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2-1-1.玉浦沖 [峠◇第2部]

「おい!これから行くのか?どっちだい?」
向島の漁師たちが、銀二に声をかけた。
「ああ、今は値が付くからな。大久保の沖あたりに行ってみるさ。玉浦に揚げると良い金になる。ここで、一儲けしないとな。」
銀時は、軽く答える。
銀二は、向島の漁師、年は30歳。3人兄弟の真ん中。
漁師だった父から仕事を教わった。その父は、酒好きが災いして、肝臓を患って10年ほど前に亡くなった。しばらくは母と住んでいたが、1年ほど前に亡くし、兄弟で生きてきた。
兄の金一は会社員になり、転勤ばかりの日々、ほとんど顔を会わしていなかったが、母を亡くした年に追う様に他界してしまった。
末っ子の鉄三は、銀二とは少し年が離れており、ようやく二十歳になったところだった。今は、近くの釣り船屋で板前の修業をしている。
 
銀二は、いつものように、夜の太刀魚漁に出かけた。この時期は、大久保海岸の沖が絶好の漁場だった。
港を出て30分ほどで、漁場についた。すぐに、仕掛けを投入したが、一向に反応はなかった。潮の流れが今日に限って緩かった。
「おかしいなあ。今日は全然だめだなあ。」
と一人つぶやきながら、船を、玉付崎の沖のほうへ向け、ゆっくりと船を進めた。
移動しても、なかなか反応がないので、しばらくどうしたものかと海面を見ていた。

しばらくすると、集魚灯に照らされた海面の少し向こうに、白いものがゆらゆらと浮かんでいるのが見えた。
最初は、ビニールか何かの漂流物かと思ったが、近づくにつれ、それが人だと判って、慌てた。
船を近づけて見ると、白いワンピースのような服に長い髪、どうやら身投げした女性だと思った。
漁に出て、死体を引き上げるのは気持ちが滅入る。嫌々ながら、船を横付けして引っ張り上げた。

「おい!生きてるか!」
体をゆすってみたが反応はない。
やっぱり、だめかと思いつつ、胸に耳をつけると、弱いながらも、心臓の鼓動は聞こえている。
これはいかんと慌てて、背中を叩く、そして、呼吸をさせるために胸を押す、銀二は救命処置の仕方を習ったことはなかったが、とにかく、呼吸をさせて水を吐き出させないといけないと直感でわかっていた。何度か続けているうちに、急に、海水を吐き出し、呼吸を始めた。
銀二はやれやれと思って、座り込んだ。

「ここで浮いていたんだから、きっと、あの岬から身を投げたんだな。」とつぶやいた。
そして、船の灯りで照らされた娘の顔をよく見てみた。
色白でやわらかい顔立ち、長い髪、年の頃は二十歳ぐらい。
「おいおい、この娘、見たことあるぞ。ええっと・・・誰だっけな?」
銀二は、向島の漁師だが、母の実家が玉浦だったので、行き来するのが日常だった。玉浦の漁師も知り合いは多い。
「そうだそうだ。玉谷の娘だ。名前は・・・そうそう、和美とか言ってたな。」
少し前、玉浦の港で見かけたことがあった。波止場に一人座っていて、近くにいた漁師から名を聞いたのだった。そして、和美が無理な縁談を勧められているということもその時に聞いていたのだった。
「縁談が嫌で身投げか?そんなに嫌な奴なのかい?」と呟いた。
中途半端な噂話しか知らない銀二では、そう考えてもおかしくなかった。
和美の身の上に起こった全ての事を知っていれば、身投げするほどの絶望を理解できたかもしれない。
「さてどうしたものか」
放っておくわけにもいかないし、玉浦に連れて行っても病院があるわけもでもないし、嫌な奴の居るところに帰るのはやはりなあと思いながら、結局、向島につれて帰ることにした。

港には誰もいなかった。
病院に連れて行くにしてもこの夜中だ、一旦、自分の家に連れて行き休ませておこうと考えた。
銀二の家は、浜にある漁師小屋だった。家族で住んでいた家は父と母が亡くなり、兄が出て行き、弟も住み込みで働く事になったので、借家だった事もあり、この漁師小屋で充分だと住み着いたのだった。

銀二は、夜の港から、娘を背負って帰った。
とりあえず、3畳ほどの座敷に横にした。まだ、娘は目を覚まさない。
夏とはいえ、濡れたままでは体が冷えてしまって良くないだろうと考え、土間にある囲炉裏に火を起こした。
娘を見ると、体が冷えてしまったためか、震えているようだった。

銀二は、仕方なく、着替えさせることにした。
「変な事をするわけじゃないぞ。お前さんを心配しての事だ。許せよ。」
と独り言を言いながら、娘の洋服を脱がし始めた。すると、右肩から腕に掛けて白い包帯が巻かれていた。少しめくって見ると、火傷の跡のようだった。それほど古くない。ひょっとしたら身投げする直前なのかもしれなかった。よほど深刻な事態が娘の身に迫っていたのだと直感した。

揺れる囲炉裏の火に照らされた娘の裸体は、息を呑むほどに美しかった。銀二にとっては、その美しさはまるで天女のごとく高貴なものに感じられ,不埒な気持ちなど萎えてしまっていた。美しい体に火傷のキズ。悲しい境遇を語るには十分だった。

銀二はつま先から頭の先まで、丁寧に心を込めて拭いた。まるで、娘に取り付いた悲しい悪魔を払いを落とすように何度も何度も丁寧に拭いてやった。そして、自分が持っている衣服の中でも最も清潔だと思うものを着せてやった。そして、布団を敷き、そっと、寝かしつけてやった。

銀二は、ひととおり終えるまで、神仏の儀式を行うような気持ちだった。今までに味わった事のないような、清清しい気持ちになれた。そして、囲炉裏端にござを敷いて、眠りについた。

2-1-2.介抱 [峠◇第2部]


翌朝になっても、娘はまだ目を覚まさなかった。よほどショックを受けているようだった。
医者に連れて行くことも考えたが、体に傷は無かったようだからとしばらく介抱して、様子を見ることにした。というより、昨夜の娘の裸体を目にして、何か宝物を授かったような、他の誰にも見せたくないという気持ちが湧いていたのだった。

銀二は、足りない頭をフル回転させ、元気にするために何をすべきかを考えた。
何か栄養のあるものを食べさせないと、と台所に行ったが、男の一人暮らし、満足な食材など無い。娘が眠っているうちに、買い物をしておこうと考えた。そして、玉浦の様子も気になっていた。娘が居なくなって、玉谷の家も大騒ぎになっているだろう。様子を見てきて、娘に教えてやれば、死のうなんていう気持ちもなくなるだろうと考えた。
銀二は、玉浦の港へ船を走らせた。

玉浦の様子を聞くには、にしきやが絶好の場所だった。あそこに行けばほとんどの情報が手に入る。ついでに買い物も済ませれば良い、そう考えてにしきやへ向かった。

にしきやの娘が店番をしている。あのおしゃべりなら簡単に聞きだせると思った。
「おい!元気か!」銀二はいつもこう言って店に入っていた。
店番の娘は、返事もせず、帰れというような仕草で答える。これもいつもの事だった。
娘といっても、去年結婚して、子どもを産んだばかりだった。
「なあ、昨日、何か起きなかったか?」と銀二が訊いた。
「いやあ、びっくりしたよ。火事があったんだよ。ほら、峠の近くの玉谷の家でね。」と
娘は、玉谷の家が全焼して夫婦が焼け死んだ事や娘が行方不明になっている事を話した。
「他に身寄りの者はいないのかい?親戚とかさ。」と銀二。
「うん、息子さんが一人。今は東京の大学に居るそうで、今朝から連絡を取ろうとしてるんだけどね。電話番号はわからないし、警察でも困っているそうだよ。だから、取りあえず、葬儀は玉林寺でね。玉水の親父さんとうちの父ちゃんが相談していたんだ。」と娘は答えた。
「確か、娘の縁談があったんじゃないか?」と銀二。
「縁談?ああ、そういう話もあったかな。ごめんね。あまり良く知らんわ。」と言葉を濁した。
「ふーん。縁談って相手は誰だい?」と訊いたが、それ以上は話せ無いような素振りだった。

銀二はこれ以上はちょっと変かなと感じて、
「なあ!病人に栄養をつけるには何を食わせれば良いんだい?」と話題を変えた。
「誰が、病気なんだい?」と娘。
「誰だって良いじゃないか。なあ、教えろよ。」と銀二。
「うーん。最初から栄養の濃いものは止めて、最初はおかゆが良いんじゃない?」と娘。
「ああ、そうか。ならさ、作り方、書いてくれ。」と銀二が少し戸惑いながら続けた。
「えー?銀ちゃんが作るの。まあいいか、・・」と言いながら、そこにあった紙切れに書いて渡してくれた。
「あと、ジュースとかとにかく消化が良くて食べられそうなものを少しずつ食べさせなさいよ。」
と娘は教えてくれて、店にあるものをどっかりと並べた。そして、
「今日は、払ってくれるの?」
と嫌味そうに訊いたので、銀二は、
「ああ、今までのつけも全部まとめて払ってやるよ!」と言って精算した。
「ありがとな。じゃあな」と店を出た。

荷物を抱えて船に戻った。
向島へ向かう途中、銀二は考えた。火事になって親御さんも亡くなった、和美にはもう戻るところが無い。しばらく面倒見ることになるなと心に決めた。
そして、向島に戻る途中、玉浦の山の反対側に、玉の関へ行く事にした。

2-1-3.小料理屋 [峠◇第2部]


玉の関は、昔は塩田が広がっていて、その積出港として栄えていた。問屋とか両替とか、狭い港町にひしめくように家屋が建っていた。塩田の労働者が多い町で、一角には遊郭もあった。戦後になってからは、塩作りは下火になり、次第に衰退していったが、塩田跡を使って、自衛隊基地ができた事で、また昔の賑わいを取り戻していた。

港に船をつけて、銀二は、表通りから路地を少し入ったところを目指していた。
そこには、以前から親しくしている『紫(むらさき)』という小料理屋兼食堂があって、困ったらいつでもおいでという、女将さんが居たのだった。

「こんちは!銀二です。女将さん、いる?」
と玄関を叩いた。まだ、暖簾が出ていない。中から、女将さんが
「何なの?・・銀ちゃん?まだ店始まってないんだけど。」
と言いながら、引き戸を開けて顔を出した。
銀二より10歳くらい上だろうか、色白で上品な顔立ち、少し中年太りの域に入っているが、若い頃には随分美人だったと思われる。大きな瞳の左下に小さな泣きボクロがあるのが印象的だった。

「女将さん、何も訊かず、俺の頼みを訊いてくれ!頼む!」
銀二は、女将さんの前で手を合わせた。
「なんなの?!藪から棒に!いっつも、銀ちゃんはそうなんだから。まあいいわよ。で、なんなの?頼み事ってのは?」と女将。
「女物の洋服を分けてくれないか?」と銀二は恥ずかしそうに頼んだ。
「え?なんですって?あはは、は、は・・」と女将は声を出して笑った。
「どうするつもりなの?まさか、銀ちゃんが着るの?」と茶化すように続けた。
「訳は訊かないって約束じゃないか!」
「まあいいわよ。で、どんな人に着せるのよ?年配の人?それとも、若い娘さん?背丈は?」
「いや、それが・・・なんでも良いんだよ。女将さんがいらなくなった服でいいんだよ。」
「そういったってね。あたしはほら、この通りの体格だからさ、もし、細くて若い娘さんなら着れないんじゃないの。それくらいは教えてよ。」と女将が訊いた。
「わかったよ。若い娘だ。背丈は女将さんぐらいだが、体格は・・半分くらいかな?」
「半分?・・失礼しちゃうわ、半分なんて。少し細いくらいって言えないの?」と言いながら、女将さんは店に戻って行った。

しばらくして、紙袋二つ抱えて出てきた。
「はい。あたしのじゃあんまりだから、娘の箪笥に入っていたものよ。どうせ、帰って来ても、着る事もないだろうからどうぞ。それから、もうひとつは、下着よ。女の人っていうのは大変なんだから。こら、中を見るんじゃないの!もって行って娘さんに渡せばいいからね。」と銀二に渡した。

「ありがとう。恩に着るよ。また、ちゃんと礼には来るから。」
と言って帰ろうとした時、女将が、銀二の襟を掴んで、
「ちょっと待ちなさいって。他にもいろいろ必要な物があるはずでしょ。ついでにこれも持って行きなさい。」
と言って、銀二の胸ポケットに、1万円札を何枚か捻じ込んだ。
「それから、早いうちに一度連れてきてね。あたしはいつだって銀二の味方なんだからね。必ず来るのよ。」
と言って、さっさと店に入って行った。銀二は、店に向かって、拝むように頭を下げた。

銀二は、急いで船を走らせた。
家を出てから、もう3時間近く経っている。その間に娘が目を覚ましていないか心配だった。
銀二が家に着いた時、娘はまだ横になったままだった。やはり、よほどショックが大きかったのだろう。
銀二は、娘が起きた時、すぐに食べられるようにと考えて、にしきやの娘に貰ったメモを見ながら、おかゆを作り始めた。昼を過ぎても、夕方になっても、娘は目を覚まさなかった。

昨夜と同じように、娘の服を着替えさせ、温かい湯を沸かして、きれいに体を拭いてやった。
今日は髪も洗ってやった。長い髪は細く艶やかで、触れているだけで幸せだった。
それでも娘は目を覚まさなかった。
銀二は、娘がこのまま目を覚まさないじゃないだろうかと、心配になっていた。

2-1-4.回復 [峠◇第2部]


3日目の朝、ようやく、娘は目を覚ました。
最初は、自分が何処にいるのか判らない様子だったが、岬から身を投げた事は覚えていて、誰かに助けられ、ここにいるのだという事がようやく判った。
起きようとしたが、体に力が入らない。その様子に気づいた銀二が近づいて、声を掛ける。
「おお、やっと目が覚めたかい。あんた、丸二日も眠っていたんだぞ!」
聞き慣れない声に、娘はびくっとし、布団を被った。すぐには、返事が出来なかった。
銀二は、そんな娘の様子を見て、少し優しく、
「もう大丈夫なのかい?」
と訊くと、娘はようやく、布団から顔を出し、こくりと首を縦に振った。
「事情は知らないが、命を粗末にするもんじゃないぞ。」
とありきたりの言葉を続けるほか無かった。
銀二の言葉に、娘は急に涙を流し始めた。
「まだ、無理しない方がいい。そうだ、腹減ってないか?何か飲むか?どこか痛むか?」
銀二は、娘の涙を見て、どうしていいかわからず、慌てて訊いた。
娘はようやく口を開いて、「お水を・・・」と途切れがちな声で言った。
銀二は、台所に飛んでいって、そこらにある器の中から、一番綺麗そうなものを選んで、水を入れた。
娘に手渡そうとしたが、横になったままで飲めなかった。
銀二は、優しく娘を抱き起こして、飲ませてやった。
娘は、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。銀二は、娘をゆっくりと横にした。
「もう少し、横になっていな。顔を洗ってくる。」と言って、銀二は外に出た。

銀二の漁師小屋の前には、砂浜が広がっていた。ようやく意識を取り戻した娘を見て、銀二は安堵した。そして、砂浜に座り込んで、タバコを吸った。遠くに、玉浦が見える。

しばらくして、小屋に入ると、娘が起き上がっていた。
「私は、和美と言います。玉浦のものです。」と言った。
「そうかい。」と銀二が返した。
「昨夜、家は火事になりました。我が子ともども逃げ出しましたが、父や母はおそらく亡くなったと思います。」
と続けた。
銀二は、にしきやで大体の様子は聞いていたので驚かなかったが、「わが子」と聞いてびっくりした。この若い娘が子どもを産んだとは思えなかった。
「わが子って、お前が産んだのかい?助けた時に、近くにはそれらしいものは見えなかったが・・・ダメだったか・・」と銀二。
「いえ、良いんです。私も死のうとしたのですから・・」と和美。
「でもよ、火事から逃げ出したっていうのなら、死のうなんておかしいじゃないか!」と銀二が訊く。
和美は、その言葉を聞いて、玉浦での出来事を銀二に話した。
初めて愛した男を村の青年たちに殺されたこと、そして、愛した男の子どもを身篭り、父母に反対されても産んだ事、傾いた家のために身売り同然の縁談や縁組が持ち込まれたこと、そして、父母が殺され、家に火をつけられ、逃げ出したところを、岬まで追われ、わが子ともども身を投げた事等を話した。
銀二は、じっと和美の話を聞いていた。一通り事情を聞いた銀二は、こう言った。
「そんな悲しい人生、あってたまるか!今日から、あんたは、別の人生を生きるんだ!」
そう言った銀二もよく意味がわからない事を言ってしまったと思った。
和美は、「そんなこと・・・」と銀二に問う。

銀二は、戸惑いながらこう言った。
「俺は頭が悪いから良くわからないが、お袋がさ、よく言ってたんだよ。生きていればなんとかなるって。・・・そうだよ。俺の船に助けられたのは、きっと、まだ死んじゃダメだって言う事、なんだよ。・・・そうだ、別人になればいいんだよ。玉谷の人間だから、悲しいんだ。別に人間にさ。・・・そうだなあ・・」
そこまで言って、銀二は思案した。そして、
「その方法はまた考えよう。とにかく、今は、体を戻す事だ。いいな。」
銀二はそう言って、和美を横にさせた。
「俺はこれから漁に出かけてくる。寝てりゃいいからな。」
銀二は、そう言うと家から出て行った。

2-1-5.漁の土産 [峠◇第2部]

銀二は、いつものように漁に出た。港を出てから同じ事を考えていた。
別の人生といっても、この島で誰かに見つかれば、おかしな噂を立てられるに決まっている。俺は構わないが、若い和美には可哀想だ。あれこれ詮索されるのも嫌だろうし、玉浦の人間に知れるとまたどんな目に遭うかも分からない。どうしたものかと考えていたが、なかなか良い考えが浮かばなかった。
その日の漁は、立て網漁だった。いろんな魚が獲れるが、雑魚ばかりでなかなか良い値が付く魚が取れなかった。夕方には、港に帰り、水揚げした。1匹だけ、大きな鯛が獲れたが、市場には出さず、持ち帰る事にした。

銀二が家に着いたのは、もう日暮れを過ぎ、夕闇の中だった。
いつもなら、真っ暗な小屋へ帰るのだが、今日は明かりが点いている。一人暮らしが長かった銀二には、その明かりがとてつもなく幸せを感じさせてくれた。

戸を開けると、和美が台所に立って、掃除をしていた。銀二に気付くと「お帰りなさい。」と言った。
銀二は、何だかその言葉がむずがゆくて、どう応えてよいか戸惑い、つい、「まだ寝てろって言っただろう」とぶっきらぼうな返答をしてしまった。
和美は済まなそうな顔で、
「だいぶ動けるようになったから。それに、何かしてないと、思い出してしまって・・」と急に涙ぐんだ。
銀二は、和美が子どもを亡くしたことを悔いている事は十分にわかっていたので、それ以上は言わず、
「これ、今日獲れたんだ。滅多に取れないからな。これを食べて精をつけな!」
と、大きな鯛を差し出した。そして、
「これ,うまく捌けるか?」
と訊いた。和美が困った顔をしたのを見て、銀二は、包丁を持って台所に向かった。

「漁師が食べる料理だからな。そんな豪勢なものは出来ないが・・まあ、食べられると思うから・・」
と言いながら、器用に鯛をおろしていく。片身は刺身に、片身はぶつ切りにして米と一緒に土鍋に入れた。頭とあら骨は、鉄鍋に入れて囲炉裏にかけた。30分ほどするといい匂いがしてきた。
「そろそろ良いだろう。」
狭い座敷に卓袱台を出し、土鍋と抱えてきた。

「ええと、これは鯛めしだ。それから、刺身。それと鯛汁な。」
ちょっと自慢げな銀二だったが、和美は、まだ気持ちが晴れないのか、無表情で座っている。
茶碗によそって、さあ食べようというところで銀二が、
「おおっと、ちょいっと待った。」と言って、小屋の外へ出て行った。

しばらくすると、手に何か持って入ってきた。
「鯛汁にはこれがなくっちゃな。」と言って、手のひらを広げると、小さな山椒の葉があった。
「これをな、ほら。」と言って、手のひらに載せて、ぽんと叩く。すると、山椒の香りが広がった。
「それ、お前もやってみな!」と和美に手渡した。
和美は言われたとおりに、手のひらに載せてポンと叩く。同じように、爽やかな山椒の香りが広がった。
「な、良いだろ。これを鯛汁に入れると、臭みが消えて美味くなるんだ。ああ美味い。」
その様子を見て、和美がふっと微笑んだ。助け上げてから初めて見る笑顔だった。銀二も嬉しくなった。
「さあ、食べろ。美味いはずだから」と勧めた。
和美は、そっと鯛めしに箸をつける。ちょっと塩からかったが、美味しかった。そして、鯛汁に口をつける。言われたとおり、山椒の香りが鼻をくすぐり、鯛の甘味が口の中で広がった。
生きていてよかったと心から思えて、涙が零れた。
「おいおい、涙を流すほど不味かったか?」と銀二が問う言葉が可笑しくて、涙を流しながら笑った。

2-1-6.夏の夜 [峠◇第2部]


 夕飯を終えて、片付けをしながら、銀二が和美に言った。
「ああそうだ。そこに紙袋があるだろう。見てみな。」
和美は言われるまま、座敷の隅に置かれた大きな紙袋を開いてみた。
一つには、いろんな洋服が入っていた。もうひとつには、下着が入っていた。
「これ、どうしたんですか?」と和美が訊いた。
「ああ、知り合いから貰ってきたんだ。気に入らないものもあるだろうが、まあ、良いだろう。とりあえず着替えは必要だろうからな。」と答えた。
和美は、ひとつ取り出して当ててみた。
「おお、なかなか良いじゃないか。」と銀二は褒めてみせた。

大きさはちょうど良い様だったが、少し派手なものが多かった。ワンピース等も短かった。そして、流行のジーパンも入っていた。玉浦に居た時には、厳しい父の言いつけで、ほとんど無地のワンピースが多かったので、こういう洋服を見て改めて思った。そうだ、別の人生を生きるのだ。今まで着た事のないような洋服も着なくちゃと思った。
「ありがとうございます。大事にします。」と、洋服を抱きしめながら、和美が答えた。

「おお、そうだ。その人がな、女の人は他にもいろいろ必要なものがあるからと幾らか金をくれたんだ。もちろん、また返しに行くけどな。元気になったら買い物に行こう。」
和美は少し躊躇した顔をしていた。銀二はその様子に気が付いて、
「大丈夫さ。徳山の港まで行くからさ。ああ、それと、一度、その洋服をくれた人のところにも礼に行こう。玉の関だが、小料理屋の女将さんなんだ。あそこも玉浦の人間は来ないから大丈夫さ。」

片付けも終わった頃、銀二は、
「風呂を沸かすが、入るか?体も汚れてるだろう。」と訊いた。
和美はこくりとうなずいた。
「じゃあ、少し待ってろ。俺んちの風呂は、外にあるんだ。俺一人の時は、見られたって構わなかったが、お前が入るとなりゃまずいだろう。ちょっと囲いを作るからな。」
と言って家の裏に出て行った。

銀二の家の風呂は、長州風呂(鉄製の釜風呂)だった。もう使わなくなったものを貰い受けてきて、自分で石組みをして作ったものだった。ちょっとした屋根はついているが、囲いなど無い。もちろん、銀二の家は海岸縁に建っているし、近くに家は無い田舎町なので、覗きに来る様な酔狂な人間はいないが、やはり、若い娘となれば嫌だろう。
日よけに使っていた立て簾を何枚か引っ張り出してきて、風呂の周りに立てかけた。
銀二は、ぐるっと1周し、中が見えない事を確認して満足そうに、湯を沸かす準備を始めた。

和美は、銀二の様子が気になって、おぼつかない足取りで、裏に出てきた。
「おい、家の中にいろって。まだ、そんなに早く入れやしないから。」と銀二が言うと、
「私にも何か手伝わせて下さい。」と和美が言った。
「じゃあ、そこにある木から枯れ枝を小さく取って、焚口に放り込みな。」と銀二が答えた。
和美は、滝口の前にある丸太に腰を下ろして、枯れ枝を焚口に入れ始めた。
銀二は、井戸から水を運び、風呂に張った。薪が入った焚口に、松葉の焚付けを重ね、火をつける。
宵闇の中で赤々と炎が広がった。それを見て、急に和美が顔を覆った。
数日前の火事を急に思い出してしまったのだった。
和美の異変に銀二は気づいた。そして、和美を両手で抱き上げて、家の中に連れて行った。
和美は小さな声で「ごめんなさい」とだけ答えた。
「湯が沸くまで横になっていろ。」とだけ銀二は言い、和美をおろして出て行った。

30分ほどして銀二が声を掛けた。
「湯が沸いたから、先に入れ。誰も覗きはしない。不安なら、俺が見張りをしてやるから。」
「銀二さんが先に・・」と和美が言ったが、
「いや、俺の体は潮まみれだから、入ると湯が汚れる。お前が先だ。」
と銀二が言うので、和美は言われたままに、風呂場に向かった。
「ああ、石鹸とタオルはそこにあるだろ。それから、底板を踏んで入るんだぞ。でないと火傷するぞ。」
「はい。・・あの、洋服は?」
「そこに、木箱があるから、その上に置いとけば濡れない。ああ、ちゃんと着替えは持ったか?」
まるで、子どもに教えるように銀二は言った。

久しぶりの湯船だった。銀二に救われ、取り留めた命。生きているんだという実感がじっと湧いてきた。すると、劫火の中で逝った父母や身投げして命を落としたわが子を思い出して、涙が溢れてきた。私だけ、こんな温かい思いをして良いのかと悔やんでいた。

「湯加減はどうだい?」と、屈託の無い銀二の声が聞こえた。
随分、遠くから聞こえているようだった。和美に気を使ってわざわざ遠くから訊いてくるようだった。
銀二の優しさが心に沁みた。そして和美が答える。
「いい湯加減です。銀二さん、ありがとうございます。」
和美はそう答えるのが精一杯だった。

2-2-1 長い髪 [峠◇第2部]

翌朝、銀二が目覚めると、すでに和美は起きていて、朝食の支度をしていた。
昨夜の残りの鯛の身を醤油で煮ていて、良い香りが部屋の中に漂っていた。銀二にとって、こんな朝は、母を亡くして以来の事だった。

「おはよう。もう大丈夫かい?」と銀二が言った。
和美はこくりと頷き、
「ごめんなさい。勝手に台所を使ってしまって。昨日の残り物だけど、朝ごはんを作りました。」
と遠慮がちに言った。
「ああ、美味そうなにおいがする。顔洗ってくるから・・」と言って銀二が小屋から出て行くと、和美は布団を挙げ、卓袱台を出して、並べ始めた。
二人は、向かい合って卓袱台の前に座って、ご飯を食べ始めた。

何を話せばよいのか、銀二は思案していた。何しろ、昨日までは、元気にする事で必至だったが、いざ、元気になってみると、若い娘と二人でこうしてご飯を食べている事だけでも途轍もなく奇妙な事に感じられたのだ。
そんな様子を察してか、和美も何も言わずにいた。
食べ終わるまで二人は無言だった。

茶碗を流しに運び、一息つく頃にようやく和美が、
「ねえ、銀二さん。お願いがあるんです。」と切り出した。
「お・・おう、なんだい?」と銀二。
「別の人生を生きろって銀二さんから言われて、私も考えたんです。それで、お願いなんです。」
「だから、なんだよ。」
「ええ、この髪を切って欲しいんです。生まれてからずっと長い髪でした。でも、今日からは別の人生を生きると決めたんです。ひとおもいにこの髪を短く切ってしまいたいって・・」
「そうかい。でもな、床屋じゃないし、上手くできるかな。」
「いいんです。とにかく、銀二さんに短く切ってもらいたいんです・・」
「わかった。」
銀二はそう言うと、網を直すための手鋏を道具箱から取り出した。ここではなんだからと、浜に出て、髪を切ってやることにした。
「いいんだな?」と銀二。
「ええ、思い切って切ってください。」

少しずつ、髪を切っていく。銀二には、女性の髪の長さなんてわからない。後ろ髪は肩口でばっさり、それに合わせて横も切りそろえた。前髪だけは自分で切るといって鋏を手にとって少しずつ切っていった。
みょうちくりんな髪型に仕上がった。
「すまない。よくわかんなくて。」
と言いながら、歪んだ手鏡を和美に渡した。和美は、しばらく鏡を見ていたが、涙をポロリと零して、
「銀二さん、ありがとう。これですっきりしました。今日から新しい人生を見つけます。」
と微笑んだ。
銀二は、切り落とした長い髪を片付けながら、一束ほど、懐に忍ばせた。

「よし、今日は買い物に行こう。その髪なら、お前の事を知り合いが見つけてもわかりゃしないだろうって。」
と銀二が言った。
「どうやって?」と和美。
「俺の船で行く。港まで行くと、俺の知り合いの奴らに何を言われるかわからないからな。お前は、この浜の先にある桟橋で待ってろ。おれが船を持ってくる。そこから乗れば良い。」
「わかりました。」
「それと、貰ってきた洋服から、一番明るいのを選んで着ろ。気分も晴れるだろうから。いいな。すぐに船を取りに行くから準備しとけよ。」
銀二はそう言って、さっと着替えて出て行った。

和美は言われたとおりに、赤い花模様のワンピースに着替えて、浜の先にある桟橋へ向かった。
30分ほどして、銀二の船が見えた。
仲間の漁師に勘繰られないよう、一旦、港から沖へ出て、向島を一周して反対側からやって来た。
銀二の船はさほど大きくは無いが、早かった。瀬戸内の海はいつもに増して穏やかで、まるで鏡の上を滑るように進んだ。ポンポンという船のエンジン音だけが響いていた。

2-2-2.買い物 [峠◇第2部]

2時間ほどかけて、船は徳山の港に着いた。年に2,3度ほど来ている港だった。
ここは、玉浦や向島とは比べ物にならないほど大きい港で、市場には、競り台がいくつもあって、遠洋ものの水揚げもあるのだった。市場の裏手には、商店街があった。
もう昼前ということもあり、市場は人影も無く静かだった。市場を抜けて、商店街のある通りに出た。買い物客はそれなりにいたが、平日の昼間で、静かなほうだった。
「なあ、何か欲しいものはないか?俺にはわからんから、自分で欲しいものを買って来い。」
といって、小料理屋の女将さんから貰ったお金をそのまま和美に渡した。和美は遠慮したが、銀二が強引に手に持たせた。そして銀二は、「買ったものは俺が持ってやるから・・」と少し後ろを歩いた。
それならばと和美は心を決めて、食料品店に向かった。そして、まず、野菜をたっぷり買い込んだ。そして、味噌や醤油等の調味料、小麦粉、パン粉、乾麺、お茶、油・・・とにかく、食料品ばかりを買い始めた。そして、石鹸や歯磨き、便所紙、洗濯用の石鹸等を買った。銀二は、元気に買い物をする和美を見て嬉しくなった。
だが、途中で
「おい、そんなものじゃなくて、自分のものをもっと買え。ほら、靴とか、化粧品とか、欲しいものあるだろ。」
と言って制止した。

和美はその言葉を聞いて、立ちすくんでしまった。
自分のものをと言われても、何が必要なのか、分からなかったのだ。今の自分に何が必要なんだろう。化粧をする事が必要なのだろうか?着飾る必要はあるのだろうか?今は、何も欲しいものが見当たらなかった。それほどに、心の中が空っぽになっている事に改めて気づいたのだった。
そして思わずそこに座り込んでしまった。

和美の様子を見て銀二は、どう声を掛けてよいものか戸惑った。元気な様子で買い物をしていた和美を見ているうちに、忌わしき出来事をすっかり忘れていたのだった。辺りを見回すと、パン売り場があった。
銀二は思わず、
「おい!パン 食べたくないか?」と言った。
特に意味は無かったが、座り込んだ和美を動かすために、手近にあったものを見つけ、とにかく訊いた。
和美がふっとパン売り場を見た。銀二は食パンを両手に抱えて、踊るように見せている。その様子が可笑しくて、和美はふっと笑った。
「おお?パン好きか?それならたくさん買っていこう。」
銀二は、食パンを4斤も買い込んだ。もう両手いっぱいの荷物になっていた。
「一回、荷物を置きに船に戻ろう。それから、昼飯を食おうぜ。」
銀二は、出来るだけ陽気に和美に話しかけた。
一旦荷物を船に置いて、昼食を取ろうと、また、商店街へ戻った。

昼時ともなれば、どこの食堂も混雑していた。2.3軒、暖簾を押して入ってみるが、満員ばかりだった。
そうしているうちに、和美が言った。
「ねえ、銀二さん。さっき買ったパンを食べましょう。」
と言い出した。せっかく徳山の町まで来てと銀二は思ったが、まあ、和美が言い出したとおりにしようと考え、
「ああ、それが良いや。じゃあ、何か飲み物を買おう。」
ちょうど、目の前に、食料品店があった。瓶に入った牛乳が目に付いた。銀二はそれを2本買った。
「滋養には牛乳が一番だよな。」と自己満足な言葉を言いながら抱えて、船に戻った。


2-2-3.食パンと牛乳 [峠◇第2部]


「ねえ、銀二さん、船を出して。何だか、海の真ん中で、お昼ご飯を食べたい気分なんです。」
「ああ、そりゃ良いや。今日は海も凪いでるし、ゆったり波に揺られながらってもの良いよな。」
そう決まると、すぐに銀二は船を出した。

徳山の港から、まっすぐ沖に向かった。30分も走ると、もう陸地は見えなくなってしまった。
「あまり出ると、大型船の航路になるからな。この少し先に、小さな島があるんだ。島って言ったって、松の木が5.6本生えてるような小さい岩島だがな。俺は時々上がってみるんだ。」
そう言って、船を向けた。5分ほどで島が見えた。船を着けるような場所が無いので、浅瀬まで船を近づけ、碇を下ろして船を停めた。
「俺が抱えていってやるから、お前はこれを持ってな。」
と言って、パンと牛乳の入った袋を和美に渡した。そして、銀二は、ざぶんと海に入った。腰くらいまでの深さがあった。そこから、和美を抱きかかえて、陸へ上がった。

砂浜に漂着した流木に二人は座って、昼食にした。
「あ、食パンと牛乳だけでよかったか?」
と銀二が言い出した。
「ほら、なんだ、ジャムとかバターとかさ、そんなもの買って来なかったぞ。」
「そうだ。ねえ、さっきお砂糖を買ったでしょ。銀二さん、あれを持ってきてくださらない?」
「おお、おお、いいぞ。」
銀二はまた、腰まで潮水に浸かりながら船に戻ると、砂糖の袋を持ってきた。
和美は、それを受け取ると、封をあけた。そして、食パンを1枚取り出して、たっぷりとのせ、半折りにして銀二に渡した。銀二は、それまでパンを食べた事が無かった。何だか頼りないし、少しすっぱいような独特な臭いがどうも苦手だったのだ。しかし、和美が手渡してくれたパンはとても美味そうに思えた。銀二は大口を開け、一気に半分くらい噛み付いた。砂糖の甘さは良かったが、何だか口の中でもさもさする。飲み込もうとしてもどうにものどを通らない。そうこうしている内に、のどに詰まらせた。
和美は銀二の様子を見て、びっくりした。そして、袋の中から牛乳を取り出して銀二に渡した。蓋を開けると、牛乳と一緒にパンを飲み込んだ。
パンの縁から零れた砂糖と急いで飲んだ牛乳が零れて、銀二のシャツは、おかしなことになってしまった。
それなのに、銀二は、すぐまたパンに噛み付いた。そして、1枚をどうにか食べ終わると、
「ああ、美味かった。パンに砂糖はばっちりだな。お前も食べろ!」と嘯いている。
まるで子どものような銀二の仕草に、和美の心は、溶かされているようだった。
「ねえ、銀二さん。こうしていると世界に二人だけって感じがしてきますね。」
和美がしみじみと言い、海の遠くのほうを眺めていた。銀二もその言葉を聞いて、同じように視線を遠く水平線へ向けた。

「そろそろ戻るか。今日は、夜、漁に出るんだ。」
「ねえ、私も漁に連れて行ってくださらない?一人で家にいるといろんな事を考えてしまって・・」
「ああ、構わないが、大人しくしてるんだぞ。また、海にでも落ちられたんじゃたまらないからな。」
と笑顔で銀二が答えた。

2-2-4.出漁 [峠◇第2部]

4.出漁
 買い物の時と同様、和美は浜の外れの桟橋で待っていた。
 漁に出るには、ワンピースでは行けない。家に戻り、シャツとジーパンに着替えた。
 銀二の船がやってきた。夕暮れの中で、銀二の船は、ライトを点けて向かってくる。
船に乗り込むと、銀二は和美に、雨合羽と長靴を出した。夏とはいえ、海水を浴びた体に夜風となれば風邪を引く。せめて、合羽でも着ていれば、冷えは防げるだろうと言う事だった。

漁に向かう銀二の顔つきは、昼間とは別人だった。操舵室から顔を出し、遠く行く先を見つめている。
「ねえ、銀二さん、どのあたりまで行くの?」
「ああ、島の南側に行く。20分ほどで着く。」
実は、銀二は、港を出てからずっと考えていた。この時期、玉浦の沖が太刀魚のもっとも良い漁場なのだが、和美を連れて行くには余りに酷だと感じていたのだった。そこで、向島の南側の浅場に行き、流し網漁をする事にしたのだった。

島の南側は、浅場が広がっていて、海草も多く、小魚は結構取れる。波は穏やかで、月灯りが美しかった。じきに船が漁場に着いた。銀二は、網を少しずつ波間に入れ始めた。和美も手伝おうと立ち上がると、波に揺れる船で体がふらついた。銀二は、「じっとしてろ!」と怒った。昼間の優しい銀二ではなかった。
1時間ほど経ったところで、網を上げ始めた。集魚灯の灯りに、銀色に光る小魚が見え始めた。少し引き上げて、銀二が言った。
「ゆっくり網を上げるから、網に掛かった魚を外してくれ。」
和美がゆっくり立ち上がって、網を持った。網のあちこちに、ちぎれた海草に混じって、小魚が引っ掛かっていた。ピチピチと跳ねる魚を握って網から外した。魚は、船の真ん中にある生簀に入れられた。鯖や鯵が多かったが、他にも見たこともない魚も多かった。どれも皆、元気に飛び跳ねる。和美は夢中になって魚を外し続けた。作業を続けているときは頭の中には何もなかった。悲しい記憶もすっかり消えていた。

2時間ほど、夢中で作業をした。網を上げ終わるころには、生簀の中は一杯になっていた。
銀二は、操舵室に座って、タバコを吸った。そして、
「俺な、漁に出るといつも思うんだ。俺は、この海に生かされてるんだなって。」と呟いた。
銀二の言葉に、和美は自分が銀二に救われた運命も、きっとこの海に生かされたのだと思った。

「さあ、そろそろ、港に戻るかい。」と銀二。
それを聞いた、和美は
「ねえ、銀二さん。お願いがあるんです。玉浦のあたりまで行って貰えませんか?」と言った。
「なんだって?」
銀二には意外な頼みだった。あの忌まわしい記憶を思い出させないよう、敢えて、別の漁場を選んだ。
「新しい自分になるために、最後に、あの場所を見ておきたいんです。」

銀二は、すぐに船を走らせた。ほどなく玉付岬の沖に着いた。
夜更けの海は真っ暗で、かすかに山影がわかる程度だった。
「このあたりでお前を拾い上げたんだ。潮の流れが緩くて、助かったんだ。」
銀二が思い出すように言った。
「玉浦の沖は、潮の流れが複雑なんだ。玉付崎辺りは特にな。大久保海岸のほうへ流れる潮と玉浦の西へ向かう潮の流れがあって、ぶつかり合うときもある。そんなときは大抵沖へ向かう潮になる。それが、お前を見つけたときはどの潮もなくて静かに留っていたんだ。まるで、大きな池の中にいるようだった。だから、お前は助かった。だからな、まだ死んじゃいけないって事なんだよ。」
「でも、私にはもう何もないんです。」
「違う。今は何もないかも知れんが、これからやらなければいけない事があるはずなんだ。今はわからなくてもきっと見つかる。みなそうやって生きてるんじゃないのか?」
和美はじっと銀二の言葉を聞いていた。

岬を回りこむと玉浦の港の明かりが見えてきた。ぽつりぽつりと人家の明かりも見えている。和美はじっと目を凝らすようにその灯りを見つめていた。そして、この村で過ごした日々の思い出を封印するようにゆっくりと目を閉じた。
「銀二さん、ありがとう。向島へ戻りましょう。」
銀二は返事もせず、舵をきった。玉浦がどんどん遠ざかっていく。

向島の島影が見えてきた。
「海で死にたいっていう奴がいるが、海の本当の姿を知らないから言うんだ。俺はこの海で生きてる。何度か、嵐にあって死にそうな目にあった。どんなに抗っても、海は許してくれない。引き込もうとするんだ。」
「私は、浮いていたんでしょ。」
「そうだ。海に抱かれて死にたいなんて、甘い考えを持ってる奴は、大抵、海の底に引き込まれて、何日か経って浮いてくる。海の底に引き込まれて死ぬとな、体を魚たちに食い散らされる。惨い姿になる。そして、腐ってガスが溜まって、パンパンに膨れて浮いてくるんだ。見れたもんじゃない。だけどな、事故で誤って落ちた時は、たとえ命を落としても、すぐに浮いてくる。綺麗な顔してるんだ。きっと、海が情けをかけるんだろ。死んじゃいけない人間は、すぐに浮かせてくれんだ。だから、お前は生きなきゃいけないんだ。どんなに辛くっても、下を向いちゃいけない、上を向いていれば必ず何か見えてくる。」
今夜の銀二は妙にまじめな顔つきだった。和美にというよりも、自分に言い聞かせるような言い方だった。

2-2-5.弟 [峠◇第2部]

和美が銀二に救われてここに来てから2週間ほどが過ぎていた。
漁を手伝うようになって、和美もすっかり元気になった。
食事の支度や掃除、風呂焚き等、銀二に教えられしっかりこなすようになった。
漁に行くと、銀二に言われなくても網や餌の準備もするようになっていた。ただ、港町へは行かなかった。知り合いに見つかるんじゃないかという不安も大きかった。

銀二の家は、向島の西のはずれの浜辺の漁師小屋なので、滅多に人が来る事はなかった。時折、沖を通る漁船の音がすると、見つかるんじゃないかと咄嗟に物陰に隠れる事はあったが、それ以外は、平穏な日々だった。今朝も銀二に言われたように、前の浜に広げてある流し網の綻びを教えられたとおり、一目一目修繕していた。和美は、こんな日々がずっと続くと思っていた。

昼過ぎに、銀二は、港の市場に居た。水揚げの代金を受け取りに来たのだった。
市場の競り人が銀二に声をかける。
「おい、銀ちゃん。最近、雑魚ばかり揚げてるなあ。太刀魚はどうしたい?」
「ああ?・・ちょっと調子が悪くてな。」
「今、いい値が付いてるんだから、頑張ってこいや。お前の太刀魚は絶品だからよ。」
「そうかい。じゃあ、そろそろ出てみるか。」
銀二は、和美を漁に同行させるようになって、太刀魚漁をやめていたのだった。手釣りの太刀魚漁は緊張する。大物が掛かれば、怪我をしかねないほど危険を伴うのだった。

銀二は市場の事務所に行き、代金を受け取った。競り人が言うとおり、雑魚ばかりの水揚げはたいした金にならない。一人暮らしなら何とかなるが、和美を養うには心もとない額だった。
市場を出たところで、弟の鉄三と出くわした。
「兄ちゃん!」鉄三はなんだか懐かしそうな声を出した。
「おお、元気か?」銀二は返事をした。
「それはこっちの台詞だよ。最近、ちっとも寄ってくれないじゃないか!」
「ああ、いろいろ忙しくてな。」
「兄ちゃん、もうすぐなんだよ。」
「何の事だ?」と銀二。
「いやだなあ、兄ちゃん。子供が産まれるんだよお。先週くらいから、随分、おなかの子が下がって来たって言ってね。昨日、産院に入ったんだ。そしたら、急に入院って事になったんだ。予定日はまだ一月も先なんだけどなあ。ちょっと心配だから、これから、様子を見に行くんだよ。」
鉄三は、銀二より10歳ほど年下だった。
中学を出てから、すぐ働いている。料理人になりたいといって、今は、釣り船屋の食堂で料理人の見習いのつもりで働いている。鉄三はその釣り船屋の娘と仲良くなり、子どもができたのだった。
娘は鉄三より二つほど年上だったが、子供のころから病気がちで、ほとんど家に居たので、年の近い鉄三が唯一の遊び相手でもあった。

大事に育てた娘が結婚前に妊娠したことが判って、最初はご主人と女将さんは怒り心頭で、鉄三を追い出そうとした。その時、銀二が、『俺がちゃんと鉄三を躾られなかったせいだ』と自分を責め、何度も釣り船屋に足を運んでは頭を床にこすり付けるように謝罪し、何とか収めたのだった。その若い二人にいよいよ親になる日が近づいていた。
「そうかい。なら、嫁さんに、頑張れって伝えてくれ。また、顔、見に行くから。それから、これ、前祝いだ。何かと物入りだろうしな。」
そう言って、銀二は受け取った水揚げ代金の袋から、お札を1枚抜いて、鉄三のポケットに差し込んだ。
「ありがとう、兄ちゃん。」
「何か、栄養の付くものでも買っていけ!じゃあな。」
鉄三は、町に続く向島大橋を自転車で渡って、産院へ向かって行った。途中、何度か振り返り、端の反対側にいる兄に手を振ってみせた。

銀二は、家に帰る前に、金物屋へ立ち寄った。実は、あの後、風呂を囲んでいた簾が風で飛ばされてしまって、隙間だらけになったので、和美が風呂に入る時、不安ではないかと思い、修理のために、留め金を探した。なかなか手ごろな物がないので、店主に聞いた。
「なあ、留め金はここにあるだけかい?」
その声を聞きつけて、奥から、店主が出てきた。
「なんだ、銀二じゃないか。また家の修理か?いい加減、漁師小屋は、やめちゃどうだい。」
「あそこは浜に近いから気持ち良いんだ。それより留め金はないかい?」
「何の修理だい。」
「いや、外の風呂を簾で囲っていたんだが、風で飛ばされるんで、留めちまおうかと思ってな。」
「これから、寒くなるのに簾じゃ駄目だ。裏に、戸板がある。いや、先日、家を修理した時に使わなくなったものだ。そいつを持っていって、柱に打ちつけたほうが良い。お前の所の風呂なら、8枚ほどあれば足りる。持って行け。大八車もあるから使ったら良い。代金なんか要らないさ。」
と言ってくれた。銀二は礼を言って、裏に回った。まだ新しいものだった。
「本当に良いのかい?」と重ねて訊いたら、
「ああ、構わない。どうせ捨てちまうところだったんだ。そうだ、そうだ。代金の代わりといっては何だが、帰りに、セツさんのところに寄ってくれないかい?」
「ああ、いいけど・・」
「実は、昨日、雨戸が壊れたと言って修理してほしいと頼まれたんだが、なかなか行けない。銀二、代わりに頼めないか?」
セツさんは、銀二の漁師小屋からすぐの所に住んでいた。もう80歳を超える年だが、元気に暮らしている。子どもができなかったので、ご主人を亡くしてからはずっと一人暮らしだった。家が近い事もあって、ちょくちょく顔を出していたのだった。
「ああ、いいよ。ちょうど帰りに寄ろうと思っていたところだ。」
「なら、これを持っていけ。」
渡されたのは、雨戸に取り付ける戸車だった。それを受け取り、戸板を大八車に乗せると、銀二は家に向かった。港から家までは、歩いて30分くらいだった。

「セツさん?居るかい?」と銀二がセツさんの家の前で声をかけた。
中から、「ああ、お入り。」と返事が返ってきた。
「金物屋のおやじに聞いたんだが、雨戸が壊れたって?直してやるよ。」
そう言って、セツさんの顔も見ずに、庭のほうに回った。金物屋の言うとおり、戸車が錆付いて外れていた。持ってきた新品の戸車に取り替えたら、見事に動くようになった。
「これでもう大丈夫だ。じゃあな。」
「もうできたのかい。済まなかったね。」
いつもなら、世間話でもするところだが、今日は、風呂場を直す仕事が待っている。急いで、家に向かった。

「ただいま。」
迎えの返事がなかった。家の中に入ると、和美の姿が見えなかった。少し心配になった。裏口から浜に出た。浜には、修理のために流し網が広げられていて、修理していたようだったがやはり姿は見えなかった。
「おい!和美!どこだ?」
銀二は呼んでみた。
「すみません。ここです。少し待ってください。」
風呂場のほうから、和美の声がした。しばらくして和美が浜に出てきた。
「何してたんだ?」と銀二は尋ねた。
和美は少し答えに困った。だが、思い切って話した。
「いえ、ちょっと胸が痛くて。」
「大丈夫かい?医者に行った方がいいか?」
「いえ、もう大丈夫です。実は、赤ちゃんを産んで日が経っていないので、お乳が張るんです。ここに来てからしばらくは体が弱っていたから何ともなかったみたいなんです。元気になった証拠だと思うんです。」
銀二は、そういうことはまったく無頓着だったのでどうしたものかと考え込んでしまった。
「銀二さん。心配しないで。絞れば大丈夫。見られたくなかったから、風呂場に隠れて絞っていたんです。」
「そういうことかい。」銀二は安堵した。そして、
「そうだ、風呂場の目隠しの具合が良くないから、戸板をもらってきた。今から修理するからな。これでもう誰にも覗かれやしないからな。」
そういうと、表から大八車に乗せた戸板を運び、風呂場の周りに打ちつけ始めた。その横で、和美は、網の修理をしていた。そろそろ日が傾き始めていた。

2-2-6.来客 [峠◇第2部]

 日暮れ前には、風呂場の修理も終わった。
「和美。夕飯にするか。支度してくれ。」
銀二は、戸板の調子を見ながら和美に声をかけた。
「はい」とだけ言って、台所に向かった。二人のやり取りは夫婦のようだった。

「ごめんよ。銀二、居るかい?」
と声がして、老婆が入ってきた。近くに住むセツさんだった。
台所に居た和美は、初めての訪問者で、どうしてよいのか立ちすくんだ。
セツさんは初めて見る若い娘を不思議に思い、頭のてっぺんからつま先まで二度も三度も、しげしげと見ていた。そこへ、銀二が入ってきた。

「な、なんだい。セツさん、なんか用事かい?」
咄嗟に銀二が訊いた。セツさんは、
「ああ、さっきの雨戸の礼にな。畑で取れた野菜と、芋を持ってきたんだよ。ほら」
と言いながら、銀二のほうは見ないで、じっと和美を見つめたまま、土間に置いた。
その様子を見て、銀二が、
「なあ、セツさん、ちゃんと説明するから、ちょっと座ってくれ。」
と言って、セツさんを座敷に座らせた。そして、和美に、
「おい、お茶でも入れて持って来きてくれないか。」と言った。

セツさんは、何をどう訊いて良いのか考えていたが、銀二が話をするというのでとりあえず座った。
銀二は横に座ってから、
「なあ、いいか。ちゃんと説明するが、くれぐれもセツさんと俺との秘密にしておいてくれ。頼む。」
と頭を下げた。セツさんは、その様子を見て、判ったと頷いた。
「あの娘は、和美というんだ。玉浦の玉谷家の娘だ。玉付崎から身投げしたところを俺が救い上げて、ここで介抱した。」
そこまで言うとセツさんが、
「あたしゃ、玉浦に知り合いが居てね。何でも、玉谷の家は火事で皆死んだという話じゃった。娘さんは生きておったんじゃね。良かったよお。」と答えた。
「そうだ。でも、尋常じゃない。無理な縁談や借金で、あのまま玉浦に帰っても、不幸を背負って生きることになる。だから、元気になるまでここに居て、どこかで、別の生き方をするように話したんだ。」
セツさんはふんふんと言いながら銀二の話を聞いていた。そして、
「身投げして助かった命じゃ。一度死んだことにして、さらから生きるほうがええ。銀二、お前さんは良い事をしたんじゃ。」
セツさんは銀二を褒めた。セツさんには子どもがなかったので、銀二を自分の子どものように思っているのだった。そして、
「じゃがな。若い娘を、男所帯に置いとくのはいかん。間違いの元じゃ。お前が嫁にするというなら別じゃが、そうじゃなかろう。」と続けた。
銀二は答えに困った。『間違い』は確かに起きるかもしれない、また、しばらくはここに居させたい気持ちはあったが、『嫁にするのか』と言われてしまうと、何と答えるべきか悩んでしまったのだ。そうだともいえず、違うともいえなかった。

「なら、うちへ来させな。婆さんの一人暮らし、話し相手も欲しいしな。お前だって、漁に出れば、和美さんは一人ぼっちになる。お前が居ないときはうちへおれば良い。」
「ああ、そいつは良い。俺も居ないときに、他の誰かが訪ねて来やしないかと気を揉むことも無くなる。それが良い。恩に着るよ、セツさん。」

そのやり取りを、台所で聞いていた和美は、淋しい気持ちになったが、その方が銀二への負担も減らせるのであればと承諾していた。そして、
「和美です。セツさん、お世話になります。何でもやりますから。」と頭を下げた。
「そんなに頭を下げないで。どうせ、気ままな一人暮らし。この年だからね、起きてるのか寝てるのかわからないようなもんだから、気にせず好きなようにしていたらええからね。」

「話が決まったら腹が減った。さあ、飯にしよう。ああ、セツさん、一緒にどうだい?」
「じゃあ、今晩は、よばれようかね。」

その夜は、銀二と和美とセツさんの3人で楽しい夕餉となった。
セツさんは、銀二が仕出かしたいくつかの事件を面白おかしく和美に話して聞かせた。
銀二は何度かへそを曲げながらも、言い訳でごまかし、そのたびに笑い声が響いた。

2-2-7.セツさんとの暮らし [峠◇第2部]

7.セツさんとの日々
 翌日から、和美は、セツさんの家で暮らす事になった。
 セツさんの家は、銀二のところと違って、一人暮らしには広すぎるほどの造りの家だった。
「この部屋を使うと良い。」
セツさんはそう言って、海が見える西側の部屋へ案内した。小さな箪笥と机と座布団、そして押入れに中には布団が一揃い入っていた。荷物といっても、銀二がもらってきてくれた洋服が紙袋2つあるくらいだったので片付けはすぐに終わった。
居間は8畳ほどで、卓袱台と水屋箪笥が置かれていた。日当たりの良い南側にあり、部屋の隅には、古い本が積み上げられていた。和美は一冊を拾い上げてぱらぱらと捲ってみた。何かの小説だろうが、驚いた事に、漢字に赤い字で読み仮名が振ってある。積み上げられた本の横には、同じように古い辞書があって、かなり使い込まれているようだった。
セツさんが、お茶のお盆を抱えて、部屋に入ってきた。和美が本を持っているのを見て、
「いやだよう。恥ずかしいね。年寄りの手習いみたいなものさ。あたしは学校を出てないから、字がまともに読めなくてね。これじゃいけないと思ってね。」
セツさんは、本と読むのではなく、字の勉強をしていたのだった。
「素敵ね。」と和美が言った。
「ちょうど良い。あんた、字は読めるかい?なら、ここに居る間、あたしに教えておくれ。」
とセツさんが頼んだ。
「教えるなんて・・でも、ここでお世話になるのですから、私にできることなら・・」と承諾した。
「良かった。字が読めないと、辞書を引くのも苦労するんだ。こないだなんか、1つの字を探すのに半日かかったんだ。」そう言って、セツさんは喜んでいる。

こうして二人の暮らしが始まった。

セツさんは、朝早くから起きている。
日が昇ると同時に、家の近くにある畑に出て行って、朝ごはんの前までに一仕事を終えてくる。
和美も一緒に起きて、草取りや脇芽摘み等を手伝った。最初は朝ご飯をセツさんが作っていたが、すぐに和美の仕事になった。味噌汁の塩梅や畑の野菜を使った料理を丁寧に教えてくれた。
朝ご飯が終わると、セツさんの漢字の勉強。辞書を引きながら、一つ一つ漢字を見つけていく。時には、紙に写して練習もする。あっという間にお昼になってしまう。

お昼はセツさんは蒸かした芋しか食べない。芋は自分の畑で取れたものだった。秋口に収穫しておいて、家の床下に掘った芋釜の中に保管してあるのだ。
和美は、セツさんに頼まれて芋釜の中へ入るようになった。縁側の下板をはずし、腹ばいになって潜り込む。そこには、大きな穴が掘ってあって、籾殻が一杯詰まっている。その中に手を入れると、大きなサツマイモがごろごろとあった。昔からの農家の保管方法だった。籾殻は一年中温かさを保ってくれて乾燥もしない。いつも、手ごろなものを4つほど取り出して、綺麗に洗って鉄釜に入れて蒸かすのだった。セツさんは大好物だったようで、蒸かし上がると、ちょっと塩をふって、はうはう言いながら頬張るのだった。和美もセツさんを真似て食べた。なんともいえない甘さが口いっぱいに広がり幸せな気分になれた。

午後になるとセツさんは昼寝をするので、和美は銀二の家に行き、片付けや掃除をしてくる。銀二はたいてい留守だった。ただ、夕飯前になると必ず現れて、獲れた魚を少し置いていく。夕飯を食べていくように言っても、これから漁に出るからとか、用事があるからと言って、すぐに帰ってしまうのだった。
1週間ほど同じような暮らしだったが、ある日、突然、銀二が顔を見せなくなってしまった。家に行っても、戻っていないようだった。
和美は心配になってセツさんに訊いてみた。
「最近、銀二さんが来ないけど、どうしたのかしら。家にも帰っていないみたいで・・」
「ああ、時々、銀二は居なくなるんだよ。3日くらいのときもあるし、2週間くらい居ない事もある。何してたのか聞いてもはっきりとは言わないんだ。まあ、心配しなくてもその内ふらっと戻ってくるさ。」
「でも・・」
余りに和美が心配するので、セツさんは、
「わかったよ。明日にでも港に行って銀二の様子を聞いてこよう。漁師仲間なら何か聞いているかもしれないからね。」

翌日、セツさんは港に行って漁師仲間や金物屋に行って銀二の様子を訊いてみたが、誰も知らなかった。
港にも、銀二の船はなかった。

その夜、夕飯の後、セツさんは和美に、港で聞いてみたが銀二の行方はわからない事、そして、船がないのでどこかに出かけているのじゃないかと伝えた。
「そう言えば、私、銀二さんの事、ほとんど知らないんです。助けてもらって、自分の事で精一杯で、漁師をしている事くらいしか知らない。なんて事・・」と和美は今更ながら、銀二に甘えていた事に気づいたのだった。
セツさんは、その様子を見て、銀二の事を話してくれた。

「向島の人間で銀二を知らない者はいないね。まあ、若いのに腕のいい漁師でね、皆、銀二に漁の仕方や獲れる漁場を教えてもらっているくらいだよ。それに、親思いで、早くに父親を亡くしたんだが、母親を手伝って、小学校のときから、海で働いてる。弟も銀二が育てたようなもんだ。それに、困っている人を見ると世話したくなる性分らしくて、結局、自分の事は一番最後さ。ここに居る人間は一度は銀二に世話になってると思うね。」
そうだった。銀二がどういう人生を歩んできたのかは知らなくても、銀二がどんなに優しいかは身に沁みてわかっていた。
「銀二の事だから、また、誰かの面倒を引き受けてるんじゃないかね。」
「そうだといいけど・・・」
「まあ、そんなに心配してもしょうがないよ。銀二の心配をするよりも、銀二に言われたように、自分の人生をしっかり生きる事が、銀二の恩に報いる事だよ。判ったかい?」
和美は、セツさんの言葉が胸に沁みた。自分にできることを今は精一杯しよう。改めてそう思った。


2-2-8,心の故郷 [峠◇第2部]

4日ほど、行方がわからなかった銀二が突然現れた。
それも、両手に大降りの鯛を抱えて嬉しそうな顔をしていた。セツさんの家に入るなり、
「和美!いるか?ほら、土産だ。」
「4日間も、何処行っていたんですか?」
「おう、いろいろとな・・・まあいいじゃないか。」
しばらく行方不明で和美が心配していた事など、気にかける様子もなく、笑顔で現れたのだった。
そして、
「そうだ。和美の働き口を見つけてきたぞ。一度挨拶に行こう。」と切り出した。
それを訊いたセツさんが、銀二に向かって諭すように
「こら、銀二!お前が行方不明だっていって、和美ちゃんはずーっと心配していたんだ。まずは、ちゃんと謝りな。それから、働き口ってそんな和美ちゃんの気持ちも考えてやらないと駄目だよ。」と言った。
銀二は、少し悪びれた表情をしたが、
「すまん、すまん。いいじゃないか、ちゃんと戻ってきたんだし。それには働き口ってのも、まず、挨拶に行ってからだ。気に入らなけりゃ断ればいいんだから。」
と、やはり気にしていない様子だった。

和美は、そんな銀二を見て、心配していたのが馬鹿らしくなった。
「おお、元気そうじゃないか。まあ、今日はこれで贅沢料理を作って、前祝としよう。」
そういって、台所に行くと、さっさと捌きはじめた。
その夜は、和美が銀二のところで初めて食べた、鯛めしと鯛汁だった。

器によそって、卓袱台に並べ、さあ食べようとした時、和美が立ち上がって、
「ちょっと待ってて。」と外へ出て行った。少しして、
「さあ、これが無いとね、銀二さん?」と手のひらを広げた。
手の中には、山椒の葉が3枚ほど入っていた。
銀二は、嬉しそうに、それを受け取ると、パンと手のひらで叩いて香りを広げた。

翌朝、銀二はセツさんに詫びていた。
「ごめんな。せっかく世話してくれたのに、勝手に話を決めてきて。」
「まあ、お前の事だから、いい話なんだろう。ここにずっと居ても、あの子は自分で生きることにはならないからね。淋しくなるけど、時々、顔を見せるように言っといてな。」
そういうセツさんの目は、うっすらと涙で潤んでいた。
「ああ、そう言っとくよ。それに、俺はここにいるんだからさ、前以上に俺がセツさんの面倒を見るからさ。」
「馬鹿いってんじゃないよ。どっちが世話をするんだよ。」

和美が支度を終えて出てきた。荷物は、セツさんが出してくれた大きな鞄に洋服を詰めただけだった。
和美は、まだ気乗りしない様子だった。それを見たセツさんが、
「なんだい、そんな顔して。これからまた新しい暮らしが始まるんだよ。さあ。」
と言って、背中を押した。
「本当に、お世話になりました。また、遊びに来ますね。お元気で・・・」
和美は、そう言うはじから涙が流れた。

いつもの桟橋に銀二は船を着けていた。
和美は船に乗り込むと、じっと銀二とセツの家のある浜を見つめていた。
ここに来て、悲しみの淵からようやく顔を出して息をする事ができたのだ。
そして、この世で生きていく事を許された気持ちになれた。そう思うと、玉浦のふるさととは別に、ここが新しい自分のふるさとのように思えた。
浜に人影が見えた。セツさんが手を振っていた。涙が零れて、人影がかすんで見えた。

2-3-1:紫 [峠◇第2部]

銀二の船は玉の関に向かった。港に入る前に、
「おい、ちょっとここに入って見つからないようにしとけ。」
と言って、和美を操舵室の中に潜り込ませた。
「知り合いの漁師たちに見つかると、変なうわさが立つからな。」

船は、港の船道口から中に入る。そして、大型船の間に滑り込んだ。
「ここなら大丈夫だ。ちょっと様子を見てくる。俺が合図をしたら、その波止場を真っ直ぐ行って、あそこの大きな建物の右脇の路地を入るんだ。4軒目に、小料理屋があるから,そこに行くんだ。走れるよな?」
そう言って、舳先から波止場に渡ると、周囲を見回した。それから、こっちへ来いと手招きをした。舳先から波止場に移るのは、銀二のところで何度もやっていたから平気だった。そしていわれたとおりの道を走った。なんだか、かくれんぼをしているようで可笑しかった。

言われたとおり4軒目に小料理屋があった。まだ、時間が早いので暖簾は出ていなかった。
「すみません。あの・・」と声をかけたら、玄関が開いて、中から
「お入りなさい。」と優しい声がした。言われるまま、中に入った。

「あなたが和美さんね。大体の事は銀ちゃんから聞いているわ。まあ、お掛けなさい。」
と、カウンターにある椅子をすすめられた。

女将さんはじっと和美を見ていた。そして、にっこりしてから
「私は、直子。銀ちゃんは女将さんって呼ぶけど、お客さんはみなママさんとか直ちゃんとかって呼んでるわ。どっちでも良いんだけどね・・ああ、何か飲む?」
「いえ。大丈夫です。」
「ふーん。銀ちゃんが惚れるのも無理ないわ、こんなに可愛いんだもの。しばらく一緒に住んでたんでしょ。何もされなかった?」と笑いながら訊いた。
「いえ・・何も・・あ、それに、銀二さんは惚れるとかそういうんじゃ・・」
とたどたどしく答える様子を見て、嫌だよと言いながらさらに笑った。

そんな会話をしていたら、表で銀二が呼んだ。
「すみません。銀二です。女将さん、いらっしゃいますか。」
変な言葉遣いだった。
「銀ちゃんたら、みんなに変に思われるといけないから、用事があって来るように演技するからって言ってたけど、あれじゃ、余計に変じゃない。ねえ?」
女将さんはそう言いながら玄関を開けた。
「どうぞ。お入りください。」
女将さんも、銀二の調子に合わせた。

中に入ると銀二は、
「なんだい、そのお入りくださいってのは、変だろ。」
「銀ちゃんよりましよ。」
和美は二人のやり取りを見てくすっと笑った。

「この子が和美ちゃんね。銀ちゃんの頼みだから、ちゃんと預かるわよ。ここの仕事も手伝ってもらえると助かるしね。お給金も少しは出せると思うから、大事に使いなさいね。ああ、それから、部屋は2階ね。昨日、掃除しといたからすぐ使えると思うわよ。」
「ちょっと、女将さん。まだ、和美には何にも話しちゃいないんだ。それに、和美の気持ちも考えないと。」
銀二には、それなりの段取りがあるようだった。しかし、和美が
「直子さん、よろしくお願いします。一生懸命働きますから。」
と言ったので、銀二も、
「そうかあ?そんなら話は決まった。女将さん、よろしく頼みます。そんじゃ、俺は帰るよ。細かい事は、女将さんから訊きな。じゃあな。」
そう言って、ぱっと店を出て行った。

和美は、礼を言うまもなく、銀二が立ち去ったことに驚いた。
「銀ちゃんていつもあの調子なんだから、こっちが礼を言う間も与えないで、さっさと消えちゃうんだから。すぐにまた顔を出すから心配要らないわよ。」
女将さんも、しょうがないという風に言った。

「さて、和美ちゃん。まずは、その髪を直しましょう。せっかく可愛いんだからもっときれいにしなくちゃ。その髪、自分で切ったの?」
「ええ、過去を忘れて新しい人生をって銀二さんから言われて、銀二さんに切ってもらったんです。」
「ひょっとして、前は随分長い髪だったの?」
「ええ、腰近くまで伸ばしていました。それが?」
「ふふーん。やっぱりね。」
「やっぱりって?」
「銀ちゃんはね、長い髪の女の人が好きみたいなの。私も前に長い髪をばっさり切ったことがあったのよ。店の仕事が忙しくて、髪の手入れが面倒になってね。そしたら、銀ちゃんはすいぶん怒ってね。女将さんの長い髪が見たくてこの店に来てるんだぞって。」
「へえ、そうなんですか。」
「ここだけの話、銀ちゃんは私に惚れてると思うのよ。」
「え?そうなんですか?」
「あら、嫌だわ。冗談よ。」
そう言って女将さんはけらけらと笑った。そして、
「斜め向かいに、美容室があるから、そこに行って、綺麗にしてもらいなさい。大丈夫、あそこの奥さんは仲良しだから、今日から紫にきた和美ですって挨拶すればすぐにやってくれるから。さあ、行っておいで。」

1時間ほどして、和美が美容室から帰ってきた。散切りだった髪をショートカットに綺麗に整え、化粧もしてもらったようだった。帰ってきた和美を見て、女将さんは、
「あら、見違えたわ。こんな綺麗なお嬢さん、見たことないわ。これじゃ、お客が増えて困っちゃうわ。」
と言って褒めた。すこし戸惑っている和美に気づいて、
「大丈夫よ。この店には玉浦の人間は来ないから。少し前に、玉浦の若い衆がこの店で暴れてね、それ以来、出入り禁止にしたの。今でも、玉浦の人間が着たら追い返すから。」
女将さんは、和美の事情を全て知っているようだった。
「ねえ、疲れてない?」
「大丈夫です。」
「それなら、荷物を2階の部屋に置いて一息ついたら、店の仕込み手伝ってくれる?」
「ええ、頑張ります。」

和美は言われたとおり2階の部屋に行った。階段を上がって右側と聞いたので、ドアを開けた。
6畳ほどの部屋。綺麗に掃除されていて、何もなかった。鞄を置いて、ふと見ると、大きな窓がある。
鍵を開けて、窓を引いた。南向きの窓から、港が見えた。もう銀二は島に帰ったのだろうかと考えていた。
ポンポンというエンジン音、銀二の船かもしれない、そう思って見ていると、ちょうど波止場の先の案内灯台の下を銀二の船が出て行くところだった。

銀二は、店を出てからも和美の事が心配だった。せっかくセツさんとの暮らしに慣れたころに、引き離すようにここに連れてきて良かったのだろうかと考えていた。しかし、気持ちを決めた和美の言葉を思い出し、これで良かったはずだとも思った。しばらく,船に戻ってから、帰るに帰れない気持ちでいたのだった。一度、店に戻ろうとした時、店を出てきた和美を見た。美容院に入っていった。1時間ほどして、出てきた和美は見違えるように綺麗だった。それを見て、これで良かったんだと得心して、船を出した。そして、しばらくは、ここへは来ないと心に決めていた。


2-3-2:直子と銀二 [峠◇第2部]

和美が1階に下りていくと、女将は、店の仕込みを始めていた。
小料理屋といっても、それほど上品な店ではない。居酒屋と言ったほうが似合っている。料理も大半は煮物や揚げ物、魚料理の類だった。和美は女将に言われるまま、流しの前に立って、野菜の下ごしらえを手伝った。合間に、お昼を取った。

昼ごはんを食べた後、女将が、少し休憩しようといって、お茶を煎れてくれた。
和美は、洋服の事を訊いてみた。
「あの、銀二さんが洋服を用意してくれたんですが、あれは、直子さんが・・」
「そうよ。銀ちゃんたら、突然やってきて、洋服をくれっていうんだから。若い娘だからって聞いてね。うちの娘の着なくなった洋服を渡したの。お役に立ったかしらね。何も気にしなくていいんだから。どうせ、捨てちゃうのよ。」
「ありがとうございました。どれも今まで着た事のないようなものばかりでしたけど、新しくやり直すにはちょうど良かったと思います。」
「そう。まだたくさんなるはずだから・・」
「あの、娘さんて?」
「ああ、年は17になるわ。今は徳山の港で、事務員をしてるわ。思い出したように、帰ってくるけどね。ほとんど居ないから。そうそう、その娘の働き口ね、銀ちゃんが探してきてくれたのよ。」
「徳山の港には、この前、行きました。港からすぐの商店街に・・」
「じゃあ、きっと、その時、娘のところにも寄ってきているわね。銀ちゃんね、時々様子を見に行ってくれるの。元気だとわかると何にも言わないの。困った事があるとそれとなく言ってくれるのよ。」
「へえ、そうなんですか。」

和美は、女将と銀二の関係が不思議で、ちょっと訊いてみることにした。
「直子さんと銀二さんって、いつからのお知り合いなんですか?」
女将はお茶を飲みながら、少し考えて、
「そうね、銀ちゃんとはもう15年くらいになるかしら。まだ銀ちゃんが中学を卒業したばかりだったと思うわ。」
「お店もそのころから?」
「いいえ。そのころ、向島で、主人が船修理の工場をやっていたのよ。そこに、銀ちゃんが訪ねてきたのよ。」
「え?じゃあ、直子さん目当てで中学生が?」
「まさか。銀ちゃんは、お父さんの使いで、船部品を受け取りに来たの。挨拶して、私の顔をじっと見てね。真っ赤になるのよ。純情な少年だったわ。それからちょくちょく来るようになってね。修理に興味があったようで、主人もずいぶん気に入っててね。修理の仕方を熱心に教えていたわ。その内、ここで働かせてほしいって。」
「じゃあ、しばらくは、工場で働いていたんですか?」
「そうね。1年ほど。プロペラの修理にかけては主人は天才だったのよ。漁師から注文が多かったわ。銀ちゃんも、主人から随分教わって、簡単なものは任せられるくらいになっていたんだから。」
「それで、ご主人は?」
「ええ・・・7年程前に、倒れてしまって。脳卒中っていうの?工場で夜中に倒れてそれきり。その時、真っ先に銀ちゃんが来てくれてね。しばらく、修理の仕事をやってくれてたんだけど、やっぱり立ち行かなくなって、売る事になっちゃったの。娘と二人、どうやって生きていこうかって途方にくれたわ。その時、銀ちゃんが2.3日居なくなったと思ったら、ある日突然現れて『女将さん、店をやらないか』って言うのよ。」
「それがこのお店?」
「そう。私、小料理屋なんて行った事もなかったし,お金だってなかったし、どうしてそんなものができるんだって銀ちゃんに言ったの。そしたら、『お金のことなら心配ない、大家さんが良い人で、1年は家賃は要らないって言ってくれたんだ』って言うの。それにね、小料理屋って言ったって、客は地元の漁師ばかりだから、適当に料理と酒を出しとけば大丈夫だってね。」
「結構、いい加減なところありますからね。」
「私、その時の銀ちゃんの話を聞きながら、どうせどう生きたらいいのかわからないんだったら、とりあえず1年言うとおりにやってみようって決めたの。駄目だったらまた何か考えればいいじゃないかってね。」
「それで、今は・・・」
「やって来て良かったって思うわ。何とか生きて来られたのも銀ちゃんのお陰ね。そうそう、実はね、家賃の話は、嘘だったのよ。銀ちゃんが、現金を持って掛け合って、渋る大家さんを説得したんだって。時々、無茶な事を平気でやっちゃうのが銀ちゃんよね。」
笑顔で銀ちゃんの事を話す女将を見ていて、この人も銀ちゃんに惚れてるんだと和美は確信した。
「さあ、材料の仕込みはそろそろ終わりだから、後は、お店の掃除をして頂戴。6時には開けるから、掃除が終わったら少し休憩してね。」
そう言って、女将は厨房で入って、料理の仕上げに入った。和美は、椅子やテーブルを拭き、店の前に水を打って掃除をした。

2-3-3:噂話 [峠◇第2部]

夕方6時を回ったところで、店先の暖簾を出した。
その日、一人目の客は7時ごろに現れ、夕飯代わりに、煮物や焼き魚、焼酎を飲んで1時間ほどで帰っていった。それから、同じような客が数人程度だった。
和美は、女将に言われて、厨房で料理や盛り付けなどを手伝った。
店に顔を出すと、客から新顔の女の子だっていう事で、興味本位に根掘り葉掘り尋ねられるだろうからと、女将が気遣って店には出さないようにしていた。

10時を少し回ったころ、数人の漁師仲間が入ってきた。
どこかですでに飲んできたのか、いい調子で、わいわい言いながら椅子に座った。

「おい、聞いたか?玉浦の火事の話?」
「ああ、惨いよな。」
「俺さ、ちょうど、その時、玉浦に居たんだ。火の勢いったらなかったぜ。」
「全焼だってな。一家、皆、焼け死んだんだろう?」
「いや、なんでも娘は自殺したらしい。」
「自殺なんて尋常じゃないな。誰かに殺されたんじゃ?」
「おいおい、何があったんだい。」
「詳しくは知らないが、借金が相当あったらしくてな、心中だって話だぜ。」
「借金ってなあ。燃えた家は、旧家で金持ちだったんじゃないのかい?」
「それがほら、昔とは違うんだよ。旧家っていったってよお、戦争前までだろ。」
「ああ、庄屋とか名士って威張ってても、今は先立つものがなけりゃなあ。」
「あんな静かな村でねえ。」
「じゃあ、葬儀はどうなったんだい?」
「何でも、玉水水産の社長が仕切ったってことだそうな。それと、玉本・・ああ・・にしきやの旦那が、後始末に家の土地を預かったそうだ。まあ、借金のかただというのが本当らしいがな。」
「ほれ、やっぱり、金が全てじゃねえかい。」

そこまで話していたのを女将が聞きつけて、
「おや?うちの店で、玉浦のうわさ話をするなんて、どういう了見だい?」
ときつい声で言うと、
「こりゃあ、しまった。ごめんよ。もう止めとく。」
と客の一人が答えた。
事情を知らない他の客が、なんだいっていう顔をしているので、その客は、後ろを向いて、ヒソヒソ話をするように、小声で、「この店で、昔、玉浦の奴らが暴れてさ・・・」と続けていた。
その様子を見て、
「そんな話は他でやってちょうだい。他に何か注文はないの?」
と話題を変えた。
客は、何品か注文をよこし、それを聞いて、女将は厨房へ入って行った。

和美は、厨房で客の会話を聞いていた。改めて、玉浦の悲しい出来事やその後の様子を噂話で聞くのは辛かった。胸の奥に刺さったままのガラスの破片がまた深く心をえぐる思いだった。声を堪えて泣いた。

そこに女将が入ってきて、
「ごめんね。おかしな話を聞かせちゃったね。ここはもう良いから。お風呂沸かしといてくれない?」と言った。
「はい。」とだけ和美は答え、店の裏手にある風呂場に向かった。
「それから、先にお風呂済ませておいて、私も後で入るからね。店の片付けは、明日の朝にするわね。」
そう言って、また店に出て行った。

ここの風呂は、銀二の家とは違い、外に焚き口のある新しいものだった。
火のつけ方は銀二に教わり、手馴れたものだった。しばらくすると湯が沸き、女将の言うとおり、和美は、先に風呂に入った。
湯船は、膝を折り曲げてようやく入れるくらいの小ささだった。湯船の横にある小さな窓をほんの少し開けた。夜風がすっと入ってきた。
湯船につかりながら、和美は、銀二の家を思い出していた。
お風呂は、囲いや天井はあったが、ほとんど野天に近かった。すぐ近くに波の音や虫の声が聞こえた。
救われた後、初めて、あの湯船に浸かった時の安堵感を思い出し、涙がこぼれた。

2-3-4:夜話 [峠◇第2部]

 店を閉め、女将も風呂を済ませて、2階へ上がってきた。
女将は、客の噂話を聞いた和美がどうにも気がかりだった。女将は襖越しに、
「和美ちゃん、ちょっといいかしら?」
と声をかけた。
「はい、どうぞ。」と返事がした。
部屋に入るなり、女将は、もってきた瓶ビールとコップを見せて、にっこり笑った。

「お先にお風呂いただいてすみません。」
「あら、気にしないで。一人の時は、お風呂沸かすのも億劫だったから、やってもらって助かったんだからね。」
と言って、和美の横に座った。

「こういう商売していると、お客さんからいろんな話を聞くのよ。いい話もあるし、悪口もある、中には儲け話とか、口説き文句もね。そんなのいちいち気にしてると持たないでしょ。だから、私、寝る前にこうやってビールを飲んで忘れることにしているの。」
そう言って、ビールを注いだコップを一気に飲み干した。
風呂あがりのまだ湯気が残っている首筋あたりがごくごくと音を立てる。
「は~あ、いい気持ち。楽になるわよ。さあどうぞ。」
と和美にも勧めた。和美も、女将を真似して一気に飲み干した。
「どう?」
「は~あ、いい気持ちです。」
冷たいビールが喉を通り、体中に染み渡る思いがした。
「直子さんが言うとおり、何だか、体の中に溜まったものがすーっと深く沈んでしまうような気持ちです。」
「でしょ。でも、一人で飲むより、こうやって二人で飲むほうが良いわ。ほら、もう一杯。」
今度は二人で同時に飲み干した。初めてのお酒だったが、本当に美味しかった。

「ねえ、直子さんは銀二さんをどう想っているんですか?」
和美が唐突に尋ねた。
「あら、もう酔いが回ったの?いきなり何よ。どきっとするじゃない。」
女将は笑いながら答えた。
「昼間、直子さんが銀二さんとの縁を話していた時、とても楽しそう・・というか嬉しそうだったから。」
「あらあら・・そうね。きっと、和美ちゃんが銀二さんを想ってるのと同じかな?いや、私のほうが長いから、私のほうが深いかもね。」
「え?じゃあ、銀二さんと一緒になりたいとか・・・」
「馬鹿ねえ、そんなの・・」と言いかけて、ちょっと真顔になっていた。
「まあ、良いわ。酒の勢いで話しちゃおうかな。」
「ぜひ、聞かせてください。」
「銀ちゃんは命の恩人。大・大・大恩人なの。その話はしたわよね。」
「ええ、昼間に聞きました。」
「実はね、この店がどうやらうまくいきそうだって思った頃、何とか恩返しをしたいと思ったの。あなたもそうでしょ?」
「ええ、何か自分にできることがあるなら・・」
「そうなのよ。だから、ある夜に銀ちゃんが店に来た時に、泊まってってお願いしたの。もちろん、ただ泊まるわけじゃないわよ。私だって一人身は淋しい、お互いの温もりで慰めあうのもいいんじゃないのって・・・それで恩返しにならないかなってね。」
「それで・・」
「銀ちゃんね。この部屋までは上がって、こんな風にビールを飲んでね。でも、私が、脱ぎ始めたらね・・・」
女将は顔を赤らめて、少し言葉に詰まったようだったが、
「銀ちゃんが、『そういうつもりなら帰る。』って怒ったの。ここまで来たんだからその気があるのかと思ったのに、全然。それに、『俺がこの店を世話したのは、社長への恩返しだから、こんな風になるのなら俺は二度とここへ来れなくなる」って泣きだしたの。」
女将は、その時の状況を思い出して、さらに、顔を紅潮させていた。
「浅はかだったわ。銀ちゃんの優しさを何だか踏みにじってしまったようで、私まで泣き出しちゃって・・・」
和美は、複雑だった。自分も、銀二の家にいるときに、恩返しに銀二に抱かれてもかまわないと考えていた事があったからだ。そして、思わず、銀二の家での出来事を口にした。

「私、しばらく銀二さんの家に居ました。助けてもらって、介抱してもらったとき、何度か、私の服を着替えさせてもらったようだし、体も拭いてもらったんです。裸の私を何度も銀二さんは見ているはずなのに、お風呂に入っている時は、随分遠くから声をかけるんです。裸を覗いてないぞって判るように。」
「ふーん。銀ちゃんらしいわね。でも、銀ちゃん、うちに来ていたころ、私のお風呂を覗いた事あるのよ。」
「ええ、そうなんです。覗いてないぞって言う割には、胸元とか足とかちらちらと見たりするんですよね。」
「本質的にはきっとスケベなのよ。でも、純情だからね。」
二人はその後、銀二の駄目なところを言い合い、大声で笑いながら夜を過ごした。

そんな暮らしが数日続いていたが、突然、悲しい知らせが届いた。


2-3-5:悲しい知らせ [峠◇第2部]

和美が『紫』へ来てから、銀二は姿を見せなかった。
ただ、毎朝、店の裏口には、獲れたばかりの魚が一箱ほど置かれていて、銀二が届けたものだと判っていた。
最初に見た時、和美は不審に思って女将に尋ねたら、「これが銀ちゃんなりの優しさの表現なのよ」と女将は笑顔で答えたのだった。

それが5日目には届いていなかった。最初、海が時化ていたのだろうと思ったが、昨日は良い天気だったはず。少し心配になって女将に話したら、「そんな時もあるわよ」と素っ気無かった。
翌日も、その翌日も届いていなかった。三日続けて届いていなかったので、女将もさすがに不思議に感じていた。

「直子さん、銀二さんに何かあったんでしょうか?」
不安になって、和美は女将に訊いてみた。
「そうね。ちょっと様子を聞いてみないとね。体を壊したわけじゃないと思うけど・・」
女将も少し心配そうだった。

その夜遅く、数人の男たちが、店にやってきた。
女将は、その顔を見て、向島の漁師だとわかった。
漁師仲間は、テーブルに座って、焼酎を注文した。
女将はテーブルにコップと焼酎の瓶を運んで、銀二の様子を訊いてみた。
「ねえ、銀ちゃん、どうしてる?最近、来てないのよ。」
一人が答えた。
「ああ、銀二か。今、大変なんだよ。」
すると、もう一人の漁師が、
「おい、どうしたんだ?銀二の奴、何かしでかしたのか?」
と訊く。すると、
「いや、銀二じゃなくて、銀二の弟、鉄三のほうさ。」
「鉄三っていやあ、確か、こないだ結婚して子どもがもうじき産まれるって聞いたが・・」
「それがさ、嫁さん。ほら、釣り船屋の娘さ。昔から病気がちだっただろ。」
「ああ、そうだそうだ。確か、子どもは産めないって言われたんじゃなかったのかい?」
「そうさ、だのに、どうしても産みたいって言ってさ。先月、入院したんだが、やっぱり、無理だったんだろ。一昨日、産院で亡くなったってさ。」
「そりゃあ、大変だ。で、子どもはどうだったんだい?」
「何とか、こどもは大丈夫だったらしい。」
「そりゃあ、良かった。・・だが、これからだなあ。」
「ああ、釣り船屋の主人も奥さんもずいぶんがっくりしててなあ。明日には,葬儀だってさ。」
「きっと、鉄三は悲しんでるんだろうなあ。」
「いや、鉄三もだけどな、銀二の奴がなあ。」
「どうしてだい?」
「だってよお、二人が一緒になる時も、釣り船屋の親父に掛け合って何とかまとめたしな。産院だって、皆、無理だっていうところばかりだったのを、あちこち探し回って見つけてきたんだ。父親より、動き回って、まるで自分の子どもが産まれるみたいに喜んでいたんだぜ。それがな・・・」

そこまで聞いて、女将は、すぐに厨房に入ってきた。
「和美ちゃん、今の話、聞いたわよね。」
「ええ・・・」
そう答えた和美の目には涙が滲んでいた。
「銀ちゃん、そうとう、がっくりしてるでしょうね。・・・いや、銀ちゃんのことだから、赤ちゃんの事でまた自分なりに何かできないかって動き回ってるのかも・・・」
そう言いながら、女将も涙を流している。

その悲しい知らせを聞いてから、女将は、とても客を迎える気分じゃないとさっさと店を閉めてしまった。
早い時間に、風呂を済ませた後、二人で部屋にいた。いつもなら陽気にビールを飲んでいるのだが、今日はそれさえもできない様子で、じっと部屋にいた。

和美は、あれからずっと考えていた。そして決心したように女将に話した。
「私、お役に立てないかしら?」
「どういうこと?」
「鉄三さんの赤ちゃんをしばらくお世話させてもらえないかって思うんです。」
「それは・・でも・・」
女将も、きっと銀二も赤ちゃんの世話をしてくれる人を探しているだろうとは思っていたが、そんな都合の良い話はないだろうと考えあぐねていたのだった。
「私、銀二さんに助けられたのは、きっと、このためだったんじゃないかって思ったんです。子どもを亡くした私と、母を亡くした赤ちゃん。きっと何かの縁だと思うんです。」
和美は真剣だった。今、自分に出来る、銀二への恩返しの一つになればという気持ちだった。
その様子を見て、女将も
「そうね。きっとそういう縁があったのね。わかったわ。釣船屋のご主人とは、古くからの知り合いだし、あなたの事は私の遠縁の娘という事にして話してみるわね。」
そう承諾してくれた。そして、
「明日、一緒に行きましょう。葬式が終わってから、話をしてみましょう。」


2-3-6:帰郷 [峠◇第2部]


翌日、昼過ぎに、女将と和美は、バスに乗って向島まで行った。
玉の関から向島までは、途中、問屋口でバスを乗り換えていく事になる。
和美は、高校の頃、この道を通学路にしていた。懐かしい風景だった。あの頃の自分は、将来に大きな希望を持っていたはずだが、今ではすっかり忘れている事に気付いた。友達もたくさんいたはずだったが、名前すら思い出せない。火事より前の記憶は、本当に消えかかっているように思えた。過ぎ行く風景が一層そういう気持ちにさせてくれた。

バスが、向島の終点、港前に到着した。
バス停で降りたところに、葬儀の案内板が出ていて、港近くの龍厳寺で葬儀は営まれているようだった。
「葬儀は4時には終わるようね。和美ちゃん、どうする?」
「直子さん、ここまで来たのだから、一度、セツさんの家に寄ってきます。その後、4時にはお寺に行きます。」
「そうね。葬儀に出てるのも変だしね。じゃあ、そうして。4時にはお寺の前に居てね。」

そう会話して、二人は別れた。
和美は、セツさんの家に向かった。あれからそれほど日は経っていないが、随分久しぶりに帰郷する気分だった。
港からセツさんの家までは歩いて30分ほどの距離だった。

家の近くまで来て気がついた。この時間はセツさんはきっと昼寝をしているはずだった。セツさんの家には後で行くことにして、銀二の小屋へ寄ってみることにした。

銀二は留守だった。おそらく、葬儀に出ているのだろう。戸締りはしていないから、和美は扉を開けて中に入った。
暗い海から救われてしばらく過ごした場所。あの時と何も変わっていなかった。しばらく銀二は留守にしていたのだろう。そっと、座敷に座ってみた。この場所で銀二の優しさに癒されて過ごした時間が懐かしく、ほろっと涙が零れた。

ふと、壁を見ると、白いワンピースが掛かっていた。和美が海へ飛び込んだ時、身につけていたものだった。きれいに洗ってあった。自分のことを愛おしく思ってくれているのではないかと考えてみたが、それなら何故、もっと会いに来てくれないのか、銀二さえ望めば、一緒に暮らす事だってできるのにと考えていた。

そこへ銀二が帰ってきた。
「お・・お前、ここで何してるんだ!」
銀二は随分驚いた様子だった。
「おかえり、銀二さん。」
「おかえりじゃないぞ!せっかく紫の女将さんが世話してくれるって言ったのに、追い出されたのか?」
「そんなわけ無いですよ。」
「じゃあ、なんでここに居るんだよ。」
「鉄三さんのお嫁さんの事、聞いたんです。それで、女将さんと相談して、鉄三さんの赤ちゃんのお世話をさせてもらえないかって思って、今、直子さんが相談に行っているんです。」
「そんな・・そんなのは、他で探してくるから、お前は自分の遣りたい事を遣ればいいんだよ。」
「いいえ、きっと、銀二さんに助けられたのは、こういう縁があったからだと思うんです。だから、私に今できる事をやろうって決めたんです。」
「・・だめだ・・・・」
「大丈夫です。直子さんからも、遠縁の娘という事にしてもらってお願いしているところですから。」
「・・いや、だめだ・・・」
「大丈夫です。これが私の銀二さんへの恩返しのひとつなんです。」
そこまで聞いて銀二も口をつぐんだ。和美の決心の固さを感じたのだった。

「ねえ、銀二さん。このワンピース、どうしてこんな風に掛かってるんですか?」
「いや、それは・・あんまり綺麗な服なんでな。捨てるのにはもったいなくてな・・」
銀二は少し顔が赤らんでいて、和美を見ようとはしなかった。
「でもね、銀二さん。これは捨てて欲しいんです。あの悲しい思い出が蘇ってくるんです。どうか、捨てて下さい。」
「いいじゃないか、ここにあるのは構わないだろ。」
「いや、捨ててください。」
「判ったよ。」
そう言って銀二は壁から取って袋に入れた。
だが、銀二は捨てそうもないと感じた和美は
「その袋、私が貰っていきます。このままだと銀二さんは捨ててくれないかもしれないですから。」
銀二は渋々、その袋を和美に渡し、ぷいと横を向いてしまった。
「それじゃあ、私、行きますね。」
「ああ、元気でな!」
銀二は、和美の顔も見ずに、そう言った。

和美は、銀二の家を出て、セツさんの家に向かった。昼寝の時間も過ぎたろうと考え、玄関で声をかけた。
すぐにセツさんが出てきた。
「おやおや、珍しいお客さんだね。元気だったかい?」
「嫌だわ、お客さんなんて。里帰りした娘です。」
「そうだね、ごめんね。まあ、お入り。」
そう言って、家の中に入れてくれた。

セツさんの家も、以前と少しも変わっていなかった。
「お昼は済ませたかい?」
「ええ・・」
「そうかい。お芋があるんだけどね・・・」
セツさんはちょっと残念そうな表情をしたのを和美が気付いて、
「お芋ならいただくわ。」
「そうかい?」
「ええ、お昼は時間がなくて軽く食べたくらいだったから、それに、セツさんのお芋、美味しいんですもの。」
和美はそう言って、お釜の中にあった蒸かし芋を手にとって頬張った。頬張りながら、銀二と少し気まずい雰囲気で別れたことを後悔していた。

「ねえ、セツさん。銀二さん、あれからどうしてた?」
「ああ、・・鉄三の話は知ってるかい?」
「ええ、それで、今日、紫の女将さんと一緒にここへ来たんです。女将さんは、今、葬式へでています。」
「そうかい。銀二はね、一昨日からここへは帰っていないんだよ。産院から一度帰ってきて、ここへも顔を出したんだが、何だか、自分を責めているんだよ。両親を説得して産院まで探した自分のせいだって言ってね。」
「でも、娘さんが産みたいって・・・」
「そうなんだよ。だれも銀二を責めちゃいないのに、俺のせいだって言ってるんだよ。」
「私、その話を聞いて、その赤ちゃんのお世話をさせてもらえないかって思って・・」
「和美ちゃんが?」
「ええ、少しでもお役に立てるなら・・私も子どもを亡くしてるし・・何かの縁ではないかって・・」
「そうだねえ。でも、素性が知れたら厄介な事になるんじゃないかい?」
「ええ、女将さんが、遠縁の娘という事にして釣船屋のご主人に相談するって言ってくれたので・・」
「そうかい。じゃあ、ここへも余り寄らないほうが良い。銀二の事も赤の他人にしておかないとね。」
「ええ、だから、今日、ここに来たんです。赤ちゃんのお世話をするようになったらなかなか気軽に来れなくなると思って・・」
「わかったよ。まあ、そのうち、向島の人間にも知られるようになれば、遊びに来れるさ。」
「ごめんなさいね。」
「良いんだよ。お前さんが決めた事だ。それに、きっと銀二も喜んでくれるだろう。」
「それが・・・」
「なんだい。銀二と会ったのかい?」
「ええ、ここへ来る前に。でも銀二さんは反対だって、それで、ちょっとけんかみたいになっちゃって・・」
「銀二はさ、あれから、毎日、玉の関に行ってたようだよ。気になって仕方なかったみたいだ。家に帰ってからも、時々、浜辺でじーっと玉の関のほうを眺めてるんだ。一度ね、『会いたきゃ、会いに行けばいいじゃないか』って言ってやったら、『馬鹿言うな。会いたいわけ無いじゃないか!』ってむきになって怒るんだ。ずいぶん淋しかったんだろうね。嫁にすれば良いのにって言ったこともあるよ。でも、『俺と一緒になっても和美は幸せにはなれない』ってさ。」
「そうなの。」
「察してやんなさい。そして、早く自分らしい生き方を見つけて、銀二に堂々と会いに来ればいいじゃないか。」
「そうですね。」

1時間ほど、セツさんの家で過ごした和美は、セツさんに挨拶をして、約束の時間に間に合うよう、寺へ向かった。

寺の近くに来ると、葬儀帰りの喪服の人とたくさんすれ違った。ちらっと和美を見るが、皆、素通りしていった。
和美は、門前の脇道に隠れるようにして立っていた。

2-3-7:葬儀 [峠◇第2部]

港近くの高台にある龍厳寺で、釣り船屋の娘の葬儀は、しめやかに行われていた。
弔問には、向島の住人や、釣船屋の客たちが大勢訪れていた。
祭壇には、まだ若い笑顔の娘の遺影があり、あまりにも早い旅だちに訪れる人も涙を流さずにはいられなかった。
葬儀の間、じっとうつむき、遺影の脇に座っていた主人とすがって泣く母親の姿は実に痛々しかった。
さらに、その横には鉄三が、ずーっと突っ伏して泣いていて、お悔みの言葉も届かないようだった。

葬儀が終わり、皆、帰ったところで、直子は、釣船屋の主人を探した。
釣り船屋の主人は、寺の裏庭に、ひとり立っていた。
直子は、主人を見つけたが、何と声をかけてよいか迷ってしまった。まだ、乳母の話を持っていくには早すぎたのではないかと躊躇っていた。そんな様子に、釣り船屋の主人のほうが気づいた。

「おや、直子さん。来てくれたのかい。」
主人の声はかすれていたが、予想以上にしっかりしていた。
「このたびは、ご愁傷様でした。」
と直子は頭を下げた。
「随分、久しぶりじゃないか。元気そうだね。店のほうはどうかね?。」
「お陰さまで、何とか食べていけるほどには・・・。銀二さんが良くしてくれるものですから・・」
「それは良かった。銀二は昔から直子さんには熱心だから。」
「ええ、主人が亡くなった時も、随分手伝ってくれて、本当の弟のようですわ。」
「そうか・・直子さんのご主人も、思わぬときに亡くなったのだったね。」
「ええ、突然でした。ただ、自分の好きな事をやりながら逝ったので本望かと・・・でも、娘さんはまだ・・」
と言い掛けて、どういえば良いのか言葉に詰まってしまった。
それを察して、主人が、
「ああ、昔から体の弱い子だったからね。子どもを産む事には反対していたが、こんな事になるなんて・・・。」
直子は何と答えてよいものかと言葉が出なかった。
「だが、もう後悔はしとらんよ。あの子が望んだ通りに、赤ん坊を産んだわけだから。きっと、これがあの子の運命に違いないからね。むしろ、娘の命は、赤子に繋がったんだと思うようにしているんだよ。」
「そう・・・ご主人がそうおっしゃるなら・・・今、赤ちゃんは?」
「ああ、まだ産院にいるよ。やはり、産まれた時、無理もしたのだろう。少し、様子を診てもらって、何とも無ければ、明日にも退院になるそうだ。」

「実は、ご主人に、折り入って、お願いがありまして。」
「なんだい?今の私に、何の頼み事かね?」
「いや、実は、遠縁の娘を今預かっているんですが。その娘、最近、事故で、子どもを亡くしてしまいまして。」
「それは不憫な事だ。」
「こちらの話をしたら、お世話させてもらえないだろうかって言うんですよ。自分の子どもの供養になるし、何より、乳が張ってしまってね。こちらの赤ちゃんのお役に立てないかっていうんです。」
「それは・・」
「厚かましいお願いだと一度は叱りました。ですが、とにかく一度お話だけでもと食い下がるものですから・・。」
「他人の子を育てるのは容易いことではない。その子はどんな子かい?」
「身元は私が保証します。おかしな子じゃありません。いえ、むしろ、しっかりしすぎてるくらいなんです。」
「若いのかい?」
「ええ、確か、まだ二十歳になったばかり。事故で、両親も我が子も亡くしたので、しばらくは心が壊れていたようでしたが、最近は落ち着いて、何か自分が役に立てる事はないだろうかって考えられるほどになっています。」

主人は少し考えてから、
「そう言ってくれるのも何かの縁かもしれないね。とにかく会ってみようかね。」
「まあ、ありがとうございます。今、寺の外に待たせているんです。すぐに連れてまいりますから。」
そう言って、直子は、主人と別れ、寺の石段を降りていった。

寺の門の脇道に、隠れるように、和美は立っていた。
直子は石段の途中まで降りてくると、和美の姿を見つけて、手招きをした。
和美は、石段を駆け上がった。
「とにかく会ってくれるって言うから。私の遠縁の娘と紹介しといたからね。出生の事を聞かれたら、事故で記憶がないと答えるんだよ。良いね。」
小さな声で直子は和美に言い含めた。そして、寺の裏庭へ和美を連れて行った。

2-3-8:対面 [峠◇第2部]

「ご主人、これが、遠縁の娘で、名前は和美と言います。」
「このたびは、ご愁傷様です。和美と言います。」
「ほお、ベッピンさんじゃないか。何でも事故で子どもさんを亡くしたそうで・・」
「ええ、一月くらい前に事故で・・私もその時の怪我で、昔の事を余り覚えていないんです。」
「それは不憫なことだねえ。今、いくつになる?」
「二十歳になります。」
「生まれは?」
そこで、直子が口を挟んだ。

「済みません、ご主人。この子に昔の事や素性を訊くと具合が悪くなるようなんです。医者からも、自分から自然に思い出すまでそういう質問をしないように言われてるんです。」
「そうか。まあ、直子さんが身元を保証してくれるというなら構わないが・・」
「すみません。お世話はしっかりやらせていただきますので、よろしくお願いします。」
と和美は頭を下げた。

主人はその様子をじっくり見て、しばらく思案したようだった。そして、
「そうかい。まあ、しばらくは母親代わりが必要だし、お前さんがやってくれるならこちらも助かる。お願いしようかね。」
「ありがとうございます。一生懸命、お世話いたします。」
「で、いつから来てくれるかい?」
と主人が尋ねたので、横から、直子が、
「これからすぐにでも。ね、いいでしょ?和美ちゃん。うちにある荷物は、また、運んできます。まあ、荷物って言ったって、鞄ひとつくらいですから。」
「はい。よろしくお願いします。」

話は決まった。和美は、直子に礼を言って、主人の後についていった。

主人は、寺の事務所の横にある広間に和美を連れて行った。
広間には、奥さんと鉄三が座っているだけで、他に誰も居なかった。
主人は、部屋に入ると
「なあ、聞いてくれ。今しがた、紫の直子さんが来て、お手伝いにと娘を紹介してくれたんだ。」
その言葉に、奥さんと鉄三が顔を上げた。
「直子さんの遠縁の娘でな、名は和美というんだが、一月ほど前に事故で赤ん坊を亡くしたそうなんだが、うちの話を聞いて、赤ん坊の世話をしたいという事なんだが・・どうかな?」
突然の話に、奥さんも鉄三も困惑した様子だった。

「わしは、しばらくの間でも赤ん坊の世話をしてくれるなら、ありがたいと思って、承諾したんだが・・」
それを聞いて、奥さんが
「そんな、見も知らぬ人に大事な子どものお世話なんて・・」
と反対した。鉄三は、
「とはいっても、乳飲み子の世話となれば、大変な事。大丈夫なんでしょうか?」
と続けた。それを聞いていた和美が、
「和美と申します。どうかお願いします。私もまだ子どもを産んだばかりで、乳が張って仕方ないんです。自分の子どもへの供養のつもりで、・・いえ・・自分の子どもと思って大事にお世話しますから、どうか、お願いします。」
と心を込めてお願いした。

その言葉を聞いて、奥さんは、
「あなたの気持ちはわかります。でも、突然のお話でね。確かに、お乳のことは・・・。」
「お願いします。他にも、家のことやお店の手伝いもさせていただきますから、置いていただけませんか?」

そのやり取りを聞いて、主人が
「まあ、長い事ではなくて、しばらくの間という事でどうだろう。きっと、何かの縁だろうから、なあ。」
と奥さんを説得した。
奥さんも鉄三も、しばらくの間という事で了解したようだった。
「ああ、それとな。和美さんは、その事故で昔の記憶がないらしいんだ。昔の事を訊かれると、具合が悪くなるようだから、余り昔の事を訊かないようにしてやってくれ。身元は直子さんが保証してくれるっていうから。いいね。」
和美の事情は一応理解されたようだった。

「さあ、式も終わった。家へ帰ろうか。」
一同は、寺を出て、釣り船屋に向かった。石段を降りた脇道には、直子が待っていた。
ちょっと手を上げて和美に合図をした。そして、握りこぶしを作って『がんばれ!』と伝えた。
和美もこくりと頷いて答えた。
すぐ横には、銀二が樹の陰に隠れるように立っていたのが見えた。銀二は、和美をちらと見ただけで、すぐに消えてしまった。

2-4-1:釣船屋「村田屋」 [峠◇第2部]

一同とともに和美も、釣り船屋に向かった。寺の石段を降り、港に出ると、すぐにあった。
店には、『釣り 村田屋』という大看板が掲げてある。
港に面した通りの一等地にあり、2階建ての大きな作りだった。
1階の通りに面した表側はガラス戸が一面にあり、中が良く見える。食卓机と20人ほど座れるようにイスもあった。奥に座敷もあり、食事もできるように厨房も備えてある。ここで鉄三は料理人見習いとして働いているのだった。
2階は宿泊も出来るように客室が何室かあるようだった。

主人が先導して、その店の脇道を入っていく。
隣家との境に、幅半間ほどの通路があり、店の裏に回る事が出来た。
店の裏には、広い庭があり、数箇所に、魚やエサ等を生かすための水槽が置かれていた。裏は斜面になっている様で、店からの続き階段が備えられ、一段高いところに、家人たちの母屋と思われる建物があった。そちらも大きい造りの家屋だった。

母屋の玄関に着くと、奥さんは、葬儀の疲れが出たのか、さっさと家の中に入り、自分たちの寝室へ引きこもってしまった。鉄三は、店の鍵を開けて、厨房の方へ入って行った。その様子を見ながら、ご主人が
「さあ、和美さん、今日からここに住んでもらうことになるからね。2階の角部屋が空いているから、使いなさい。」
と案内してくれた。

2階には3つほど部屋があるようだった。案内された部屋は8畳ほどの広さがあり、隅のほうに、布団が一組置かれているだけだった。
「ここを使ってくれれば良いからね。赤ん坊の世話にも、この部屋が一番良いはずだ。日当たりも良いし、眺めも良い。ゆっくりした気持ちでお世話しておくれ。」
「はい。」
「明日には、産院に迎えに行く事になるだろうから、それまではゆっくりしていてくれれば良いからね。」
主人はそう言って、階下へ降りていった。

部屋に残された和美は、そっと窓の外を見た。ちょうど、夕日が赤く港を照らしている時間だった。
窓越しに、港の船が良く見える。『紫』から見えた景色に似ていたが、この港はほとんどが漁船で、余り大きな船はなかった。むしろ、生まれ故郷の玉浦の港に似ているように思えた。
しばらくぼーっと眺めていると、漁船のエンジン音がぽんぽんと響き始めた。夜の漁に向かうためなのか、ひょっとしたら、銀二の船がいるかもしれないと、和美は目を凝らして船を見つめた。夕日に輝く港は、船は皆シルエットになっていて、どれが銀二の船かはわからなかった。しかし、きっとこのエンジン音の中に、銀二はいる。そう思って、じっと船影を見つめていた。

日が落ち、一面が夕闇に包まれた頃、階下から呼ぶ声がした。
「あの・・・和美・・さん・・・」
何だかぎこちない呼び方だった。鉄三の声だと思われた。
「ハイ!」と返事をすると
「あ・あの・・夕飯の準備ができたので・・下に来てください。」
「あら、すみません。お手伝いもせずに・・」
そう言いながら、階段を急いで下りていった。下には、鉄三が待っていた。
「夕飯は、店のほうで設えていますから、付いて来てください。」
そう言って、鉄三が先を歩いた。
母屋から店までは、続き階段で更に降りていく。左手に庭を眺めながら、付いていくと、店の食堂に着いた。もう、ご主人と奥さんは椅子に座っている。
「すみません。わざわざ呼びに来てくださって。お手伝いもせず・・」
奥さんが、ようやく口を開いてくれた。
「いいのよ。うちは、食事は全て鉄三が作ることになっているから。これも修行なんだから。さあ、食べましょう。」
そう言うと、箸を持って目の前の料理に手をつけた。
「すみません。今日は、仕入れが出来てなかったものだから、煮物や汁物くらいしか出来なくて・・」
鉄三が済まなそうにそう言った。
「いいよいいよ。また、明日から、釣り客も来るし、生きの良い魚も手に入る。それに、今日は葬儀の後だ。なま物を食べるのは憚るからね。ちょうど良かったよ。」
ご主人は優しく答えた。そして、
「良い味付けになってる。もう一人前の料理人になってきたな。」と続けた。

さすがに、娘を亡くし、葬儀が終わったばかりという事もあり、夕食は静かだった。食べ終わると、奥さんはすぐに母屋に帰っていった。
ご主人は、食後のお茶を飲みながら、
「和美さん、ここは釣船屋だ。週末となればたくさんの釣り人がいらっしゃる。できる事で構わないから、手伝っておくれ。いや、赤ん坊の世話が第一だから、手が空いた時だけでいいんだ。私は船を出さなきゃならない。銀二もついて行く事もあるし、料理の仕事が大変だ。家の事をやってくれると助かるんだが・・」
と話した。
「わかりました。お掃除や洗濯は大丈夫です。赤ちゃんを背負って出来ますから。」
「そうかい。じゃあお願いするよ。ああ、女房のことなら大丈夫。今は疲れてるからだろう。いつもは明るくててきぱきと動く方だし、思った事をすぐ口にするけど、腹はない性格だから。3日も一緒に居れば、わかるからね。」
「ありがとうございます。一生懸命お世話します。よろしくお願いします。」
「いやいや、それはこちらの台詞だよ。母をなくした赤子に寂しい思いをさせないだけでもありがたい。よろしくお願いしますね。」
そう言って、主人も席を立っていった。

鉄三と和美が食堂に残された。鉄三は、和美にどう接してよいのか困惑していた。
そして、「赤ん坊の事、お願いします。」と頭を下げたのだった。
和美は、鉄三が銀二の弟だと知っているので、つい銀二の話をしそうになるが、その事は言えない。ぎこちなく、「こちらこそお願いします。」とだけ答えたのだった。

2-4-2:赤ん坊 [峠◇第2部]

 翌日、ご主人と奥さんは、産院へ赤ん坊を迎えに出かけた。
和美は、赤ちゃんを迎える準備していた。部屋は、和美の隣の部屋だった。妊娠した事がわかってから、少しずつ準備されたのだろう。布団やおもちゃ、オムツ、肌着等一通りのものは揃っていた。和美はそれらをひとつずつ取り上げては、汚れやほつれ・傷みはないか確認した。おそらく、亡くなった娘は、女の子を期待していたのだろう。花柄やピンク色のものが多かった。

和美は、ふと、玉浦に居た頃を思い出してしまった。
妊娠した事がわかり、両親は、産むのを止めるよう毎日のように迫った。それでも押し切って、自分の家で産み、一歩も外に出ることなく過ごした数日。何も揃えて貰うことなく、名前すら付けてもらえず、まるで生を受けた事を否定されたような日々だった。それでも、その子と二人過ごした時間は幸せだった。あの火事が起こるまでは・・・。
準備をしながら、和美は涙がぼろぼろと零れてきた。とめどなく涙が溢れてきた。

昼近くになって、ご主人と奥さんが赤ちゃんを連れ戻ってきた。

「はい、ただいま。和美さん、この子が、『幸一』です。よろしくお願いしますね。」
奥さんは今日は機嫌が良かった。
まだ、目も開いていない真っ赤な顔をした赤ちゃん。祖母の腕に抱かれ、無垢な顔だった。
「ほら、和美さんに抱かせてあげなさい。」
ご主人がそう促した。奥さんはしぶしぶ、和美に幸一を手渡した。
「まあ、可愛い。それに温かくて良い匂い・・・」
抱き抱えた時の重みが、我が子を抱いた時とまったく同じ感覚であったため、つい涙がこみ上げて来た。
亡くなった娘さんもこの重みと温もりを感じたかったに違いない。そう思うとさらに涙がこみ上げて来た。
「すみません。何だか、感傷的になってしまって・・・。」
「仕方ないさ。私たちも、産院でこの子を抱き上げた時、しばらく涙がこぼれて動けなかったんだから・・」
ご主人が、淋しげな笑顔で答えた。
奥から、鉄三が顔を出した。
「おお、鉄三。今、帰ったぞ。ほら、幸一だ。抱いてやりなさい。」
そう言われて、鉄三が、恐る恐る近づいた。我が子だというのに、どうしていいのかわからなかった。
そんな様子を見て和美が、
「はい。頭を支えてあげてください。そう、ひじを曲げて体を置くようにして・・そんなに強く触らないで・・重くないから・・ほら・・もう、大丈夫ですよ。ね、お父さん。」
と、ゆっくり手を添えながら教えた。

鉄三は、言われるままに我が子を抱き抱えた。『お父さん』の言葉にどきっとして、背筋が伸びる思いがした。
ご主人が、
「おお、鉄三が『お父さん』か。何だか頼りないが、立派なお父さんだ。」
と先ほどよりもはっきりとした笑顔で言った。
「お・・お父さん?何だか実感がないけど・・。大事に育てます。もっともっと頑張って働きます。」
鉄三は、お父さんと呼ばれ、我が子を見て、強く決心したように答えた。
その声に驚いたのか、急に、幸一が泣き始めた。
鉄三が慌ててあやそうとしたが、ますます泣き声は大きくなるばかりだった。
「きっとお腹が空いたのよ。」
と奥さんが言い、和美に手渡すように促した。

和美は、赤ちゃんを受け取ると、ご主人や鉄三の目は気にもせず、胸を肌蹴て、お乳を吸わせた。
赤ちゃんは、和美の乳首に吸い付くと、ごくごくと音を立てるようにお乳を飲み始めた。
「これこれ、あんたたち、何見てるのよ。」
と奥さんが、ご主人と鉄三を突付いた。こりゃ失敬とばかり、男どもは,奥へ入っていった。

「しっかり飲ませてね。」
「はい。こうやって、お乳を吸われてると、とても幸せな気持ちになれます。本当にありがとうございます。」
「礼を言うのは私たちのほうよ。これで、この子も、人のぬくもりを知って、きっと良い子に育つわ。本当にありがとうね。娘の分までお礼を言わせてね。ありがとう。」
そう言いながら、奥さんは涙を流していた。

両方のおっぱいをしっかり飲んで、赤ちゃんはまた眠ってしまった。
和美は赤ちゃんを抱いたまま、用意した2階の部屋に連れて行った。そして、真新しい赤ちゃん用に布団に優しく寝かした。男の子には不似合いなピンク色の布団だったが、その柔らかい色がまるで母に抱かれて眠っているように見えた。

2-4-3:味方 [峠◇第2部]

和美が、幸一の世話を始めてから、ひと月近くになっていた。

「幸ちゃん。夕べは良い子にしてた?」
朝になると、決まってこの言葉が飛んでくる。
繁忙期の釣船屋は、早朝から釣り客の朝食や釣りの準備で忙しく、和美も、5時には起き、幸一をおんぶして、店の手伝いに出てくる。そうすると、主人や奥さん、鉄三、他の従業員たちから、同様の声を掛けられる。眠くて機嫌の悪い時でも、幸一は、その声を聴くとなぜかおとなしくなるのだった。

船が出ると昼間は少し店は暇が出来る。和美は幸一をおぶったまま、母屋の掃除や洗濯などまめに動いた。おかげで、ご主人も奥さんも店の仕事に専念できるようになっていた。鉄三は、調理仕事の合間には、幸一の顔を見に、母屋に来る事が多くなっていた。

『紫』の直子も、和美が移ってからすぐに和美の荷物を届けにやってきた。給金の代わりにと和美の洋服や化粧品、幸一のためのおもちゃ等も買って来てくれた。和美が居なくなってから、一人の夜は寂しいからと、女の子を一人雇ったということだった。それ以来、時々、訪れては、玉の関の話や店での様子などを話してくれた。

銀二も、時々、何かと用事を見つけて、村田屋に顔を出すようになっていて、幸一に他愛も無いおもちゃを買ってくることもあった。ただ、和美とは面と向かって会話を交わすことは無く、随分他人行儀に接するようになっていた。和美には、銀二のつれない態度に、ちくりと胸が痛むのだった。

そんな穏やかな日々が続いたある晩のことだった。
店の仕事も一段落ついて、和美が幸一にお乳を飲ませ寝かしつけた頃、階段を誰かが上がってくる音がした。
そして、部屋の前で留まって、低い声がした。
「和美さん、ちょっと良いかね。」
ご主人だった。毎日、顔をあわせていて、つい先ほど、就寝の挨拶をしたばかりだった。
「はい、どうぞ。ちょうど今、幸ちゃんを寝かしつけたところですから。」
襖を開けてご主人が入ってきた。そして、低い声のまま、こう言った。
「和美さんと会ったときから、気になっていたことがあってね。尋ねてよいものか随分悩んだんだが・・」
和美は、いつもとは違う主人の形相に少し戸惑っていた。
「なんでしょう。」
「お前さん、苗字はなんというんだい?」
「・・・・」
和美は答えられなかった。
「私は、仕事柄、玉の関や玉浦にも知り合いが多くてね。玉浦にもちょくちょく行っていたんだが・・」
そこまで聞いて和美は観念した。
「すみません。玉谷和美といいます。」
「そうか。やっぱりな。玉谷さんところの娘さんだったか。」

しばらく、ご主人は考え込んでいた。
「すみません。ご主人や奥様を騙してしまって。私はただ・・」
「いや、責めるつもりで訊いたんじゃないんだ。実は、玉谷さんの奥さんと私は、昔からの知り合いでね。火事で亡くなったという話を聞いて、葬儀にも行ったんだよ。そこで、娘さんは海に飛び込んで自殺したが見つかっていないという話を聞いてね。」
「すみません。おっしゃるとおり、火事の日、岬から飛び込んで死のうとしました。でも、ある方に救われて・・」
「それは良かった。噂では、借金が嵩んで、無理心中したんじゃないかとか、娘を売るような縁談で揉めていたとか、悪い話ばかり聞こえてきていてね。」
「ええ・・そうなんです。でも、無理心中ではないんです。父も母も、いくら借金があってもそんなことをする人じゃありません。私にも良く分からないんです。気付いたときは、もう家中が火の海で・・・。」
「そうだったか。いや、あの奥さんは、決して自分から死のうなんてするひとじゃない。そういう人だ。」
「あの、母とは?」
「ああ、お母さんと私は、幼馴染なんだよ。私は養子でね。元は、お母さんと同じ町の生まれなんだよ。小さい頃によく遊んでもらった。まあ、お姉さんてとこだろうね。嫁にいかれてからはほとんど会った事は無かったが・・」
「そうでしたか・・」
「ここに来たのも何かの縁だろう。」
「ええ・・。」
「そういうことなら、私は和美さんの味方になろうじゃないか。」
「ありがとうございます。」
主人の言葉が心に染みた。銀二や直子、そしてご主人、皆、温かい人ばかりだった。
玉浦に居たときは、随分辛い思いをしていたが、銀二に救われてからは、出会う人が、皆、温かかった。

「時に、和美さんを海で救ったのは、ひょっとして銀二かい?」
「え?ええ。そうです。」
「やっぱりなあ。あいつ、ここに来る時は、妙によそよそしい態度だから。きっと何かあるんだろうとは思っていたんだが。和美さんを気にしていたんだね。」
「どういうことですか?」
「あいつは、だれかれなしに、遠慮せずモノを言うやつなんだが・・・・案外、関わりのある人には、妙に距離を置こうとするんだよ。冷たく感じるくらいにね。そのくせ、どこかでしっかり見ていてくれるんだ。」
「ええ・・ここに来ると本当に他人行儀というか・・目も合わせてくれないんです。」
「そういうやつなんだよ。」
「旦那さん、このことは・・・」
「大丈夫だよ。口外する気は無い。」
「ありがとうございます。」
「それに、銀二が関わっているとなれば、大丈夫だよ。きっと和美さんは幸せになれる。いや、和美さんはきっともっと多くに人を幸せにするよ。」
「どういうことですか?」
「銀二に関わった人、そう、銀二に救われた人は、みな、そうなるのさ。ほら、『紫』の直子さんもそうだ。不幸な目に遭う人があいつに救われる。そして、救われた人が、また、銀二のように周りの人を救う。私たちも、和美さんに救われた。そう、幸一も和美さんに救われた。銀二には、そういう縁を作る、不思議な力があるんだよ。だから、私も和美さんの味方になる。銀二に負けないくらい、守ってあげるから、安心しなさい。」
ご主人は、諭すような口調で和美に話した。

「長居したね。明日も早いから・・おやすみ。」
そう言ってご主人は、部屋を出て行った。

2-4-4:階段 [峠◇第2部]

和美が村田屋に来て、半年ほどが過ぎ、季節も早春になっていた。
相変わらず、幸一の世話と釣り船屋の手伝いで、毎日張り切って生きていた。最近では、幸一もよく笑うようになって、村田屋の主人と奥さんだけでなく、近所の人からも可愛がられるようになっていた。
温かい日には、昼過ぎの少し手の空く時間には、和美は幸一をおんぶして、港周りを散歩するようになっていた。漁師たちも、和美と幸一が散歩するのを楽しみにするようになって、何かと声をかけてくれるようになっていた。

そして、和美は、村田屋のご主人をお父さん、奥さんをお母さんと呼ぶようになり、いきさつを知らない人からは、おじいさん・おばあさん・娘・孫の様に見えるほどになっていた。
鉄三も、幸一の父親として、それまで以上に熱心に働いた。そして、時折、和美に代わって、幸一の面倒を見るようになっていた。銀二は、相変らず他人行儀の態度は変えないものの、しきりに村田屋に顔を出すようになった。

半年ほど前は、「娘の死」で沈んでいた家が、今では、幸せに包まれていた。

春本番ともなると、釣り客も増える。早朝から訪れる客が増え、朝食、昼食、夕飯、泊まりのしたくと、忙しくなって、和美も店の手伝いがどんどん増えていった。その上、最近では、幸一の夜泣きも多くなって、ここ数日、満足な睡眠が取れないようになっていた。
今日も、朝から店の手伝いのため、和美は幸一をおんぶして厨房で働いていた。しかし、連日の疲れもあり、時折、ボーっとしている事があった。そんな様子を鉄三も気がついていた。
朝食の支度が終わり、一息つく時間になって、鉄三が、
「ここはもう良いから、部屋に戻っておいで。」
と労りの言葉をかけた。
「いえ、大丈夫です。」と和美は答えたが
「片付けは俺がやるから。それに、これから、昼の下ごしらえの焼き物をするから、ここらは煙くて大変になる。幸一のためにも、部屋に帰ったほうがいい。」
と強い口調で、部屋に戻るように鉄三が言い返した。
和美は、「すみません」というと部屋に戻った。

和美は、部屋に戻ると、おんぶしていた幸一をようやく降ろした。
オムツを換えて、乳を飲ませた。そして、幸一を布団に寝かしつけ、自分も少し横になった。
昨夜は、幸一がいつもに増して夜泣きがひどく、あまり眠れなかったためか、そのままウトウトとしてしまった。

気づくともう昼の時間を過ぎていた。『いけない』と感じて、咄嗟に立ち上がり、幸一を抱いて階段を降り掛けた。疲れていたのだろう。急にめまいが起きて、階段を踏み外した。そのまま、幸一を抱えて階下まで転げ落ちてしまった。
ドスンという音とともに、幸一の泣き声が響いた。昼食の喧騒の中ではあったが、奥さんが気づいた。
「あら、幸ちゃんの泣き声。何かあったのかしら?」
そう言うと、奥さんは母屋へ向かった。
階段下の廊下で、幸一を抱えたまま、和美が倒れている。
「和美ちゃん?どうしたの?大丈夫?」
声をかけたが返事をしなかった。奥さんは慌てて厨房に戻ると、鉄三を呼んだ。
「和美ちゃんが・・・大変なの。すぐ来て!」
その声に喧騒の食堂が静かになった。食堂にいた客たちも、和美の事は何度か来ていて、皆、知っていた。
鉄三は、「すいません。」と客たちに、頭を下げた。多くの客が、すぐ行けというしぐさで促した。

和美はまだ動かなかった。鉄三が駆け寄り、名前を呼んだが返事が無い。階段から落ちたショックで意識を失っているようだった。奥さんと鉄三はどうしたものかとおろおろしていると、食堂から一人の客が入ってきた。
その客は、
「これはいけない。すぐに布団を敷いて、横にしてください。」
と言った。そして、泣いている幸一を抱き上げようとしたが、和美が強い力で抱きしめていた。仕方なく、鉄三とその客の二人で抱え上げ、広間に運んだ。

「でしゃばってしまってすみません。私は、問屋口で医者をしているものです。その様子から察するに、疲れか貧血で倒れたんじゃないかと思います。どこか、打ち身があるといけません。ちょっと診察させてもらっていいですか。」
そう言うと、和美の頭や首、手足を診始めた。そして、
「奥さん、濡れタオルをもってきてください。どうも、肩と腰を強く打っているらしい。冷やしてやりなさい。頭や骨には異常は無いようです。その内、気がつくでしょうが、しばらくは、動かさないほうが良いでしょう。あちこちが痛むだろうし、それに、随分、疲れているようです。」
と言った。
「ありがとうございます。お医者様がいらして助かりました。お礼はさせていただきますから・・」
と奥さんが答えた。すると、
「そんな事は気にしなくて良いんです。それより、この娘さんを褒めてやってください。階段から落ちた時、自分の身を投げ出して、あの子を守ったんです。なかなかできる事じゃない。きっと命に代えても良いほどに愛しているんですね。」
その言葉を聞いて、奥さんと鉄三は、和美の顔を見た。
よく見ると、ここへ来た時よりすいぶん痩せてしまったように見えた。それでも、泣き言ひとついわず、毎日熱心に働き、幸一の世話もして、いつもニコニコしていたのを思い出した。
「本当にありがとうね。」
奥さんはそう言うと、和美の顔を優しく撫でた。鉄三も、思わず涙が出てきて、ごしごしと目を拭った。

その医者は、部屋から出て行き際に、奥さんに手招きをした。
医者は、廊下で、小声でこんな事を言った。
「母乳で育てているようですね。もっと栄養をつけないともちませんよ。赤ちゃんがほとんど栄養を取っていくから、もっと栄養をつけないといけません。忙しくてもしっかり食べるように言いなさい。そうそう、毎日、牛乳を飲ませてあげてください。最近は、牛乳も手に入りやすくなったんですから。それから、近々、私の病院に連れてきてください。健康状態の検査をしたほうがいい。」
「え、どこか悪いんでしょうか?」
医者は少し考えてから、
「若い娘は貧血には、なりやすいんですが、さっき、触診したところ、どうもそれだけではなさそうです。念のために、一度、精密検査をしておいたほうが安心でしょう。」
そう言いながら、医者は、名刺を差し出した。名刺には、『大木総合病院 院長』の肩書きがあった。
「受付でこれを見せてくれれば、すぐに検査できるようにしておきます。いつもお世話になっているんだからね。」
「ありがとうございます。わかりました。出来るだけ早く行かせます。」
「ああ、それと・・・その娘さん、以前に大変な目に遭った様ですね。肩から腕にかけて、火傷の痕がある。体の傷も大変だが、あれだけの火傷となれば、おそらく火事にでも遭ったのでしょう。怖ろしい体験をして、心に深い傷を負っているはずです。大事にしてやってください。」
「はい、わかりました。大事にします。幸一には無くてはならない人ですから。ありがとうございました。」
奥さんは深々と頭を下げた。

その医者が、食堂のほうへ戻ると、他の客が様子を尋ね、無事だとわかると、安堵の声が広がった。


2-4-5:悲しい夢 [峠◇第2部]


和美は、夢の中にいた。
蜻蛉(かげろう)のように、一人、ふわふわと宙を舞っている。
足元には真っ暗なのに、何故か青く光るような海が広がっていた。
宙を舞っていると感じたのは、間違いで、ゆっくりと落ちているのだった。
目の前に丸く光るトンボ球が浮いていた。
見ているうちに、それはだんだん大きくなって、翼のようなものが生え始めた。
そして、次第に人のような形に変わり、赤ちゃんに変わっていった。
最初、和美の産んだ子どもだと直感したが、顔には目も鼻も口もついていない。
なのに、泣き声だけは聞こえていた。
手を伸ばそうとしても掴めない、いや掴んでいるが素通りしてしまう。
そのうちにどんどん遠くに離れていって届かなくなった。
それでも耳元には赤ちゃんの泣き声だけが響いていた。
「私の赤ちゃん!」
そう叫ぶ自分の声で、目が覚めた。

天井が見える。自分はどこでどうなったのか、すぐには思い出せなかった。
そうだ、階段から落ちたのだった。そう思い出すと、急に和美は起き上がった。
「幸ちゃんは?幸ちゃん?幸ちゃん?」
脇を見ると、幸一が布団に寝かしつけられて、泣いていた。
抱きかかえようとしたが、腕が上がらなかった。それに、腰や背中にも痛みが走って、急に動けなくなってしまった。

すぐそばにいた、鉄三が気づいて、
「おい、和美ちゃん、大丈夫か?」
と訊いた。
「幸ちゃんをこちらに下さい。お腹が空いているようだから。」
鉄三は、幸一を抱きかかえると、和美を支えるように起き上がらせ、抱かせた。
和美は幸一を受け取ると、腕の痛みを我慢して、おっぱいを与えた。幸一はごくごくと喉を鳴らして、おっぱいを吸った。

「すみませんでした。私の不注意で、幸ちゃんを危ない目にあわせてしまって、本当にすみませんでした。」
和美は、鉄三に謝った。
「いや、幸一は怪我ひとつなかったよ。それより、和美ちゃん、疲れていたんだね。気づかなくてごめん。」
鉄三のほうが詫びた。
「ちょうど、お客さんの中にお医者様がいらしてね。すぐに診てもらったんだ。打ち身はあるが、骨や頭には異常は無いそうだ。栄養のあるものを摂って、しばらく休養するように言われたよ。」
「いえ、大丈夫です。これくらいの痛みは堪えられます。」
「それがいけないんだってさ。休める時はきちんと休まないと。お乳だって出なくなる。幸一の面倒も見られなくなるんだ。今はしばらく休んだほうがいい。」

そんな会話をしていたところに、ご主人と奥さんが部屋に入ってきた。
「おや、気がついたね。痛みはどうだい?」とご主人。
「大丈夫です。少し横になっていればすぐ良くなります。」
と答える和美に、奥さんが、
「ダメよ。お医者様からも怒られちゃったんだから。ちゃんと栄養のある物を食べて、休ませなさいって。頑張りすぎたのね。ごめんね、気がつかなくて。明日からは、店の手伝いはしなくていいから。それと、これ。お医者様がね、毎日、牛乳を飲ませなさいって。」
そう言って、瓶入り牛乳を手渡した。
「こんな高いもの、飲めません。」
「幸一が飲んでいるお乳の分を補給してもらうのよ。だから、遠慮しないで飲んで頂戴。それに、今はお客さんも半分以上は、和美ちゃんと幸一の顔を見に来るみたいなものだから、元気な笑顔を見せて欲しいの。さあ、飲んでね。」
奥さんは、心からの笑顔で和美を労わってくれた。
「ありがとうございます。」
牛乳にどれほどの栄養補給の効果があるかは定かではないが、ご主人と奥さんの労わりの心をしっかり感じて、和美は、受け取った牛乳を飲み干した。
「ああ。美味しかったです。ありがとうございます。元気になりました。」
「まあ、そんなにすぐに良くなるわけないじゃない。」
そう言いながら、皆、和美と幸一が無事だった事を喜んだ。

「そう言えば、さっき、うわ言で、『私の赤ちゃん』って言っていたようだけど・・」
と鉄三が言った。和美はさっきの悲しい夢を思い出した。
「ええ、私が宙に浮いていて、顔の・・無い・・赤ちゃんが・・近くに・・・」
そこまで言って、急に、自分が身投げした時の事を思い出し、胸が痛んだ。ぽろぽろと涙が零れた。
その様子をご主人が見ていて、
「おい、和美ちゃん、良いんだ。昔のことは思い出す事はない。今は、これからの事だけ考えよう。大丈夫、ここにいる限り、悲しいことなんて起きないから。」
と慰めた。鉄三も、
「そうだよ。今、精一杯幸せに生きようよ。幸一のためにもね。」
と続けた。

「そうそう、明日、病院に行きましょう。あなたが階段から落ちた時に診て下さった先生が、一度精密検査を受けた方が良いって言われたの。名刺を預かってね。せっかくだからね。」
そう奥さんは笑顔で言った。和美は、少し困った表情をした。その様子をご主人が見て、
「まあ、その話はまたにしよう。少し休んだほうが良い。」
そう言って、皆を部屋から出すように促して、出て行った。

和美は考えていた。奥さんの気持ちは嬉しかった。だが、町の病院に行けば、玉浦の知り合いに会うこともあるだろう、それに、素性を話す事にもなるかもしれない、そうなれば、村田屋のご主人達や銀二や直子さんにも迷惑が掛かるかもしれない・・・いろいろと不安な気持ちが湧いてきた。

和美はそっと部屋を出て、ご主人を探した。ご主人は、庭の水槽の掃除をしていた。
「あの・・すみません。」
和美は小さな声で呼びかけた。ご主人はすぐに気がついて振り返り、和美のところへ来た。
「あの、先ほどの病院のお話なんですけど・・」
「ああ、私も考えていたんだ。大木総合病院だそうだから、きっと、大勢の人に会う。玉浦の人間も来ているかもしれない。どうしたものかと思案していたところなんだがね。」
「ええ、そうなんです。皆さんにご迷惑が掛かるかも知れないと思って・・」
「いや、迷惑なんてのはいいんだが・・・・ちょっと私が院長と相談しておこうと思うから・・いや、昔からの知り合いだしな。どこまで話して良いか思案のしどころだが・・まあ、上手くいくようにしてみるから・・」
ご主人には何か思うところがあるようだった。


2-4-6:病院 [峠◇第2部]


 翌朝、ご主人が和美の部屋に来て、
「病院へは午後に行く事にしよう。いや、昨日、院長に電話したんだ。まあ、凡その事情は話したんだが、そういうことなら午後の休診中に検査をしようと言ってくれたんだ。わがままついでに、院長が午後、車で迎えに来てくれるそうだ。それに乗って、裏口から入ればいいだろうってね。」
「そんな・・・ありがとうございます。」
「良いんだよ。味方になるって言っただろう。ああ、院長も味方になるってさ。心強いね。」

午後、黒塗りのハイヤーが村田屋の前に停まった。
窓を開けて、中から、昨日の大木院長が顔を出した。
和美は、村田屋のみんなに頭を下げてから、車に乗り込んだ。
「どうだい?痛みはないかい?」
院長は優しく訊いた。
「ええ、まだ、腕と腰は少し痛みますが、それほどではありません。ありがとうございました。」
「良いんだよ。これから、病院でしっかり検査をしよう。」
「あの・・どこか悪いところがあるんでしょうか?」
「は、はっ、はっ。悪いところが無いかを調べる検査だ。やってみなけりゃわからんよ。」
院長はそう笑って言った。

15分ほどで病院に着いた、車は通用門を通って奥に停まった。
「さあ、ここから入りなさい。」
案内されるまま、病院へ入った。検査室には和美と院長と看護師が一人だけだった。血液検査やレントゲン検査、心電図等をとってから、最後に触診を受けた。

病院のベッドに横たわると、院長が、和美の腹部を何度か触っていた。そして、カルテに何かを書き込んでは、また、腹部に手を当てる。レントゲンが現像されて持ってこられた。院長は、じっと見つめていた。心電図も熱心に見ていた。そしてまたカルテに何か書き込んでいる。
「ああ、もう起き上がって良いよ。」
和美はベッドにちょこんと座って服を直した。

「さて・・昨日の落下による打撲は大したことはなかったようだ。レントゲンを診ても、特に異常はない。心電図も大丈夫だ。良かったね。」
「はい。」
「ただね・・」
院長はちょっと意味深な言い方をした。
「血液検査の結果が出ないと何ともいえないんだが・・ああ・・以前、何か大きな怪我をしなかったかい?」
「いえ、大きな怪我はしていません。」
「そうか・・なら・・大丈夫か。」
「あの、どこかおかしいところが?」
「いやね。腹部・・・そう、肝臓がある辺りが少し硬くてね。内臓を痛めるほどの衝撃を受けた事があるのではないかと思ったものだから・・」
「昨日、階段から落ちたのとは?」
「いや、少し前だと思う。強い衝撃を受けて、内臓のあちこちが痛んでいるようで、血の巡りが良くない。今の状態なら大したことはないんだが、この先、あまり体を酷使すると肝臓辺りが悲鳴をあげるかもしれない。無理はしないようにして、栄養を付けていかないとね。事故に遭ってないとすると、もっと違う内臓の病気かもしれないね。」
「そんな・・・どこも痛くないし・・・」
「少し、入院して、もっと細かく検査をしたほうが良いだろう。村田屋さんには私からお願いしておこうか。」

和美は、ここまで聞いて、これ以上、誤魔化すのは無理だと思い、海に身投げした事やその後銀二や直子に救われて、村田屋にお世話になっている事を話すことにした。

「そうか。そんな身の上だったのか。昨日、村田屋さんからは不憫な境遇の娘で昔の事は聞かないでやってほしいとは言い含められたんだが・・それなら、この診立ては間違っていないだろう。」
和美は神妙な顔で医師の話を聞いた。

「いいかい。君の体は、見た目には何とも無くても、内臓がかなり弱っている。海に落ちた時の強い衝撃で小さな血管が痛んで、正常に動かなくなっているんだ。特に肝臓辺りがね。だから、無理しちゃいけない。寿命を縮める事になるからね。出来るだけのんびりする時間を取ること、そして、お酒は禁物だ。痛みは無くても徐々に疲れがひどくなって動けないほどになるだろう。良いね。決して無理はしないようにね。わかったね。」
「はい。判りました。本当にありがとうございました。・・それで、この事は、村田屋さんには・・」
「村田屋のご主人には一応伝えておかなくてはね、その約束だから。大丈夫さ、私も村田屋さんも君の味方だ。何かあったら必ずここへ連絡しなさい。良いね。」

診察を終えると、来た時同様、ハイヤーが和美を村田屋まで連れて帰ってくれた。

「ただいま帰りました。すみません、長い時間、お店を空けてしまって。検査のほうは特に問題は無いって言われました。昨日の怪我もすぐに良くなるだろうって言っていただけました。」
そうとだけ告げて、そそくさと部屋に戻り、幸一の世話を始めたのだった。

2-5-1:アキ [峠◇第2部]

和美が村田屋に来てから、1年になろうとしていた。
幸一は、伝い歩きをはじめ、最近では、ほとんどどこへでも歩いて行く様になった。
『じい』『ばあ』『ちゃん』『まあ』とか、言葉のような声を出すようにもなった。聞き様によっては、それぞれの呼び名を言っているようで、その声を聞くたびに、ご主人や奥さんや鉄三は一喜一憂する日々が続いていた。

そんなある日の昼過ぎのことだった。
店先に、派手な洋服を着てハイヒールを履き、大きなサングラスをかけた女性が立っていた。見た目は派手だが、年齢はもう40歳くらいだった。脇には、大きなボストンバッグが置かれていた。
その女性は、店の引き戸を無作法に開けると、いきなり、
「お姉ちゃん、いる?」
と家中に響き渡るような大きな声で呼んだ。
ちょうど、和美が食堂の箸入れを掃除していたところで、ちょっとびっくりして振り返った。
「あの、どちら様でしょうか?」
和美が尋ねると
「あんたこそ誰よ。ねえ、お姉ちゃんいないの?呼んできてよ!」
「あの、お姉さんって?」
「もう・・・ゆ・き・こさん。あたし、アキ。ねえ、いないの?」
そんなやり取りを聞きつけて、厨房から、鉄三が出てきた。
鉄三は一目見るなり、
「ひょっとして、アキさん?」と声を発した。
訝しげな目で鉄三をみたアキは、
「え?あんた、まさか、銀ちゃん?」
「いえ、弟の鉄三です。今、ここで働かせてもらってます。」
「へえー?まだ赤ちゃんだった鉄三がねえ?じゃあ、銀ちゃんは?」
「ああ、兄ちゃんなら、今、漁に出てると思います。」
「へえ、兄弟仲良く、この田舎に暮らしてるって訳?ふーん。」
このやり取りを見ていた和美がぽかんとした表情をしているのを鉄三が見つけて、
「ああ、和美ちゃん、ごめん。こちら、村田屋の奥さんの妹さん、アキさんていうんだ。確か、今、東京で・・」
と、言いかけたところで奥さんが母屋の方から出てきた。

「まあ、誰の声かと思って出てきたら、アキじゃない。なんなの?長い事音信不通になっていたのに。何の用なの?帰るなら、前もって連絡しなさい。びっくりするじゃない。」
「ごめんねえー。急に帰ることにしたからさ。ねえ、入っていいでしょ?」
「ああ、ここじゃ仕事の邪魔だし、奥に入りなさい。荷物は?」
「これ。ねえ、てっちゃん、これ、奥へ運んで。ね?」
そう言うと、ハイヒールを脱ぎ散らかして、とんとんと奥へ入っていった。
和美はちょっと呆気に取られていた。ため息をひとつついて、ハイヒールを並べなおした。
ふと、外を見ると、見たことのない男が電信柱の影から様子を伺っているのが見えた。和美が気づいて、店から出てくると男はすっと離れていった。

 母屋の居間に、アキと奥さんは座っていた。
「ねえ、おねえちゃん。私、帰ってきちゃダメ?」
「もう、帰ってきてるじゃない。」
「ううん、そうじゃなくて、ここで暮らしちゃダメかって言う事よ。」
「だって、あんた、東京でお店をやってるって聞いたけど、どうすんの?」
「ああ、店はとっくに辞めたわ。それに、東京に居たのは随分前。この間までは、広島にいたのよ。」
「広島で何してたの?」
「何って?・・所帯をもった・・の・・。」
「所帯を持ったって?じゃあ旦那さんは?」
「うん・・貴金属の販売をやってたんだけど、上手くいかなくてね。いっその事、ここに帰って家業を手伝おうかって話にね・・・」
「そんな、商売が上手くいかないからて逃げ帰ってくるなんて・・それに・・ここだってそんなに儲かってるわけじゃないしね。」
「そんな事いわずにさ。ね、客商売は慣れてるし、旦那だってきっと仕事はすぐに覚えるから、船だって覚える事もできれば、義兄さんも楽になるんじゃない?」
「何を、自分たちの都合のいいようにばっかり考えて・・呆れたわ。」
「いいじゃない。ね。そう言えば、ほら、姪っ子の・・裕子は?もう大人になったでしょう?」
「あの娘は・・・・去年、死んだわ。居所不明だったから連絡も出来なかったでしょ。」
「ええそうなの。ごめんね。病気だったの?」
「もう、何で今頃そんな事を説明しなきゃいけないの?あの子は、身篭ってね、医者が止めるのを聞かず、産んだのよ。でも体力が無くてね、そのまま。」
「じゃあ、赤ちゃんは?」
「もうじき、1歳になるわよ。そうそう、さっき店先で会った娘、和美って言うんだけど、ずっと世話をしてくれたんだよ。」
「へえ・・都合よく見つけたもんね。で、父親は?」
「もう・・・・父親は、鉄三よ。一昨年、夫婦になったのよ。」
「ふーん。じゃあ、この店は、鉄三が継ぐことになるの?」
「何言ってんのよ。まだ、あの若さなんだし、私たちだってこれからなのよ。誰が継ぐなんて、決めてなんか無いわよ。」
「ふーん。まあいいか。ね、私たち、ここに住んでも良いよね。2階空いてる?」
「今は、和美と幸一が使ってるからね。離れの部屋なら良いわよ。」
「えー?あそこ、日当たり悪いじゃん。昔からあそこは嫌いなのよね。陰気臭いから・・」
「じゃあ、別に家を借りる?」
「わかったわ。良いわよ。でもさ、使用人にそんないい部屋いらないじゃん。早めに取り替えてね。しばらくは我慢するわ。」
「なんて子なの・・」

そんな会話で、何となく、アキがこの村田屋に同居する事になった。

アキは、離れの部屋に荷物を置くと、またすぐに店先に出てきた。辺りを見回したと思うと、和美に向かって
「ねえ、そのへんにハンサムな男の人居なかった?」
と訊いた。
「さっき、そこの電信柱のあたりに知らない人は居ましたけど・・」
「何処行った?」
「さあ?声を掛けようとしたら、どこかに・・」
「ん・もう!ちゃんと見といてよ。」
そう言って、港の周りを探し始めた。

しばらくして、アキは、男と腕を組むように、半ば引っ張るようにして帰ってきた。その男は、明らかにアキより年下のようだった。黒いサテン地の大きな襟のシャツとてかてかに光るスラックスを履き、頭は短く刈られている。どう見ても,堅気の人間とは思えなかった。何か冗談でも言ったのか、アキは転びそうなくらい嬉しそうにしていた。
 店先にいた和美に目もくれず、挨拶もせず、二人で店に入っていった。

その夜、食堂でいつものように夕食を囲んだが、アキとその男が、鉄三と和美の席を陣取ったせいで、和美は幸一を抱いたまま、鉄三と一緒に、隅のほうに座った。
アキはその男を、ご主人と奥さんに紹介する。
「この人が亭主。名は光男。年は私より若いわ。ええっと・・」
すると、その男が、
「光男、言います。今年で30になりましたけえ。よろしゅうおねがいいします。」
少し変な言葉遣いだった。意識してか、妙に優しげな声をだした。
ご主人が、
「生まれはどこかね?」
と尋ねると、アキが、
「広島よね。まあ、いいじゃない。明日から、店の仕事手伝うからさ。それよりおなか空いたわ、食べましょう。」と言って食べ始めた。
いきなり、二人の予期せぬ客を向かえ、何を話して良いかわからず、皆、あまり話しもせず食べ終わり、それぞれ部屋に戻っていった。

和美と鉄三は、片付けをしていた。和美が鉄三に尋ねる。
「ねえ、鉄三さん。アキさんて、どんな人なの?」
「どうって言われても、18の時にここを出て行ったきりだからね。昔から、ちょっと変わってたという話は聞いたことはあるくらい。なんでも、先代のご主人と親子喧嘩して出て行ったきりだったらしいけどね。」
「何か目的があるんじゃないかしら。それにあの男の人、何だか怖いわ。」
「うん、堅気という感じじゃなかったね。」
二人は突然現れたアキと光男の存在が、これまでの平穏な日々を壊してしまうようで不安だった。

2-5-2:血縁 [峠◇第2部]

翌日の早朝、銀二が村田屋に魚を届けに来た。
厨房で朝餉の支度をしていた鉄三は、銀二を呼び止めて、店の脇にある路地で、アキが男を連れて戻った話をした。

「ふーん、で、その男の名はなんていうんだい?」
「確か、光男。ええと、浜田光男って言ってたっけ。」
「広島から来たというんだな?」
「うん。とても堅気には見えないんだ。挨拶も変だし、何か悪い事でも起きなきゃいいんだけど・・」
そこまで聞いて銀二は何か思いつく事があったようだった。
「おい、鉄三!何かあったらすぐに知らせるんだぞ。それから、和美ちゃんにも注意するようにな。」
そういうと急ぎ足で立ち去った。

同じ頃、和美は目を覚ました。
夕べ遅く、ぐずる幸一をあやしながら、幸一の部屋で横になっていた。
横の布団に居るはずの幸一が居なかった。慌てて部屋の中を探したが見当たらない。すると、階下で幸一の泣く声が聞こえた。

すぐに階段を下り、居間に入ると、幸一を抱っこしているアキが居た。
「おはようございます。ああ、すみません。私が・・」
と手を伸ばそうとすると、アキが、
「結構よ。今日から、幸一の面倒は私がみます。幸一のおばさんになんだから。」
と言って、ぷいと横を向いた。
「それに、今時、母乳なんてね。今はミルクの時代なの。栄養タップリのミルクで育てた方がいいんだから。あなたは用無しなの。早々に出て行ってね。」
と付け加えた。
その声を聞きつけて、奥の寝室から奥さんとご主人が出てきた。
「なんなの?朝っぱらから大きな声で・・」
「おはよう。今日から幸ちゃんの面倒は私がみます。いいでしょ、姉さん。血のつながらない他人より、私は幸ちゃんのおばさんなんだからね。」
アキは同じ言葉を繰り返した。
奥さんは、その言葉を聞いて、寂しそうな和美の顔を見たが、
「そうね。和美ちゃんは無理できない体だってお医者様からも言われていたしね・・」
と言った。
「そんな・・」言葉に詰まった和美。
「まあ、急にそう言われても、今まで熱心に世話をしてきた、和美さんの身にもなって・・」
とご主人が間に入ろうとした。しかし、
「今まで、ご苦労様でした。」
とアキは冷たく言い放つと、幸一を抱えたまま、離れの方へ出て行った。
立ちすくむ和美に向かって、奥さんは、
「ごめんなさいね。言い出したらきかないんだから。まあ、あのこもああ見えて、昔、一度は子どもを育てた事はあるんだから、大丈夫よ。ね、和美さん。これもいい機会じゃない。体のこともあるし、もともとしばらくの間という約束でもあるわけだから。これまで頑張ってくれたのは感謝してるわ。・・もちろん、少しだけどお礼もさせてもらうから。」
と、今日限りでという話をした。
ご主人が、この言葉を聞いて
「何を言い出すんだ!お前は、和美さんの気持ちを考えてやれないのか!」
と怒り出した。
「何よ!もともと、しばらくの間と言う約束だったでしょ。身内で世話ができるならそれでいいじゃない!」
と奥さんも少しムキになって言い返した。
その様子を見ていた和美が、
「すみません。けんかしないで下さい。もともと、少しでもお役に立てればという思いでしたし、私も少しの間幸ちゃんと居られて幸せでした。お礼なんて結構です。すぐに支度をしますから・・」
と言って、階段を駆け上がっていった。

部屋に戻った和美は、1年ほど前に来たときに持ってきた鞄に、そこいらにある洋服を詰め込み始めた。
それほど荷物は多くない。詰めながら、急に涙が零れ始めた。寂しさと悔しさと切ない気持ちが入り混じり、声を出しそうになるのを抑えながら、荷物をまとめていた。

後を追って、階段を上がったご主人がそっと部屋に入ってきた。
「すまないね。本当に済まない。言い出したらきかないのは姉妹揃って同じだ。本当に済まない。」
そう言って詫びた。
「いえ、もう良いんです。いつかは幸ちゃんと離れなければいけない身ですから。」
「そうかい。まあ、そう言っても、今日すぐじゃなくてもね。まだ、家の仕事も手伝ってもらいたいし、帰る段取りもある。何より、『紫』の女将にも私は詫びなきゃならん。数日はここに居てくれないか。」
和美も、ご主人にそう言われて、少し留まる事にした。

その日は、できるだけ幸一に遭わないよう、店先の仕事や厨房の仕事をこなした。
和美の顔には、いつもの柔らかな笑顔がなかったし、ひと時も休もうとしなかった。しかし、こんな日に限って、客も少なく、夕方には仕事もなくなっていた。
幸一と顔をあわすのが辛くて、夕食は皆より先にとることにして鉄三に簡単なものを作ってもらった。
鉄三は、和美に少しでも元気になってもらいたくて、とびっきりの料理を作ったはずだったが、和美は半分も箸をつけずに済ませてしまった。そして、今日は疲れたからと早くに部屋に戻ってしまった。
厨房に残った鉄三は、自分にできる事はないかを一生懸命に考えていた。しかし、これといっていい考えは浮かばなかった。
鉄三も、早くに仕事を終え、部屋に戻る事にした。

この頃は、幸一の世話を和美だけではなく、鉄三もするようになっていた。以前は、厨房の脇にある小部屋を寝床にしていたのだが、ご主人の計らいで、3部屋ある母屋の2階で幸一用の部屋を挟んで反対側の部屋を寝床にするようになっていた。夜泣きした時など、和美と交替で世話できるようになった。二人は時々夜遅くまで一緒にすごすようにもなっていた。


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