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2-5-3:罠 [峠◇第2部]

夜になった。幸一の居ない部屋は静かだった。
和美は昼間ムキになって働いたせいか、体がだるく早くに10時過ぎには床についた。
だが、幸一のことが脳裏に浮かんできてなかなか寝付けずにいた。

深夜12時を少し回った頃だった。廊下がミシっと音を立てた。
そして、和美の部屋の襖が静かに開いて、誰かが入ってきた。
和美は、うとうとしながら何となく人の気配を感じていた。だんだん近づいてくるようだった。
はっと気付くと、手で口を塞がれた。ばたばたしようとすると強い力で羽交い絞めにされた。そして、和美の体の上に馬乗りになった。いやらしい手が和美の体を弄る。太ももや胸を弄って、ついに、服を脱がし始めた。和美は体を捩り、なんとか逃れようと必死に抵抗した。少し隙が出来た手に噛み付いた。すると、頬を強く打たれ、さらにいやらしい手が迫ってきた。

 2つ隣の部屋に居た鉄三が、その物音に気付いて、急いで和美の部屋に入って電気をつけた。そこには、和美に馬乗りになった光男を姿があった。

「何してるんだ!」
鉄三は、そう叫ぶと光男に掴みかかり殴り飛ばした。光男は意外に弱く、もんどりうって和美の横に転がった。
その騒動に気付き、階下から、ご主人と奥さんが上がってきた。少し遅れて、アキもやってきた。

「何の騒ぎだね?」
ご主人が3人に尋ねた。鉄三が、
「いや、物音がして、心配になって、和美の部屋に入ったら、光男さんが・・」
「いやだなあ。逆ですよ。下を通ったら物音がしたんです。2階に上がったら、和美さんの部屋から何だかおかしな音がする。泥棒かと思って入ったら、鉄三さんが和美さんを脅して、変なことをしてるから、掴みかかったら殴られたんですよ。僕は被害者ですよ。」
光男はぬけぬけと話した。鉄三はそれを聞いて、
「何言ってるんだ!あんたが、和美に、変なことをしてたんじゃないか!」
「ほお。開き直るつもりなのか?」
その様子を見ていたアキが、
「なんなの。私の亭主が何かしたって言うの?和美さん、どうなの?」
和美は、先ほどの恐怖からか、まだ体を震えていて答えられないでいた。

「だいたい、使用人が、こんな部屋に住まわせてもらってどういうつもりなの?和美さん、あんたが居るからおかしな事になるんでしょう。早く出て行って!」
アキは、訳のわからない理屈で和美を責めた。
「そんな!被害者は和美さんなんです。本当です。光男さんが変なことをしていたんです。」
鉄三は必死になって、主人や奥さんに訴えた。
「まあ、いくら幸ちゃんの父親と言っても許さないわよ。祐子が死んで1年、そりゃ淋しいのはわかるけど・・」
アキは、訴えをすり替えた。
「そんなんじゃないって。本当です。信じてください、旦那さん!奥さん!」
ご主人は、鉄三の言い分を信じたようだった。
だが、奥さんは
「アキちゃんのご主人なのよ。そんな事するわけないでしょ。だいたい、和美と鉄三を近くにしたのは間違いの元だったのよ。和美さん、昼間、お話したとおり、もうここでのお仕事は結構よ。明日には、出て行ってね。」
そう言って、鉄三の話など聞く耳持たない様子だった。

そこまで聞いて、ご主人が、
「まあ、もう真夜中だ。その話はまたにしよう。・・ああ、それとひとつだけ。光男君だったね。君は、どうして離れから母屋まで来たんだね。」
「いやあ、それは・・・」
と言葉に詰まった。すかさず、アキが、
「離れにあるトイレは臭いからって、母屋のトイレに行くように言ったの。ついでに、幸一のミルクのお湯も頼んだのよ。」と繕った。
どうやら、今回の事は、アキと光男の二人の謀だとご主人は直感したが、その事を追求しても、言い逃れをされるとわかり、それ以上は言わなかった。
「そうかね。まあ、良いとして・・ほら・・もうこんな時間だ。明日も早いんだ。もう静かに寝かせてもらえないかね。」
そう言って、部屋に戻っていった。
アキは、鼻でふんと笑って部屋を出て行った。少し遅れて、光男がにやりと笑って和美の体を嘗め回すような目つきで見て、アキの後ろをついていった。

部屋に残った和美。恐ろしさと悔しさでおかしくなりそうだった。幸一の母役として、ここで過ごした幸せだった日々が、こなごなになっていく思いだった。はらはらと涙が零れた。

2-5-4:騒ぎの後 [峠◇第2部]

行き場のない怒りと悔しさを抱えた鉄三は、真っ暗な港に駆け出した。
銀二に忠告されたとおり、注意していたつもりだったのに、和美を守りきれなかった自分への悔しさと、これまで長年働き尽くしてきた村田屋が自分を信じてくれなかったことへの悔しさが入り混じって、どうしようもない思いを抱えて、わあわあと叫びながら、とにかく駆けた。
港を抜け、浜に出た。まだ真っ暗な海に飛び込んだ。

しばらく時間が過ぎ、闇の中に白々とした空が広がり始めていた。
鉄三は、砂浜に横たわり、空を見ていた。
「どうしたんだ?」
ぬーっと銀二の顔が鉄三を見下ろしていた。銀二は夜の漁から戻ったようだった。
鉄三は、昨夜の出来事を詳細に銀二に伝えた。銀二は怒った。そして、鉄三を殴りつけた。
「だから、注意しろって言っただろうが!」
鉄三は子どものようにべそをかいている。そんな様子を見て、
「大丈夫だ。鉄三。おれが光男を追い出してやる!まあ見てろ。」
銀二の表情は、いつもの優しい銀二ではなくなっていた。
鉄三は思い出した。昔、自分が小学校の頃、町の高校生と中学生に苛められ、ケガをした時、その後、銀二は一人で喧嘩を売って、皆に大怪我を負わせたことがあったのだ。
それが元で、高校に行けず、家業を継いだのだった。その時の恐ろしい銀二の目つきになっていたのだった。
「ああ、それからな。決して短気な事するんじゃないぞ。じっと我慢するんだ。良いな。和美さんにも、決して幸一を離しちゃダメだって言っとくんだぞ。」
そう言うと、銀二はさっさと家に向かって帰っていった。

一方、、騒ぎの後、部屋に残りそのまま一睡も出来ずに朝を迎えた和美は、皆が起き出す前に荷物を抱えて、挨拶もせず、村田屋を出て行った。
まだ、始発のバスは無く、仕方なく、向島大橋を歩いて渡り、町へ向かった。
歩きながら、和美は考えた。

-『紫』へは帰れない。自分が村田屋に来た後、新しい女の子を雇ったと聞いていたからだ。だが、あそこ以外に行くところは無かった。―

しばらく歩いていると、後ろから黒塗りのハイヤーがやってきた。脇によけると車は和美の横で停まった。
窓が開いて、
「おや、どこかで見た顔だと思ったら、和美さんじゃないですか?」
聞き覚えのある声だった。
「あ、大木先生。・・・・おはようございます。」
「どうしたんだい?こんな朝早く。どこかへ行くのなら送っていこうか?」
「いえ・・」
和美が覇気のない返事をしたので、何かあったんだと直感した大木医師は、
「まあ、乗りなさい。そうだ、朝ごはんは食べたかい?一緒にどうだい。さあ乗って、乗って。」
半ば強引に車に乗せた。

ほんの5分ほどで、病院の裏にある自宅に着いた。
大木医師は、独身だった。
医者の勉強で明け暮れていたのが最もな理由なのだが、実は、女性に対してコンプレックスを持っていたのだった。町では有名な病院で資産家、そして独身となれば、言い寄る女性も多かった。だが大半は資産目当て。見合い話も来るのだが大抵は政略結婚がありありとわかるものばかり。こんな日々の中で、どうしても女性を素直に受け入れる事ができなかったのだった。だが、和美を見たとき、今まで知っている女性とは違っていた。自分を犠牲にしてまで命を守ろうとした事や、自殺に追い込まれた悲しい過去を持ちながら健気に生きている姿、こういう女性もいるのだと改めて知らされたようなものだった。守ってあげなければと思って当然の存在だった。ただ、自ら動く事はできずにいたのだった。

部屋に入ると、お手伝いの家政婦が待ち構えていた。すぐに朝食が用意された。
大きなダイニングテーブルに、二人は座った。
「済まないね、無理言って。まあ、遠慮なく召し上がってください。」
そう促した。トーストと目玉焼きにサラダ、果物、そして、牛乳とコーヒー・・高そうな器に盛り付けられていた。和美は申し訳なさそうに手をつけられずにいた。
「パンは嫌いだったかい?ご飯にしようか?」
「いえ、こんなもったいなくて・・」
「何言ってるんだ。僕が誘ったんだ。ねえ、君が手をつけてくれないと僕も食べられない・・」
「すみません。じゃあ、いただきます。」
和美は夕べからあまり食事らしいものを摂っていなかった。急におなかが空いてきて全て綺麗に食べた。
「ご馳走様でした。美味しかったです。」
大木は、にっこり笑った。そして、
「すまないが、少し、寝かせてもらっていいだろうか?実は、昨晩、危篤の患者がいて、朝まで診ていたものだから、回診の時間まで休みたいんだ。君も夕べはあまり寝ていないんじゃないかい?目が真っ赤でくまが出来てる。隣の部屋で休むと良い。」
そう言って、大木はさっさと部屋を出て行ってしまった。
家政婦が、やってきて、「こちらへどうぞ」と案内する。仕方なく、和美はついていった。
案内された部屋には大きなベッドが置かれていた。家政婦は着替えを出してくれた。もう、案内されるままに着替え、ベッドに潜り込んだ。ここ数日の疲れなのか、久しぶりの安堵感に包まれて、ぐっすりと寝入ってしまった。

2-5-5:戸惑い [峠◇第2部]

騒ぎの翌日、和美も鉄三も姿が見えず、村田屋の主人と奥さんは、戸惑いを隠せなかった。

 昨夜の騒ぎの後、寝室に戻った主人夫婦は、布団に入りながらなかなか寝付けなかったのだった。
奥さんは、騒ぎの最中で和美に対して言った言葉が、自分でも思いもしないほど冷徹なものだったと後悔していた。これまで幸一のために骨身を削ってきた和美に対して、ひどい言葉を投げてしまったと後悔し、朝には撤回しようと考えていた。つい、勢いに乗ってしまった自分を恥じていた。
 主人は、あの騒ぎはアキと光男の謀だとわかったが、それ以上どうする事もできなかった自分の不甲斐なさを悔いていた。何故もう少し真相を追究しなかったのか、そうすれば、救われる道もあっただろうと考えていた。

そして、朝になって、和美が荷物を持ってまだ明け切らぬ内に家を出て行ったことに胸を痛めた。そして、きっと信じてもらえなかった悔しさを抱えた鉄三も、どこかへ行ってしまったと思っていた。

夫婦は、会話もせず、事態を受け止めるのが精一杯だった。主人は、港周りを聞いて回った。そして、バス会社や駅にも問い合わせをしてみたが消息は掴めなかった。
そして、それ以上どうしようもなく、無言のまま、食堂の椅子に腰掛けていた。

7時を回った頃、鉄三が現れた。小さく挨拶をして、黙々と厨房の仕事を始めた。
ご主人はどう声をかけてよいか戸惑いながらも、
「なあ、鉄三。和美さんが居ないんだ。」
と言った。鉄三はびっくりして振り返った。まさか、そんな急に出て行くなんて信じられなかった。確かに、夕べの奥さんの言葉はきつかったが、幸一のことを考え、じっと耐えていてくれるものだと思っていたからだった。
「え?居ないんですか。どこかへ用事で出てるだけじゃ・・」
「いや、さっき部屋に行ってみたんだが、荷物が無いんだよ。明け方に出て行ったようだ。」
ご主人は肩を落として言った。
「俺、辺りを探して・・」
「いや、さっき、港周りは聞いてみた。金物屋の主人が、早朝カバンを持って橋を渡っていく和美をみたそうだ。バスが無かったから歩いていったんだろう。その後はわからない。」
「なんて事だ。どこに・・・行くあても無いだろうに・・駅には?」
「ああ、さっき問い合わせたんだが、そういう女性は見てないそうだ。バスにも乗っていない。橋を渡った辺りで消えてるんだよ。」
「なあ、銀二は何か知らないだろうか?」
「ああ、兄ちゃんなら、朝、浜で会いました。漁から戻ったところでした。そのまま家に戻ったはずです。和美ちゃんを見たのならそう言うと思います。」
「そうか・・なあ・・どうしたものだろうか?」
鉄三にも答えは見つからなかった。
それよりも銀二に言われた言葉を思い出した。銀二はこのことを予想していたんだとやっと意味がわかった。そして、自分の愚かさを嘆いた。

脇に居た奥さんが口を開いた。
「どうしましょう。和美ちゃんに謝らなくては・・ひどい事を言ってしまったわ。感謝しても足りないくらいなのに・・私、どうしたら良いの?」
奥さんはご主人にすがって泣いている。

そんな中に、寝ぼけ眼のアキが現れた。
「あら、みんな集まってどうしたの?え?姉さん?何泣いてるの?」
「ああ・・アキ、和美ちゃんが出て行ったんだよ・・・」
「へーえ、良かったじゃない。じゃあ、あの部屋、私たちが使うから。」
あっけらかんとそう言って、アキは母屋のほうへ戻って行った。
「なんて人だ。」
そう吐き捨てるように鉄三は言った。そして、
「女将さん、旦那さん、きっと大丈夫です。和美ちゃんは戻ってきます。幸一を手放す事なんてないはずです。」
「だと良いんだが・・」
ご主人が呟いた。

離れに戻ったアキは、布団の中に居る光男を揺り起こした。
光男は、「なんだい・・」と不機嫌そうに返事をしたが、まだ、起きようとはしなかった。
「ねえ、あんた!和美が出て行ったってさ。作戦通りだよ。」
その言葉に、光男は目を開けた。
そして、くるっとうつ伏せになると、手を伸ばしてタバコを取り、火をつけた。
伸ばした腕には、まだ色の入っていない墨色の刺青が入っていた。
「そうか。第一弾は成功ってとこか。じゃあ、次だな。鉄三をどうするか?なあ、赤子はどうすんだい?」
「え・・そうね。まあ、私たちには子どもが居ないんだから、そのまま養子にするってのもどう?」
「俺はいらねえよ。まあ、この店を貰っちまったら、金に替えて、借金を返して、どこか海外にでも行こうぜ。子どもなんて邪魔なんだよ。そこらの施設にでも入れちまおうぜ。」
「そんなあ・・可哀想じゃないか。」
「バカヤロウ!可哀想なんていってる場合かよ。早くしねえとこっちの命が危ないんだ。子どもなんて育ててる暇ねえんだ。」
「わ・・わかったわよ。でも、鉄三を追い出しても、義兄さんがさあ・・」
「大丈夫だ。それはもう考えてある。毎日のように船に乗ってるだろ。俺も手伝うのさ・・三途の川を渡る船を出すのさ・・」
と言ってにんまりした。アキは、背筋が凍る思いをしながら、光男に抱きついた。そのまま、二人は布団の中に入った。


2-5-6:しかえし [峠◇第2部]

その日の夕方、銀二が村田屋に来て、鉄三を呼び出した。
鉄三は、和美が出て行ったことを銀二に話すと、銀二は、鉄三をまた殴りつけた。
「何でお前はそうなんだ!」
何度も何度も殴りつけた。
「兄ちゃん、ごめん。」
鉄三も殴られるたびに謝った。

ひとしきり殴った後で、
「それで、和美ちゃんの居場所は?」
「それが判らないんだ。橋を渡ってからの足取りがわからないんだ。見かけた人も居ないんだ。」
「そうか。どうしたもんかな?」
「誰かに連れて行かれたとか・・まさか・・悲しくて自殺・・」
「バカか!そんな事あるかい!どんな事があっても死んだりなんかしねえ。きっと無事にしてるさ。まあ、俺も知り合いを当たってみるから。それより、光男ってやつは、まだいるんだな?」
「ああ、和美ちゃんが出て行って、部屋も離れから母屋へ移ってきてる。幸一もそのまま連れてる。」
「そうかい。なあ、光男を呼び出せないか?波止場まで来させてくれないか?」
「どうやって?」
「うーん、何でも良いんだ。・・そうだな・・・ああ、夜釣りはどうかって、兄ちゃんが誘ってるとか・・いや、夜釣りを理由に、良いとこに行こうって・・キャバレーでもって言ってみな。良いな。ほれ、あそこの灯台の下に居るからな、良いな。」

そう言って、銀二は波止場に向かった。
「兄ちゃん、荒っぽい事、しなきゃ良いけどな・・」
と鉄三は心配しながらも、光男を誘い出す事にした。

波止場に居る銀二。
実は、アキたちが来てからしばらくの間、光男の名前を手がかりに、素性を調べていたのだった。
どう見ても堅気の人間ではないと思い、銀二の昔の不良仲間を通じて、その筋の人を紹介してもらった。
徳山の町にいる勝次という男が「浜田光男」を探して居るというのがわかり、早速、会いに行った。
徳山の歓楽街で、薄暗いスナックバーで銀二はその男と会った。
山田勝次と名乗る男は、広島で金貸しと賭場をやっているという。
その男が言うには、浜田光男が博打で借金を作った。最初は、すぐに返済していたが、徐々に大金になり、返せなくなって行方を晦ましたと言うのだ。女と逃げたと聞いたらしく、山田勝次も『アキ』という名を頼りに、徳山まで来たそうだった。居場所を知っているなら教えろと凄まれたが、銀二は、『アキとその家族は関係ない。手出ししないと約束するなら引き合わせる』と交換条件を出した。勝次も、『堅気には手は出さない。金よりも行方を晦ました光男は仁義を欠いた以上、五体満足には済まさない。それは承知しろ』と条件を出してきた。『光男がどうなろうと知った事じゃない』と条件を飲んで、港まで案内してきたのだった。

鉄三が、思案しているところへ呑気な顔で光男が現れた。そして、
「おい、鉄三!ビールは無いか?すぐ持って来い!」
と、まるで自分の子分といわんばかりに命令した。
この機会とばかり、鉄三は切り出した。
「ここで飲んでいても辛気臭いでしょう。さっき、兄が来て、町へ飲みに出るがどうだと誘ってきたんです。なんでも大漁だったようで、結構、懐具合は良かったみたいだから・・きっと、一番のキャバレーにでも行くんじゃないでしょうか?良かったら、どうです?」
「ほう、良い話じゃないか。だが、俺はお前の兄さんからはあまり好かれてないんじゃないか?」
「何言ってるんですか?兄は結構飲んで出来上がってましたから、大丈夫ですよ。そこに居るからお願いしてみますよ。ほら、行きましょう。」
「そうかい?まあ、そういうなら、ここに来てから、何の楽しみも無かったからな・それじゃ行くか。」
「さあさあ」
鉄三は、自分でも口が巧くなったと自己嫌悪を起こしそうになりながら、光男を波止場に案内した。

「おう、鉄三!良く連れてきた。」
銀二はにんまりと笑った。鉄三は返事もせず、走り去った。
「どういうことだ?何だ、お前が銀二だな。良い所へ連れて行ってくれるんだろう?」
「ああ、良い所に連れて行ってやるさ。だが、俺じゃない。連れて行ってくれるのは、この人さ。」
波止場の水銀灯の柱の影から男が現れた。そして、
「おい、光男!久しぶりじゃねえかい。元気だったかい?」
件の山田勝次が凄むような声で言った。
光男はその場に座り込んだ。逃げる風でもなく、もう観念したような面持ちだった。
それを見て、銀二は、
「悪いことはできないな。良い所に連れて行ってもらいな!」
と吐き捨てるように言った。
「おい、銀二とかいったな。お前、見所がある。また何か困った事があったら、頼ってきな。何でも解決してやるからな。」
勝次はそう言いながら、光男を引っ張って行った。橋の辺りに、黒い車が数台停まっているのが見えた。勝次が近づくのが見えると、若い奴らが数人、車から飛び出してきて、一斉に頭を下げる。そして、光男を何発か殴ってから、車に押し込んで走り去った。

度胸は人一倍あるつもりの銀二も、その光景を見て、背筋が凍りついた。あの後の光男の運命を考えると、少しひどい事をしたかなと反省した。ただ、光男が和美にした事を考えると、自分が殴ってやりたい気持ちのほうが大きく、自業自得だろうと納得した。

事が終わって、銀二は村田屋に行った。店に入ると、アキが居た。
「ねえ、銀ちゃん、うちの人知らない?」
すいぶんいいタイミングで呑気に訊いてきた。
「ああ、光男さんなら、さっき、橋のところで勝次っていう人と一緒に居たよ。高級そうな黒塗りの車に乗せられて、なんだか、『覚悟しろ』とか『これで終いだな』とか凄みのある声も聞こえてたなあ。」
と敢えて、丁寧に状況を説明してやった。
アキの顔から血の気が引いていくのがありありとわかった。そして、急に、
「ほ・・ほら・・夜も遅いから、カーテン閉めて。」
と言いながら、手が震えている様子だった。そして、
「もう居ないの?」
と小さく訊いてきた。
「え?アキさんも用事が?じゃあ、もう一度呼んでこようか?」
「いいわよ。・・・ねえ、その・・勝次さんていう人、あなた、知ってるの?」
「ああ、友達になってね。今度また、困った事があったらすぐに連絡しろ、若いもんをすぐに遣すからって。」
「な・・なんて人なの!」
そう言うと、アキは身震いしながら、そそくさと奥へ引っ込んでいった。

2-5-7:資格 [峠◇第2部]

和美が目を覚ました時は、もう正午を過ぎていた。
明るい日差しが薄いレースのカーテン越しに部屋に差し込んでいる。
柔らかい空気が部屋の中を漂っていた。着替えをして、食事をした部屋に戻ってみた。

大木医師がテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた。
「やあ、目が覚めたかい。気分はどう?」
「ええ、何ヶ月ぶりに眠ったという感じです。ありがとうございました。」
「今、午後の診療の前の休憩時間なんだ。これでも、なかなか忙しいんだよ。コーヒー飲むかい?」
「はい。いただきます。」
「君にはコーヒーだけじゃなく、ほら、ミルクをたっぷり入れてね。これなら、体にも良いから。」
大きいカップに、コーヒーとミルクをたっぷり注いで渡してくれた。

「ああ、それと、この間の検査の結果なんだが・・いくつか数値が悪いところもあったようだが、病気と言うわけではない。無理さえしなければ大丈夫だ。」
「ありがとうございます。」
「だが、今日はあんなに朝早くどうしたんだね?」
「ええ、ちょっと・・」
和美はどこまで説明してよいか迷っていた。そして、
「少し、休みをいただいたんです。せっかくなので、旅行でもしようかなって思ってたら、朝早く目が覚めちゃって。バスを待つ時間ももったいなくて、歩き始めたんです。そしたら、駅まで思いのほか遠くて・・」
出来るだけ明るく取り繕ったような話をした。

大木はふっとため息をついて、
「そんな話を信じろっていうのかい?」
と言った。そして、
「朝の君は尋常じゃなかった。だから、声をかけたんだ。何があったんだい、ちゃんと話してみなさい。」
と言ったのだった。
和美は、昨夜の出来事を話した。そして、行くあてがなくて困っていた事も正直に話した。和美の話を全部聞いてから、大木は、
「そういうことだったのか。まあ、それなら、しばらくの間、ここに居るといい。身の回りのことは、家政婦さんがやってくれる。のんびり本でも読んで過ごしたほうが良い。そうしなさい。」
と言ってくれた。そして、午後の診療の時間だからと席を立って行った。

和美は、あのやわらかい空気の漂う部屋に戻り、何をするでもなく、ベッドに座って、外の景色を眺めていた。
そして、これからの事を考えていた。

大木はここにいても良いと言ってくれたが、甘えて良いものだろうか。確かに、ここに居ればのんびりと、何不自由なく暮らしていけるだろう。だが、それは、どういうことなのか。大木の厚意に自分は何もお返しできない。身内でもない、ましてや妻ということでもない。「しばらくの間」とは言っていたが、その後、どうするのだ。結局、自分で生きる道を探さなくてはダメだと思い至った。

通りを通る親子連れと思われる声が聞こえた。そして、かすかだが、赤ちゃんの泣き声もした。
急に和美は、幸一のことを思い出した。
昨日の朝、アキに取り上げられてから、まともに幸一を見ていなかった。
「ああ、幸ちゃんに会いたい。」
和美は一人つぶやいていた。
そして、やはり自分の生きる道は、幸一を立派に育てる以外にないのではないかと思っていた。だが、村田屋に戻る事もできるはずもない。結局、自分は何のために生きているのだろうと思い始めていた。

日が傾き、家政婦が、夕食を知らせに来た。
和美がダイニングルームに入ると、すでに着替えて寛いでいる大木の姿があった。目の前には、見たことも無いような料理が並べられていた。
「さあ、座って。ゆっくりできたかい?さあ、食べよう。」
大木は、ずいぶんと嬉しそうだった。
「あの、先生。私・・」
「いや、『先生』はやめてくれないか?病院に居る気分になる。ここでは、浩と呼んでくれないかい?まあ、家政婦さんは、いまだに坊ちゃんと呼ぶんだけどね。」
「え・・ひ・・浩さん?」
「そうそう、それでいい。で、なんだい?」
「私、考えたんです。ここには居られないって。ここに居る理由がないです。いえ、本当にご親切にしていただいて感謝しています。ただ、ここでのんびり暮らしていい資格はありません。ですから、・・」
「じゃあ、どうするんだい?」
「え・・それは・・・」
「まあ、そんなに結論を急がなくてもいいじゃないか。資格なんてものもね。僕がここに居て良いって言ってるんだし、いや、僕は君にここに居てもらいたいんだ。もちろん、患者としても君のことは心配だしね。それに、村田屋さんにもお世話になっていて、何かお返しが出来ればいいし、・・それに・・上手く言えないが、君は生き急いでるようでね。」
「でも・・・」
「この話はここまでにしよう。料理が冷めてしまう。熱いうちに食べないと、家政婦さん・・ああ、名前は千代さんって言うんだが・・千代さんの機嫌が悪くなる。優しいんだが、食事には人一倍うるさいんだ。さあ、食べよう。」


食後のコーヒーを飲みながら、和美はひとつ訊いてみた。
「あの、せんせ・・あ、ごめんなさい。・・・浩さんは、ご結婚は?」
大木は思わずコーヒーを噴出しそうになった。
「いや、突然、びっくりするなあ。・・ふーん・・どう答えたらいいんだろうね。まあ、仕事が忙しくってなかなかそういうことに疎くて,縁が無かったというか、あっという間にこんな年齢まで独身ということになってしまってね。・・こんな答えじゃダメかな?」
「いえ、もうご結婚されてたのかなと思って・・」
「なんだい。そういうことか。まだ未婚です。良かったら、和美さん、僕のお嫁さんになってくれるかい?」
大木は半ば本気で聞いてみた。
「・・・」
和美は答えられず、うつむいてしまった。
「なんだ・・なんだ・・冗談だよ。こんなオジサンのお嫁さんなんて無理だってわかってるから・・」
「いえ、そうじゃないんです。嬉しくって。私をそんなふうに見てくださるなんて。でも、私にはそういう幸せになる資格はありません。」
「また、そんなことをいうんだから。和美さんはもっと幸せにならなくちゃいけないんだ。」
「同じことを、昔、言ってくれた方がいました。でも、今の私には無理です。」
そう言うと、泣きながら部屋に戻っていった。

部屋に残った大木は、和美の涙の理由は充分に理解できた。
村田屋に居た時の和美は、幸一を抱き、すっかり母として生きていたのだ。愛する子どもを取り上げられた今、どう生きていくべきなのか深く悩んでいるのだ。彼女を元気にできる道はやはり幸一を和美の手に戻してやる事以外にないだろうと判っていた。

大木は、電話を取り、村田屋に連絡した。

村田屋は、和美が出ていった事で、奥さんは塞いでしまって寝室に篭ってしまっていた。アキは、光男が居なくなり、仕方なく幸一の世話をしていた。
電話近くには鉄三が居た。
「はい、村田屋です。」
「もしもし、あの、私、大木と言います。ご主人は在宅でしょうか?」
「すみません。今、出かけております。」
「そうですか・・じゃあ、和美さんの事で一度連絡をいただきたいとお伝えください。」
「え!和美?すみません。僕は鉄三と言います。和美って、うちに居た和美の事ですか?どこにいるかご存知なんですか?元気ですか?そこに居るんですか?」
矢継ぎ早の質問で、大木も困ってしまって、
「ああ、大木総合病院の大木です。今、私の家で預かっています。元気ですよ。とりあえずご連絡をと思いまして・・」
「そうですか。ありがとうございます。それで、和美は?」
「どうしたものかと思いましてね。一度、ご相談をと・・」
「実は、少し揉めてまして。何なら、僕が伺います。旦那さんは多分難しいかと」
「じゃあ、鉄三さん、だったっけ?明日にでもこちらへ来てもらえますか?」
そう約束して電話を終えた。


2-5-8:大切な事 [峠◇第2部]

大木医師からの電話で、和美の居場所がようやく判明した。
鉄三は、村田屋の皆に伝えるべきか迷い、とりあえず、銀二にだけは知らせようと、銀二の家に急いだ。

「兄ちゃん、和美の居場所がわかったよ。」
そう言って、銀二の家に入ると、銀二と直子とセツさんが居た。
「え、何?わかった?そりゃ良かった。ちょうど、今、皆で和美の行きそうなところは何処か思案していたんだ。で、どこに居たんだ?」
「ああ、ほら・・問屋口にある大木総合病院だよ。」
「病院?怪我でもしたのか?大丈夫なのか?」
「いや、怪我とかじゃなくて、詳しくは聞いていないんだが、とにかくそこに居るんだ。」

直子とセツさんも、その話を聞いて、胸をなでおろした。
和美が村田屋を出て行った話を銀二から聞いて、二人のところのどちらかに来るだろうと思っていたのが、どちらにも現れず、二人ともたいそう心配していたのだった。

「俺、明日、迎えに行ってくる。」
鉄三が言うと、直子もセツさんも、それがいいと賛成した。だが、銀二は、
「おい、迎えに行ってどうするつもりだ?」
と聞いた。
「どうするって、そりゃあ、村田屋に連れ戻すのさ。」
「連れ戻してどうする?」
「また、幸一の世話をしてもらって・・・」
「お前はバカか!アキが幸一を手放すわけ無いだろ。それに、村田屋だって、一旦は追い出したんだ、すぐに戻っても、すんなり前のように居られると思うのか?」
「じゃあ・・どうすればいいんだよ。」

直子も口を挟んだ。
「そうね。確かに、『はい、そうですか』って簡単に元の鞘には納まらないでしょうね。かといって、私のところにも部屋が無いしね。」
セツさんが、こう言った。
「なら、うちへ連れておいで。うちならいくらでも居られる。それに村田屋も近いからね。鉄三が、幸一をうちへ連れてくるようにしてやれば、和美ちゃんも少しは楽になるだろう。」
「それだ!迎えにいって、セツさんの家に住まわせる。時々、おれが幸一を連れ出してくれば・・」
と鉄三がいい考えだと賛同した。しかし、銀二は
「まあ、そんなに先走るなって。一番大切なことは何か、よっく考えろ。」
「一番大切なこと?」
「そうさ。今までの事をよく思い出せ。」
「今までって言ったってさ。村田屋に来る前のことは知らないし・・」
「ああ、そうか。」

銀二は、これまでのいきさつを鉄三は知らない事に気がついた。どうしたものかと考えていると、
「もう、全て鉄三にも教えてやりなよ。その方がこれからきっと鉄三も楽になる。」
とセツさんが銀二に促した。
「そうだな・・あのな、銀二。よく聞けよ。」

そう前置きしてから、和美を救った事、銀二の家やセツさんの家で過ごしていたこと等を話してやった。

鉄三は、兄の口から出てくる話に驚き、悲しみ、深く考え込んでしまった。そして、
「じゃあ、兄ちゃんはずっと和美のことを知っていたんだね。なのに、素知らぬ顔で・・時々、兄ちゃんが和美のことで急にムキになる事があったのはそういうわけだったんだ。」
「バカ!ムキになってない。心配なだけだ。それに、あの娘には絶対幸せになってもらいたいんだよ。それだけだ。」
「じゃあ、大切な事って何だよ?」
「まだわからないのか?」
銀二はあきれた顔で言った。そして、
「誰しもそうだが、自分の人生、自分で決めたように生きられるのが何より幸せってもんだ。だが、和美は、今までそういう事が出来なかった。命まで落としかけたんだ。ようやく、幸一を育てたいって自分で決めて、村田屋に来て、ようやく生きている実感があったはずだ。なのに、追い出された。これ以上は傷つきたくはないはずだ。明日、お前が迎えに行っても、簡単には了解しないだろう。幸一に会いたい気持ちは募っていても、村田屋との諍いで、また傷つく事がわかってる。そんな所へ戻る勇気はないはずだ。だからな。迎えに行くというよりも、今の和美の気持ちをしっかり聞いてやるんだ。」
「そうか・・・和美がどうしたいのかが大切なんだね。」
「そうだ。大きな病院に居られる事で、和美が幸せならそれでも良い。和美の人生なんだからな。」
「わかったよ。とりあえず、明日は顔を見てくる。」
そう聞いていた直子が、
「そうだね。和美ちゃんがどんな気持ちかが大切ね。それとね、鉄三さんにも大切な事があるはずでしょ。それもよく考えた方がいいわよ。」
「どういうことですか?」
「和美ちゃんと会ったら、自分の胸の中に大切なものがあるって気付くはずだから。よく考える事ね。」
セツさんもその話を聞きながら、にこにこしている。
銀二は、最初、直子の言っている事が良く分からなかったが、直子とセツさんが目を合わせ、ニコニコしている姿を見て、ようやくわかった。ただ、その言葉が、自分の心の中にも響いているのを感じて、無性に辛かった。

2-6-1:鉄三の困惑 [峠◇第2部]

翌朝、鉄三は朝餉の支度を終えてから、主人に、
「すみません。ちょっと用事で出かけてきます。ええ・・昼の準備もあらかた済んでいますから・・はい、ちゃんと戻ります。それじゃあ済みません。」
そう言って、店の自転車を借りて、病院へ向かった。
問屋口の大木総合病院までは自転車で30分ほどのところだった。行く途中、和美にどんなふうに話をしようかと考え続けていた。
昨日、銀二に言われたように、和美がどうしたいのかをしっかり聞き出せれば良いが、果たして、ちゃんと話をしてくれるだろうかと不安になっていた。

病院の前に着いた。病院の玄関はまだ診療前で開いていなかった。
塀沿いにぐるりと回ってみた。高い塀と生垣に囲まれた敷地は思ったより広かった。裏手に回ると、屋敷が見えた。通用門があって、呼び鈴が付いていた。

鉄三は、緊張でどきどきしながら呼び鈴を押した。しばらくすると、屋敷の玄関が開いて、お手伝いさんのような人が出てきた。小さな通用口を少し開けて、「あの、どちら様でしょうか?」と尋ねた。
「朝早く、済みません。福谷鉄三と言います。昨日、先生から電話をいただいて伺ったんですが・・」
お手伝いさんは、「少々お待ちください。」と言ってまた屋敷に入って行った。
少し開いた通用口から、そっと中を覗いてみた。
門の右側に、広い庭が見える。築山のようになっていて、見事な庭園だった。池もあるようだった。左手には車庫があり、黒塗りの乗用車が入っているのが見えた。
「医者ってのは儲かるんだな。」と呟いた。

玄関が開き、先ほどのお手伝いさんが、「こちらへどうぞ」と手招きをした。
鉄三は、辺りを見回しながら、そっと家の中に入って行った。
広い玄関は、旅館を思わせるような風格があり、広い廊下が奥に続いていた。お手伝いさんは、スリッパを並べ、どうぞと案内してくれた。静かに後を付いて行くと、リビングルームに案内され、「少しお待ちください」と言われ、ソファに座るように勧められた。
なんだか落ち着かない雰囲気の中、鉄三は、借りてきた猫のように大人しく座っていた。
ドアがガチャリと開いて、また、お手伝いさんが入ってきて、お茶を並べた。そして、
「もうすぐ、ご主人が参ります。」と言って出て行った。

じっと待っていると、大木医師が白衣で現れた。鉄三は緊張した面持ちで直立不動となった。
「いや、済まないね、わざわざ来てもらって。午前中の診療が始まるところで、ちょっと忙しくて・・ああ、今、和美さんを呼んでくるように言ったから、よく話を聞いてやってくれ。済まないが、私は仕事があるので失礼する。まあ、ゆっくりして行ってくれ。」
それだけ言うと、また部屋を出て行ってしまった。

また、しばらく時間が過ぎた。なかなか和美は現れなかった。
30分も待っただろうか、先ほどのお手伝いさんが現れて、
「済みません。和美さんが、会いたくないから帰って欲しいと言われているのですが・・」
と済まなそうな面持ちで言った。鉄三は戸惑った。来る途中も予想はしていたのだが、やはり、和美はかなり悩んでいるとわかった。それに、もう村田屋に戻る事など考えていないのだとも判った。
「和美ちゃんは、元気にしていますか?」
とお手伝いさんに尋ねてみた。
「ええ、体のほうは大丈夫でしょう。食事も摂られていますから・・ただ、昨日は一日ぼんやりされていて、部屋から出ようとはされない様子でした。私もお世話させていただくにしても、何をどうしたらよいのか・・」
「あの、どこに居るのでしょう。」
「ええ、向かいのお部屋にいらっしゃいます。」
鉄三は、そう聞いて、すぐに廊下に出て行った。そして、ドア越しに声をかけた。
「和美ちゃん、鉄三です。先生から連絡を貰ってね。・・あの・・うん・・直子さんもセツさんも、兄貴も心配してる。とにかく、和美ちゃんの気持ちをしっかり聞いてこいって兄貴が言ってたんだ。だから、今、和美ちゃんがどうしたいのかを教えて欲しいんだ。何か聞いて帰らないと、また、兄貴にどやされる。ねえ、和美ちゃん。話を聞かせて欲しいんだ。」
返事は無かった。そこへ、診療中の大木医師が現れた。
「済まないね、和美さん。昨日の君の様子を見ていて、鉄三さんに来てくれるように勝手に頼んでしまって。僕は君にここに居てもらえば良いと思うんだが、どうも、君はそう思っていないようだったからね。今の気持ちを鉄三さんに話してみたらどうだい。」
そう言うと、ドアが開いた。中から、うつむき加減で和美が顔を出した。
「良かった。まあ、まだ、気持ちは定まっていないと思うが、思ってる事を鉄三さんに話してみなさい。」
そういうと、大木医師は、鉄三の背中を押した。
「ごめんね。和美ちゃん、僕が守りきれなくて。本当にごめん。」
鉄三は頭を下げて詫びた。
「そんな。鉄三さんのせいじゃないわ。・・・」
和美はそう言うと、鉄三の手を握った。和美の手は温かかった。

和美と鉄三は先ほどの部屋に戻って、ソファに座って二人きりで話すことにした。

「昨日は、皆、戸惑っていたよ。急に居なくなったから。居場所がわかって、兄貴のところに行ったら、直子さんとセツさんが居てね。出て行くといってもどこに行ったのかって、皆、心配していたんだ。僕が、村田屋に連れ戻しに行くって言ったら、兄貴にすごく怒られたよ。また、和美ちゃんを傷つけるつもりかってね。」
「そう・・皆さんに心配かけて、済みませんでした。」
「いや、あの夜のことを思えば、和美ちゃんが出て行ったのはよくわかる。女将さんに言われなくても、あんな怖いところには居たくないのは当然だよ。」
「ええ、怖い思いはあります。でも、何だか、私が居るせいで、皆さんが言い争ったり、けんかになるのは嫌なんです。」
「そうだね。アキさんさえ帰ってこなければ・・・」
「そんな!アキさんの家なんですもの。そうじゃないのよ。私が、幸一の母親代わりなんてしなければ良かったんです。大体、自分子供を亡くしてしまった女が他人の子どもを育てて幸せを味わっているのがそもそも罰当たりだったんです。」
「そんな事はない。和美ちゃんが居てくれたから、幸一だってあんなに元気に大きくなったんじゃないか。それはみんな感謝してる。僕だって、和美ちゃんが居なければどうしていたか・・」
「いえ、いけないんです。私は幸せになる資格なんて無いんです。」
「馬鹿な事言うんじゃないよ。兄貴が聞いたら怒るよ。君を救った事も全て聞いた。今、きっと、兄貴が一番伽しい思いをしてるはずだよ。ようやく幸せになりかけてたのにって。兄貴は、とにかく、これ以上、和美ちゃんが傷つく事はダメだ、なんとしても幸せにならなきゃいけないって言ってたんだ。」
「銀二さん・・・もう、しばらく、会ってない・・・せっかく命をつなぎ留めてもらったのよね・・・」
「そうだよ。兄貴は言ってたよ。きっと幸一を育てている時は生きてるって実感があったはずだ、だが、村田屋に戻るとまた傷つく事になる。だから、怖くて何も出来なくなってるだろう。しっかり、和美ちゃんの気持ちを訊いてこいって。」
「そう・・・銀二さんが・・・私の気持ち・・・銀二さんに逢いたい・・・」
和美の答えは鉄三には意外だった。村田屋に居た時はまったく面識が無いものだと思っていたし、銀二から一連のいきさつを聞いたときも、和美がそういう感情を銀二に対して抱いているとは予想もしていなかったのだった。
「和美ちゃん・・兄貴の事・・」
鉄三はそう言い掛けたが、急に、その後の言葉を口にするのが怖くなった、答えを聞き、もしそうだと言われた時のことを想像しただけで、何か、胸の中がざわざわとしてくるのだった。そんな時に不意に、直子の言葉が浮かんできた。

『自分の胸の中に大切なものがあるって気づくから』
そうだった。1年近く一緒に居て、幸一の面倒を見てもらい、昼夜ともに過ごしてきた。今、何よりも、和美は自分にとって大切な存在だったと気づいたのだった。兄貴はどう思っているのだろうと考えると、一層、胸の中がざわざわし始めた。

ぐっと胸の中の思いを押し留めて、
「ねえ、和美ちゃん。セツさんのところへ行かないか?あそこなら、部屋もあるし、以前に居たところだから勝手もわかるだろう。」
「でも・・」
「いや、セツさんと直子さんもそう言ってたんだ。それに、あそこなら、僕が幸一を連れ出して逢わせることもしやすいじゃないか。ここも居心地はいいだろうが、なかなか幸一には会わせられないし・・」
「ああ、幸ちゃんに会いたいわ。そうね。セツさんが良いって行ってくださるなら・・また、住まわせていただこうかな。・・」
「そうさ、そうしなよ。その先のことはまた考えればいいじゃないか。」

鉄三は、セツさんの家が銀二の隣で、和美が承諾したのは銀二も会えるからだろうかと、変な疑念を持ってしまう自分が嫌だった。何度も打ち消したが、なかなか消えなかった。それでも、和美がそうしたいというなら、それが一番だと自分に言い聞かせた。

「じゃあ、僕が先に帰って、セツさんや兄貴に話しをしておくよ。そうだなあ・・和美ちゃん・・甘えついでに、先生に向島まで送ってもらうことは出来ないかな・・・」
実は、廊下には大木医師が立って二人の話をおおむね聞いていたのだった。そして、ドアを開けて
「話は終わったかい?」
と入ってきた。
「すまないね。少し早めに午前の診療が終わったものだから。和美さん、向島へ帰るかい?」
「済みません。先生には感謝してます。行き場の無かった私によくしていただいて・・・本当にありがとうございます。でも、やっぱり、ここは私にはもったいないです。ここに居ると私のやれることは何もなくて・・本当に自分勝手で済みません。やっぱり、幸一の近くに居たいんです。」
「いや、僕のほうこそ、勝手に連れてきてしまってすまなかったね。そうと決まれば、早いほうがいい。鉄三さん、悪いんだが、先に戻って帰れるように算段してくれないか。今日は、午後休診だから、昼食を終えたら、和美さんを送っていくから。」
その言葉を聞いて、鉄三は、
「ありがとうございます。先生。このご恩、一生忘れません。」
そう言って、急いで、向島へ戻っていった。

鉄三を見送りながら、大木は、
「いい青年だ。まっすぐで優しくて。和美さんの周りには素敵な人がたくさん居るね。」
と言った。それを聞いて和美は、
「はい。先生もそのお一人です。本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません。」
と頭を下げた。
「そうかい。なら、お昼ご飯を一緒に食べよう。そうだ!もし、君が私へ恩を感じているのなら、時々、ここへ来て、一緒に食事をしてくれるってのはどうだい?」
「何だか、変な恩返しですね。でも、嬉しいです。ぜひ。それと、今度は、幸ちゃんも一緒でも良いですか?」
「大歓迎だよ。」

その日の午後、和美は、大木の黒塗りの乗用車で、セツさんの家に送ってもらった。
向島大橋を通り、港を抜けるときは、村田屋の前を通らざるを得ないため、やはり気まずくて、窓から見えないよう頭を低くして通過した。島に入り、ほんの5分ほどでセツさんの家に着いた。
「ありがとうございました。」
「約束、忘れないようにね。」
大木医師は、笑顔でそう言うと、車の向きをかえ、さっさと帰って行った。

舗装されていない道路には砂埃が舞い上がり、しばらく、辺りが見づらかった。砂埃が静まると、家の前にセツさんが立って、じっと和美を見ていた。
「セツさん・・・」
そう言うと、和美はセツさんにすがりついた。セツさんは子どもを抱くように和美を迎えた。
「何も言わなくていいから、さあ、お入り。蒸かし芋、作っといたからね。」


2-6-2:龍厳寺 [峠◇第2部]

鉄三は、昼食の準備をするために、大急ぎで村田屋に戻った。その日は、平日でもあり、それほど客は多くなく、すぐに片付けは終わった。それから、すぐに、セツさんのところへ行き、和美をしばらくここにおいてもらうように話した。セツさんは快諾して、部屋の掃除を始めた。銀二のところに行ったが、留守だったので、また出直す事にして、一旦、村田屋に戻った。

ちょうど、その時、店の前を大木医師の黒塗りの乗用車が通過した。和美の姿は座席に深々と座っているのか、確認できなかった。大木医師が、鉄三をみて手を上げた。鉄三は、深々と頭を下げて見送った。
その後、鉄三は、店の玄関前にある、丸椅子に腰を降ろし、考え事をしていた。和美に会ったことや居場所について、村田屋の主人に話すべきか迷っていたのだった。

すると、店の中から、主人の声がした。
「鉄三!鉄三は居ないか?」
「はい。ここです。」
返事をして、店の中に入ってみると、主人が、
「おお、居たか。ちょっと悪いんだが、龍厳寺に行ってくれないか?」
「ええ、いいですが・・何の用事でしょう。」
「ああ、やっぱりお前も・・・ほら、あと1週間で、裕子の命日、1周忌の法要だぞ。」
鉄三は、主人にそう言われるまで、すっかり忘れてしまっていた。まだ1年しか経っていないのにと自分を恥じた。
「すみません。いろいろあって・・」と言い訳じみた返事をするしかなかった。
「いや、良いんだよ。私だって、もうそんなに経ってしまったのかと思っているんだから・・」
「それで、法要の相談ですか?」
「ああ、それはさっき、電話で大方の事は決めておいた。ただ、住職にはいろいろと骨折りいただいた事もあるし、お礼と言っては何だが、手土産を持って、お前も挨拶してくるといい。住職が、お前に会いたいそうなんだ。」
「そうですか・・今日は、夕方のお客さんも無いようですし・・・・旦那さん、龍厳寺に行った後、そのまま、兄貴のところへ行ってきてもいいですか?」
「ああ、構わないよ。私たちも今日は早めに夕食を済ませて休むとしよう。」
「あっ・・夕食・・」
「なに、構わないさ。アキが居るから」
「えっ?アキさんがこしらえるって事ですか?」
「ああ、そうか、お前は知らなかったか。アキは、昔、東京に居た時にね、料理人と結婚して小さな店をやってたことがあるんだよ。直々に仕込まれたようで、洋食を作らせたら、多分、この町では一番の腕前だと思うよ。」
「そうなんですか?とてもそんな風には見えませんでした。」
「アキにもいろいろあってね。身を持ち崩しちまったんだ・・根は正直で明るい娘だったんだがね・・男運が悪いって言うか・・まあ、本人にも問題はあるんだろうがね・・まあ、そんな話は良いから、早く行っておいで。これをもって行きなさい。」
主人は、小さな風呂敷包みを渡してくれた。

龍厳寺は、村田屋から歩いてそう遠くなかった。高台にあり、長い石段を上がると、境内になっている。
石段を上がっていると、住職が、箒で掃除をしていた。齢80くらいだろうと思われるが、矍鑠として威厳のある顔つきをしている。住職になる前は、漁師だったそうで、兄-銀二-も年老いたらこんな風になるのではないかと鉄三は、いつも思っていた。

「おお、来たか。待っとったぞ。」
「済みません。お待たせしました。ああ、これ、村田屋のご主人からです。」
そう言って風呂敷包みを渡した。中は、和菓子のはずだった。この住職は酒は一切やらず、甘党で、特に和菓子には目が無いのだった。
「ほう、これはこれは、ありがたい。」
そう言って受け取り、
「もう1年になるんじゃなあ。早いもんじゃ。」
と言った。
「ええ・・そうなんですね・・」
鉄三が少しくぐもった声で答えたので、住職が怪訝そうな顔をして、
「何じゃ・・何かあったのか?」
と尋ねた。鉄三はそう問われて、
「実は、ここ数日いろんなことがあって、裕子の命日、1周忌をすっかり忘れてしまっていたんです。まだ、たった一年しか経っていないのに、随分昔のように感じてしまって・・本当に裕子に申し訳なくて・・命を懸けて幸一を産んでくれたのに。これじゃあ、浮かばれませんね。本当に申し訳ないと思って・・」
「そうかい。」
住職はそう答えてから、
「なあ、時間はあるんじゃろう。中で、この菓子でもつまみながら、話をしよう。」
そう言って、鉄三を本堂に案内した。

二人は本尊を前に向かい合って座った。お茶と菓子を挟んで、どっかりと座った。
「ほうほう、これは、旨い菓子をいただいた。ひとついただこうかのう。ほれ、鉄三も・・」
住職はそう言って、菓子を手にとって頬張った。

「なあ、鉄三。法要はなぜやるのじゃと思う?」
「え?何故って、亡くなった人を弔うためでしょう。」
「ああ、そうじゃ。それでは、弔うとはどういうことじゃ。」
「それは・・・亡くなった人を思い悲しむということなんじゃないんですか?」
「まあ、それもそうだが・・・亡くなった人はどうなる?」
「ご住職、なんだか禅問答みたいなんですが・・・」
「まあ、いいじゃないか。どうじゃ?」
「それは、三途の川を渡って、あの世に行くんでしょう。」
「そうじゃ、あの世に行って、仏になる。坊主は、死んだ人の霊を間違いなくあの世に送り届けるために、経を読んで道案内をするのが仕事じゃ。葬式の時はそうじゃ。なら、法事の時の経は何のためじゃろうな?」
「ええと・・たぶん・・あの世に居る人が聞いて・・」
「聞いてどうなる?」
「わかりません。」
「そこが大事じゃ。人は仏になる。仏は、あの世から皆を救ってくれるありがたい存在なんじゃ。法事で経を上げるとなあ、その仏が聞いて、『ああ、あれは私の家族。あの人たちを守らなければ』と気づいてくれるんじゃ。」
「そんなもんですか?」
「まあ、聞け。気づいて、あの世からこちらを覗くと、家族が苦労しとるのが見えたりすると仏は悲しむ。家族が幸せそうにしていると安心する。だから、この世に残されたものは、法事に集まって幸せに生きていますよと報告するんじゃ。」
住職の話を鉄三はじっと聞いていた。
「それにな、法事は、葬式の後、初七日法要から四十九日までは七日法要と言って頻繁にやるが、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、と徐々に間が開いてくる。これにも訳がある。別に、亡くなった人をないがしろにするんじゃない。良いか。ちゃんと幸せに生きているから、大丈夫ですよという思いもあるんじゃよ。」
「そんなもんですか。でもやはり忘れてしまうというのは罰当たりでしょう。」
「まあ、そうじゃが・・・ただな、お前のところはちょっと事情が違う。何と言っても、裕子さんの命日は、幸一の誕生日じゃ。裕子さんが自分の命を懸けて、幸一の命を繋いだ。とても大事な日じゃが、悲しむ日にしてはならん。」
「ですが・・」
「毎年、命日に悲しむと、幸一はどう思う。今は赤子じゃが、大きくなって、誕生日に皆が悲しむなんてのはどうじゃ?きっと、自分が生まれたせいで母を死なせたと思うようになるじゃろう。生まれながらに罪を背負っていると思うかもしれん。それは不幸じゃ。きっと裕子もそんな事は願っておらんはずじゃ。」

そこまで聞いて、鉄三は、裕子が産室で息絶えるまで必死に生きたことや、幸一の産声を聞いた時の思いを今更ながらに思い出した。この子を立派に育てると裕子に約束した事を思い出していた。

「いいか、鉄三。本当に裕子さんの供養を考えるなら、何をすべきか、よく考えるんじゃ。悲しむばかりじゃダメじゃ。どうかな?」
鉄三は、住職の話を聞いて、今までの自分を思い返し、はっきりと決心した。
「ご住職、ありがとうございました。自分なりに精一杯、裕子の供養になる生き方をします。」
そういうと、住職に頭を下げ、寺を後にした。

石段まで住職は見送りに来た。そして、銀二の背中を見送りながら、
「村田屋さん、これで良かったかのう。この坊主にできる事はこれくらいじゃ。南無阿弥陀仏。」
そう言って、手を合わせた。

2-6-3:決心 [峠◇第2部]


龍厳寺を出た鉄三は、まっすぐ兄の家に向かった。
住職と話をして、今まで心の中でもやもやしていたものがすっきりとして、ひとつの決心を固めていた。

「兄ちゃん、居る?」
銀二は、台所で食事の支度をしていた。
「おお、鉄三。和美はセツさんのところに居るんだってな。どうだったんだ?」
「その事で、兄ちゃんに相談したいことがあって。」
「何だ?まあ、座れ。おお、飯食うか?雑魚ばかりだが、さっき獲れたのを醤油で煮付けてるんだ。お前の料理にはかなわないとは思うがね。」
「ああ・食べるよ。」

二人は久しぶりに一緒に食事をした。
兄の作った食事は予想以上に美味しかった。微かな記憶の中ではあるが、幼い頃に母が作ってくれた料理の味に似ていた。

「なあ、兄ちゃん。もうすぐ1周忌なんだよ。」
「ああ、そうだな。・・何だか早いなあ。・・・ということは、幸一の誕生日だな。」
「うん。そうなんだ。実は今日、龍厳寺に行ったんだ。」
「ああ、法事の相談か?まあ、あの住職なら、大丈夫だ。ちゃんとおつとめをしてくれるだろう。それより、村田屋だな。まあ、余計な奴は居なくなったから、良いとは思うが・・・・」
「なあ、法要ってどうしてやるのか知ってるかい?」
鉄三は、住職に訊かれた質問を、そのまま銀二にぶつけてみた。
「そりゃあ、残ったものが元気ですよって報告するために集まるんだろ?」
銀二はあっさり、住職の教えを答えた。
「ちょっと・・兄ちゃん、どうしてそれを?」
「どうしてっていわれてもなあ。・・・人はみな死ぬと仏になって天国に居てみんなを見守ってくれてるんだ。だから、法事にはみんな集まって元気に生きてるから安心しろって報告するために、経を唱えるんだろ。」
「だから、どうしてその事を知ってるんだい?」
「どうしてって・・・・・・おう、そうだ。・・・昔、お袋に聞いたんだ。お前は小さかったから覚えていないだろうがな。お袋はいよいよダメだなって時に、枕元でこう言ったんだ。葬式でも泣いちゃダメだ。母さんは死んだら仏になって天国から見てるから、ちゃんと生きるんだよって。法事なんて、身内でやればいい、みんな元気に生きてるぞって天国にいる母さんに教えてくれれば良いんだからってな。」
「そうだったんだ。」
「だから、俺はずっと毎年、お袋の命日には、酒と肴を持って墓参りして、墓の前で酒飲みながら楽しくやってるんだよ。裕子さんもきっと悲しい顔より幸せな顔を見せてくれって思ってるんじゃないか?」
「そうだね。同じ事を龍厳寺のご住職にも言われたんだ。」
「へえ、そうかい。なら、1周忌の時、一緒に、幸一の誕生会をやっちゃどうだい。」
「でも・・どうかな・・村田屋のご主人がなんていうか。」
「まあ、いいじゃないか。それなら、法事が終わってから、幸一をセツさんのところへ連れて来い。和美も居るんだし、俺たちで楽しく誕生日を祝ってやろうじゃないか。」
「ああ・・そうだね。」

何だか、鉄三は力が抜けた感じがした。いろいろと悩んで、住職に諭されて、ようやく決心してきた事を銀二はあっさり、こともなく決めてしまう。法要の意味だって、教えてやろうと意気込んでいたのに、素っ気無く答えてしまって、やはり兄ちゃんだなと感じていた。
ただ、鉄三にはもうひとつ、もっと重大な決心があった。その事は兄も見透かしては居ないはずだった。そして、兄がどういう反応をするのかまったくわからなかったので、なかなか言い出せなかった。

「兄ちゃん、酒はないのかい?」
鉄三は、酒の力を借りて、決心を伝えようと思った。
「あ?一応、あるにはあるが・・最近、あまり飲んじゃいないからな。まあ、いいか。」
そう言って、台所に行き、あちこち探していた。
「なあ、焼酎でも良いか?ちょっと待て、せっかくなら、浜に出て、夜空でも見ながら飲もうじゃないか。それに、つまみに刺身でも作ろう。まだ、魚が残ってるからな。」
銀二はそう言うと、コップと焼酎の瓶を、先に鉄三に渡して、台所で魚をおろし、刺身を作り始めた。
鉄三は、焼酎とコップを持って、浜に出た。銀二の家の前には、網を繕う為にござが敷いてあった。そこに座って兄が来るのを待った。

刺身の皿を持って、銀二が浜に出てきて座った。夕食の間に、日は落ちて、辺りは真っ暗だったが、月夜で気持ち良い風が吹いている。遠くに、玉浦の山影や姫島が見えている。

鉄三はコップに焼酎を注いで、一気に飲み干した。そして、
「兄ちゃん、俺、決めたんだ。和美ちゃんを俺の嫁にする。」
銀二は、コップに焼酎を注いでいたが、ぴたっと止まった。そしてそのままじっとしていた。
「ご住職も言っていた。幸せになる事が裕子への供養だって。いつまでも裕子の事を考えていても、幸一だって幸せにはなれない。幸一を幸せにするのが裕子への供養だ。それなら、母と信じてる和美ちゃんに本当の母親になってもらうのが一番だ。裕子には済まない気持ちはあるが、和美ちゃんを嫁にして、家族になる。どうかな?」
鉄三は、一気に決意した中身を銀二に告げた。

銀二は、鉄三の言葉を聞いて、しばらく思考が停止したかのように動かないままだった。いや、鉄三の言葉をどう理解し、どう反応すべきなのか、必至に考えていたのだった。

2-6-4:銀二の想い [峠◇第2部]

ちょうど、その頃、和美は、セツさんの家の窓から、夜空を見ていた。
すると、銀二の家のほうから、話し声が聞こえてきた。銀二が居るのだとわかると、逢いたい衝動に駆られ、急いで、銀二の家に行ってみた。
話し声は、浜のほうからしていた。
家の外側を回って、銀二が修理した風呂場のところまで来た時、和美は、銀二と鉄三が何か真剣な話をしている様子を感じ取って、風呂場の木戸の影にそっと身を潜めた。静まった夜に二人の話し声はよく聞こえた。

鉄三の「決心」を聞いて、銀二は戸惑い、どう返してよいのかなかなか答えが見つからなかった。

何も言わず考え込んでいる銀二の様子を見て、鉄三は、
「兄ちゃんと和美ちゃんの事は、この前、聞いてわかっているつもりだ。だからって訳じゃないけど、和美ちゃんの身の上を考えても、そうするのが良いんじゃないかって考えたんだ。」
銀二はまだ、答えに困っていた。

「もう1年近く、そばに居たんだ。今では和美ちゃんが居ない毎日は考えられない。亡くなった裕子には申し訳ないけど、今、俺は和美ちゃんに惚れてる。大木病院に居るって聞いた時から、いや、ここで、直子さんたちに『あなたの心に中にも大事なものがあるはず』と言われてから、この気持ちに気づいたんだ。」

銀二も、直子のその言葉を聞いた時、胸の奥のほうに何か刺さったような感覚を覚えていた。確かに、銀二の中にも、和美を愛する気持ちが芽生えていたはずだった。いや、銀二の中には、和美を海から救い上げ、ここに置いていた頃から、自分だけの女神を見るような気持ちがあったはずだった。そして、それは、誰にも渡したくないという思いであったはずだった。

「俺は、和美ちゃんを、幸一の母として、おれの嫁として、大事にする。幸せにする。命に代えても守っていく。そう決心したんだ。兄ちゃん、わかってくれよ!」
鉄三は、じっと銀二の目を見て、懇願するように話した。

風呂場の影で聞いていた和美は、鉄三の言葉に驚いた。
確かに、1年近く村田屋に居て、幸一を挟んで、何かと一緒に居る時間はあった。だが、それは母親代わりとして幸一を育てる自分には、ごく普通のことだった。鉄三に対して恋心など感じた事もなかった。
何よりも、和美の中には、銀二を慕う気持ちが強かった。幸一とともに生きることが出来ないなら、せめて、銀二の傍に居たいと願い、大木医師の厚意も振り切って、ここに帰ってきたのだった。
和美も、銀二がどういう答えを出すのか、何か祈るような想いで、銀二の答えを待った。

銀二は、答えを探しながらも、和美の気配を近くに感じていた。そして、すぐ傍に和美が隠れている事に気づいた。
そして、一息置いて、コップの中の焼酎を飲み乾すと、ゆっくりと口を開いた。

「お前の気持ちはよくわかった。」
それが、ようやくひねり出した銀二の答えだった。
「じゃあ、認めてくれるんだね。」
鉄三が返すと、銀二は、
「そう、急ぐんじゃない。お前はいつもそうだ。良いか、よく考えろ。俺が良いって言ってどうなる?お前の決心はわかるが、大事なのは、和美がどうしたいかじゃないのか?」
そう言われて鉄三も、頭に上った血液が下がっていくような感覚を感じていた。

「なあ、鉄三。お前の決心は、まだ和美には伝えてないんだろう。」
「ああ、まだ、これからだよ。」
「じゃあ、どうしようもないじゃないか。和美が了解してくれなければ何も始まらない。」
「それはそうだが・・でも・・兄ちゃんにとって、和美ちゃんは、大事な人なんじゃないのかい?」
「それは・・もちろん、幸せになってもらいたいと思ってる。せっかく取り留めた命だ。辛い思いもしてきた。だからこそ、幸せになってもらいたいと思う。」
「じゃあ、兄ちゃんの嫁さんにしようって考えてはなかったのか?」
鉄三に心の中を見透かされたような質問をされ、銀二は動揺したが、
「馬鹿言え!俺と和美じゃ、年も違いすぎる。それに、俺なんかと一緒に居たって幸せになんかなれない。明日もわからない暮らしじゃあまりにもかわいそうだ。もっとちゃんと生きられるようにしないと・・・・」
そう言って、あっさりと否定した。

「でも、和美ちゃんが兄ちゃんと一緒に居たいって言ったら?」
「しつこいぞ。そんな事あるはずない。ここじゃ、まともな暮らしは出来ない。それに、もし、そんな気持ちを持っていたって、俺は断る。不幸になるだけだし、俺はあいつの命を救っただけで、人生まで背負い込むほどの気持ちはないさ。俺の気持ちとかじゃなくて、お前は、まず、和美の気持ちをしっかり受け止める事が必要なんだ。」
そう言って、刺身を口に入れて焼酎で流し込んだ。
そして、ちらっと和美の隠れている風呂場のほうへ視線を投げたのだった。

和美は動揺した。銀二の言葉がショックだった。そのせいで、銀二が自分の存在をわかって、わざわざ言い聞かすように話したことには、気づかずにいた。
和美は、一通りの二人の会話を聞いてしまい、今度は自分に答えが求められる事を悟った。
和美は動揺を抑えきれないまま、セツさんの家に戻っていった。

2-6-5:兄弟 [峠◇第2部]

しばらく、沈黙が続いた後、ふと銀二が口を開いた。
「なあ、鉄三。一緒になるっていうが、その先のことはどう考えてるんだい?」
「その先って?」
「仮にだ。和美が承諾したとして、お前と幸一と一緒に暮らすとなれば、村田屋にいるわけにはいかないだろう。」
「え?どうしてだい?」
「どうしてって。お前は村田屋の娘と結婚したから、あそこに居られたんだろ。和美と所帯を持つなんて、村田屋の夫婦が承諾するとは思えない。幸一は、裕子の子ども。村田屋にとっちゃ、大事な孫になる。いくら、世話をしていたからっていっても、嫁となれば話は別だ。それなら、幸一を置いて、出て行けって事にもなりかねない。」
「そうか。アキさんも居るし、すんなり承諾してくれるわけはないか。」
「村田屋を追い出され、幸一も居ないんじゃ、お前と夫婦になる理由がないじゃないか。」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「なあ、鉄三。さっき、お前は和美を幸せにする、一生守るって言ったよな。だったら、どうしたら和美が幸せになれるのか良く考えろ。そして、お前に何が出来るのか、よく考えるんだ。ただ、惚れたから一緒になりたいってのは、独りよがりの考えだ。天国の裕子さんだって、それじゃあ納得しない。」
「そうか・・・うん。そうだね。」
鉄三は、銀二に言われ、自分の浅はかさを痛感した。

「良いか、鉄三。お前は、和美も幸一もちゃんと生きていける方法を考えなくちゃダメだ。みんなで暮らすには、それなりの稼ぎが必要だ。今の世の中、金がなくても良いなんて暮らしはできねえ。」
「ああ、もちろん、身を粉にして働くつもりだ。」
「働くっていったって、どこで働くつもりだい?」
「そりゃあ、村田屋・・いや・・どこか働けるところを探すさ。」
「何か、当てはあるのかい?」
銀二にそう問われて、答えに困った鉄三は、少し投げやりになって答えた。
「そりゃあ、今はないが、しっかり探せばなんとでもなるさ!」
「何とかなるって・・」
「ほら・・今、徳山なんかはさ、コンビナートとかいうのが出来るっていうんで、景気も良いし、港の仕事なら体さえ丈夫ならできるしさ。」
「お前はダメだなあ。料理人になりたいって言ってたじゃないか。お前は夢を捨てるのか?それで、和美も幸一も幸せになれると思うのか?大体、港の仕事を甘く考えてるだろ?そういうのはダメだ。お前も和美も幸一もちゃんと生きる道を探すんだ。」
「そんなこと言ったって、何の当てもないじゃないか。村田屋にいたって大した料理人にはなれないし、もう諦めるさ。」

投げやりになっている鉄三を見ながら、銀二は、言い聞かせるように話した。
「まあ、いいさ。裕子さんの1周忌まではまだ日がある。それまでにしっかり考えるんだ。どうしたら良いかをよくよく考えるんだ。そして、和美に話すのは、1周忌が終わってからにしろ。それは、裕子さんへの供養だからな。」
「わかった。必ず、幸せにする方法を考えるよ。」

「なあ、鉄三。俺は、時々考えるんだ。幸せっていうのはどういうことかってな。お前はどうだ?」
「いや、よくわかんない。・・・そういう兄ちゃんは、今、自分は幸せだって思ってるのかい?」
「どうだろうな。・・・こんなオンボロ小屋にひとりで住んでいて・・金もない、その日暮らし・・なんて不幸なんだって思う人もいるだろうなあ。」
「そう言えば、和美を迎えにいった大木病院。すっごくでかい家で、お手伝いさんもいて、立派な暮らしだったなあ。羨ましい限りだったね。きっと、和美も、あそこなら、何不自由なく暮らせたはずだな。あれも幸せな生き方だったかもしれないね。」
「そうだろうな。でも、和美はそんな暮らしが幸せだとは思わなかった。だから、ここへ戻ってきた。どうして戻ってきたんだ?」
「そういえば、幸一に会いたいって・・・」
「じゃあ、幸一が傍にいれば幸せになれるのか?」
「そうじゃないっていうのかい?」
「俺は違うと思う。傍に居るだけじゃダメなんじゃないかってな。」

鉄三は、銀二の話を聞いていて、昼間、龍厳寺の住職と交わした禅問答のようなやり取りを思い出していた。
「じゃあ、兄ちゃんは何が幸せだって考えてるんだい?」
「まあ・・それは、お前が考える事だろう。」
銀二は、そう言って、立ち上がり、片付け始めた。鉄三も、コップや皿を台所に運んで、一緒に洗った。

一通り綺麗になったところで銀二が、
「明日、朝早く出掛けなくちゃいけない。そろそろ寝るとしよう。」
「俺も、明日は仕込みがあるから、帰るよ。」
「そうか。・・・ああ、鉄三、俺、しばらく留守にするからな。そうだな、1周忌の後くらいには戻れると思う。よく考えて、和美ともじっくり話し合うんだぞ。帰ったら、また、話をしよう。」
「わかった。じゃあ、おやすみ。」

鉄三は、銀二の家を後にした。通りを歩いてすぐのところにあるセツさんの家の前で、一旦、足を止めたが、まだ、和美に話すべきときではないと考え、また歩き始めた。

鉄三は、暗い夜道を歩きながら、銀二の言葉をひとつひとつ思い出していた。
兄は誰よりも和美の幸せを願っている。和美もおそらく兄とともに生きたいと願っているだろう。しかし、兄はそんな和美の思いを気づいていながら、敢えて、そうではない生き方を望んでいる。自分の決意を聞いた兄が、鉄三と和美と幸一の幸せを考えた末の言葉に違いない。そして、この先は、自分自身に全てが委ねられたのだと理解した。


2-7-1:貨物船山陽丸 [峠◇第2部]

 翌朝、銀二の姿は、徳山の港にあった。知り合いを尋ね、港湾事務所にいた。
「やあ、銀二さん。お久しぶりです。お元気でしたか。」
ヘルメットを被り、灰色の作業着姿の男が、銀二に挨拶をしてきた。名札には、港湾監督官の肩書きが付いていた。
「ああ、おはようございます。済みません、突然お仕掛けて、お願い事に来てしまいました。」
「いえいえ、良いんですよ。で、ようやく、何か、私にお返しできる事が見つかりましたか?」
少しおかしな質問の仕方だった。
「そんな!・・申し訳ありません。・・ちょっと用事で名古屋に行きたくて。でも、せっかくなので、貨物船の仕事をさせてもらいながら、乗せていってもらえないかと思いまして。」
「え?名古屋に。なら、客船で行けばいいじゃないですか。席なら私が手配しますよ。」
「いえ、そんなのは分不相応です。のんびり旅行ってわけじゃないんです。できれば、機関室の仕事を手伝わせてもらって、ついでに乗せてもらえればいいんです。ダメでしょうか?」
「本当にそれで良いんですか?・・それなら、もうすぐ出航する船は何隻かあるにはあるけれど・・・そうだ・・山陽丸の船長に頼んでみましょう。あの船なら、機関長も知り合いですから・・・一緒に行きますか?」
「はい。」
そういう会話を交わすと、二人は、埠頭桟橋へ向かった。途中、二人は、思い出話をした。
「あの時は助かりました。本当にありがとうございました。」
監督官が改めて礼を言っている。
「いえ、とんでもないです。ちょうど居合わせただけです。それに、この海で不逞な事をするのは見過ごせないですから。」
ちょうど2年ほど前に、銀二が、徳山の港に遊びに来た時、不審な漁船を見つけた。どうやら密輸をしている一味の船らしかった。その事を港湾事務所に通報し、船も追跡して、未然に犯罪を止める事ができた。その時の縁で、港の監督官とは懇意にしていたのだった。

「さあ、この船です。ちょっと待っていてください。」
監督官はそう言うと、桟橋を渡って、船の中に入っていった。10分ほどして、船から出てきて、
「OKだそうです。機関長も手伝いが欲しかったからと言っています。」
「ありがとうございました。」
銀二は礼を言って船に乗り込んだ。すぐに、機関員らしき男が銀二のところに来て、機関室に案内してくれた。

「済みません。お世話になります。福谷銀二と言います。よろしくお願いします。」
そう挨拶すると、轟々という騒音の中から、機関長らしき男が現れた。歳は50くらい。その男は、伸びた髭を触りながら、黒い丸眼鏡の中から鋭い眼でじっと銀二を見た。そして、
「ああ、人手が足りないからちょうどいい。そこに、荷物をおいてすぐエンジンの点検をしてくれ!付いて来い!」
そう言われて、機関室の棚にカバンを放り投げて、すぐに、機関長のあとを付いて行った。

機械室の中は、轟音と油の臭いと熱気が充満していた。ところどころ油で滑りやすくなっている鉄階段を下りると、大型の2基のエンジンの前に着いた。上の調整室よりさらに轟音が響いている。もう、普通の声では会話が出来ない状態だった。

機関長は叫ぶような声で
「もう30分ほどで出航だ。今、最後の調整をしてる。・・お前、エンジンの事は判るのか?」
銀二も、負けないくらいの声で答える。
「昔、修理工をやっていました。今の漁師で、自分の船のエンジンは直せます。」
「上等だ。ほれ、工具はここにある。まあ、ざっと状態を見ておけ。良いな。」
機関長はそういうと調整室に上がって行った。

大型の貨物船といっても、構造はそれほど難しくない。一通り、点検を始めた。
すると、エンジンの裏側から、一人の男が出てきた。銀二はその顔を見て、
「え?まさか・・ケン坊か?」
「そうだよ。久しぶり。こんなところで逢うなんて。何年ぶりかな?」
偶然であったその男は、向島の同級生で、吉村健二という男だった。
「ああ、小学校の時以来だからな。・・。だけど、お前、確か、親父さんの転勤で、広島へ転校したよな。」
「まあ、いろいろあってな。どうしても、船乗りになりたくてね。いや、銀ちゃんの親父さんに憧れてさ。それで・・勉強をして機関士の試験を受けたんだ。それからずっとこの仕事さ。」
「そうだ、お前は機械いじり好きだったもんな。」
「いや、それだって、銀ちゃんに教わったようなもんだしね。」
「でも、こんなところで会うなんて。」
「・・で、銀ちゃんこそ、こんなところで・・・この船で働くのかい?」
「ああ、本当に迷惑を掛けるんで申し訳ないんだが、どうしても名古屋に行きたくてね。それで、船の仕事をしながら連れて行ってもらえないかと思って。」
「ふーん。そうかい。だが、ここの機関長、結構厳しいからなあ。俺なんか、しょっちゅうどやされてるんだぜ。」
「いい事じゃないか。怒られるってのは幸せなこった。怒られるのは、期待されてる証拠なんだ。きっとモノになるって機関長も思ってるはずだよ。」
「そうかなあ。まあいいさ。楽しくやろうぜ。」
そんな会話をしている時、銀二の顔色が変わった。
「なあ、ちょっとこのエンジン、音が変じゃないか?・・さっきから・・ほら・・何か悲鳴みたいな音が・・・やっぱりそうだ。ちょっと機関長を呼んできてくれないか?」
そう言われて、ケン坊は機関長を呼びに行った。
しばらくして、機関長がやってきた。銀二は、エンジン音を再度確認しながら、
「忙しいのに済みません。エンジンの点検をしていたんですが・・・何だか音が気になるんです。一度バラシた方が良いんじゃないかと・・。」
「ちょっと待ってくれ。そのエンジンは、昨日ばらして調整したばかりだ。何ともなかったはずだ。それに、もうすぐ出航時間だ。今からエンジンをばらすなんて無理だ。時間がない。」
「そうですか。ですが、このままだと焼きついてしまうかもしれない。途中、エンジンが故障するかもしれない。・・・そうだ、20分くらい時間が取れませんか?頭をはずして中を見るだけでもいいんです。」
確かに、このエンジンは故障が多かった。だが、初めての素人にそう言われて、機関長はすんなり認めるほど余裕は無かった。
「大丈夫だ。さあ、出航だから、起動してくれ。」
銀二は、それ以上は言い出せなかった。仮に、そうだとしても、いきなり現れた素人の話を聞くほうが無理とわかっていた。
貨物船 山陽丸は、まもなく港を離れた。

途中、広島の港に寄港して荷物の積み下ろしをした。5時間ほどの停泊だった。

その間に、健二は、「ちょっと用事を済ませてくる」と言って、船を降りた。
銀二は、特に用もないので、機関室に残った。やはり、あのエンジンが気がかりだった。出航前と同じように、エンジンの音を確認した。さっきより更にキンキンと高音が響くようになっていた。おそらく、燃料ポンプとシリンダーのどちらかに問題があるようだった。時間があるのでばらして、中を見たかったが、勝手には出来ない。それに、何とか乗船を許された身であり、途中で降ろされるかも知れなかった。

3時間ほどして、船に戻ってきた健二は、少し様子がおかしかった。それに、頬に殴られたような痣も作っていた。
銀二が尋ねても、『ちょっと酔っ払いに絡まれただけで、大事無い・・』としか言わなかった。

2-7-2:故障 [峠◇第2部]

故障
広島を出て、呉の沖を抜ける水路を航行中に、事故が起きた。
銀二が指摘したエンジンが、突然、オイルを噴き始めたのだった。

機関室の中は機械油が飛び散り、銀二も健二も油塗れになった。機関長が慌てて降りてきた。
「第2エンジンの上部からオイル漏れです。先ほどから調整していますが止まりません。どうしましょう。」
健二が機関長に助けを求めた。
「このままでは、第1エンジンもダメになります。一旦、エンジンを止めて修理しましょう。」
銀二が、修理を提案した。だが、機関長は、
「今、エンジンを止める事はできない。ここらはかなり狭くて流れもきつい。ここを過ぎるまでは持ちこたえさせなくちゃならん。」
そうしているうちにも、油を噴いているエンジンがおかしな音を立て始めていた。このままでは第1エンジンも故障するのは目に見えていた。
「なら、ほんの1分エンジンを止めて、第2エンジンだけギヤだけでも外しましょう。」
「だが、推力がかなり落ちてしまう。」
「大丈夫です。今の時間なら、潮の流れが収まるはずです。」
「どういうことだ?」
「いや、このあたりの潮は、必ず、西と東で変わります。今、月はどっちにありますか?」
「西の方角だが・・」
「それなら、もうしばらくで潮止まりに入ります。そうすれば、わずかの時間なら、船は水路を外れるほどにはなりません。そして、第1エンジンで最小出力で、流れに飲まれない程度の推力を保てれば、時間が稼げます。」
「だが、第1エンジンだけでは20分が限界だ。」
「大丈夫です。20分あれば修理できます。」
「良し!操舵室と掛け合ってみる。」

船内電話を取ると、機関長は船長に状況を説明した。
操舵室で、しばらくやり取りがあったが、航海士からは、「銀二の言った事は正しい。もうすぐ潮が止まるから大丈夫だ」と了解の連絡が来た。

すぐに、修理を始める事にした。銀二は、工具を持ってエンジンの分解を始めた。
シリンダーカバーを外し、内部に、電灯の光を当ててみると、シリンダー上部に焼けた痕が見つかった。燃料噴射口から充分に燃料が供給されていない事がわかった。
「健二!ちょっとこっちを押さえてくれ。熱くなってるから気をつけろ!」
「ああ、カバーごと押さえればいいんな。バルブはどうだ?」
「バルブへ繋がるパイプが腐ってきてる。交換部品はあるか?」
「調整室にあると思うが・・機関長に・・」
その時だった。急に船が大きく傾いた。潮の流れが変わったのだ。
健二は押さえていたカバーを持ちこたえれなくなって、つい離してしまった。ジュウっという音がした。見ると銀二の左腕がエンジンとカバーの間に挟まっている。
「銀二!大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。それより早く持ち上げてくれ。それほど俺も我慢強くない!」
カバーを持ち上げると、左腕は火傷をしていた。しかし、銀二はいっこうに構わず、修理を続けた。機関長が交換のパイプを持ってきた。すぐに取り付け、燃料噴射弁の調整を行って、正しい状態に設定しなおした。
もう一度ギアを繋ぐと、今まで以上に静かに調子よくエンジンが動き始めた。時間はちょうど20分だった。
健二は、ただ見とれるだけだった。そして、
「銀ちゃん、腕は大丈夫かい?」
「ああ、これくらい大丈夫さ。」
そう言って、腕を振り回したが、さすがに痛みが襲ってきたのか、すぐにうずくまってしまった。
機関長は銀二を抱えて、救護室に連れて行った。救護室の医務員は火傷のキズを見て驚いた。
「よく意識が無くならなかったですね。激痛が走ったでしょう?」
そう問われても、銀二はまた「大丈夫」と言うだけだった。

包帯姿の銀二が機関室に戻ってきた。
「どこで覚えたんだ?」
待ち構えていた機関長は、感心しきりにそう言った。
「いや、昔、修理工場で働いていた時に何となく覚えたんです。まあ独学ですが・・・。」
「そんな事はない。その腕があれば、どこの船でも雇ってくれるぞ。」
「いや、気楽な漁師のほうが俺には向いてるんです。」

銀二の噂は、操舵室や貨物室にも知れ渡った。皆、銀二の顔を見に、機関室にやってきた。船長も、港の監督官から頼まれて、断りきれずに乗船させたものの、これだけの働きをするとは思っていなかったので、改めて、船長自ら挨拶に来た。そして、今度また、船に乗りたくなったらいつでも連絡してくれればいいからと言ってくれたのだった。

名古屋港に着いたのは3日目の昼過ぎだった。
「午後7時には出航するから、それまでには戻ってくるようにな。」
「ありがとうございます。必ず戻ってきます。済みません。じゃあ行ってきます。」
「銀ちゃん、待ってるよ!」

銀二は、カバンひとつ持って船を下りた。そして、港のバス停から名古屋駅に向かうバスに乗った。
名古屋駅に着くと、コンコースを抜け、西口へ向かった。そこから、まっすぐ、料亭『松屋』まで急いだ。

2-7-3:料亭『松屋』 [峠◇第2部]

 銀二は、『松屋』の前に着いて気がついた。油に塗れた洋服のまま、来てしまった。こんな身形じゃ、快く迎えてもらえないかもしれない。どうしようか迷っていたところに、ハイヤーがやってきた。二つほどクラクションを鳴らすと、その車は『松屋』の前で停まった。
「あら、まあ、銀ちゃんじゃないの?どうしたの、突然。」
そう声をかけながら、車から降りてきたのは、松屋の女将だった。
「ご無沙汰してます。その節は・・」
と銀二が挨拶しようとしたら、
「何、他人行儀な挨拶してんのよ。さあ、入って!ちょっと、誰かいる?」
そう女将が言うと、店の中から数人の仲居が飛び出してきた。
「この人はこの店の恩人なの。決して粗相のないようにね。さあ、お部屋にご案内して。・・あ、それより、お風呂に入る?何だか、仕事を終えたばかりって感じだから。さあさあ、遠慮はいらないから。ほら、あんたたち、ご案内して!」
そう言われ、案内されるまま、銀二は店の中に入った。仲居の案内で、店の奥にある大浴場に行った。
3日ぶりの風呂だった。エンジンの故障で負った火傷がまだそのままで、湯船にゆっくり浸かる事は出来なかったが、湯をたっぷり浴びて汚れを落とした。風呂から上がると、若い仲居が待っていた。仲居は、銀二の火傷を見て慌てた。
「そのキズはどうされたんですか?まだ、傷むんじゃないんですか?」
そして、キレイな包帯を取りに行き、優しく巻きなおしてくれた。着替えが用意されていた。別の仲居が、部屋に案内した。

部屋に入ると、女将が待ち構えていた。
「済みません。突然押しかけて、お風呂まで入れてもらっちゃって。」
「また、他人行儀な事、言ってないの。それで、何か恩返しできそうな事持ってきてくれたの?」
「いや、そんなつもりじゃなかったんですが・・・」
「じゃあ何?近くに来たから寄っただけっていうの?わざわざ、向島から名古屋まで遊びに来るほど銀ちゃんは遊び人じゃないでしょう?」
「済みません。実は、ひとつお願いがありまして。」
「良いわよ。銀ちゃんが言うことだったら何でも・・この店が欲しいって言うんなら、上げても良いわ。」
「そんな、自分が欲しいものなんてありません。いや、実は、弟の事なんです。」
「弟さんって・・ああ、確か、鉄三さんよね。料理人の修行中だったわね。以前に一度、村田屋さんでお話した事があるわ。けっこうしっかりした料理を作ってたわね。主人も褒めてたわ。」
「ありがとうございます。・・・それで、無理を承知でお願いなんですが、弟をこちらで預かってもらえないでしょうか?出来れば、ここで修行して一人前の料理人にしてやって欲しいんです。」
「そんな事、うちは構わないけど・・何か事情があるの?」
「ええ、実は・・・」
銀二は、鉄三と和美の話を女将に洗いざらい話した。

一通り、事情を聞いた女将は、あっさりと応えた。
「良いわ、よくわかったわ。良いでしょう。ここで住み込みで、3人とも預かりましょう。」
「ありがとうございます。一生恩に着ます。こちらなら安心なんです。・・・ただ、もうひとつお願いが。」
「何?まだあるの?全部引き受けるわよ。何?」
「こちらにお世話になるのは、俺がお願いしたというのは伏せておいて欲しいんです。数日後に、弟が俺のところに相談に来ます。その時、弟からこちらへお願いするよう仕向けます。一旦、断って欲しいんです。」
「あら、何故?」
「いえ、弟が本気で真面目に働く気持ちがあるか試したいんです。断られても食い下がるようじゃなきゃダメなんです。女将さんも、弟の気持ちが本物かどうか試していただきたくて・・。」
「そうね。中途半端な気持ちじゃ、いずれダメになるだろうから。良いわよ。しっかりそのお役、務めましょう。」
「ありがとうございます。」

話が終わったところで、女将は仲居を呼んだ。そして、料理を運ぶように言いつけた。
しばらくすると、料亭ならではの見事な料理が運ばれてきた。
「さあ、召し上がって。銀ちゃんはいつも他人の心配ばかりしてるんだから。たまには贅沢も良いものよ。さあ。」
そう女将に勧められたが、銀二はその料理を見て、
「女将さん、こんな料理、俺には、もったいないです。・・・それに、すぐに戻らなくてはいけないんで。ここに来るのに、知り合いにお願いして貨物船に乗せてもらってきたんです。」
「え?電車できたんじゃないの?道理で、油まみれだったわけね。」
「電車なんてどうも性に合わないんです。ぼーっとしてるのは苦手で・・船ならいろいろ仕事もありますし・・」
「何なのよ。突然来てお願いだけしてとんぼ返りなの?主人だって、夜にならないと戻れないのに。」
「本当に済みません。・・・それならって訳じゃないんですが・・・この料理、持ち帰れませんか?船で一緒にすごした奴らに食べさせてやりたいんです。こんな店に来れるような身分じゃないですし、礼になったお返しにもしたいんで。・・・わがまま言って済みません。」
「あら、お安い御用よ。何時なの?帰る時間は。」
「夜7時には出航なんです。」
「ああ、そうなの。じゃあ、まだ時間はあるわね。あなたはこの料理を食べてちょうだい。すぐに、別のお重を用意するわ。それから、港までは、うちの車で送っていくから、それまでゆっくりしてって。判ったわね。」
「ありがとうございます。本当になんてお礼を言ったら良いのか・・・。」
「何を言ってるのよ。あなたから受けた恩と比べればこんな事は大したことじゃないわよ。また、いつでも遊びに来てよね。」
銀二は、目の前の料理に少し手をつけた。どれも美味しかったが、それよりも、女将さんの優しさが有り難かった。

『松屋』の女将は本当に優しい人だった。まだ、銀二が二十歳の頃、向島で出会った時は、切羽詰って夫婦で心中するつもりだった。銀二と浜で会い、心中するのを引き止められ、心機一転、夫婦でやり直して、店をここまで大きくしたのだ。銀二との出会いがつないだ今の人生。そう思うと、松屋の夫婦は、銀二を命の恩人と思っているのだった。そして、自分の欲で無く、他人の幸せのために、奔走する銀二を知って、ますます銀二の役に立てる事なら何でも叶えたいと思っているのだった。

6時近くになって、銀二は帰り支度を始めた。女将さんは重箱を三つ、風呂敷に包んで銀二に手渡した。そして、運転手に言って、港まで送らせた。


2-7-4:帰り船 [峠◇第2部]

港には6時30分には到着した。
山陽丸の乗組員は、皆、甲板に出て、銀二が帰ってくるのを待っていた。
「銀ちゃん、お帰り。間に合わないかと思ってたんだよ。」
健二が乗船口で待っていた。
「済まない。ああ・・これ、名古屋の料亭、松屋の料理だ。少ないけど、手土産だ。」
そう言って、風呂敷包みを健二に手渡した。

7時の定刻に船は出港した。
機関室の調整室には、機関長と健二と銀二が居た。松屋でもらった重箱を開けた。
いずれも見事な料理が詰まっていた。
「これは上等な料理だなあ。なんだかもったいないな。」
機関長はそう言いながら箸をつけた。健二も、遠慮がちに箸をつける。
「高かったんじゃないのか?」
健二が訊いたが、銀二は『知り合いだから』とそれ以上のことは言わなかった。

しばらくして、船長が機関室にやってきた。
滅多に顔を見せる事は無かったが、往路のエンジン故障の事もあり、すっかり銀二に惚れこんでいて、酒を携えてやってきたのだった。
「まあ、これでも飲んでくれ。航海中だから、深酒はダメだぞ。少しにしといてくれ。」
そう言ってから、そっと銀二を甲板に呼び出した。

「この前は本当に助かった。ありがとう。」
「いえ、船に乗せていただいて、お役に立てて良かったです。」
一呼吸置いてから船長が、
「ひとつ頼みがあるんだが・・聞いてくれないか?」
と切り出した。
「実は、機関員の吉村の事なんだが・・・・・君も見たと思うが、広島の港で何か問題を起こしているようなんだ。喧嘩騒ぎではなさそうなんだが・・誰かに脅されているような感じで。気になって尋ねたんだが、何にも言わない。それどころか、給料の前借を言い出したんだ。今までそんなことは一度もなかったしな。君は昔からの友人だそうだし、少し事情を聞いてくれないか。何か助けてやれることがあるならと思っているんだが・・」
そう聞いた銀二も、
「ええ、実は気になっていたんです。あの後も、時々考え込んでいる様子もありましたし、元気が無い。何か抱えてると思います。それとなく聞いてみましょう。」
そう約束して、船長とは別れ、機関室に戻っていった。

機関室では、健二が、酒と肴で良い調子になっていた。
機関長は、仕事中だからと酒は飲まず、少し重箱に箸をつけた程度だった。そして、銀二が入っていくと、「健二の相手を代わってくれ」と言い残して、機械室へ下りていった。

銀二が酒を二口ほど飲んだ頃、健二が、
「済まん。銀ちゃん、何にも言わずに金、貸してくれないか。頼む!」
そう言って、土下座をした。やはり何か問題を抱えたんだと確信した銀二は、
「ああ、貸して遣れるものならいくらでも貸してやる。だけどな、事情もわからずじゃあ困る。俺にも貸すだけの理由がないと・・」
「そうだよな。」
健二は、しばらく考えていたが、
「今の話は忘れてくれ。もう良いんだ。どうせ、借りたって返せる当てはないし・・」
と言ったところで、いきなり涙を零し始めた。
「おいおい、一体どうしたんだよ。まあ、訳を聞かせてくれないか?」
と銀二が促すと、健二は、事の次第を話し始めた。

健二は、もともと広島に住んでいた。
山陽丸の乗組員として乗船したのはまだ半年前くらいだった。それまでは、港湾の日雇いの仕事をやっていた。その頃は、毎日、仲間たちと夜の街へ繰り出しては飲んでばかりいた。そのうち、仲間から聞いて、賭博場へ出入りするようになっていった。最初は、結構儲かった。
味を占めて何回か通ううちに、ある夜、大負けした。持ち金だけでは足らなかった。同じ賭博場にいた、丈治という男がすぐに金を融通してくれた。約束した1週間後に金を持っていったら、貸した金はそんなはした金じゃないと言い出した。証文もある、返せないなら出るとこへ出ようじゃないかと脅してきたというのだった。往路の際に広島に立ち寄った時にも、船まで押しかけてきていたというのだった。ほほの痣はその時に殴られたものだった。

「そんな馬鹿な話があるか!きっとかもにされたんだろう。大体、賭博場に行くなんてどういう了見なんだ!」
と銀二は怒った。
「そう言ってもさ、相手はヤクザみたいなんだ。理屈が通じる相手じゃない。」
「当たり前だ!だからって、みんなから借金したって、どんどん巻き上げられ、金が取れないと思ったら今度は命まで取られるぞ。どうするつもりだよ。」
「だからって、どうしようもないじゃないか!」
健二は、泣きじゃくりながら、酒を煽った。

銀二は、一通りの話を聞いて、ふと思い出したことがあった。そして、健二に、
「ひょっとしたら、どうにかなるかもしれないぞ。その男の名は丈治って言うんだな?」
「ああ、3人くらい子分みたいな奴も一緒に現れる。」
「で、そいつの歳は?」
「ああ、まだ、俺より若いくらいかもしれない。子分の一人は、子どもみたいな奴だったし・・」
「そいつの顔はどんなだい?」
「どんなって言われても・・・頭は短く切っていて、そうだ、右の眉毛にキズ痕があった。何でも昔の喧嘩のキズだって聞いたことがある・・」
「そうかい。」
そこまで聞いて、銀二は何か考えがあるようだった。

2-7-5:広島の港 [峠◇第2部]

山陽丸は広島の港に入った。
銀二は、港に着く前に、健二に、
「出航までには帰ってくる。お前は船から一歩も出るな。丈治って奴はきっとここへは来ない。じゃあな。」
そういい残して、さっと広島の町へ出て行った。

銀二は、広島の町はあまり知らなかったが、駅裏辺りで、ある男を捜してまわった。探していた男はすぐに居場所がわかった。

居場所と聞いた雑居ビルの前に来た。階段の上り口には、柄の悪そうな若い男が二人立っていた。
銀二はビルに入ろうとすると、肩を掴まれ、前後ろを挟まれて制止された。
「何者じゃ!」
威嚇するような口調でそう言った。銀二は、
「ここは、山田勝次さんの事務所でしょう。済まないが、通してくれないか?」
「兄貴を知っちょるんなら、益々通すわけにはいかん。」
胸座を掴んで、さらに怖い目つきで凄んできた。
「判った。じゃあ、銀二が会いに来たって伝えてもらえないかな。」
銀二は落ち着いて答えた。
「ちょっと待っちょれ!」
一人の若い男はそう言うと事務所に上がっていった。しばらくして、
「すんません。兄貴の友人とは知らんかったもんじゃけえ・・・さあ・・・どうぞ!」
態度をころっと変えて案内した。

事務所には、山田勝次がソファに腰掛けて待っていた。銀二が入ると、
「おお、良くここがわかったな。やはり、ただもんじゃない。相変わらず度胸もあるようじゃ。」
そう笑顔で迎えた。銀二は、丁重に挨拶した。
「済みません。この前はありがとうございました。本当に助かりました。」
「まあ、いいって・・・特別なことをしたわけじゃない。こっちも助かったんじゃから。で、なんだい。困った事でも起きたか?」
「ええ、実は、お願いがありまして。」
「なんだい?金か?」
「いえ、実は、俺の友人がどうも広島で博打で借金を作って困ってるようなんです。ひょっとして勝次さんのところかと思って伺ったんです。」
「そいつは堅気かい?」
「ええ、船乗りです。」
「じゃあ、違うなあ。俺んとこは、そういう堅気は相手にはせん。金を貸すのはもちろん、賭博には、堅気は巻き込まない。貸した相手はなんて名だい?」
「ええ、確か、丈治って言ってました。右の眉にキズ痕があるとか・・」
「ああ、また、あいつか。こないだも、そいつから借りた相手が自殺したって聞いたよ。・・そいつは極道じゃねえよ。・・・小ずるい不良だ。最近目立つようになってきたところだ。そろそろ焼きを入れた方がいいとは思っていたんじゃ・・・・まあ、任せとけ・・この辺に居れん様にしちゃるから。・・・おい!お前ら、すぐ丈治を連れてこい。居場所はわかっちょるのう!」
勝次はそう言うと、近くに居た若い衆が二、三人,急いで部屋を出て行った。

「で、どうしてる?村田屋だったかな?奴の女はまだ居るかい?」
「ええ、随分大人しくなったようです。まあ、性分ていうのはすぐには直らないでしょうが・・・そう言えば、あれから、光男はどうなりました?」
「まあ、それは聞かないほうがいいだろう。・・・どうだ、一杯やるか?舶来のウイスキーを手に入れたんだ。いける口だろ?」
「ありがとうございます。じゃあ、一杯だけ。友人も船で待ってるんで・・・早めに帰ってやらないと・・」
「おお、ますます気に入った。義理を欠いちゃいけねえからなあ。じゃあ一杯だけ飲んでいけ。おれも友人の一人だからな。」
そう言って、勝次は嬉しそうに、グラスとウイスキーを取り出して、銀二に勧めた。
グラスのウイスキーを飲み干したくらいの時間で、若い衆が、丈治を連れてきた。すでに、何発か殴られたようで、人相が変わっていた。
「こいつが丈治だ。学生だったらしいが・・何を思ってか知らないが、悪事を重ねてる。極道には極道の決まりがある。堅気の癖に極道のまねをしてるんじゃねえぞ!」
そう言うと、銀二の目の前で、数発殴りつけた。そして、
「今度、同じような事が耳に入ったら、命は無いと思え!良いな!」
そういうと、丈治は、ただただ、頷くだけだった。よほど怖かったようで、失禁している。
「そこいらの川にでも投げとけ!」
勝次はそう若い衆に言うと、来たときと同じように、丈治を数人で抱えて階段を下りて行った。


銀二は、勝次の子分に車で港まで送ってもらった。さすがに、船近くまで来られると気が引けて、港入り口辺りで車から降ろしてもらった。
子分は銀二に、「兄さん、お元気で!」と深々と頭を下げて見送ってくれた。銀二はちょっと怖く感じた。そして、やはり、あの世界には二度と足を踏み入れないほうが無難だと思ったのだった。

船に戻ると、健二が心配顔で待っていた。
「銀ちゃん、どこ行ってたんだ?」
「ああ、知り合いのところさ。もう丈治って奴はお前の所には現れないはずだ。借金も大丈夫。安心していいんだ。」
「一体・・どういうことなんだ?」
「俺の知り合いが、丈治のことを知っていて、あちこちで同じような手口で人を騙してるらしい。その人が、きっちり話をつけてくれた。ちょっと怖い人だがね。まあ、心配要らないさ。・・・まあ、これに懲りて、博打には二度と手を出すんじゃないぞ。その人も、そう何度も助けてはくれないからな。・・良いな。」
「本当なのか?・・・済まない。もう懲りたから・・・本当にありがとう。」
健二は、銀二の手を握って泣いて礼を言った。
甲板の上から、船長がその様子を見ていた。銀二は船長に気づいた。そして、大きく頷いて、もう大丈夫と伝えた。

銀二は、向島を出てちょうど1週間経ってから、徳山の港に帰ってきた。
山陽丸の船長や機関長、健二、乗組員のみんなに、お礼と別れの挨拶をして、故郷向島へ向かった。


2-8-1:母子の再会 [峠◇第2部]

 鉄三は、銀二の家を出て、村田屋に戻った。寝床に入っても、銀二からの宿題をずっと考えていた。
うとうとしているうちに夜が開けた。朝の仕込みに入る時間だったが、頭から宿題が離れない。もやもやした気分のまま、朝の仕事をこなした。
和美が居なくなってから村田屋は急に客足が途絶えたようだった。知らぬ間に、和美は、村田屋の看板娘になっていたようだった。その様子は、村田屋の主人も奥さんも気付いていたのだが、言葉に出せないでいた。
アキは、和美を追い出した時には、幸一を一日中抱いたり背負ったりして熱心に世話をしていたのだが、3日目くらいからは、だんだん面倒に感じるようになっていた。

午後の片づけが終わって、鉄三はアキを見つけて、
「アキさん、天気も良いので、幸一と少し散歩をしてきたいんですが・・」
と言うと、アキは、どうぞとばかりに幸一を鉄三に押し付けて、
「ここのところ、ずっと一緒だったからね・・・・たまにはお父さんが面倒みるのも当然よね・・」
そう言うと、さっさと部屋に戻っていった。

鉄三は、幸一を連れて、港に出た。
もうすぐ1歳になる幸一は、歩くのも上手になり、身の回りのものにも興味を持つようになっていた。ちょっと目を離すと、危なっかしい事もあって、鉄三は幸一の手をしっかり握って、港を散歩した。

散歩をしながら、幸一を和美のところへ連れて行くべきかどうか迷っていた。いや、幸一と和美を会わせるのは約束でもあり、少しでも早くそうしなければと思っていたが、今、自分自身が和美と顔をあわせる自信が無かった。決意はしたものの、兄の宿題に答えが見つかっていない。それに、裕子の1周忌までは口にするなと兄からも止められている。どうしたものかと思いながら、だが、足は徐々に和美の居るセツさんの家に向かっていたのだった。

セツさんの家が見えるところまで来ると、セツさんが畑から手を振っていた。幸一が、セツさんに気がついて、ずんずんと歩いていく。仕方なしに、鉄三も幸一の後を追って歩いた。
「よく来たね。幸ちゃん。元気だったかい?おお、おお、大きくなった。」
セツさんが幸一を抱き上げながらそう言った。
「あの、和美ちゃんは?」
「ああ、おるよ。さあ、連れて行ってやりなさい。会いたがっておったから。」
そう言われ、鉄三はセツさんの家に入った。
「和美ちゃん。鉄三です。幸一を連れてきました。」
そう言うと、部屋から和美が飛び出してきた。
そして、一目散に幸一に駆け寄ると、強く抱きしめた。幸一も、和美のことがわかるのか、大きな声で笑っている。和美は何も言わず、じっと幸一を抱きしめている。まるで、我が子を慈しむ様に、じっと抱きしめたまま動かなかった。そのうち、幸一が嫌がるように身を捩る。その様子を見て鉄三は、
「和美ちゃん、幸一が苦しがってるよ。そろそろ離してあげたら・・」
「ああ・・ごめんなさい。幸ちゃん、会いたかった。元気だった。」
そう言って、幸一の顔をじっと見た。和美の目には涙が滲んでいた。

「アキさんも、以前にようには固執しないようになって、今日も、あっさり幸一をよこしたよ。これからは、毎日でも連れてくるからね。」
「ありがとう。・・・ずっと一緒に居られたらいいのにね・・・幸ちゃん・・・」

その言葉に、鉄三の心が動いた。自分の決心を打ち明けるべきではないのかと自問自答した。
鉄三の決意は、和美も知っている。だが、その事は口に出来ない。自分の気持ちもまだ定まってはいない。
和美は、幸一を抱っこして、浜に出た。
幸一は、浜辺で、貝殻を摘み上げたり、打ち上げられた海藻を踏んだり、波の動きを見ては喜んでいた。和美も、一緒になって、時間も忘れて遊んだ。
光りが眩く反射する瀬戸内の海辺に、本当の親子のようにはしゃぐ二人を、鉄三はじっと眺めながら、しばしの幸せをかみ締めていたのだった。
夕日が落ちる頃には、幸一は遊び疲れたのか、ぐっすり眠ってしまった。別れは辛かった。和美は、眠りこける幸一を抱いたまま、なかなか離そうとはしなかった。しかし、無常にも時間は来る。
「必ず、また、明日も連れてくるから・・・それまで辛抱してくれ。」
鉄三はそういうと、嫌がる和美から、幸一を引き離し、村田屋に連れて帰った。

そんな日々が1週間近く続いた。
幸一を連れてくるたびに、鉄三は、決心を実行するためにも、兄が出した宿題の答えを早く出さなければと、繰り返し繰り返し考えていた。
和美も、鉄三が一緒になってくれといつ切り出すのかとドキドキし、自分の心もまだ定まっていない事に不安を感じていた。ただ、屈託の無い笑顔で和美を求めてくる幸一との時間は、やはり自分にはかけがいの無い大切なものだと改めて感じていたのだった。そんな時間が重なるうちに、和美の中にも、一つの決心が固まってきていたのだった。


2-8-2:和美の決心 [峠◇第2部]

裕子の1周忌法要の日が来た。
村田屋の主人の考えで、法要は身内だけで静かに行う事にした。
龍厳寺の住職も、その方が良いだろうと言い、寺で静かに営む事になった。読経の後、それぞれに位牌の前で手を合わせた。

 鉄三は、目を閉じ、手を合わせ、裕子に向かって詫びた。そして、自分の決心をいよいよ和美に告白する事を報告した。
 村田屋の主人は、鉄三の様子に何かを感じ取っていた。そして、それは恐らく自分が考えている通りだろうと確信していた。

法要が終わり、寺を出ようとした時、住職が鉄三を呼び止めた。
「良い供養になったかのう?」
鉄三はその問いかけにきっぱりと
「はい。きっと裕子も判ってくれるはずです。これからの幸せこそが、裕子の望みですから。」
「そうか。それは良かった。先の長い人生じゃ。まだまだいろんな事が起きるだろうが、越えられない峠は無いからの。」
そういうと住職は、そばに居た村田屋の主人に向かい、深く頭を下げ、寺へ戻って行った。村田屋の主人も深々と頭を下げた。

鉄三は、法要の後、村田屋へは戻らず、幸一を抱いて、セツさんの家へ向かった。

「和美ちゃん!和美ちゃん!」
何度か呼びかけたが返事が無かった。留守のはずは無いと、浜へ出てみた。和美は、浜辺の流木に腰掛けて海を見ていた。

「和美ちゃん!俺と一緒になってくれ!」
鉄三は、前置きなしにそう言った。とにかく自分の決心をまっすぐに和美に伝えるべきだと感じたからだった。
和美は、何も言わなかった。鉄三は、もう一度、ゆっくりと、
「和美ちゃん。俺と一緒になって、幸一と3人で暮らそう。それが一番幸せになれるはずだ。」

和美はまだ何も言おうとはしなかった。
「幸一が生まれてから、ずっと、和美ちゃんは幸一の母親代わりで頑張ってくれた。幸一だって、和美ちゃんを母親だと信じてる。それに・・・おれもずっと一緒にいたいんだ。・・・裕子にはきちんと詫びた。許してくれるかどうかは判らないが、生きてる人間がしっかり幸せにならないと裕子だって安心できないはずだ。なあ、幸一のためにも、俺と一緒になってくれないか。」
もう、順番などどうでも良かった。とにかく、今の自分と幸一には、和美が無くてなならない事を精一杯伝えたかった。

和美は、鉄三と銀二があの夜話しあっていた中身を聞いて、鉄三の決心はすでに承知していた。だが、自分の中にある銀二を慕う心が、鉄三の愛を裏切る事になるのではないかと考えていた。鉄三の自分への想いがとても重く感じていたのだった。
いっそ、幸一の母親になってくれと言われていれば、すんなり承諾できたかもしれないとも考えていた。

鉄三は、何も言わない和美に戸惑っていた。やはり、銀二を慕う気持ちが強いという事なのだろうか。
そう感じた鉄三は、
「兄貴からは、了解を貰っている。和美ちゃん次第だって・・」
と付け加えた。それを聞いた和美は動揺した。自分の中では、もう銀二への想いを封印すべきだと決心していたのに、鉄三の言葉でまだ動揺する自分が情けなくも感じていた。
「銀二さんは関係ないわ!」
とっさに出た言葉は、自分の気持ちとは少し違っていた。慌てて打ち消そうとして、
「銀二さんと私は、鉄三さんが思っているような関係じゃないわ。それに、銀二さんは私の事なんて何とも思っていないはずよ。ただの小娘くらいにしか見てないんだわ。どんなに想ったって無理なのよ。」

そう口走ってしまった。和美は、自分の言葉に驚いていた。しかし、鉄三は、和美が銀二の事を好きなのは判っていた。だからこそ、兄にも相談してきたのだし、和美の言葉には動揺しなかった。
「判ってる。だからこそ、和美ちゃんはどうすれば幸せになれるのか、自分なりに考えてきたんだ。今のままではどうしようもないじゃないか。せめて、幸一を育てる事で、和美ちゃんが幸せを感じる事ができるなら・・・一緒に暮らせる道を考えようと思ったんだ。」
「ありがとう・・鉄三さん・・・でも・・・」
「良いんだ。俺は和美ちゃんに惚れてるから、一緒に居たいんだ。それに、和美ちゃんは幸一を育てる事で幸せを感じられる。それなら、3人一緒に生きていこう。・・それで良いじゃないか。・・和美ちゃんが兄ちゃんに惚れてても良い。いや、兄ちゃんに惚れない女なんて居ないさ。それも全部引き受けて、一緒に生きよう。俺、一生懸命、幸一と和美ちゃんを幸せにするために頑張るから。」
そう言うと、鉄三は、抱っこしていた幸一を和美に渡した。
和美は、幸一を強く抱いて温かさを感じていた。幸一は、無邪気な笑顔で和美を見ている。そして、小さい手で、和美の指を握った。確かな感触が、和美には愛おしかった。
「ごめんなさい。・・・今まで、私は幸せになんてなっちゃいけないって思ってたけど・・・でも、幸一と一緒に暮らせるなら・・・」
「そうしよう。」
「ありがとう。・・判りました。昔、銀二さんにも新しい生き方をすれば良いんだって言われました。・・そうね、幸一の母として生きていきます。」
その言葉を聞いて、鉄三は和美と幸一を包み込むように抱いた。

ちょうどその時、銀二の船が、向島沖を抜けて、家の前の浜を横切り、港に入ってくるところだった。銀二は船の上から二人の姿を見つけた。

2-8-3:3人の約束 [峠◇第2部]

銀二は港に船を停め、一目散に家に急いだ。予定より少し遅くなってしまった。もう1周忌法要も終わっているのも判った。鉄三はもう和美に話しただろうか、そう心配しながら家路を急いだ。

銀二が家に戻ると、鉄三と和美が幸一を抱いて家の前に立っていた。二人の様子を見て、和美が鉄三の申し出を承諾した事は聞かなくても判った。だが、二人から報告を受けるまでそ知らぬ顔をしていようと決めていた。そして、
「おお、いま帰ったんだ。さあ、幸一の誕生祝をやろう。」
「兄ちゃん、どこ行ってたんだよ。」
「まあ、いいじゃないか・・・・ああ、そうだ、セツさんに、誕生祝の料理をお願いしていたんだ。ちょっと呼んでくるから、卓袱台とか皿とか用意していてくれ。」
銀二はそう言うとセツさんの家に向かった。セツさんは、焼き鯛やチラシ寿司等を作っていてくれた。銀二と鉄三は、料理を運んできた。和美とセツさんは、卓袱台や皿や箸などを並べた。

一通り支度が整ってから、銀二が、
「よし、それじゃあ、幸一の1歳の誕生祝いを始めるか!さあ、酒、酒・・」
「ちょいと銀二!ほら、ちゃんと父親と母親から挨拶させないと・・」
「そうかい?そいじゃあ、鉄三、和美!」
そう言われて、鉄三が、
「幸一。1歳の誕生日おめでとう。これから、毎年、ちゃんとお祝いできるよう、父ちゃんもしっかり働くからな。」
と幸一に話した。和美も続いて、
「幸ちゃんが居るから、私も幸せなの。元気に育って、お母ちゃんにいつまでも幸せを感じさせてね。」
と言った。その言葉を聞いて、銀二には全てわかったのだった。セツさんはちょっと妙な顔をしたが、銀二が嬉しそうに二人を見つめているのを見て、おおよその見当がついたようだった。そして、セツさんは、
「幸ちゃん、あんたは生まれたときから幸せを運んできたんだよ。お父ちゃんとお母ちゃんを大事にするんだよ。」
と言ってくれた。
銀二は、その言葉を聞いて、
「うんうん・・それでいい。幸せになるんだぞ。」
と言いながら、涙ぐんでしまった。銀二は、手のひらで顔をごしごしやってから、
「さあ、良いだろう。酒、酒。ほら、上手そうな料理もたくさんある。食べようぜ!」
と言って、みんなに酒を注いだ。

しばらくは、幸一が生まれてから、ここまで大きくなった事を話題に、大いに盛り上がり、楽しい時間が過ぎて行った。
料理もほとんど食べ尽くすと、セツさんは、
「わたしゃ、そろそろ帰るとするよ。何だか久しぶりに料理の腕をふるって疲れたよ。・・ああ・・容れ物は明日にでも取りに来るからそのまましときな。」
そう言って、すたすたと帰って行った。

それからも、しばらくは陽気に酒を飲んでいたのだが、鉄三がいきなり正座をして、
「兄ちゃん、ちゃんと報告する。俺と和美ちゃんは一緒になる。和美ちゃんも承諾してくれた。」
と言った。和美は銀二の反応が気がかりだった。
銀二はそれを聞いて、
「うん。・・いや・・ダメだ。」
「どうしてだい。ちゃんと承諾してくれたんだ。」
「いやダメだ。・・お前と和美ちゃんと幸一の3人で幸せになるんだというんなら許す!」
「何だよ。脅かすなよ。・・・そうだ、3人で一緒に暮らすんだ。」
「それならよろしい。」
銀二は少し酔いが回っているような口調だった。しかし、その後の言葉で、
「で、仕事は見つかったのかい?村田屋には居られないだろう。どうするんだ?」
「いや、それが・・いろいろ、俺も考えたんだが、料理人の仕事なんてそう転がってるもんじゃない。これから見つけるさ。」
「何だ!この前と変わってないじゃないか!バカヤロウ!それじゃあダメだ。」
「そんな事、言ったって、俺はこの島以外、ほとんど知り合いもないんだ。どうやって探せって言うんだよ。」
「だから、心配なんだ。ほれ、誰かいないのか?・・おお、釣り客で、そういう人は居ないのかい?お前の料理を褒めてくれた人とかさ・・」
「そんなの・・」
鉄三は沈黙してしまった。
そのやり取りを聞いていた和美も一緒に考えていた。1年間の短い間だったが、それなりに客の名前も思い出せる。あれこれ考えてみた。そして、和美が、
「ねえ、大木先生なら、医者で顔も広いから、どなたかご紹介いただくわけにはいかないかしら。」
と言った。その言葉に、銀二も鉄三も揃って、「あの人はダメだ!」と否定した。鉄三は、大木医師が和美に惚れている事を知っていて反対したが、銀二は思惑と違う方向なので反対した。
「じゃあ、どなたか当てはあるんですか?」
和美はちょっとたしなめるように二人に聞いた。すると銀二が、
「ああ、そうだ、思い出した。ほら。・・・松屋さんだ。あの人はどうだ?」
とちょっと芝居がかった言い方をした。鉄三は何となく思い出したような素振りだった。
「ほら、確か、あの人、お前の料理を褒めてくれたんじゃなかったか?こんな田舎に置いとくのは勿体ないとか言ってなかったっけ?」
「ああ、何となく覚えてるけど・・・でも、向こうが覚えてるかどうか・・」
「大丈夫さ。きっとお前の事も覚えてるさ。一度連絡してみろ!」
「判った。・・」
そう返事をした鉄三が動かないのを見て、銀二が、
「何やってんだ!すぐに連絡してみろって!」
「そう言ったって連絡先は村田屋に戻らないと・・」
「もう、しょうがないな。ちょいと待ってろ。」
銀二はそういうと、押入れを空けて、ごそごそといくつかの箱を開け始めた。そして、
「おお、これだこれだ。これが連絡先だ。・・港前にある公衆電話で連絡して来い。・・金なら、ほら、この中にある。」
そういうと、古い手帳と小さな壺を差し出した。手帳にはいろんな人の住所や連絡先とかがたくさん書かれていた。そして、壺の中には、10円玉がびっしりと入っていた。

鉄三は、手帳とつぼの中の10円玉をありったけ握り締めて公衆電話に向かった。

家に残った和美と銀二は、しばらく沈黙していた。
和美は、銀二と鉄三が夜の浜辺での会話を聞いて、銀二の気持ちが自分には向かっていない事を承知していたが、それでもなお銀二の真意を確かめたかった。しかし、すでに、鉄三の申し入れを承諾し、動き始めた今、何を確かめようと言うのか、自分でも掴めなかった。
銀二も、二人が決めた生き方を兄として心から喜んではいたが、大事な何かが無くなってしまった様な、言いようの無い淋しさが胸を過ってしまって、どういう話をすれば良いか判らないでいた。

沈黙を破ったのは、幸一だった。さっきまで機嫌よくしていたのだが、急に愚図りだしたのだ。おそらく、眠くなったのだろう。その様子に、和美が、
「あら、幸ちゃん、眠くなったかな。ほら、抱っこしてあげるから。」
と手を伸ばした。愚図りながら、和美の腕に溶けるように抱かれる幸一を見て、銀二が、
「やっぱり、和美の温もりが恋しかったんだろう。ほら、嬉しそうな顔をして。そうだよな。幸一には、和美がお母さんなんだ。しっかり、育ててやってくれ。きっと、幸せになれるからな。」
と言うと、
「ごめんなさい。銀二さん。私、銀二さんに命を救ってもらって・・・それなのに・・・何も恩返しが出来ない。・・せめて、一生、銀二さんの傍で生きていきたかった・・・、銀二さんの暮らしのお役にでもと・・」
「馬鹿言うんじゃないよ。俺は一人でも大丈夫だ。お前は、お前を必要としている人の傍で、ちゃんと生きる方が幸せになれるんだ・・・。これで良いんだよ。これで良いんだ。」
銀二はそう言うと、酒のコップを持って、浜へ出て行った。

2-8-4;返答 [峠◇第2部]

10円玉を握り締めて、港に向かった鉄三は、真っ暗な中にぽつんと立つ公衆電話に取り付いた。
手帳を広げ、松屋の電話番号を回した。ダイヤルが戻るのがじれったいくらいだった。

夜の忙しい時間なのか、呼び出し音は、何度も響いたが、なかなか返答がなかった。ようやく、10回目の呼び出し音で、
「はい、ありがとうございます。松屋でございます。」
仲居だろうか、営業用の声で受話器をとった。

「あ・・お忙しい時間に済みません。私、向島の福谷鉄三と言います。ご主人か女将さんいらっしゃるでしょうか?」
急いてしまって、相当早口になってしまったが、仲居はちゃんと聞き取って、
「福谷様ですね。少しお待ちください。」
そう言って、受話器を置き、呼びに行ったようだった。
そうしている間に、10円玉がどんどん落ちていった。

少しして、ばたばたという足音の後、返事があった。
「はい、松屋の女将です。福谷さんと言われましたか?」
「はい、向島の村田屋で、料理人をしていました、福谷鉄三です。お久しぶりです。お忙しい時間だとは思うのですが・・」
「ええ、大丈夫ですよ。随分、遠くからのお電話で・・で、何か御用でしたか?」
「はい、不躾ではありますが、私をそちらで雇っていただけないかと・・。」
「え?でも・・そんな急なお願いをいただいても・・・今、人手は足りてますしねえ・・」
「それは、承知の上です。どうしても、ここを出て、暮らさなければいけない事情がありまして・・私にできる事は料理の仕事くらいです。それに、以前に、私の料理を褒めていただいた事があって・・何とか、そちらにお世話になれないかと思いまして・・」
「急にそう言われても・・・向島の料理宿とは違って、こちらは料亭.料理の格も違えば、客層も違う。いきなり料理人というわけにもいきません。申し訳ないですが、このお話はお受けできませんわ。」
「そこを何とか、・・・いえ、料理人じゃなくても良いんです。厨房の下働きでも良いんです。とにかく、ここに居られない事情がありまして・・」
「そんなこと言われても・・・男ひとり、どこでも生きていけるでしょうに・・」
「いえ、一人じゃないんです。子どもも妻も・・いるんです。何とか、二人が立っていけるよう稼がなくちゃいけないんです。死に物狂いで働きます。贅沢は言いません。毎日のご飯が食べられるほどで結構です。何とか、そちらにお世話になれないでしょうか・・お願いします。」
鉄三は、電話機を握り締めたまま、地面に伏してお願いした。松屋の女将には見えていないはずだが、女将は、その様子を受話器越しに感じ取っていた。そして、心の中で<もう良いかしら。銀二さんの頼みで少し意地悪な言い方をしたけれど、ちゃんと真面目に働くでしょう>と決めて、
「判りました。そこまでお願いされるのなら、とりあえず、こちらにお越しください。詳しいお話は逢ってからにしましょう。」
「ありがとうございます。すぐに・・・いや・・数日中には参ります。ありがとうございます。ありがとう・・」
松屋の女将の承諾を得て、鉄三は、胸の奥から感謝の気持ちがこみ上げてきて、涙が止まらず、言葉にならなかった。
そこで、最後の10円玉が落ちて、数秒で電話が切れてしまった。

鉄三は銀二の家に急いだ。松屋の女将が承諾してくれたことで、いよいよ行動に移せる自信が湧いてきた。少しでも早く、銀二と和美に知らせたかった。

銀二の家に着くと、鉄三は、入り口で叫んだ。
「松屋の女将さんが、承諾してくれたよ。これで、もう大丈夫だ!」
ふと見ると、部屋の中には和美と幸一だけが居た。銀二の姿は見えなかった。
「あれ?兄ちゃんは?和美ちゃん、兄ちゃんはどこだ?」
「さっき、酒のコップを持って浜へ出て行ったわ。」
「まあいいや。和美ちゃん!松屋の女将さんが、承諾してくれたんだ。これで、3人で安心して住めるよ。」
「そうなの・・」
和美は、鉄三の笑顔とは反して、冷ややかといえるような反応をしていた。その様子を感じて、鉄三は少し冷静になった。
「ごめん。松屋の女将さんは、とりあえず来ても良いという返事だった。調理場の下働きでも何でもやるからとお願いしたんだ。俺と一緒に、名古屋まで行ってくれるよね。」
「ええ。・・・幸一と3人で住めるのね。」
「ああ、そうだ。・・・でも・・・」
その会話を聞きつけて、銀二が入ってきた。
「良かったな。それじゃあ、すぐにでも支度をしな!明日朝一番にここを出るんだ。」
銀二の言葉に、和美が、
「そんなに急にじゃなくてもいいでしょう。皆さんにも挨拶してから・・」
「ダメだ!一体、誰に挨拶するんだ。村田屋に駆け落ちする事が知れてみろ、幸一を取り上げられて一生逢えなくなるかもしれないぞ。挨拶なんてのは、良いから、すぐに旅立てるようにしておくんだ。」
「幸ちゃんはどうするの?」
「そんなの決まってる。このまま、お前が抱っこして、セツさんの家に戻れ!鉄三も、そっと村田屋に戻って、支度をしろ。夜明け前には、向島を出るんだ。良いな。」
兄の段取りに、鉄三も和美も戸惑った。今日、1周忌を追え、さっき幸一の誕生祝をしたばかりだった。そんなに慌ててこの村を出なくてもと思っていた。だが、兄の言うとおり、駆け落ちする事が知られれば、きっと幸一を隠されるだろう。そうなったら、駆け落ちをする意味が無くなる。
時間はもう夜の10時を過ぎていた。

鉄三は兄に言われたとおり、村田屋に戻り、必要なものをまとめた。2階の幸一の部屋に入り、幸一に必要なものを、村田屋に気付かれないようにそっと集めた。途中、アキの様子を見に行ったが、戻っていないようだった。荷物は鞄一つになった。そして、これまで働いてコツコツと貯めてきたわずかばかりの現金と、使い慣れた包丁を手拭に包んで鞄にしまった。それらを、枕元に置き、布団に入った。

和美も、幸一をセツさんの家に連れて帰り、寝かしつけてから、支度をした。眠っていたはずのセツさんが、様子に気付いて、必要なものを工面してくれた。そして、そっと、和美の荷物の中に、封筒を忍ばせた。

「明日、早く行きます。セツさん、ごめんね。行ったりきたりして迷惑ばかり掛けてしまって・・・。」
「良いんだよ。どうせ、もともと一人暮らしさ。時々、お客さんが来て楽しい時間を過ごしたと思えば・・なんて事はない。それより、これでここへは戻れないだろうからね。今日は、ゆっくり休むと良い。幸一もぐっすり寝てるじゃないか。」
「本当にありがとう。なんてお礼を行ったら良いのか・・・落ちついたら、必ずお手紙書きます。」
「ああ、そうしとくれ。じゃあ、朝早いんだろ。もうお休み。朝は、見送りはしないよ。そのままそっと出ていきなさい。」
そう言われ、支度も整えて、和美は横になった。久しぶりに、幸一と二人で枕を並べた。


2-8-5:温もり [峠◇第2部]

和美は、布団に入ると、これまでの日々を思い出していた。
明日ここを出て行けばおそらくもう戻ることは無いだろう。セツさんや直子さんへの恩返しも出来ないまま、ここを去ることが辛かった。そして、銀二の傍に居られない事を思い、一層辛くなった。涙が溢れて仕方なかった。目を閉じると、銀二の笑顔が浮かんできてどうしようもなかった。
和美は、そっと布団を出て、セツさんの家から外へ出た。銀二の家にはまだ明かりが点いていた。抑えきれない気持ちが和美の足を銀二の家に向けた。

静かに,銀二の家の扉を開けた。銀二は座敷に座って、酒を飲んでいた。
「銀二さん・・・」
和美は小さな声で銀二を呼んだ。
「何しに来た?明日早いんだ、もう休め。」
銀二は振り返りもせず、そう言い放った。

「銀二さん、私、銀二さんが・・・」
「ダメだ!それ以上言うんじゃない。」
「いや!・・・・私、銀二さんが好き。せめて、お別れに、私を抱いてください。」
「何を言ってるんだ。お前は、鉄三と一緒になるんだぞ。」
「このままでは、私、心が苦しくて・・・後生だから・・・私を抱いてください。」
和美は、駆け寄り、銀二にすがりついた。
「お願い。ほんの少しでいいの。銀二さんの温もりを・・肌で覚えておきたいの・・お願い。」

銀二は、身じろぎもせず、じっとしている。
暗い海から救い上げた日から、銀二の中には、日増しに、和美への愛は膨らみ続けていたはずだった。だが、それは本当の愛なのか、それが和美の幸せになるのかと問い続けてきた日々でもあった。他の男に奪われるなど、考えられなかった。だが、弟なのだ。和美と同じくらい、幸せになってもらいたいと願う弟が惚れたのだ。
これまでの気持ちは、深い胸の奥に静めたはずだった。だが、今こうして愛する和美が背中にすがり抱いてくれと懇願している。

銀二の中で、何かが弾けた。

銀二は、和美の手を引き寄せ、強く口づけをすると、激しいほどに抱きしめた。
出会ってから膨らんでいた想いが弾けるように、和美も銀二の背に手を回し、激しく求めた。
部屋の明かりを落とし、二人は洋服を引きちぎるように脱ぎ、全裸になる。
その間も、銀二の手は和美の柔らかな肌を愛撫し続けた。
和美も熱くなっている銀二の自身を、身体の芯から、しっかりと受け止めた。
ほとばしる情熱はずべて美しい花が受け止めた。
和美の肉体も銀二の肉体も、一つになり、恍惚の中に溶けていった。


どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。まだ、夜空が徐々に明るさを見せるようになった。
和美は、まだ眠っている銀二の顔をじっと見つめ、
「ありがとう、銀二さん。」
そう言って、服を着始めた。まだ、体のあちこちに銀二の感覚が残っていた。
そして、首につけていた「お守り袋」を枕元に置いて、銀二の家をそっと出ていった。

銀二はとうに目が覚めていた。
和美が起き出して洋服を着始めたときから全てわかっていたが、眠ったフリをしていた。目を覚ませば、そのまま、離れられなくなる自分が居るようで怖かった。

和美が出て行ってから、しばらくして銀二は起き上がった。
そして、枕元に置かれた「お守り袋」を手に取った。
それは、白い布を縫い合わせて拵えてあった。銀二はその生地をじっと見て、はっと思い出した。
そうだった。この布地は、和美が身投げした夜に来ていた洋服のものだった。しばらく銀二の家にあったが、和美から、過去を思い出して辛くなるから捨ててくれと懇願されたのだった。捨てるとは言ったがなかなか捨てそうも無い銀二を見て、和美が強引に持ち帰ったのだった。おそらく、和美は、辛い過去と同時に銀二との出会いを大事に思い、洋服の一部を切り取って、お守り袋にしたのだろう。
銀二は、小さなお守り袋を見ながら、愛しい和美を思い、涙に濡れた。そして、同時に、一夜の契りを悔いていた。越えてはいけない一線を守れなかった。弟、鉄三を裏切り、和美を穢した思いが銀二を襲っていた。

そろそろ、夜が明けてきた。もう鉄三と和美は幸一を連れて、港前から新しい地へ向かっただろうか。これからの二人に幸せが訪れる事を願っていた。


2-8-6:駆け落ちの朝 [峠◇第2部]

約束どおり、港前で落ち合った二人は、幸一を胸に抱いて、向島大橋を渡った。
橋の真ん中で、鉄三は振り返り、村田屋に向かって深々と頭を下げた。
これまでに受けた恩とそれを裏切る形になった事を詫びると同時に、幸一を立派に育てるという約束をしていたのだった。
和美もその様子を見て、振り返り、村田屋に頭を下げた。そして、遠く、肉眼では確認できないセツさんと銀二の家のほうを向いて、同じように頭を下げた。

二人は、無言のまま、問屋口まで急いだ。そして、そこから駅に向かうバスに乗りこんだ。
バスの窓から、大木総合病院が見えた。僅か数日だったが、あそこで過ごした思い出は、今でも夢物語のように和美の心の中にあった。あんな暮らしをしている人も居るのだと思い、大木医師の優しさに改めて感謝していた。

国鉄の駅は、まだ早朝とあって、人影もまばらだった。
窓口で、銀二は、二人分の名古屋までの片道乗車券を買った。改札を抜けると、いよいよこの町ともお別れである。
二人は、右側の席に座った。向島を出てから、まだ、二人は満足な会話をしていない。むしろ、息をするのも憚るようで、故郷を捨て、人知れず逃げていく事はやはり罪深いものだと感じていた。

まもなくすると、発車のベルが響いた。ゆっくりと汽車は走り出す。ここから大阪までは、蒸気機関車の旅である。
駅前の商店街や官庁街が通り過ぎる。住宅地の広がる町の東を抜け出ると、進行方向の右手に向島が見えた。随分小さく見える。和美の生まれ故郷、玉浦は遥か後方にあってみる事もできなかった。
しばらく走ると、瀬戸内の海原が広がっている。
朝日に輝く海、波の穏やかな瀬戸内の海、いつもより増して、水面が穏やかに見えた。
向島を出てから、ずっと背を丸め、息を殺すようにしていた二人が、ここに来てようやく安堵の気持ちが湧いてきていた。

隣町の富海を通り過ぎる頃、ふと、和美が海を見て気付いた。見覚えのある漁船が見える。そう、銀二の船だった。海岸線を走る汽車からは、意外に船が近くに見えた。顔まではわからないが、船の人影が手を振っているように見えた。鉄三も、船に気付いて、急いで窓を開けた。そして、汽車から身を乗り出して手を振った。
おそらく声などは届かないはずだが、鉄三はとにかく絞り出すような声で叫んだ。
「兄ちゃ~ん・・・ありがとう・・・頑張るから・・」
後半は涙声で何を言っているのかわからないほどだった。
和美も、
「銀二さ~ん・・ありがとうございます。幸せになります。」
次第に汽車は海岸線から離れていく。徐々に、銀二の船が見えなくなっていった。

汽車は、登坂線へと入っていく。この先にある、『椿峠』を越えると、もう故郷の町は遠く見えなくなる。

家を出てからずっと抱かれた胸で大人しく眠っていた幸一が目を覚ました。きょろきょろと辺りを見回し、様子が違う事に気付いたのだろうか、急に泣き声を上げた。
「あら、幸ちゃん、目が覚めたの。おなか空いたかな。」
和美はそう言うと、おっぱいを出して飲ませた。もう1歳を過ぎた幸一だが、ずっとミルクだった事もあり、とても恋しそうにおっぱいにむしゃぶりついた。ごくごくと音を立てて飲んでいる。和美は、久しぶりの感覚で体の芯がじんわり温かくなるように感じていた。そんな様子を見ていた鉄三が、しみじみと言った。
「やっぱり、幸一には和美ちゃんが居なくちゃいけないんだ。これからはずっと一緒だよ。」
「そうね。ずっと一緒にいましょう。」
和美が答えた。二人はようやく言葉を交わし、これから共に生きていく事を確かめあった。

車窓の風景は、見知らぬ町。今度の辺りなのかもわからない。ただ、名古屋までの道のりは遠かった。二人は鈍行に乗ったため、途中何度か乗り換えた。そのたびに、故郷からどんどん遠ざかるのを強く感じていたのだ。

二人は、朝から何も口にしていなかった。和美は、岡山を過ぎた辺りで、カバンを開け、セツさんが昨夜、途中で腹の足しにすると良いからとくれた蒸かし芋を取り出した。冷えてはいたが美味しかった。鉄三も、夕べの残りで、握り飯を作っていた。二人は、幸一にも少し食べさせながら空腹を癒した。鉄三は緊張の糸が切れたのか、座席で体を折り曲げて眠ってしまった。

食べた後の片付けながら、和美はカバンの中にある封筒に気がついた。
夕べ荷造りの時に、きっとセツさんが忍ばせたに違いなかった。

封筒は二つあった。ひとつは、セツさんの文字で、『和美ちゃんへ』と書かれていた。
中には、便箋が1枚入っていた。取り出して広げると、セツさんの丁寧な文字が並んでいる。

『和美ちゃんへ  
幸せにおなりなさい。銀二に救われた命を大事にしてね。
鉄三は真面目な男だから、きっと和美ちゃんを大事にしてくれる。
時間が経てば、昔の思い出はきっと美しく思えるはず。落ち着いたら、手紙ちょうだいね。』

独学で字を覚えたセツさんが、一文字一文字、しっかりと思いを伝える手紙だった。

もうひとつは、古封筒で、表には何も書かれてはいなかった。
封を開けると、中には1万円札が3枚ほど入っていた。
そして、お札には小さな紙片が挟まっていて、
『少ないが餞別だ。困ったら使え。鉄三には内緒だ。』
と走り書きの文字が読めた。
封筒の中からは、僅かに潮の香りが漂っていた。銀二からのものだとすぐにわかった。
銀二は、二人の駆け落ちの決心を、すでに察していて、夕べの早い時間にセツさんに渡してもらうよう手配していたのだろうとわかった。和美は、二つの封筒を胸に抱え、声を殺して涙を流した。そして、カバンの一番底にそっとしまい込んだ。
二人を乗せた汽車は東へ東へと向かっていった。


2-8-7:向島の朝 [峠◇第2部]

村田屋で、二人の駆け落ちに最初に気付いたのは、主人だった。
朝餉の支度に、厨房へ入ったところで、机の上に、鉄三の置手紙があった。

『村田屋のご主人、奥さんへ
許されない事は承知の上です。
和美と一緒に生きていきます。
幸一と3人で生きていきます。
これまでのご恩は忘れません。    鉄三』

何を書いても許されない事は判っていたのだろう。短い文章だった。

主人は置き手紙を手に取ると、店の外に出た。そして、朝陽が昇る東の空を見つめてこう言った。
「幸せになるんだよ。これまでありがとう。」
和美の事情を知って,味方になると約束した事。そして、それがここでは果たせなかった事。孫の幸一の幸せを願い、この先を考えた時、鉄三と和美が一緒になる事が一番だと考え、龍厳寺の住職の協力も得て、鉄三を決断させたのは間違っていなかったはずだと思っていた。
ただ、この先、妻やアキがしばらくは悲しむだろう。鉄三を憎く思うだろう。それでも、これが一番の道だと自分に言い聞かせていた。

港に銀二の船が入ってきた。船を停め、村田屋の前にやってきた銀二は、村田屋の主人に挨拶した。
「おはようございます。」
そして、主人がなにやら手紙のようなものを手にしているのを見つけ、駆け落ちの事を知ったのだと判った。
銀二は、地面に伏して、
「すんません!鉄三のしでかした事、俺がたきつけたようなものなんです。罰は俺が受けますから・・」
と謝った。村田屋の主人は、
「なら、私も罰を受けなけりゃいかん。私も、龍厳寺の住職も同罪だ。さあ、頭をあげて。」
銀二はちょっと意外だった。
孫を奪われ、恩返しもせず、駆け落ちした二人に憎しみを抱き、怒り心頭だろうと思ったからだった。
主人は続ける。
「私は、和美ちゃんの事情を聞き、味方になる約束をしたんだが、果たせなかった。これくらいしか出来なかったんだよ。婿養子でなかったら、アキを追い出して、妻も説得して、ここで鉄三と和美と幸一の3人で新しい家族になって幸せになれたものを。二人が駆け落ちしたのは、私の甲斐性の無さからだよ。銀ちゃん、済まないね。」
「ご主人、ありがとうございます。そう思っていただければ・・。きっとあの二人なら、幸せになります。」

二と主人は、手を握って、悲しみを分かち合った。そして、店の前の椅子に腰掛けた。

「二人は、どこへ行ったんだろうね?」
主人が銀二に問う。
「ええ・・・ご主人と俺だけの秘密にしてくれますか?」
「何だ、行き先を知っているのか?」
「ええ、ここにも客で来た、名古屋の松屋さんのところです。先日、お願いに上がりました。快く引き受けてくださいました。まあ、二人で頑張るという約束で、女将さんには客人扱いせず、しごいて欲しいとお願いしておきました。きっと大丈夫です。」
「おお、そうなのか。それなら安心だ。・・幸一もきっと大丈夫だろう。・・良かった。・・・ところで、もう私には何かしてやれる事は無いだろうか?」
銀二はしばらく考えていた。

「一つだけ、お願いがあります。俺にもどうしようもなかったので、無理かも知れませんが・・・」
「なんだい?行ってみなよ。」
「和美の事なんですが・・・ご存知のように、あの子は、玉浦の玉谷の娘です。ただ、身投げして行方不明になっている。」
「ああ、そうだね。」
「きっとこの先、二人が所帯を持つ、幸一が学校へ行くとなれば、戸籍が問題になるはずです。かといって、玉浦の戸籍じゃあ、きっと、いつか居場所がわかって、また辛い目にあうかもしれない・・・」
「ああ、そうか。じゃあ、和美に新しい戸籍を作ってやらねばなあ・・」
「ですが、幸一のことを思うと、和美と幸一を本当の親子にしてやれないものかとも・・」
「そうか・・今は、鉄三の嫡子で母は裕子ということになっているな・・・」
「ですから、無理を承知で、何とかならないものかと・・・」
「罪深い事だな・・・・判った。少し、知り合いにも尋ねてみよう。知り合いには、役場の人間も、弁護士もいる。大丈夫だ。出来る限り手を尽くしてみよう。」
「お願いします。俺もこれまでいろいろ考えて、相談しようとは思っていたんですが・・・二人がその気にならなけりゃ意味がないので・・どうか・・よろしくお願いします。」
「承知した。・・・その代わりと言っては何だが・・銀ちゃんは、松屋とは連絡が取れるだろう。・・なら、時々、鉄三や和美、幸一の様子を聞いて、私に教えてはくれまいか?」
「ええ、そのつもりでした。きっと、幸一の様子は気懸かりでしょうから。二人が落ち着いたら、会いに行こうと思っています。」
「うんうん・・・銀ちゃんが見守ってくれるなら安心だ。ありがとう。本当にありがとう。」
「いえ、俺のほうこそ、ありがとうございます。」
晴れた空が眩しかった。

2週間ほどして、村田屋の主人から銀二に連絡があった。
和美のために、新しい戸籍が取れたというのだった。知り合いの弁護士に、「記憶を無くして預かった娘がいるのだが、このままでは就職もできない。なんとか出来ないものか。」と相談したところ、役場に掛け合ってくれて、戸籍を取得できたというのだった。戸籍は、村田屋の主人の養女という形であった。ただ、幸一の戸籍はどうしようもなかったが、鉄三と和美が所帯を持つ時に、嫡子としておけばいいだろうと言う事だった。
この話を聞いて、銀二は、二人が落ち着いた頃を見計らって、一度、名古屋へ出かけてみる事にした。


2-9-1:名古屋駅 [峠◇第2部]

 鉄三と和美が、名古屋駅に着いたのは、夜も遅い時間だった。
幸一を抱き、鞄を抱え、二人は長い階段を下り、改札口を抜けた。列車の中では時折はしゃぐしぐさを見せていた幸一も、疲れたのかぐっすり眠っている。
田舎町とは違う広い駅舎には、行きかう人も多く、皆、急ぎ足のように早く感じた。
向かうべきところはわかっていたが、どう行けばいいのかわからなかった。とりあえず、二人は、出口へ向かう人の流れに乗って歩いた。駅の中を抜けると、目の前には、大きなビルが建設中だった。工事看板には、「大名古屋ビルジング建設中」と書かれていた。
駅前には、大きな交差点があり、乗用車やバス、タクシーが行き交い、騒音がひどかった。
通り過ぎる人に道を尋ねようにも、皆、早足でなかなか訊けなかった。
ふと見ると、駅の脇に駐在所があった。二人はそこで道を尋ねる事にした。

「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが・・」
扉を開けて中に入った。奥から、若い警察官が顔を出した。
「何でしょう?」
「あの、松屋という料亭に行きたいんですが・・道がわからなくて・・」
若い駐在は、二人を頭のてっぺんからつま先までしげしげと見つめて、怪訝そうな声を出して答えた。

「あんたら、どこから来たの?」
「え、・・その・・山口から出てきました。」
「ほう・・山口からねえ。随分遠くから・・それで、松屋に何の用事かね。」
「いえ・・そこで料理人でお世話になるために来たんですが、何か?」
「ほう、それなら、いい腕をしてるんだな。で、あんたら、夫婦?」
そう問われて、ちょっと鉄三は躊躇った。
「え?・・ええ・・・」
「最近、田舎から出てくる人が増えてね。時々、若い娘が、悪い人間に騙されてくることもあるんでね。」

その言葉を聞いた和美が、ちょっと強い口調で答えた。
「私たちは夫婦です。それにこの子の父親はこの人ですから。」
「いやいや、すみません。こんな時間に、若い二人連れというのがちょっと気になってね。気を悪くしたなら謝ります。」
その警官はそう言うと、
「ああ、松屋さんなら、駅の反対側だ。もう一度、駅の中を抜けて、裏に出るとまっすぐ伸びた道がある。そのまま行けばすぐ判るはずだ。」
「ありがとうございました。」
駐在は、二人を見送りながら、こう言った。
「駅の裏側は暗くて物騒だから、気をつけなさい。それと・・・夫婦で一生懸命頑張ってな!」

駅の中を歩きながら、鉄三は、さっきの和美の言葉が耳に残っていた。夫婦かと問われて、躊躇した自分ときっぱりと答えた和美。なんだか、駆け落ちした覚悟に違いがあるように感じた。そして、『そうだ、ここに来たからには、本当の夫婦になって頑張らなければいけない』と改めて自覚したのだった。

駅裏は、まだ開発されていないために、昔ながらの低い軒の家が並び、静かな町だった。いや、駐在が言っていたように、暗く物騒な感じさえした。街灯がぽつりぽつりとある程度だった。
すぐ判るとは聞いたが、この暗闇でどうだろうと不安に感じながらも言われるとおり、まっすぐに伸びる道沿いに歩いた。

しばらくすると、暗闇の中に、煌々と灯りの点った大きな建物があった。黒く高い板塀に囲まれ、塀越しに大きな樹木が見えた。大きな門構えがあり、中をのぞくと、広い車止めと庭が見える。灯りの点る大きな玄関からは、時々、仲居さんが行き来しているのが見えた。

鉄三は、門の前からその様子を見ながら考えた。

松屋の夫婦とは、村田屋の客として何度か会った事はあるが、松屋がどのような店なのかは考えた事もなかった。田舎町では、料亭などというものは無かったし、名古屋の町さえも想像できていなかった。
銀二に勧められるまま、電話で不躾にお世話になるお願いをし、承諾を得たものの、これほどの大きな店だとは考えてもいなかった。きっと沢山の料理人や仲居が働いているのだろう。漁師町の田舎料理の腕など,こんな店では何の意味も持たないだろう。自分が思っていた以上に、厳しい決断をしたことを少し悔いていた。

和美は、店の前で立ち尽くしている銀二を見て、駆け落ちした事を悔いているのかと不安に感じていた。ただ、ここまで来る後押しをしてくれた銀二やセツさんの思いを考えると、不安など感じているわけにはいかないと思っていた。

玄関先に出てきた一人の仲居が、門の前に立つ二人を見つけた。仲居は、笑顔で、
「いらっしゃいませ。どうぞ。」
と中へ誘ってくれた。鉄三は、その言葉に、
「いえ、お客で来たわけじゃないんです。・・あの、女将さんはいらっしゃるでしょうか?」
と答えた。
仲居は、さっきと変わらぬ笑顔で、
「はい、女将はおりますよ。まあ、中へお入りください。長旅のご様子、まあ、中で少しお休みください。女将も呼んで参りますから・・さあ、遠慮などなさらずに。」
「いえ、ですが・・」
「いいんです。大丈夫です。うちはどんな方でもお入りいただくことにしています。玄関脇に、小さなお休み処もご用意しています。お茶でもお飲みいただきながら、少しお休みください。さあどうぞ。」
半ば強引なくらいの案内に、鉄三と和美は付いていく事にした。


2-9-2:笑顔の迎え [峠◇第2部]

明るい玄関に入ると、数人の仲居が早足で近づいてきた。そして、二人の荷物を預かり、履物を下駄箱にしまい、赤い絨毯の廊下を先導して、『お休み処』という看板のある部屋へ案内した。皆、終始笑顔を絶やさなかった。
部屋の中には大きなソファが置かれていた。
「さあ、おかけください。今、お茶をお持ちしますから・・あ、それとお子さんはこちらへ休ませてあげてください。」
そう言うと、ソファの横にある引き戸を開けて、小さな布団を出して敷いた。和美はそこへ幸一を寝かした。
すぐにお茶が運ばれてきた。
「今、女将が参ります。ごゆっくりしていてくださいね。まあ、可愛い寝顔。・・お父様そっくりですね。・・小さな子どもって、見てるだけで幸せになれますね。本当、天使みたい。・・・お母様もお疲れでしたね。」
お茶を運んできた仲居が、そう言ってから、部屋を出て行った。

「失礼いたします。女将でございます。」
そう声がして、襖が開いた。そこには、髪を結い上げ、見事な和服姿の女将がかしづいていた。
女将は顔を上げると、
「おや、鉄三さんじゃありませんか?遠くから・・大変だったでしょう・・・」
そう言って近づいてきた。鉄三はソファから飛び上がり、女将の前に行くと、伏して、
「このたびはご厄介になります。突然のお願いに快く承諾いただけて、助かりました。ありがとうございます。」
と礼を言った。
「まあまあ・・そんな真似はよしてください。・・あの、そちらは?」
「あ、・・はい、和美と言います。宜しくお願いします。一生懸命働きます。」
「まあ、はっきりした話し方。奥様なのね。良いわね、若いって・・私、はっきりお話できる人、大好きなのよ。・・で、この天使のような寝顔の子は?そう、幸一くんなの?なんだか、ぐっすり眠ってるのね。ご挨拶は明日ね。・・・ねえ、ご飯食べたの?」
そう問われて、二人は顔を見合した。そう言えば、昼に食べてから何も口にしていなかった。
「何なのよ。料理屋に来ておなかを空かせてるなんて・・恥ずかしいわ。ちょっと!」
女将の声で、数人の仲居が飛んできた。
「この人たち、空腹みたいなの。ねえ、厨房に行って何か作ってもらって。・・・何でも良いわね?」
「いえ、握り飯だけで充分ですから・・」
「あら、この店で、握り飯なんて、結構高いわよ?・なんて、冗談よ。・・・まあ、何でもいいからすぐに・・」
言い終わる前に、仲居は厨房に走っていった。

ほんの数分で、仲居はお膳を二つ持ってきた。
「あいにく、最後の料理が出たところで、まかない食しかなかったんですが・・」
すまなそうにテーブルに置かれたのは、丼ものだった。
「ごめんなさいね。今日はお客さんが少なかったものだから、早めに厨房も片付けたみたいで・・」
「いえ、いただきます。」
そう言って、蓋を開けると、大きなてんぷらが乗った天丼だった。とてもまかない食と呼ぶには豪華すぎるものだった。
おいしそうなものを前に、急におなかが鳴った。鉄三は、箸を手にすると、作法などかまわずかきこんだ。キスとえび・サツマイモと素材はごくありふれたものだったが、今まで口にした天丼とは比べ物にならないくらいの味だった。
和美も遠慮がちに丼を手にして蓋を開け、箸をつけた。これほど美味しいものがあるのかと思うほどだった。
ものも言わず、一心に天丼を口にしている。

女将は、二人の様子を見て、ここまでの苦労を感じていた。昔、銀二に心中を止められ、生き直そうと決意したあとの食事を思いだしていた。生きようと思う時、人は食に固執する。美味しいものを口にできる時の幸せこそが、生きているという実感ではないかと常々考えていたが、この二人を見て、改めて、強く感じていた。

食べ終わったのを見計らって、仲居が器を下げに来た。
「いえ、自分たちで片付けますから。」
と和美が言ったが、女将が、
「もう今日は疲れているでしょうから、明日からしっかりやってくれればいいわよ。あなたたちは、今日まではお客さんでいいから。それから、事情があって向島には居られないって言ってらしたけど、事情はまたゆっくり教えてちょうだい。まあ、おおよそ見当は付くけど。まじめにちゃんと生きていく決心はお電話でよくわかったから。・・ああ、そうそう、あなたたちの部屋ね。この店の裏手に用意しておいたわ。そこは、うちの従業員がみんなで住んでる長屋だから気兼ねは無くていいわよ。・・そうね、ちょっと、誰か・・・ああ、澄子さん、あなた案内してあげて。もう上がっていいから・・いいわね。」
そう言われたのは、まだ二十歳そこそこの若い仲居だった。こくりと頷くと、二人の荷物を抱えた。
「どうぞ、案内します。」
「ごめんね。まだ、ここへ来て間もない子なの。青森から出てきた子よ。年も、和美さんと同じくらいじゃないかしら。隣に住んでるから、いろいろと訊くといいわ。それじゃあ、ゆっくり休んで、また明日ね。」

二人は、幸一をゆっくり抱き上げ、女将に深々と頭を下げて、用意された部屋に向かった。
出る時は玄関ではなく、裏の通用口だった。すでに履物は出口に置かれていた。

通用口を出ると、道を隔てた向かいに、その長屋があった。10軒ほどが繋がったような作りだった。
「ここです。これが鍵です。片付いてるはずです。わたすは、となりにいますがら、なにがあっだらいってけれ。」
「あ・・ありがとうございます。青森も遠いわね。遠い者同士、仲良くしてくださいね。」
澄子は、少しお国訛りが出たのでそう言われたのかと思いに、そのままうつむいて自分の部屋に入っていった。

 鉄三と和美は、鍵を開け、部屋の中に入った。扉の横の壁に電灯の紐があり、引くと裸電球が部屋の中を照らした。
半間ほどのタタキに小さな下駄箱。入ったところが3畳ほどの台所。続き間で、6畳ほどの和室と1間半の押入れと造り付けの箪笥がある。台所の奥に、風呂と便所。必要最低限の住まいだった。それでも、幼い幸一と3人で暮らすには充分に思えた。
9月末とは言え、まだ部屋の中は蒸し暑く、窓を開け、空気を入れ替えた。畳は新しくされたのだろう。い草の香りが強かった。荷物を置き、二人は座り込んだ。長い一日だった。ようやく訪れた安堵感からか、急に眠気が襲ってきた。
押入れを開くと、真新しい布団が二組置かれていた。脇には、子供用の小さい布団もあった。寝間着もあった。
子供用の布団を敷き、幸一を着替えさせてから、寝付かせた。

「俺たちも休もうか。」
鉄三はそういうと、寝間着に着替え始めた。ふと、見ると、和美が何か困った様子だった。
よく考えると、1年近く村田屋に一緒に住んでいたとは言え、こうして二人きりで布団を並べて眠るのは初めてであった。
和美は、鉄三の前で、下着姿になるのさえ、恥ずかしさを感じていたのだった。
幸一と一緒に暮らす事、鉄三と夫婦になる事、頭の中ではわかっていたはずだったが、いざこうなってみると、やはりまだ恥ずかしさを感じてしまうのだった。
着替え終わった鉄三は、布団を広げ、さっさと横になって目を閉じ、背を向けた。和美の気持ちを察してくれた事が判り、和美も、すばやく着替えて布団に入った。
身体はつかれきっているはずなのになかなか寝付けなかった。

「ここまで来てしまったね。」鉄三がぽつりと囁いた。
「ええ・・松屋の皆さんが優しくて・・来て良かったわ。」和美が答えた。
「ああ・・その分、しっかり働いて恩返ししなくちゃいけないね。」
「ええ・・村田屋さんや向島の皆さんの恩に報いるためにも、ここでしっかり生きなくちゃいけないわ。」
「俺、頑張るよ。兄ちゃんにも対しても恥ずかしくない生き方をするから。きっと幸せにするから。」
「ありがとう。私も頑張るわ。」
二人は静かに眠りについた。

2-9-3:松屋の人々 [峠◇第2部]

翌日、5時には、鉄三は起き出していた。
村田屋に居た頃にも必ず目を覚まし、仕込みの仕事を始める時間だった。とりあえず、持ってきた割烹着に着替えると、静かに部屋を出て、松屋に向かった。昨日出てきた通用口を抜けると、厨房はすぐにわかった。もう湯気が立っている。

「おはようございます。お世話になります。鉄三です。どうぞよろしくお願いします。」
そう挨拶すると、一番、年長と思われる男が、
「おはよう。よく来たね。今日はまだゆっくりしていれば良いのに。私は、厨房の主任で、加藤。昨日、女将さんから話は聞いたよ。大将はもうすぐみえると思うから。よろしくな。それから、ええっと・・あいつは板前で桜井、それと、ああ、あいつが大野だ。あいつはまだ最近来たばかりで、見習い中ってことになってる。」
紹介された二人が、手を動かしままで、「おはよう」と返事をした。
「よろしくお願いします。・・・あの・・皆さん、何時から仕込みを始めているんです?」
「ああ、早出と普通とで分担してるんだが、朝はこの3人だけ。ここは料亭で夜のほうが忙しいからな。昨日、泊まったお客さんの分だけだから、ついさっき来たばかりさ。一応、5時ってことになってるから・・」
「あの、何かやらせてください。一日も早く仕事覚えたいんです。」
「まあ、そんなに焦らなくても・・前にやってたんだろ?」
「ええ、でも、こことは格が違いますし・・素人同然です。一から憶えなおします。厳しく教えてください。」
「わかった。・・なら、其処の鍋を磨いてくれるかい。・・ああ、出たところに水道があるから・・・」
示されたのは、大鍋だった。黒光がしていた。鉄三は、たわしと大鍋を持って、外の流しに行った。

「なかなか白くはならないでしょう。」
一心に鍋を磨いていると、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、白髪交じりの恰幅の良い男が立っていた。すぐに、松屋の主人とわかった。
「おはようございます。昨日遅くに参りました。鉄三です。よろしくお願いします。」
鉄三は立ち上がって、挨拶をした。
「ああ、おはよう。昨夜は失礼したね。常連のお客様がいらして、少しお相手をしていたものだから・・。」
「一生懸命働かせていただきます。厳しくご指導ください。」
「はい、わかりましたよ。・・でもねえ・・ここではあまり厳しくしない事にしてるんですよ。お客様あっての私たちでしょう。お客様第一です。働くみんなが、辛いとか嫌だなと思うと必ずお客様に伝わるんです。だから、楽しく愉快に働くんです。すると、お客様も楽しく愉快に過ごしてもらえるはず。真剣に仕事をやると楽しいものです。頑張らなくていいんですよ。真剣に楽しくやりましょう。」
鉄三は、少し面食らった。その様子を見て、主人は、
「うん、そうだ・・・ね、駆け落ちってなんだか何だか外れ者みたいに思い込んじゃうところがあるでしょ。だけど、世間の柵から抜け出して、自由に生きたいって思いきって飛び出したんだって考えればどうですか。それで幸せな人生ならいいじゃないですか。ようは自分が幸せかどうかでしょ。ものは考えようだから・・」
「はい。がんばりま・・・じゃなくて、真剣に楽しくやります。」
「そうそう、それで良い。・・あ・・それと、その鍋はどんなにこすっても白くはなりませんよ。・・ちょっと頭を使って・・何に使う鍋なのかって・・・使い方に合わせて綺麗にすれば良いんですよ。」
そう言い残すと、厨房に入っていった。


少し遅れて、和美も目を覚ました。幸一はまだ眠っていた。身支度を整えていると、隣の澄子が来た。
「おはようございます。よく休めましたか?・・あ・・あの、女将さんの言付けで・・今日は、7時くらいに来てくださいとのことです。それと・・幸一ちゃんも連れてきてくださいとおっしゃってました。」
「はい、判りました。・・あの・・皆さん、何時から働いていらっしゃるの?」
「あ・・早出の時は5時からになっています。普通の時は10時からです。私は昨日早く上がらせてもらったので早出になりました。それじゃあ、私、行きますね。」
「もうひとつ、お洗濯はどちらですれば・・」
「それなら、長屋の脇に水道とたらいと洗濯板もあります。干し場もあります。」
「ありがとう。」

昨夜は、すぐに休んでしまったので、部屋の掃除を始める事にした。
二人が来る事を予定して、部屋はきれいにされていたが、台所周りや風呂場などをもう一度、綺麗に拭いた。ようやく、空が明るくなり始めたところだった。
洗濯場に行くと、言われたとおり、たらいと洗濯板が整理されて並んでいた。一つを置き、洗濯を始めた。
幸一はまだオムツが取れていなかったので、昨日の汚れ物がたくさんあった。途中、何度か幸一の様子を見に行ったが、まだ起きていなかった。一通り、洗い上げるまで1時間近く掛かってしまった。

全てを終えて、部屋に戻ると幸一が目覚めて、泣いていた。そろそろ乳離れをさせなければならない時期だったが、まだ、欲しがるので抱きかかえて与えた。そろそろ、女将に言われた7時に近づいていた。

和美は幸一を背負って、松屋に向かった。通用口を入ると、数人の仲居が挨拶をしてきた。そして、女将さんの部屋に案内してくれた。
「おはようございます。和美です。」
「ああ、おはようございます。お入りなさい。」
女将は、昨夜と同様に、髪を結い上げ、昨日とは違う和服姿で、座卓の前で、帳面を見ていた。今日のお客の予定の確認をしているようだった。
「夕べは休めましたか?」
「はい。久しぶりにぐっすり眠れたようでした。ありがとうございました。」
「それは良かったわ。幸ちゃんは、機嫌が良いみたいね。」
「はい。普段から余りぐずるような事は無いので・・ただ、動き回るのでなかなか目が離せなくて・・」
「それくらい元気が無くちゃね。ああ、それで、あなたの仕事の事で、相談をと思って・・」
「はい、何でもやります。おっしゃって下さい。」
「ええ、昨日、仲居主任の輝子さんとも相談したんですけど、まだ、部屋係は無理だろうし、幸ちゃんの世話もあるだろうから、当分は、店の仕事じゃなくて、私たちの身の回りのお世話をお願いしたらどうかと思っているんだけどね。まあ、1年もすれば、幸ちゃんもわかるようになるし、どうでしょうね。」
「そんな・・幸一は背負ってでも出来る仕事があれば何でもやりますから・・・。」
「そう?でもね、ここでは、あまり無理して頑張るのはダメなのよ。お客様が楽しく愉快に過ごしてもらえなければいけないでしょ。見ていて、可哀想なくらい辛い仕事はしないことにしているのよ。みな、楽しく仕事ができるようにっていうのがこの店の約束なの。・・だから、あなたも頑張らなくて良いのよ。」
「でも・・」
「頑張らないというのは、手を抜くのとは違うの。真剣にやる事なの。一生懸命やると楽しいっていう仕事を覚えてね。」
「はい・・判りました。一生懸命にやります。」
和美は、まだその意味がわからなかった。ただ、誰かの生き方に似ているように感じていた。

「ときに、あなた。銀ちゃんを知ってるわよね。」
和美は、女将さんから銀二の名前を聞いて、少し身構えて、すこし曖昧に答えた。
「はい。鉄三さんのお兄さんですよね。」
「これから話す事は二人だけの秘密にしておいて欲しいの。良いわね。」
「はい。」
「この店が今繁盛しているのはね、全て銀ちゃんのお陰なの。いいえ、銀ちゃんが居たから、私も主人もこうして生きていられるのよ。」
女将さんはそう前置きして、銀二との関係を詳しく話した。それを聞いた和美は、
「私も銀二さんに命を救われたんです。命の恩人なんです。私もこうしていられるのも銀二さんのお陰・・」
思わず、涙ぐみそうになっていた。
「そうなのね。実は、銀ちゃんが半月ほど前にここへ来て、若い二人を預かってほしいって頼みに来たの。すぐ承諾したわ。せっかくの恩返しですから。でも、銀ちゃんは、二人を甘やかさず、厳しくして欲しい、一人前に生きられるようにしていんだって言ってたわ。鉄三さんのこともそうだけど、随分、あなたの事を気に掛けていたのよ。ちょっと妬けるくらい、あなたの事を大事に思っているようだったわ。」
女将の話をじっと聞いていた和美は、銀二を思い出して、胸が締め付けられる思いがしていた。
「だから、私、あなたのお母さんの代わりをしてあげる事にしたわ。お母さんは子どもには厳しくて優しい。一人前になるまでは、ちゃんと教えるわね。でも、困った事があったら、いつでも何でも相談しなさい。良いわね。それと、銀ちゃんの話はあなたの胸の中にしまっておきなさい。鉄三さんは自分でここを選んで、今、頑張ろうって思っているでしょうから、こんな話を聞けば、ガッカリするかもしれないからね。とにかく、幸ちゃんと3人、本当の家族になってしっかり生きていけるようにしましょうね。」
「ありがとうございます。本当に・・色々とお世話になります。・・・」
「礼を言うなら、銀ちゃんよ。・・・勘違いならごめんなさいね、きっと、銀ちゃんはあなたに惚れてるわね。とことん惚れ抜いてるわ。でなきゃ、ここまで尽くせないでしょう?なのに、あっさり、弟に渡しちゃうなんて、どうしようもない人ね。」
女将さんは笑顔でそう言った。

その日から、和美は言われたとおり、奥の家事一切をやる事になった。
主人と女将さんは、朝6時には起き出して、支度を整え仕事に入る。和美は5時から、そのための仕事を始め、炊事・洗濯・掃除などをこなした。午後には、店も少し暇になるので、女将や仲居たちが交代で幸一の世話を焼き、その間は和美が少し休むことができた。幸一は、女将や中居たちに気に入られ、皆から愛された。明るい店が、一層楽しい店になっていた。

鉄三は、しばらくは、見習いの智と一緒に、厨房の掃除や、鍋や皿洗いで仕事を覚えていった。村田屋とは違い、松屋の客は何倍も多く、使う食器や調理器具も多かった。一日中、流しに立って居る事もしばしばだった。ただ、みんな、楽しく仕事をする事を大事にしているのか、厨房には笑いが絶えなかった。


2-9-4:吉報 [峠◇第2部]

 鉄三は、松屋に来てすぐに、銀二に手紙で松屋の様子を知らせていたが、兄からの返事は無かった。和美も、セツさんへの手紙を送っていたが、返事がなかった。しかし、ここでの忙しい日々は、向島からの返事が無い事を忘れさせていた。

 松屋での暮らしが2ヶ月を過ぎようという頃の出来事だった。
 早めに仕事を上がった澄子が、通用門から出たところで、慌てて、松屋に戻った。
そして、仲居主任の輝子に、
「輝子さん!輝子さん!・・大変です。長屋の入り口に、変な人が立ってるんです。私、怖くって・・きっと、変質者か何かです。警察に知らせたほうが良いです。」
「ちょっと落ち着きなさい。・・一緒に見に行ってあげるから・・」
そういうと、主任の輝子と澄子は、恐々、通用口を出て、門の影から、様子を見た。暗い中に確かに男が立っている。輝子はじっと目を凝らして、その男の人相を伺った。
「あら!銀二さんじゃない?・・・ねえ・・・あ、そうか。澄ちゃんは知らなかったかしらね。」
そう言うと、人影に駆け寄っていった。

「銀二さん!こんなところで何してるんですか?お店に来てくれればいいのに。」
「やあ、輝子さん。元気そうだな。・・いや・・鉄三に用事があって・・店に行くと、迷惑掛けちまうからさ。ここで待ってればと思ってな。」
「何言ってるんですか。迷惑だなんて・・。それに、こんなところに立ってるから、澄ちゃんが怖がって、今、警察を呼ぼうかとしてたんですよ。」
「ええ?俺、そんなに怪しかったか?そりゃあ、済まなかったね」
 銀二は、松屋には顔を出さず、長屋の前で、二人の仕事が終わるのを待っていたのだった。
「さあ、店のほうへ行きましょう。」
「いや、すまん。余り、鉄三には、俺と松屋の関係を知られたくないんだ。ちょっとした知り合いくらいにしておきたいんだ。だから、今日は、ここで待っていようと思ってるんだ。また、ご主人と女将さんには、挨拶に行くから・・」
「そうなの?・・判ったわ。・・でも、まだ、仕事は終わっていないはずよ。・・・こんなところじゃ寒いでしょ。そうだ、お休み処で待っていたらどう?あそこは、銀ちゃんが作ってくれっていったんでしょ?敷居の高い店じゃダメだ、金が無くても寄れるような店が好きだっていったんじゃない。」
「そうか、そうするか。・・実は、さっきから寒くってよ。ちょっと小便したかったんだよ。」
「まあ!さあさあ、どうぞ。」

そう言われて、銀二は、店の玄関に回って『お休み処』で二人が仕事を終わるのを待つことにした。
銀二が来た事は、二人より先に、女将と主人の耳に入った。主人は厨房の仕事が忙しく手が離せない状態だったが、女将が客の相手の合間に、顔を出した。
「また、突然現れるんだから・・連絡くらい頂戴よ。」
ちょっとふくれっ面でそう言った。
「いや、今日は、鉄三と和美に用事があって来ただけだから・・」
「あら、ごあいさつね。私には会いたくなかったって訳?」
「いや、そういうつもりじゃないんだが・・」
「で、何の用なの?ちゃんと三人仲良く暮らしてるわ。それに仕事もしっかりやってくれてる。銀ちゃんより、鉄三さんのほうがよっぽど頼りになるかもね。和美ちゃんは幸せ者ね。」
「ふん。そうかい!・・まあ、いいや。今日来たのは、二人の籍の事なんだ。」
「ああ、そうね。駆け落ちしてきて、そのままなのよね。ちゃんとした夫婦にしてやらないとね。」
「ああ、元々、和美は身投げして行方不明になっているわけだし、戸籍に困ったんだが・・・何とかなってね。それを教えてやろうと思ってさ。」
「それはきっと喜ぶわ。今なら、二人も夫婦らしく見えるし、何より幸ちゃんがきっと安心できるしね。」

そんな話をしていたら、鉄三と和美がやってきた。銀二が来ているからと少し早めに仕事を終えたようだった。
「兄ちゃん!連絡なしで突然くるなんて・・松屋の皆さんにご迷惑だろ!済みません。女将さん、兄ちゃん・・いや・・兄は田舎者の漁師なんで、何の礼儀もわきまえず、本当に済みません。ほら、兄ちゃん、謝るんだよ!」
鉄三が、やけに大人ぶった口調で詫びたのが、銀二も女将も可笑しかったが、とりあえず、鉄三の言うとおり、詫びた。
「銀二さん。・・・ありがとうございました。ちゃんとやってます。幸一も随分大きくなりました。」
和美が、頭を下げる。銀二は、あの日以来の和美の姿に、少し戸惑った。そして、あの日よりも、落ち着いてしっかりとお母さんの顔になっている和美を眩く感じていた。
女将が口を挟んだ。
「さっき、お兄様からお聞きしたんだけど、あなた達、まだ籍を入れていないんですってね。」
「はい。いろいろ事情があって、何より、駆け落ちした身では、・・」
「ええ、わかっています。でね、お兄様が、入籍の手はずを整えて下さったんですって。」
「ええ?本当なのかい?」
鉄三が驚いたように言った。
「でも私の戸籍は・・・」
和美も、半ばあきらめていた事だっただけに、戸惑っていた。
銀二は、鞄の中から封筒を取り出して、二人に戸籍謄本を見せながら、
「うん。和美の戸籍は苦労したそうだ。俺じゃ出来なかったが、村田屋のご主人が骨を折ってくださってね。和美には新しい戸籍が取れたんだ。だから、二人で婚姻届を出して、法律の上でも本当の夫婦になってもらいたくてね。」
村田屋という名前を聞き、鉄三も和美もさらに驚いた。かわいい初孫を連れて出てきてしまい、さぞかし落胆し、恨んでいるだろうと思っていたのだ。和美が確かめるように訊き直した。
「村田屋のご主人が、戸籍を作って下さったって本当なの?」
「ああ、何でも、村田屋に和美が来たときに、味方になる約束をしていたのが果たせなかったからと詫びていたよ。それで、いろいろと当たって下さってね。感謝しなきゃあな。」
「ああ・・・なんて、お礼を言ったらいいんでしょう。・・それなのに・・私ったら・・」
和美は、あの事件で感情のまま、村田屋を飛び出してしまった事を今更ながらに悔いていた。
「なに、大丈夫だ。今だから言うが、村田屋のご主人は、お前たちが夫婦になって幸一と幸せな家庭を作ってくれるのが一番の望みだったそうだ。だから、裕子の一周忌を機会に、鉄三が決断するように、いろいろと考えてくださったようだよ。」
「それじゃあ・・・もしかして、龍厳寺の住職のところへ行かせた時から、そう考えて?」
鉄三が、あの頃の事を思い出しながら尋ねた。
「ああ、住職も村田屋に賛同して、何とかお前が決意するようにと話をしたそうだ。」
「兄ちゃんも?」
「いや。俺は全くそんな事になっているとは知らなかった。だが、みんなお前たちの幸せを願っていたんだよ。」

横で話を聞いていた女将は、手にハンカチを握り締めて、ぼろぼろと泣いていた。そして、
「まあ、なんて話でしょう。向島ってところは皆さん温かい人ばかりね。やっぱり、あそこはいい所ね。私たちも・・」
と、銀二との出会いの話をしそうになったのを銀二が気付き、女将の言葉を遮るように、
「ほら、これ。渡すから、ちゃんと入籍するんだぞ。・・すみません。女将さん、立会い人になっていただけませんか?」
とお願いをした。
「あら、そんなに良いお役をいただいて良いのかしら?きっと、主人も喜ぶわ。・・入籍だけじゃなくて、ここで祝言を挙げましょう。めでたい事はみんなを幸せにするわよ。」
「いえ、そんな。もったいないです。それに、そんなお金もありませんし・・」
和美が遠慮した答えを聞いて、女将は、
「何言っているのよ、この子は。あなたの母親代わりとしては、それくらいさせてもらうわよ。そうね、明日は休みだから、ちょうどいいわ。大広間で祝言を挙げましょう。いいわね。銀ちゃ・・いや、お兄さんもいいでしょ。」
女将の勢いは止まらなかった。
「ありがとうございます。何とお礼を言ったら良いのか。・・・済みません。女将さん。俺、すぐにも戻らないといけなくて。・・ここまで来る貨物船が明日朝早くに出航なんで。」
「また、船できたの?」
女将のこの一言で、鉄三がおかしな顔をした。銀二も、今の言葉で鉄三が何か感じ取ったのが判った。
「またって、え?兄は前にもお邪魔した事があるんですか?」
「いや。・・・俺は初めてだぞ。・・・・」
「ごめんなさい。言い間違いよ。何で、そんな船で来てすぐに帰るなんてね。帰りの汽車賃くらい、私が出しますから。」
「いえ、仕事のついでに、ちょうど来れたんで、乗組員が足りなくなると船のほうで困るんです。」
「あらそうなの。それなら、時間がもったいないわ。すぐに、あなたたちのお部屋にお連れしなさい。さあさあ・・」
これ以上話をしていると、またぼろが出そうなので、女将は部屋を出て行った。

2-9-5:3人の部屋 [峠◇第2部]

二人の部屋で
鉄三と和美は、銀二を連れて長屋に向かった。玄関を開けて電灯をつける。
「ほう、結構、良い家じゃないか。3人で暮らすにはちょうど良いなあ。」
「本当さ。もったいなくらいだよ。来た時にはもう用意してあったし、畳も新品、布団も新品だったんだ。」
「そりゃあ、もったいない事だ。まあ、贅沢せずに普通に暮らすのが一番だ。」

銀二はそういうと、部屋に上がりこみ、ごろんと横になった。そして、
「なあ、鉄三。良い女将さんじゃないか。お前たちのために、祝言を挙げてくれるなんてなあ。」
銀二の横に座って、鉄三が、不安げな顔で聞いた。
「本当に良いのかなあ?・・・兄ちゃん?」
「やってくれるって言うんだから、良いじゃないか。それよりも、みんなに祝福される事を一生忘れず、精進するんだぞ。」
「うん、そりゃ、充分判ってるよ。一生、ここで尽くすよ。」
「そうか・・・でもな。ここにずっと居るってのはどうかな?」
「どういうことだい?」
「女将さんやご主人にとっては、そりゃあ頼りになる料理人がいるのは心強いかもしれん。だがな、そうじゃないって俺は思うんだよ。もっと違う形で恩返しする事もあるんじゃないか?・・まあ、よく考えてみろ。」
「うん。でも、まだ一人前にもなってない。まだまだ修行していかないと・・」
「そうだな。まずはここの中で一生懸命に勤める事だな。」

和美は、幸一を布団に寝かしつけながら、兄弟の会話をじっと聞いていた。
心の準備も無く、突然現れた銀二に、和美は戸惑っていた。もう二度と会う事がないのではと思っていた。
心の中に封印していた気持ちがまた溢れそうになっているのが判る。
だが、それを鉄三に感づかれるのが一番怖くて、平静にしているのに苦労していたのだった。銀二も、和美に話しかける事が出来ないで居た。

「兄ちゃん、明日は早いんだって?」
「ああ、貨物船に乗っけてきてもらったからな。・・・おい、今、何時だ?」
「え?ああ、今12時を回ったところだよ。」
「お前たち、明日は祝言なら、早く休まないとな。・・そろそろ、俺も明け方には船に戻らないとなあ。」
「明け方じゃあ、バスも無いし・・タクシーを呼ぶかい?」
「そんな心配要らないんだよ。実はな、ここまで歩いている途中で、自転車屋の前で、そこと親父が修理に難儀をしていたんだ。それで、ちょっと手伝ったらな、自転車貸してくれたんだ。世の中、捨てたもんじゃないぞ。良い人はいるもんだ。」
「兄ちゃんはいつもそうだね。何だか、誰とでも仲良くなって、助けたり助けられたり・・」
「そうかい?・・・まあ、人は一人じゃ生きていけない。いつも誰かに助けられてるもんだ。まあ、感謝の気持ちを忘れない事だな。」
「うん。そうだね。」
「なあ、ちょいと疲れたから、少し寝かせてくれ。明け方には勝手に出てくから・・」
銀二はそういうと、すやすやと眠ってしまった。相当疲れていたのだろう。

鉄三は、ちらっと和美のほうを見て、
「もう寝ちまったよ。・・済まないね。素っ気無いのは変わってないみたいだ。言いたい事だけ言って寝ちゃったよ。」
そう言って、笑った。和美は、銀二の寝顔をじっと見て笑った。

3時間ほど経った頃、銀二は目を覚ました。
まだ、夜は明けていない。静かに起き上がって、身支度を整え、そっと部屋を出て行った。
朝の空気が冷たかった。船員用のジャンパーの襟を立て、夜空を見上げた。
松屋の通用門まで来ると、銀二は深々と頭を下げた。そして、振り返ると、和美が立っていた。

何か言おうとする和美に向かって、自分の口にひとさし指を当て、『話すな』という合図をした。じっと和美の目を見たまま、銀二は、こくりと頷いて見せた。
『これで良かったんだ。幸せになれ』・・和美には、銀二がそう言っているのが判った。
そして、和美も、銀二と同じように、こくりと頷いてみせた。
それを見て、銀二は自転車に乗って、暗い夜道を走っていった。
和美は、銀二の姿が闇に溶け見えなくなるまで、見送った。

部屋に戻った和美は静かに布団に潜り込んだ。冬の夜風で身体の芯まで冷え切ってしまったが、心の中は温かかった。
「兄ちゃん、帰ったか?」
鉄三が、そっと呟いた。
鉄三に気付かれないように、静かに見送りに出たつもりだった和美は、びっくりした。
「はい。」
和美が小さく答えると、
「そうか。」
鉄三は、そう言って、冷たくなった和美を抱き寄せ、温めてやった。鉄三の温もりが和美を包み込んだ。

2-9-6:祝言 [峠◇第2部]

朝から松屋は賑やかな声が響いていた。
松屋の女将は、鉄三と和美の祝言の準備に、従業員たちを集めていた。
「みんな、お休みの日に済まないけど、今日、鉄三と和美の祝言を挙げることになったのよ。予定の無い人は手伝ってもらえないかしら。」
祝言と聞いて、若い従業員たちは、色目気だった。みな、予定を取りやめてでも、祝言の準備をすると言い出していた。

仲居主任の輝子が、仲居たちの役割をぱっと決めた。
「それじゃあ、みんな、いいわね。ここで祝言なんて久しぶり。気を入れて準備しましょう。和子さんと桂子さんと良子さんの3人で和美ちゃんの支度をお願いね。それから、幸子さんと洋子さんは鉄三さんの支度。澄子さんと晴美さん、まゆみさんは私と一緒にお部屋の支度よ。いいわね。」
「はい。」皆、声をそろえて返事をした。そして、それぞれが分かれて支度に入った。

厨房でも、主任の加藤が、皆に祝言の料理の差配をしていた。
「めったにできる事じゃない。良いか。この機会に、祝いの膳をしっかり勉強しけよ。」
そこに、鉄三が割烹着を着て顔を出した。副主任の吉井が言った。
「おいおい、今日はお前は花婿なんだからさ。支度をしなよ。」
「いえ、私も修行中です。勉強させてください。」
それを聞いた加藤は、
「いい心がけだがな・・・支度も大事だぞ。まあ、今日は良いから・・。」
「せっかくのお休みなのに皆さんにお手数を掛けさせてしまって済みません。・・それなら、一つだけお願いがあるんです。」
「なんだよ。言ってみな?」
鉄三は、祝言の料理に一つ加えて欲しい料理を言い、それだけは自分で作らせて欲しいと頼み込んだ。
「よし、判った。俺もそいつは教えてもらいたいもんだ。やってみな。」

和美は、仲居の和子に言われて、広間の隣にある、鶴の間に、幸一と二人で座っていた。
「さあ、これが花嫁さんの衣装よ。私のものだけど、着てちょうだいね。」
女将がそう言って、衣装を一揃い持って入ってきた。その後ろに、高校生の娘の恵が、包みを大事に抱えて持ってきていた。
衣桁に広げると、見事な白無垢だった。
「女将さん、こんなに大切なもの、私、着られません。」
「何言ってるのよ。昔から、白無垢は娘に譲るものでしょう。古いものだけどね、着てちょうだい。」
「でも、・・これは、恵さんのものですから・・もったいないです。」
それを聞いた恵が、
「あら、お姉さん、いいのよ。お姉さんに着てもらいたいの。それに、私は、結婚するときはドレスが良いんだから。」
そう言って、ペロっと舌を出した。
「まあ、なんて娘なの。・。。・・だからね、遠慮なく着てちょうだい。ああ、それから、幸ちゃんにもね。」
そう言って、子ども用の洋服を見せた。
「これもね、お古なのよ。・・実は、私、男の子がいたのよ。3歳で亡くしちゃったんだけどね。良かったら、着て貰えないかしら。他にもたくさんあるから、また、見せてあげるわ。・・・あら、もうこんな時間、私も支度しなくちゃ。・・ああ、着付けは和子さんがベテランだからね。今来るからね。」
女将さんはそういうとバタバタと部屋を出て行った。娘の恵が部屋に残っていた。和美がここへ来てから、奥の家事一切をやるようになって、恵とは毎日のように顔をあわせていた。恵には、お姉さんのような存在だった。
「お姉さん、おめでとう。良かったね。」
「ありがとう。皆さん良い人ばかりで、本当に幸せです。ここに来て良かった。」
「実はね、お姉さんがうちに来てから、訊きたかった事があったんだけど・・訊いていいものか迷ってたんだ。でも、祝言って聞いたからようやく訊けそうで。」
「なに?」
「駆け落ちってどうなのかなって。ほら、許されない仲になって逃避行ってちょっと憧れるじゃない。故郷を捨てて好きな人と生きていきますってカッコいいって思う反面、何だか暗い人生っていうのもあって。日頃のお姉さんを見てるととてもそんな大胆な事が出来る人じゃないとも思えるし、鉄三さんだって大人しくて優しい人でしょ。ちょっと不思議だったのよね。」
これには和美も答えに困った。許されぬ状況ではあったが、胸を焦がすほどの恋をしていたわけではなかった。どう説明していいか迷っていた。そして、
「そんなにカッコいいものじゃないわ。また、今度ゆっくりお話しするわ。」
と答えた。恵はちょっとガッカリした様子だったが、そこへ
「さあ、とびっきりのお化粧をしないとね。・・あら、お嬢さん。ちょうど良かったわ。ねえ、幸ちゃんをしばらく見ていてもらえません?」
と和子たちが入ってきて話は中断してしまった。
その頃、隣の松の間には、幸子と洋子が困っていた。主人から借りた紋付衣装を持ってきたものの、花婿さんが居なかったのだ。探し回った挙句、厨房で調理している鉄三を見つけた。支度をするからと言っても、料理が出来るまで待ってくれとの一点張りで、やむなく、引き上げてきたのだった。

11時には、料理も出来上がり、支度も無事終わった。広間には、みな、着席して式が始まるのを待っていた。
幸一を真ん中にして鉄三と和美が着席した。両脇に、主人と女将が座り、式が始まった。
厨房の男性陣が、高砂を謳い、洋子とまゆみの介錯で、三々九度の杯を交わし、婚礼の儀式が静かに進んでいった。
披露宴となり、料理が運ばれてきた。お膳には、見事な会席料理が並んでいる。松屋は名古屋でも老舗の料亭であり、大衆料理から高級会席料理まで高い評価を得ており、日頃から目の肥えている従業員にしても、今日の料理はため息が出るほどのものだった。ただ、祝いの席にあるはずのものが1品足りなかった。
ご主人が、「さあ、祝いの料理が揃った。いただこうか。」と箸を取り、お膳に目を向けて気がついた。
「おい、大事なものが足りないぞ。」
すると、料理主任の加藤が、
「大丈夫です。・・・もういいか、鉄三?」
「はい。お願いします。」
その言葉で、見習いの大野とまゆみが、お碗と大鍋を運んできた。みな、不思議そうに見ていると、鉄三が、
「本日は、私たちのためにこのような席を作っていただき、何といってお礼をしたらいいのか・・本当にありがとうございます。半端者の私たちですが、これからもどうぞよろしくお願いします。」
と挨拶した。そして、こう付け加えた。
「お礼と言っては何ですが、ここに来て初めて作った料理です。田舎料理ですが、お召し上がりください。」
大鍋の蓋を開けると、良い香りが広間に広がった。お碗によそわれ、配られた料理は、『鯛汁』だった。
「祝いの席には、鯛は付き物ですが、私たち夫婦には、尾頭付きの立派な鯛よりも、この料理の方が似合っています。」
と説明した。みなは、その香りに感心して箸をつけようとした時だった。
和美が、
「ちょっと待ってください。ねえ、澄子さん、庭の山椒の木から葉を摘んできてくれない?」
そう頼んだ。澄子が、急ぎ、庭に行き、葉を摘んできて、和美に手渡した。
「これを掌に載せて、ポンと叩いてからお碗に浮かべてください。」
皆、それぞれに音を出す。それぞれ、大きな音を出すものもいたし、ぺちゃっと潰れたような音だったり、何度も叩いているものもいた。その音と光景が楽しくて、一気に宴会が沸いた。その後、そっと、お碗に浮かべる。
鯛汁の香りと山椒の香りが混ざり合い、海と山の幸を一度に味わえるものになった。
ご主人が、
「これは美味い。晴れの日に、なんとも風情のある料理だねえ。夫が作り、妻が色を添える、祝言の日に支えあう料理・・・良いねえ・・・温かい人情を思い出させてくれる料理だねえ。・・・鉄三、この料理、もっともっと磨いて、看板料理にしておくれ。お前にしか出せないとっておきの料理にするといい。」
料理人の鉄三には、一番の祝いの言葉だった。その言葉に、鉄三は、涙ぐみながら答えた。
「ありがとうございます。・・・この料理、兄ちゃんが教えてくれたんです。大事な人に食べさせるための料理だって。」
ふと、横を見ると、和美もはらはらと泣いている。和美は、鯛汁を通して、銀二の温かさを今一度感じていた。


2-9-7:お休み処 [峠◇第2部]

 松屋に来て、1年が過ぎた。
鉄三は、祝言で鯛汁を出して以来、汁物の料理を負かされるようになっていた。ご主人に言われたとおり、あの日から『鯛汁』だけでなく、いろいろな汁物を勉強している。ただ、概して、ここに来るお客さんは、御酒の席が多いせいか、濃い味が好みらしく、鯛汁以外の汁物は、不人気であった。

一方、松屋では、『お休み処』を改装して、ぶらりと立ち寄り、気楽に食事もできる場所に変えていた。以前からも、「料亭は敷居が高い」と言われている事を何とか変えたいとご主人は考えていたのだが、鉄三と和美が来たのをきっかけに、思い切って始めたのだった。

料理の仕事を本格的に始めた鉄三と、奥の仕事にも慣れてきた和美に、『お休み処』の仕事を任せる事にした。最初、二人はそこの料理で、松屋の評価も受ける事になるから、半人前の人間には荷が重いと躊躇していたが、女将さんが、「ならば、献立もひとつに絞ってみたらどうか」と薦め、ご飯と鯛汁を中心に季節の揚げ物の付いた『潮風定食』だけになった。もちろん、『お休み処』なので、お茶を飲むだけでも立ち寄れるという約束はそのままであった。

この頃、名古屋の駅前の開発が進んでいて、駅裏には、地方からの出稼ぎ者が多かった。少ないお手当ての大半を故郷に送り、わずかな生活費で暮らす人にとっては、松屋は縁遠かった。だから、大きな案内の貼紙をしても、皆、チラッと見ては通り過ぎるだけであった。煌びやかな概観の松屋はやはり敷居が高かったようだった。

ある日の午後、和美が、店先の掃除をしていると、御婦人が、松屋の前で大きな荷物を抱えて立ち止まっていた。どうやら、誰かのお宅を訪ねるところの様だったが、道が判らず難儀をしている様子だった。
和美が声を掛ける。
「こんにちは。どちらかお探しですか?」
ご婦人は躊躇いながらも、一枚の紙を広げた。その紙には、駅からの道筋が書かれていたのだが、どちらが北か南かも判らなず、かなり大雑把に書かれたものだった。
「ここへ行きたいんですが、ちっとも判らなくて。・・私の息子が住んでいる所です。私は字が読めないので主人が地図を書いてくれたんですが、いい加減なもので、もう2時間くらいこのあたりを歩いてるんです。」
「それは、お困りですね。もしよろしければ、少し、お休みされたらいかがです?店のものなら、住所を聞けば判るものもいるでしょうから・・どうぞ?」
と案内した。ご婦人は、随分遠慮されていたが、かなり疲れた様子で、『お休み処』へ入っていった。和美は、仲居たちに事情を話した。副主任の和子が、尋ね先の住所に心当たりがあるからと言って、出て行った。
ほどなく、戻ってくると、
「息子さんがもうすぐこちらにお見えになるそうです。」
と伝えてくれた。

「あの・・おふくろがこちらにお邪魔しているとお聞きしたんですが・・・」
まだ、10代と思しき青年が現れた。
「ああ、剛司。」
その後婦人は立ち上がって、その青年に抱きついた。
「なんだよ、母ちゃん。突然来るなんて・・びっくりするじゃないか。」
「・・・だって、ちっとも電話もしてこないし・・・病気にでもなってるんじゃないかって・・」
中学を出て、すぐに、名古屋の建設会社に就職した。故郷を出てから、一度も帰郷できずにいたのだが、少し前に体調を崩してしまっていて、電話もできずにいたのだった。音信が無いのを心配した母親が、尋ねてきたということだった。
「さあ、うちへ行こう。ここは俺たちが来る様なところじゃない。本当にご迷惑をお掛けしました。」
青年は頭を下げる。それを聞いた和美が、
「そんな事ないんですよ。ここは、ご近所の皆さんに、気軽に立ち寄ってもらいたくて開いているんですから。」
青年の母親も、
「この人が声を掛けてくれて、あたしゃ,ほっとしたよ。・・久しぶりにお前に会うんで、田舎の土産もたくさん持ってきて・・もう重かったんだから・・ちょっとくらい休んでいたっていいじゃないか。」
「田舎のお土産ってどんなものなんですか?」和美が尋ねた。
「ああ、これさ。」
持っていた鞄を開くと、何重にも包れた袋から、漬物を取り出した。田舎の畑で取れた白菜や大根等を漬けたものなのだろう。
「まあ、おいしそう。みんなお母様が?」
「まあね、田舎じゃみんな自分でこさえるからね。・・漬物は自信があるんですよ。・・良かったらどうぞ。」
「ありがとうございます。・・それなら、今、ご飯をお持ちします。ここで、ご一緒に夕飯を済まされたらどうですか?汁物もありますから。」
それを聞いた青年が、
「あの、お高いんじゃないんでしょうか?」
「あら、何をおっしゃるんです。お代なんていただきませんよ。お母様のお漬物を少しいただければ結構ですから・・」
「それなら、お願いします。まだ、稼ぎが多くないですが、せっかく田舎から出てきてくれたお袋にも何かしてやりたいとは思っていたんです。こんなお店で食事が出来るなら・・」
「判りました。すぐご用意しますからね。」
厨房にすぐ連絡し、二人前のご飯と鯛汁が用意された。
二人はゆっくり味わいながら、田舎の事、名古屋での暮らしの事など語り合っていた。
「ご馳走様でした。何だか、田舎に帰ったような気分でした。お袋も、随分喜んでいます。ありがとうございました。」
二人は、うれしそうに店を出て行った。

数日が過ぎて、急に、『お休み処』を訪れる客が増えてきた。昼には仕事休みの作業員が数人連れ立ってくるようになった。

ある日の昼の事。
「おお、ここだ、ここだ。鯛汁が美味しいって、ほら、剛司のやつ、宣伝してたじゃないか。寄ってみよう。」
「鯛汁なんて、懐かしいなあ。」
そう言って、客が二人入ってきた。
和美が、お茶とお絞りを持っていくと、
「あんたが、和美さんかい?剛司が世話になったんだってね。ありがとう。」
と、中年の男性客が話しかけてきた。
「そいつが、ここの定食、涙が出るくらい美味しかったって、会社で話していてね。何人か、来たらしいんだが、やっぱり皆、そう言うんだよ。で、来たんだって。」
「まあ、それは、ありがとうございます。剛司さんにも、またおいでくださいとお伝えください。」
「ああ。・・・鯛汁なんて、ここらじゃなかなか無いからな。俺の故郷じゃ普通だがな。」
「え?どちらのご出身なんですか?」
「俺は、山口さ。こいつは、福岡だ。今、駅前のビルの工事で、来てるんだよ。あそこの工事現場、九州や山口から出稼ぎに来てる人間ばっかりでね。ここの話を聞いて、皆、懐かしがってるんだ。・・板前さんもあっちの方の人かい?」
「ええ、山口からきています。」
「それじゃあ、きっと美味いはずだ。楽しみだね。」
「少々お待ちください。すぐにお持ちします。」
急に客が増えたのは、剛司が宣伝してくれたためだった。
それからもしばらく、客足が途絶えることなく、『お休み処』は繁盛した。客からも、昼だけでなく、夜もやってほしいと言われ、夜にも開くようになっていた。
和美は、朝は奥の仕事、昼と夜には『お休み処』の仕事と、一日中働くようになっていた。その合間に、幸一の世話もこなしたが、手が離せない時には、松屋の娘の恵がみる様にもなっていた。