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2-9-2:笑顔の迎え [峠◇第2部]

明るい玄関に入ると、数人の仲居が早足で近づいてきた。そして、二人の荷物を預かり、履物を下駄箱にしまい、赤い絨毯の廊下を先導して、『お休み処』という看板のある部屋へ案内した。皆、終始笑顔を絶やさなかった。
部屋の中には大きなソファが置かれていた。
「さあ、おかけください。今、お茶をお持ちしますから・・あ、それとお子さんはこちらへ休ませてあげてください。」
そう言うと、ソファの横にある引き戸を開けて、小さな布団を出して敷いた。和美はそこへ幸一を寝かした。
すぐにお茶が運ばれてきた。
「今、女将が参ります。ごゆっくりしていてくださいね。まあ、可愛い寝顔。・・お父様そっくりですね。・・小さな子どもって、見てるだけで幸せになれますね。本当、天使みたい。・・・お母様もお疲れでしたね。」
お茶を運んできた仲居が、そう言ってから、部屋を出て行った。

「失礼いたします。女将でございます。」
そう声がして、襖が開いた。そこには、髪を結い上げ、見事な和服姿の女将がかしづいていた。
女将は顔を上げると、
「おや、鉄三さんじゃありませんか?遠くから・・大変だったでしょう・・・」
そう言って近づいてきた。鉄三はソファから飛び上がり、女将の前に行くと、伏して、
「このたびはご厄介になります。突然のお願いに快く承諾いただけて、助かりました。ありがとうございます。」
と礼を言った。
「まあまあ・・そんな真似はよしてください。・・あの、そちらは?」
「あ、・・はい、和美と言います。宜しくお願いします。一生懸命働きます。」
「まあ、はっきりした話し方。奥様なのね。良いわね、若いって・・私、はっきりお話できる人、大好きなのよ。・・で、この天使のような寝顔の子は?そう、幸一くんなの?なんだか、ぐっすり眠ってるのね。ご挨拶は明日ね。・・・ねえ、ご飯食べたの?」
そう問われて、二人は顔を見合した。そう言えば、昼に食べてから何も口にしていなかった。
「何なのよ。料理屋に来ておなかを空かせてるなんて・・恥ずかしいわ。ちょっと!」
女将の声で、数人の仲居が飛んできた。
「この人たち、空腹みたいなの。ねえ、厨房に行って何か作ってもらって。・・・何でも良いわね?」
「いえ、握り飯だけで充分ですから・・」
「あら、この店で、握り飯なんて、結構高いわよ?・なんて、冗談よ。・・・まあ、何でもいいからすぐに・・」
言い終わる前に、仲居は厨房に走っていった。

ほんの数分で、仲居はお膳を二つ持ってきた。
「あいにく、最後の料理が出たところで、まかない食しかなかったんですが・・」
すまなそうにテーブルに置かれたのは、丼ものだった。
「ごめんなさいね。今日はお客さんが少なかったものだから、早めに厨房も片付けたみたいで・・」
「いえ、いただきます。」
そう言って、蓋を開けると、大きなてんぷらが乗った天丼だった。とてもまかない食と呼ぶには豪華すぎるものだった。
おいしそうなものを前に、急におなかが鳴った。鉄三は、箸を手にすると、作法などかまわずかきこんだ。キスとえび・サツマイモと素材はごくありふれたものだったが、今まで口にした天丼とは比べ物にならないくらいの味だった。
和美も遠慮がちに丼を手にして蓋を開け、箸をつけた。これほど美味しいものがあるのかと思うほどだった。
ものも言わず、一心に天丼を口にしている。

女将は、二人の様子を見て、ここまでの苦労を感じていた。昔、銀二に心中を止められ、生き直そうと決意したあとの食事を思いだしていた。生きようと思う時、人は食に固執する。美味しいものを口にできる時の幸せこそが、生きているという実感ではないかと常々考えていたが、この二人を見て、改めて、強く感じていた。

食べ終わったのを見計らって、仲居が器を下げに来た。
「いえ、自分たちで片付けますから。」
と和美が言ったが、女将が、
「もう今日は疲れているでしょうから、明日からしっかりやってくれればいいわよ。あなたたちは、今日まではお客さんでいいから。それから、事情があって向島には居られないって言ってらしたけど、事情はまたゆっくり教えてちょうだい。まあ、おおよそ見当は付くけど。まじめにちゃんと生きていく決心はお電話でよくわかったから。・・ああ、そうそう、あなたたちの部屋ね。この店の裏手に用意しておいたわ。そこは、うちの従業員がみんなで住んでる長屋だから気兼ねは無くていいわよ。・・そうね、ちょっと、誰か・・・ああ、澄子さん、あなた案内してあげて。もう上がっていいから・・いいわね。」
そう言われたのは、まだ二十歳そこそこの若い仲居だった。こくりと頷くと、二人の荷物を抱えた。
「どうぞ、案内します。」
「ごめんね。まだ、ここへ来て間もない子なの。青森から出てきた子よ。年も、和美さんと同じくらいじゃないかしら。隣に住んでるから、いろいろと訊くといいわ。それじゃあ、ゆっくり休んで、また明日ね。」

二人は、幸一をゆっくり抱き上げ、女将に深々と頭を下げて、用意された部屋に向かった。
出る時は玄関ではなく、裏の通用口だった。すでに履物は出口に置かれていた。

通用口を出ると、道を隔てた向かいに、その長屋があった。10軒ほどが繋がったような作りだった。
「ここです。これが鍵です。片付いてるはずです。わたすは、となりにいますがら、なにがあっだらいってけれ。」
「あ・・ありがとうございます。青森も遠いわね。遠い者同士、仲良くしてくださいね。」
澄子は、少しお国訛りが出たのでそう言われたのかと思いに、そのままうつむいて自分の部屋に入っていった。

 鉄三と和美は、鍵を開け、部屋の中に入った。扉の横の壁に電灯の紐があり、引くと裸電球が部屋の中を照らした。
半間ほどのタタキに小さな下駄箱。入ったところが3畳ほどの台所。続き間で、6畳ほどの和室と1間半の押入れと造り付けの箪笥がある。台所の奥に、風呂と便所。必要最低限の住まいだった。それでも、幼い幸一と3人で暮らすには充分に思えた。
9月末とは言え、まだ部屋の中は蒸し暑く、窓を開け、空気を入れ替えた。畳は新しくされたのだろう。い草の香りが強かった。荷物を置き、二人は座り込んだ。長い一日だった。ようやく訪れた安堵感からか、急に眠気が襲ってきた。
押入れを開くと、真新しい布団が二組置かれていた。脇には、子供用の小さい布団もあった。寝間着もあった。
子供用の布団を敷き、幸一を着替えさせてから、寝付かせた。

「俺たちも休もうか。」
鉄三はそういうと、寝間着に着替え始めた。ふと、見ると、和美が何か困った様子だった。
よく考えると、1年近く村田屋に一緒に住んでいたとは言え、こうして二人きりで布団を並べて眠るのは初めてであった。
和美は、鉄三の前で、下着姿になるのさえ、恥ずかしさを感じていたのだった。
幸一と一緒に暮らす事、鉄三と夫婦になる事、頭の中ではわかっていたはずだったが、いざこうなってみると、やはりまだ恥ずかしさを感じてしまうのだった。
着替え終わった鉄三は、布団を広げ、さっさと横になって目を閉じ、背を向けた。和美の気持ちを察してくれた事が判り、和美も、すばやく着替えて布団に入った。
身体はつかれきっているはずなのになかなか寝付けなかった。

「ここまで来てしまったね。」鉄三がぽつりと囁いた。
「ええ・・松屋の皆さんが優しくて・・来て良かったわ。」和美が答えた。
「ああ・・その分、しっかり働いて恩返ししなくちゃいけないね。」
「ええ・・村田屋さんや向島の皆さんの恩に報いるためにも、ここでしっかり生きなくちゃいけないわ。」
「俺、頑張るよ。兄ちゃんにも対しても恥ずかしくない生き方をするから。きっと幸せにするから。」
「ありがとう。私も頑張るわ。」
二人は静かに眠りについた。
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