SSブログ
アスカケ第5部大和へ ブログトップ
前の30件 | -

1-1 難波高津の港 [アスカケ第5部大和へ]

1. 難波津の港

この時代、海は現代よりも随分水位が高かった。 瀬戸内海ははるか内陸部まで入り込んでいて、難波(現在の大阪)は全て、海の中にあり、大和(奈良)の入り口にまで海が続いていた。 大和川と淀川が上流から運んで来た砂を、瀬戸の潮流が堆積し、現在の大阪城がある辺りにまで、半島状の陸地を形成していた。難波津はその半島の先端近くにあった。そして、それは徐々に北へ伸び、ついに、淀川・大和川の流れを堰き止めて、半島の北側に大きな「河内湖(草香江)」を作っていた。塩水だった河内湖は、徐々に淡水に変わり、まだ、水が少ない頃には周辺に大きな農地も広がり集落も形成されていたが、推移が上がるにつれて、農地を失い、厳しい環境へと変わっていた。

難波津の港には、いくつもの桟橋が伸び、大きな船がいくつも停まっている。そして、そこから少し上がった辺りには、大きな倉も立ち並んでいる。
そして、何処を見ても、多くの人夫が忙しそうに荷物を運んでいる。
港に数多く並ぶ倉の前には、西海や東国の品が並んでいて、取引が盛んに行なわれていた。
派手な着物を羽織っている女の姿もあちこちにあった。
船から降ろした荷物を倉に運んでいる者も居れば、倉から運び出した荷物を大きな荷車に積み、なだらかな丘を登っていく者もいた。どうやら、丘の向こうにも何かがあるようだった。
カケルもアスカも、見たことも無い多くの人が集まり、様々な服装、様々な品に目を奪われてしまった。
「いったい、どれほどの人が集まっているのでしょう。」
アスカは、余りの人の多さに少し気後れした様子で、カケルの手を強く握り、身を寄せて訊いた。
「ああ・・驚くほど人が居る。・・九重に住む者が、皆、ここへ集まったようだな。」
カケルとアスカは、立ち並ぶ倉の前を、ゆっくりと歩きながら、大和の様子を聞くことができないか思案していた。
倉の前で働く男たちは、カケルとアスカが目の前を通ると、一度手を止め、何か訝しげな視線を送ってくる。そして、何かひそひそと話しては、時には睨みつけた。
二人が、一つの倉の前を通り過ぎようとした時、どこからか声が聞こえた。

「カケル様?・・もしや・・カケル様ではありませんか?」
声の主は、投間一族の長、イノクマであった。
イノクマは、倉の屋根の上に座り、里の様子を眺めていて、珍しい格好をして歩いてくる二人連れを見ていた。そして、それがカケルたちと判り、慌てて、屋根の上から飛び降りると、カケルたちのもとへ駆けて来た。
「イノクマ様、こんなところでお会いできるとは・・・・」
カケルの挨拶が終わる前に、イノクマは、カケルとアスカの腕を掴むと、辺りに視線を送ったのち、倉の中に引っ張って行った。
イノクマが引っ張って入った倉は、吉備国の持ち物のようだった。
中には、米や稗、粟、黍が天井に届くほどに積み上げてある。取引した品物なのか、布や農耕具、剣等も置かれていた。
イノクマは、積み上げた荷物の奥へ二人を連れて行った。
「一体、どうしたのです?イノクマ様。」
カケルの問いにイノクマは周囲に人が居ない事を確認してから言った。
「カケル様、良くご無事で。」
「ええ、明石のオオヒコ様が難波津への船を見つけていただけて・・」
「もうとっくに大和へ行かれているものと思っておりました。」
「明石で少し仕事を・・・」
イノクマは、カケルの話を制するように切り出した。
「カケル様は、到着されたばかりで、まだ、ご存じないから仕方ありませんが、港を無事に歩けたのは奇跡です。」
「いったい、どういうことです?・・怪しげな男たちの姿もありませんし、兵もおりません。」
イノクマはふっとため息をついてから、言った。
「つい、先日、兵を乗せた船が港に入り、人夫たちと小競り合いが起きたのです。もともと、難波津は、国々の荷を集め、大和へ送るための場所。それぞれの国の倉もあり、船を着ける場所も定まっております。そこへ、いきなり兵を乗せた船が現れ、勝手な振る舞いをしたのです。」
「兵を乗せた船というのは?」
「判りません。どうやら、ここより南、紀の国辺りから来たようでした。」
「不慣れで、兵達も疲れていたのではないのですか?」
「まあ・・だが、余りにも傍若無人な様子であったために、人夫たちは腹を立て、兵達に突っかかっていきました。その際、人夫が一人切られたました。兵達はすぐに船に引き上げ、港を離れました。」
「切られた人夫は?」
「あえなく、死にました。それでなくても、ここには兵を恨む者も少なくありません。東国の兵が里を襲った傷は、まだ残っておりますから。ですから、兵と判れば命を奪われても仕方ないのです。そんなところに、大きな剣を腰に付けたカケル様のお姿を見て、肝を冷やしました。」
イノクマの説明で、ようやく事態を理解したカケルとアスカだった。

1-1光.jpg

1-2 摂津比古 [アスカケ第5部大和へ]

2. 摂津比古
イノクマは、カケルとアスカを自分たちの宿に案内し、夕餉を伴にした。
「それにしても、ここでカケル様たちにお会いしようとは・・・あれから、何度か、鞆の浦から難波津を往復し、途中、明石にも立ち寄りました。カケル様たちが淵辺で水路を作られているという話を、港の者達も楽しげに話して聞かせてくれました。」
「そうですか・・・ええ・・・何とか、水路も出来ましたし、淵辺の里も蘇る目処も付きましたので、今朝、明石を発ちました。・・・ようやく、アスカとの約束を果たすことが出来そうです。」
「では、大和へ入られるおつもりですな?」
「ええ、ですが、戦がおきていると聞きました。」
カケルの曇った顔を見て、イノクマが言った。
「難波津の、摂津比古様に相談するのが良いでしょう。今や、ここ難波津こそ、都に相応しいと言う者が居るくらいです。どなたが皇君になられるか、摂津比古様の心次第とも聞きました。」
「それほどまでの力をお持ちなのですか?」
カケルは驚いた。
「はい。ここ難波津の荷が無ければ、都の暮らしも成り立ちませんゆえ、大和の豪族たちも、摂津比古様の機嫌を損ねる事はできぬのです。明日にも、摂津比古様のところへ使者を送りましょう。何か、お力になっていただけるはずです。」

翌朝、イノクマは、摂津比古のところへ使者を送った。しかし、摂津比古は不在との事であった。
「山背(やましろ)の地へ赴かれているようです。お戻りになるのはまだ先との事です。まあ、すぐにも会っていただける筈ですから、お帰りを待ちましょう。」
使者からの言葉を、イノクマはカケルたちに伝えた。
「摂津比古様の館はどこにあるのですか?」
カケルの問いに、イノクマは、指差して答えた。
「ほら、あそこ。あの高台に高楼が見えるでしょう。あそこが館です。」
指差す先には、松林が広がっていたが、その先には、高楼が見えた。
「私も一度だけ、挨拶に伺いました。・・いや・・驚くばかりの雅な館です。・・こここそが都だと噂されるに違わぬほどのものでした。何でも、海を越えてきた渡来人がすべて作ったとのことです。まるで夢の中に迷い込んだようでした。」

カケルとアスカは、摂津比古が戻るまでの間、イノクマを手伝い、港に留まる事になった。
難波津には毎日のように各地の産物を載せた船が着く。船が着くと、皆が手伝い、荷を下ろし、蔵へ運び込む。また、蔵から荷を運び出し、河内の海に浮かぶ船に載せ、大和へ送る。ここでは、どこの国の者かは関係なく、協力し合い、少しでも多くの荷を動かす事に熱心であった。
イノクマは、カケルとアスカは大事な客人だといって、仕事などしなくても良いと言ったが、カケルたちは、世話になる以上何か仕事をせねばと言い、人夫たちと一緒に過ごしていた。
カケルは、男達に混じり、荷物を運んだ。強靭な体のカケルは、人夫の誰よりも多くの荷を担ぎ、運んだ。人夫達はすぐにカケルを認め、誰もがカケルを頼るようになった。
アスカは、女達と伴に、食事の支度や身の回りの仕事をした。アスカは、初めて見る食材に戸惑いながらも、女達から熱心に料理を教わった。数日で、アスカは誰よりも手早く美味しい食事を作るようになった。

摂津比古が戻ったのは、カケル達が難波津に到着して、二十日ほど経ってからだった。
夕餉が終わる頃、摂津比古からの使者が、イノクマの宿に来た。
使者は、葦で作った大きな笠を被り、面をつけていて、黄色い衣服を纏っていた。
「頭領が、お会いしても良いと仰せです。明朝、お二人で館へお越し下さい。」
使者はそれだけを言うと、すぐに帰って行った。

翌朝、カケルとアスカは、イノクマが用意してくれた衣服を身につけ、摂津比古の館へ向かった。
摂津比古の館は、港を見下ろせる高台に建っていて、周囲をぐるりと石積みが囲んでいた。大門まで来ると、瀬戸の大海と、河内の中海の両方が見渡せた。行き来する船が全て手に取るようにわかる場所であった。
大門の門番に、面会の旨を告げると、館の中から、昨日の使者が姿を見せた。
昨夜と同じく、黄色い衣装に面をつけていた。その使者は、静かに頭を上げると、こちらへとばかり手を差し伸べ、二人を館の中へ案内した。
館の中は、見事な作りだった。大門を入るとすぐに、大きな回廊が屋敷を取り囲んでいる。回廊の中は、玉砂利が敷かれ、中央に、石畳が真っ直ぐに伸びている。その先には、大屋根をもつ館が建っている。建物は全て朱に塗られていた。館の後ろには三層の高楼も聳えている。
カケルとアスカは、見た事も無い作りの屋敷に圧倒されていた。
「こちらでお待ち下さい。」
先ほどの案内役が始めて言葉を発し、二人を広間に入れた。木板を貼りつめた床は、きれいに磨かれ、壁には、韓国のものと思われる壷や刀剣が飾られている。一段高いところに、玉座が二つ置かれていた。そして、玉座の前には、鹿の皮が何枚も敷かれている。
「お待たせしましたな。」
広間全体に響き渡る太い声とともに、金色の刺繍が施された派手な衣服を纏った、大柄な男が現れた。

1-2播磨灘.jpg

1-3 面会 [アスカケ第5部大和へ]

3. 面会
大柄な男は、玉座には座らず、床に敷かれた鹿皮の上に胡坐をかいて座り込んだ。そして、「さあどうぞ」とばかり、二人に手を広げて見せた。カケルとアスカは、その男の前に並んで座った。
「私が、ここの統領、摂津比古と申す。どうだ、難波津は。面白いところだろう。」
満面の笑顔で、摂津比古は二人に問いかけた。
カケルとアスカは、深々とお辞儀をし、挨拶をした。
「私は、九重から参りましたカケルと申します。こちらは、アスカです。」
「ええ、使いの者からあらかた聞いておる。東国へ向っているとか・・・大和へ入るつもりか?」
「はい・・アスカの父様が居られるのです。どうしても、一目お会いしたいと思っております。」
カケルの返答に、摂津比古はアスカの顔を見て言った。
「そなたの父とはどなたかな?」
アスカは、一度、カケルの顔を見てから答えた。
「葛城の王と聞いております。・・・屋代島にて、リュウキ様より教えられました。」
摂津比古は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに平静を取り戻し言った。
「ほう・・葛城の王とは・・・逢って何とする?」
アスカは答えに困った様子だった。逢いたいとは思っていたが、どうすると問われ答えは無かったのだ。すぐにカケルが答えた。
「私は、アスカを妻としたいと考えております。それゆえ、父様にお会いし、夫婦になる事を許していただきたいと思っております。」
摂津比古は、カケルに訊いた。
「夫婦になるために、わざわざ九重の地から参ったというのか?・・母様はどうした?」
カケルは、屋代島でリュウキから聞いた話を摂津比古に話した。
「昔、東国から韓に向かう船に、須佐名姫と云うお方が乗られていた。そのお方は、王の命により韓へ輿入れされるとの事でしたが、葛城王との契りを交わして居られ、お腹には子がいたそうです。それを知ったリュウキ様が、東国の船から逃がし、匿われた。須佐那姫は、屋代島で無事に子を産み、リュウキ様と伴に暮らして居られたそうですが、東国の兵に見つかり、敢え無く命を落とされたのです。アスカは、須佐那姫の手で船に載せられ、ヒムカの浜に流れ着いたというわけです。」

一通り、話を聞いた摂津比古は、じっくり眼を閉じて何か考えているようだった。
「葛城王がそなたの父と示す証拠はあるのか?」
アスカは、首飾りを取り出して言った。
「これは、母が私に持たせたもの。これが父と母との契りを示すものと思っております。」
「見せてみよ。」
アスカは、摂津比古に首飾りを渡した。摂津比古は首飾りを手にすると食い入るように見つめた。
「確かに、この首飾りにある紋様は、葛城王の紋様に相違ない。・・そうか・・事情はわかった。だが、すぐに葛城王に逢わせる訳にはいかぬぞ。」
摂津比古の言葉は、意外だった。不思議な顔をしている二人に、摂津比古は言う。
「そなたたちも存じていると思うが、今、大和は皇君が崩御され、次の世を廻り、各地で戦が起きておる。・・本来ならば葛城皇こそが、次の皇君になられるべき御人なのだが、それを拒む豪族が数多いる。葛城王は戦を嫌い、今は、身を隠されておる。」
「次の皇君が葛城王?」
「ああ、崩御された皇君の弟君であり、思慮深く、民を大切になさるお方なのだ。だが、葛城王は妻を持たれず、御子も居られぬ。ゆえに、皇君にはならぬと申されているのだ。それに、我が難波一族は、王の姻戚でもある。葛城王の妹君は我が妻なのだ。この時期、わが地より、葛城王の元へ使者を送れば、豪族たちは一層いきり立つであろう。」
「戦の火が一層大きくなると言われるのですね。」
「ああ。我が難波一族が葛城王を次の皇君にと考えているのは、豪族たちも知っておる。故に、われらの手の者が大和へ入れば無事には済むまい。・・ましてや、葛城王の娘・・・いや、姫とその夫となるべき者であればなおの事。・・言わば、そなたたちは、いずれは、皇君になるお方かも知れぬと言う事になるのだ。」
カケルとアスカは、摂津比古の話に驚きを隠せなかった。
アスカは、ただ、自分が何者か、父や母は誰なのかを知りたかっただけであった。だが、父娘の関係を定めることは、この国を背負う定めを受け入れる事になるとは思いもしなかった。
「私はただ・・父に一目お逢いしたかっただけ。ですが、・・・このまま、逢わずに九重へ戻ります。・・皇君になられるようなお方だと判れば、とてもお会いする事など・・・」
アスカの言葉に、摂津比古は切なげな顔で言った。
「そうはいかぬな。私も、そなたが葛城王の姫と知ったからには、このまま知らぬ顔は出来ぬ。・・まあ、しばらく、ここに居られよ。時が来れば、道も開けよう。」
「時が来れば・・とは・・いつの事なのでしょう?」
アスカはすっかり落胆した表情だった。摂津比古は、落ち着いた声で言った。
「カケル殿、そなたにはわかるであろう。」
カケルは、摂津比古の話を聞き、自分達が置かれている状況を悟っていた。もはや、自分たちの意思で動く事ができぬ境遇になっている。もっと早く、大和へ着いていれば、事態は変わっていたのかもしれない。この後、皇君が定まるまでは、大和へ入らぬほうが良いとも思った。
「アスカ、ここは摂津比古様がおっしゃるとおりにしよう。間違いなく、葛城王が、アスカの父と判ったのだ。今しばらく、難波津に身を置いて、時を待とう。」

1-3高楼.jpg

1-4 面をつけた男 [アスカケ第5部大和へ]

4. 面をつけた男
「今しばらく、この館に留まられよ。」
納得した表情の二人に、摂津比古が言った。
「いえ・・我らは、鞆の浦のイノクマ様のところへ戻ります。」
カケルが立ち上がると、摂津比古は制するように言った。
「先ほど、イノクマの許へは、使いを出し、しばらく、わしが預ると伝えておいた。・・葛城の王に対面できるまで、ここに居てもらわねばならぬ。アスカ様には、王家の姫に相応しい所作を身につけていただかねばならぬ。カケル殿も、いかほどの者はわしが納得する者でなければ、葛城王に推挙する事もできぬ。・・・まあ、悪いようにはせぬ。わしを信用されよ。」
摂津比古はそう言うと、傍に控えていた者に目配せをした。すると、広間の横の扉が開き、数人の女人が入ってきて、アスカの手を引いて連れて行こうとした。
アスカは最初抵抗したが、カケルがアスカの背を撫でて落ち着かせると、女人達に手を引かれて、広間を後にした。
アスカが広間を出ると、摂津比古は、酒を運ばせ、先ほどの鹿皮の上に再び胡坐をかいて座った。
「さあ、カケル殿。」
カケルは勧められるまま、横に座り、杯を持った。
「もはや、大きな渦が動き始めてしまったようだ。足掻いても逃れられぬものもあるだろう。どうだ、しばらく、わしの片腕として働いてくれぬか。」
「私に何が出来ましょう?」
カケルの答えに、摂津比古はじっと考えた末に言った。
「そなたは、この先、どうしたいのだ?葛城王に逢い、アスカ姫を妻としたのち、どうする?」
カケルは、ナレの村を出てから、自らの生きる意味を問い、自らに求められる事に全力を尽くしてきた。もちろん、常人にはない大きな力を持っていることで、為し得た奇跡もあったが、この難波津にそれを必要とする事などないと思っていた。
カケルは答えに窮している様子を見て、摂津比古は言った。
「まあ良かろう。しばらく、傍でわしの仕事を見ておれ。きっと、カケル殿の力を必要とする事が見つかるだろう。そして、その先には、カケル殿にしか出来ぬ事が見えてくる。」
摂津比古は、酒を杯に注ぎながら大きな声で言った。カケルは、戸惑っていた。
「その顔は、事態は理解したが、わしは信用できぬと言いたげだな。まあ、それくらい用心深いほうが良い。この先、都へ行こうと思うなら、容易く人を信用せぬほうが賢明だろう。」
摂津比古は、カケルの胸中をずばりと言い当てていた。カケルは言う。
「一つ、お伺いして宜しいか?」
「おお、答えられるものは何でも話してやろう。」
摂津比古は少し酔っているようだった。カケルは、傍に居る面をつけた男を見て言った。
「使いに来た者も、あそこに控えている者の、皆、面をつけております。あれは一体・・。」
そこまで言うと、摂津比古は、ふうと息を吐き出して、少し残念な顔をして言った。
「カケル殿も、あの者を見て不気味に思われるか?」
「いえ・・・そうではありません。面をつけているのは、何か事情があるのかと・・・。昔、九重で、手下を黒尽くめの服装に面をつけさせ、手下として使い、命さえ軽んじ、野心に満ちたラシャ王という男と戦った事があり・・・もしや、それと同じのかと・・・」
摂津比古は少しふらつく足で立ち上がると、控えていた男の傍に行き、耳元で何か囁いた。男が、こくりと頷くと、摂津比古は、「済まぬ」と小さく言った。すると、面をつけた男はするするとカケルの傍に近づき、正面を向くと、そっと、面を取った。カケルはその顔を見て、うっと小さく漏らし田が、じっと男の顔を見つめた。男の目は、最初険しかったが、カケルの視線を感じて徐々に柔和になった。
「もう良かろう。さあ、戻れ。済まなかったな。」
摂津比子が言うと、男は、摂津比古に低く頭を垂れたまま言った。
「いえ・・カケル様は、私の顔を真っ直ぐ見られました。忌み嫌う事無く、いたわるように優しい眼差しでした。・・何故か、心の中にほっとした者を感じる事ができ、嬉しゅうございました。」
「ほう・・」
男の言葉に、摂津比古は、驚いた表情でカケルを見た。カケルの目には涙が浮かんでいた。
摂津比古は再び、座り込むと、杯を手に少し沈黙した。
「カケル殿、この者たちを見て、どう思ったのだ?」
「・・はい・・思ったとおり、悲しき定めを背負われていたのですね。・・。」
「実はな・・このような者達を、ここでは念ず者(ねんずもの)と呼んでおる。あの高楼の下の小屋に何人かいる。ここに居る者の中には、病が進んだ者もいる。少しずつ肉が落ち、骨が見え、動けなくなるようだ。」
「やはり、そうでしたか。・・面をつけたのは?」
「あれは、わしの指図ではない。彼らが望んでつけたのだ。醜い顔を見て、忌み嫌い、石を投げる者さえ居る始末だ。彼らは、港の者たちに、そういう不快な思いをさせぬように気遣っているのだ。」
カケルは、摂津比古の心の底を見た気がした。
「何か、直す手立ては無いのですか?」
「一度、韓から来た薬師に診させようとしたが、忌み嫌い、まともに見ようともしなかった。今は、毎日、綺麗な水で身体を洗い、布で包み、痛みを和らげる程度しか出来ぬ。わしの力が足りぬようだ。済まぬな。」
摂津比古は男に声をかけた。控えていた男は啜り泣きをしていた。

1-4弥生大屋根.jpg

1-5 八百万の神 [アスカケ第5部大和へ]

5. 八百万の神
「判りました。明日から、私は摂津比子様のお供をさせていただきます。」
カケルの気持ちは固まった。
「おお、そうか。良し、ならば、明日の朝、わしと供に河内の内海へ船で出るぞ。良し、良し。これは面白くなりそうだ。・・ときに、カケル殿、その布包みはなにか?」
摂津比古は、カケルの脇に置かれた布包みを指して訊いた。カケルは、布包みを手に取ると、広げて、剣と弓を取り出した。
「難波津の港では先ごろ、兵が人夫を切り殺すという痛ましい事件が起きたそうで、腰に剣をつけて歩くのは危険だとイノクマ様から聞き、こうやって包んでおりました。」
「その剣を見せてくれぬか?」
カケルは、摂津比古に剣を手渡した。摂津比古は、剣を手にして、じっと造作を見ていた。
「見たことも無い形をしておる。鞘は、鹿皮か。見事な作りだ。カケル殿はこれをどこで手に入れられた?」
「この剣は、九重のナレの里で作ったものです。鞘は、父と母が拵えてくれました。」
「ほう・・作ったと言ったが、ナレには刀鍛冶がおったのか?」
「いえ、私自身で作ったものです。古き書物を読み、砂鉄を集め、蹈鞴でハガネを作り、剣にしたのです。・・もちろん、里の者も手伝ってくれました。」
「何?そなたが自分で?・・だが、ナレの里を出たのは、十五の年と聞いたが・・・その前に作ったというのか?」
「はい・・・ハガネ作りまでは尊様たちに力添えもあり、何とかできました。そこから、剣には叩き伸ばし、一昼夜かけて出来ました。」
カケルの言葉を聞き、摂津比古は剣を抜こうとした。しかし、ビクともしない。
「一体、どうしたことだ。抜けぬぞ。」
摂津比古はそう言うと、カケルに剣を戻した。
「この剣は、私にしか抜けぬのです。」
カケルはそう言うと、剣を奉げ眼を閉じ、祈るような仕草をして一気に引き抜いた。
カケルは剣を右手にかかげた。ほのかに光を発しているように見える。
「その剣・・何故、光を放っておるのだ。まるで何かが宿っているように見えるが・・。」
摂津比古は驚きを隠せなかった、
「これを作り上げる時、遥か昔、遠く韓の国から、九重の果てまで我が一族を導き、里を作られた尊様の御霊が、じっと私をお守りくださいました。そして、完成した時、大きな稲妻に打たれたのです。・・ナレの里の巫女様は、この剣には八百万の神が宿っていると申されました。」
「なんと、高貴な光だ。見ているだけで心が満たされていく様でもあり、己の愚かさを教えられるようでもある。畏れ多き力を秘めておる。・・・わしには強すぎる力のようだ。・・・済まぬが・・鞘に収めてくれぬか。」
摂津比古は、剣の光に当てられ、やや疲れた表情を見せた。
「カケル殿が、邪馬台国を蘇らせ、アナト国の新しき王を助け、さらには伊予国にも安寧をもたらされたという話は、この者から聞いていた。さらに、瀬戸の大海に潜む魔物をも倒したと聞いた時には、あまりにも出来すぎた話で、おそらく、半分は作り話ではないかと疑っていたのだが・・その剣を見て、納得した。そなたは、八百万の神に守られておるのだな。」
「八百万の神々の力はいつも感じております。おそらく、こうして摂津比古様とお会いできたのも、きっとお導きに違いありません。」
「ほう・・神のお導きか・・昔、同じような事を聞いた事があるな・・」
摂津比古は小さく呟くと、幼い頃の、葛城王との出会いを思い出していた。摂津比古は、に生まれた。父と伴に山中で、獣を追う毎日だった。その日は、大和の山中まで足を伸ばしたが、獲物が取れないばかりか、父が川に落ち怪我をして動けなくなった。少年であった摂津比古は、助けを求め、ひとり川を下り、川辺にいた葛城王と出遭ったのだった。それ以来、摂津比古は葛城王に仕え、この難波津を取り仕切るまでになった。あの時、葛城王と出会っていなければ今日の自分は無かったと思っていたのだった。

「よし、酒と食事を運べ。今宵は気分が良い。宴を楽しむぞ!」
摂津比古の言葉を聞き、先ほどの男がさっと下がって行った。しばらくすると、何人もの女人が魚や飯、果物が盛られた大皿を抱えてやってきた。そして、その女人が下がると、煌びやかな衣装で、薄く透けるような羽衣をまとった娘が、数人の女人に付き添われて広間に顔を見せた。
「おお、これは美しき哉。さすがに、葛城王の姫。都のどの女人よりも美しいぞ。」
摂津比古の言葉に、カケルは目を疑った。目の前に居る高貴な雰囲気を持つ娘は、アスカだったのだ。伴っているのは、摂津比古の奥方と娘たちであった。
「本当に、驚きました。髪を漉き、わずかに紅をいれただけですよ。真白き肌が天女のごとく美しい。これなら、兄者も喜ばれまする。」
奥方はそう言うと、摂津比古の隣に座った。幼い娘達も、摂津比古の周りに座った。
カケルは、アスカに見とれてしまっていた。
「カケル様、それほど見つめないで下さい、恥ずかしくて溜まりません。」
アスカの言葉に、ようやくカケルは我に帰り、真っ赤になった。アスカは、そっとかけるに寄り添うように座った。
「カケル殿、そなたももう少しまともな衣装にせねば釣り合いが取れぬな!」
摂津比古の言葉に、皆、大笑いした。カケルは、摂津比古にどこか、故郷の父の姿を重ねていた。

1-5衣装.jpg

1-6 草香江(くさかのえ) [アスカケ第5部大和へ]

6. 草香江(くさかのえ)
「護衛として、着いてまいれ。衣服も用意した。剣と弓も忘れるな。」
摂津比古は、宴の終いにそう言って、寝室へ下がっていった。
カケルとアスカには、それぞれに部屋が用意された。
アスカの部屋は、摂津比古の奥方の隣、館の一番奥であった。
「葛城王の姫である。いずれ、王に面会できるまで、守らねばならぬ。」
摂津比古はそう言って、館の中でも最も安全な場所に、アスカを置いたのである。
カケルに用意された部屋は、高楼の中段にあり、窓を開けると、夜の闇の中、港のあちこちに灯された篝火の明かりが見えた。大きな運命の歯車が動き始めている。カケルは、港の明かりを見ながらぼんやりと考えていた。

翌朝、摂津比古は、カケルを伴って、河内の内海へ、船を漕ぎだした。
「この衣服は少し目立ちすぎはしませんか?」
カケルは、真っ赤に染められ、ところどころに金糸の刺繍が入った衣服を気にした。
「いや、よく似合っておる。それは、若い頃、わしが着ていたものだ。葛城王をお守りする役を仰せつかっていたのだ。そなたも、護衛ならば当然であろう。」
もともと、身丈の大きなカケルが、派手な衣装を纏い、さらに大きく見えた。
船は、静かな海を滑るように進んだ。
「これが、河内の内海だ。波も無く静かだろう。あそこに見えるのが生駒の御山だ。・・わしはあの山中の里で生まれた。・・山猟師の父に着いて、野山を駆け回ったものだ。」
船は、生駒山を目指し進んだ。
「どこへ向かわれるのですか?」
「もうすぐだ。ほら、そこに見えてきた。」
船が向かったのは、葦の原が広がった大和川が河内に注ぐ口だった。
川縁には、小さな小屋が幾つか建っていた。焚き火の煙も見えていた。船が近づいてくるのに気付いた者が、小屋の中に声をかける様子が見え、すぐに、小屋の中からばらばらと数人が現れた。船が岸に着くと、みな、跪き、摂津比古を迎えた。皆、館で見た、あの黄色い衣服を纏い、面をつけていた。<念ず者>たちがここには住んでいるようだった。
「統領様、変わりはありません。」
「そうか・・気を抜くな。」
摂津比古は厳しい声でそう言うと、生駒山の方角をじっと見つめた。
その様子から、ここは、難波津を守るための砦であることは、カケルにも容易に見当がついた。
「皆に、紹介しよう。・・この者は、カケルと言う。九重の果てからはるばる難波津に参った。我らの知らぬ大いなる力を持っているようだ。しばらく、わしの護衛をする。良いな。」
摂津比古の言葉に、皆、深く頭を下げた。
「カケルと申します。」
男達は、カケルをチラリと見ると、カケルの衣服に驚いた様子だった。
「統領様、あの服は・・。」
一人の男が呟いた。摂津比古はにやりとして、言った。
「気付いたか。そうだ、わしの服だ。・・立派なものだ。護衛役にはちょうど良かろう。」
振り返った摂津比古に、カケルは訊いた。
「摂津比古様、ここに居られる者達は・・やはり、あの病を?」
「ああ、だが、皆、何か役に立ちたいと申してくれてな。・・・それでここらに住んでおる。」
「ここは、難波津の防人たちの住まいなのですね?」
「ああ、そうだ。ここより先、生駒山まで一里ごとに、数人が暮らしておる。何か、あれば、すぐに、館に知らせが届く。この者達が居てくれるからこそ、難波津で安心して仕事が出来るのだ。」
摂津比古は、そう言うと、傍にいた者に訊いた。
「どうだ、皆は変わりないか?」
「痛みが強くなり、動けなくなった者が一人。介抱しておりますが・・なかなか・・。」
「そうか。では、その者は、あとで館へ連れてまいれ。皆、大事にせよ。」
摂津比古は、そう言うと、跪いている念ず者たちの肩を撫でた。
「さあ、戻ろう。」
摂津比古は船に乗った。カケルは、面をつけて者たちに頭を下げ、摂津比古に続いて船に乗った。舟は、葦の原を抜けて、河内の海に出た。
摂津比古は漕ぎ手に何か言うと、舟は止まった。
「ここらは、草香江(くさかのえ)と呼ばれておる。昔は、ここにも里があったのだ。だが、度々、水が溢れ、ここら一体が沼のようになった。いまも、少しずつ水嵩が増している。・・何とかせねばならないが・・・」
摂津比古の言葉どおり、水際に棄てられた家が建っていた。水の中を覗き込んでみると、人家の跡も見えた。
「摂津比古様、私は、明石の里で水路作りを手伝いました。そこも度々水害に遭い難儀をしておりました。・・何か、出来る事があるかもしれません。」
「ほう・・そうか・・。」
「河内の内海は、瀬戸の大海とどこでつながっているのでしょう?」
摂津比古は少し考えてから、
「よし、見てみるか。・・舟を進めよ。」
二人が乗った舟は、難波津の先へ進んで行った。

1-6香江.jpg

1-7 病 [アスカケ第5部大和へ]

7. 病
摂津比古とカケルは、難波津の港を過ぎ、さらにその先に向かった。
「ここが、内海と大海を繋ぐところだ。」
摂津比古が指差した先には、確かに、川のような流れが見て取れた。しかし、そこは、見渡す限りの干潟となっていて、流れを堰き止めている。
「ここの流れを広げられれば、内海の水も外へ出て行くはずですね。」
カケルの言葉に、摂津比古が溜息交じりに応えた。
「以前、ここを少し掘り下げられぬかとやってみたのだが、なにぶん、この干潟、溝をつけてもすぐに埋まってしまう。足を踏み入れると腰まで埋まるところもある。難儀なうえ、掘り進めても、すぐに、流れで砂が溜まり、一潮で埋まってしまうのだ。以前は、ここももう少し水が流れていたのだが・・また砂が増えたようだな。」
カケルはじっと流れを見ていたが、とても掘り下げる事はできないと感じた。
「しかし、このままでは、ますます内海の水が増え、そのうち、この辺りは人が住めなくなるだろう。何とかして、水を吐き出させねばならぬのだが・・・。」
摂津比古とカケルは、一旦、難波津の館に戻る事にした。

 アスカは、翌日から、奥方に付いて、行儀作法を身につける日々となった。女人たちが、朝から、アスカに衣装を着せ、食事や所作を手取り足取り教えた。
「そなた、韓の言葉をわかりますか?」
「いえ・・」
「都には、遥か海を越えて渡ってきた韓の者たちが多く、都人(みやこびと)は、韓の言葉を話すことが出来るそうです。せめて、韓の文字を知らねばなりません。」
奥方は、そう言うと、部屋から幾つかの巻物を携えてきた。一つを解き、アスカの前に広げた。
「あら・・これは・・・。」
アスカは驚いた。全てではないが、多くは、カケルから教わった古の言葉と同じだった。カケルの祖先も、韓から海を渡り九重に住み着いたと聞いていた。
「奥方様、この文字なら、読めます。カケル様から、随分、教わりました。ええ・・読めます。」
アスカは巻物を手に取ると、声に出して読み始めた。奥方は驚いた。自分さえ、まだ半分も読めずにいたのだ。読みながら、アスカはふと思いついた。
「奥方様、こうした巻物は他にもあるのですか?」
「ええ・・蔵にいけばたくさんあります。いずれも、昔、韓の船が運んできたもの。」
「それを見せていただけませんか?」
「どうしようと言うのです?」
「・・・カケル様は、同じような書物から、病に効く薬草を探し当てられました。もし、そうした書物があれば、病を治す手立てが見つかるかもしれません。」
奥方は、アスカの考えに応え、館のはずれにある蔵へアスカを連れて行った。高床の蔵に入ると、幾つかの棚に、たくさんの巻物が積まれていた。その日から、アスカと奥方は、巻物を一つ一つ開いて、病に関わる記述がないか調べていった。

館に戻ると、アスカが幾つかの巻物を手にカケルのもとへやって来た。
「カケル様!」
「どうしたのだ?」
「・・実は・・あの者たちの病を直す手立ては無いものかと・・蔵にある書物を調べておりました。・・ですが・・書かれた文字が難しくて・・・カケル様ならばお分かりになるのではと・・。」
アスカが、病に関わると考えた巻物をカケルに手渡した。
カケルは、幾つかを広げて見た。
「・・これは・・韓の言葉ではないようだな・・似ているが・・少し違う。・・おそらく、隣国の書・・漢という国のものではないか?」
カケルはそう言うと、他の巻物も広げ始めた。
「部屋に持っていこう・・じっくり見なければ判らぬ。」
カケルはそう言うと、アスカが運んできた巻物を全て抱えて、自分の部屋に持っていった。アスカもカケルの後を付いて、部屋に入った。二人は、巻物を一つ一つ広げ、比べ、韓の言葉と同じ文字を手がかりに、巻物に記された文字を読み解いていく。時折、奥方が顔を出し、様子を見ると、食事や灯りを部屋に運ばせた。

「カケル様は、素晴らしき知識をお持ちのようですね。」
奥方は、カケルとアスカの様子を摂津比古に伝えながら、感心したように言った。
「ああ・・おそらく、カケル様とアスカ様は、いずれ、この国を治めるお方になるであろう。」
「では・・その事を葛城王様へもお伝えせねば・・・きっとお喜びになられるでしょう。」
「ああ、そうしよう。きっと葛城王も、お二人の存在をお知りになれば、考えもお変わりになるやも知れぬからな。」

カケルとアスカは、夜を徹して、巻物に取り付いて調べ続けた。
東の空が白み始めた頃、カケルはようやく一つの記述に辿りついた。
「アスカ、おそらくこれが病の治し方だろう。少し判らぬところもあるが・・爛れた肉を癒すと書かれている。・・・試してみないと判らないが・・今は、これしか判らぬ。」
「何と書かれておるのですか?」
カケルは、アスカに記述されている内容を聞かせた。

1-7干潟.jpg

1-8 治療 [アスカケ第5部大和へ]

8. 治療
「奥方様、お願いがございます。」
アスカは、カケルと見つけた治療法を携え、奥方の部屋へ行き、着替えを済ませたばかりの奥方を前に、治療方法について説明を始めた。
それを聞いた奥方は、戸惑いながら言った。
「誰かで、試してみないことには・・・」
脇に控えていた、<念ず者>が言った。
「昨日、病が進んで館へ運ばれてきた者が居ります。・・介抱せねばならぬところです。その者に頼んでみましょう。」
すぐに、アスカは、女人を何人か集め、竹籠を抱えて、館を出た。
「どこに行かれるのですか?」
「・・治療の為の薬草を探すのです。この時期ならば、きっとどこかに生えているはず。」
女人の一人が、それならばと案内をした。館を出て、北側の斜面を降りていく。河内の内海が朝日を浴びてきらきらと輝いて見えた。
「ほら、あそこです。・・我らも幾度かここで草摘みをしております。」
すぐに、アスカは草叢へ分け入った。姫が先に草叢に入るなど、女人達は慌てたが、アスカは構うことなく、どんどんと入っていく。
「何という草なのですか?」
「スミレです。紫の花を咲かせているはず。」
アスカはそういうと、必死に足元の草を分けて探した。付いてきた女人たちも、アスカ同様、必死に探した。
「日陰に咲いているはず。」
「あ・・ありました!」
一人の女人が、土手になっている場所に花を見つけた。アスカは草を分けつつ、声のするほうへ走った。
「ええ・・これ・・これです。・・篭いっぱいに摘みましょう。」
すぐに手分けして摘み始め、あっという間に篭いっぱいになった。それを抱えて館へ戻った。
「次は何をなさるのですか?」
「積んだ草は、天日に干します。一日ほど干してから、煎じ薬を作ります。」
皆で手分けして、館の庭に広げた。天火に干すと、徐々に小さくなっていく。
「これだけでは・・足りませんね。・・もっと摘んで来なければ・・。」
それを聞いた女人が言った。
「花摘みなら、娘子にも手伝わせましょう。さあ、行きましょう。」
そう言うと、数人の女人が連れ立って、港のほうへ出て行った。
「他には?」
アスカは少し考えてから、
「それでは・・白い布を集めましょう。・・あの方たちの身体を綺麗に拭き清めなければなりません。たくさんの布が必要です。」
吹き清めると聞いて、女人達はざわめいた。これまで、触れると自らも病に罹ると聞いていた。
「吹き清めると・・・あの者たちの身体に触れるのですか?」
女人の一人が恐る恐る訊く。
「ええ・・熱いお湯を沸かし、綺麗に拭いて差し上げるのです。そうして、清潔にする事が病を治す手立てなのです。」
「しかし・・・。」
女人たちはたじろいでいる。その様子をアスカはすぐに理解した。
「まずは、お一人の方を試しに私がやってみます。・・効果が無いようなら別の手立てを考えます。とにかく、布がたくさん必要なのです。」
女人達は、とりあえず、港へ行き、手に入る白い布を探す事にした。

翌日には、件の<念じ者>が、仲間の手で、館の中庭に運び込まれた。摂津比古や奥方、カケルも見守る中、いよいよ治療が始められた。竃には、大甕に大量の湯が湧いていた。
「さあ、黄色い布を解いて、爛れている肌を見せてください。」
アスカは、手元に、用意した布と湯を入れた甕を置いた。湯は火傷するほどの熱さだった。
その<念じ者>は、爛れた両方の腕をそっと出した。アスカが、手を差し伸べようとしたところで、一人の娘が進み出た。
「私にやらせてください。」
その娘は、ナツという名だった。幼い時、ナツの父も母も、同じ病で命を落としていて、摂津比古の奥方が、引き取って育てたのだった。
ナツは、優しくその手を取ると、肌に張り付いて取れなかった黄色い布を少しずつ剥がした。肌からは黄色い膿が出ていた。
「少し痛いかもしれませんが、我慢できますか?」
アスカが問うと、<念じ者>は無言で頷いた。ナツは甕から柄杓で湯を掬い取り、爛れた肌に少しずつかけた。<念じ者>は、一瞬「ううっ」という呻き声を上げる。
「痛いですか?」
ナツが気遣うと、<念じ者>は、首を横に振り、ぐっと我慢した。何度か、湯をかけると、膿が全て流れ出て、赤くなった肌には血が滲んでいた。
「そっと血を拭き取って、白い布を捲いてください。それから、煎じ薬を飲んでください。」

1-8スミレ一輪.jpg

1-9 効果 [アスカケ第5部大和へ]

9. 効果
一通り、治療を終え、<念じ者>は館の風の抜ける広間に寝かされた。
「これで良くなればいいのですが・・・。」
アスカは、そっと呟いた。カケルは、一部始終を見ていて、ある事を思いついた。
「アスカ、傷を洗い膿を取り、綺麗な布で捲くのは良いが・・おそらく、布が乾き、傷口に貼りついてしまうだろう。・・傷口に何か施した方が良いな。」
「ええ・・何か・・よい方法はないでしょうか?」
「昔、傷を負ったとき、葦野の里で、どくだみの葉を貼り付けてもらったことがある。あれなら、傷口に貼りつくこと無いだろう。・・どこかで手に入れ、使ってみたらどうだろうか?」
「・・まあ、それはきっと良いはずです。」
アスカはカケルの考えに賛同し、すぐに女人たちを集めた。
昨日、スミレを摘んだ女人たちは、アスカの話を聞きすぐに篭を持ち、再び、山へ出て行った。

翌日からは、同様の治療に加え、傷口にどくだみの葉を貼り付けるようにした。三日ほど経つと、傷口からは黄色い膿は出なくなっていた。
「随分、楽になりました。ここへ来た時は、体中が痛くて溜まりませんでしたが・・もう、痛みも無くなりました。」
<念じ者>は、布を捲かれながら、笑顔で言った。
摂津比古と奥方は、感心して聞いていた。
「もうしばらくで、普段のように動けるようになるでしょう。今日まで、痛みに耐え頑張られましたね。貴方がいらしたからこそ、ここまで来れました。本当にありがとうございました。」
アスカも<念じ者>の手を取り、喜んだ。

「よし、これなら直せそうだな。・・他の者も、治療をしよう。」
摂津比古は、これまでの様子を見て、確認するように言った。
それに応えるようアスカが言う。
「おそらく、これほど病が進んで居られぬ人ならば、あの煎じ薬を飲むだけでも良いかもしれません。あるいは、湯で身体を洗い、どくだみの葉を貼るだけでも効果はあるでしょう。薬草もそれほど多くありませんから、まずは病の進んでいる方から治療を始めましょう。」
「そうか・・・ならば、一人ひとりの様子を確かめると良いな。」
摂津比古は、動ける<念じ者>を集めて、皆の様子を調べさせた。そして、動けぬほどに病の進んだ者を館に運ばせ、動けるものには、薬草を採るように命じた。
最初は、躊躇っていた女人たちも、ナツが進んで、湯で身体を洗う仕事をし、元気な様子を見て、病は簡単には罹らぬ事が判り、アスカを援けるようになった。ナツは、皆に、どのように身体を洗えばよいか、どうすれば痛みが少ないか、熱心に教えた。

難波津で、身体が爛れる病の治療をしているという話は、港に着く船を通じて、西海の国々にも伝わり、時には、遥か遠方からも、治療の方法を知る為に、訪れる者も現れるようになっていた。
摂津比古は、館の隣に、治療を行なうための建物を作った。そこには、病の者が休む部屋を始め、湯を沸かす為の竃や、煎じ薬を作る場所、そして、庭には薬草を育てる畑も作られた。噂を聞いて、近くの里から多くの女人たちも集まり、病の者への治療の手が増えていった。
最初に治療をした<念じ者>は、爛れた皮膚もすっかり無くなり、普段の暮らしが出来るようになっていた。
「アスカ様、私にも、漢や韓の文字を教えてください。」
ある日ナツが、仕事をしながらアスカに言った。
「ええ・・良いけれど・・・文字を覚えてどうするの?」
「はい、きっと他にもいろいろな病の治し方があるでしょう。それを見つけたいのです。」
ナツの目は輝いていた。アスカは思った。ナツの言うとおりだ、この病に限らず、熱にうなされたり、吐き戻したりして命を落とす者は居る。怪我をして動けなくなったものもいる。そうした者たちも、ここで治療できるようになれば、きっと皆がもっと安心して暮らせるはずだった。
「良いわね・・・私もまだ良く判らない言葉はあるけれど、一緒に、探してみましょう。・・カケル様にもお教えいただければ良いでしょう。」

アスカの治療が順調に進んでいるのとは裏腹に、カケルが手掛けている、河内の内海の水害への対処は思うように進まなかった。
何度か、外海と内海を繋ぐ干潟に、濠を作れないかと模索し、石を運んだり、土嚢を積み上げたりしたが、大潮が来る度に全て壊されてしまっていた。

ある夜、高楼の部屋にいたカケルの処へ、アスカがナツを伴って顔を見せた。アスカは、ナツが言い出した話をカケルに聞かせた。するとカケルが済まなそうな表情で言った。
「アスカ、私は、摂津比古様には許しを貰い、明日には、明石のオオヒコ様のところへ行くことにしているのだ。・・あれだけの港を作られたお方なら、何か妙案をお持ちかもしれない。」
長い期間、二人が離れるのは、九重のハツリヒコの砦での戦以来の事だった。アスカの胸に、何か途轍もない不安がこみ上げてきた。しかし、今、この地を離れるわけにはいかない。ようやく治療の順調に進み始めたところだ。
カケルは、不安そうなアスカに気付いた。
「すぐに戻る。イノクマ様の話では、三日もあれば戻れるそうだ。戻ったら、ナツとともに、他の病の治し方も見つけよう。それまで、待っていてくれ。」
夜空に輝く月に、黒い雲が掛かっていた。

1-9どくだみ.jpg

1-10 明石へ戻る [アスカケ第5部大和へ]

10. 明石へ戻る
カケルは、イノクマの船で明石へ向かった。一日で到着し、すぐにオオヒコの許を訪ねた。オオヒコと奥方は、カケルを歓迎し、恒例の宴へ同席させた。その夜も、西海のあちこちの里から、多くの船が来ていて、宴は盛り上がっている。
「我がアナトの国は随分変わったぞ。・・新しい王は、佐波の海の真ん中に浮かぶ小さな島に館を作り、行き交う船を立ち寄らせては、国中の話を聞いてくれるのだ。・・で、何か困ったことが起きるとすぐに出かけて行って、解決なさる。・・本当に素晴らしき王だ。」
酒に酔った男が、酒壷を抱え、自慢げに話をしている。それを聞いていた別の男も、立ち上がると、宴の席じゅうに響くような声で言った。
「伊予とてなかなか。豊かな実を実らせる畑が国中に広がっている。・・そうそう、海の向こうのヒムカの国とも交易を始めたのだ。本当に素晴らしきところだぞ!」
他にも、おのおのに、国自慢をしている。カケルは、そうした話を耳にして、何か、途轍もなく嬉しく、幸せな気持ちになれた。
「どうです、カケル殿。皆、幸せそうな顔をしているでしょう。・・ここの港に集まる者はみなあのように元気が良い。港を作った頃は、皆厳しい顔をしていました。どうやら、西海には、随分と、安寧な国が増えたようです。民も皆、喜んでいるはずです。」
「ええ・・そのようですね。・・」
「カケル殿のなされた事が、西海の国々を変えてきたようですね。」
「いえ、私の力などたいしたものではありません。皆が力を合わせたからこその事でしょう。・・ところで、淵辺の里は、いかがですか?」
カケルの質問に、オオヒコは笑顔を見せた。
「・・皆、あれから必死に里作りを進め、豊かな農地を作り上げました。今年の秋には、たくさんの米や黍がここから東国へ送れるでしょう。思った以上に良い里になりましたよ。明日にでも行かれるが良い。きっと、皆も、カケル殿に会いたいはず。是非にも。」

翌朝、カケルは淵辺の里へ向かった。
前日のうちに、オオヒコから淵辺の里へ知らせが送られていて、淵辺では、アタルとユキが、カケルが訪れるのを待っていた。
カケルは明石の港から、小舟で淵辺へ向かった。小舟は、一旦、海へ出て、水路伝いに里へ入った。アタルたちと一緒に作り上げた主線の水路からは、四方に細い水路が延びていて、最初に描いた以上に、大きな水郷になっていた。あちこちに小さな倉も建っていた。収穫物をたっぷり蓄えられるように作ったものだった。
「あれが、長の館です。」
丘の中腹辺りに、小さな館が建っていて、二人が手を振り、カケルを出迎えているのが見えた。
「ようこそ、おいでくださいました。」
アタルが深く頭を下げ、カケルを出迎えた。ユキの腕には、赤子が抱えられている。
「御子が生まれたのですか?」
「はい・・春に生まれたばかりです。・・男の子です。」
ユキは嬉しそうに抱きかかえた赤子をカケルに見せた。
「名は?」
カケルの問いに、ユキは少し困ったような表情で、アタルの顔を見た。アタルは、少し戸惑いながら言った。
「・・いろいろ考えたのですが・・実は、強く賢い男になってもらいたいと願いを込めて・・その・・・カケルと名づけました。・・勝手に・・済みません。お許し下さい。」
アタルは申し訳なさそうに頭を下げた。
「そうか・・カケルか・・・いや、構いません。私の名で良ければ・・いや・・私も嬉しい。同じ名を持つ者が、この里をいずれ治めるというのも嬉しいものです。ありがとう。・・強く、育てよ!」
カケルは、笑顔で、ユキの抱える赤子にそっと手を当てて、愛おしむような仕草をして言った。アタルもユキも、ほっとしたような表情をして、我が子を見つめた。
「それにしても、素晴らしい里になりましたね。・・随分、苦労したでしょう。」
カケルは、遠く里の様子を眺めながら言った。
「いえ・・皆、よく働き、周りの里や明石からも手伝いに来てくれました。私一人の力ではありません。皆が本当に頑張ってくれました。豊かな水のほとりで暮らす・・何よりの幸せです。恐ろしき水が、ありがたき水に変わりました。」
アタルも満足そうに答えた。
「カケル様は、何用でこちらに参られたのですか?てっきり大和へ行かれたものと思っておりましたが・・。」
ユキが訊いた。カケルは、難波津での日々の様子を話した。
「アスカ様は、変わらず、命をお救いされる役をされているのですね。・・目に浮かぶようです。きっと、休む事も忘れて働いておられるのでしょう。」
ユキは嬉しそうに言った。
「実は、河内の内海が、度々水害を起こすのです。外海への水路を作ろうとしましたが・・なかなか上手くいかず、何か策は無いかと明石へ参ったのです。オオヒコ様やアタル様から何か知恵をいただけぬかと・・。」
カケルは、難波津の様子を詳しく話し、水路作りの苦労も話した。アタルは頭をひねった。

1-10水辺風景.JPG

1-11 見慣れぬ輩 [アスカケ第5部大和へ]

11. 見慣れぬ輩
カケルは、アタルの案内で少し里の様子を見て回る事にした。張り巡らせた水路には、いくつもの水門が作られていた。
「水の調整をしているのです。畑に水を引くときに少しでも楽に済むようと、皆で知恵を出し合って作ったのです。水門を開く場所を決めることで、全ての畑に水を引くことができるようになりました。それに、荷を積み出すときも水嵩を上げる事で楽になります。」
一通り、里を回り、最後に明石川から水を引き入れている水門に辿りついた。カケルが淵辺に居たとき、最初に手掛けた場所だった。しかし、その時と比べると随分と頑強な造りに変わっていて、単なる水門ではないようだった。水門には、男が二人、門番をしていた。
「あれは?」
「水門の見張りです。・・・水門は、川から水を引き入れるだけの役目でしたが・・近頃は、里を守る為に、ああやって見張りを立てているのです。」
アタルはそう言うと、水門の脇に座っている男達に声を掛けた。
「変わりは無いか?」
「はい。今日は静かです。・・昨日は、姿を見せていましたが・・。」
門番の男は、そう言って、対岸を見た。アタルもじっと対岸を見ていた。
「何か、襲ってくるのですか?」
カケルが訊くと、アタルが困ったような表情を浮かべて言った。
「ええ・・近頃、対岸から小舟を出して、ここの様子を見に来る者がいるのです。・・いえ、近隣の里の者ならば構わないのですが・・見慣れぬ服装で、大きな太刀も携えているのです。」
「では、どういう輩だと?」
「オオヒコ様から聞いた話ですが、遥か昔から、この川を上った山地に、忍海部(おしんべ)という一族が住んでいるらしいのです。周囲の里とは隔絶していて、どんな者かも見当もつかないのです。おそらく、そこの者が様子を探っているのではないかと・・・。」
「何か、危害が加えられると?」
「判りません。・・以前ならば、怖れる事もありませんが、今は、淵辺には、多くの民が暮らし、米や黍もたくさんあります。奪われることにも用心せねばなりません。ですから、こうやって門番を立てて、様子を見ているのです。」
カケルは、アタルの話を聞き、ふと、生まれ故郷のナレの村の事を思い出していた。
ナレの村も、大陸から逃げるように隠れ住み、一族の秘密を隠す為、周囲から隔絶していた。しかし、周囲の様子を探る為に、若者がアスカケに出る風習があったのだ。もしかしたら、対岸に現れたのは、そうした者ではないかと考えたのだった。

その日は、里を一通り見た後、アタルの館で一夜を過ごした。
里の者もやってきて、カケル達のその後の様子を聞きたがった。カケルは、難波津での事を、皆に聞かせた。アスカが病を治す仕事に熱心になっている様子を話すと、ユキも喜んで聞いた。
朝餉を終えた頃、水門の門番からアタルのもとへ知らせが来た。対岸に男達が現れたというのだった。アタルとカケルはすぐに、水門に向かった。
対岸に浮かんでいる船には、確かに、大きな太刀を構えた屈強な男が二人乗っている。じっと水門の様子を見ているようだった。アタルとカケルが現れた様子に気付くと、男達はすぐに船を上流へ進め始めた。
「どうやら、襲ってくるような様子ではありませんね。」
カケルが言うと、アタルが答えた。
「・・何の為に、ああやって、こちらの様子を探っているのでしょうか?見た限り、かなり強そうな男達でしたが。」
「・・その・・忍海部(おしんべ)の里は、ここから近いのですか?」
カケルの問いにアタルは言った。
「あそこに見える尾根の上にあると聞いています。船で上れば一日も掛からず着けるところのようです。ここらの者は、皆、怖れて近づきませんから・・確かな事は判りません。」
「まあ・・用心に越した事はありませんが・・それほど怖がる事もないのではありませんか?」

カケルは、一旦、館に戻ると、アタルやユキに礼を言い、明石に戻ることにした。まだ、河内の内海の水害を防ぐ手立ては見つかっていなかったが、三日で戻るという約束をアスカと交わしていた為、すぐに戻らねばならなかった。
明石のオオヒコも、カケルに教えるほどの策は浮かんでいなかった。
「力になれず、申し訳ない。ただ、海を操るのは容易い事ではない。この港を作る時には潮を満ち引きを上手く使えたが・・水を吐き出させるというのは、また難儀な事。私も、何か策が無いか考えておこう。また、いずれ、難波津にも行かせて貰うことにしよう。」
「ときに、オオヒコ様。近頃、姿を見せるという屈強な者たちの事をなにかご存知でしょうか?」
カケルは、今朝、現れた男達の事を尋ねてみた。
「ああ・・おそらく、忍海部一族であろう。・・今まで姿を見せたことはなかった。私と同様、韓からやって来たらしいのだが・・何しろ、外界と隔絶したくらしをしているので・・よく判らぬのだ。」
「ここには現れませんか?」
オオヒコは首を横に振った。だが、突然思い出したように言った。
「少し前だったか・・・上流から船が流れてきた。誰も乗っていなかったが、剣が一つ置かれていたな・・・・おい、あれを持ってきてくれ。」
オオヒコは配下の者に指図した。

1-11水郷.jpg

1-12 神剣 [アスカケ第5部大和へ]

12. 神剣
すぐに、配下の者が剣を一振、持って現れた。
「これが、船の中に置かれていたのだ。ハガネで出来ている。ここで見るのは、銅剣ばかりだから、おそらく、よほどの物に違いないと思い、こうやって保管しているのだ。」
「これが、上流から流れてきたのですか?」
「ああ。船も少しここらのものとは造りが違っていた。あちこち傷んでいたから、壊してしまったのだが・・・韓舟とも違うようだから、おそらく、忍海部一族に関わる物ではないかと思うのだが・・・。」
カケルは、目の前に置かれた剣をまじまじと見つめた。確かに、剣はハガネで出来ていた。それもかなり精巧に作られている。ふと、柄の紋様が眼に入った。どこか懐かしい網目模様が施されている。カケルははっと気付いた。ナレの村の祭壇に祀られていた神剣の紋様とよく似ている。もしや、忍海部一族は、ナレの一族と関わりがあるのではないかと思った。
「どうされた?」
オオヒコの問いにカケルは、自分の考えを話した。
「私は、忍海部の一族のところへ行ってみます。もし、我が一族との関わりがあるのなら、訊ねてみたいことがあるのです。オオヒコ様、この剣、私に預らせてもらえませんか。この剣が、忍海部一族のものならば、おそらく、これを探すために姿を見せたに違いありません。これを返しに行きたいのです。」
オオヒコは、考えた。剣を戻す事はやぶさかでは無いが、忍海部一族がいかようなものか見当もつかず、カケルの身が案じられた。しかし、このまま、見慣れぬ男達が時折姿を見せ、民が不安がるのも困ったことだった。
「難波津に戻るのが遅くなりますぞ。」
「難波津へ、使いをお願いいたします。必ず戻るからとアスカに伝えていただきたい。・・私は、やはり、会いに行かねばならぬような気がするのです。」
オオヒコもしぶしぶ賛同した。そして、伴をつけて、カケルを送り出すことにした。
「この者は、ヒロと申し、山猟師だったゆえ、あの辺りの山は良く知っております。どうぞ、道案内に使って下さい。」

カケルは、ヒロを伴って明石川の畔を陸路で上っていった。
ヒロは、カケルと同じくらいの歳の男であった。山猟師らしく、腕も足も太く力も強そうだった。髪を頭の天辺で縛り、背丈もカケルと同じほど大きかった。鹿の皮を衣服にして、太くて大きな弓を持っている。明石で預った剣は布に来るんで、ヒロが背負った。
川沿いを半日ほど歩くと、前方で川が二手に分かれていた。そして、その分かれ目辺りまで尾根が伸びている。
「あの山の奥に、忍海部一族の里があります。一度だけ、山に迷い込んで里近くまで足を踏み入れたことがありました。・・不思議なのですが・・真夜中だというのに、煌々と明かりを灯して何か仕事をしているのです。それも、皆、裸同然で、・・身体も真っ赤な色をしていて・・人とは思えぬ様子でした。」
「どんな仕事を?」
「そこまでは判りませんが・・何かを盛んに槌で叩いているようでした。」
ヒロはそう言うと、左手から流れ下る川に沿って進む道を案内した。二人は、尾根に上がる道を探しながら、川を遡っていく。鬱蒼と茂る草木、山肌は岩がごろごろしていて、上る道がなかなか見つからなかった。日暮れ近くなり、二人は河畔で火を起こし夜を過ごす事にした。静かな夜だった。火を絶やすと、獣に襲われる危険もあり、交代で眠りに着いた。

明け方近くだった。突然、数人の男がばたばたと足音を立てて、山を下ってくるのがわかった。カケルは、すぐに足音に気付いたが、横になったまま静かにしていた。
赤い色に染めた衣服を纏い、剣を手に恐ろしい形相で二人を取り囲んだ。しばらく、男達は、二人の様子を見ていた。そして、一人の男が、剣を抜いて、カケルの顔先に突きつけた。
「おい、起きろ!」
その声に、ヒロが驚いて飛び起きた。そして、手元にあった棒切れを掴むと、男達の前で構えた。
「お・・お・・お前ら、何者だ!」
ヒロは、強そうな男達を前に、震えながら叫んだ。取り囲んでいた男達も、その声に驚いたのか、いきなり剣を抜いて構えた。カケルはゆっくりと起き上がると、その場に胡坐をかいて座り、先ほど声を掛けた男に深く頭を下げた。
「ご無礼をお許し下さい。私は、カケルと申します。伴は、ヒロ。明石の者でございます。」
カケルの態度を見て、ヒロも棒切れを投げ出して、カケルの横に座り込んだ。
「そなたも明石から来たのか?」
剣を突き出した男の口調は、意外に優しかった。
「私は、九重より旅をしている者。今は、難波津の摂津比古様のもとに居ります。」
カケルは隠すことなく、身の上を話した。
「こんなところに何の用なのか、ここらには里の者は寄らぬはずだが・・。」
男の問いに、カケルは言った。
「近頃、淵辺の辺りに、見慣れぬ者が姿を見せ、不安がっておりました。おそらく、忍海部の一族の方々であろうとお聞きし、参りました。」
「見慣れぬ者か・・・」
カケルは、脇にあった布包みを手に取った。
「これが明石の港近くに流れ着き、きっとこれをお探しなのではないかと思い、お戻しせねばと思った次第です。」
カケルはそう言うと、布包みを開き、剣を取り出した。


1-12岸辺と船.jpg

1-13 忍海部一族 [アスカケ第5部大和へ]

13. 忍海部一族
男は、カケルが大事に奉げるように取り出した剣をじっと見た。二人を取り巻いていた男達が色めき立った。
「おお、これこそ探していた剣・・・。」
男は、カケルの手から剣を受け取り、じっくりと眺めた後、再び、カケルに聞いた。
「そなた、何故、これが我ら一族の物だと思ったのだ?」
カケルは男の言葉に答えた。
「その剣は、この辺りの里には作れぬものです。明石のオオヒコ様の話では、誰も乗っていない小舟が皆と近くに流れ着き、中にはこの剣があったと聞きました。剣を持ち出された方の身に、何か起きたのだろうと・・。」
「そうか・・・判りました。そなたの言われるとおり、これは我が里のもの。方々を探しておりましたが・・なかなか見つからず、困っておりました。礼を申します。」
「ひとつ、お伺いしても宜しいですか?」
剣を布に終い始めた男に、カケルは訊いた。
「その剣に刻まれた紋様は、私の村の神剣に刻まれたものとよく似ているのですが・・」
男は、カケルの言葉に驚き、沈黙した。ただの偶然で、似た紋様を刻む事などあり得ない。
剣を届けただけでなく、その紋様にまで触れるとなると、そのまま帰す訳にはいかないと考えた。
「このまま、我らとともに里へおいで下さい。そこで、お話を伺おう。」
伴をしてきたヒロは、明石へ戻り、カケルが忍海部一族とともに山に入って行った事を伝えるように言われ、一人戻って行った。

カケルを伴い、男達は、山へ分け入って行く。道はない。茂みの中を潜るようにしながら、急な斜面を登っていく。まだ、日は昇り始めたところだが、山の中は薄暗く、深い深い森が続いている。かなり、長い間、山中を歩いたように感じた。ようやく、山の尾根に達すると、木々の間に石を敷いた道があった。そこからほんの僅かで、忍海部一族の里に着いた。
丸い形の竪穴式の住居が、木々の間に埋もれるように散らばっていて、ざっと20ほどの住居があると思われた。いずれの家の周りにも、獣避けと思われる、濠と柵が作られていた。衣服は、獣の皮を剥ぎ鞣して作ったものや、木綿のような物で、ナレの村の衣服よりも粗末であった。田畑は無さそうで、おそらく狩猟と木の実を集めているのではないかと思われた。カケルは、男の後について、里を抜けた。
男は、里から少し山を分け入ったところにある、社へ案内した。大きな杉の木立の中を切り開いて作られた少し開けた場所に、何本もの太い柱を立て、その上に、人の背丈の倍以上の高さのところに設えられた社があった。
社の支柱に垂れ下がった長い梯子を伝って上ると、部屋の中から数人の話し声が聞こえた。
「巫女様、今、戻りました。」
男はそう言うと、深く頭を下げ部屋の中へ入っていく。カケルも続いて中に入ると、そこには4人の男が両脇に座り、一番奥の祭壇の前には、真っ白な装束の巫女が座っていた。カケルは、部屋の中を見て驚いた。まるで、ナレの村の館そっくりであったからだ。カケルも、男と同じように深くお辞儀をして部屋の中に入り、男の隣に座った。
両脇に座った男達は、カケルの様子を探るように見つめていたが、何も語らず、巫女の言葉を待っているようだった。
男は、巫女の前まで進むと、カケルから受け取った剣を大事そうに掲げると、巫女の前に差し出した。そして、再び深く頭を下げると、低い声で言った。
「剣が戻りました。」
「おお、レンよ、よくぞ、剣を見つけた。これで我が一族も安泰であろう。」
巫女はじっと眼を閉じたまま、厳かな声で言った。
レンも男達も巫女の言葉に深く頭を下げた。
「この者が、持参しました。我が一族の剣であろうと考えたようです。」
レンは静かに言った。巫女は、ふと顔を上げて言った。
「その者、名は何と言う?」
「我が名は、カケル。九重の奥、ナレの村の生まれでございます。」
「九重の生まれとは珍しき者じゃな。して、何故、我が一族の剣だと考えたのだ?」
カケルは、周囲を一度見回してから、言った。
「アスカケの旅の途中、縁あって、明石のオオヒコ様より、剣の事を聞きました。ハガネで出来た剣、さらに柄に施された紋様から、これは神剣であろうと考えました。この辺りには、ハガネの剣を持つ里などありません。おそらく、忍海部一族の方々がお守りになっていた神剣であろうと思ったのです。」
「柄の紋様?」
「はい、我が一族にも、神剣がございます。その柄にも同じような紋様がありました。」
「ナレの村と申したが・・・そこではハガネ作りをしているのか?」
巫女は訝しげに訊いた。
「いえ・・遥か昔、我が一族の祖が大陸より逃れ、高千穂の峰の麓に隠れ里を作りました。以前は、ハガネ作りも行なっていたようですが・・今ではそれも絶えてしまいました。」
「大陸より逃れて、九重に隠れ里とは・・・祖の名は何と言う?」
「伝え聞いた話では、ニギ・・いえ・・殷義様と申されます。」
カケルの話しを聞いた後、巫女はじっと眼を閉じた。
そして、しばらく沈黙した後、ぽろぽろと涙をこぼし始めたのだった。脇にいた男達も、巫女の異変に驚きを隠せなかった。

1-13石畳の道.jpg

1-14 一族の契り [アスカケ第5部大和へ]

14. 一族の契り
「巫女様、いかがされましたか?」
巫女は、そっと涙を拭うと、目を見開き、カケルを見つめて言った。
「この歳になって、再び、殷義様の名を聞こうとは・・・」
「ご存知なのですか?
巫女はさきほどまでの厳しい表情とはうって変わって、柔和な表情でカケルを見ながら答えた。
「ああ・・我が一族の祖は、明義(みんぎ)様と言われる。…そう、其方たちの祖、殷義様の兄者じゃ。我が一族の言い伝えでは、大陸から一族で命からがら、倭国へ逃れ、赤間の地にたどり着かれたそうじゃ。そこで、一族は東国へ向かうか九重へ向かうか相談されたそうだ。殷義様は、九重の邪馬台国を頼ろうと申された。しかし、明義様は、狗奴国へと向かうべきだと考えられた。そこで、一族は二手に別れることにした。いずれかが無事生き延びれば、一族は絶えずに済むからな。」
「では、我らナレの一族と、忍海部一族とはひとつのものだと?」
カケルは訊いた。
「ああ・・実は、殷義様、明義様には、さらに上に兄者が居られたそうじゃ。その御方は、この地までは共に参られたのだが・・さらに、東国へ向かわれたと伝えられておる。」
「では、更に東の地にも、我が一族と縁のある者たちがいると仰せなのですか?」
巫女は少し戸惑いがちに答えた。
「無事に生き延びられていればの話じゃ。あるいは、倭国の者たちに紛れ、息を潜め生き延び、もはや、祖の言い伝えなど途絶えておるかもしれぬがな・・・。」

巫女とカケルのやりとりを聞いていた男達には、全ての話が夢物語のように聞こえていた。カケルを案内したレンさえも、巫女の口から聞かされる話に驚くほかなかった。
「私は、九重の地を巡り、アナトの国から、伊予、吉備、播磨、難波津まで旅をしました。アナトの国には、はるか昔に築かれた岩砦を見ました。同じものが、九重にもありました。おそらく、ここにもあるのではないですか?」
カケルの言葉に驚いたのは、レンだった。
「岩砦とは・・・其方、それも知っておるのか?」
「はい、いずれも見事な造りでした。九重の里の者には到底作れぬ、頑強で山地を巧みに使ったものばかりでした。・・おそらく、ここにもあるのではありませぬか?」
レンは半ば呆れたような表情でカケルを見た。巫女が言う。
「岩砦は、確かに其方の言うように、この先の尾根の最も先に作られておる。そこからは、明石の湊さえ見通せる。」
「やはり、そうでしたか。」
「我ら一族は、はじめ、明石の辺りに住んでおった。だが、倭国と争いが度々起きた故、この山へ身を潜め、砦を造り、倭国の者とは断絶して、長い時を平穏に過ごしてきた。じゃが・・・。」
巫女は、何かを思い出したように、声を震わせ、涙を零した。その様子を見て、レンが代わりに話し始めた。
「ちょうど一年ほど前であった。男が一人、この山の奥で行き倒れとなっていたを、猟に出た者が見つけてきて、介抱した。すぐに男は元気になったが、自分の名も、里も思い出せぬと言い、仕方なくここへ置くことにしたのだ。」
「もしや、その男が剣を奪い、逃げたのだと?」
カケルの問いにレンは続けた。
「ああ、それだけではない。我が里の男を何人か殺し、剣を奪い逃げたのだ。我らはすぐに奴を追い、船で川下へ下っている奴を見つけ、矢を放った。矢は奴の身体を貫き、そのまま川へ落ちたが、船はそのまま流れていってしまったのだ。」
これで、淵辺あたりの岸辺に出没した男たちの理由が分かった。
「剣は戻った。そなたのお陰じゃ、何と礼を申せば良いか。・・」
改めて巫女や男たちは、カケルに頭を下げた。カケルはふと思いつき、訊いた。
「その男は、何故、剣を奪ったのでしょう?」
レンは、周りに居た男たちを見回し、了解を得るようにして口を開いた。
「明石や淵辺でないと判った以上、おそらく、その男は、ここより北の、山向こうから来た者でしょう。」
「ここより、さらに北に・・里があるのですか?」
「いえ・・確かな事はわかりませぬ。淵辺や明石の者で無いのなら、北から来た者だとしか・・剣を奪った理由も定かではありません。いずれにせよ、この里へ他の地から入り込んだ者など滅多にありません。それゆえ、我らは怖ろしくてなりません。災いが起きるのではないかと・・。」
巫女は、手にした占いのための五色石を握り締めて言った。
外の世界と隔絶して生きてきた一族には、外界の様子を知る事など出来ない。淵辺や明石の者にとっても、わからぬ者たちへの不審は強い。カケルは、提案した。
「我がナレの里には、アスカケという掟があり、若者は外へ出て様々な知恵を得て、ある者は里へ自らの生きる役割を持ち帰り、ある者はそのまま外の世界で生きる事になっております。おそらく、隠れ住む事だけでは、一族の行く末が閉ざされると先人達が考えたのでしょう。忍海部一族の皆様も、淵辺や明石とも分かり合い、助け合う道を開かれてはいかがでしょう。」
カケルの言葉に、レンをはじめ社にいた者はみな顔を見合わせた。
巫女はカケルの言葉を飲み込んでじっと目を閉じていた。そして、五色の石を振った。

1-14五色石2.jpg

1-15 明石川の絆 [アスカケ第5部大和へ]

15. 明石川の絆
五色の石は、目の前の鹿の骨や木の実の中を転がった。レンたちは、巫女の言葉を待った。
「時が来たようだ。・・祖を同じくするナレの若者が、神剣を携え我が里を訪れたのは、おそらく、我が祖のお導きであろう。・・レンよ、カケルと供に、里を降り、淵辺や明石へ向かうが良い。そして、我が一族との絆を作ってくるのじゃ。」
「巫女様・・本当に宜しいのですか?」
レンの隣にいた男が今一度訊いた。
「皆も判っておる筈じゃ。ここ数年、山は貧しく、食べる物を手に入れることもままならぬ様になっている。一族の者たちも、皆、ひもじい思いをしておる。カケルを信じ、我が一族の行く末を託してみようでは無いか。」

翌朝、カケルはレンのほか数名の男に導かれて山を降り、小船で淵辺へ戻った。淵辺ではカケルが忍海部一族の里へ入ったという知らせが届いていて、皆、心配していた。
水門の門番がいち早く、山から下ってくる小船を見つけ、アタルに知らせていて、カケル達が水門に着く頃には、アタルたちが水門で出迎えた。
「忍海部一族のレン様でございます。」
カケルが紹介し、レンはすぐにアタルの館へ案内された。レンは、アタルの館から淵辺の里を見下ろして、ため息をつきながら言った。
「これほどにも豊かな里があるとは・・・。余るほどに、米や黍が作られている。皆、穏やかな顔をして仕事をしている。なんと素晴らしいところだ。」
それを聞いたアタルが言った。
「この里もほんの数年前までは、時折、川が溢れ一面が沼のようになり、住める所ではありませんでした。カケル様のご尽力で、このような里になれたのです。」
「カケル様が?」
「はい・・はるばる九重の果てから旅をされ、我が里だけでなく、邪馬台国や、アナト国や伊予国にも安寧をもたらされたお方なのです。神々しきお力を持っておられるお方なのです。」
レンは、アタルの話に再び驚いた。忍海部の里では、一族と契のある者とだけしか知らず、淵辺へ来るまでも、カケルの提案を半ば信じていなかったのだった。
「今は、難波津で、この国の行く末を担われるべく働かれていると聞いております。都の皇君ともご縁があるとの事。カケル様のお力はますます大きくなり、この国をきっと良き国に作られるはずでしょう。」

館に入ると、広間には、ユキが赤子を抱いて待っていた。他にも、淵辺の主だった者たちも集まり、忍海部のレンの話を興味深く聞いた。レンは、皆に一族の全てを話した。
「我らとて、わからぬが故に怖れておったのだ。互いに素性が判れば、手を繋ぐ事は容易な事。明石川の畔に生きる者として、これより手を携えて参りましょう。なあ、皆の衆、良いであろう。」
アタルの言葉に、集まった者たちは拍手をした。
「とりあえず、我が里から米と黍を運びましょう。」
ユキの提案に、アタルはすぐに、男たちに指図した。レンは戸惑って言った。
「しかし・・我らから引き渡せる物がありませぬ。」
「何を言われる。ご心配には及びません。長き付き合いになりましょう。いずれ、我らが困った時にお助けいただければよいのです。」
「しかし・・・。」
カケルは二人のやり取りを聞いて言った。
「レン様、忍海部の皆様は、ハガネを作られておるでしょう。・・それで、田畑を耕す道具を作ってもらえませんか?・・見てのとおり、ここでは田畑を耕す道具が足りません。道具があれば、もっともっと多くの田畑が出来るはずです。如何でしょう?」
レンは驚いた。カケルが里へ来た時、ハガネ作りは見せていない。いや、一族の秘密にすべき事であり、淵辺でも話してはいないのだ。
「何故、ハガネ作りのことを?」
「済みません。供をしていたヒロが、一度道に迷い、忍海部の里近くへ行ったことがあり、そこで見た様子が、我が里のハガネ作りの様子に似ていたものですから・・違いますか?」
「いえ、その通りです。そのために、我らは隠れ住んで居ったのです。ハガネは人を殺す剣を作る技でもあります。故に、大陸でも戦に駆り出され、一族はたびたび難儀をしたと言い伝わっておりましたゆえ、秘密としていたのです。」
「もはや、この地では心配など要りませぬ。それに、すでに、大和でもハガネ作りをしていると聞きました。必死に隠してきたことは、もはや無用となっているのです。」
レンは、カケルの言葉に納得した。そして、米や黍と引き換えに、農具を作る約束を交わした。

すぐに、カケルは、レンを連れて明石へ向かった。
すでに、淵辺から明石へ使者が出され、大筋の話は伝わっていて明石のオオヒコも、喜んで出迎えた。明石からも、衣服や魚の干物等が集められ、忍海部の里へ送る事が決まった。
「これより、明石から忍海部の里まで、明石川の畔に住む者はみな一族となりましょう。深き山から、海辺までお互いに手を繋げば、きっと豊かな暮らしが出来ましょう。」
オオヒコは、カケルやレンを前に宣言した。

1-15岸辺.jpg

1-16 友の絆 [アスカケ第5部大和へ]

16. 友の絆
明石川の畔に暮らす者が皆手を繋ぎ、生きていくことを誓い、カケルも安心した。しかし、まだ、草香江の水害を防ぐ手立ては見つかっていなかった。
その日は、オオヒコの館に留まり、もう少し、策はないかを考える事になった。
夕餉を終えた囲炉裏の前でオオヒコが言った。
「カケル様、私も難波津の水害の手立てをあれこれと考えてみましたが・・妙案は浮かびません。」
オオヒコはカケルが出かけた後もあれこれと思案していたようだった。そして、
「ただ、ご覧いただきたいものがあるのです。」
オオヒコは、翌日の朝、船を出して、港を出た。カケルとオオヒコの乗った船は、港から対岸のハヤシの里に向けて進んだ。
「淵辺の水路を作ってから、川の流れも弱まりました。そして、ちょうど一年ほどした頃に、その岬の先が変わっていたのです。・・ちょうど、この辺りです。・・おい、船を止めよ。」
オオヒコは船頭に言うと、対岸まで僅かのところに船を停めた。
「ご覧下さい。ここは以前、西からの潮の流れが強く、広い砂浜が出来ていました。しかし、水路が出来てから、次第に砂が減り、今では淵のようになっております。」
「潮の流れが変わったということですか?」
「ええ・・おそらく、流れ出る水量が減り、潮が強くなり、溜まっていた砂を押し流したのだと思います。」
「潮が砂を持ち去った・・・難波津の瀬戸には砂が溜まっている・・いずれも潮の流れ次第という事ですか?」
「ええ、ですから、難波津でも何かの方法で潮の流れを変えることが出来れば、瀬戸も砂に埋もれずに済むのではと思うのです。ただ・・どうやって潮の流れを変えることが出来るのか・・港を作った私さえ、潮に逆らう術は知りません。」
「そうか・・潮の流れを変えるのか・・・ここは、あの水路がその役を果たしたのですね。・・難波津でも別のところに水路を作ればよいということかも知れませんね。」
「ええ・・しかし・・・淵辺はもともと流れのあった場所。難波津にはそのような場所があるでしょうか?」
カケルは、ふたたび、潮の流れと岬の様子、そして淵辺の水路を思い浮かべて考えた。
「・・きっと、どこかに水路を作れる場所があるはずです。・・難波津に戻り、摂津比古様と相談してみましょう。・・きっと大丈夫です。オオヒコ様、ありがとうございました。」
カケルは、急いで、明石の港に戻り、難波津へ向かう船に乗った。
「カケル様、これより明石川の畔に住む者は、皆、貴方様をお助けする事を誓いましょう。難波津で・・いや、カケル様とアスカ様に何かある時は、必ず使いを遣してください。すぐに、一族を挙げてお助けに参ります。」
オオヒコは、港を出て行く船に向かって大声で叫んだ。カケルは手を振り、難波津を目指した。

夕刻には、難波津の港に着き、急いで、館へ向かった。
カケルが帰還したことはすぐにアスカの耳にも届けられた。アスカは、治療院でいつもと同じように薬を作り、病人の世話をしていたが、帰還の知らせを聞き、すぐに港へ向かった。
アスカは、カケルが出かけた後、何か胸騒ぎを覚え、毎日落ち着かぬ日々を過ごしていた。
女人たちがアスカに身支度をと用意をしたが、アスカは居ても立てもいられず、そのままの格好で港へ走った。
カケルは、ちょうど、船を降り、桟橋で船頭に礼を言っていたところだった。
アスカは、まるで子どものようにカケルに駆け寄ると、そのまま強く抱きついた。
後を追ってきた女人達は驚いた表情でアスカを見ていた。
一番、驚いたのはカケルだった。
「どうした?アスカ。幼子のように抱きついて。私は無事だ。少し帰りが遅くなってしまい、心配掛けたな、済まない。」
カケルの落ち着いた口調に、アスカははっと我に返り、抱きついた事が急に恥ずかしくなり、真っ赤な顔をして俯いた。そして、なにかわからぬ感情がこみ上げて、思わず涙が零れたのだった。

カケルは、アスカとともに、摂津比古の館へ戻った。カケルの明石での所業は、使いの者が逐一難波津に知らされていて、摂津比古も大いに満足してカケルを迎えた。
その夜は、館の広間に、港にいる主だった者達も集めて、カケルの帰還を祝う宴が開かれた。
「明石一帯の者達は、カケル殿の配下のごとく、これから合力してくれるらしいな。」
摂津比古は、酒を飲みながら、上機嫌でカケルに言った。
「配下ではございません。我が友です。・・明石で何か起きれば、私はいつでも明石へ向かうつもりです。」
「ふむ・・友・・か・・良き言葉だ。ならば、難波津も明石の友となろう。・・よし!」
摂津比古は、宴に集まった者の前に立ち、杯を高く掲げた。
「ここに集いし者よ、聞いてくれ。カケル殿が明石一帯の絆を築いた。そして、この難波津とも強き絆となってくれよう。良いか、皆の衆。今日より、ここに集いし者は皆、友である。互いに困った時、助け合う強き絆を作ろうぞ。それぞれの里に戻ったならば、里の者たちに話し伝えるのだ。これより、西海の者は皆、友となり助け合うのだ。良いな。」
宴に集まった者は、摂津比古の言葉に応え、みな杯を掲げ、「おお、友じゃ、友じゃ!」と歓声を上げた。
その様子を見ながら、摂津比古はカケルを笑顔で見つめた。
「まこと、計り知れぬ男だ。カケル殿こそ、新しき国を治めるべき人なのかも知れぬな。」

1-16砂浜と岬.jpg

1-17 名を持つこと [アスカケ第5部大和へ]

17. 名を持つこと
 宴の翌日から、再び、カケルは護衛として、摂津比古に同行した。
摂津比古は、港を一回りして、船や荷の様子を見て回る。苦労している者が居れば、すぐに手伝いを遣し、船の修理なども手配した。まるで、小間使いのように、皆から話を聞き、取引でもめる様なことが起きていれば、自らの財を持ち出して収める。
護衛として同行するカケルは、摂津比古の懐の深さには感服していた。

カケルは、明石から戻ってから数日、アスカとの約束どおり、他の病気の治療について、ナツも加わって、難波津にあった巻物を調べた。
ナツは、カケルの留守中、アスカの手ほどきで古い巻物の読み方を少しずつ覚えていて、三人は夜遅くまで調べ物をした。
カケルは、忍海部一族のところからも、巻物を一つ携えていて、その中には、ナレの村にも、難波津にもなかった事が書かれていた。
一通りかかれている事に目を通し、身近にみたことのある病について、アスカなりに理解した。そして、治療院にいる患者の中で、同じような症状を見つけては試す日々が続いた。ナツは、アスカについて必死に覚えた。

護衛の仕事に戻って、数日した時だった。
「摂津比古様、ひとつご相談があります。」
港の先で潮を流れを見ていた摂津比古にカケルが切り出した。
「・・内海の水害を止める手立ての事か?」
摂津比古は、じっと潮を見ながら答えた。
「はい。明石で潮の流れが変わったことで大きく砂浜が無くなったのを見ました。ここも潮が運ぶ砂がどんどん堆積して、内海の水を堰き止めている。ならば、潮の流れを変える事ができれば、きっとここの流れも良くなるはずです。」
「潮の流れを変えるというのは難儀なことだぞ?」
「明石で、潮の流れが変わったのは、淵辺に作った水路を作ったからです。ここでも、同じように水路を作れば、自然に潮の流れが変わるのではないかと思うのです。」
「水路か・・。」
「はい、内海に溜まった水を吐き出す水路を作るのです。」
「しかし、あの岬の辺りでは無理なのはわかっておろう。」
「はい。もっと別の場所に水路を作るのです。」
カケルは、摂津比古と話をしながら、徐々に、水路を作る策への確信を強めていった。砂が堆積している難波津ならば、おそらくどこかに容易に水路を作れる場所があるはず。砂を掘るのはさほど難しい事ではない。
「摂津比古様、私に少し時をいただけませんか。難波津を隈なく調べ、水路を作るに相応しい場所を探します。」
「良かろう。まだ確信はないが、そなたが考えるようにやってみるが良い。」
カケルが水路を作ろうと考えていることは、同行していた《念じ者》から仲間に伝わっていた。翌朝、カケルが身支度を整え、出かけようと、高楼から降りてきたところに、《念じ者》が数人待ち構えていた。皆、跪きカケルを待っているようだった。
「いかがした?」
カケルが問うと、一人が口を開いた。
「この難波津に水路を作られるとお聞きし、お手伝いをさせていただきたく集まっております。」
すると、他の者も続けて言った。
「我らの仲間は、皆、アスカ様に命を救われ、今では動く事も出来るほどになった者の数多くおります。せめて、何かご恩返しがしたいのです。・・難波津を調べて回られるのであれば、我らが案内いたします。草香江辺りの事は我らが一番よく知っております。」
カケルは、《念じ者》の申し出を快く受ける事にした。
「わかりました。是非にもお手伝いいただきたい。私一人では何も判りません。」
控えていた《念じ者》たちは、皆、顔を見合わせ喜んだ。
「ですが・・ひとつ困った事があります。」
カケルの言葉に、《念じ者》たちは不安な顔をした。
「皆様の名を知りません。これでは、お願いする時に困ります。皆様の名をお教え下さい。」
《念じ者》たちは、再び、顔を見合わせた。これまで、《念じ者》と人括りにされ、名など呼ばれたことは無い。面を被っているため、摂津比古さえ、一人ひとりの名を呼ぶことは無かった。名を問われて、皆、困っていた。一人が口を開いた。
「病になり、皆、里も名も棄てたものばかり。遥か昔の名を問われても・・・。」
「ならば、こうしましょう。一人ひとり、新たに、名を持ちましょう。それに、《念じ者》という呼び名も止めましょう。・・・病の痛みを堪える声が何かを念じるように聞こえるから《念じ者》と呼ばれるようになったと聞きました。皆様はすでに念じる声など出されておりません。」
《念じ者》たちは、カケルの言葉に驚き、涙した。
「では、貴方からだ。・・何か好きな言葉はありませんか?」
「私は、皆の中では、イワと呼ばれております。大きな岩のような風体から・・。」
「では、イワヒコ様とお呼びしましょう。」
「イワヒコ?・・イワヒコ、私の名はイワヒコ。これは良い。」
カケルは、次々に、男達に名をつけた。イシヒコ、ソラヒコ、ヤマヒコ、マツヒコ・・・皆、たわいの無い名ばかりだが、かつて名を呼ばれることも無かった者にとって、命を吹き込まれたような思いだった。

1-17楼閣.jpg

1-18 松原 [アスカケ第5部大和へ]

18. 松原
「では、皆様、参りましょう。・・まずは、この難波津の有体を見て回ります。」
カケルは、昨夜のうちに用意した大きな板と炭を抱えて歩き出した。
「カケル様、それは何ですか?」
先ほどの大男、イワヒコが訊いた。
「これに、難波津の形を写すのです。難波津すべての形を調べ、水路を掘るに相応しい場所を見つけるのです。」
「私が持ちましょう。」
イワヒコは、不自由な足を引きずりながらも、カケルの横を胸を張って歩いていく。かつての《念じ者》たちは、カケルを取り巻くようにして、意気揚々と館を出て行った。

カケル達は、館を出て、一旦港まで出た。
港では、荷を運ぶ人夫達が、カケルを取り巻く《念じ者》の集団を、手を止めて眺めた。
日ごろは、陽の当る場所に姿を見せようともしなかった者達が、胸を張って港の中を歩いている。
「いったい、どうしたのです?」
港で船に荷を運んでいたイノクマが驚いた様子で、カケルに近寄り訊いた。
「イノクマ様、船出ですか?」
「ええ、そろそろ、鞆の浦へ戻ります。それより、これは一体、なぜこれほどの《念じ者》を従えておられるのです?」
「この者達は、念じ者などではありません。これから、私とともに、この難波津・・いえ、辺り一帯を水害から守る仕事をしてくれる者達なのです。・・イノクマ様、病は治せます。もう、念じ者などと呼ぶのはお止め下さい。みな、ひとりひとり、我らと同じ人なのです。」
カケルの返事に、イノクマは従っている者達を見た。確かに、以前の世捨て人のような虚ろな表情をしているものは居ない。皆、希望に満ちているように見えた。
「カケル様はおっしゃるならば、そうしましょう。港の者達にも伝えましょう。・・で、水害から守るとは・・どういうことですか?」
カケルは、水路を作る策をイノクマにも話した。イノクマは、カケルの途方も無い計画に半ば呆れたが、これまでのカケルの偉業を思い浮かべると、あながち、夢物語とも思えなかった。
「我らも何か手伝えることはありませんか?」
カケルは少し考えてから答えた。
「では・・長い荒縄はありませんか?それと赤く染め抜いた布が欲しいのです。」
イノクマは手下に指図してすぐに荒縄と布を用意した。
「他にも必要なものがあれば言ってください。」
「ありがとうございます。いずれ、お願いすることも出来ましょう。」

カケル達は、イノクマに別れを告げ、港から海岸に沿って東へ向かった。外海は穏やかだった。真っ直ぐ伸びる海岸はずっと砂浜が続いていた。
「ごらんなさい。外海の海岸はずっと砂が続いている。やはり、ここは潮の流れが砂を堆積してできたものです。・・さあ、先へ進みましょう。」
カケルが言うと、イワヒコが言った。
「カケル様、このように炭で真っ直ぐ線を引けば良いですか?」
イワヒコは、出掛けにカケルから預った板に炭で真っ直ぐに線を引いた。
「ええ・・・イワヒコ様、上手いですね。そうやって、見たものを書き留めて置いてください。きっと後で役に立ちましょう。」
砂浜から北の方角には、低い松林が続いている。難波津の館が建つ場所はかなりの高台だったが、港から離れるに従い、徐々に山は低くなっている。
「この先はどうなっているでしょうか?」
カケルが周りの者に訊ねると、ソラヒコという若い男が答えた。
「ほら、あそこに見える山の麓まで、こんな低い木が並んでいます。我らの仲間もその林の中に小屋を作って暮らしています。ご案内しますか?」
「ええ、きっと、その方たちに訊けば、もっと詳しいことが判るでしょう。」
ソラヒコの案内で、松林の中に暮らしているという者達のもとへ向かった。

松林の中で暮らしている《念じ者》は、大挙してやってくる仲間を見て驚いた。
先頭を歩いているのが、摂津比古の護衛として顔を見せたカケルとわかり、皆、小屋から出て跪いて迎えた。

案内してきたソラヒコが、これまでの経緯を仲間に話すと、なにやら集まって相談を始めた。しばらくすると、仲間の一人が顔を上げて言った。
「この先の、さらに低く下がったあたりに、雨が続くと水が溜まるほどのところがあります。」
カケルたちはすぐにその場所へ向かった。松原の中を進む。なだらかな斜面をしばらく進むと、林を抜け、草原に出た。
「このあたりです。」
カケルは、皆の話を聞きながら、地面を少し掘りあげてみた。海岸と同じ砂ばかりだった。立ち上がり、周囲の様子も見た。どうやら、ここが一番低い地である事が判った。

1-18松林.jpg

1-19 大仕事の始まり [アスカケ第5部大和へ]

19. 大仕事の始まり
「ここから、外海と内海までどれくらいあるでしょう?」
おもむろに、カケルが訊いた。先ほど、場所を教えた男が言う。
「半日ほど歩けばどちらの海にも出られる程度で、ここらが一番両方の海に近いでしょう。」
「では、ここで二手に分かれましょう。この赤い布と荒縄を持って行って下さい。できるだけ真っ直ぐ海のあるほうを目指し、縄を張りながら、目印になる木に赤い布を括りつけてください。」
カケルの言葉に男達は顔を見合わせた。
「どういうことなのですか?」
「おそらく、ここに水路を作るのが良いでしょう。どれほどの距離があるか調べます。縄一本の長さで、何本分かを調べるのです。・・それから、海が見えたら、もっとも深い場所も見つけてください。そこに水門を作ります。」
カケルの説明に、男達は二手に分かれた。一方には、このあたりを知っているソラヒコが頭になった。もう一方は、イワヒコが頭を務める事にした。
「カケル様、仕事を始める前に腹ごしらえをしましょう。」
先ほどの集落から、食べ物が届いていて、皆、車座に座り夢中で頬ばるとすぐに立ち上がり仕事を始めた。
カケルが、水路作りに着手した事は、館にも伝わった。
「どうやら、本当に水路を作るようだな・・・どれ、様子を見にいくとするか。」
摂津比古は、知らせを聞いて、配下の者を集めた。そして、遣いに来た者に案内させて、カケル達が仕事を始めた場所に向かった。
カケル達は、荒縄と赤い布で水路を作る場所を決める為の仕事をしていた。二手に分かれたものの、それぞれが海に達するまでは半日以上が必要だった。カケルは、内海へ向かっていたソラヒコたちの少し後ろから、印の付けられた辺りの土地の状態をじっくりと調べた。砂が堆積しているとはいえ、大きな岩や固い土の場所があれば、掘りあげるのには難儀する。数人がカケルを手伝い、できるだけ良い場所を選び、掘るべき場所に次々に目印をつけていった。
夕刻近くになってから、摂津比古が配下の者を引き連れて、カケルのいるところにやって来た。
「ついに始めたのだな?・・どうだ、できそうか?」
摂津比古は、手分けして動いている男達を眺めながら声を掛けた。
「・・今のところはどうにも・・かなり大掛かりになりそうですが・・。」
カケルはそう答えると、頭の中に描いている水路の様子を摂津比古に話した。
「それは良い。ここに大きな水路ができれば、濠にもなる。大和の方から兵が来た時の防御にも使える。是非にも作るのだ。・・良かろう。すぐに人を集めよう、それから、寝泊りできる館も作ろう。賑やかになりそうだ。・・困った事があれば、すぐに言うのだぞ。」
摂津比古は、上機嫌だった。すぐに、水路作りのために必要なものや人夫が集められた。西海にもその知らせが届き、この仕事を手伝えば、食べ物にありつけると聞き、貧しい里から多くの人が集まった。難波津の港には、多くの人が集まり、一段と賑わいを見せた。
カケルは、十日ほど掛かって、ようやく水路を作る場所を決める事ができた。その間は、松原の中で野宿しながら、近くの里から運ばれる食べ物や野鳥の狩りをしながら過ごした。厳しい毎日だったが、カケルに従う者達は生き生きと働いた。《念じ者》と呼ばれ、忌み嫌われ、日陰で生き延びてきた者たちは、役に立てる場所、生きる意味を実感できる場所に居られることが何よりの幸せだった。
ほぼ、内海から外海まで、水路を作る場所は決まった。しかし、それは途轍もなく長く、カケルに従っている者だけの手では、何年掛かるかわからぬほどの大仕事だと判った。
事の大きさにカケルも戸惑いを隠せなかった。皆、呆然としていた頃、摂津比古が多くの人夫を引きつれてやって来た。そして、すぐに、少し離れた高台に、物見櫓と人夫たちが寝泊りできる小屋や炊事場なども作られた。
物見台の上に、摂津比古とカケルが居た。
「これは大仕事だな。」
水路を作る辺りの木や草は刈られたため、真っ直ぐ南北に道が開いたように見える。摂津比古はじっくりと、水路を作る場所を眺めながら、何かを考えている。
「これが出来れば、西海の荷を船のまま都まで運びいれる事もできるな。」
摂津比古は、「よし」と小さく呟いた。
「この地に新たに館を築こう。難波津の港とここと二つに港を作り、もっと大きくしよう。・・そうだ、都に負けぬ大きな里にするのだ。」
摂津比古には、水路を行き交う船とそれを見下ろす館の高楼が見えているようだった。
いよいよ水路作りが始まった。
イワヒコとソラヒコが、カケルの指図を皆に伝える、たくさんの荒縄や杭が揃えられた。集まった人夫たちは、鋤や鍬を手に集まった。かつて《念じ者》と呼ばれた男達は、何人かの人夫をまとめて仕事の差配をしている。幾つもの集団がそれぞれの持ち場を定めて仕事に取り掛かった。水路は、ちょうど真ん中に当る場所から掘り始めた。
砂が堆積した場所だったために、比較的掘り易かったが、深く掘るとすぐに崩れ埋まってしまう。分かれて作業をしているあちこちで、せっかく掘った場所が一日もすれば埋もれてしまうことが続いていた。
「カケル様、今のままでは、水路を掘りあげることは出来ません。何か策を考えねばなりません。」
皆を指揮していたソラヒコがカケルの元へ来て告げる。淵辺で水路を掘った時は、泥濘の中で苦労したが、ここでは別の苦難が待っていた。

1-19砂丘.jpg

1-20 知恵と絆 [アスカケ第5部大和へ]

20. 知恵と絆
「主だったものを集めてください。」
カケルは、作業の頭を務めている者を集めた。皆、掘ってもすぐに崩れる事態に、難儀をしている表情だった。
「今のままでは水路を掘りあげることはできないでしょう。やり方を変えねばなりません。」
集まった男たちは、カケルの言葉を待った。
「水を引き入れるためには、水路は内海の水面よりも深くせねばなりません。それには、今より更に深く掘らねばなりません。しかし、深く掘り下げれば壁面が崩れてしまいます。杭を打ち込んでも支える地盤が脆く、すぐに倒れてしまうでしょう。」
「では、一体どうすればよろしいのでしょうか?」
頭の一人が訊くと、カケルは首を横に振り答えた。
「今、私にはそれを解決する策がありません。」
皆、意気消沈した表情だった。集まった頭の一人、かなりの年配の男がふと思いついて言った。
「まっすぐ掘ると崩れてしまいます。崩れぬように斜めに掘り、表面を固めればどうでしょう。昔、我が里で長の墓を作る時、土盛りをして表面に石を並べ、押し固めて崩れぬようにしておりました。・・・ただ、これだけの水路となると・・・。」
カケルはその男の提案を聞いて言った。
「確かに、全てに石を敷き詰めるのは・・難しいでしょう。」
それを聞いてソラヒコが言った。
「ですが、緩やかな斜面にすれば崩れにくくはなります。今よりも・・倍・・いや3倍ほどの巾に広げてはどうでしょうか?」
「そうなると・・今よりも更に人手が必要だぞ!」「いつまで経っても先へは進まぬ!」
ソラヒコの提案に、集まった頭たちが思い思いに言い始めた。皆、随分疲れて苛立っていたのだろう。騒ぎが大きくなった頃に、イワヒコが遅れてやってきた。集まった男達が言い合いをしている様子を見て、イワヒコは驚き、大声でどやすように言った。
「何を騒いでいるんだ!」
皆、イワヒコの声に静まり返った。
ソラヒコが一通り説明すると、イワヒコがカケルに向かって言った。
「とにかくやってみましょう。このまま言い合いをしていても限が無いでしょう。・・俺のところでやってみます。それでどんな具合か確かめてみましょう。」
イワヒコは、集まった頭たちを引き連れて、自分たちが受け持っている場所に戻って、すぐに仕事を始めた。すでに掘っている場所から、さらに巾を広げ掘っていく。崩れそうになる場所は斜めに掘り、水をまき押し固めた。周囲の山から、小石や岩を掘り出して、軟弱なところには捲き、固めた。イワヒコは手際よく仕事を進めた。それを見ていたほかの頭たちも、納得した様子だった。一人、また一人と、自分たちの持ち場に戻り、イワヒコがやったのと同じように仕事を始めた。
二ヶ月ほど仕事が進むと、掘り始めた場所からある程度水路の大きさがわかるようになってきた。物見台に登ると確実に水路は、外海と内海に伸びているのが判る。
「随分進んだようだな。」
摂津比古は、週に一度ほど顔を見せて、仕事の進み具合を見るようになっていた。

ある日、カケルは、摂津比古を内海の畔に案内した。水路が出来上がる前にやらねばならぬ事があったのだった。
「摂津比古様、ここに水門を作らねばなりません。大雨の度に溢れる水をここから外海へ押し流す。ものすごい力が掛かるはずです。かなり頑丈なものを作らねばなりません。」
水際にそのような水門を作る技など知る由もない。摂津比古は、カケルの描いている水門がどのようなものか考えも及ばなかった。
「岩を切り出して並べます。ここら一帯に岩を積み、水路の入口までつなげます。」
「岩を切り出す?・・そのような事ができるのか?」
「はい。忍海部一族の方なら、きっとその技をお持ちのはず。私がお願いに参ります。」
カケルの言葉を聞いて、摂津比古は制するように言った。
「いや、それは私が行こう。明石との契りを交わす為にも、一度、オオヒコ殿にも会っておきたい。忍海部一族の方々とも懇意にしたい。その役は私が担おう。」
すぐに、摂津比古は船を出し、明石へ向かった。三日ほどで、摂津比古は戻ってきた。
忍海部一族の男が十人ほど船に乗っていた。そして、明石からオオヒコも手伝いにきた。
「カケル殿、また大きな仕事をされているようだな。」
オオヒコは再会を喜んだ。
「港を作る時、私も難儀した。我らは、海の中の石を運び、積み上げ、足場を作り仕事をした。きっと何か役に立つと思ったのだ。」
オオヒコはそう言うと屈強な男を数人紹介した。
「水の中に入る仕事なら我らに任せてくだされ。魚のごとく、潜り仕事をします。」
忍海部一族の男たちは、見慣れぬ道具を携えていた。
「カケル様、おかげで一族はみな元気でおります。食べ物にも困らずに済むようになりました。熱心に、ハガネ作りも出来ます。さあ、岩切なら我らがやりまする。」
男達は、ハガネで出来た道具を見せた。
「これを岩に打ち込み岩を割ります。どのような形にも割りますゆえ、なんなりも申し付けてくださりませ。」
こうして、水門作りが始まった。

1-20大和川湿原.jpg

1-21 火急な用 [アスカケ第5部大和へ]

21. 火急な用
水路作りが始まって、一年近くが経とうとしていた。水路は七割がた出来、見事な水門も完成間近となっていた。
「カケル様!カケル様は居られぬか!」
摂津比古の使いが慌てた様子で、水門作りの場所にやって来た。
カケルは、切り出された岩を積み上げる仕事を見守っていた。
「いかがされましたか?」
摂津比古野使いのうろたえた様子に、仕事をしていた男達も手を止めて摂津比古を見た。
「摂津比古様が火急の要件と言われて・・すぐに館へおいで下さい。」
カケルは、ソラヒコたちに当面の段取りを伝えるとすぐに、摂津比古の館へ向かった.

館に行くと、アスカもカケルを待っていた。
二人が広間に入ると、摂津比古は敷物の上に座りこんでいて、まだ迷っている様子だった。
「水路作りはまだ途中ゆえ、私も苦慮したのだが・・。」
しかし、カケルは、重大なことがおきたのだろうと察した。
「何があったのですか?」
「・・うむ・・実は、都におわす葛城の王君が危ういとの知らせが届いたのだ。都は、豪族達が争い、戦で荒れておる。終に、その火が葛城の王君にも近づいておる。」
「逃れるか、戦う術をお持ちではないのですか?」
「葛城の王君は、かねてより、大和皇君の争いには加わらぬと申され、都の奥深くにお隠れであった。だから、兵もほとんどお持ちではないのだ。」
「では、私に、王君をお救いする役をと・・申されるのですね?」
「ああ・・だが、多くの兵を引き連れていくのはかえって王君を危うくする。人目を忍び、館へ行き、何としても、王君をここへお連れしたいのだ。」
カケルは戸惑った。
「オオヒコ殿から、そなた達が西海で起こした奇跡を聞いた。そなた達ならば、この役ができるのではないかと考えたのだ。」
摂津比古は、是非にもと言う様子でカケルとアスカに話した。
難波津に来て、二年近くが経とうとしていた。アスカの父である葛城王との面会を心待ちにしていたアスカは、葛城王の窮地を聞きいてもたってもいられない気持ちだった。
「戦の中へそ、なた達を送り出すのは、本意ではない。しかし、このまま葛城の王君の身に万一の事があれば、そなた達をここに引き止めたことが仇となってしまうであろう。その前に、なんとしても葛城の王君に逢い、お救いしたいのだ。」
摂津比古の思いは痛いほど判った。だが、見知らぬ土地へ忍び込むのは容易い事ではない。
アスカは、カケルをじっと見つめ、カケルの決断を待った。
「わかりました。すぐにも出立いたしましょう。ですが・一人、道案内をしていただける者をお願いします。不案内な土地ではやはり・・。」
「そうか、行ってくれるか。・・すでに案内役は控えておる。おい、出て参れ。」
摂津比古の声に、広間の奥から女人が一人顔を出した。
「この者が、都の様子を知らせてくれたのだ。ハルヒと申す。山中を抜け、ここまで来た。この者なら、兵に見つからず、葛城王の処まで案内できるはずだ。」
紹介されたハルヒという女人は、アスカと同じくらいの歳格好で、白い麻服を纏い、長い黒髪は一つに縛られていた。
顔を上げると、強い眼差しでカケルとアスカを見た。
「北より多くの兵が寄せているという話を聞き、すぐに難波津へお知らせせねばと参りました。王君は、病で臥せっておいで、逃げる事もならず、何としてもお守りせねばなりません。」
真っ直ぐに二人を見つめ、ハルヒはしっかりと話した。
「お傍には誰か居らぬのですか?」
カケルの問いに、はっきりとした口調で言った。
「イコマのミコト様が居られます。が、兵は僅か。ほかに、身の回りのお世話をする女人が数人ほどです。」
「わかりました。では、支度を整えすぐにも参りましょう。アスカ、供に行くか?」
アスカは強く頷いた。

カケルとアスカは、アナトの国で貰った旅の衣服に着替え、剣と弓を持ち、わずかな食料を携えて旅立つ事にした。館を出て、アスカは急いで治療院に行き、ナツに全てを託した。
「大丈夫です。教えられたとおり、しっかり務めます。」
ナツは飛鳥の手を強く握り、道中の無事を祈った。
館の前では、港にいる者にもカケルとアスカが旅立つことが知れ、皆が見送りにやってきた。
「必ずや、葛城の王君をお連れいたします。」
カケルは皆に誓い、館を後にした。カケル一行は、水門を作っているところに立ち寄り、ソラヒコに全てを任せると告げた。岩の切り出しを手伝っていた、忍海部の男が、女二人を連れ旅立つカケルを見て、慌ててやってきた。
「こいつをお連れ下さい。」
名は、モリヒコと言った。二十歳を少し過ぎたほどで、カケルに劣らぬ屈強な若者であった。
「巫女様より、カケル様をお助けせよと命じられておりました。一族の中では一番の弓使いとされております。きっとお役に立てるはずです。」
四人は、大和めざし旅立った。

1-21二上山.jpg

2-1 二上山の峠道 [アスカケ第5部大和へ]

第2節
1. 二上山の峠道
大和に入るには、草香の江に注ぐ大和川を遡るのが、もっと容易な道だったが、そこは、此度、戦を仕掛けている平群(へぐり)一族の里であり、容易く葛城王の下へは辿り着けない。さらに南の二上山の峠越えでも、北を抜ける穴虫峠を越えても、円(まどか)一族の里を通らねばならなかった。円一族は、平群一族と戦を構えており、此度、葛城の王君を脅かしているのも、円一族ではないかと考えられた。
四人は、更に南側にある、もっとも厳しい竹内(たけのうち)峠を通る事にした。
季節は、晩秋に入っていた。山の木々も葉を落としはじめ、山道は比較的歩きやすい。
難波津を発って二日目には、峠近くに達していた。さすがに日暮れも早く、寒さもひとしおとなり、四人は峠に向かう途中で、岩の窪みを探して休む事にし、焚き火を作り、身を寄せ合った。

カケルとアスカにとっては、久しぶりの旅であった。
九重から難波津まで、長い長い道中をともに凄し、時に命を落としそうな危険な目にも遭遇してきた。しかし、難波津についてから2年近く、安住の暮らしを過ごしてきた。再び、こうした旅に出ようとは思ってもいなかった。
「アスカ、寒くは無いか。」
カケルが労わるように訊いた。アスカは、何か懐かしい気持ちに包まれていた。
モリヒコとハルヒは年も近く、すっかり意気投合しているようだった。
「葛城の王君は如何なる御方なのですか?」
アスカは、ハルヒに訊いた。ハルヒは眼を閉じ、王君の姿を思い浮かべるように言った。
「とても穏やかで、聡明で、どのような身分にものにも分け隔てなく接していただける御方です。幼き頃、母が病になり、それをお知りになった大君が館へ入れてくださいました。母はまもなく亡くなりましたが、私はそのまま館へ置かれ、他の女人たちとともに王君のお世話をいたしておりました。」
「父様は?」
モリヒコが訊いた。ハルヒは、少し悲しげな表情を浮かべ答えた。
「知りませぬ。母は、大伴一族の生まれとは聞きましたが、父の事は・・。知らぬまま、母を亡くしました。」
「では、葛城の王君は、ハルヒの父様のようなものか・・。」
モリヒコが呟くように言った。
「ええ・・我が父と思ってお世話をさせていただいておりました。」
ハルヒやモリヒコは、アスカが葛城王の娘とはまだ知らなかった。アスカは、ハルヒを少し羨ましく感じていた。
「モリヒコ様の父様、母様は?」
ハルヒが訊く。モリヒコは、少し戸惑うような表情で答えた。
「我が忍海部一族は、生まれてすぐ、ほかの子とともに過ごすのが掟。皆が一族の子であり、巫女様が大母様であり、長様が大父様と決まっている。」
「でも、父様、母様はいらっしゃるのでしょう?」
「ああ・・だが、そう呼ぶことはなかった・・。」
隠れ里である忍海部一族が、息を殺すように生き伸びる定めの中で、一族の結束を強めるための厳しい掟なのだろうとカケルは思った。
「アスカ様の父様や母様は?」
ハルヒは、まるで少女のように無邪気に尋ねた。アスカはどこまで話すべきなのか、答えに困った。カケルは、すぐにアスカの様子に気付いて、代わりに答えた。
「アスカは、遠く九重にある、ヒムカの国、モシオの里で私と出会った。まだ幼い少女だった。親を知らず、里の長に拾われたのだったな。」
アスカは、カケルを見て頷いた。ハルヒは、すぐに、いけない事を聞いてしまったのだと感じた。
カケルは、その様子に構わず続けた。
「私の里は、九重の高千穂の峰の麓、ナレの村。父はナギ、母はナミ。強き父と優しき母であった。山深いところの里ゆえに、暮らしは厳しかった。だが、皆、助け合い生きていた。魚を獲る術、山の実を採る事、火を起こす事・・何もかも、村の皆が教えてくれた。諍いなど無く、長閑な里であった。」
「何故、旅に?」
ハルヒは素朴な疑問をぶつける。
「ナレの村には、アスカケという掟がある。」
「アスカケ?」
「ああ、十五の年になったら、自分の生きる道を見つける為、一度里を出るというものだ。もちろん、自らの意思で行く決断をする。試しの儀式を受け、長老から許されたものだけが出られるのだが・・・。私は、イツキとエンの三人で高千穂の峰を越えて、ヒムカの国へ向かった。」
「イツキ様?エン様?」
ハルヒはすぐに疑問に感じたことを訊ねる。
「イツキは、私の妹同然に育った。・・今は・・邪馬台国の女王として九重を治めている。エンは、幼馴染で、良く遊んだ。エンは、アスカケの中で、イツキの守人となり、ずっと守ってきた。今も、邪馬台国で、イツキの傍にいるはずだ。」
目の前の焚き火を見つめながら、カケルは、アスカケの旅の様子を、ハルヒやモリヒコにゆっくりと聞かせた。カケルの話しを寝物語に、夜は更けていった。

2-1落ち葉の山道.jpg

2-2 転落 [アスカケ第5部大和へ]

2. 転落
翌朝、夜明けとともに、四人は峠へ向かった。
「あの峠を越えれば、葛城の王君のおわす館はすぐです。」
ハルヒは先を急ぐ様子で、峠へ向かう道を登って行く。後に、モリヒコ、アスカと続き、最後をカケルが歩いた。ようやく、峠の天辺が見えたときだった。
「静かに!」
モリヒコが、ハルヒの背を押して身を屈めた。アスカもカケルもすぐに身を屈め、先の様子を目を凝らして探った。
峠には数人の男の姿が見えた。
「イコマのミコト様の手の者か?」
モリヒコが囁くように、ハルヒに訊ねた。
「いえ・・見知らぬ者です。・・ですが、あの服は、おそらく平群の兵だと思います。」
「いかがしましょう?」
モリヒコはカケルを見た。
「ここで騒ぎを起こすと、葛城には着けぬ。別の道を行こう。」
カケルの答えに、モリヒコやハルヒは周囲の山を見渡した。
峠の下には沢が流れているが、沢伝いの道は険しそうだった。
四人は尾根伝いに山を越える道を選んだ。深い森の中、晩秋に入り草は枯れ始めていたが、道なき道を進むのは容易なことではない。枯れ枝が遮る中を、モリヒコが先頭に立ち、剣で切り開きながらゆっくり進む。大きな音を立てると、山鳥が騒ぎ、里のほうにも知れるかもしれず、少しずつ少しずつしか進めなかった。
急な斜面、足を置く場所もない切り立った崖もゆっくりと進んだ。山の頂上に達した頃には、日暮れになり、火を起こす場所も無く、四人は大きな木の窪みに身を寄せ合い、朝を迎えた。
下りに入ると、さらに厳しい道程だった。アスカもハルヒも疲れきっていた。杉林に入り、すこし歩きやすくなったところで、ふっと気が抜けたのか、ハルヒが、杉の枯葉が積もった急な斜面を転がり落ちた。慌てて、モリヒコがハルヒの衣服の端を掴むと、モリヒコも一緒に急な斜面を転がり落ちていく。
「ハルヒ様!モリヒコ様!」
アスカが転がり落ちていく二人を見て叫んだ。カケルは、とっさに飛び上がり、杉の木立を蹴り、まるで山猿のような速さで、転がり落ちる二人の後を追った。
転がり落ちる先には、大きな岩が見える。このままでは二人とも岩にぶつかり大怪我をしてしまう。その時、カケルの心臓がどくんと音を立てた。すると、手足が獣のように太くなり、髪の毛が逆立った。
「グル・・グルルーッ。」
低い唸り声を発したと思うと、一気に、大岩まで飛び移った。そして、転げ落ちてくる二人の前に立ち、両腕を広げてがっしりと受け止めた。ハルヒは、僅かなかすり傷をおっていたが、大したことはなかった。転がり落ちる途中、モリヒコはハルヒの身体をしっかりと抱きとめていたのだった。モリヒコも、腕に怪我をしていた。
「大丈夫か?」
カケルは、獣人の姿のまま、二人に声を掛けた。
転げ落ちる時強く閉じた眼をゆっくり開いた二人は、恐ろしきカケルの姿を見て、言葉を失った。モリヒコは驚き、剣を抜こうとしたが強い痛みが走り、動けなかった。
「待って!・・それは、カケル様です!」
斜面の上のほうから、ゆっくりと降りてくるアスカが叫んだ。
その言葉に、気が緩んだのか、落ちた衝撃が強かったのか、二人とも気を失ってしまった。

二人が目を覚ますまで、アスカとカケルはその場に留まった。
日が傾き始めた頃に、二人はようやく、目を覚ました。
「驚かせて済まぬ。・・・あれが私の恐ろしき力なのだ・・・。」
カケルは、大岩に腰掛けると溜息をつくように言った。
ハルヒもモリヒコも、どう答えてよいのか判らなかった。その様子を見て、アスカが言った。
「あのお力が、これまでも多くの命を救ってきたのです。」
ハルヒは、カケルのほうを見ることが出来ず、地面に視線を落としたまま、
「いつもあのようなお姿になられるのですか?」
その言葉には、恐怖心がはっきりと感じられた。
「いつもではありません。・・やむなき時だけです。それに、恐ろしいのは外見だけなのです。怖れる事はありません。命を救う為にだけ、あの姿になられるのです。判ってください。」
アスカの言葉に、二人は頷いた。
「さあ、行きましょう。歩けますか?」
アスカが声をかけると、二人はゆっくりと立ち上がった。ハルヒは、モリヒコの怪我を心配し、かばう様に寄り添って山を降りた。この旅の間に二人の距離が縮まったのが、アスカやカケルにも充分に判るほどだった。

中腹まで降りたところで、小さな小屋を見つけた。
おそらく、山猟師が猟のために設えたものなのだろう。何度か声を掛けたが返事はない。四人は、中に転がり込むと、小屋の隅に身体を横たえた。
疲れと空腹で、火を起こす事もせず、そのまま、皆、眠り込んでしまった。

2-2斜面.jpg

2-3 山の民 [アスカケ第5部大和へ]

3. 山の民
夜中に物音がして、カケルが目を覚ました。
小屋の真ん中にある、囲炉裏端で、鹿の皮を身につけた翁が座り、火を起こしていた。
「勝手に入ってしまって、申し訳ありません。」
カケルの言葉に翁は振り向いた。
「ここは猟師が夜を過ごす為に作った小屋じゃ。誰が使おうと構わぬ。」
翁はそういうと再び、囲炉裏に向かい火の加減を見た。カケルは立ち上がり、翁の傍に行くと、脇に座り込んだ。
「わしは、當麻の里の猟師、シシトじゃ。そなたらは、山を越えてきたのであろう。」
「はい、難波津から参りました。・・わたしはカケル、伴は、アスカとモリヒコ、それから、葛城の王君の許から参ったハルヒです。・・葛城の王君の館へ向かう途中でした。」
「そうか・・・葛城の館へ向かうのか・・じゃが、遅かったようじゃな。」
「王君の館は兵に襲われましたか・・。」
「詳しくは判らぬが・・二日ほど前じゃったか・・館は火に包まれたと聞いた。」
「では、葛城の王君は?」
「判らぬ。・・・しかし、その後、円一族の兵どもが、山狩りに入っておるところを見ると、王君はお逃げになられたのではなかろうか・・。」
カケルは翁の話をじっと聞き入っていた。そして、翁に聞いた。
「大和の戦はどうなっているのでしょうか?」
「今は、円一族が平群一族を打ち破り、争いが一旦収まりつつあるようじゃ。・・愚かなものじゃ・・もとは一つの一族であったものが争い、殺しあうなどとは・・・。」
「この先はどうなるのでしょう?」
「さあな・・円一族が大和を握るのはまだ先の事であろう。戦はまだまだ続くにちがいあるまい。大和の民はみな苦労をしておるというのに・・・何のための皇君なのか・・・我ら、當麻一族は、戦が始まってから、まともに畑仕事も出来ず、食べ物にも事欠くようになっておる。早く戦が収まり、以前のような暮らしに戻りたいものじゃ。」
「シシト様、戦を収める術はないのでしょうか?」
カケルは唐突だと感じながらも翁に訊いた。
「先の皇君が崩御され、次の世を争う戦じゃ。先代の皇君には皇子は居られぬ。皇女ばかりであり、まだ幼き故に、豪族どもが力を競い、何としても大和を手に入れようとしておるのだ。平群一族と円一族、それに、蘇我一族、大伴一族といずれも、闘いを繰り返して居る。それに、もっとも強き一族が動いておらぬ。」
「最も強き一族?」
「ああ、大和の東を治める、物部一族じゃ。先の皇君を支えておった一族じゃが、此度、まったく動いておらぬ。豪族どもの戦の顛末を見届けてから、動き始めるつもりじゃろう。」
「當麻の方々はいかがされるのでしょう?」
「我らは、皇君を奉じるほどの者ではない。・・この地で、慎ましく暮らせれば良い。誰が皇君になろうが、どこの一族が大和を治めようがかかわり無い事じゃ。」
「もう一つお教え下さい。・・大和には、當麻の方々のように、豪族たちとは関わらぬと決めて居る方々はいらっしゃるのでしょうか?」
翁は少し考えてから、やや憤慨気味に答えた。
「そもそも、大和は、皇君の国。強き皇君が居られれば、豪族などという者など生まれなかった。渡来人の術を得て、皇君に近づき、皇君から、領地や財を得たに過ぎぬ者達なのだ。大和の民にしてみれば、怪しき輩。奴らに関わらぬと決めた民のほうが多いはずだ。」
「そうですか・・・。」
何処も、権力や財力を競い、世を乱す者たちが居ることに、カケルは落胆したように言った。
「まあ、我らがあがいたところでどうにもならぬことじゃ。・・そなたらも、命を粗末にせず生きたほうが良い。・・疲れて居るのじゃろう・・火の番はわしがやるゆえ、そなたも眠られた方が良い。さあ・・」
翁の言葉に、カケルは再び横になり、眠ることにした。

翌朝、アスカが一番に目覚め、朝餉の支度をしていた。ハルヒもモリヒコも、朝餉の支度の音に起こされた。
「アスカ、翁が居られたであろう?」
カケルがアスカに問うと、アスカは麦を入れた雑炊を碗に移しながら答えた。
「ええ、日の出とともに発たれました。この麦は、シシト様に戴いたものです。何かあれば、當麻の里へ寄るようにと言い残されました。」
アスカの話に、ハルヒが反応した。
「え?シシト様?・・シシト様が居らしたのですか?」
「知っておるのか?」
モリヒコが問う。
「ええ・・・當麻一族の長様です。葛城の王君とも、親しくされておられました。温厚で、誰よりも物知りな御方。戦を嘆き、一族を山深くに移されたのです。葛城の王君の事は何かお話されていませんでしたか?」
ハルヒの問いには、カケルが答えた。
「先日、館は火に包まれたそうだ。・・何処かへ逃げられたようだが・・・。」
「まあ・・なんてこと・・」
ハルヒは、思わずその場に泣き崩れてしまった。

2-3山の小屋.jpg

2-4 屋敷 [アスカケ第5部大和へ]

4. 屋敷
「とにかく、葛城の館へ向かいましょう。」
泣き崩れたハルヒを、モリヒコが支えるように抱え宥めた。
四人は、アスカが拵えた朝餉を食べると、すぐに館へ向かった。
山を下る途中には、田畑が広がり、小さな家屋が建ち並んでいる集落が見えた。ハルヒは、里の様子を探るように見ていたが、急に振り向いて言った。
「里に出ると、円一族の兵共がいるでしょう。このまま、山裾を南へ向いましょう。」
四人はできるだけ木の影に隠れるようにしながら南へ向かう。
葛城の里に入ると、様子を伺いながら王君の住まいである館へ急いだ。近づくにつれ、ハルヒはただならぬ様子に気づき、ぐっと唇をかみしめた。
目の前に高く見えるはずの館の大屋根が見えない。そして、周囲には、焦げ臭い煙が漂っている。
シシトが教えてくれたとおり、館は焼け落ちていた。
門を入ると、館を支えていた太い柱が数本、鏡面だけが黒く焼けて立っている。
「王君様・・・。」
ハルヒは堪えきれず、その場に蹲り、突っ伏して泣いた。アスカは背中をそっと抱きしめる。
カケルとモリヒコは、焼け落ちた跡を丹念に見て回った。
「葛城の王君はきっと逃げられたに違いない。」
カケルが言った。モリヒコも、焼け跡の真ん中に立ち、呼応するように言った。
「これは、外から射掛けられて燃えたのではありませんね。・・きっと、迫り来る兵を知り、中から火を放ったのでしょう。・・それが証拠に、亡骸が一つもない。きっと王君はどこかに隠れていらっしゃるはずです。」
モリヒコの言葉に、ハルヒは顔を上げ、「どこに?」と尋ねた。
カケルが言う。
「イコマのミコト殿もお傍におられるはずだろう。どこか、身を寄せるところに、心当たりは?」
ハルヒは必死に考えた。
葛城の王君を訪ねて来た者、イコマのミコトが懇意にしていた者、この辺りの里の者・・いろいろと頭を掠めるものの、いずれも決め手がなかった。
「王君は、体調を崩しておいででしたから・・さほど遠くまでは行かれぬはず・・・しかし、この辺の里に居れば、すぐに兵たちに見つかってしまうでしょう。・・判りません・・・。」
ハルヒはそう言うと項垂れた。
「當麻の里とは懇意だったのか?」
カケルはハルヒに訊いた。
「ええ・・シシト様は、幾度か、館へも参られました。・・でも、小屋ではシシト様は何もおっしゃっていなかったのでしょう?」
「おそらく、シシト様も王君を探しておられたのかもしれぬ。・・それに、我らの素性も判らず、何も騙られなかったのかも知れぬ。」
「では、當麻の里へ居られるかも知れぬと?」
話を訊いていたモリヒコが訊いた。
「判らぬが・・近くに潜んでおいでかも知れぬ。・・」
「では、當麻の里へ行きましょう。」
ハルヒは立ち上がった。

「何者だ!」
突然、館の塀越しに声が聞こえた。
振り向くと、塀の上に、男が二人身を乗り出して、こちらを見ていた。円一族の兵であることは、剣を手にしている様子で直ぐに分かった。モリヒコは、咄嗟に弓を構えた。
「殺してはいかん!」
カケルがそう言うのと同時に、モリヒコは弓を引いていた。
モリヒコの放った矢は、男が乗っている塀を居抜き、その勢いで塀はバラバラと崩れた。
「うわあ!」
兵たちは、塀が崩れ落ちるのと同時に、地面に転がった。そして、衝撃の強さに驚き、慌てて、逃げ出した。モリヒコはすぐに男たちの後を追うために門の外へ走り出た。
館から真っ直ぐ伸びる道の向こうに、数人の男達の姿が見えた。先ほどの男は、仲間と思われる兵たちの下へ走っている。
モリヒコはすぐに屋敷内へ戻った。
「大勢の兵達が館のはずれからやってきています、すぐに逃げましょう。」
カケルは頷き、言った。
「モリヒコ、そなたは、アスカとハルヒを連れて、先ほどの小屋へ戻ってくれ。・・おそらく、シシト様はあそこに戻られるに違いない。今一度、話を伺うのだ。きっと、シシト様は、王君の所在をご存知ののはず。」
「カケル様は?」
「囮となり、兵達を遠ざける。・・・すぐに私も小屋へ向かう。迷っている時は無い。さあ、早く行くのだ。頼んだぞ!」
カケルは、そう言うと、アスカを見た。アスカもこくりと頷いた。
カケルは、弓を構え、館の門へ向かった。
「さあ、参りましょう。裏手から、山道へ。さあ。」
モリヒコは、ハルヒとアスカを連れてすぐに屋敷を出た。周りに注意を払いながら、静かに、山裾へ身を隠した。

2-4火事.jpg

2-5 円(まどか)の兵 [アスカケ第5部大和へ]

5. 円(まどか)の兵
カケルは、三人が屋敷を出たのを見て、弓を構えた。そして、天に向けた矢を放った。
矢は、大きく弧を描き、高い唸り音を上げる。迫り来る兵達は、空高くから響く音に気付き、見上げた。と同時に、すぐ目の前の地面に、ドスンという音と供に、矢は突き刺さった。
「何だ!・・一体、どこから放ったのだ!」
兵の真ん中に居たひときわ体格の良い男が言った。
カケルは、屋敷の塀に飛び乗り、ひらりと舞い上がると、モリヒコ達とは反対側に飛び出し、家の屋根に飛び乗った。そして、屋根を次々に飛び移り、一気に兵達の背後に回った。
次の矢も、同様に高い風切り音を唸り、空を舞う。そして、今度は、兵の後ろの地面に突き刺さった。あたかも、兵の後ろから飛んできたように見えた。
「敵襲か!後ろを取られたぞ!皆の者、構えよ!」
先ほどの男が、そう号令すると、一斉に兵達は弓を構えた。カケルは、里の外れに立っていた大きな楠木に飛び移ると、再び、矢を放つ。今度は、やや斜めに構え、兵を狙った。
「ウグッ!」
弓を構えた兵の一人が、いきなり唸り声と供にその場に倒れた。
兵は、カケルの放った矢に太腿を射抜かれていた。
「うわあ!」
見えぬ敵が足を射抜いたのを目の当たりにして、兵達はうろたえた。皆、その場に突っ伏して様子を伺った。カケルは、今度は、わざと姿を見せてから、もう一本矢を放った。次の矢は、兵の真ん中にすっくと立っている頭目らしき男の脇を掠めて、地面に突き立った。
「居たぞ!あいつだ!追え!」
兵達の頭目と思われる男は、そう号令すると同時に、呼子を吹いた。
あたりに甲高い船の音が響く。すると、周囲から呼応するように短く笛の音が響いた。
カケルは、葛城の館がある里を走り出ると、東に広がる湿原に向かった。楠木の上から、湿原の中に、小船が一艘、隠れるように置かれているのを見つけていた。
カケルは、船の中に転がり込んで身を隠した。
「何処へ行った?よく探せ!」
頭目の号令に従って、兵達が徐々にカケルの潜んでいる湿原へ迫ってくる。
カケルはゆっくりと小船を出した。
「居たぞ!あそこだ!矢を射るのだ!」
岸辺まで迫っていた兵達は、葦の原から漕ぎ出した小船を見つけて、盛んに矢を放った。しかし、兵達の矢はカケルには遥かに届かない。
カケルは小船に立ち上がり、再び、矢を放った。次の矢は、先頭で矢を放っている兵の腕を見事に射抜き、兵はその場にのた打ち回った。その様子に周りの兵達は怖気づき、弓を降ろし始めた。
「何をして居るのだ!早く、射抜け!さあ!」
先ほどの頭目が、最前列まで顔を出し、兵達をどやしつけている。それでも弓を構えようとしない兵を足蹴にし、剣を抜き、兵の一人を切り殺したのが見えた。
「何と、惨いことを。許せぬ!」
カケルは、頭目を狙い再び弓を構えた。当の頭目は、それでも、兵達が怖気づき、なかなか弓を構えないのを見て、兵から弓を取り上げ、カケルのほうを向いて弓を構えた。
すでにカケルは狙いをつけて構えていた。
ビュンと矢を放つ音が同時に響いた。頭目の放った矢は、カケルの小船の脇を掠めて、水面に落ちた。カケルの放った矢は、高い音を響かせて飛び、頭目の首を跳ねてから、後ろに立つ楠木を貫いたのだった。胴体だけになった頭目は、兵達の前にどさっと崩れ落ちた。
「うわあ!」
頭目の周りに居た兵達は、あまりの出来事に皆腰を抜かした。そして、這いずるようにしながら、ちりぢりに逃げようとしている。
「一体何事だ!」
辺り一面の空気を止めるほどの強い声が響いた。
派手な甲冑に身を包み、大きな剣を腰に付けた男が、数人の屈強な男を従えて姿を現した。
その男は、円一族の兵を束ねる、カヤツヒコといった。平群一族との戦では、手下とともに平群の里へ入ると一気に勝利したつわものであった。カヤツヒコは、目の前に横たわる亡骸、そして、楠木に突き刺さった矢からぶら下がった頭目の首を見ながら、兵達を睨む。兵達は、皆縮み上がって動けない。一人の兵がぶるぶると震えながら、ゆっくりとカケルを指差した。
「あいつがやったのか?」周囲で蹲っている兵達も皆震えながら頷いた。
「何者だ?」
「葛城の館に・・居りました・・。」
一人の兵が、恐る恐る言った。
「何?葛城王の手の者か?」
その男は、ぐっとカケルと睨みつけた。
「このままにはしておけぬな。・・・おいっ!」
その声で、カヤツヒコの傍に居た屈強な男、三人が、大弓を取り出して構えた。通常の弓の倍以上ある大弓には、先端に鋼の鏃をつけた矢を構え、一気に放たれた。ブーンという鈍い音が響く。一本は、カケルが剣で弾いた。もう一本は、カケルの足を貫いた。そして、最後の一本が小船を貫き、カケルは足に矢を受けたまま、沼に投げ出された。
「これで良かろう。・・さあ、みなの者、葛城王を探し出すのだ!辺りをしらみつぶしに探せ!」
カヤツヒコはそう言い放つと、友の男たちと供に再び葛城の里へ向かって行った。

2-5楠木.jpg

2-6 隠れ里 [アスカケ第5部大和へ]

6. 隠れ里
葛城の館から脱出した、モリヒコ、ハルヒ、アスカの三人は、山裾を隠れながら、昨夜過ごした小屋を目指した。
「あれだ。」
小屋を見つけた三人は、沢を渡りかけたとき、声が聞こえ、すぐに身を隠した。
「やはり、誰か居た様だな。」「葛城王に違いない。」「この辺りにはもう居らぬか。」
口々に言いながら、剣を構えた兵が小屋から出てくるのが見えた。
「ダメだ、ここにも兵達が居る。」
モリヒコが小声で言った。
「こっちじゃ!」
背後から低い声が聞こえた。振り返ると、鹿皮を纏ったシシトが居た。三人はシシトに従い、沢を伝い、山中に入って行った。しばらく行くと、シシトは周囲を見回りながら、そっと目の前の草に手をかけた。そこには、草で覆い隠された洞窟があった。
「さあ、入られよ!」
中は真っ暗だった。
「そのまま、真っ直ぐ進むのじゃ。大丈夫じゃ、まっすぐ行くのじゃ。」
そう言われ、目の前を手探りで進んだ。しばらく進むと、先のほうにほのかに明かりが見えた。
天井が開き、日の光が射している。そこには、縄梯子が下がっていた。
「そこを登りなさい」
シシトに言われるまま、三人はよじ登った。穴から上に出ると、そこには小さな広場と小屋数軒が立ち並んでいた。
「われら當麻の隠れ里じゃ。窮屈じゃが、ここなら兵達はやって来ぬ。」
シシトは、そう言うと、三人を小屋の一つへ案内した。
「ハルヒ!無事だったか!」
そう言って迎えたのは、イコマのミコトであった。
「イコマのミコト様!」
「苦労をかけたな。無事、難波津へは行けたのだな。」
「はい。・・難波津の摂津比古様に次第をお話しました。それで、王君をお迎えするため、戻って参りました。」
「援軍は来るのか?」
「いえ・・戦を大きくせぬよう、カケル様とアスカ様、そして、モリヒコ様が王君を難波津までご案内するように参られました。」
ハルヒの話を聞き、イコマのミコトは落胆を隠しきれなかった。
「たったそれだけでは・・・・王君は病が治らず、山を越えるなどできぬぞ。・・・」
イコマのミコトは、そう言うと、小屋の隅を見た。そこには、王君が床に就いていた。
「一層、御悪くなられたのでしょうか・・」
ハルヒは心配そうに聞いた。
「ここまで逃げ延びる事はできたが・・随分お疲れの様子でな・・もはや歩けぬほどに衰弱なさっておられる。声をおかけしても、御返事もされぬ・・・。」
イコマのミコトは、そこまで言うと、大粒の涙を零した。
小屋の隅で控えていたシシトが口を開いた。
「一人、居らぬようだが?・・おお・・カケル殿は如何された?」
モリヒコが、葛城の館で兵に見つかり、三人が逃れられるようにとカケルが囮になった事を説明した。
「なんと、あれだけの兵を相手に?・・無茶な事を・・・円の兵の中には、怖ろしき力を持った男が居るのだ。カヤツヒコというツワモノは、身の丈ほどの剣を使い、大弓を弾く。供の三人の男も同様。たった四人で平群一族を滅ぼしたのだ。奴らと戦うなどとは、無事では済むまい。」
それを聞いて、アスカは、うっと声を漏らした。
洞窟に入ってから、何か、妙に胸騒ぎがしていた。以前に、九重でハツリヒコの館で同じようにカケルの行方がわからなくなった時と同じ、胸騒ぎがしていたのだった。しかし、今、ここではどうしようもなかった。
「どうなさいましたか?」
ハルヒがアスカの様子に気付き、尋ねた。アスカは無用な心配をかけまいと、必死に隠した。そして、言った。
「葛城の王君のご様子を診させて頂けませんか?」
「ええ・・そうしてください。・・アスカ様は難波津で様々な病を治療されておいでなのです。宜しいですね、イコマのミコト様?」
「ああ。構わぬが・・・。」
アスカは、横たわる葛城王の傍に跪いた。目の前に横たわる葛城の王君は、静かに目を閉じている。眠っているのではなく、体力がなく意識が朦朧としているようだった。
アスカはじっと顔を見つめた。白髪と細長の顔立ち、伸びた顎鬚も白くなっていた。
この人が本当に父様なのだろうか?須佐名姫の名を出せば、すぐに娘だと言ってくれるのだろうか、父と教えられた人の前に居ながら、どこか実感がない、不思議な感覚だった。
アスカは、そっと葛城王の手を取った。すると、全身に痺れるような感覚が走る。そして、脳裏に、見たこともない風景が浮かんできた。広い池を前に、美しい宮殿の通路で、若い女性が目の前に立っている。柔らかな微笑みを浮かべじっと見つめる様子から、アスカには、これは亡き母の若き頃に違いないと思った。おそらく将来を誓い合った場面なのだろう。きっと葛城王の記憶の中に、今でも須佐那姫の記憶が鮮明に残っているに違いなかった。

2-6洞窟.jpg

2-7 回復 [アスカケ第5部大和へ]

7. 回復
アスカは、葛城王の心の中に大事にされていた母須佐那姫の記憶に触れ、葛城王こそが父であると確信した。そして、アスカは胸元の首飾りを強く握り締め、一心に祈った。徐々に柔らかな光が首飾りから放たれ始め、次第にアスカと葛城王を包み込んでいく。
小屋にある囲炉裏端で、難波津の様子を話していたハルヒやモリヒコは、柔らかな光に気付いた。
「何だ・・一体何が起きたのだ?」
シシトも、イコマのミコトも驚いて、アスカと葛城王を見た。皆、初めてだった。
光は更に強くなり、小屋中を照らし始める。小屋の中にいるシシトたちも光に包まれ、なんとも穏やかな気持ちになっていた。冬の陽だまりのような温かな光、そして、手足からじんじんと命が吹き込まれてくるような感覚、痛みも辛さも全て忘れてしまえるような温かな空間にいるような感覚だった。
しばらくすると、徐々に光は小さくなっていく。はっと皆目が覚めた。
葛城王を見ると、真っ白になっていた頭髪が黒々としている。王は目をカッと見開いている。脇には、アスカが横たわっていた。
「どうしたことだ。あれだけ苦しかったのが嘘のようだ。」
葛城王はそう言うと、ふっと起き上がった。そして、病でやせ細っていたはずの手の平をしげしげと見つめた。
「王君様・・・。」
イコマのミコトはそれ以上声に出せなかった。もはや死を待つばかりと思っていた王が、以前にも増して元気な様子なのだ。
葛城王は、脇に横たわる娘を見つめて、イコマのミコトに尋ねた。
「この者は?」
「難波津より参った、アスカと言う娘です。・・不思議な光を発して・・何が起きたのか判りませんが・・王君様の病を治療すると申して、お傍に座りました。・・おい、アスカ・・いや・・アスカ様、いかがした?」
イコマのミコトはアスカの身体を揺り動かした。しかし、目を覚まさない。ハルヒが近寄り、ゆっくりとアスカを抱き起こす。アスカの顔からは精気が感じられず、手足も冷たくなっている。僅かに小さく息をしているようだった。
「いけません、このままではアスカ様のお命が・・・。」
ハルヒの声に、皆、慌てた。
すぐに囲炉裏に火が起こされ、今まで葛城王が横になっていた床に、アスカの身体を運んだ。
葛城王は、囲炉裏端に座り、シシトやイコマのミコトから、これまでの経緯や、アスカが目の前で、起こした奇跡の様子も聞いた。
「この娘が、我が命を救ったのだな・・・。」
葛城王は横たわるアスカの顔をしげしげと見つめて言った。
「九重の地から参ったというが・・生まれはどこなのであろう。光を以て命を救うとは・・」
それを聞いたハルヒが言った。
「王君様、あの光は、アスカ様の首飾りから発していたようです。何か特別な神の力を封印した首飾りではないでしょうか?」
それを聞いて、葛城王は立ち上がり、アスカの許へ行き、横たわるアスカがしている首飾りを見た。白い首筋に掛かった飾りが、アスカの胸の上に置かれていた。
「こ・・これは・・・。」
葛城王は、首飾りをそっと持ち上げ、じっと見つめた。
「この首飾りは、私が若い頃、須佐那姫に贈ったものだ。その証拠に、この刻印は我が王族の紋様。」
葛城王は、イコマのミコトに命じて太刀を持ってこさせた。太刀を引き抜くと、その刃には、アスカの首飾りと同じ紋様が刻まれていた。
「まさか・・・この娘は、須佐那姫の娘なのか?」
今一度、葛城王はアスカの顔を覗きこんだ。すると、手にしていた首飾りが再び光を放ち始めた。今度は、青い光だった。驚いて葛城王は首飾りをアスカの胸の上に落とした。すると、青い光がアスカの身体を包み込む。アスカはゆっくりと目を開け、起き上がった。
『葛城王君・・いえ、ササギの皇子様・・・お久しぶりでございます。』
その声は、アスカの声ではなかった。だが、葛城王には懐かしい声だった。
「おお・・須佐那姫・・そなた、須佐那姫なのか?」
『再びお会いできる事を切に願い、わが子に託して、守ってまいりました。こうして、ようやくお会いできました。』
須佐那姫が乗り移ったアスカの目から大粒の涙が零れた。
「すまぬ・・本当に済まなかった・・契りを交わし、命に代えてお前を守ると誓っていながら・・出来なかった。許してくれ。」
『良いのです。我が定めです。この子は、私たちの契りの証です。どうか、私と思って大事にしてやってください。』
「・・・我が皇女か・・そなたの思い、しかと受け止めた。命に代えて守ると約束しよう。」
葛城王はそう言うと、強くアスカを抱き締めた。青い光が二人を包み込む。そして、徐々に光は上昇し、やがて消えた。
アスカが我に返った。
「父様・・父様・・。」
今度は、アスカが葛城王を強く抱きしめる。
体の芯のほうで、何か足りなかった欠片が、ぱちんと埋まり、満たされた気持ちになっていた。

2-7青い光.jpg

2-8 葛城王の決意 [アスカケ第5部大和へ]

8. 葛城王の決意
アスカは、ようやく父との対面を果たし、これまでの経緯を葛城王に話した。モシオの里で初めてカケルに出会い、二度目には、アスカケの旅に同行し、九重を回り、邪馬台国を再興したこと。そして、アナトの国、伊予の国、吉備の国と、先々で人々を助けてきたカケルの話しをした。
「そなたにとっては、カケル殿はさぞかし大事な人なのだな。」
「ええ、モシオの里で息を殺して生きていた私に一筋の光を当ててくださいました。新たに命を吹き込んでくださったお方なのです。」
モリヒコやハルヒも、アスカの話を涙を流しながら聞いていた。
「カケル殿を迎えに行かねばならぬな。」
葛城王はそう言ってシシトを見た。
「はい。この里にはたどり着けませぬゆえ、かの小屋まで行かねばなりませんが・・・円の兵どもがうろうろしておるようでは、それも叶わぬでしょう。」
思案しているところへ、當麻の若者が飛び込んできた。
「シシト様、どうやら、沼の方で事が起きたようです。矢羽が飛び交い、男が一人、射抜かれて沼に沈んだとの事です。」
「確かか?」
シシトはその若者に今一度訊いた。
「はい。里の者が兵を捕らえ聞きだしましたゆえ、間違いないと・・。」
「何とした事か!」
シシトは、地面を叩き悔しがった。
アスカはぐっと首飾りを握り締めた。すると首飾りから赤い光が発した。アスカの頭の中に、沼地で横たわるカケルの姿が見えた。
「・・カケル様は・・カケル様は生きておられます。間違いありません。すぐにお救いせねば・・。」
アスカは立ち上がり、小屋を出ようとするのをモリヒコに阻まれた。
「円の兵たちが多数おります。今、出て行ってもどうにもなりません。」
「でも・・カケル様は苦しんでおられます。早くしないと・・。」
モリヒコに掴まれた腕を解こうと足掻くアスカに、葛城王が言った。
「落ち着くのじゃ、アスカ。一人ではどうにもならぬ。」
アスカは、涙を流しながらその場に座り込み、首飾りをぐっと握り締めた。
「シシトよ、何か策はないか。このままには出来ぬ。」
問われたシシトは、イコマのミコトを見た。イコマのミコトも思案している。
はっとイコマのミコトが顔を上げた。
「広瀬の里まで行ければ、手もあります。・・」
広瀬の里とは、當麻の里から山伝いに北へ行き、湿原を抜けた先にある小高い丘に開けた集落だった。平群一族に近しい関係ではあったが、戦が起きて以降は距離を置き、地の利を生かして、砦を築き、どこの一族にもなびかずにいたのだった。
「広瀬の里ならば、話を聞いてくれる者もおるやもしれぬな。」
シシトも頷いた。
「山伝いに行けば、円の兵もかわせるでしょう。・・・私が行きましょう。夕暮れに乗じて湿原を渡れば、おそらく、見つからずにたどり着けるでしょう。」
その策しかなさそうだったが、カケルの容態が心配だった。どれほどの傷を負っているのか、そして、沼地のどこにいるのかも判らない。アスカは心配だった。
アスカの表情を見て、モリヒコが訊いた。
「まっすぐ沼へ向かう方法はありませんか?」
シシトが言う。
「南から沼へ流れ込む川がある。兵さえ居らねば、その川を下れば容易に沼までは辿り付けるが・・。あれだけの兵だ、見つからぬように行くのは難しいであろう。」
「例えば、川の中を泳いでは行けませぬか?」
すでに初冬に入っていた。川の水は身をよじるほどの冷たさである。
「寒さに耐えられれば良いが・・。」
そう聞いて、モリヒコが立ち上がった。
「私は、川を下り沼へ入ります。大丈夫です。真冬の空の下で、何度も明石川を泳ぎ渡っておりました。行かせて下さい。カケル様をお守りせよと一族の命を受けて参りました。このままでは申し訳が立ちません。」
すぐに、モリヒコとイコマノミコトは隠れ里を発った。イコマノミコトは、山中を北へ進み広瀬の里を目指した。モリヒコは、一旦、山中を南へ進み、葛城川を探した。

二人が出て行くのを見届けた葛城王は、シシトやアスカ、そして隠れ里にいる主だった者たちを集めた。葛城王は集まった者をしばらくじっと見つめ、何かを決意したように口を開いた。
「私はこれまで、王権を争う醜い戦を避けてきた。それは大和に住む民の為、これ以上傷つくものを出したくないと考えたからだった。しかし・・・それは間違いであった。・・・邪な思いを抱いた者が大和を・・いやこの国を治めることこそ、一層不幸な民を作る事になると気付いた。私は今こそ、正統なる大王として、大和を鎮め、倭国の安寧のために働こうと思う。」
葛城王の決意に、シシトは頷いた。
「王君様、ならば、我ら當麻一族も戦いましょう。そして、那智一族、伊勢一族にも使者を送りましょう。きっと合力してくれるでしょう。大和の里の中にも、葛城王こそ大王であるべきと考えているところも多い。我らが立てばきっと戦いの狼煙を上げるはずです。」
シシトの指示で、那智や伊勢への使者が発った。

2-8沼.jpg

2-9 葛城川 [アスカケ第5部大和へ]

9. 葛城川
モリヒコは、里を出て葛城川を探した。
山中を南へ進み、日暮れ近くにようやく、川縁に辿りついた。出掛けに、アスカから、カケルが横たわっている葦原の様子は聞いた。冷たい水に半身が浸かり、動けない様子で、おそらく一晩、この寒さの中にいればきっと絶命してしまうだろうと思われた。モリヒコは焦っていた。一刻も早くカケルの許へ行かねばならない。
前方に焚き火の灯りが見えた。モリヒコは歩みを止め、咄嗟に葦の茂みに隠れた。モリヒコは焚き火の様子を伺った。男達が数人、捕らえた水鳥でも焼いているのか、座り込んで何かを食べていた。モリヒコは対岸を見た。対岸にも同じような焚き火が見える。川に潜って進めないかと様子を見たが、、まだ川幅も狭く、身を隠せるような深さもなかった。
徐々に日が落ち、夕闇が広がってくる。静寂な暗闇の中、焚き火の周りの男たちの声が響くだけ。
モリヒコは、腰につけた短剣をそっと抜いた。そして、刀身を素手で握る。痛みと供に赤い血が一筋流れ落ちた。次の瞬間、モリヒコの身体がぶるぶると震えだした。一つに束ねた黒髪がばっと広がる。見る見るうちに真っ白に変わった。更に、手足も白い毛が覆い尽くした。
「ガルウウウ・・・」
低い唸り声が漏れる。その声は、川岸の焚き火に集まっていた兵達にも聞こえた。
「おい!・・何か聞こえたぞ!」
兵達は、剣や弓を手にして立ち上がった。対岸に居た兵達も、異変に気付き、立ち上がった。
闇が広がり、人の目では辺りの様子ははっきりとは判らない。
「獣か?・・熊でも現れたか?」
「いや、闇の中で熊は姿を見せない、野犬か?」
ひときわ大柄な男が、松明で先を照らしながら、右手に剣を構えて、モリヒコの居る辺りにゆっくりと歩み寄ってきた。
「グルルル・・・・。」
闇の中に、光る目が見えた。
「野犬か?・・ほら、出て来い!」
男はそう言って、松明を振り回し威嚇しようとした。
バッと葦の原から、大きなものが高く飛び上がった。
「うわあ・・・!」
男は驚いて松明を放り投げた。様子を伺っていたほかの男たちも、松明の明かりに浮かんだ黒い影を見て驚いた。飛び上がった黒い影は男たちの前に立った。全身、真っ白の毛の覆われ、熊よりも一回り大きく、長い牙を持った白い狼だった。
男たちは腰を抜かし、剣を目の前に翳し、ぶるぶると震えているが、気丈な男が立ち上がった。
「化け物め、こうしてくれる!」
男は弓を弾いた。白い狼はさっと矢をかわすと、再び高く跳ね上がり、弓を弾いた男の前に立ちはだかった。さすがに、男も驚き、弓を放り投げた。対岸に居た男たちは、その様子を見て、一斉に弓を弾いた。暗闇の中、飛んでくる矢を白い狼は確実に避ける。そして、再び高く跳ね上がると一気に川を越え、男たちの前に立った。
「グウオーン!」
白い狼は、夜空に向けて、大きく吠えた。そして、男たちを蹴散らし、二度ほど大きく跳ね上がると、葛城川の岸辺を沼のほうへ走り去った。
兵達は、しばらく恐怖で動けなかったが、正気に戻ると、松明を手に慌てて、兵の頭目がいると砦へ一目散で戻って行った。

モリヒコは、カケルと同様に、獣人に変化する力を持っていたのだった。それは、おそらく、ナレの一族と忍海部一族の祖が持っていた力なのかもしれなかった。
白狼に変化したモリヒコは、沼に到達すると、徐々にもとの人間の姿に戻ると、座り込んでしまった。獣人に変化すると体力の消耗が激しく、しばらく動けないのだった。
沼の縁に座り込んだモリヒコは、ぼんやりと夜空を見上げた。月が光っていた。
「こんな事では、カケル様をお救いできぬぞ・・・。」
モリヒコは自分に言い聞かせるように呟く。少し先に、何かきらりと光るものが見えた。目を凝らしてみる。月の光が何かに反射しているようだった。確かにそこに何かあるようだった。
モリヒコは、ようやく立ち上がり、膝まで水に浸かりながら、ゆっくりと近づいてみる。
「おお、カケル様!」
光っていたのは、カケルの持っている剣だった。カケルは、右足を怪我しているようだった。出血は止まっているようだが、意識が朦朧としている。
「カケル様、モリヒコです。お助けに参りました。もう大丈夫です。」
朦朧とした意識の中で、カケルはわずかに頷いた。
モリヒコは、カケルの身体を水辺からゆっくりと引き上げ、葦の原の中へ横たえた。
「随分、冷えている。このままではいかん。待っていてください。」
モリヒコは、葦の原から静かに抜け出ると、近くに立っていた木の上に登った。
イコマノミコトが言っていた広瀬の里の方角を探した。月の光にぼんやりと山影が浮かんでいる。沼から北の方角のはずだった。かなり離れているが、こんもりと茂った森が見えた。
「あそこだな。」
モリヒコは木から降りると、カケルの許へ戻り、カケルを背負った。
「カケル様、しっかりしてください。きっと援けますから。」
そう言うと、モリヒコは、沼の縁に広がる葦の原を分けながら、広瀬の里を目指した。

2-9葦の原.jpg
前の30件 | - アスカケ第5部大和へ ブログトップ