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2-9-3:松屋の人々 [峠◇第2部]

翌日、5時には、鉄三は起き出していた。
村田屋に居た頃にも必ず目を覚まし、仕込みの仕事を始める時間だった。とりあえず、持ってきた割烹着に着替えると、静かに部屋を出て、松屋に向かった。昨日出てきた通用口を抜けると、厨房はすぐにわかった。もう湯気が立っている。

「おはようございます。お世話になります。鉄三です。どうぞよろしくお願いします。」
そう挨拶すると、一番、年長と思われる男が、
「おはよう。よく来たね。今日はまだゆっくりしていれば良いのに。私は、厨房の主任で、加藤。昨日、女将さんから話は聞いたよ。大将はもうすぐみえると思うから。よろしくな。それから、ええっと・・あいつは板前で桜井、それと、ああ、あいつが大野だ。あいつはまだ最近来たばかりで、見習い中ってことになってる。」
紹介された二人が、手を動かしままで、「おはよう」と返事をした。
「よろしくお願いします。・・・あの・・皆さん、何時から仕込みを始めているんです?」
「ああ、早出と普通とで分担してるんだが、朝はこの3人だけ。ここは料亭で夜のほうが忙しいからな。昨日、泊まったお客さんの分だけだから、ついさっき来たばかりさ。一応、5時ってことになってるから・・」
「あの、何かやらせてください。一日も早く仕事覚えたいんです。」
「まあ、そんなに焦らなくても・・前にやってたんだろ?」
「ええ、でも、こことは格が違いますし・・素人同然です。一から憶えなおします。厳しく教えてください。」
「わかった。・・なら、其処の鍋を磨いてくれるかい。・・ああ、出たところに水道があるから・・・」
示されたのは、大鍋だった。黒光がしていた。鉄三は、たわしと大鍋を持って、外の流しに行った。

「なかなか白くはならないでしょう。」
一心に鍋を磨いていると、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、白髪交じりの恰幅の良い男が立っていた。すぐに、松屋の主人とわかった。
「おはようございます。昨日遅くに参りました。鉄三です。よろしくお願いします。」
鉄三は立ち上がって、挨拶をした。
「ああ、おはよう。昨夜は失礼したね。常連のお客様がいらして、少しお相手をしていたものだから・・。」
「一生懸命働かせていただきます。厳しくご指導ください。」
「はい、わかりましたよ。・・でもねえ・・ここではあまり厳しくしない事にしてるんですよ。お客様あっての私たちでしょう。お客様第一です。働くみんなが、辛いとか嫌だなと思うと必ずお客様に伝わるんです。だから、楽しく愉快に働くんです。すると、お客様も楽しく愉快に過ごしてもらえるはず。真剣に仕事をやると楽しいものです。頑張らなくていいんですよ。真剣に楽しくやりましょう。」
鉄三は、少し面食らった。その様子を見て、主人は、
「うん、そうだ・・・ね、駆け落ちってなんだか何だか外れ者みたいに思い込んじゃうところがあるでしょ。だけど、世間の柵から抜け出して、自由に生きたいって思いきって飛び出したんだって考えればどうですか。それで幸せな人生ならいいじゃないですか。ようは自分が幸せかどうかでしょ。ものは考えようだから・・」
「はい。がんばりま・・・じゃなくて、真剣に楽しくやります。」
「そうそう、それで良い。・・あ・・それと、その鍋はどんなにこすっても白くはなりませんよ。・・ちょっと頭を使って・・何に使う鍋なのかって・・・使い方に合わせて綺麗にすれば良いんですよ。」
そう言い残すと、厨房に入っていった。


少し遅れて、和美も目を覚ました。幸一はまだ眠っていた。身支度を整えていると、隣の澄子が来た。
「おはようございます。よく休めましたか?・・あ・・あの、女将さんの言付けで・・今日は、7時くらいに来てくださいとのことです。それと・・幸一ちゃんも連れてきてくださいとおっしゃってました。」
「はい、判りました。・・あの・・皆さん、何時から働いていらっしゃるの?」
「あ・・早出の時は5時からになっています。普通の時は10時からです。私は昨日早く上がらせてもらったので早出になりました。それじゃあ、私、行きますね。」
「もうひとつ、お洗濯はどちらですれば・・」
「それなら、長屋の脇に水道とたらいと洗濯板もあります。干し場もあります。」
「ありがとう。」

昨夜は、すぐに休んでしまったので、部屋の掃除を始める事にした。
二人が来る事を予定して、部屋はきれいにされていたが、台所周りや風呂場などをもう一度、綺麗に拭いた。ようやく、空が明るくなり始めたところだった。
洗濯場に行くと、言われたとおり、たらいと洗濯板が整理されて並んでいた。一つを置き、洗濯を始めた。
幸一はまだオムツが取れていなかったので、昨日の汚れ物がたくさんあった。途中、何度か幸一の様子を見に行ったが、まだ起きていなかった。一通り、洗い上げるまで1時間近く掛かってしまった。

全てを終えて、部屋に戻ると幸一が目覚めて、泣いていた。そろそろ乳離れをさせなければならない時期だったが、まだ、欲しがるので抱きかかえて与えた。そろそろ、女将に言われた7時に近づいていた。

和美は幸一を背負って、松屋に向かった。通用口を入ると、数人の仲居が挨拶をしてきた。そして、女将さんの部屋に案内してくれた。
「おはようございます。和美です。」
「ああ、おはようございます。お入りなさい。」
女将は、昨夜と同様に、髪を結い上げ、昨日とは違う和服姿で、座卓の前で、帳面を見ていた。今日のお客の予定の確認をしているようだった。
「夕べは休めましたか?」
「はい。久しぶりにぐっすり眠れたようでした。ありがとうございました。」
「それは良かったわ。幸ちゃんは、機嫌が良いみたいね。」
「はい。普段から余りぐずるような事は無いので・・ただ、動き回るのでなかなか目が離せなくて・・」
「それくらい元気が無くちゃね。ああ、それで、あなたの仕事の事で、相談をと思って・・」
「はい、何でもやります。おっしゃって下さい。」
「ええ、昨日、仲居主任の輝子さんとも相談したんですけど、まだ、部屋係は無理だろうし、幸ちゃんの世話もあるだろうから、当分は、店の仕事じゃなくて、私たちの身の回りのお世話をお願いしたらどうかと思っているんだけどね。まあ、1年もすれば、幸ちゃんもわかるようになるし、どうでしょうね。」
「そんな・・幸一は背負ってでも出来る仕事があれば何でもやりますから・・・。」
「そう?でもね、ここでは、あまり無理して頑張るのはダメなのよ。お客様が楽しく愉快に過ごしてもらえなければいけないでしょ。見ていて、可哀想なくらい辛い仕事はしないことにしているのよ。みな、楽しく仕事ができるようにっていうのがこの店の約束なの。・・だから、あなたも頑張らなくて良いのよ。」
「でも・・」
「頑張らないというのは、手を抜くのとは違うの。真剣にやる事なの。一生懸命やると楽しいっていう仕事を覚えてね。」
「はい・・判りました。一生懸命にやります。」
和美は、まだその意味がわからなかった。ただ、誰かの生き方に似ているように感じていた。

「ときに、あなた。銀ちゃんを知ってるわよね。」
和美は、女将さんから銀二の名前を聞いて、少し身構えて、すこし曖昧に答えた。
「はい。鉄三さんのお兄さんですよね。」
「これから話す事は二人だけの秘密にしておいて欲しいの。良いわね。」
「はい。」
「この店が今繁盛しているのはね、全て銀ちゃんのお陰なの。いいえ、銀ちゃんが居たから、私も主人もこうして生きていられるのよ。」
女将さんはそう前置きして、銀二との関係を詳しく話した。それを聞いた和美は、
「私も銀二さんに命を救われたんです。命の恩人なんです。私もこうしていられるのも銀二さんのお陰・・」
思わず、涙ぐみそうになっていた。
「そうなのね。実は、銀ちゃんが半月ほど前にここへ来て、若い二人を預かってほしいって頼みに来たの。すぐ承諾したわ。せっかくの恩返しですから。でも、銀ちゃんは、二人を甘やかさず、厳しくして欲しい、一人前に生きられるようにしていんだって言ってたわ。鉄三さんのこともそうだけど、随分、あなたの事を気に掛けていたのよ。ちょっと妬けるくらい、あなたの事を大事に思っているようだったわ。」
女将の話をじっと聞いていた和美は、銀二を思い出して、胸が締め付けられる思いがしていた。
「だから、私、あなたのお母さんの代わりをしてあげる事にしたわ。お母さんは子どもには厳しくて優しい。一人前になるまでは、ちゃんと教えるわね。でも、困った事があったら、いつでも何でも相談しなさい。良いわね。それと、銀ちゃんの話はあなたの胸の中にしまっておきなさい。鉄三さんは自分でここを選んで、今、頑張ろうって思っているでしょうから、こんな話を聞けば、ガッカリするかもしれないからね。とにかく、幸ちゃんと3人、本当の家族になってしっかり生きていけるようにしましょうね。」
「ありがとうございます。本当に・・色々とお世話になります。・・・」
「礼を言うなら、銀ちゃんよ。・・・勘違いならごめんなさいね、きっと、銀ちゃんはあなたに惚れてるわね。とことん惚れ抜いてるわ。でなきゃ、ここまで尽くせないでしょう?なのに、あっさり、弟に渡しちゃうなんて、どうしようもない人ね。」
女将さんは笑顔でそう言った。

その日から、和美は言われたとおり、奥の家事一切をやる事になった。
主人と女将さんは、朝6時には起き出して、支度を整え仕事に入る。和美は5時から、そのための仕事を始め、炊事・洗濯・掃除などをこなした。午後には、店も少し暇になるので、女将や仲居たちが交代で幸一の世話を焼き、その間は和美が少し休むことができた。幸一は、女将や中居たちに気に入られ、皆から愛された。明るい店が、一層楽しい店になっていた。

鉄三は、しばらくは、見習いの智と一緒に、厨房の掃除や、鍋や皿洗いで仕事を覚えていった。村田屋とは違い、松屋の客は何倍も多く、使う食器や調理器具も多かった。一日中、流しに立って居る事もしばしばだった。ただ、みんな、楽しく仕事をする事を大事にしているのか、厨房には笑いが絶えなかった。


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