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アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷 ブログトップ

1-1望郷の想い [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

出雲の平定ののち、タケルは、都へ戻ったのち、アスカから皇位を継承し、ヤマト国の皇となった。父カケルも摂政を退いた。
皇タケルには、多くの素晴らしい臣下が仕えた。タケルは、カケルと同様に、生まれを問うことなく、志のある者には仕事を任せることにしたことで、ヤマト国は穏やかで豊かな国となり、東国、西国、北国との大きな連合国家として大いに繁栄していくこととなる。

皇位を退いたアスカのために、カケルは、畝傍の砦を改修して、飛鳥宮とした。
二人は、平城の宮を出て、飛鳥宮へ入ると、しばらく静かに暮らした。

カケルが還暦を迎えた年の始めの宴の席で、アスカが切り出した。
「カケル様・・・九重へ行ってみませんか。」
カケルは不意に「九重」という言葉を聞き、アスカの顔を覗き込むようにして言った。
「九重か・・。」
「ええ、九重です。」
「ふむ、遥か遠くなり、戻ることもなかろうと思っていたが。」
「ヤマト国は安泰。タケルもしっかり皇君の勤めを果たしております。この先、何の心配もありません。今こそ、懐かしい皆さまにもお会いになられたら如何でしょう。・・邪馬台国もきっと素晴らしき国となっておりましょう。」
「そうだな、この先、これまで世話になった 方々へお礼をする為にも行ってみるか。」
「ええ・・是非にも・・・。」
冬の夜空に煌々と月明かりが降り注いでいる。カケルは、遠く西の空を見上げた。

アスカとカケルが九重に向かおうと考えていることは、その日のうちに、皇タケルにも知らされた。
「どうしたものか。」
皇タケルは思案した。
「何を悩んでおられるのでしょう?」
傍に座るミヤ妃が、微笑みを浮かべながら訊いた。
「いや・・あまりに突然で。父や母が飛鳥宮で見守ってくださるからこそ、この大いなるヤマト国が治まっていると言えよう。」
それを聞いて、ミヤ妃が驚いた顔をして見せた。
「おやおや・・まだそのような・・カケル様やアスカ様が大和に入られた折は、この地は戦乱であったとお聞きしました。大和の中だけでなく、周囲の国々も乱れておったとも・・それを鎮めて、今のヤマトの礎を創り上げたのは、確かに、カケル様やアスカ様でしょう。しかし、貴方様も、東国、三河の地や、遠く出雲の地まで赴き、外敵を打ち払い、安寧をお創りになったではありませんか。」
ミヤ妃は、三河の地へタケルが赴いた時に出会い、その後、ともに山陰の地にもついていった。伴に苦労を分け合ったからこそ、宮費の言葉には嘘はなかった。
「いや、それは、大和の後ろ盾があったからこそのこと。幾度も、父や母に助けられた。私一人の力ではない。」
皇タケルの意外なほど心配している言葉を聞き、ミヤ妃は笑みを浮かべて言った。
「それならば、貴方様の為すべきは明らかなのではありませんか?」
「為すべきこと?」
「カケル様やアスカ様が九重に向かわれるのなら、行く先々で穏やかにお過ごしいただけるよう、皇のお勤めをしっかり果たされることが肝要かと。お二人が都を出られたあと、不穏な動きが起これば、お二人とて安心して旅を続けられないでしょう。それに、それほどご心配なら、西国や九重の国々へ使者を送られてはいかがですか?今度は、貴方様がカケル様やアスカ様の後ろ盾になられるべきでしょう?」
ミヤ妃の言葉はもっともだった。
皇タケルはミヤ妃の言葉を受け取って、すぐに、書をしたため、使者を西国へ送った。それと同時に、先皇の旅支度を始めた。

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1-2 皇子マナブ [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

そんなある日、平城宮に、タケルの弟、先皇アスカの第2皇子の”マナブ”が訪ねてきた。
マナブは、タケルとは10歳も年が離れていて、タケルが東国・北國・出雲と遠征していたころにようやく物心ついたほどで、兄弟として過ごした時間は少なく、どこか皇タケルを兄とは感じられなかった。
「皇タケル様、お願いがあります。」
「願いとは?」
皇タケルは、玉座から降りて、マナブの隣に立ち優しく訊いた。
タケルもマナブと過ごした時間が足りず、兄弟としての絆を作れなかったことをどこか悔いていて、久しぶりに顔を見た弟にやさしく接した。
「父、母が九重へ向かわれると伺い、どうか、私を従者の一人にしていただけぬかとお願いに参りました。」
マナブは神妙な顔をしている。
「お前は、皇の弟だぞ。それに、今は、飛鳥宮の近衛を束ねる長でもある。九重行きには、従者ではなく、先皇の第二の皇子、そして、皇の弟として供をすればよいではないか。」
「いえ・・それでは、きっと父や母がお許しにならぬのです。」
「なぜ、そう思う?」
「私はこれまで皇タケル様のような大きな働きをしておりません。父や母のような偉業などとてもできません。姉上のような知識も器量もありません。このまま、近衛の長として勤めるには力不足。おそらく、父も母も私の行く末を気に病んでおられましょう。そういうものが、皇の弟であると言って、九重へ向かいのは許されぬことだと・・。」
マナブは自らの力のなさを十分に理解していた。そして、皇子に生まれたことすら嘆いているほどであった。
タケルとマナブの間には皇女ヒカルがいた。
ヒカルは利発で決断力もあり、皆が皇アスカと並ぶほどと賞賛し、十五歳で、難波宮へ行き、今は、難波の宮様と呼ばれて、西国や遠く海の向こうの諸国との外交の要として働いていて、西国との絆を一層強くしていたのだった。
「だが、そなたの身分は皆が知っておるところである。父や母とて、従者として扱うのはできぬと思うが・。」
タケルはそう言うと、考え込んだ。
カケルとアスカは、仰々しい行幸は望んでいない。供はわずかでよいと念を押されていた。西国へ使者は送ったものの、不安は拭えない。マナブが付き従うことは心強いことでもあるが、おそらく、父、母は許さぬだろう。
タケルは、内裏の皇の間を何度か歩き回って思案した。
「そなた、馬は使えるか?」
タケルはマナブに訊いた。
マナブは、即座に「はい」と答えた。
マナブは、ひときわ体格がよく、周囲の男たちより頭一つ背丈が高く、がっしりとした体格をしている。近衛の長として、兵たちを束ねる姿は都の娘たちからもあこがれの的になるほどだった。
ただ、そのことを、マナブは自覚していなかった。体格とは裏腹に、やさしい性格で、剣や弓の腕前は父譲りなのだが、殺生はできないほどであった。もちろん、今のヤマトには戦もなくなり、近衛兵も小さないざこざを解決するくらいで、活躍できる場所などなかった。このままでは、万一の時に力を発揮することはできないだろう。
皇タケルは、この機会に、マナブを西国へ行かせて、厳しい経験をすることも必要だろうとも考え始めていた。
「ならば、父や母とともに九重へ向かうのではなく、騎馬隊をもって、父や母よりも先に西国、九重へ向かうのはいかがか。父や母の船は、中津海を潮と風に任せて進み、幾度も港へ立ち寄るだろう。その先に良からぬものがおらぬか、騎馬隊で先々の様子を見ながら、港の支度を整えるというのはどうか。」
すでに使者は送っているものの、それだけで万事無事とは言えない。
タケルの提案を聞き、マナブも納得した。
「では、腕利きの者を選び、騎馬隊の支度を整えます。山陽道を進めば、父や母より先に進めましょう。」
「一つ、父が行なったように、ヤマト国の者であるという証を持たせる。黒水晶の玉を持っていくが良かろう。先々できっと役に立つ。」
マナブはそう言うと、黒水晶の玉の入った桐箱を受け取り、内裏を出て行った。

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1-3 梅園にて [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

春の日差しが感じられる弥生三月になると、皇タケルは、ミヤ妃とフク姫とともに飛鳥宮へ出向いた。
飛鳥宮の宮殿には、大きな庭園があった。飛鳥山から水を引いた美しい水路と広い池、そして、いくつもの花園が設えてあった。
皇タケルが訪れたとき、カケルとアスカは、梅苑を散策していた。
梅園の木々は、紀国から送られたものであった。満開の梅園は、心地よい香りに包まれていた。
「父上、母上」
梅苑にある東屋で、皇タケルとミヤ妃、フク姫は、カケルとアスカに対面する。
「父上、九重へ向かう支度が整いました。」
皇タケルは深々と頭を下げて言った。
「ありがたい事だ。しかし、大層な支度は不要にしてもらいたい。我らは、故郷へ帰参するだけのこと。もはや、皇でも摂政でもない者である故、行幸ではない。一人の旅人として静かに参りたい。」
カケルが言うと、皇タケルは小さく微笑んでいった。
「父上や母上はきっとそう仰せになるとミヤ妃も申しました。ゆえに、同行は少人数としました。いずれも、春日の杜で学び育ったものばかり、十五になりましたゆえ、彼らの行く末のためにもお連れください。」
「それは素晴らしいことです。今は、安寧な世、大和の都にいるとそれがどれほど素晴らしいことかはなかなか気づけぬものです。他国へ行くことできっとさらに力をつけることができるでしょう。」
「はい。ですが、何かと足らぬところもありましょう。是非、父上、母上のお導きをお願いしとうございます。」
「承知しました。」
とカケルが笑顔で答えた。
「一つだけ、お許しいただきたいことがございます。母上のお体に障らぬよう、船は丈夫なものを設えました。すでに、難波津の港でお二人をお待ち申しております。」
「それはありがたい。アスカが九重へと口にした時、やはり、アスカの体を心配したのだ。もはや、互いに若くはない。長い道中に耐えられるか、思案していたところだったのだ。」
カケルの言葉を聞いて、ミヤ妃が言った。
「出雲平定の折、幾度も、アスカ様にはお力をいただきました。ずいぶんご負担をおかけしたに違いないと思っております。福良の里でお会いした時にも大いにお力をいただきました。私からお返しできるものはありませんが、道中、ご負担が少しでも少なくなればと知恵を絞りました。」
ミヤ妃の言葉に、アスカが答えた。
「いえいえ、ミヤ様にはすでに素晴らしい御力をいただいておりますよ。」
何を言われているのか戸惑っている様子のミヤ妃にアスカが、
「さあ、フク姫、こちらへ。」
そう言って手を伸ばすと、すでに乙女となったフク姫が「ばば様」と言って、アスカの懐にすがった。
「フク姫は、明日のヤマト、未来を生きる者。福良の里で赤子のフク姫を目にした時、生きる力が沸いてきました。それ以来、フク姫の笑顔を見るたびに、明日を生きるということがいかに素晴らしいことか教えられました。ミヤ妃こそ、これからの未来を作れる者なのです。それで充分。」
ミヤ妃は、アスカに縋りついたまま涙をこらえるフク姫を見ながら、涙をこぼした。
「私とカケル様が九重に戻ってみようと決めたのは、西国の国々の子どもたちの笑顔がみたいと思ったからなのです。過去を懐かしむために行くのではありません。ヤマト国の未来を感じてみたい、そう思ったからなのですよ。」
アスカの言葉に、カケルも驚いていた。

翌日から、飛鳥宮は、これまで以上に賑やかになった。
アスカとカケルとともに、大和国をまとめてきた国守や連たちがひっきりなしに挨拶に訪れた。伊勢や三河、美濃辺りからも馬を飛ばしてあいさつに来た。また、春日の杜で学び育った者たちも飛鳥宮にやってきた。
アスカとカケルは、一人一人に会い、ひとしきり思い出話をしながら、九重へ行った後、ヤマトが乱れぬよう皆に頼んだ。

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1-4 伴の者たち [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

いよいよ、アスカとカケルは、飛鳥宮から船で大和川を下って難波津へ向かう日が訪れた。
供を最小限にというタケルの意に沿って、四人の従者が選ばれた。
皆、十五歳まで、春日の杜で学び、春には平城宮に入って、皇タケルの傍に仕えるはずの者ばかりだった。

一人は、カナメといい、十歳の時、近江の国、勝野の郷から来た者だった。
近江国は、ヤチヨが暮らしていた。
タケルが東国を回り、北国、出雲へと遠征した際、近江の地に残った。それから、毎年のように、ヤチヨの推薦で、近江の国から春日の杜で学び人となる子どもらが来ていた。カナメはその一人だった。
カナメは、体格は小さいが、剣や弓の腕前は確かで、皇タケルの近衛兵になる予定であった。

もう一人は、ユキヒコと言い、大和国の春日の郷の生まれだった。
父は田畑を耕す農夫で、物心ついたころから父を手伝っていた。春日の杜には十二歳で来たが、すでに、誰よりも、米や野菜を作る知恵をもっていた。
また、幼いころから、アスカとカケルの奇跡を郷の長から聞いて育った。大和入りし、国造として大和国のために奔走し、春日の郷の窮状を知り里を助けたことは幾度聞いたか判らぬほどだった。春日の長は、ゲンペイ、そして妻はイヨだった。憧れはひとしおだった。従者に選ばれた時、ユキヒコはすぐに郷に知らせた。
二人は女性だった。
一人は、アヤといい、難波宮から来ていた。
アヤは、難波宮の治療院で育った。三歳で両親を病で亡くしたため、治療院の長となっていたナツが引き取り、わが子同然に育てたのだった。春日の杜では、薬草の知識が高かったため、学び人ではなく、舎人の補助をしていたほどだった。アヤは、先皇アスカに一目会いたくて春日の杜へ来た。義母ナツが、難波宮の治療院で、アスカに出会い、自らの生きる道を得たように、アヤもアスカに会うことで自らの生きる道を見出したいと願っていたのだ。

もう一人の女性は、ミンジュといった。
ミンジュは難波津で生まれた。異国の言葉に長けていて、九重行きにはきっと役に立つとミヤ妃が推挙した。
難波宮は、ヤマト国の表玄関である。そして、難波津の港には、様々な国の人々が出入りしていた。ミンジュの一家も大陸の騒乱を逃れ、難波津で居場所を得た。難波津はウンファンが長く商売人たちの長を務めてきたが、高齢のため、代替わりし隠居となっていた。
ミンジュ一家は、その隠居所近くに住んでおり、幼いころにウンファンから、難波津の成り立ちや皇タケルたちの活躍の話を聞いていた。それとともに、ヤマト国が大陸の国々と交易を盛んにすることの大切さも聞いていた。ミンジュは、いずれ、大陸の国々との懸け橋になりたいと願っていたのだった。

大和の大池の岸辺には、多くの民が並び、カケルとアスカの出発を見送った。
「長旅になると思いますが、よろしくお願いします。」
先皇アスカは一人一人に声をかけた。アスカの微笑みと優しい眼差しに、皆、魅了された。
ユキヒコが進み出て、口を開く。
「この旅は、私たちにとってはアスカケなのです。御遠慮なさらず、何でも御言いつけください。」
「アスカケ・・か・・。懐かしい響きだ。」
カケルがふと口にする。
十五歳で、遠き九重の端にあるナレの村を出て、かの地は今どうなっているのだろう。自分を知る村人はもはやいないだろう。”アスカケ”という言葉を聞いて、一気に時間が戻ったように感じていた。
船は大池から大和川に入り、難波宮を目指した。
斑鳩辺りでは、人々が岸辺に立ち、咲いたばかりの花々を川に千切り投げいれる。そのために、アスカたちが乗った船の周りは、色とりどりの花に囲まれた。
「なんという旅立ちでしょう。」
アスカは歓喜の涙を流している。

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1-5 亀の瀬にて [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

船は、大和川を下り、亀の瀬に入った。
行く先、右手の丘陵には、勢の郷がある。
この辺り一帯は、カケルたちが大和入りをした時、地崩れに苦しんでいた場所だった。今では、川湊が開かれ、大和と難波津の交通の要衝として栄えていた。
川湊に懐かしい顔が見えた。イリとユラだった。
周りには二人によく似た若者たちが並んでいた。村人たちも周囲の岸辺から一目、先皇アスカの姿を見ようと集まっていた。皆、笑顔だった。
「イリ様とユラ様だ。今は、ここの大連として立派に治めていると聞いている。イリは、韓から来た船(せん)一族の男であった。大和入りの際、従者として難波津からこの地へきて、この地の苦難を克服するため、この地へ残った。」
カケルは、従者の4人に話した。
「確か、地崩れを防ぎ、川を治めたと教えられました。」
とユキヒコが言った。
「ああ、そうだ。その時はまだ二十歳になっていなかったと思うが、皆の力を得て、見事に成し遂げた。素晴らしき人物だ。」
それをじっとミンジュは聞いていた。
ミンジュも韓から来た一族の一人だった。
大和から乗ってきた小舟が川湊に着くと、体格の良い若者が小舟を押さえ、岸の渡し役となる。一同は岸へ上がった。
「よくおいでくださいました。」
イリとユラが、深々と頭を下げて出迎えた。周囲の者たちも一斉に頭を下げる。
「すまない、世話になる。」とカケル。
「何をおっしゃいます。先皇アスカ様にお越しいただけることは光栄なことです。ご覧ください、郷のすべての民が喜んでおります。ごゆるりとお休みいただきたい。館へご案内いたします」
イリは、満面の笑みで答えた。
川湊から、少し上がったところに館がある。そこまでの石段をゆっくりと登っていく。
カケルは、ふと、イリの足取りが不自然なことに気づいた。
「足をどうした?」
「いえ、大したことは・・先日、川の仕事で痛めてしまいました。すぐに治ります。ご心配には及びません。」
イリはそう言いながらも、ユラに支えられて何とか石段を登っていく始末だった。
ようやく、館に着く。
館の庭からは、大和川の流れや川湊がよく見えた。
館の広間に入るや否や、アヤが進み出た。
「失礼いたします。」
アヤはそう言うと、広間に座り込んだイリの足に手を当てた。そして、やにわに、服の足首をたくし上げた。
イリの右足は、赤黒く腫れあがっている。
出血こそないが、かなりの重傷に見える。
「イリ様、何かに挟まれたのではありませんか?」
イリがばつの悪そうな顔をしている。
「もはや、痛みを感じないほどになっておられるのではありませんか?このままにしていると、足先が腐り、さらに毒が体に回り命を落とすやもしれません。」
アヤは真剣な眼差しでイリを見る。
イリは困った顔をして答えに窮したままだった。
「川の修復をしている時、積み上げた岩が崩れ、村人が挟まれそうになったのを一人体を張って留めたのです。」
そう答えたのはユラだった。
「ですが、その時、みずから大石に挟まれたのです。皆の手でどうにか抜け出したのですが、見る間に足が腫れ上がってしまいました。本当なら動くこともできないほどなのに、アスカ様とカケル様がおいでになると聞き、無理に動いている次第なのです。」
ユラはそう言いながら涙を浮かべていた。
「アヤ、どうすればよいと考えているのですか?」
そう訊いたのはアスカだった。
「一度、傷口を開き、悪しき血を抜きます。」とアヤが答える。
「あなたにできますか?」とアスカ。
「はい。薬事所で幾度も見てまいりました。」
アヤは躊躇なく答えると、持ってきた大きな包みを開き、巻物のような大きな布を広げた。

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1-6 イリとユラ [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

「それは・・。」
広げられた布を見て、アスカが驚いて訊ねる。
「薬事所の女官なら、だれもが所持している、姫帯と呼ばれるものです。」
「姫帯?」
「ええ、いつからかそう呼ばれております。アスカ様が念ず者と呼ばれた方々を治療された時、薬草や治療の道具などをひとまとめに持ち歩いておられたと伝わっており、アスカ姫が使われたもの故、姫帯と呼ばれているのだと・・。」
アヤの答えを聞き、アスカは興味深そうに、姫帯を手に取った。広げると身丈ほどの長さがあり、袋状のところに、小さな竹筒が入っていた。竹筒には、薬草の名が書かれたものや、小さな道具も入っていた。さらにその帯の間には、薬草の本も入っていた。
「私が使っていたものはこれほど素晴らしいものではなかった。もっと、簡素で薬草もこれほど揃ってはいませんでしたよ。」
「我が師匠であり母でもある、ナツ様が工夫され、さらに、薬事所の女官たちが、自らの仕事に都合の良いように改良してきました。私も、此度、アスカ様に同行させていただくにあたり、万一のことを考え、拵えたものなのです。」
アヤの答えにアスカは目を細めて喜んでいた。
カケルはアヤの知力と技量を信じることにした。
「では、この差配をアヤ様にお任せします。」
カケルが言うと、即座に、アヤが答えた。
「承知いたしました。ですが、イリ様の悪しき血抜きをした後、しばらく様子を見なければなりません。おそらく数日はここに留まることになります。よろしいでしょうか?」
アヤは、カケルたちの旅の障りになることを心配していた。
「それならば心配ない。先を急ぐ旅ではない。なにより、イリ様のお命を助けねばならない。難波津に使いを出せばよかろう。」
カケルは、ふいに館の扉を開け、庭に出た。
「そこに控えておるのだろう。」
カケルがそう言うと、濃い藍色の衣服を身に着けた男が控えていた。
「そなた、我らを守るための近衛方の者であろう。」
カケルが問うと、男が小さくうなずいた。
「ならば、すぐに、早馬で難波津へ走り、到着が数日遅れると伝えるのだ。それと、薬事所へ行き、傷に詳しい女官を連れてまいれ。痛み止めと血止めの薬草も持参するのだ。」
カケルが言うと、男は「御意」と答えて深々と頭を下げ、風のように消えて行った。
「これで良かろう。さあ、直ぐにも始めるが良かろう。」
アヤは大きく頷き、一度、アスカを見てから、口を開く。
「湯を沸かしてください。それと綺麗な布をたくさん集めてください。それから、チドメグサとオトギリソウを集めてください。」
アヤはそう言いながら、姫帯から一冊の本を取り出し、チドメグサとオトギリソウの絵を見せた。
「薬草集めは私が行きましょう。」
そう言って立ち上がったのは、ユキヒコだった。
「私も農夫の息子。多少は薬草の知識があります。」
ユキヒコはそう言うと数人の郷の者とともに、館を出て行った。
他の者たちも、手分けして支度に入った。
治療をするために、厨の隣の部屋が用意された。
たくさんの甕や皿が並べられて、湯が運ばれてきた。白い布もたくさん集まった。
カケルとアスカには、隣の部屋に移るようにアヤが進言したが、アスカはアヤの技量を見ておきたいと言い、そのまま残った。
カケルは、その間に郷の者を伴って、郷の様子を見て回ることにした。
「さあ、始めましょう。ミンジュは私を手伝って。」
「はい。」
郷の者とともに、ユキヒコが戻ってきた。
「チドメグサは集められたが、オトギリソウは見つからなかった。」
ユキヒコが済まなそうな顔をして言った。
「いえ、この時期はまだ育っておりませんから、見つけるのは難しいでしょう。手持ちの薬草を使います。」
そう答えた後、アヤは、イリに向かって少し厳しい顔をして言った。

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1-7 治療 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

「イリ様、これから、悪しき血を抜きます。腫れあがったところに、刃を立てます。おそらく、激しい痛みに襲われます。本来なら、オトギリソウを使うところですが、ここでは手に入りませんでした。私が携えてきたものは極僅か、どれほどの薬効があるかはわかりません。痛みには耐えられますか?」
アヤが訊く。
「心配ない。これまで幾度も怪我を負い、痛みには慣れておる。気にせずとも良い。」
イリは気丈に答えた。
「判りました。ただ、むやみに動かれると、あらぬところに、傷が広がるかもしれません。どなたか、イリ様の両手と体を押さえておいてください。」
すぐに、カナメが進み出て、イリの脇に座り、押さえた。
「私も。」
そう言って、足を押さえたのは、イリとユラの息子、ケンシだった。
「では、支度が整いましたので、治療を行います。まずはこれを。」
アヤはそう言って、器に入れた鎮痛の薬を入りに飲ませた。
しばらくして、アヤは、イリの腫れ上がった足にそっと手を当てた。
あちこちの場所を丹念に調べていく。
「骨は大丈夫のようですね。これなら、悪しき血を抜けば治りも早くなるでしょう。」
アヤはそう言うと、刃を入れる場所を探し当てた。
「では、まいりますよ。」
アヤの眼差しが厳しくなった。手にした小刀の先を一度、蝋燭の火に当ててから、腫れあがった足にすっと入れた。
「うぐっ。」
イリの両手と両足がグイっと動く。さすがに激しい痛みで体がのけぞる。カナメとケンシは必死の形相で手足を押さえる。
小刀をゆっくりと引くと、どす黒い血が一気に噴き出し、アヤの顔や衣服に飛び散る。
「アヤ様、大丈夫ですか?」
隣にいたミンジュが声をかける。
「大丈夫です。これくらい悪しき血が出てくれば大丈夫。ミンジュ、白い布とお湯を。」
ミンジュは言われたように、湯と白布を運んできた。どす黒い血が床板に広がっていく。
「もう少しです。」
アヤが声をかける。イリは顔を歪めたまま、アヤの言葉にうなずく。徐々に黒い血が出なくなり、鮮血に変わっていく。
「もういいでしょう。少し滲みますが辛抱してください。」
アヤはそう言うと、脇に置かれた湯の入った甕からひしゃくで掬い上げて、傷口に掛ける。どす黒い血が、湯に混ざり流れ落ちていく。
再び、イリが、ううっと声をあげる。
幾度か湯をかけた後、アヤが用意された白布でそっと傷口を覆った。
一部始終を見ていたアスカは、アヤの手際の良さと大胆さに驚いていた。かつて自分も、幾度も怪我人や病人の手当てをしてきたが、内心、不安と恐怖と戦っていた。アヤは表情一つ変えず、見事にやってのけた。幼いころから薬事所で育ったことで、強い心を持ったのだろうとアスカは感じていた。
「ユラ様、これで大丈夫です。ただ、明日朝くらいまでは傷口から出血するでしょうから、こまめに布を取り換えてください。出血が治まれば、あとは良くなる一方です。」
「アヤ様、ありがとうございました。」
ユラがようやく安堵したのか、涙をこぼし、アヤに礼を言った。
アヤは笑顔を見せた。
「それと、ずいぶんと悪しき血を抜きましたから、体の中の血が少なくなっています。この薬草を煎じて飲んでいただき、なにか精のつくものを摂られるようお願いいたします。」
アヤは、手もとにあった姫帯から竹の筒を取り出して渡した。
「これは?」とユラが訊く。
「これは、忍冬(ニンドウ)という薬草です。スイカズラの葉と茎を乾燥し粉にしたものです。傷口の治りが早くなりますし、滋養の効能もあります。もうじき、花が咲くころになりますから、見つけて、秋ごろに刈り入れて作っておくとよいでしょう。」

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1-8 アヤの本音 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

「この郷には、そうした薬草に詳しい者がおりません。ぜひ、ご指南いただけませんか?」とユラが言うと、アヤは笑顔を返して言った。
「私で、宜しければお教えいたします。」
ユラは、アヤの説明を聞き、直ぐに侍女たちを呼び集めた。
「アヤ、良くやり遂げました。さあ、今度はあなたの番。全身に浴びた血を流して、身ぎれいにしてください。」
アスカがやさしく声をかけた。
アヤは、ミンジュとともに、ユラが用意した湯殿に向かった。
ミンジュは、湯殿でアヤの体を洗った。
「アヤ様、素晴らしい腕をお持ちですね。それに、あれだけの血を浴びても臆することなく、度胸も備わっておられる。」
ミンジュは、アヤの体に湯をかけながら感心して言った。
それを聞いて、アヤはふっと緊張の糸が切れたのか、涙をぽろぽろと流し始めた。
「怖かった。怖かった。・・」と呟いてアヤは震えている。
「幾度も、治療の様子を見てしっかりと覚えて、自信をもって臨んだのです・・。でも、やはり、手が震えました。誤れば、イリ様のお命を奪うかもしれない。そう思うと・・。」
ミンジュは、アヤの背にそっと手をやった。
アヤとミンジュが湯殿から戻ると、広間に侍女たちが待っていた。
「あら、大変ですよ。」とミンジュがアヤに言った。
「そうですね。でも、これが私のアスカケなのかもしれません。」
二人は笑顔で互いを見た。

イリは激しい痛みで気を失ってしまったようだった。
ユキヒコとカナメがイリの体を抱え上げ、寝所へ運ぶ。
ユラは、傍らに座り、イリの傷口に当てた白い布の様子を見ている。
「もう大丈夫でしょう。傷口はすぐに良くなります。」
アスカがユラに声をかける。
「本当にありがとうございました。ですが、せっかくお越しいただいたのに、これでは十分にもてなすこともできず申し訳ありません。」
ユラはアスカに詫びた。
「気にせずとも良いのです。此度の旅では、これまでご恩になった皆様にお礼に何かお返ししたいと考えておりました。これくらいでは足りぬかもしれませんが、これからも、民のため励んでください。」
「ありがとうございます。」
ユラがそう言うと、アスカは、イリの寝所を出て、広間に戻った。
そこには、アヤの話を聞こうと侍女たちが取り巻いていた。
「アヤ、良い仕事をしましたね。ミンジュもご苦労様でした。」
アスカから褒められ、アヤは顔を赤くして、初めて少女のような笑顔を浮かべた。それから、アヤがアスカに言った。
「アスカ様、今、薬草のお話をしています。アスカ様にもお話しいただけませんか?」
「あら、そうなの。良いですよ。ですが、皇になってから勉強はしておりませんので、アヤ様の方が詳しいと思いますよ。私こそ、お教えいただきたいと思っております。」
アスカがそう言うと、アヤは顔を真っ赤にした。
「さあ、皆さま、伴に話を聞きましょう。」
アスカが侍女たちに言うと、アヤは、姫帯を開いて、そこから、一つ一つ竹筒を取り出し、さらに、帯にしまっていた薬草の本も開いて見せた。侍女たちは興味深げにアヤの話に聞き入った。
アヤの知識は、アスカを驚かせた。まだ、十五ほどの娘とは思えないほど、薬草の効能を理解している。アスカの知らない薬草や薬草の組み合わせ次第では、命を奪うこともあるという戒めまでも、アヤは話した。
「アヤ、しっかり学んでいますね。これほどの知識を持っているのは、ヤマトでもおそらく数少ないはずです。このアスカケの最中、是非、皆さまに教えてあげてください。」
アスカは笑顔で言った。
「いえ、これもすべて、アスカ様のお導きです。確か、アスカ様は、カケル様とともに、古い書物を水から読み解かれたとお聞きしました。本当ですか?」
アヤが訊いた。アスカは記憶を辿るようにしてから答えた。
「ええ、カケル様の生まれた郷に、古い書物があり、カケル様はそれを読み解かれていたの。アスカケの最中に、私もカケル様から書物を読み解く手ほどきを受けたのです。」
その言葉に、アヤも女官も驚いていた。

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1‐9 道普請 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

そのころ、カケルは郷の者たちの案内で勢の郷を見て回っていた。
初めてここへ来た頃は小さな集落だった。カシコの村長ヨンジが、幾度も繰り返す地崩れに苦労をしていた。その後も、大和川の洪水の時にも立ち寄っていた。
そのころと比べて、郷は大きく変わっていた。難波津と大和国をつなぐ交通の要衝として、川湊が整備され、大きな郷になっていた。今も、船着き場には多くの船が付き、人夫も数多く働き、活気にみちている。
カケルを案内している郷の者の先頭には、イリの息子の一人、ヤスヒコがいた。
「カケル様、あちらをご覧いただきたいのです。」
ヤスヒコは、館を出て川湊に降りていく途中で、山の手を指さした。
示した先の木々が切り倒されている。
「あれは?」とカケルが訊く。
「今、大和へ続く街道を広げております。」
「街道を?」
「ええ、もちろん、都に物資を運ぶのは船のほうが便利です。しかし、季節によっては船が出せない時もあり、ここに何日も足留めされることになることもあります。そのため、都までの道を普請しているのです。」
ヤスヒコの目は輝いている。
山一つ越えるための街道普請となると、かなりの人夫が必要になるはずだった。いくら賑わいのある郷とはいっても、それほどの人手を確保するのは容易いことではないはずだ。
「しかし、かなり大掛かりな普請になりそうだが・・。」
カケルが訊くと、周囲にいた郷の者たちが苦い表情を浮かべた。カケルの考え通り、このために郷の者にはかなり重荷になっている様子だった。
「この普請は私の夢なのです。父は、地崩れと水害を防ぐことを成し遂げました。私もこの地で大きな仕事をしてみたいのです。」
若者らしい発想だった。
「ヤスヒコ殿、この普請にどれ程の人手と時が掛かると考えているのですか?」とカケルが訊く。
「向こう二年ほど、郷の者が働けばできるでしょう。」
ヤスヒコは屈託のない表情で答える。
「なるほど、ならば、倍の人手であれば一年でできるのですね?」
「ええ・・まあ・・そういうことになりますか・・。」
「都や難波津から人夫が集えば、早くできるということでしょう?」
「ええ・・。」
「この街道は、難波津と都の往来のために作るのでしょう。いや、それどころか、西国と都を繋ぐ大事な道になるはずです。それなら、都の力を借りてはどうでしょう。」
「しかし、・・・」
「いずれ、貴方は郷を治める役を果たすべき者、郷の者たちが何を求めているかしっかり捉え、その為に力を尽くさねばなりません。今、郷の者たちはどう思っているでしょう。」
カケルの言葉を聞き、ヤスヒコは周囲にいた郷の者たちの顔を見た。
皆、厳しい顔をしている。
ヤスヒコは、今まで郷の者たちに強いてきた普請が、予想以上に郷の者たちを苦しめていることにようやく気付いた様子だった。
「わかりました。すぐに都に行き、道普請を奏上して参ります。」
ヤスヒコの言葉に郷の者たちの顔に笑顔が浮かんだ。
しかし、ヤスヒコの顔には不安が浮かんでいる。
今まで、都に行ったことがない。誰にどのように奏上するのかさえ判らない。
「それならば、供をつけましょう。・・おそらく、そのあたりに控えているはずです。」
カケルがそう言うと、郷の者に紛れていた、濃い藍色の衣服を着た近衛方が前に進み出た。
「ヤスヒコ様を都に案内し、道普請の件は、民部の長を務めるモリヒコに相談するのがよいでしょう。すぐに行きなさい。」
カケルの言葉に、近衛方の男は「はい」と返事をした。
「私たちは五日ほど、ここに滞在することにします。その間に手はずを整えてください。」
ヤスヒコは、近衛方の男とともに、船を出してすぐに都に向かった。

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1-10 次男ケンシ [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

郷を一回りしたカケルが館に戻ってきた。
用意された部屋に入ると、アスカがアヤとミンジュ、そして侍女たちが談笑していた。
「おや、皆様、随分と楽しそうですね。」
カケルが部屋に入ると、アヤとミンジュは、さっと立ち上がり、席を空けた。
「そう気づかいせずとも良いのです。これから、長い旅になります。皆、家族のように無理な気遣いなどなく過ごしましょう。」
カケルはそう言うと、ミンジュとアヤの肩をポンと叩き、窓際に行き座った。
アスカは、皆の輪から離れ、カケルの傍に行くと、アヤの治療の様子をカケルに話した。
「ほう、それは素晴らしい。イリ殿にはずいぶんとお世話になりました。まだまだ、働いて貰わねばなりませんからね。私たちに万一の時は、アヤ様に治療をお願いしますね。」
カケルが目を細めて言った。
それから、カケルは郷の様子を見てきたことをアスカに話した。
「実は、道普請の様子を見てまいりました。かなり大掛かりな普請仕事でした。それゆえ、都に支援を願い出るよう、ユキヒコ殿に勧めました。すぐに発ちましたが、都からの返答がどうなるか、それまで、この地に留まることにしましょう。」
カケルの言葉に、アヤが反応した。
「それならば、私も安心です。イリ様の具合を今しばらく診る事ができます。」
その日は、一行の寝所に戻っても、談笑が続いた。

次の日、カケルは、カナメとユキヒコ、そしてミンジュを連れて、再び、郷の様子を見て回った。
勢の郷は、峠を越えたところに農地を持っていた。山崩れの後の土地に、石を積み上げ、階段状の農地にして、水を引き水田としていた。
「この辺りは、平地が少ないので、こうして田畑を作っています。」
昨日、イリの治療の時手伝ったケンシが案内してくれた。
「これだけの石積み、苦労したでしょう。」とカケルが言うと、
「郷の者皆の努力です。もちろん、父も私も、兄も、皆で、汗を流しました。幸い、湧き水もあり、今ではたくさん米がとれるようになりました。苦労した甲斐がありました。」
と、ケンシは誇らしげに答えた。周囲にいる郷の者の顔が昨日と比べて優しい表情をしている。
「ケンシ様は、郷一番の力持ちですから、二人分・・いや、五人分の御働きでした。」
郷の者がケンシを讃えると「いやいや、父には叶わない。まだまだです。」とケンシは、照れながら言った。
「カケル様、ぜひ、川湊もご覧ください。」
一行は、山を下り、川べりまで降りてきた。そこに、大岩があった。
「あの岩ですか?カケル様が神の力で動かされたと聞きました。」
伴をしていた、カナメが唐突に訊いた。
「いや、あの岩ではない。もっと上流の岩であった。それに、川底に沈めたのだから見えなくなっている。それに、大岩を動かしたのは郷の者や春日の杜から来た若者たちの力だ。だが、その光景によく似ている、なんと懐かしいことか・・。」
カケルは、目の前に広がる風景から、あの時の記憶を辿り、懐かしさに浸っていた。
川湊には、いくつかの蔵と館が立ち並んでいた。桟橋には幾つもの船が繋いであった。
「この川湊より下は、難波国です。川沿いにはいくつかの村があります。そこから米や野菜、難波津からは、西国の品々や新鮮な魚なども運ばれてきます。今は、このように穏やかですが、この先、長雨の季節になると、これより上流に船を進めるのは難しく、何日もここに留まることもあります。品物の中には、魚など傷みやすいものもあり、苦労しております。」
ケンシは、郷の者たちの苦労を代弁している。
「そのためにも、道普請が必要なのですね。」
「ええ、ですが、郷の者にはこれ以上苦労を掛けたくないのです。」
ケンシは、兄がやろうとしている道普請に対して思案しているようだった。

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1-11 難波津から [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

二日目には、難波宮に向かった近衛方の男が乗った早馬が戻ってきた。後ろには女人を乗せている。
「戻りました。」
近衛の男が、カケルとアスカのいる部屋の入口で傅いた。
「明日には難波津から薬草が届くことになっております。それと、治療院からも女官が向かっております。この者は、先行して参った治療院の女官です。」
男の横で傅く女官がすっと顔を上げた。
「あら、シズさまではありませんか?」
そう言ったのは、アヤであった。
「治療院では、わが姉と思い、暮らしておりました。薬草のこと、治療のこと、多くを教えていただいたお方です。」
アヤは、カケルとアスカに、シズを紹介した。
「はじめてお目にかかります。シズと申します。治療院のナツ様から命じられてまいりました。先の皇アスカ様、摂政カケル様にお会いできて光栄に存じます。」
シズは慎ましやかに挨拶をした。
「ご苦労でした。一休みされてから、イリ殿の具合を診てください。」
アスカが言うと、シズが答える。
「ありがとうございます。ですが、私は疲れておりません。すぐにも、イリ様の具合を診させていただきます。」
そう言うとすっと立ち上がった。
「では、私がご案内いたします。」
アヤがそう言って、シズとともに部屋を出て行った。
アヤとともにシズは、イリが寝ている部屋に入った。
部屋には、ケンシがいて、イリと話をしていた。
「シズと申します。難波宮の治療院から参りました。傷の具合を見せていただきます。」
「ああ、よろしく頼む。」
シズは、すっとイリの寝床の脇へ座ると、足の布をゆっくりと解いていき、傷の具合を診た。
「痛みはいかがですか?」
「いや、傷のほかには痛みはない。」
シズはじっと傷口を見た後、足全体もくまなく調べた。
紫色の腫れ上がっていた足はすっかり腫れも引いている。
「アヤ様、良い仕事をしましたね。傷も小さくこれなら治りも早いでしょう。」
シズはアヤを褒めた。アヤは少し顔を赤らめた。
それから、シズは、持参した姫帯を開く。
それは、アヤの姫帯よりも大きく、薬草もかなりの数があった。シズは、その中から、いくつかの薬草を取り出し、小さな器に移して少量の水を加えてから、捏ね始めた。その手際は美しかった。
ケンシは、シズの指先の動きにすっかり魅了されていた。
出来上がった薬を匙で掬い上げると、イリの傷口に塗り始めた。
「この薬は、傷の治りを早くする効用がございます。痛みも少なくなるはずです。」
塗り終えると白布を当てた。
「すまない。手間をかけた。」
イリがシズに礼を言った。
「七日ほどすればこの白布も不要になるでしょう。傷口も癒え、普段と変わらぬほど動けるようになります。ですが、ご無理をなさらないように。傷はいえても、足首辺りを強く痛めておられます。力仕事はしばらくお控えください。痛みがぶり返すかもしれません。」
シズはそう言うと、姫帯を仕舞った。
「かたじけない。言われた通り養生いたします。」
イリは答えた。
その間、ケンシは、シズの顔をじっと見つめていた。シズもその視線に気づいた。
「私に何かございますか?先ほどからじっと私を睨んでおいでですが・・。」
シズがケンシに訊いた。
そう言われて、ケンシは慌てて、
「いや・・その。なんと美しいのかと・・見惚れておりました。」
と言い、はっと言葉を間違えたと感じて、顔を赤らめていた。

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1-12 シズとケンシ [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

「シズさまはいつまでこちらに居られるつもりかな?」
イリが訊いた。
「イリ様の傷の具合次第でしょう。このまま見込み通りに治癒すれば七日ほどで難波津へ戻るつもりですが・・。」
シズの言葉に、ケンシは少し残念そうな表情を見せたのを、イリは見逃さなかった。
「戻らねばならぬ用事があるのでしょうか?」
「いえ、すぐに戻らねばならぬことはございませんが・・。」
「ここには、薬事に詳しい者がおらぬのです。怪我や病気の時、皆、難儀をしております。しばらく、この地へ留まり、せめて、薬事の指南をいただけぬかと思うのだが・・。」
イリはシズに訊いた。
シズは少し戸惑っている様子だった。
「難波津に、シズ様の帰りを待ちわびておられる御方がありますか?」
イリはさらに突っ込んで訊く。
「いえ、そのような御方はおりません。ただ、治療院のナツ様からのご指示でこちらに参った次第ゆえ、長く滞在するとなれば、ナツ様にお許しをいただかねばならないと思います。」
「なるほど・・判りました。シズさまを今しばらくこの地に居ていただけるよう、使いを出しましょう。まあ、いずれにしても、七日はこちらにおいでなのであれば、その間だけでもお願いいたします。」
「判りました。」とシズが答えた。
「おい、ケンシ、すぐに難波津へ使いを出せ。それと、シズ様のお部屋を用意せよ。こちらに逗留される間は、お前がお相手するのだ。良いな。」
イリの目論見は、ケンシにははっきりと判った。
同時に、シズにもそれとなく意味合いが理解できていた。
「よろしくお願いいたします。」
ケンシは顔を赤らめて、改めて挨拶した。シズも顔を赤らめていた。
「シズ様、こいつは、体格だけは人一倍良く力を持て余しているような男で、気が回らず無作法もあると思いますが、心根はやさしい。何でも言いつけてやってください。」
イリはにやにやした表情を浮かべて言う。
「父上!それはあまりに・・。」
とケンシが不満そうな表情を見せた。
それから、一息ついてから、シズの方を向いて言った。
「では、シズ様、こちらへ。すでに部屋は整えております。何かご入用なことがあればおっしゃってください。」
ケンシはシズを連れて、イリの部屋を出て行った。
一部始終を、アヤが見ていた。
まだ、十五歳になったばかりのアヤには、このやり取りの意味が今ひとつピンと来ていなかった。
シズとケンシが部屋を出た後、アヤもイリに小さく挨拶をして部屋を出て行った。
「これは良きことの知らせかもしれぬぞ。」
イリは笑顔で言った。
隣室から入ってきたユラがそれを見て言った。
「何か良いことでも?」
「いや、此度の怪我は、思わぬ福をもたらしてくれるかもしれぬ。ケンシ次第ではあるが・・。」
イリの答えに、さらに、ユラは不思議な顔を見せた。
シズを部屋に案内した後、一息ついてから、ケンシの案内で里の中を見て回った。
「川向うにも郷があるのですね。」
シズが訊いたので、ケンシが答えた。
「行ってみますか?」
ケンシはそう言って、シズを川湊まで連れて行き、船で川を渡り対岸の里へ行った。
「この郷は、父から私が治めるようにと言い使ったところです。」
船を降りながらそう言うと、郷から出迎えが来た。
「おや、驚いた!ケンシ様、奥方をお連れになったのですか?」
郷の者が不躾な物言いをした。
「いや、違う。この方はシズ様と言われ、父の傷を治しに来られたのだ。我妻になどなっていただけるような御方ではない!」
ケンシは顔を真っ赤にして怒った。
「おや、そうなのですか、よくお似合いですのに・・。」
郷の者は、そう言ってケンシをからかった。

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1-13 都にて [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

都へ向かったヤスヒコは、カケルに言われた通り、近衛方の男に案内されて、民部の長を務めるモリヒコのもとを訪ねた。
「カケル様からの使いだと?」
民部方の館の奥にいたモリヒコは慌てて接客の間に姿を見せた。
「勢の郷長イリの息子、ヤスヒコでございます。」
接客の間に控えていたヤスヒコは深々と頭を下げ挨拶をした。
「カケル様は息災か?」
モリヒコはヤスヒコに尋ねる。
「はい。父イリが怪我をしており、その治療をお願いいたしました。伴のアヤ様が見事に行われました。まだ、数日は勢の郷に留まられるとのことでした。」
「そうか。それで、用向きはなんだ?」
「はい。我が郷の道普請を行っており、その助けをお願いしたく参上いたしました。」
「勢の郷の道普請か・・。あそこは難波津と都を繋ぐ要衝の地。大きな川湊もあり、人手も多いと聞いているが、それでは足らぬほどの普請なのか?」
モリヒコに問われて、ヤスヒコは少し答えに困った。当初は、自らの郷の者で出来ると考えていたこともあり、改めて問われて、今一度考えを整理した。都の力を借りる事に抵抗もあった。父に負けぬほどの功績を上げたいという思いも巡ってくる。
即座に答えないヤスヒコを見て、モリヒコが言った。
「誰か、絵図を持て!」
すぐに隣室から、文官らしき人物が絵図を持ってきた。
「ヤスヒコ殿、道普請はどのあたりを進めておるか教えてくれぬか。」
モリヒコはヤスヒコの前に絵図を広げて言った。
都を真ん中に配して、西は難波津、東は伊勢辺りまでが記された見事な絵図であった。ヤスヒコはこれほど見事な絵図は見たことがなかった。
「これは、カケル様と私が書き上げたものの一部である。どうだ、何処に道を作ろうとしているのだ?」
ヤスヒコは、川湊を目印に自分たちが開こうとしている道を思い浮かべる。だが、どうにも定まらない。自分の郷でありながら、その場所を頭の中で思い浮かべようとしても詳細に浮かんでこないのだ。ヤスヒコは自分の考えの浅さを思い知る。
「そんなことでは、道普請の助けを出そうにも見当もつかぬではないか。」
モリヒコは少し厳しい声でヤスヒコに言った。
「申し訳ありません。」
「しばらくそこで考えをまとめよ!」
モリヒコはそう言うと接客の間を出て行った。
残されたヤスヒコは、目の前に広げられた絵図を見ながら、郷の様子を思い浮かべていた。
モリヒコは、ヤスヒコを残し、宮殿に向かい、皇タケルに謁見した。
「そうか、その様な者が参ったのか。モリヒコ殿を頼るというのは父の指図であろう。」
「おそらくそうかと・・。」
「それでいかがするつもりだ?」
「かの地の道普請は都にも利があるのは明白。直接、皇様へ申し出ればすぐにもできるものです。カケル様から書簡をいただければ済むこと。しかるに、ヤスヒコ殿を私のところへ来させたのが気になりまして。」
「父は、おそらく、ヤスヒコ殿の力不足を察して、モリヒコ殿に正しく導いてもらうことを望んでおられるに違いない。」
皇タケルは父の考えを察していた。
「私もそうではないかと思い、今、ヤスヒコ殿を一人にしております。民や都のことを考えてのこととは思いますが、そのためにどれ程の苦難があるかをしっかり考え、自ら見出すのを待とうと思います。」
「それがよい。考えがまとまったならば、都からすぐに人夫を送り出し普請に入れるよう支度だけは整えておいてください。」
「判りました。」
モリヒコは皇タケルから許しを得たことですぐに支度にかかった。
半日ほど、ヤスヒコは、接客の間で絵図を睨んでいた。
道普請は何のためにやるのか、そのためにどのような普請がふさわしいか、郷の者たちだけでは到底難しいこと、都からどれ程の人夫が必要なのか、頭の中を様々な考えが巡る。郷にいたとき、これほど考え込んだことはなかった。

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1-14 ヤスヒコの決意 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

夕餉の時となり、侍女が声をかけた。
「すみませんが、木板と筆をお借りできませんか。」
ヤスヒコは、夕餉を取る事を後にして、半日かけて考えたことをまとめ書き始めた。書き終えたころには夜遅くになっていた。
「民部の長様にお会いしたい。」
接客の間から館に響くような大きな声を出した。すぐに侍女が、ヤスヒコを広間に案内した。
しばらくすると、モリヒコが広間に姿を見せた。
「モリヒコ様、これをご覧いただきたい。」
考えを書き記した木板を差し出す。
「この川湊から峠を越えて道を作ります。多少険しいところもありますが、ここに道を引けば、荷車を通すことができます。大雨で船が出せぬ時や、人の行き来には十分。道幅は荷車が行き交えるほどにします。」
「ほう、そういうことか。それで、どれほどの人夫が必要か?」
「郷の者で掛かって、二年ほどは掛かります。都から二百人ほど人夫をお出しいただければ、一年ほどで出来上がる算段です。」
「二百人か・・・。」
ヤスヒコの話を聞きながら、モリヒコも自分なりに道普請に必要な人員を考えていた。これから、米作りに手がかかる季節になる。農民の多くは忙しく動けなくなる。それは、郷の者も同じ。都にいる兵たちを当てることが良いだろう。
「判った。明朝には出立しよう。まずは百人ほどで普請に入ろう。郷の者は、仕切り役程度でよい。田植えが終わるころには、さらに二百人を都合する。そうすれば、冬を待たずに道ができよう。難波津にも人夫をだすように手配し、川下に向けた道も作るとしよう。」
「それは心強いことでございます。」
ヤスヒコは、自分が示した計画をすんなり認めてもらい、さらに、モリヒコからより良い案が示されたことに驚くとともに感謝していた。
「だが、その前に夕餉を取りしっかり休め。さぞかし疲れたであろう。さあ。」
モリヒコがそう言うと奥の部屋からすぐに夕餉が運ばれてきた。
モリヒコは、差し出された木板に書かれた絵図をじっくりと見ながら、改めて、支度しておいた人夫たちや資材などと照合している。
ふと見ると、ヤスヒコが夕餉を食べながら、涙を流していた。
「どうしたのだ?」とモリヒコが声をかける。
ヤスヒコは、飯を口に運びながら涙を拭う。そして、口の中の飯を飲み込んでから言った。
「私は、これまで里長の息子として、郷のために父を超えるような働きをせねばならないと考え、様々なことをやってきました。しかし、それは浅はかな思いつきばかりだったのだと思い知りました。」
「そうか・・。」
「おそらく、郷の者たちは、長の息子ということで不安や不満を持ちながらも実現するために汗を流してくれていたにすぎないのだと判りました。功を得ようとするばかりで、周囲のことを考えもせず、情けないと身に染みたのです。」
ヤスヒコの言葉を聞きながら、モリヒコは微笑みを浮かべている。
「それに気づけば上々。カケル様がヤスヒコ殿をここへ来させた目的は、そこに気づいてほしかったからでしょう。私も若いころにはそうしたことを幾度も経験しました。そのたび、カケル様に導いていただいたのです。おそらく、カケル様とて、若き頃には同じようなことを幾度も経験されているはず。そうしてみな、育っていくのです。」
モリヒコはそっとヤスヒコの肩に手をやる。
「すでに支度はできております。明朝には船で下りましょう。皇タケル様にも許しを得ておきました。実のところ、この道普請は、私も気になっていたところなのです。都と難波津を繋ぐ要衝であり、船が出せぬとなるとたちまち都は困っておりました。難波津からも同じ。亀の瀬から都までの道普請は都の者で、そして、亀の瀬から難波津に抜けるための道普請は難波津に手配します。郷の皆様は、地の利をご存知でしょうから、人夫たちを差配してもらいたい。そして、その長をヤスヒコ様にお願いいたします。」
モリヒコの言葉に、ヤスヒコはさらに涙を流し喜んだ。
翌朝には、大和池に多くの船が並んだ。
「さあ、参りましょう。」
モリヒコはヤスヒコとともに、亀の瀬を目指した。

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第2章 難波津へ 2-1 大和川の流れ [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

都からの人夫が到着し、普請が始まった。同じころ、難波津からも薬草運搬とともに、人夫たちも続々とやってきた。
もともと、賑わいのある勢の郷はさらに人が増えて賑やかになった。
道普請が始まる前に、川湊の隣の場所の地ならしが始まった。
「あれは何を始めるのだ?」
カケルの質問にミンジュが答えた。
「川湊が大きくなり、勢の郷だけでは、留まる人を泊める場所がなくなってきたとのことで、さらに、この道普請で、大勢の人夫が入るために住まいに苦労する。そこで、かの地に、大きな館を構え、多くの人が住めるようにすると、イリ様は申されておりました。」
ミンジュは、少し平地が広がっている辺りを指さしている。蛇行する川岸、尾根が伸びたあたりにある平地。大和入りの際に、一時留まったことのある場所だった。
「それは良いことですね。九重から戻った折には、ぜひとも、立ち寄りましょう。」とカケルが答えた。

カケルとアスカの一行は、普請に着手したのを見届けてから、大和川を下ることになった。
亀の瀬の川湊を一行の船が離れる時、川岸には多くの人が見送った。
イリの足も随分快方に向かっていて、岸に立ち、見送っていた。
その横には、ケンシとシズの姿があった。
川湊を出てすぐ大きく川が蛇行する。船頭が口を開いた。
「この辺りは難所です。幾度も川が溢れ流れが変わる。その先に見える島山が壁になってしまっているのです。」
行く手に小高い山が見えた。
「だが、素晴らしい眺めですね。」とアスカが答えた。
「あの辺りの地ならしをされていました。」
そう言ったのはミンジュだった。

船が下っていくと、川幅が徐々に広がっていき、流れも穏やかになってきた。周囲には、農地が広がり、皆、農作業に精を出していた。
「そろそろ稲植えの頃合いでしょうか?」
そう訊いたのは、ユキヒコだった。
「ユキヒコ殿は、郷里の田が気になるのですか?」
アヤが訊く。
「いや・・そういうことでも・・ただ、大和と比べ、この辺りは米作りには適したところだと・・水辺に近く、広い農地。羨ましい限りです。」
ユキヒコは、船から身を乗り出して農地の様子に見入っている。
「この辺りは私が難波津に来た頃はただの荒れ地でした。」
そう言ったのはカケルだった。
「まだ、葛城王が存命で、大和は争乱の最中でした。大和から難波津へ多くの兵がきて、戦となりました。」
カケルは、悲しい顔をした。
「私も春日の杜で舎人様から、イコマノミコト様やソラヒコ様、レン様達の軍功とお聞きしております。」
そう言ったのはカナメだった。
「軍功などではありません。押し寄せる敵兵を矢と炎で殺しました。兵には、皆、父や母、妻や子供がいる。命を奪えば、大きな悲しみと恨みが生まれます。だが、そうしなければ自らの命や家族の命も守れない。今、堀江の戦で敵兵が攻め込んでいたら、アスカの命もなかったでしょう。やらねばやられる。生きるために殺す。そんな理不尽なこと許されてよいものではない。戦など決してやってはならぬものなのです。ましてや、多くの人を殺めたことを軍功などという言葉にするのはただのまやかしにすぎません。」
カケルは強い口調で言った。
「しかし、今日のヤマト国は戦を経てできたのでしょう。」
カナメが切り返すように言った。
「そうではない道はなかったか、私は今でも考えることがあります。戦ではなく、互いに理解し手を携えることで生まれる、そういう国づくりはできなかったかと・・。」
カナメはそれ以上言葉を発することができなかった。

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2-2 堀江の庄 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

ミンジュが口を開く。
「父に訊いた話ですが、わが一族は韓から参りました。韓の国では、小さな国が幾度も戦を繰り返し、多くの民の命が失われていたとのこと。わが一族も、戦乱を避けてヤマトへ逃れてきました。父や母の一族の多くが命を奪われたとも聞きました。戦は民のためではない。ただ、強き力を持つ者が民を支配するための手段。そう言うものを私も許すことはできません。」
ミンジュの言葉は強かった。カナメもユキヒコもアヤも戦を知らない。伝承の話しか知らなかった。
しばらく沈黙した後、アスカが口を開いた。
「あの大戦の後、骸も多数転がっていて、人が近寄れるところではなかったのです。しかし、その後、骸を懇ろに弔い、静まった後に、難波津や草香の江辺りの人たちが少しずつ農地へ作り変えてきたのです。ここで取れる米は、都にも届けられているのですよ。」
アスカの言葉に何か救われたような気持になった。
「これだけの農地を?」
ユキヒコは驚いて訊き返した。
「ええ、皆が力を合わせればできるのです。一人に力など小さいもの。人と人が力を合わせる事こそ大事なのです。諍いではなく助け合うことで生まれるもののほうがはるかに大きく貴重だと思いませんか?」
アスカの言葉を聞き、アヤもミンジュもユキヒコもカナメも、感慨深く農地を見ていた。
船は、いよいよ草香の江に入った。
「最近は、水が少なくなり、船の出入りが難しくなってきました。少し揺れますので気を付けてください。」というと、船頭は巧みに船を操り、浅瀬を進んでいく。
「水かさが減ったのは何か理由が?」とカナメが船頭に訊いた。
「ええ、かつては大水で苦労していましたが、カケル様が堀江を作られてからそれがなくなり、この辺りも見事な農地となっていました。ですが、ここ数年、草香の江に入り込む水が減っているのです。大和川はこれまで通りなのですが、どうも、北の淀川の様子が変わったのが要因ではないかと・・詳しいことは難波比古様にお聞きになってください。」
船頭はやけにこの辺りの様子に詳しかった。
船は、堀江の庄の港に着いた。堀江の庄は、カケルたちが開削した堀にできた港町だった。
「足元にお気をつけて。」
船頭が船を桟橋に着けると、岸から多くの人が集まってきた。
カケルやアスカが到着することはすでに知られていたが、大きな騒ぎにならないようにと事前に難波宮には使いが出してあった。だが、到着が予定より遅れたことで、町の者たちに不安が広がり、抑えようのない状態になっていたのだった。
堀江の庄の民は、カケルやアスカとともに働いた者が多かった。皇や摂政になる前、まだ、この先どのようになるのかさえ分からぬ時、身分など気にせず、ひざを突き合わせて話し合い、ともに汗を流したものも多い。だから、この地に船をつける事にしたのも、カケルとアスカだった。陸に上がる間際に、アスカが船頭の顔を見て驚いた。
「あら、あなたは・確か・。」
その言葉に、船頭は顔を隠していた布を取る。顔にはいくつも傷があった。かつて、アスカがこの地で治療をしていた”念ず者”と呼ばれた一人だった。
「お久しぶりです。今はこうして船頭として働いております。時々、難波比古様に命じられ、あちこちを調べております。我らの仲間の多くは、アスカ様に命を救われ、カケル様から名をいただき、人として生きる道を得ました。わが命に代えて、ヤマトをお守りすると誓っております。」
その船頭は深く首を垂れてそう言った。
カケルもその様子を見ていた。
「命を粗末にしてはなりません。ヤマトのためよりも、自らのために命は使うべきです。一人一人が自らの幸せを願い精進することこそ、ヤマトを守ることになるのです。よいですね。ツチヒコ殿。」
カケルは、やさしい声で船頭に言った。
名を呼ばれて、船頭は驚いた顔でカケルを見た。
「お気づきだったのですか?」
「ええ・・川湊で気づいておりましたが、どうすべきかと、寄る年波に記憶が定かではないこともあるので・・。」
カケルは笑いながら答えた。

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2-3 難波津へ到着 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

アスカとカケルが到着したことはすぐに難波宮に知らされた。
難波宮には、難波比古とユキがいた。摂津比古が隠居し、今は、難波比古がしばらく統領を務めたあと、都から皇女ヒカリが難波宮の統領として着任したものの、皇女ヒカリは、皇の妹して、主に、西国や九重、韓国などとヤマト国の外交の任を担うことになっていた。難波国の統領は、再び、難波比古が担うことになっていた。
「やっと到着されたか。さあ、皆、出迎えだ。」
難波比古の号令で、宮中にいた者たちは大門へ向かった。
カケルとアスカの一行は、堀江の庄から宮へ続く大路を進んでいく。通りには人垣ができている。
「この辺りはずいぶんと立派になりましたね。」
アスカが感慨深げに言う。
「ああ、初めて難波津へ着いた頃も賑わってはいたが、これほど立派にはなっていなかった。何より、人の数が違う。」
カケルも感慨深そうに言う。
伴をしているユキヒコとカナメは、大和の都とは違った活気に圧倒されていた。
「ミンジュもアヤも、ここで育ったのか?」
ユキヒコが少し驚いた顔をして訊いた。
「ええ、私の居た治療院は、宮の隣にあるのよ。いつもこんな感じだったわ。」
アヤは久しぶりに帰った故郷の様子に驚くモリヒコやカナメを見て誇らしげに言った。
「ミンジュは?」とカナメが訊いた。
「ええ・・その館の先に・・。」
ミンジュの顔は少し強張っていた。
大路の両側には、幾つも大きな館が軒を連ね、その館の奥には蔵がいくつも並んでいる。ウンファンが広めた度量衡によって、難波津では商売が繁盛している。西国や北国、九重、さらには大陸からも様々な品物が流通するようになり、大和の都にも運ばれていた。
アスカとカケルの一行が大路を進んでいくと、様々な人が品物を抱えて近寄り、「献上品でございます」と言っては手渡していく。船を降りてから、その量はかなりなものになり、一行の後ろには大きな荷車がいくつも並んで、宮に向かっていく。
ようやく、宮に到着すると、大門の前には、難波比古とユキ、そしてミヤのほとんどすべての者が並んで出迎えた。
カケルたちは、難波比古の案内で、宮に入り、大広間で休んだ。
「遅れてすまなかった。」
タケルが難波比古に言う。
「お久しぶりでございます。此度は九重へ向かわれるとのこと、皇様より伺い、支度を整えておりました。」
「難波津も久しぶりなので、数日留まり様子を知りたい。」
「御意。では、案内役をお付けしましょう。」
「いや、それには及びません。伴として参った、ミンジュとアヤは難波津の者ゆえ、彼女らに案内を任せることにします。」
難波比古が、ミンジュとアヤを見る。
「おや、随分とお若い方々ですね。」
「春日の杜から参ったのです。十五となったため、此度の旅の伴にと皇タケルから推挙されました。彼らには此度の旅は、アスカケなのです。」
「アスカケ・・おお、懐かしい言葉です。摂津比古様から伺いました。確か、カケル様は銃後の時、郷を出て旅をされ自分の生きる道を探されたと・・それが、アスカケ。」
難波比古はそう言いながら、並ぶ四人の若者に微笑んで見せた。
「彼らにこの上ない体験になるでしょうね。・・私も伴に加えていただきたいくらいだ。」
難波比古の言葉に、四人はうれしそうな笑顔を見せた。
「難波津はたいそう賑わっていますね。都以上のようでした。」
アスカが言う。
「はい、各地から様々な産物が集まり、人も集まります。皇カケル様のご活躍もあり、今は、紀国や伊勢、三河辺りからも産物が入るようになりました。それと・・御存知でしょうが、韓では未だに戦が続いており、戦火を逃れてくる者も数多く参っております。カケル様や皇タケル様のお力によって、ヤマトは安寧な国となりました。それゆえ、皆、安心してやってくるのです。」

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2-4 難波比古の悩み [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

難波比古が誇らしげに言う。それを聞いていたミンジュが前に進み出た。
「お聞きいただきたいことがございます。」
ミンジュは、統領、難波比古とカケルの両者に訴えるように言った。
「何事か?」
難波比古が少し困惑した顔をした。
「わが一族は、韓の戦火を逃れてここへ辿り着き、ウンファン様の援助を受けて何とか暮らすことができました。ですが、ウンファン様の助力も限られております。苦しい思いをして逃れてきた者の多くは、この難波津でもやはり苦しい暮らしが続いております。どうにか、難波比古様のお力で彼らが少しでも楽に暮らせるようお願いしたいのです。」
ミンジュが、大路を歩きながら、こわばった表情を見せていたのは、そうした現実を知っているからこそ、祭り騒ぎのような光景の裏で苦しい状態にあるものの顔が浮かんだからだった。
「どういう事でしょう?」
とカケルは難波比古に訊ねた。難波津はもともと、諸国から多くの人々が集まり暮らす町である。韓国だけでなく、華国からの者も受け入れることはできるはずではないのかとカケルは考えていた。
難波比古は少し困った表情を浮かべながら、小さなため息を一つ吐いてから言った。
「ミンジュ殿が申されることは事実。私も頭を悩ませ、幾度か、難波の宮様にもご相談してきたのです。多くの者が住む難波津は、すでに手狭になっております。それゆえ、堀江の庄からさらに先にも町を広げてきました。それでもすぐに手狭になるのです。そのうち、華国からくる者たちが、草香の江の北側に住みつくようになりました。」
難波津が栄え始めたころ、同じように、韓国の戦から逃れてきた者があり、難波津の松原に小屋を建て住み始め、いずれ、それが、様々な災いを起こすことになったことを、カケルは知っていた。
「ただ、この辺りと比べて、草香の江の北側は、低地のために、大水が出れば、住居は流される始末。新たな地へ住み替えるよう幾度か働きかけたものの、上手くいかず、いかがしたものかと。」
難波比古の苦労も理解できた。
「そのことは、皇タケルは知っておるのですか?」とカケルが訊く。
「はい。年儀の会の度に相談はしておりますが、有効な手がなく、何より苦労しているのは、草香の江に住む者たちを束ねる者が、なかなかこちらの話を聞こうとしないのです。私も幾度か足を運びましたが、残念ながら、聞き入れてもらえずにいるのです。」
難波比古は手を尽くしたと言いたげだった。
「諍いや争いごともあるのですか?」
とカケルが訊くと、難波比古は首を横に振りながら言った。
「そういうことはありません。とにかく、われらと接することを嫌がっておるのです。」と難波比古は答えた。
「確か、ここへ着く前、船頭が草香の江が浅くなり船の行き来にも支障が出ていると言っていましたが、それと何か関係があるかもしれませんね。」
そう言ったのは、アスカだった。
「草香の江は、重要な場所。船の行き来に支障が出るようではこまりますね。人が住むようになれば、川の流れも変わる。湿地ですから、米作りには適している。田を作り、そこへ水を引いているのかもしれません。そうなれば、確実に川の流れが変わる。おそらくそれが原因でしょう。」
そう言ったのは、ユキヒコだった。
「どうでしょう。そのことを一度私に預けてもらえませんか?この地へ留まる間に解決するとは思いませんが、何か策を見つける事ならできるかもしれません。」
カケルが難波比古に言った。
「いや、しかし、それは・・。」
「私は、もはや摂政ではありませんから、民に号令することなどできません。ただ、こういう時、昔の経験を活かして、知恵を出すくらいならできるかもしれません。まずは、かの地へ行き、この目で見てきましょう。ミンジュ殿、明日、案内してください。」
カケルが立ち上がると、アスカが言った。
「私とアヤは、治療院へ行ってきます。そこでも何かわかることがあるかもしれません。」
翌朝、カケルとカナメはミンジュの案内で出かけることにした。アスカ達も治療院へ向かった

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2-5 草香の江 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

ミンジュは、カケルとカナメをいったん、大路に住むミンジュの一族の館へ案内した。そこには、十人ほどが住んでいるという。
館はそれほど広くはないが、暮らすには十分な環境だった。豪華ではないが、綺麗に片づけられ、煮炊きも十分にできる厨もあった。
「ウンファン様の助力にて、この館を賜りました。船の荷役の仕事でなんとか暮らせております。」
ミンジュの父が、カケルの前に傅いて言った。
「そう恐縮されずとも良いのですよ。」
カケルはそう言って、ミンジュの父の手を取り立ち上がらせた。
「苦しい暮らしをされている方が数多くおられるとミンジュ殿から伺いました。何か良い解決方法はないでしょうか?」
カケルがミンジュの父に訊く。
「韓国からここへ辿り着く者たちは、ウンファン様をはじめ、われらも助力してなんとか暮らせるほどになっております。しかし、華国も争乱となったようで、戦火を逃れてからくる者たちが増えました。」
「その者たちも、この辺りには住んでおられるのですか?」
とカケルが訊ねる。
「華国の者は、まだ、この地には根付いておりません。」
「排除しているという事は?」とカケル。
「そのようなことはありません。むしろ、彼らが拒否するのです。ですから、ここへ辿り着いても、病などで命を落とすものがいると聞いております。ウンファン様はこれまでも尽力されてきましたゆえ、お話をされてはどうでしょう。」
ミンジュの父の言葉を受け、カケルはウンファンの館へ向かった。
ウンファンは、難波津周辺の船舶と産物を取り仕切る有力者で、今もまだ、ウンファンの一族が大きな力を持っていた。しかし、ウンファン自身は、かなりの高齢になったため、隠居し、最近ではほとんど館の奥の部屋で過ごしていた。
カケルがウンファンと会うのは久しぶりだった。
「われら一族が難波津へたどり着いた時と同じ。はるか海の向こうから現れ、言葉も通じない者に対しては、皆、警戒するもの。華国は、韓国を属国としていた時代が長く、韓国の者に助けられることは恥ずべき事と考えておるようで、なかなか助力できぬのです。そうした者たちが草香の江に入り込んでいる。」
ウンファンは目を閉じたまま話した。
「どうすればよいとお考えですか?」とカケルが訊ねる。
「どうするかを考えるには、まず、どうなりたいかを考える事が大事なのでは。」とウンファン。
それを聞き、カケルはしばらく沈黙した。
カナメとミンジュもウンファンの問いを考えた。
「それが判らぬ限り、解決はしないでしょう。」
ウンファンの言葉を胸に、カケルたちは館を出た。
館の前には賑わいがある。道行く人は、皆、着飾り笑顔に満ちている。
一行は堀江の庄へ行き、船を手配して、草香の江へ乗り出した。

草香の江は、その名の通り、岸辺に背丈のある草が生い茂っている。その草の向こうに、集落が見えた。
難波津や堀江の庄とは違い、目に入る家は質素なものであった。古い廃材を集めてきて、組み上げたような造りの家で、屋根には葦が覆っている程度。雨露はどうにかしのげるだろうが、冬の寒さには耐えられぬのではと思えるようなものだった。
「ここから北へ向かうと同じような家が並んでおります。」
船頭が言った。
それを聞いてミンジュが口を開く。
「私は一度、父とともに、その一つの集落に行ったことがあります。ぬかるみの中に建っているような家ばかりでした。大雨になれば居場所はなくなるでしょう。」
ミンジュの言葉を聞いている時、子どもらが家から出てきた。
粗末な衣服を身にまとい、籠を持っている。その籠にはわずかな野菜が入っていて、子どもは岸辺でそれを洗った。
草香の江は綺麗な水で満たされていたはずだったが、今は、流れもよどみ、きれいとはいいがたい状態になっていた。
「一度、堀江の庄へ戻りましょう。」
カケルたちは堀江の庄へ戻った。

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2-6 病の子 [アスカケ(空白の世紀)第6部 望郷]

一旦、堀江の庄に戻ったカケルは、港近くの館に入った。
そこは、かつて、タケルたちが過ごした宿だった。宿主はヤスという女性だった。もとの宿主のスミレから引き継ぎ、堀江の庄で一番大きな宿になっていた。カケルたちが宿に入ると、ヤスがすぐに対応した。
「本当に、これで良いのですか?」
とヤスが念を押すように訊いた。
一行は、野良着に着替えて、頭には布を巻き、正体が判らないようにしていた。
「これでないと困るのです。それと、米を手配いただけませんか?」とカケルが言う。
「ええ、それはすぐにも。草香の江の者たちに会うのでしたら、この者をお連れ下さい。」
ヤスはそう言うと、若者を引き出した。
「名はトハク。草香の江にいたのですが、ここで仕事をさせています。きっとお役に立つでしょう。」
ひょろりとした若者はぺこりと頭を下げた。
堀江の港から小舟で草香の江の対岸にある集落へ向かう。
船頭が低い声で話した。
「集落のあるところまで向かうのは危うい。彼らは難波津の者を警戒しています。少し離れたところに船を着けます。」
船頭は、岸に近いところに生えている葦の中に船一艘が通れるほどの隙間があり、器用に進んでいく。岸辺に柳の茂みがあり、船を着けた。
「ここでお待ちしております。何かあれば、これを。」
船頭はそう言って、小さな笛をカケルに渡した。
「これは・・。」
「おや、カケル様は覚えておられますか。これは、堀江の開削の際、カケル様が、われらに渡された呼子です。」
そう言って、船頭は頭巾を取り、顔を見せる。
「そなたは、ソラヒコ殿。達者であったか。」
「はい。今は、難波比古様のもとで、草香の江を見回っております。華国の者たちは戦火を逃れここへ辿り着いて、なお、厳しい暮らしをしております。幾度か、難波比古様にも上奏差し上げましたが、とにかく、彼らが聞き入れぬために、どうにもなりません。カケル様がお越しになると聞き、解決の手立てが見つかるやもしれぬと願っておりました。」
「やはり、あなた方もなんとかせねばとは思っておるのですね。」
「はい。彼らの暮らしは明日をも知れぬほど切迫しております。我らが人として生きることができたように、善き道をお示しください。」
「何ができるか、今はわかりませんが、とにかく、あの地に住む者たちが何を欲しているか、この目で見てまいります。ソラヒコ殿も力をお貸しください。」
カケルと、ミンジュ、カナメ、そしてトハクの四人は、船を降り、集落へ向かった。
春先に降った雨のせいか、道は泥濘んでいる。一番外れにある家屋が見えたところで一度草むらに身を潜めて様子を探る。
家の中から声が聞こえる。
トハクがじっと耳を澄ましてから、言った。
「子どもが病に罹っているようです。母親が泣いている。様子を見てまいります。」
トハクは、懐から布を取り出して、顔を覆った。
「顔が知れれば厄介なことになりますから。」
トハクはそう言うと、静かに家に近づき、外から様子を探り、すぐに戻ってきた。
「幼子の命が危うい。母親は気がふれんばかりに泣いております。」
「すぐに行きましょう。」
一行は、急いでその家に向かった。
引き戸を開けると、母親らしき女性が床に伏して泣いている。
トハクが華国の言葉で何かを言うと、その女性がはっと顔を上げ、トハクの足元に手をつき、短い言葉を繰り返した。
「助けてほしいと言っております。」とトハクが言った。
カケルは、先ほど、ソラヒコから渡された呼子を強く吹いた。
すぐに、小舟が家の前の岸に着くと、トハクは、幼子を抱え上げ船に乗せた。
「ミンジュ様、この母子を治療院へ。それから・・。」とカケルが言おうとしたとき、
「小舟はすでに手配しております。」
ソラヒコは急いで、小舟を西へ向けた。堀江の庄に着けるより、治療院の下へ付けたほうが早いからだった

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