね。かなりの精神的ショックを受けている可能性がありますから、記憶を取り戻す事で心が壊れるかもしれません。」
「そんな・・・」
純一は他人事ながら彼女に同情した。
「そこで、小林さんにお願いがあるのです。」
再び、ケースワーカーの吉崎が言った。
「彼女の身元引受人になっていただけませんか?」
「身元引受人?」
純一は吉崎の顔を見た。吉崎は、懇願するような表情を浮かべている。古畑刑事も同様であった。
「何故?僕が見ず知らずの記憶を失くした女性の身元引受人にならなくちゃいけないんです!こういう時こそ、・・警察が・・いや・・どこかの機関で保護するべきでしょう?」
純一の言葉には、古畑刑事が答えた。
「ええ・・確かに、こうしたケースでは施設で一時的に保護する事になるんですが・・余り快適な施設ではないのです。・・・若い女性を保護するような事は考えていませんから・・・。」

1-6 病室での再会 [スパイラル第1部記憶]

1-6 病室での再会
古畑刑事の説明では、こうしたケースでは、身元が特定できればすぐにも親族の下へ送り返し、保護されるようになるのだが、身元がわからない場合は、行政措置として第三者の身元引受人を置き、生活保護による生計の保障と、仮戸籍・住民票の発行、そして社会復帰へと動く事になるようだった。
「彼女はまだ若いんです。それに、これまでもきっと辛い目にあってきたはずなんです。この先、また厳しい暮らしをしなければならないと思うと・・ですから、小林さんに身元引受人になっていただいて・・彼女を助けていただけないかと考えたんです。」
ケースワーカーの吉崎は、必死の形相で純一に話しかけた。
「ちょっと待ってください。・・・たた偶然、見つけただけの関係でどうしてそこまで面倒を見なくちゃ行けないんです。それに、私はうだつの上がらない独身の男です。あんな若い女性を保護するなんて、分不相応です。」
「いえ、あなたなら信用できます。だからこうしてお願いしているんです。」
吉崎は退かなかった。
「あなたは私の何を知っているんです?私はしがないトラック運転手で、もう40に手が届くむさくるしい男ですよ。聖人君子じゃないんだ。」
「いえ・・あなたならきっと彼女を守ってくださるはず。私は信じています。」
吉崎は妙な確信を持っていて、固辞しようとする純一にいっそう強く迫るのだった。
「じゃあ、あなただったらどうです?あなたが彼女だとして、私のような男の許で、暮らすなんて出来ますか?」
純一の問いに、吉崎は躊躇無く答えた。
「私なら是非にもお願いしたいですわ!小林さんとなら一緒に暮らせます!」
この返答に、純一だけではなく、古畑刑事も、谷口医師も驚いた。そして、そう言った吉崎本人が一番驚いて、真っ赤になってしまったのだった。
純一は、吉崎の言葉に呆れてしまって、もはや固辞する事が無意味に感じた。
「判りました。良いでしょう、身元引受人になっても良いでしょう。ただし一つ、条件があります。彼女自身が納得する事が前提です。当の本人が拒絶すれば、私自身も納得できません。それが条件です。」
純一の答えに、吉崎は大いに喜んで、
「ありがとうございます。」
そう言うと、純一の手を強く握り締めた。
「まだ決まったわけではありませんから・・・。」
純一の言葉に、吉崎は強く握った手を見て再び真っ赤になってしまった。
「では、彼女に遭わせて下さい。」

すぐに面会のために、吉崎と純一は病棟に向かった。
救急センターに隣接した病棟は東西二つの棟があり、彼女は東病棟の最上階の病室だった。エレベーターが開くと、ナースステーションの脇に廊下が二つ伸びていた。純一は吉崎の後について彼女の居る病室に向かった。
病室の入り口には、「小林<女>」と書かれていた。
「これは?」
純一が気になって吉崎に尋ねた。
「名前がわからないので、とりあえず、発見者の小林さんのお名前をお借りしました。」
吉崎はさらっと答えた。
「先に私から事情を説明しますので・・その後、お入り下さい。」
吉崎はドアを軽くノックして中に入っていった。ドアが閉まると中の会話は全く聞こえなかった。病棟の廊下は静かだった。
時折、看護師が病室に出入りする足音は響いていたが、それ以外に動くものはなかった。その間、純一は、彼女を浜辺で見つけたときの様子をぼんやりと思い浮かべていた。彼女の姿が脳裏に浮かぶと、何故か鼓動が高まるのを感じていた。
ドアが開いて、吉崎が顔を見せた。
「さあどうぞ。」
そう言われて、純一は一瞬躊躇った。どういう顔をして病室に入ればよいのか判らなかったのだ。
「さあ、どうぞ。」
吉崎に再び求められ仕方なく病室に入った。
彼女は、背を起こしたベッドに半ば座ったような格好で居た。病室着を着て、腕や胸元にはセンサーのビニール線が伸びていた。彼女は病室の窓のほうを向いていて、横顔しか見えなかった。
「小林と申します。」
おずおずと挨拶すると、彼女がこちらに視線を向けて軽く頭を下げたように見えた。
長く真っ直ぐな黒髪、色が透き通るほど白い肌、目鼻立ちのはっきりしていて、芯の強そうな女性だった。年はおそらく20代だろうと思われた。
「お話は出来ますか?」
純一は少し不思議な質問をした。
いや、彼女が記憶を失っている事は知っているが、それがどういう事か実際には判らなかったから、言葉もなくしているのではないかと考えたからだった。
彼女は、能面のような表情のまま、小さく「はい」とだけ答えた。
どうも上手く会話できない二人を見かねて、吉崎が口を出した。
「小林さんがあなたを海で見つけて救ってくださったんですよ。あのままだったらきっとあなたは亡くなっていたはずです。」
それを聞いて彼女が、再び小さな声で、「ありがとうございました」とだけ答えた。その言葉も、全く感情が入っていなかった。
きっと彼女にとって命を救われた事が良かったのかどうかさえも判断できないに違いない。記憶を失った事は生きている事すら無意味なものに感じられるのかもしれない、純一はそう受け止めていた。
「・・あの、体のほうはもう大丈夫なのですか?」
純一が訊くと、彼女は少し間をおいて、「ええ・・」と小さく答えるだけだった。
純一が想像したとおり、彼女にとって今病室にいる事さえも、現実とは思えなかった。自分は何者なのか、何処から来たのか、何故ここに居るのか、一切の記憶が消えているのだ。全てが幻のような感覚だった。この状況は夢の中ではないかとも考えていた。

1-7 名も知らぬ女 [スパイラル第1部記憶]

1-7 名も知らぬ女性
「吉崎さん、ちょっと良いですか?」
純一はそう言うと、吉崎を病室から連れ出した。

「身元引受人の件ですが・・・あれじゃあ、とても無理です。何の感情も無いような・・まるでロボットか人形のような・・・普通の暮らしが出来るとは思えない。彼女自身が納得するも何も・・とても私には無理です。」
純一は、廊下に出て、吉崎に思いの丈をぶつけた。
「・・大丈夫です。彼女は、まだ戸惑っているだけです。もう少し、お話すればきっと納得してくれるはずですから・・・。」
吉崎はまた妙に確信を持った返答をした。
どうやら、確信があるのではなく、単に大雑把なだけではないかと思うほどだった。
「さあもう一度・・。」
吉崎は、ドアを開けて純一を病室に戻した。そして、
「私が居ると話しづらいかもしれませんね。私は仕事がありますから席をはずします。しばらく、ゆっくり話してみてください。」
そう言うと、さっさと病室から出て行ってしまった。

純一は彼女と二人、病室に居た。彼女は再び窓の外を見ていた。純一は開き直った。
一つ大きなため息を着いてから切り出す。
「あなたは記憶を無くしたそうですね。どんな気分ですか?」
純一は少し口調が強かったかなと感じて、彼女を見た。
すると、彼女は窓を見つめたままの格好で、はらはらと涙を零していた。触れてはいけない事を訊いてしまったことが彼女を傷つけてしまった、純一は彼女の涙で大いに反省した。
「済みません・・・ちょっと戸惑っていまして、何を話したものかと・・済みません。」
純一が慌てて謝罪したところで、彼女が口を開いた。
「いえ・・良いんです・・・本当の事ですから・・・私自身戸惑っているんです。・・先生にも教えていただきましたし・・それに、私の場合、とても辛い目に遭ったことが原因だろうとお聞きしました。・・きっと私は酷い人間に違いないんです。・・・。」
「そんな・・いや、きっと酷い目にあったかもしれないけど、あなた自身が酷い人ではないはずです。」
「どうして?」
「いや・・酷い事が出来るような人には見えませんし・・きっと何か事故にあったとか・・誘拐されたとか・・・きっと何かの被害者に違いありません。」
「そうでしょうか?」
「きっとそうです。だから、そういう悲しい記憶は捨てちゃったんでしょう。・・いいじゃないですか、生まれ変わって生き直せば良い。厭なことは忘れたいのは誰も同じでしょう。それがちょっと多いだけでしょう。大丈夫ですよ、そんなに若くて美しいんだ、まだやり直すチャンスがたくさんあるはずです。」
純一は、とにかく彼女を慰めようと必死になってしまって、自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
彼女の表情は少し柔らかくなったようだったが、再び曇ってしまった。
「これから先・・どうなるんでしょう?」
彼女はポツリと呟いた。確かに、全ての記憶を失い、自分が何者かもわからず、どういう人生を歩めばよいのか、真っ暗な海の中を漂う小船のようなものだった。
「大丈夫です。私が身元引受人になりますから。」
純一は思わず口にしてしまった。彼女はその言葉の意味が少し理解できない様子だった。純一はその表情を察して続けた。
「・・吉崎さん・・ああ、さっきのケースワーカーが話していませんか?あなたはもうしばらくで退院できるようです。でも、身元がわからないと施設に一時保護されたあと、生活保護を受けることになるそうなんです。・・でも、あなたのような若い女性には耐えられない厳しい暮らしになるだろうからと、私に身元引受人になってくれないかと頼まれたんです。」
少し事態が理解できたのか、彼女は戸惑いの表情を見せている。
「・・いや・・私は断ったんですよ。だってそうでしょう、あなたのような若い女性が、こんなオジサンと暮すことになるんですから。全く見ず知らずの男と暮らすなんてね。だから、条件を出したんです。あなたが承知するのならと・・・。」
彼女は少し考えているようだった。そして、「ご迷惑ですよね?」と言った。
彼女の言葉の真意がつかめないまま純一は答えた。
「いや・・迷惑だなんて・・淋しい一人暮らしですから・・幸い、部屋はありますし、迷惑という事はありませんよ。ただ、女性の扱いに離れていないので・・失礼な事もするのじゃないか・・いや、変な事はしませんよ。・・それだけは守ります。・・そういう下心なんてありませんから・・でも、あなたのほうが警戒されるでしょうし・・・もっと若くて・・そう・・イケメンなら良いんでしょうけど・・まあ、あなた次第ですから・・・。」
自分でも何を言っているのかわからなくなっている。承知しているのかしていないのか、ただ、このまま放っておくことは出来ないという気持ちだけだった。

「お願いします。・・・しばらくの間で良いですから・・よろしくお願いします。」
彼女ははっきりと言った。
「えっ?・・良いんですか?」
「ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。きっと御恩はお返しいたします。」
彼女は純一の目を見てしっかりと答えたのだった。

タイミングよく、ケースワーカーの吉崎が姿を見せた。いや、吉崎はずっと前から廊下で二人の会話の一部始終を聞いていたのだった。
「話はまとまった様ですね。・・良かったわ。・・小林さんは、私の思っていた通りのお方でしたね。」
こうなる事を見抜いていたとは思えないのだが、どうやら吉崎の術中に嵌ってしまったようだった。
「じゃあ、私は身元引き受けの書類を揃えてきますから・・しばらく待っていて下さい。」
再び、吉崎は部屋を出て行った。

1-8 看護師 [スパイラル第1部記憶]

1-8 看護師
「本当に良いんですか?」
吉崎が出て行った後、純一はもう一度確認した。今度は彼女が微笑むように言った。
「ええ・・。きっと優しい方に違いありません。よろしくお願いします。」
彼女の笑顔を見て純一は何だかほっとして、ベッドの横に置かれた丸椅子に座り込んだ。
彼女は、再び窓の外に視線をやって、言った。
「一つお願いがあるんです。」
純一が顔を上げて彼女を見ると、彼女が微笑みながら言った。
「名前をつけていただけませんか?・・自分の名前が思い出せなくて・・でも、これから生きていくには名前が無いと・・貴方のお傍に居るわけですから・・貴方が好きな名前をつけてくださいませんか?」
彼女の言葉は妙な感じがした。
身元引受人になったが、お傍に居るなどと言われると、まるで恋人か妻を貰ったような気持ちになってしまう。更に、好きな名前をつけてなんて言われると、自分の所有物のような錯覚をおぼえてしまうのであった。
「・・・名前をつけるなんて・・・。」
「お願いします。」
純一は戸惑いを隠せず、彼女の顔を見た。
はっきりした目鼻立ち、色白で上品さを感じさせる。左目の下にホクロがあるのが印象的だった。
純一の頭に突然、一つの名前が浮かんだ。どこからそんな名前が出てきたのか説明できないが、何故か彼女の顔を見ていると浮かんだのだ。
「・・じゃあ・・ミホ・・でどうでしょう・・・。」
名前を口にして、純一はたいそう恥ずかしくなって真っ赤になってしまった。
「ミホ?」
「いや・・あまりに在り来たりかな・・別・・別のにしましょう・・ええっと・・。」
純一は慌てて自分が口にした名前を否定しようとした。
「いえ・・ミホ・・良いです。・・そうしてください。」
彼女はその名を聞いて何だか妙に自分に合っているというか、懐かしいという感覚が湧いてきて、小さく何度か、口にしたあと、ふいに純一に言った。
「呼んでみてくれませんか?」
「えっ!」
純一はどぎまぎした。
ただ、名前を呼ぶだけのことなのに、これほど緊張するとは思ってもいなかった。
「お願いします。」
彼女は真っ直ぐ純一を見ている。
純一は、恥ずかしさを隠すために、一呼吸してから目を閉じて名前を口にした。
「ミホさん。」
「はい。」
目を開けると彼女は涙を流していた。
どういう涙なのか、純一には理解できなかったが、彼女は涙を流し、微笑んでいる。
「何だか・・・生まれ変われたみたいです。・・ありがとうございます。ご迷惑をおかけしないようにします。宜しくお願いします。」
彼女はそう言いながら涙を流し、毛布に顔を埋めた。

病室のドアが静かに開いた。
「失礼します。検温の時間です。」
そう言って一人の若い看護士が入ってきた。純一はその看護士を見て目を見開いた。
「お前・・どうして・・。」
純一の言葉など無視するかのように、その看護士は純一の前を通り、さっさと彼女の前に進み、体温計を差し出した。そして、手早く、脈と血圧を測る。その間中、純一の存在をわざと無視するような態度をとった。
「どういうことなんだよ、唯。なぜ、ここにお前が居るんだ?」
その看護士は、一通りの作業を終えると、ようやく純一の問いかけに答えた。
「あら?私はこの病棟の担当看護士よ?巡回に来ただけ。」
何だかとぼけたように答えた。
その看護士は、純一が勤務する鮫島運送の娘なのだ。
確かに、市民病院の看護士をしている事は知っていたが、大きな病院だ。病棟もたくさんある。偶然にしては出来すぎている。ようやく、純一は、あの古畑刑事やケースワーカーの吉崎が自分に身元引受人を依頼した理由がわかった。
唯が、救急搬送された患者の話を聞きつけて、発見者が純一だと知って、ケースワーカーに勧めた違いなかった。
「お兄ちゃん、身元引受人になったんだって?」
唯は少し面白がるように訊いた。
「とぼけて、お前がそう仕向けたんだろ!」
純一が言うと、唯はぺろっと舌を出した。その二人のやり取りを「ミホ」はじっと見ていた。そして
「仲が良いんですね?ご兄妹なんですね。」
「ミホ」の問いに、純一が答えた。
「いえ・・兄妹ではないんです。・・こいつは、私が勤めている運送会社の社長の娘なんです。こいつがまだ三つの頃から知ってるんで・・いや、子守代わりだったんでね。」
「ミホさんって名前になったんですね?良かった。お兄ちゃん、無愛想だけど優しいのよ。大丈夫、きっと守ってくれるから。・・それに、私も隣に住んでるから、お兄ちゃんが変な事しようとしたら逃げてくればいいからね。」
「お前、聞いてたのか?」
「・・お兄ちゃん、緊張しすぎて声が裏返ってたわよ。」
何か全て知られてしまったようで、純一は妙なむなしさを感じていた。
「ミホさん、随分、体調も良くなったようだから、退院も早そうね。お兄ちゃん、頑張ってね。」
唯は妙な笑みを浮かべて、病室を出ていった。
「・・ちょっと・・出てきます。すぐに戻りますから・・。」
純一はそう言うと、唯の後を追うように病室を出て行った。

1-9 子どものような女 [スパイラル第1部記憶]

1-9 子どものような女性
「おい、唯・・ちょっと待てよ。」
ナースステーションへ戻ろうとしている唯に、純一は声を掛けた。
振り向いた唯は、うっすらと涙を浮かべているようだった。その様子に、純一は一瞬戸惑った。
「良かった・・ミホさん、きっとすごく辛い事があったはず・・お兄ちゃん、ちゃんとお世話してよね。・・」
唯は、担当の看護士として、ミホの状況を担当医から聞き、随分、同情しているようで、純一は身元引受人になってくれた事が嬉しかったようだった。
「ああ・・・」
純一は唯が見せた優しさに驚いたと同時に、小さい頃から見てきた唯が随分大人になったんだと元感じていた。
「お前に頼みがあるんだが・・。」
「何?」
「いや・・退院が近いって言ってただろ?・・で・・退院の準備を手伝って欲しいんだ。」
「良いけど・・お兄ちゃんがやれば良いじゃない?」
「いや・・俺じゃ無理な事もあるだろ・・ほら・・彼女、水着で海に居たんだ・・着替えとか何も無いじゃないか。女性の着替えって、俺には無理だよ。」
「良いじゃない。お兄ちゃんの好みの服を買ってあげれば?」
「・・洋服程度なら良いだろうけど・・ほら、・その・・下着とかもいるだろ?さすがに俺には無理だよ・・なあ、頼むよ。」
純一の困った顔を見て、唯は少し考えてから言った。
「わかったわ。ミホさんにサイズを訊いて買ってくるわ。・・じゃあ。」
唯はそう言うと、手のひらを純一の前に突き出した。
「後でやるから、立て替えといてくれよ。」
「えー?今月ピンチなんだから・・前金でちょうだい。」
「いくらいるんだ?」
唯はそのままの格好で少し考えてから、
「・・5万円くらいかな?」
「そんなに?」
「女性ものは高いのよ。それにちょっとはお駄賃もね?!いやなら良いのよ。お兄ちゃんが自分で下着屋さんに行けばいいんだし・・。」
唯はちゃっかりしている。
「判ったよ。」
純一は財布を取り出して、唯が言うとおりの金額を渡した。
「毎度あり!」
結いは変な返事をして、さっと純一の手からお金を受け取りさっさとナースステーションへ戻っていった。
純一は、改めて大変な事を引き受けてしまったと感じていた。

病室に戻ると、ミホはベッドを戻して横になっていた。
「あ・・そのままで良いですから。」
純一は、ベッドの脇にある丸椅子に再び座ると、退院の支度を唯に頼んだ事を伝えた。
「足りないものがあるようなら、退院してから買い揃えましょう。・・大丈夫です。・・一人身で、特に趣味もない男ですが、それなりに蓄えはありますから。少しくらいの出費なんてどうって事ありませんから。気にしないで下さい。・・それに、記憶が戻れば、あなただって普通の暮らしに戻れるはずです。僅かの間、私と暮らすだけになるでしょうから。」
「済みません・・ご迷惑をおかけします。きっとこのご恩はお返しいたしますから。」
「本当に、気にしないで下さい。あなたを浜辺で見つけたのもきっと何かの縁でしょうから。・・それより今は体をいたわってください。・・僕は帰ります。退院の日には迎えに来ますから・・」
純一はそういうと、立ち上がりかけた。
「あの・・・もう少し居ていただけませんか?」
「・・ええ・・それは構いませんが・・。お邪魔でしょう?」
「いえ・・一人になるのが怖いんです。」
ミホはまるで小さな子ども様な瞳で純一に言った。
「判りました。・・じゃあ、あなたが眠るまで傍にいますから。」
ミホはその言葉を聞き、安心したような表情をした。
「さあ、目を閉じて、眠ってください。」
純一は自分でも驚くほど優しい口調で彼女に言った。
「あの・・手を握ってもらって良いですか?」
ミホは布団の脇からそっと手を差し出した。白く細い指をしている。
一瞬、躊躇ったが、純一は、両手で包み込むように彼女の手をを握った。
彼女の手は随分冷たかった。
「ああ、温かい。」
彼女はそういうと、純一の温もりを全身で受け止めるような表情をして目を閉じた。

不思議な感覚だった。まったく見ず知らずの他人である。病室に入ってからまだ数時間しかたっていない。さらに、彼女は記憶を失くしていてどういう人間なのかまったくわからない。しかし、純一の心には、彼女を守りたいという想いが強く湧いてきていた。

一体、彼女はどんな世界で、どんな風に生きてきたのだろうか?どれほどの辛い目に遭って来たのだろうか。自分の過去を全て打ち消してしまいたいほどの衝撃とはどんなものなのだろうか。
純一は、目を閉じ眠ろうとしている彼女の顔をじっと見つめながら考えていた。
『記憶を取り戻さない方が良いかもしれません。取り戻すと心が壊れてしまうかもしれませんから』
ふと医師の言葉を思い出していた。
このまま記憶が戻らない場合、彼女はどうなるのだろう、一生、自分の傍に居ることになるのだろうか。
純一は想像し、何か、幸せな感情が湧いてくるのだった。

1-10 退院 [スパイラル第1部記憶]

1-10 退院
彼女、ミホの退院の日が決まった。
すでに、鮫島運送の社長や奥さんには事の経緯は、唯の口から報告されていて、奥さんもミホの受け入れのために何かと世話を焼いてくれていた。
純一も、部屋の掃除や模様替えし、一部屋をミホが使えるようにしていた。

純一が、ミホの病室に行くと、すでに彼女は着替えを済ましていた。
唯の趣味なのか、ミホは白いワンピースを着て、ベッドに腰掛けて、窓の外を見ていた。
「用意は出来ましたか?」
純一が声をかけると、ミホが「はい」と返事をして振り向いた。少し化粧もしているようだった。もともと目鼻立ちがはっきりしている彼女だが、化粧でさらに際立ち、まるでモデルのように美しい。純一は彼女の美しさに息を呑んでしばらく見とれていた。
「なんだか、恥ずかしいです。・・こんな可愛い洋服、似合ってるんでしょうか?」
純一は、返事に困った。心の中では「なんて奇麗なんだ」と感じていたのだが、素直にそういうことが恥ずかしい気持ちで、「似合ってますよ」と答えるのがやっとだった。

担当医やナースステーションに挨拶し、会計も済まして病院の外に出た。
病院の前に広がる街路樹からは、会話さえ聞こえなくなるほどの蝉時雨が響いていた。
「今年の夏は酷暑だそうです。体、大丈夫ですか?」
「ええ・・もうすっかり。」
ミホは、病院の玄関口に立ち、しばらく外の景色を見ていた。
行きかう人々、車、木々の緑、ようやく現実の社会に出たのだと実感し、記憶を失くした事も現実の事なのだと受け入れたようだった。
「アパートまではすぐですから。」
二人は、純一の車に乗り、アパートに戻った。

アパートの駐車場に車を停めると、すぐに階段を登った。
隣に立つ社長の家に挨拶に行くべきかとも考えたが、彼女の様子からもう少し後のほうが良いだろうと純一は考えた。
部屋のドアを開けて、彼女を中に入れた。
「しばらくここで暮らす事になりますから・・。」
純一はそう言いながら、ベランダの窓を全開にして、外の空気を入れた。アパートの周囲にはまだ少し田畑が残っていて、吹く風は意外に爽やかだった。
ミホはベランダに近づき、外を見た。
「意外と景色は良いでしょう?」
ミホはじっと窓の外の風景を見ていた。
「ああ・・あそこ、あの松原の向こうの海岸であなたを見つけたんです。」
ミホは返事もせず、じっと純一の示す方に視線をやっている。
「ああ、そうだ。ちょっとこっちへ来てください。・・この部屋、使ってください。片付けてありますから。」
純一は、ミホをリビングの隣の部屋に連れて行った。ドアを開けると、そこには小さなチェストが一つと布団が一組だけ置かれていた。
「まだ、何もありませんが、徐々に揃えていけば良いでしょう。」
ミホは少し戸惑っているようだった。
「すみません・・随分、気を遣っていただいて・・・本当にすみません。」
「もう気にしないで下さい。それに、すみませんという言葉は止めてください。僕があなたを守ると決めたんです。欲しいものはなんでも遠慮なく言ってください。」
「でも・・。」
「あなたを妹だと思う事にしたんです。妹なら、兄が面倒を見るのが当然でしょう。」
純一は思わず口にした。
自分の言葉ながらかなり理にかなっていると思った。
「部屋は三つです。僕は、玄関の脇の部屋を使います。真ん中の部屋は物置みたいになっているんで、開けないほうがいいですよ。」
ミホは、純一の後を付いていく。
「トイレはそこです。ちゃんと鍵はかかりますから。」
ガチャガチャとドアノブを回して改めて確かめる。
「風呂はそこ。ボタン一つで給湯されますから。温ければ、このボタンを押せば暑いお湯が出ます。」
説明しながら動作を確認する。部屋の照明もスイッチを入れて確かめた。
「洗面台はこれて良いでしょう?洗濯機はちょっと古いですが・・壊れていませんから・。洗剤は棚の上です。・・ああそうだ。この使い方判りますか?」
記憶をなくしている事がどういうことなのか良く判らず、ひょっとしたらこうした機械も使い方すら覚えていないのではないかと心配になって訊いた。
ミホは少し考えて答えた。
「ええ・・たぶん、使えると思います。」
純一が聞いた理由もミホにはすぐに判ったようだった。
「キッチンは、ほとんど料理をしたことが無いんで、綺麗なものです。」
純一は、最後にキッチンに入った。システムキッチンの扉を一つ一つ開いて入っているものを確認した。一人暮らしで、大半の棚は空っぽだった。冷蔵庫の中も、わずかにビールとつまみのようなものが入っているだけだった。
「あの・・・料理は出来ますか?」
純一は冷蔵庫を閉めてから、ミホに訊いた。
「たぶん・・できると思います。記憶はありませんけど・・・料理と言われてなんとなくどんな事か判りますから・・きっとできるんだと思います。」
「そうですか。」
記憶をなくすということは、日常の暮らしが出来ないのとは違うようだった。もう少し、確認しておきたいことはあったのだが、少し気がとがめてやめた。そして、
「買い物に行きましょう。ああ、体、大丈夫ですか?少し休んだ方がいいかな?」
「いえ、大丈夫です。私もお手伝いします。」
「じゃあ・・。」
「あの、ちょっと待ってもらっていいですか?」
「ええ・・。」

1-11 ショッピング [スパイラル第1部記憶]

1-11 ショッピング
ミホは、与えられた部屋に、病院から持ってきた紙袋を持って入っていった。少しすると、部屋の引き戸が開いた。ミホは、退院の時に来ていたワンピースを脱いで、白いTシャツとジーンズに着替えてきたのだった。長い髪も一つに束ねている。ミホは、唯が退院の支度をしてくれることになって、幾つか着替えをそろえてもらった際、ジーンズとTシャツも希望していたようだった。
なんだか急に元気な女の子が現れたようだった。純一は思わず見とれてしまっていた。
「変でしょうか?」
ミホは純一がぼーっと見ているのが気になって訊ねた。
「あっ?いや・・さっきとは別人みたいで、ちょっと驚きました。」
「やっぱり変ですか?」
「いや、随分似合ってます。なんだか、一緒に歩くと、妹というより、親子のように見えるでしょうね。」
ミホは、純一の言葉の意味が余りわからないような表情をしている。そして、
「私は一体、幾つなんでしょう。」
名前だけでなく年齢さえもわからないのだった。
純一も答えを持ち合わせていなかった。海岸で見つけた時の水着姿を思い浮かべると、十代のような幼さは感じられなかったが、今目の前のミホは十代でも充分通るほどの若さを感じさせる。
「まあ、いいじゃないですか。・・そうだ・・唯が確か25のはずだから、同い年にしておきましょう。僕より10歳下の妹ということでいいじゃないですか。」
ミホはこくりと頷いた。
「さあ行きましょう。ショッピングモールは車で20分ほどのところにあります。何でも必要な物を買いましょう。」
純一がそう言って玄関で靴を履き始めたとき、ミホが言った。
「お買い物の前に連れて行って欲しいところがあるんです。」

二人は、海岸にいた。
ミホは自分が発見された海岸に連れて行って欲しいと言ったのだった。
「このあたりに横たわっていたんですよ。」
波打ち際で純一が指さした。ミホは周囲を見回しながら、記憶を辿ろうとでもしているようだった。遥か沖合いにヨットが浮かんでいる。
「何か思い出しそうですか?」
「いえ・・。」
ミホは無表情に答える。
「ああ、そうだ。あなたが倒れていたところで拾ったんですが・・。」
純一はポケットに手を突っ込んで、まさぐるようにした。そして、ミホの前に小さなペンダントを差し出した。ミホは、純一からペンダントを受け取ると、じっと見つめて、再び記憶の糸を探ろうとしている様子だった。
「判りません・・でも、綺麗。」
「きっと何かヒントにでもなるかもしれません。持っていて下さい。」
「つけてもらっていいですか?」
純一はペンダントをミホの首につけた。後ろに回って首筋にペンダントを這わすとなんだか妖艶な色香を感じた。
「もう、行きましょう。」
ミホはもう記憶を辿る事ができないと感じて、やりきれない思いで言うと車に戻って行った。

ショッピングモールに着くまで、ミホの表情は固く、口を開かなかった。純一もミホの様子を察して、あえて声を掛けようとしなかった。
純一は、立体駐車場の屋上に車を止めた。屋上からは、純一の住む町並みが見渡せた。北側には低い山並が続いている。南側には海が広がっているのが僅かに見えた。真夏の暑さ,照りつける太陽の下であったが、時折吹き抜ける風が気持ちよかった。

二人はエレベータで3階まで降りた。
大型ショッピングセンターの3階は、生活雑貨の売場があった。大型のカートを持ってくると、純一は、鍋やフライパンや調味料入れ等思いつくものをカートに投げ入れる。しかし、ミホは珍しそうに、一つ一つ品定めをし、値段も見ながら純一が選んだものより安いものに取り替える。食器も買った。可愛いデザインのものをわざわざ純一が選ぶと、ミホはシンプルなものに取り替える。どうやら、ミホはシンプルで頑丈で安いものが好みのようだった。
そのやり取りの中で、ミホは、徐々に表情を取り戻り、ふくれっ面になったり、小さな声を出して笑ったりした。おそらく傍目では、新婚夫婦か、恋人同士にも見えたかもしれない。大きな袋を幾つも抱えて、屋上に戻り車の後部座席にどうにか押し込んだ。
それから、ファストフードの店で、ハンバーガーのセットを食べて遅い昼食を済ませた。
「疲れただろ?」
「いいえ・・大丈夫。」
「そうかい、じゃあ、次は2階だ。洋服を買っておこう。あれだけじゃ足りないだろ、ミホ?」
「ううん・・チェストの中に、随分在ったからもう要らない。純一さん、それより欲しいものがあるんだけど・・。」
買い物をしている間に、二人は、すっかり打ち解けて、兄妹のように、遠慮なく話せるようになっていた。純一も、「ミホ」と呼び捨てにしていたし、ミホは「純一さん」と呼ぶようになっていた。
ミホは、エレベーターに乗ると1階を押した。ドアが開くと、二、三度あたりを見回し、すぐに目当ての場所を見つけたようで、人ごみの中をすり抜けるように歩いていく。純一はミホを見失わないように後ろを歩いた。たどり着いたのは、化粧品売場だった。
「そうか・・化粧品か・・。」
純一がぼそっと呟くと、ミホがチラッと振り返り、「出来るだけ安いのを選ぶから」と笑顔を返した。
「良いよ。気に入ったのを買おう。」
ミホは、ショーケースに綺麗に並んだ化粧品を一つ一つ丁寧に見て歩いた。その様子は、想像できないほど辛い体験をして、記憶を失ったとは思えないほど、普通の若い娘だった。
化粧品の売場は、大手メーカーがそれぞれ化粧美人の女性販売員を配置している。ミホが近づくと次々にお勧めをしてくるようで、ミホも受け答えしながら、次々に見て回った。楽しそうだった。
何軒かを回ったところで、不意にミホの足が止まった。


1-12 鏡に映る自分 [スパイラル第1部記憶]

1-12 鏡に映る自分
「どうしたんだ?」
純一が声を掛ける。ミホは立ち止まったままじっと何かを見ていた。純一が近づくと、そこには、全身が映る鏡が置かれていた。ミホはその鏡の前で立ち止まり、じっと見入っている。
「何かおかしいのか?」
再び純一が声をかけると、ミホはようやく口を開いた。
「これが私なのね。・・・なんだか、痩せっぽちで不細工・・・。」
そう言うと、ぽろぽろ涙を零した。美穂は鏡に映る自分の姿がまるで他人を見ているように感じていたのだ。記憶を失くすということは、自分がどんな容姿だったのかも忘れていたのだった。改めてその現実を感じて、ミホは涙を零したのだった。
「どうされました?」
鏡の傍にあった化粧品コーナーの中年の女性販売員が、ミホの様子に気づいて声を掛けた。その販売員はポケットから白いハンカチを差し出し、何も言わず、そっとミホの肩を抱き、「ちょっとお座りになってください。」と言って、化粧品コーナーにある椅子に座らせた。
そこには、新製品のモニターなどで使う簡易の化粧台が置かれていた。
「お化粧してみませんか?」
販売員はにっこり笑って言った。戸惑っているミホの様子を感じてさらに付け加えた。
「心配要りませんよ。商品を買っていただくためではありません。・・とっても綺麗な方なので、モデルになっていただけたらと。」
そう言って、ミホの肩をぽんと叩くと、その販売員は、売り場の外で様子を見ていた純一に視線をやった。
「あの方は、ご主人?」
「いえ・・兄・・みたいなものです。」
「そう。」
販売員は、ミホの答えを受け取ると、すぐに純一のところへ行き、純一の耳元で何か小声で言った。純一は一瞬驚いたような表情をしたが、こくりと頷いた。そして、販売員に頭を下げて、何処かへ行ってしまった。
販売員は、ミホのところへ戻ると、鏡に映るミホを覗き込むようにして言った。
「お化粧するのに少し時間が掛かるから、他の用事を済ませてきてくださいってお願いしましたから。・・・さあ、始めましょう。」
販売員は手早くミホの肩にケープを掛け、慣れた手つきでサンプルの化粧品を鏡の周りに並べ始めた。
「目鼻立ちがはっきりしていて、肌もつやつや。羨ましいわ。素顔でも充分ですけど・・・やっぱりお化粧するとまた気持ちも違うはず。」
独り言のように呟きながら、化粧水をコットンに沁み込ませて、ミホの頬辺りを拭きはじめた。
「お名前は?」
「ミホ・・です。」
「ミホさんね。・・・お歳は?」
そう訊かれて、ミホは答えに困った。販売員はおやっという表情をしている。それを感じて、ミホは思い切ったように言った。
「・・私・・・事故で記憶を失くしたんです。・・名前も歳も、どこに住んでいたかも忘れてしまって・・鏡に映る自分の姿さえ、自分じゃないみたいで・・・。」
ミホは、顔を伏せ、再び涙を零しながら、販売員に言った。
「そう・・・辛いでしょうね。・・・」
販売員も手を止めて思わず貰い泣きした。
「私、お休みの日にお化粧のボランティアをしているのよ。」
販売員はそう言うと、再び、化粧水を手にとってコットンに含ませながらボランティアの話を始めた。休日のたび、市民病院の入院患者を回って、化粧をしているのだという。入院中はほとんど化粧はしない。だが、やつれてしまった容姿を気にしている人も多いのだった。もちろん、治療に支障の無い程度の簡単な化粧なのだが、紅を差すだけでも随分表情が変わり、気持ちが軽くなって喜んでくれるというのだった。
「実は、私も若い頃大きな事故に遭ったのよ。」
販売員は、くるぶしまでの長いスカートをチラリと持ち上げた。彼女の右足は義足だった。
「意識が戻るまで随分長かったみたい。気がつくと、もう右足は無かったわ。・・・絶望していたの、どうやって生きていけばいいのかわからなくてね。・・母や父は励ましてくれるんだけど・・とても受け入れることが出来なくてね。・・・幻肢って知ってる?・・・無いはずの足なのに、脳だけは覚えてて、そこにあるような感覚が残ってるの。・・無くした自分自身を感じるようで・・・自分がとても惨めな気持ちになったわ。」
彼女は、その頃の事を思い出したのか、少し涙ぐんでいるようだった。ミホはじっと聞いていた。
「でもね。・・・・・そんな時、ある方に救われたのよ。・・このお店の社長なんだけどね。塞いでいる私を見かねて、お化粧をしてくださったの。ほんのちょっとしたお化粧だったけど、何だかとても元気になれたの。気持ちが軽くなったみたいで。」
彼女は、鏡に映るミホに笑顔を送った。
「その後、リハビリを頑張って、義足で歩けるようになってから、お化粧の勉強をして、このお店で働かせてもらえるようになったのよ。・・もちろん、今のあなたと比べる事なんかできないでしょうけど・・・でも、こうやってお化粧すれば少し心が軽くなるかもしれないでしょう。」
彼女は話を続けながら、ミホの化粧を続けた。ファンデーションを塗り、眉を仕上げて、ほとんど化粧も完成に近かった。
「ねえ、ミホさん。お近くに住んでいるんなら、時々、お店に来てくださらないかしら?」
販売員は小声でミホに言った。ミホは不思議な顔をして販売員を見た。
「是非、モデルになっていただきたいの。新製品のお披露目とか・・やっぱり綺麗な方がモデルだと人気も出るのよ。ねえ、お願い。」
「そんな・・私がモデルなんて・・・。」
「そうかしら?・・ほら、後ろを御覧なさい。」
知らぬ間に、ミホの居る化粧品コーナーの周りにたくさんの人が集まっていた。遠巻きには男性の姿も見える。
ミホは急に恥ずかしくなった。
「皆、あなたの美しい姿に気付いて立ち止まってくださったのよ。・・・ね、あなたは綺麗なの。自信を持って生きなくっちゃ。」

1-13 飛びきりの美人 [スパイラル第1部記憶]

1-13 とびっきりの美人
最後にルージュを引いて化粧は終了した。ちょうど、純一も戻ってきたところだった。
「さあ、完成。どう?」
ミホはしっかり化粧を終えた自分の顔をじっくりと鏡で眺めた。
「なんだか、別人が写っているみたいです。」
ミホは鏡に映る自分が途轍もなく自分とは別の世界の人間に思えた。
「ほんの薄化粧しただけなのに、随分明るく見えるわね。さあ、お披露目しましょう。」
そう言って、ミホの椅子をくるりと回した。
余りの美しさに感動したのか、化粧品コーナーを囲んでいた人たちから、驚きの声が漏れる。純一がその人たちの間を割って、ミホの前にやって来た。
純一は、見違えるほどに綺麗になったミホに言葉を失った。どう表現して良いかわからなかったが、今までにこれほど綺麗な女性にあった事が無かった。
「変?かしら・・。」
ミホが少し恥ずかしそうに訊いた。少女が初めて化粧をした時のような訊き方だった。
「いや・・驚くほど綺麗だよ・・・見違えた・・・。」
販売員が純一に向かって何か合図を送ったようだった。
「ああ、そうそう・・これ。」
純一はそう言うと、後ろ手に隠していた花束をそっとミホの前に差し出した。真っ赤な薔薇が5本ほどの花束だった。
「私に?」
ミホは飛び上がるほどの嬉しさのあまり、花束を受け取ると、思わず、純一に抱きついてしまった。周囲にいた人から、拍手が起こった。大型ショッピングセンターの一角で、突然起こったことは口々に店内に広がった。

「さあ、どうぞ。今日、使った化粧品のセットよ。モデルになっていただいたお礼です。」
販売員は、ピンク色の小さな紙袋を差し出した。
純一は「代金をお支払します」と申し出たが、販売員は「またモデルになっていただくお約束いただいたから結構です。」と言って、その紙袋をミホに渡した。
「それに、ほら、こんなにお客様を集めてくださったんですもの。これじゃあ足りないくらいですから。是非、またいらして下さいね。」
別れ際、販売員は綺麗な小さな名刺を差し出した。二人は、深々と頭を下げてその場を離れた。

純一は不思議な気分だった。
隣に居るミホは、全くの他人なのだが、もはや恋人の存在のように思えていた。それも飛びっきりの美人で若い。並んで歩いていると、きっと他人からすれば異様に思われるに違いなかった。それでも、純一は幸せな気分だった。
長く独り身であった。まともな恋すらした事も無かった。いや、できるだけ女性とは関わらないように生きてきた。そんな自分を思うと今のこの状態はとっても不思議な事であった。

もう夕刻が近づいていた。
「夕飯どうしようか?」
「私が作ります。」
「大丈夫か?」
「たぶん・・作れると思います。・・・作った記憶はなんとなくあるような気がします。」
「じゃあ、戻ろう。・・ここで買うより、もっと安くて良い物がある店が家の近くにあるんだ。」
二人はすぐに車で自宅近くのスーパーに寄った。ローカルスーパーだが、売場は結構広い。ベーカリーも惣菜も、鮮魚売場も広く明るい。純一は余り来店する事はなかったが、鮫島運送の奥さんがいつもこの店を褒めているのを聞いていたのだった。
「何にします?」
カゴを抱えてミホが純一に訊いた。
「何でも作れるのか?」
純一は少しからかう様に訊き帰した。ミホは少し困った顔をした。瞬間、純一は答えた。
「カレーにしよう。暑くて食欲の無いときはカレーに限る。」
ミホは頷くと、材料を次々に選び始めた。やはり、料理の記憶は確かなようだった。
ジャガイモやたまねぎ、にんじんをカゴに入れると精肉売場へ行った。精肉売場では、牛肉を熱心に見比べている。
「これじゃ駄目なのか?」
純一が、「カレーシチュー用」と書かれたパックを取り上げて見せたが、ミホは一目見て首を振った。そして、近くに居た店員を呼び止めて「牛ヒレ肉のブロック」を注文した。程なくして、バックヤードから店員がパックに入れたヒレ肉を幾つか持ってきた。その中から一つを選ぶとカゴに入れる。
それから、香辛料のコーナーに足を運んだ。そして、棚に並んだたくさんの香辛料を一つ一つ吟味しながら、ミホは、幾つかの香辛料をカゴに入れた。それは、純一には初めて聞くような名前のものばかりだった。
「こんな香辛料を使うのか?」
「え?入れませんか?」
「大抵は、材料とカレールーで充分じゃないのか?」
「ええ・・そうなんですか?・・でも、確か、こういう香辛料を使ったはずです。」

純一は、きっと、ミホは裕福な家庭に育ったに違いない、いや、あるいはそういう家庭の奥様なのかもしれないと想像した。やはり、記憶が戻れば、今の自分とは別の世界に戻っていくのだと寂しさを感じてしまった。
「どうしました?」
「いや・・何でもない。随分、おいしそうなカレーが食べられそうだ、楽しみだよ。」
純一の言葉にミホは嬉しそうな笑顔を返した。
レジで支払を終えると、二人はアパートに戻った。

もう夕日が沈もうとしていた。
駐車場に車を入れると、社長と奥さんが隣に立つ家の庭に出ているのが見えた。社長と奥さんは、純一の車を見つけると慌てて何か仕事をしている風に動き始めた。明らかに二人を待っていたようだった。

1-14 手料理 [スパイラル第1部記憶]

1-14 手料理
「ミホ、社長と奥さんに挨拶して行こう。」
純一は車を止めるとミホにそう言ってドアを開けた。ミホは緊張した面持ちで純一の後ろをついて行った。
「社長」と純一が声を掛けると、わざとらしい素振りで、庭にしゃがみこんでいた鮫島社長が立ち上がって「おう、純一、買い物帰りか?」と答えた。奥さんも、それに反応して顔を向けた。
「ええ、今戻りました。あの・・この人が・・。」
と純一がミホを紹介しようとしたところで、社長が遮るように答える。
「ああ、唯から、おおよそ聞いてるよ。・・ええと・・ミホさんだったけな?」
そう言われて、純一の背後に隠れるように立っていたミホは前に出て頭を下げ、「ご迷惑をおかけします。」と言った。
「なんだ、唯の話より随分ベッピンさんじゃないか・・いやあ驚いた。純一にはもったいない。俺が世話をしようか。」
社長は、ミホの全身を舐めるように見て、訳の判らない事を言った。
背も高くスタイルも良い、先ほど化粧もしていて、ミホは確かに驚くほどの美人だった。
「あんた、何言ってんのよ!・・ごめんなさいね、下品なんだから。」
奥さんが社長を窘めるように見てから、言った。
「僕が勤めてる会社の社長と奥さん、ほら、病院の看護士だった唯のご両親さ。15歳の時からずっと一緒に居るんだ。大方の話は,唯が話してくれていてね。・・いろいろと支度も手伝ってもらったんだ。」
純一が取り次ぐように紹介した。
「本当に、ありがとうございます。できるだけご迷惑をおかけしないようにします。」
ミホは再び頭を下げた。
「気にしないでね。もともと世話好きなんだから。何か困った事があったらなんでも言ってね。私ら、純一の親のつもりで居るのよ。だから・・・もう一人、娘が増えただけよ。」
「ありがとうございます。」
「純一さんは、優しくて正直だから、何でも相談すれば良いわよ。・・まあ、余り、女性の扱い方は知らないだろうけど・・・何でも言ってね。」
奥さんは笑顔で言った。
「おお、そうだ、純一がおかしな事をしようとしたら、うちへ逃げ込んで来れば良い。おれが純一をとっちめてやるからな。」
「社長、何ですか、おかしな事って。僕はそんなことはしないですよ。」
「判りゃしないさ、こんだけの別嬪さんだからな。・・一つ家に住むんだしよ。」
「もう、あんたったら、いい加減にしなさいよ。さあ、もう夕飯にしましょう。」
奥さんはそう言って社長を引っ張って家の中に入っていった。
ミホは頭を下げて二人を見送った。
「さあ、荷物を運ぼう。夕飯を作ってくれるんだろ?」
純一はそう言うと、車の後部座席から購入したたくさんの荷物を運び出した。

純一は、ミホは記憶を失くしているから、料理もおぼつかないのではないかと様子を見ていたが、ミホは、何のためらいも無く、購入してきた食材を取り出し、冷蔵庫にしまいながら、慣れた手つきで夕飯作りを始めた。ミホ自身も何だか不思議な気分だった。
「自分の事は何一つ思い出せないのに・・料理はちゃんとできるなんて・・・」ミホは心の中で呟きながら料理作りを続けた。
純一は買ってきた物を仕分けし、それぞれの場所に置いた。小一時間で料理が出来た。

「こんなうまいカレー初めてだよ。まるで、高級レストランの料理みたいだ。」
「そう?」
「ああ、お世辞抜きに美味い。」
純一が喜んで食べる姿を見てミホは嬉しくなった。
「これから食事作りやお洗濯、お掃除は私がやります。いえ・・やらせてください。」
ミホは真顔で言った。
「そんなことをしてもらうために身元引受人になったわけじゃないから」
と純一は答えたが、
「それくらいしかお返しできないんです。」
とミホが言った。純一は承諾した。

食事を終えると、純一が切り出した。
「お風呂どうする?先に入ってくるかい?僕が入った後じゃいやだろう。」
「いえ・・後で良いです。」
そういう会話をして、純一は先に入浴を済ませた。
お風呂から出ると、食事の後片付けも終わっていた。
「着替えやパジャマも、チェストの中にあったと思うけど・・。」
頭を拭きながら純一が訊くと、
「ええ、もう準備しました。」
「そうかい。・・じゃあ、僕は寝室に行くから・・。」
そう言った純一は、『これじゃあ、まるで新婚夫婦のような会話だ』と感じ、慌てて否定するように言った。
「いや・・君も、僕にパジャマ姿を見られるのは嫌だろうし・・僕はもう、そのまま寝るから、あとは電気を消して休んでください。」
少しぎこちない言い方をして、さっさと玄関脇の自分の部屋に入った。

純一は、部屋のベッドに横たわり、天井を見つめ考えていた。
浴室からは、ミホが入浴している水音が聞こえている。
純一は、ミホとの距離の取り方が判らなくなっていた。
ほんの一日一緒に居ただけなのに、自分の心の中にはミホへの愛情のようなものが芽生えている。記憶が戻れば、元の世界へ戻るべきなのだ。愛したところで、それは報われる事はないだろう。いっそ、このまま記憶が戻らなければとまで考えてしまう自分を戒めた。
知らぬ間に、純一はそのままベッドで眠ってしまった。


1-15 同居生活 [スパイラル第1部記憶]

1-15 同居生活
深夜2時を回った時だった。純一は、寝苦しくて目を覚ました。物音を立てぬようキッチンに行き、コップに水を入れて一気に飲み干した。リビングの隣にあるミホの部屋のドアが少し開いていて、部屋の明かりが漏れている。
「まだ、起きているのか?」
純一は、そっと隙間から部屋の中を覘いた。部屋の真ん中に布団が敷かれ、ミホは横になっているようだった。
「うう・・・」
ミホが小さな呻き声を上げた。そして、寝返りを打つと、苦しそうな表情がチラリと見えた。「悪い夢でも見ているのか?」と見ていると、再び、呻き声を上げる。どうやら悪夢にうなされているのではなく、体調が悪いようだった。純一は少し躊躇ったが、ドアを開けて部屋の中に入った。
「どうした、どこか具合でも悪いのか?」
近づいて声を掛けると、布団の中からミホの細い手が伸びてきて、布団の脇に立っている純一の足を掴んだ。純一は布団の脇に座り込むと、再び声を掛ける。
「どうした?どこか痛いのか?」
ミホは苦しそうな表情のまま、絞り出すような声で言う。
「頭が・・割れるように・・痛いの・・。」
純一は、『無理に想い出そうとすると体調を崩すかも知れません』という医師の言葉を思い出していた。きっとミホは、一人の部屋で、失った記憶を取り戻そうとしたに違いなかった。
すぐに純一は、リビングのテーブルにある痛み止めの薬を持ってくると、ミホに飲ませた。
「すぐに良くなるから。」
「すみません・・。」
「さあ、眼を閉じて、何も考えずに、眠った方がいい。」
「しばらく傍に居てください・・・・。」
「ああ、眠るまで傍にいるさ。さあ、眼を閉じて。」
純一は、ミホの手を握ってやった。ミホは安心したように眼を閉じた。暫くすると、小さな寝息を立てた。純一は、ミホのそばに座ったまま、ミホの顔をじっと見つめていた。
失くした記憶を取り戻したい、ミホはいつもいつもそう思っているのだろうと純一は考えていた。

「純一さん、起きてください。」
翌朝。ミホの布団の脇で横になっている純一は驚いて目を覚ました。
テーブルには朝食が並んでいる。
「昨夜はありがとうございました。もうすっかり良くなりました。朝食のしたくは出来ましたから、さあ、顔を洗ってきてください。」
ミホは真っ赤なTシャツを着て、髪を一つに結び、明るい表情で純一に言った。
「ああ・・・。」
純一はそのまま洗面台に向かい、髭をそり、顔を洗い、着替えてからテーブルに着いた。白いご飯と味噌汁、目玉焼き、漬物・・・久しぶりにまともな朝食だなと感じた。
「さあ、どうぞ。お口に合うといいけど・・。」
美味かった。純一は一気に食べてしまった。
「ああ、夕方6時には戻れるから・・・それと、これ。」
純一は食べ終わると、鍵と封筒を渡した。
「家の中にいるより少し外に出るほうがいいだろ。合鍵を作っておいたから。それとお金だ。遠慮は要らない、欲しいものがあれば買うと良い。・・・近くに、スーパーもドラッグストアもあるから。コンビニもあるから。・・部屋のものは自由に使って良いから。」
「はい。」
「じゃあ、行って来ます。」
「行ってらっしゃい。気をつけてね。」
なんだか、送り出されるなんて始めての事だった。幼い時親を亡くし、施設で育った純一には、こうして送り出してくれる人はいなかった。どこかこそばゆい思いでアパートを出た。

鮫島運送に着くと、社長がいつものようにソファに座って新聞を読んでいた。奥さんは奥の部屋でお茶でも入れているのだろう。
「おはようございます。」
純一が事務所に入ると、社長は新聞に視線を落としたまま、「おはよう」と返事をする。奥さんも奥の部屋からいつものように大きな声で『おはよう、今日も頑張ってね』と返事をした。何も変わらない朝の光景だった。ロッカー室で配達着に着替えて事務所に戻ると奥さんが聞いた。
「あれ?一人?・・ミホさんはどうしたの?」
「いや・・アパートに居ますよ。」
「ええ?一人っきりで居るんでしょ?ここへ連れて来ればよかったのに。知り合いも無いところで、一人で純一さんの帰りを待ってるの?」
「いや・・合鍵は渡してありますし、お金も置いてきたから・・・買い物にでも行けばいいかなって・・。」
「そう・・・。」
奥さんは少し残念そうだった。
今日の仕事が書かれた配送表を受け取り、純一は4トントラックに乗り込み、出発した。

「なんだか。いつもと変わり無いなあ?」
社長がぼそっと呟いた。事務机で仕事をしながら奥さんも「そうねえ」と答えた。
「男と女が一つ屋根の下・・何にも無かったのかねえ。」
「純一さんは、あんたと違って真面目だからね。良かったじゃない。」
そう言いながらも、奥さんは社長をたしなめるように言った。
「しかし、どういう娘なのかな・・・あれだけの器量でスタイル抜群、どこかの令嬢ってこともあるかもね。それにしても、水着で海岸に倒れていたなんて、尋常じゃないな?」
「ひょっとして・・・物騒な事件に巻き込まれて・・とか・・危ない世界の女ってこともあるかしらね?」
「ああ・・・そうかもな。・・純一と仲良くなっても、いずれはお別れって事になるんだろうな・・・。」
「深入りしないように注意したほうが良いかしら・・・。」
「さあな。」
社長と奥さんは、純一とミホとの関係を心配していた。

1-16 二人の距離 [スパイラル第1部記憶]

1-16 二人の距離
純一が出勤した後、ミホは朝食の片づけを済ませると、部屋の中の掃除と洗濯をした。身体を動かす事で、余計な事を考えなくて済む。窓ガラスを磨いたり、リビングの床の拭き掃除、とにかく午前中は黙々と掃除をした。開け放した窓から潮風が吹き込んでくるが、まだ真夏の暑さが残っている。大粒の汗が流れる。気付くと、もう12時を回っていた。軽く、昼食を済ますと、しばらくぼんやりと外の景色を眺めていた。遠くに、松原が見える。
何故、あんなところにいたのだろう・・・ふと、頭を過ぎる。いけない、思い出そうとしてはいけない。ミホはそう自分に言い聞かせた。
『町に出てみよう。夕飯の買い物もしなくちゃいけないし』
ミホは昨日貰った化粧品で、薄く化粧をし着替えてから、出かけた。純一に合鍵を貰って、何か嬉しかった。仮住まいではあるが、何か、自分の居場所を貰ったようで、合鍵を見ては一人笑顔になったのだった。
昨日、純一と一緒に買い物をした、近くのスーパーに行ってみることにした。
アパートの前から、県道沿いの歩道を歩くと、遠くに目指すスーパーの看板が見えた。夕飯の献立を考えながら、スーパーに入ると、売場をゆっくり回りながら、食材をカゴに入れた。平日の昼間である。買い物客は少なかった。レジも混んでいない。買い物はほんの1時間ほどで済み、来た道を戻る。
ミホは、アパートを出た時から変な感覚を覚えていた。スーパーに入ってから出てくるまでもその感覚は続いていた。アパートへ戻る道でも同様だった。誰かに見られているような感覚だった。時々、振り返ってみたがそれと判る人物は見当たらない。何度も何度も、気のせいだと言い聞かせてアパートに戻った。
アパートに戻り、買ってきたものを冷蔵庫にしまっていると、買い忘れがあった事に気付く。すぐに鍵を持ってアパートを出た。
アパートの階段を下りていくと、駐車場に1台の車が停まっていた。黒く大きな車両で、後部座席はスモークフィルムが貼られている。ミホが階段をおり始めると同時に、車は急発進した。
「まさか・・・ね?」
ミホは独り言を呟き、そっと周囲を見回す。どこにも人影は無い。
「やっぱり、思い過ごしよね。」
ミホは再びスーパーに向かう。学校帰りの小学生が通りすがりに、大きな声で「こんにちは」と挨拶をしてくる。それはほとんど反射行動のように、誰から無く挨拶する。長い下校の列が続き、皆、一様に大きな声で挨拶をする。時々、じゃれあって転びそうになる小学生も居て、なんだか、可笑しかった。列が通り過ぎるまで、ミホは歩道の脇に立って見送った。
その時だった。ミホの頭に電気が走る感覚がして、思わず頭を抱えた。
ぼんやりとミホの脳裏に、たくさんの小さな子ども達が椅子に座って何かを待っているような光景が浮かんだのだった。
「何?これ・・・。」
もう一度思い浮かべようとしたが、激しい頭痛がして座り込んでしまった。
「大丈夫?」
下校途中の小学生が数人ミホの周りに集まってきた。その声ですぐに痛みは治まった。顔を上げると女の子が心配そうな顔でミホを見ていた。
「・・大丈夫・・ちょっと頭が痛かっただけ・・ごめんね、心配かけて。」
ミホが答えると、女の子はにっこりと笑顔を返すと、友達と一緒に下校の列に戻って行った。
夕方6時を回ると、約束どおり、純一が帰宅した。
「ただいま・・・。」
久しぶりに口にした言葉だった。ミホはすでに夕飯の支度を済ませていた。
「お帰りなさい。・・・あ、これ、買いました。」
ミホはそういうと、純一の前でくるりと回って見せた。純一は一瞬なんの事か判らずにいると、
「エプロン、買ったんです。ごめんなさい。無駄遣いしないようにしますから。」
「いや、良いんだよ。・・似合ってるよ・・・。ああ・・すぐに着替えるから・・」
何だか純一はこそばゆい気持ちが湧き上がってきて、そのまま自分の部屋に入った。
「もう夕飯出来ていますから・・。」
ミホの声がドア越しに響いた。

着替えを済ませて部屋を出ると、何だか、家の中が違って見えた。特に模様替えをしたわけでもないが何か違うように感じた。しばらく、純一はリビングを見回していた。
「済みません・・・・少し、部屋の中、掃除をしました。何か壊れてますか?」
「いや・・そうか・・掃除をしてくれたのか・・・。何だか、明るくなったみたいだな。」
隅々まで磨き上げられているためか、部屋の中がより明るく見えるのだ。窓ガラスもぴかぴかになっている。
「ありがとう。」
「いえ、・・・置いていただくのですから・・これくらいしないと・・。さあ、座ってください。」

焼き魚がメインの夕飯だった。
御浸しや味噌汁、いずれも文句のつけようの無い料理だった。どこかでちゃんと料理を習ったに違いない。家庭料理の域を超えている。ひょっとしたら、調理の仕事をしていたのかもしれない。純一は、夕飯を食べながら考えていた。
「あの・・・美味しくないですか?」
「いや、充分美味いよ。・・・どうして?」
「いえ・・さっきから、難しい顔をしてるみたいだから。・・魚料理は嫌いですか?」
「いや・・・・美味し過ぎてちょっとびっくりしてるんだ。何だか、料亭に来たみたいだよ。」
「言い過ぎです。」
「いや・・ひょっとしたら、ミホはどこかで調理の仕儀とをしていたんじゃないかって考えてたんだ。昨日のカレーも、特別な香辛料を使ったし・・・。」
そう、純一に言われてもミホは答えようがなかった。
「あ。ごめん、良いんだ。・・勝手な考えが浮かんだだけだから・・気にしなくて良いんだよ。」

昨夜と同様、食事の後、入浴を済ますと、純一はすぐに自分の部屋に入った。ミホが昼間何をしていたのか気にはなったが、何だか詮索するのも気が咎めた。あれこれ迷うのが嫌で、さっさと部屋に入ったのだった。ミホは入浴を済ますと、純一の姿がリビングに無いので、少し寂しい気持ちを抱えたままで、自分の部屋に入った。
このような日が、数日続いた。

1-17 さびしさに [スパイラル第1部記憶]

1-17 さびしさに
純一が、夕飯のあと、風呂を済ませてリビングに戻ると、ミホが膝を抱えて座っていた。顔を膝に埋めるようにしてじっとしている。
「どうしたんだ?」
純一の問いかけに、ミホは返答しない。
「ミホ?」
再び問いかけると、ミホが『うう』っと小さな声を漏らした。どうやら泣いているようだった。
「一体どうしたんだ?昼間、何かあったのか?」
純一が問うと、ミホは首を横に振る仕草をした。
「黙ってたんじゃ、判らないよ。一体何かあったのか?誰かに何か言われたのか?」
それでも返答しないので、仕方なく、純一はミホの隣に行き、そっと肩に手を添えた。
ミホはぴくっと動いたが、顔は上げない。そのままの姿勢で、何かに気持ちをぶつけるように言った。
「私、どうして生きてるんですか?自分が何者かもわからず、ただ生きてるだけなんて・・・。」
純一は驚いて何と返答してよいかわからなかった。
ここ数日、特に変わった事は無かったはずだった。言い争う事も無かった。純一にはミホの嘆きが理解できなかった。
「ミホ・・・ごめん・・判らないんだ・・・一体、どうしたのか、落ち着いて話してくれないか?」
純一は、ミホの肩に添えた手を優しく動かした。しかし、ミホはその手を払い除け、さっと自分の部屋に閉じこもってしまった。

翌朝、ミホは起きてこなかった。純一は、昨夜の出来事にまだどう対処してよいのかわからず、ミホをそのままにして出勤した。

「それはきっと・・淋しいのよ・・。」
鮫島運送の奥さんは、朝の出発前に、純一が社長に話していたのを聞いて、ぽつりと言った。
「そりゃそうでしょ?・・・誰一人知り合いの居ない街に突然置かれて、さあ、ここがあなたの暮らすところですって言われたら、普通の人だって困惑するわ。・・まして、ミホさんには過去の記憶がない。自分が何者かもわからず、毎日同じように暮らしてるだけ・・純一さん、あなた、ミホさんとどれくらいお話してる?」
奥さんにそう言われて、純一はここ数日を振り返った。朝、部屋を出て夕方戻るまではミホは一人きりだ。夕飯の後、風呂に入ってから後も会話らしい会話は交わしていない。独身で居たため、自分のペースで暮らしてきた。夜、誰かと会話するなどという習慣も無かった。
純一は大いに反省した。しかし、ミホとどういう会話をすればよいのか判らない。記憶がないのだから、ミホ自身のことを訊ねることは出来ない。
「ここに連れていらっしゃい。・・・ここなら私も話し相手になれるわ。一人で居るよりよっぽど良いに決まってるでしょ。」
純一は奥さんの言うとおりにすることにした。

その日、仕事を終えて、純一はアパートに戻ると、ミホの部屋の前で言った。
「なあ、ミホ。・・鮫島運送の奥さんが・・一人で居るんなら、会社へ来ないかって言ってくれてるんだけど・・・。」
部屋のドア越しに純一は言った。しかし、返事は無かった。
「ミホ?居るんだろ?」
純一はそっと、部屋のドアを開けた。
中は真っ暗だった。布団は綺麗に畳まれて部屋の隅に置かれている。純一は慌てた。ミホが部屋から出て行ったのはすぐにわかった。
純一は、玄関の靴を確かめた。ミホの靴が無い。買い物に行くにしては遅い時間だ。もう陽も落ちている。純一は、慌てて玄関を飛び出した。階段を転げ落ちそうになりながら、大きな音を立てて降りていると、社長と奥さんが家の中から顔を出した。
「どうした?」
「ミホが・・・ミホが・・居ないんです。」
純一はそう言うと、アパートの周囲を走り回って探した。ミホの姿は見つからない。近くのスーパーまで行ってみたが、姿はなかった。戻ってくると、社長が手を振っている。
「居ましたか?」
「いや・・・今、警察にも連絡しておいた。一応、まだ保護中だからな・・・何かあったら・・お前も責任が問われかねないんだ。・・・おい、どこか、心当たりの場所は無いのか?」
純一は、社長の言葉に、ここ数日のことを思い出してみたが、心当たりの場所など浮かんで来ない。買い物に行っている以外、ミホが何をしていたのかまったく知らなかった。
「まさか・・・いや・・だが・・。」
純一は、ショッピングセンターの化粧品コーナーの販売員のことを思い出した。携帯電話に一応、連絡先は登録してあった。
発信音が数度響いて、あの販売員が出た。
「いいえ・・こちらには・・それに、今日はお休みだったからお店には出ていませんでした。」
と返答があった。
「ミホさんが居なくなったんですか?」
心配そうな声が受話器の向こうから聞こえた。純一は「ええ」と答えるで精一杯だった。
「済みません・・お役に立てなくて・・また、見つかったら連絡してください。私も、一度お店に行ってみますから。」
純一は礼を言って電話を切った。
「あのケースワーカーは?」
純一は、部屋に戻ると名刺入にあったケースワーカーの連絡先に電話をした。
「ええ・・・午前中に来られたようです。担当の先生もきょうは不在で・・すぐに戻られたようでした。・・ごめんなさい。・・今日、退院手続きの方があって・・その対応で忙しくて・・あとで、受付から様子を聞いたです。ちょっと心配だったんですが・・・何かあったんでしょうか?」
受話器の向こう側の声が少し慌てている。
純一が事情を説明すると、
「私も、病院やこの周囲を探してみます。まだ、病院内にいらっしゃるかもしれませんから。」
再び、純一は礼を言い、電話を切った。
「病院に行ったみたいです。その後が・・・。」
「おい、じゃあ、タクシー会社に問い合わせてみろ!病院からなら、きっとタクシーで何処かへ行ったに違いない。ミホさんは美人だ。きっと運転手も覚えているだろう。」

1-18 海岸で [スパイラル第1部記憶]

1-18 海岸で
タクシー会社へ問い合わせると、病院から若い女性を乗せた覚えのある運転手がすぐにわかった。そのタクシーは、浜地区にある体育館まで乗せたと答えた。
「・・そうか。ミホはきっとあの海岸だ。」

純一は、社長に、ミホを見つけたらすぐに連絡すると告げて、車を走らせた。
体育館は真っ暗だった。その脇から海岸に向かう道路をハイビームのままゆっくり車を走らせる。しかし、海岸までの道路にミホの姿はなかった。
以前は毎日のように通った場所だったが、ミホを見つけて以来訪れた事は無かった。夏の間に、道路もわかりにくいほど草が伸びていた。
海岸を見下ろす空き地に車を停めた。車のライトが照らす範囲には人影など無かった。
「まさか・・・。」
純一は、昨夜の様子を思い出し、まさか、自殺を考えたのではないか、と考え胸騒ぎがした。
車を降りると、波打ち際辺りまで掛けた。日が落ち真っ暗な海が広がっている。
「ミホー!ミホー!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。しかし、返答はなく、ただ波音だけが響いている。
幾度も幾度も、海岸の端から端まで波打ち際を行き来して、ミホの名を叫んだ。しかし、ミホの姿は見つからなかった。
純一は疲れ果て、波打ち際に座り込んだ。そして、天を仰ぐように大きな溜息をついた。

すると、後ろの方で、何かが動くような音がした。音のした辺りを目を凝らして見ると、大きな流木の影にこんもりと黒い塊が見えた。
「ミホ?」
純一は飛び上がるように立ち上がると、その流木めがけて走り出した。何度が、石に足をとられて転びそうになりながら、流木に辿り着くと、その脇に全身ずぶ濡れのミホが座っていた。
「ミホ?ミホ!」
膝を抱え蹲った格好で顔を膝に埋めている。確かにミホだった。
「ミホ!」
純一はミホを包み込むように抱きかかえた。ミホはがたがたと震えている。夏の終わり、それほど気温は下がっていない。寒さで震えているのではないようだった。
純一に包み込まれるように抱きかかえられ、ミホは、わあわあと声を上げて泣いた。
「良いんだ・・良いんだ・・・ミホ。・・・・生きていてくれて良かった・・・」
純一も、泣いている。
「淋しかったんだな・・ごめん。本当にごめん。」

ミホを連れて、アパートに戻ると、化粧品の販売員とケースワーカー、それに社長と奥さんも待っていた。連絡を受けて、警官の佐藤も顔を見せていた。
販売員とケースワーカー、そして奥さんはミホが車から降りると走りよってきて、取り囲むように抱きしめた。
「一人っきりじゃないんだからね。」
そう何度も何度も口にした。皆、泣いていた。純一は、社長と佐藤に深々と頭を下げた。
「さあ、風邪を引くといけないから部屋へ戻ろう。」
純一はミホの肩を抱くようにしてアパートへ戻っていった。

「腹減ったろ?今日は俺が晩メシを作るから。ミホは先にお風呂に入っておいで。」
ミホはこくりと頷いた。
晩飯といっても、純一に作れるものなどたかが知れている。インスタントラーメンとレンジでチンするチャーハン程度だった。しかし、ミホは美味しそうに食べた。
「もう・・居なくなったりするなよ。」
純一は、チャーハンをかきこみながら、ぼそっと呟いた。
ミホはラーメンをすすりながら、こくりと頷いて少し涙ぐんだ。
「片付けは私がやりますから・・お風呂どうぞ。」

純一が風呂から上がると、ミホがピンク色のパジャマ姿でソファーに座っていた。どうやって見つけたのか、書棚の奥に隠してあったはずのウイスキーとグラスと氷、そしてつまみをテーブルに置いている。
「ねえ、純一さんのことを教えて。」
純一は、タオルで頭を拭きながら、ミホの隣に座った。
「俺の事?」
「ええ・・・どんなところで生まれて、どんな恋人が居たのか・・なんでも良いの・・知りたいの。」
ミホはウイスキーをグラスに注ぎながら、少し、艶っぽい言い方で訊いた。
そう問われて気づいた。今まで、ミホには自分の話しをした事など無かった。だが、と考えた。
「僕の生い立ちは・・・良いじゃないか・・・」
「どうして?」
「楽しい話じゃない・・・。」
純一はグラスのウイスキーを一口飲んだ。ミホも、グラスにウイスキーを注ぎぐいっと飲んだ。
「じゃあ・・・純一さんは、どんな恋をしてきたのか、教えて?」
「今まで、恋などした事は無いんだ。」
「好きな人とか居たんでしょう?」
「いや・・・・そんな人も居なかったよ。」
「ええ?・・そんなことないでしょ。・・よおく思い出して。」
純一はグラスのウイスキーをもう一口飲んだ。
「そう言えば・・・・これは恋じゃないかもしれないけど・・・・施設にいたんだ。三つの時母が死んですぐにね。・・15まで居た。中学を出ると施設にはいられないんだ。・・その時、好きな子がいた。まだ、小学生だった・・その子はいつも僕に勉強を教えて欲しいって言って・・・。」
そこまで話して、純一は急に恥ずかしさを覚えた。そうだった。その子の名前が、「ミホ」だったのだ。何故、ミホという名が浮かんだのか、その時はわからなかった。遠い記憶の中に埋もれていた名前。そう言えば、その子も右目の下にホクロがあった。だから、彼女にミホという名をつけてしまったんだ。そう考えると、これ以上の話が出来なかった。
「どうしたの?」
ミホが少し頬を赤らめとろんとした目つきで訊いた。
「いや・・・やっぱり恥ずかしいから止めよう。それに、明日も仕事なんだ。もう寝ないと・・・ミホも何だか酔ってるみたいだからね。」
そう言うと、純一はソファーから立ち上がった。

1-19 鮫島運送 [スパイラル第1部記憶]

1-19 鮫島運送
「純一さん・・・今夜は傍にいて下さい。」
ミホはそう言って立ち上がった純一の手を掴んだ。淋しさを心の芯まで感じたミホは、少し酔った勢いもあって、強引に純一に抱きついた。
「判ったよ・・・。」
純一は、ミホを抱きしめた。そして、ミホを抱えあげるとそのままミホの寝室に運んだ。
ミホに腕枕をした。小さな子どもが親に抱かれて眠るように、ミホは純一の胸辺りを掴んで小さく縮こまった格好をしている。純一は優しく、ミホの髪を撫でた。しばらくすると、ミホは静かに寝息を立て始めた。
「随分、疲れていたんだろう・・・。」
純一も静かに目を閉じた。

翌朝、純一はミホを連れて鮫島運送に出社した。
「おはようございます。・・・お言葉に甘えて・・ミホを連れてきました。」
社長はいつものように古いソファーに座って新聞を広げていた。
「ああ、おはよう。」
社長がちらと顔を上げて純一とミホを見た。奥の部屋から、奥さんがお茶を運んで出てきた。
「いらっしゃい。・・よろしくね、ミホさん。」
「済みません。お邪魔します。」
「良いのよ、遠慮なく・・娘だと思ってるって言ったでしょ。」
奥さんはそう言うと、ソファに座っている社長の前に、お茶を置いた。
純一は、すぐにロッカー室へ向かい、すぐに着替えて出てきた。それから、今日の運送表を取り出して、トラックのキーを掴んだ。
「じゃあ、行って来ます。ミホの事、よろしくお願いします。」
ミホは事務所を出て、純一のトラックを見送った。

「ミホさん、ここ、座って。」
奥さんは、書類が積み上げられた自分の机の隣を指して言った。
ミホは、しばらく、事務所の壁に掛けられた何かの感謝状とか、棚に入っている書類の背表紙だとかをぼんやりと見ていた。

「・・やっぱり駄目ね・・上手くできないわ・・・明日、請求書ださなきゃならないのに。」
隣に座って事務作業を始めた奥さんが、パソコンを何度か叩いた後呟いた。
「もうパソコンも古いからな・・・お前と一緒さ・・取り替えなきゃ駄目かもな。」
相変わらず、ソファーで新聞を読んでいた、社長が暢気な声で言った。
「あんたこそ、何も出来ないくせに。パソコンと一緒に粗大ゴミにして出そうかねえ。」
奥さんは答える。それを聞いていたミホが言った。
「あの・・ちょっと見させてもらっていいですか?」
奥さんは、「わかるの?」と少し驚いた顔をしながら、席を空けた。
ミホはパソコンの前に座ると、横にあった書類の一つを見ながらキーを叩く。そして、書類を置くと、何か複雑な操作を始めた。周囲の様子など気にならぬほど、集中した眼差しでじっとパソコン画面を見つめている。時々、天井を見上げ、再び、キーを打つ。30分ほどして、立ち上がった。
「もう大丈夫です。少し、プログラムにバグがあったようです。それと余分な処理も入っていたので削除しておきました。もう大丈夫です。」
言っている意味は良く判らず聞いていた奥さんは、怪訝な表情で机に座った。そして、先ほどの作業を始めた。
「まあ・・ほんと・・前より見易くなってるし・・・請求書も綺麗にできるわ。ありがとう。これで、夜なべしなくて済みそうね。」
そう言うと、にっこりとミホを見た。
「でも・・ミホさん、こんなことが出来るなんて驚いたわ。」
そう言われて、ミホ自身も驚いていた。
「何だか、急に判るような気がして・・・パソコンの前に座ったら急に頭の中にいろんな事が浮かんできたんです。」
「へえ・・・きっと、そういうお仕事をしてたんでしょうね。」
不思議だった。自分に関する記憶など全く浮かんでこないのに、こうした事は浮かんでくる。
「それにしても、よく出来たプログラムですね。」
「そりゃそうよ。・・純一さんが作ったんだから。・・ここらの小さな会社は大抵、純一さんがコンピューターを入れたのよ。随分、事務仕事も楽になったって喜ばれてるんだから。あら・・聞いてなかったの?」
「ええ・・純一さんは余り自分の話をしてくれないんです。」
「そう・・・。」
奥さんは少し考えてから、純一の生い立ちを話し始めた。
「ここへ来たのは15の時。小さい時に親を亡くして施設にいたのよ。中学校を出た後、就職しなくちゃいけなくて、ここへ来たの。免許が取れるまでは、事務仕事をしていてね。物覚えが良いんで、社長が夜間の高校へ通わせようって言ってね。仕事をしながら大変だったと思うけど随分勉強していたようでね、推薦で大学も行ったわ。」
奥さんはまるでわが子の自慢をするように得意顔で続ける。
「とにかく真面目でね、大学でも随分優秀だったようで、大手の企業からも採用したいって言われていたの。・・でも、社長に恩返しするんだって、そのままここで仕事をしてるの。運転手なんてやってるのはもったいないんだけどねえ。」
奥さんは少し寂しげな表情だった。
「純一さんは、頼まれると嫌といえない性格なのよ。ここらの会社の社長がここへ来て、いろいろ困った話をしていたのを聞いては、仕事の後に手伝いをしてるみたいね。コンピューターには強いらしくってさ、ほとんど、純一さんが作って、入れたみたいよ。」
「自分で組み立てて?」
「ええ・・そうよ。これだってそうなの。・・アパートにたくさん無かった?」
ミホは、ひと部屋、物置みたいになってるからという、純一の言葉を思い出していた。


1-20 卸団地 [スパイラル第1部記憶]

1-20 卸団地
純一の生い立ちの話を一通り聞いたあとで、ミホは、奥さんから引き継いで、伝票を処理する仕事をやった。その様子を見て、奥さんが切り出した。
「ねえ・・ミホさん。あなた、ここで働かない?私も助かるし・・パソコンを使うのってこの歳になると疲れるのよ。あなたがやってくれると助かるんだけど・・。」
「・・でも・・」
躊躇うミホに奥さんが言う。
「お給料も出すわ。余りたくさんは無理だけどね。そうすれば、純一の負担も減るでしょうし、あなただって、気兼ねなく洋服や化粧品なんかも買えるでしょ?ね、そうしなさい。決まりよ。」
ミホが返答をするまでに奥さんは決めてしまった。
「よろしくお願いします。」

ちょうど、純一が一通り仕事を終えて帰ってきた。
「純一さん、ミホさん、凄いわよ。・・パソコンの調子が悪かったのを直してくれたの。」
奥さんが、運総評と伝票を受け取りながら言った。純一は驚いた。そして、すぐに、パソコンの前に行くと、ミホに訊いた。
「どうやったんだ?」
ミホは遠慮がちに席に座って、プログラムを開いて、修正箇所を示して見せた。
「・・・そうか・・・気が付かなかった・・その方法があったのか・・・。」
なにやら訳のわからない文字の並ぶ画面を見つめながら、独り言のように呟いた。
「いや・・驚いた・・。ミホ、凄いな。」
感心している純一に、奥さんは言う。
「明日から、ミホさんはここで働いてもらう事になったからね。」
再び、純一は驚いて、ミホの顔を見た。ミホはこくりと頷いた。

アパートに戻り、いつものように夕食を摂りながら、純一はミホに言った。
「さっきのプログラムだけど・・・あれはどこで勉強したんだ?」
ミホは困惑した表情を見せた。
「判りません・・ただ、プログラムを見ていたらそういうことが浮かんだんです。」
「いや、良いんだ。思い出そうとしないほうが良い。・・また、体調が悪くなるといけない。」
純一はそういうと、その話は終わりだという風に、食事を一気に済ませた。

ミホが入浴を済ませてリビングルームに戻ると、純一が待っていた。
「見せたいものがあるんだ・・。」
そういうと、純一は、自分の部屋の隣にある「物置のような部屋」へミホを連れて来た。ドアを開け、ライトをつけると、そこにはたくさんのパソコンが置かれていた。物置ではなく、そこは工房のようになっていた。壁には幾つものディスプレイがあり、何台ものパソコンが棚に置かれている。純一は、真ん中にある椅子に座り、キーボードを叩いた。パソコンが起動する音がして、幾つかのディスプレイが光った。
「驚いたかい?ここで、プログラムを作ったり、コンピューターを組み立てたりするんだよ。」
そう言って、中央のモニター画面に、作りかけのプログラムを映し出した。ミホはじっとその様子を見ていたが、何か、昔同じような場所にいたような感覚を覚えていた。
「ミホがあんな知識があるなんて驚いたよ。・・これからは一緒に何か作ろう。」
純一が手を止め振り返って、ミホを見た。ドアの傍に立っていたミホの様子がおかしい。
顔が青ざめている。
「何だか、昔、同じような場所にいた気がするの・・でも・・。」
そう言いかけた時、突然、ミホは気を失い、その場に倒れてしまった。
「ミホ!・・ミホ!・・しっかりしろ・・おい・・。」

ミホは、病院のベッドで目を覚ました。
「大丈夫か?」
脇に座っていた純一が手を取って声を掛けた。
「私、どうしたんです?」
「部屋の前で気を失ったんだ。・・・先生の話では、記憶を取り戻す過程で、そういうことはあるそうだ。・・何か、思い出したか?」
ミホは悲しげな表情を浮かべて首を横に振った。
「そうか・・・良いんだ。無理に思い出そうとしちゃいけない。・・このまま、朝まで居よう。・・気が付けば大丈夫だって先生もおっしゃってたから。」

朝にはアパートに戻った。体調を考え、今日は家にいたらどうかと純一は言ったが、ミホは大丈夫と答え、鮫島運送へ出勤した。朝、社長から従業員へ・・と言っても、奥さんと純一、そしてケンしかいないのだが、ミホを紹介した。
「しばらく、事務員として働いてもらう事になったから、よろしく。」
事務所の外には、近くの会社の社長の顔が見えた。どうやら、昨日のうちに、鮫島社長が近くの会社の社長に、ミホの事を話したらしい。純一達が配送に出ると、何かと理由をつけて、入れ替わりでミホの顔を見に来るのだった。

ほんの数日で、ミホはこの卸団地の中で知らぬ人が居ない有名人になってしまっていた。
昼に、近くのコンビニまで買い物に出かけると、行き交うトラックから、「ミホちゃん!」と声を掛けられたり、休憩時間で外に居た工員たちも手を振ってくれる。コンビニのアルバイトの店員さえも名前を知っていた。
ミホは、そういう人たちに、いつもにっこりと笑顔を返した。ますます、皆がミホのファンになっていった。
当然、ミホが抱える事情も知られていて、純一は配送先の会社では「ちゃんと守ってやれよ!」と言われる事が多くなった。
ひと月ほど経つと、アパートの近くのスーパーマーケットに買い物に行くと、奥さんたちからも声を掛けられるようになった。
「ミホ、もうひとりっきりじゃないな。」
買い物の途中で、ふと純一が口にした。ミホは幸せを感じていた。

1-21 身元 [スパイラル第1部記憶]

1-21 身元
朝、いつものように出勤すると、事務所に、古畑刑事の姿があった。ソファに座って神妙な顔をしている。社長はいつものように新聞を広げていた。
「おはようございます。」
古畑刑事は、二人の姿を見つけると立ち上がって、挨拶した。社長は様子に気付いて、新聞を持ったまま、事務机に移動し、それとなく様子を伺っている。
「何ですか?会社にまでやってきて。・・これから配送に行くんですが・・。」
純一は、歓迎しない相手という表情をあからさまに浮かべている。ミホの素性が分かったと言う知らせなら、余り歓迎できないという感情を隠しきれなかった。
「いや、申し訳ありません。あれから捜査を続けていまして・・少し確認させていただきたい事がありまして・・お手間は取らせません。社長には了解をいただいております。」
古畑刑事はそういうと二人をソファに座らせた。そして、脇にあった紙袋を取り出した。
「これ、お返しいたします。・・ミホ・・さんが着ていた水着とパーカーです。身元を調べるには遺留品・・いや・・所持品が必要でして、病院でお借りしたものです。」
純一はチラリと中身を確認すると、脇に置いた。ミホが、古畑刑事に訊いた。
「それで・・何か判ったんですか?」
古畑刑事はポケットから手帳を取り出して話を始めた。
「結論から言いますと、身元は判明していません。・・お預かりした水着とパーカーから捜査を始めたんですが・・・・通常、一般に販売されていれば流通ルートを調べて絞り込んで、ある程度特定できるものなのですが、それが、一般に販売されたものではなかったんです。」
「販売されたものじゃないって?」
純一が少し怪訝な顔をして尋ねた。
「ええ・・・タグが付いていないんで、水着メーカーに情報を送って調べたんですが・・どうも、オーダーメイドのようでして・・パーカーの方もそうです。」
「水着のオーダーメイド?」
「余り聞いたことはありませんよね。それと、水着やパーカーに使われている生地も、かなり高級なもののようでして、国内では扱いが無いそうなのです。」
「一体どういうことでしょう?」
ミホが訊いた。古畑刑事は手帳を今一度確認してから言った。
「まだ詳しいことは判明していないんですが・・・かなり高額な水着になるそうで・・・それを着けておられたわけですから・・・モデルとか・・高額所得の方とか・・庶民ではなさそうです。・・全国の所轄にも捜索願の照会を掛けていますが・・今のところ何も出ていません。」
古畑刑事の話を聞いて、ミホも純一も押し黙ってしまった。純一は、身元が判明しない事に少しほっとしていた。今しばらくはこのままの暮らしが続く事になる。ミホは、何かとんでもない身元に辿り着くのではないかという不安が湧き上がってきて、いっそ身元などわからないほうが良いと思っていた。
「何か思い出したことはありませんか?」
古畑刑事がミホに尋ねた。ミホは首を横に振った。
「そうですか・・もう少し、ヒントになる物があればと思って伺ったんですが・・もう少し時間を下さい。きっと、身元を突き止めますから。」
古畑刑事だけが、身元解明に熱心な感じとなっている。
「よろしくお願いします。」そう言って、古畑刑事を見送った。社長や奥さんも一通り話は聞いていたが、それは二人が望んでいる事ではないことを見抜いていた。
「まあ、いいじゃない。・・・ミホちゃんはミホちゃんだよね。さあ、仕事、仕事。」
奥さんが言うと、それぞれいつもどおりの仕事を始めた。

純一はいつもどおり配送の仕事に出た。
ハンドルを握りながら、古畑刑事の言葉を思い出していた。やはり、ミホは住む世界の違う人間に違いない。記憶を取り戻せば、やはり自分の前から姿を消してしまうに違いない。このまま身元が判らなければ良いと思いながらも、ミホの本当の姿を知りたくもあった。

ミホは、事務所の机で伝票の入力作業をしながら、時折、古畑刑事の言葉を思い出し、自分が失った過去が何か恐ろしいものなんじゃないかと考えていた。もう、過去を思い出したくない、このまま身元が判らなければ良いと願うようになっていた。

夕方、事務所に電話がかかってきた。奥さんが出て、何か一言二言話をして切った。
「ミホちゃん、純一さんが配送先のトラブルですぐには帰れないそうなの。かなり遅くなるらしいから、先に帰っていてくれって。・・・私ももう帰るから、送っていってあげるわ。」
ミホは、仕事を片付けて、奥さんの車でアパートに戻った。夕飯の支度をしようとしたが、足りない食材がある事に気付いて、近くのスーパーに買い物に行く事にした。もう、夕暮れになっている。ミホがアパートを出ると、アパートの前の道路に黒い大きな車が停まっていた。普段見慣れない車だった。
スーパーまで歩いていき、買い物を済ませて外に出ると、さっきの車が駐車場に停まっている。窓ガラスの中に人影らしきものはあるのだがはっきりとしない。何だか、不安な気持ちになって、ミホは小走りにアパートに戻った。
そっとカーテン越しに、外の様子を見ると、先ほどの黒い車がまたアパートの前に停まっている。やはり、自分を見張っているように思えた。
ミホはカーテンを閉め、不安を抱えながら、夕食を作った。

夜9時を回ってから、純一は戻ってきた。
「お帰りなさい。・・純一さん、外に変な車止まっていませんでした?」
「いや。気付かなかったな。・・・何かあったのか?」
「いえ・・帰ってきた時、アパートの前に、大きな黒い車が停まっていたんです。・ちょっと気になって・・・。」
「ふーん。・・何だろうな・・。」
その日は、遅い夕食になった。
二人は、朝の古畑刑事の話を敢えてしなかった。身元がわかることがどういうことか、お互いに判っていたからだった。
純一はさっさと食事と入浴を済ませて自分の部屋に入った。
翌日からはその黒い車は見かけなかった。平穏な日々が数日続いていた。

1-22 八ヶ岳 [スパイラル第1部記憶]

1-22 八ヶ岳
夏も終わり、秋が訪れている。ミホが純一の許に来て、2ヵ月ほどが経った。
ミホはもうすっかり、鮫島運送の事務員となって、取引先との対応もばりばりこなせるようになっている。このごろは仕事も増え、休みは日曜くらいになっていた。社長も奥さんも、すっかり事務仕事をミホに任せ、しばしば配達に出るようにもなっていた。あれから、古畑刑事も訪れる事も無く、ミホの身元捜査は進展しないままだった。ミホも無理に記憶を取り戻そうとはせず、このまま、純一との暮らしが続く事を大事に思うようになっていた。周囲も、純一とミホとを温かく見守っているのだった。
「なあ、純一。一つ頼みがあるんだが・・・。」
夕方配達を終えて戻った純一に社長が切り出した。
「お前も知ってる、千賀水産の社長が、別荘の手入れをしてくれないかって言うんだ。」
配送票をミホに渡しながら、純一は怪訝な表情で社長の話を聞いた。
「ほら、あの社長、夏前に怪我をして動けなくなっただろ?毎年夏には、八ヶ岳にある別荘に行くらしいんだが、今年は行けなかった。別荘は、年一度は空気を入替えて、雪に備えて、屋根とか軒の傷みも修復しないといけないらしいんだが、年末に向けて忙しくてそれどころじゃない。そこで誰か言ってくれるものは無いかって訊かれたんだよ。」
社長の話の流れで、だいたいどういう頼みかは純一も理解した。
「器用なお前なら大丈夫じゃないかって・・・ちょっと口にしたら、是非にもっていうんだ。どうだ、行ってくれないか?」
「いや・・でも、今、仕事も多いですし・・そんな休んでいられる状態じゃ・・。」
「ああ・・それは大丈夫さ。・・来週から、一人、運転手を雇う事にしたんだ。仕事も増えたし、ちょうどいいじゃないかって・・・それに、このところ、まともに休みも無かっただろ。休暇がてら行ってくれないか?」
「まあ・・社長がおっしゃるなら行きますけど・・」
純一はそう言ってちらっとミホを見た。ミホも、純一の視線を感じて、どうしたものかという表情を浮かべた。
「ああ・・ミホちゃんも一緒に行ってくりゃいい。・・・ここへ来てから、アパートとこことの往復で、ほとんど外へ行ってないだろ?・・休暇旅行と思って、純一と一緒に行ってくればいいさ。なあ?」
その言葉は、奥の部屋にいた奥さんに向けてのようだった。奥から、すぐに奥さんが出てきて、にっこりと笑っていった。
「ええ・・そうしなさい。このところ、事務仕事をミホちゃんがやってくれるようになって、楽になったし、溜まってる仕事もないし・・・休暇を取ってちょうだい。」
二人は、社長夫婦に勧められるまま、八ヶ岳の麓にある千賀社長の別荘に行く事になった。千賀社長のところに挨拶に行くと、お礼にと、千賀社長の高級自家用車を貸してやるからと楽しんで来いと言われた。

二人は、東名高速から中央自動車道を使って、八ヶ岳の麓に向かった。
旅行するなんて何年ぶりだろうと純一は考えながらハンドルを握っていた。千賀社長の高級車の中は静かで滑るように高速道路を走っていく。
ミホは流れる風景を楽しんでいる様子だった。
途中、駒ヶ根サービスエリアに停まると、中央アルプスの白い山並をバックに記念写真を撮った。伊奈名物のソースカツ丼も食べた。まるで、恋人同士の旅行だった。

小淵沢インターには午後2時ごろ到着し、すぐに千賀社長の別荘へ向かった。
八ヶ岳山麓に広がる松林の中を、くねくねと伸びる林道に沿って進むと、目指す別荘地があった。千賀社長の別荘は、一際大きな造りのログハウスだった。すでに連絡がされていて、別荘地全体の管理人が待っていた。
鍵を受け取ると、二人は別荘の玄関を開けて中に入った。
「窓を開けよう。」
一階の窓を全て開け放すと、高原のひんやりした風が別荘の中を吹きぬけていく。一年以上使っていなかった割には綺麗だった。それでもところどころに埃も積もっていて、ミホはすぐに掃除に取り掛かった。純一は別荘の周囲や屋根の具合を見て、修理が必要なところを点検して回った。1時間ほどで、どうにか気持ちよく過ごせるようになった。
「買出しに行きましょう。・・食材を買わなくちゃいけないでしょ?」
「一休みしてからじゃだめかい?」
「ほら、もう陽が傾き始めてるわ。・・・買い物から戻って、ゆっくりしましょうよ。」
ミホはとても精力的だった。
休むまもなく、二人は車で買出しに出かけた。
周辺には大型のスーパーも無いため、結局、インター辺りまで戻ることになった。インター傍のスーパーマーケットで食材を購入してもどった。
夕焼けが広がり、紅葉を始めた木々が一層真っ赤に燃えているように見えた。
夕食は、野菜いっぱいのシチューにフランスパン、そして、ワインが並んだ。
「さあ、どうぞ。召し上がれ!」
日常も、ミホが食事を作っているのだが、今日はまた格別に嬉しかった。いそいそとテーブルに着き、ワインで乾杯した。秋とはいえ、夜はもうめっきり冷え込んでいて、薪ストーブに火を入れている。温かな部屋の中、至福の時間が流れている。

「わあ・・綺麗・・なんて星空!」
そう言って、立ち上がると、ミホがログハウスのドアを開けて、外へ出る。ひんやりとした空気、風もない。見上げると、無数の星の煌きが広がっていた。
純一は、厚手のショールを持って、ミホの後を追って外に出る。
「冷えるよ。」
純一がそう言って、そっとミホの方にショールを掛ける。
「あ!流れ星!」
そう言って、ミホが指さす。
「願い事をしなくちゃ。・・・」
ミホはそう言うと、じっと天空を見つめる。
どんな願い事をするのだろう。記憶が戻ること、それとも・・・。
純一は訊けなかった。そして純一も、ミホと同様に流れ星を探した。
静かに夜は更けていく。

1-23 乗馬 [スパイラル第1部記憶]

1-23 乗馬
翌朝は、日の出とともに純一はログハウスの修理をした。余り修理すべきところも無かったが、冬の雪に備えて、何箇所かに板を打ち付けたり、ドアの隙間を埋めたりした。ミホが起き出して来た時には、純一は一仕事終えていた。
「おはよう、よく眠れたかい?」
純一は、コーヒーをカップに注ぎながら挨拶をした。
「ええ・・・朝食に・・・え?純一さんが?」
「ああ・・これくらいなら出来るさ。・・・さあ、座って。」
純一は、テーブルに、トーストとサラダとコーヒー、牛乳を運んでくる。一緒に住むようになって朝食はほとんどミホが作っていた。初めて、純一が朝食を用意した。
「何だか、感激しちゃった!」
「こんなことくらいで感激するなよ!・・別荘の修理はもう終わったんだ。今日は、この辺りをのんびり散策でもしよう。」

朝食を済ませるとすぐに出かけた。
別荘地の程近いところに、牧場があった。朝の放牧なのか、白黒の牛たちがのんびりと牛舎から出てくるところだった。二人は記念写真を取った。
それから、林の中を散歩した。鳥のさえずりを聞きながら、木の実を拾ったり、紅葉を始めた木の葉を集めたり、のんびりと過ごした。
途中、少し道に迷いながら、どうにか、開けたところに出てくると、目の前に、馬が数頭歩いている牧場を見つけた。
「馬に乗るか?」
純一はミホに訊いた。
「乗れるかしら?」
「大丈夫さ、慣れれば乗れるはず。行ってみよう。」
そこは、乗馬の練習もさせてくれるラングラーランチという牧場だった。
スタッフの女性が現れて、体験乗馬を勧めてくれた。
実は、純一は以前に乗馬に凝ったことがあった。自宅のアパートから車で1時間ほど、浜名湖にある乗馬スクールに通った事があったのだった。
「初心者の方は、まず、ここで馬に慣れていただいてからです。」
スタッフはそう説明すると、艶やかな毛並みの馬を一頭連れて来た。
「こいつは大人しい馬ですから怖がらなくても良いですよ。さあ。」
そう言って、ミホを先に馬に跨らせた。
「はい、真っ直ぐ背をそらして、前方に視線を持って行って下さい。馬の動きに身体を預けるようにすれば楽に乗れますよ。」
ミホは言われるままに姿勢をとった。
「あら・・綺麗な姿勢・・・初めてとは思えないわ。」
純一も感心した。自分も最初はどうにも姿勢がとれず梃子摺った覚えがある。
「じゃあ、軽く足で・・。」
と女性スタッフが言い終わる前に、ミホは軽く合図をした。馬がゆっくりと歩き始めた。手綱を握り、ミホは真っ直ぐ前を見ている。馬の揺れにあわせて、確かに乗っている。次第に、馬の歩みが速くなっていく。馬場の柵沿いに、ぐるりと1周すると、きちんと純一とスタッフのいる場所に戻ってきた。
「初めてじゃないんですか?」
「どうも違うようですね・・・。」
スタッフの問いかけに、純一も驚きながら答えた。
「あれだけ乗れるのでしたら、林間散策のコースをご案内しましょう。気持ち良いですよ。」

早速、二人はスタッフに先導される形で、牧場の裏手から八ヶ岳に登る林道を歩くコースに出て行った。
「ミホ、大丈夫か?」
後ろから純一が声を掛ける。ミホはちょっと振り返ってニコリと笑顔を見せた。
「馬の上から見下ろし景色って気持ち良いわ。」
木々の間を縫うように、登り道が続く。途中、小さな沢を馬がジャンプする。ミホは見事に馬を操って超えていく。純一の方が苦労しているようだった。折り返しに当たるところで、林間を抜け遠く眼下に広がる景色が見通せる場所に出た。
「ここは見晴らしが良い場所なので、少し、休憩しましょうか。」
先導していたスタッフの女性が馬を下りた。立ち木に馬を繋いだ。
「さあ、どうぞ。」
女性スタッフが、バッグの中から牛乳を取り出して二人に渡してくれた。
見晴らしの良い場所に座り、牛乳を飲んだ。風が気持ち良い。
「どこで乗馬を習われたんですか?とってもお上手なのでびっくりしました。」
スタッフは何気なくミホに尋ねた。
「何処なんでしょうね・・・・。」
ミホが少し沈んだ声で答える。スタッフはミホの妙な答えに戸惑った。
「でも・・この気持ち良い空気。懐かしいんです。きっとここに来た事があるみたいです。」
さらに女性スタッフは妙な顔をしている。純一は、話題を変えようと、「この牛乳はあの牧場のですか?」とスタッフに尋ねた。「ええ」と答えるスタッフに、「さあ、戻りましょう。」と催促した。

「清里の清泉寮にでも行ってみようか?」
一旦、別荘に戻ると、純一が切り出した。
「あそこのソフトクリームが絶品らしいし・・・清里の町で昼食も摂ろう。」
純一は、ミホの同意も得ずさっさと車を走らせる。「ここに来た事があるみたい」というミホの言葉が耳についていて、何か、ミホの身元に繋がる記憶が蘇るのではと言う不安が純一の中に広がっていた。それを払拭しようとして、別の場所へ行きたいと思ったのだった。

八ヶ岳の通称「はちまき道路」を車を走らせて一気に清里の町へ到着した。ブームの頃に比べれば減ったのだろうが、それでも、結構な数の観光客だった。
駐車場に何とか停めて、土産物屋が立ち並ぶ街中を歩いた。タレントの出している店や、地元の農産物の店、いろいろと覘いてまわった。ランチを取った後、清泉寮に行きソフトクリームを食べ、遠く、富士山も見えた。
そのうち、徐々に八ヶ岳の雲が増えてきた。
「夕方には雨になるかもな・・。早めに戻ろう。」
別荘に着くころには、もうぽつぽつと雨が降り出してきた。

1-24 雨の一夜 [スパイラル第1部記憶]

1-24 雨の一夜
別荘に戻ると、ミホは夕食作りを始めた。昨日の残り物を集めて、献立を考えているようだった。
「ちょっと、屋根の傷みが心配だから見てくる。」
純一はそう言うと、雨漏りが無いか調べる為に、懐中電灯を片手に屋根裏部屋へ入った。
しばらく使っていなかったにしては綺麗に片付いている。
純一は丹念に屋根の様子を見て回った。雨漏りは無いようだった。
部屋の隅には小さな書棚があって、絵本が何冊も入っていた。
「社長の娘さんのものかな?」
一つ取り出すと、それは、綺麗な絵と横文字が並んだ洋書のようだった。
「へえ・・こんな絵本があるんだ。」
純一は物珍しさに、数冊抱えるとリビングルームに戻った。
「雨漏りは無かったよ。・・・そうだ、これ。面白いものを見つけたよ。」
純一は、夕食作りを終えて、テーブルに料理を並べていたミホに差し出した。
「へえ・・絵本?」
ミホはそう言うと、中を開いた。そして、くすっと笑った。
「他にもあるの?」
ミホは一通り読み終えたのか、純一に尋ねる。
「ああ・・まだあったと思うけど・・。・・・意味がわかるのか?」
「ええ・・・これはフランスの絵本みたい。それに、こっちのは、オランダの絵本・・・。」
そう言ってから、ミホは自分に驚いた。
「あら?どうしてわかるのかしら・・。」
不思議な感覚だった。しかし、それ以上に驚いていたのは、純一だった。

夕食を終えて、寛いでいる時、ミホがぽつりと呟いた。
「今日は星空は見えないわね。」
「ああ・・・。」
純一は、薪ストーブの脇に置かれた、ロッキングチェアに身を任せた格好で、ウイスキーのグラスを傾けていた。
「ミホは、凄いなあ・・・乗馬も出来るし、フランス語もわかる。・・・料理の腕前も相当なものだし・・・コンピューターのプログラムだって出来る・・・。」
「どうしたの?純一さん。」
純一は、少し酔っていた。
「・・・・容姿端麗、才色兼備、非の打ち所の無い完璧すぎる女性だな・・。僕の傍に居るような女性じゃないんだよな・・・。」
「何が言いたいの?」
「ミホは、きっと、想像も付かないようなセレブな暮らしをしていたんだろうって考えてたんだよ。」
「そんな・・・・・変よ、純一さん。」
ミホは少し怒っている。
もう純一は相当酒が回ったようだった。
「早く記憶を取り戻して、元の暮らしに戻ったほうが良い。・・・それが一番さ。」
「どうして、そんな事言うの?私は、ずっと純一さんと一緒に居たいって思ってるのに・・・・。」
その言葉に、純一は反論するように言った。
「それは・・無理に決まってるだろ!ミホには、きっと待ってる人が居る。記憶が戻れば、そこへ戻るんだ。それが一番なんだよ。」
「もう記憶なんか戻らなくていいんです。このままで・・・。」
「このままって訳にはいかないさ。」
「どうして?」
「どうしてもさ・・・君は僕と一緒にいるような人じゃない。もっと違う生き方があるはずなんだ。早く記憶を戻して、元いた場所に戻るべきなんだ。」
「嫌よ・・離れたくない・・・。」
「記憶が戻って、仮に待っていた人が居たらどうするんだ?・・・もしかしたら、子どももいるのかもしれない。幼い子が母を待っている事かもしれないじゃないか。・・・」
「待ってる人なんて・・。」
「記憶が戻ればすぐに僕の事など忘れるさ。」
「そんなこと・・・。」
「いや、それで良いんだよ。そうしなくちゃいけないんだ。」

純一はそういうと、ロッキングチェアから立ち上がり、グラスを持ってキッチンへ向かった
。純一は冷たい水を飲み干した。少し正気を取り戻した純一は、酔った勢いとはいえ、今まで胸の中に仕舞っておいた思いをつい口にしてしまったことを後悔した。

しばらく時間を置いて、リビングルームに戻ってみると、ミホの姿が無かった。純一は、寝室や屋根裏部屋を探してみたが、ミホは居なかった。外は夕刻からの小雨がまだ降っていた。
純一は、玄関のドアを開け外の様子を見た。静かな別荘地、ところどころにぼんやりと街灯が見えるが、小雨のせいで遠くの様子までは判らなかった。冷え込んできた。純一は懐中電灯を持って、外へ出た。
「ミホ・・・ミホ・・・どこだ?寒くなってきたから部屋へ戻ろう。」
返答は無かった。
玄関前からそっと通りまでの通路を、懐中電灯で照らしてみたが、人影は無い。
「きゃあー!」
別荘地の真ん中を抜ける通りのほうで叫び声が聞こえた。
ミホの声に間違いない。純一は傘を放り投げて走った。
通りを1台の車のテールランプが遠ざかっていくのが見えた。

「ミホ!ミホ!何処だ!」
あたりを懐中電灯で照らしながら必死で探した。通りの側溝に、白いサンダルが転がっていた。ミホのものだった。
「ミホ!ミホ!何処だ!」
純一は必死に探し続けた。

1-25 一線 [スパイラル第1部記憶]

1-25 一線
 サンダルのあったところに、草がなぎ倒されたような痕があった。純一はその草を掻き分けて林へ足を踏み入れた。すると、木の陰に膝を抱えた格好で、ミホが蹲っていた。
ミホはがたがたと震えている。寒さで震えているのではないようだった。

「ミホ・・・大丈夫か?」
ミホは純一の姿を見ると、幼子が親に抱きつくように、手を伸ばし純一の膝を強く握った。そして、声を漏らしながら泣いた。
「ミホ、何があった?」
ミホは泣きじゃくりながらも、何とか口を開いた。
「判らない・・・通りに立っていたら・・突然・・車が近づいてきて・・。」
「どうした?」
「急にドアが開いて、腕を掴まれて・・・・。」
「顔は見たのか?」
「いいえ・・・・怖くて・・・怖くて・・・必死で逃げたわ・・・。」
もう思い出したくない、そんなふうにミホは見えた。
手も足も泥に塗れている。必死に逃げ、草叢を転がったのだろう。擦り傷もあるようだった。純一はこれ以上の事を訊くのは止めた。

「もう大丈夫だ・・さあ、帰ろう。・・ひどく濡れているじゃないか・・さあ。」
純一は、ミホを抱え上げると別荘へ戻った。

「体が冷え切っている・・さあ、お風呂へゆっくり入って温まっておいで。」
純一は、ミホをバスルームへ連れて行った。

「一体何者だろう?」
純一は走り去った車の事を気にしていた。ただの通りすがりとは思えなかった。ここは別荘地である。すでにシーズンオフに入りつつある。人影も無いところで偶然にさらおうとしたとは考えにくい。ミホの身元に関わることなのだろうか?何か途轍もない陰謀とか、悪事に絡んでいるのだろうか?
いくら記憶を失くしたといっても、性格まですっかり変わるわけでもないだろう。一緒に暮らして、ミホからは悪意を感じたことはない。むしろ、純真無垢な女性だと思う。きっと何か、自分から望んで足を踏み入れたのではないだろう。巻き込まれてしまったか、あるいは悪事を目撃したか。もしそうなら、何としても守らねばならない。このままずっと自分の傍に居るのがきっとミホにとっても幸せに違いない。
「いや・・そうじゃないだろう。」
ふっと口をついて出た。全て、自分の都合の良いように考えているだけだ。全く逆なのかもしれない。さっきの車は偶然ではないか。道に迷った女性を、通りかかった車が偶然見つけて、声を掛けようとしただけかもしれない。
堂々巡りのまま、純一は眼を閉じた。

バスルームのドアが開く音がした。暫くして、ミホが白いガウンを羽織ってリビングに現れた。
純一はすっと立ち上がり、キッチンへ行くと、ホットミルクを作ってミホに手渡した。
ミホは、嬉しそうに受け取ると、薪ストーブの前にちょこんと座ると両手で包み込むようにコップを握ってミルクを飲んだ。まるで幼子のようだった。
静かに夜が更けていく。時々、ぱちりと薪ストーブから燃える木々が跳ねる音が聞こえた。

「ごめんなさい。」
ミホがボソッと呟いた。
「いや・・良いんだ・・僕も言いすぎた・・・。」
純一はそう答えるのが精一杯だった。
暫く沈黙が続いた。

「私、純一さんとずっと一緒に居たいの。・・・私にどんな過去があるのか、わからないけど、今の純一さんとの暮らしが何よりも大切なんです。どうか・・・お傍に・・・置いてください。」
「しかし・・・・。」
今度は純一が答えに困った。もう突き放す事はできなかった。

あの浜辺で、弱りきって横たわっていたミホを見た時から、純一の心の中にミホが焼き付いていた。強引なケースワーカーの依頼を受け、「身元保証人」となったとは言え、純一はその事をどこか嬉しく受け入れていた。今は、傍にミホが居る事が何よりも幸せだと感じている。
目の前から、ミホが居なくなった時、全てを失ったような感情が湧き、二度と手放したくは無いと強く思った。どんな過去があろうとも、例え、待っている人が居ようとも、もうミホを手放す事等できない。しかし、それを口にする事は許されない。
数ヶ月もの間、奇妙な距離感を保ったまま、二人の暮らしが続いていた。超えてはいけない一線がそこにはあった。

「お願い、純一さん。」
ミホはそう言うと、すっと立ち上がった。
そして、羽織っていた白いガウンを、恥ずかしげも無く、するすると脱いだ。
「もう、すべて純一さんに捧げます。お願い、抱いてください。」
あの海岸で彼女を見つけた時に見た、艶かしい姿態を純一は思い出していた。
純一は覚悟を決めた。純一もそっと立ち上がり、優しくミホを包み込んだ。
「もう、過去の事は気にしない。ずっと、ミホを守っていく。」

この夜、二人は結ばれた。

1-26 幸せな日々 [スパイラル第1部記憶]

1-26 幸せな日々
翌朝、窓から差し込む朝日で目が覚めた。
純一は、腕枕しているミホの寝顔をじっと見つめた。
一線を越えてしまった事を後悔していない。
もし仮に、彼女の記憶が戻って、過去の暮らしへ戻る日が来たとしても、それが運命ならば諦めようと決意した。せめて、こうして供に過ごせる日は精一杯ミホを愛そう。そう心に誓っていた。

「おはよう・・・さあ休みも終わりだよ。」
ミホは目を覚まし、ちょっと恥ずかしそうな顔を見せた。そして、純一の胸に顔を埋めた。

別荘からの帰り道、ミホはずっと純一の肩に頭をもたげ、左腕に掴まったままの格好で助手席に座っていた。車窓から見える風景が昨日までとは違って見える。ミホは、胸の中に「希望」という光が射しているように感じていた。

別荘から戻ると、ミホは美容室に行きたいといった。
「過去の自分と決別する為に、髪を切ってくる。」
ミホはそういうと、アパートの近くにある美容室へ行った。

純一は丸千水産の社長に挨拶にいった。
「ありがとうございました。」
「いや、こっちこそ、ありがとな。・・これで別荘が傷まずに済む。おや?ミホさんは?」
「ええ・・髪を切るんだって言って、途中で降ろしてきました。」
「ほう、そうかい。髪をねえ・・・・・・・」
社長は、純一に意味深な笑顔を見せると、車の鍵を受け取った。
「おい、純一、ミホさんをずっと大事にするんだぞ。」
真面目な顔で丸千水産の社長が言う。純一も真顔で答えた。
「ええ・・そのつもりです。」
「じゃあ、たまには旅行にでも連れて行ってやるんだ。ああ、そうだ、あの別荘、自由に使っていいから。必要なら、この車も貸してやるよ。」
「ありがとうございます。」
丸千水産の社長は、そう言うと、大きな声で笑った。
そして、ちょうど、そこへ事務員が呼びに来て、事務所の中へ入っていった。

純一はその足で、鮫島運送に行き、無事に戻ったことを報告した。
「どうだった?」
社長が意味深に訊いた。
「ええ・・別荘はそれほど傷んでいませんでした。」
純一の答えに、社長は少しがっかりしたような顔をした。
「ミホちゃんはどうしたの?」
奥さんもそれとなく訊いた。
「・・髪を切るとか言って・・途中で、美容室に行きました。」
「あら、そう。・・・そうなんだ・・・。髪をねえ・・・そう。」
奥さんは何だかにっこり笑って答えた。
「明日からしっかり働きますから・・。」
「ああ、頑張ってくれ。」
純一はアパートに戻ったが、ミホはまだ戻っていないようだった。

「ただいま。」
日暮れ近くになってミホが戻ってきた。
「どう?似合う?」
ミホは、ソファで寛いでいた純一の前に立って、くるりと一周した。
ミホは、艶やかな長い黒髪をばっさりと切っていた。ボブカットと言うのだろうか、肩口辺りで切りそろえられている。
「ああ・・似合ってるよ。」
純一はそう答えたが、実は、ミホの長い黒髪が好きだった。ばっさりと切った髪型も似合っているが少し残念に感じていた。
ミホは純一の言葉から、少し残念な感情を感じた。
「やっぱり、変かしら?」
「いや・・・似合ってる・・よ。」
「やっぱり、長い髪が好きだった?本当の事言って!」
美穂は少し口を尖らせて訊いた。
「いや・・似合ってるって・・・。」

翌日、鮫島運送に出勤すると、社長も奥さんも、ミホの変身ぶりに一様に驚いた。
「良いわね、ミホちゃん。・・・凄く元気な感じ。生まれ変わったって感じよ。」
奥さんが言うと、ミホは少し寂しげに答えた。
「でも、純一さんは長い髪が好きみたいなんです。」
それを聞いて、社長が言った。
「俺も長い髪は好きだな。・・何だか、艶っぽいじゃないか。・・短いのはちょっと色気がな・・。」
「何言ってるのよ。ほんとに男は馬鹿なんだから。純一さんも同じなんて、ちょっと残念ね。」
ミホと奥さんはそう言うと純一を見た。
「そんなんじゃありません。・・初めて会った時が長い髪だったから・・それだけです。」
純一の答えに、奥さんが意地悪に訊いた。
「じゃあ、短い髪のミホちゃんも好きなのね。」
「好きだとか・・そういうのは・・。」
そう訊かれて、純一は真っ赤になった。
「良かったわね、ミホちゃん。好きだって。」
奥さんはミホの顔を見た。
ミホは幸せそうな笑顔を見せた。
「配送に行ってきます!」
純一はその場から逃げるように言うと、トラックへ向かった。

それから暫くは幸せな日々が続いた。二人の睦まじさは、卸団地じゅうに知れ渡った。

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