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5日目④薩摩町の謎 [琵琶湖てくてく物語]

しばらく行くと、「あのベンチ」があった。SNSで広まったと知る。
私たちが歩いた時は、それほどでもなかったように思うし、同じようなところは、私の家の前、「萩の浜」にもあるように思うけど・・。
最近は、SNSの情報で、それまでなんでもないような場所が急に脚光を浴びることがある。SNSの影響の大きさには驚くばかりだ。
気になるのは、「SNS映え」という言葉だ。その場所の見た目だけで評価する風潮に、何か不安を感じる。風光明媚なことを否定するつもりはない。そういう場所で人々は癒されたり、力を得たりするのは、古来からの習わしである。ただ、それだけでなく、どうしてそういうものが生まれたのかという視点で想像力を高めてみてはどうかと思う。とりわけ、人工物であれば、それを生み出した人々の営みや想いに想像力を働かせてみることで、より深く知る事ができるのではないかと思う。
それに、私は、昔からすこし天邪鬼なところがあって(少しばかりではないと妻は言うけれど)、昔から、人の評価を安易に受け入れない。そして、自分が良いと思ったものでも人に勧めることはない。冷静に考えると、ただの頑固者の爺さんなんだろう。そんなんで、「あのベンチ」もさほど評価しない。(ちょっといいなあとは思うが)
いやいや、気分を害された方が居たら謝罪するが、まあ、気にせんでいただきたい。
自分の尺度で物事を評価する、それだけでいいんじゃなかろうか。
「あのベンチ」があるところは、石寺町。
地図を見るとちょっと面白いことが判った。貴石山・本龍寺を中心とした町をぐるりと取り囲むように水路がある。古地図をみると、埋め立てられる前の曽根沼の西のはずれに位置していて、沼と琵琶湖を繋ぐ川に、同じように輪中のような土地があった。おそらくその名残なのだろうと思う。
しばらく進むと、再び、さざなみ街道と合流する。数百メートル進んだところで、分岐。浜沿いの道へ入る。
妻が口を開く。
「あれって、さつまって読むのよね?」
看板に、『薩摩町』とあった。彦根市に、薩摩町というのは確かに違和感を感じる。
京都や東京であれば、徳川幕府の命により、全国の藩邸が置かれていたので、各地の地名が町名に残っていてもおかしくはない。だが、ここは、彦根市である。更に、今いるところは城下からはかなり離れたところになる。
初めに思いついたのは、この地域の干拓事業で遠く薩摩の地からやって来た人々が住み着いた地域ではないかということ。だが、古地図にはすでに『薩摩村』の地名があるので、違うようだ。
そもそも、『薩摩』という言葉はいつ生まれたのか。
調べてみると、大宝律令まで遡ることが判った。ただし、江戸時代になると、薩摩ではなく、鹿児島という方が一般的になったようなので、ここ薩摩町(旧薩摩村)が成立するのは中世ではないかと推察する。
余分な話かもしれないが、町の北側に墓地があり、墓石に刻まれた家名を見ると、山本さんが多かった。薩摩出身の武士が移り住んだとするなら、山本姓はあまり考えられない。山本姓は、長浜市湖北で栄えた一族があり、もしかしたらだが、薩摩村が開かれた後、山本姓の方が移り住んだのではないかと考える。
結局、薩摩町の由来は判らないままだが、この辺りの地形は古地図とほぼ同じであることが興味深い。今はさざなみ街道で分断されているが、薩摩町の東にある『神上沼』の形はほぼ同じ状態にあるし、薩摩町の隣には柳川町がある。さらに、中世(1000年頃)に築かれ、織田信長によって廃城となった田附城跡のある田附町がある。
この辺りはおそらく平安時代には既に集落があったのではないかと思う。

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5日目⑤新海 [琵琶湖てくてく物語]

再び、さざなみ街道に合流。
この先は宅地分譲されたような場所だ。湖岸側に整然と家が並んでいるが、どうにも古い感じだ。中には朽ちそうなところもある。随分以前に別荘地で売り出したところなのかもしれない。住んでいる人はまばらの様子だ。
少し畑が続いたあと、ローソンの看板が見えた。
この辺りは、「新海町」というらしい。
高島へ移住する前に、この辺りの移住先も探してみた。しかし、不動産屋からは「あまりお勧めできませんよ」と言われたのを覚えている。理由は判らないが、確かに、生活するにはかなり不自由なところなのかもしれない。何しろ、周辺に量販店はない。
ふと、左手を見ると、集落が見える。
さきほどの薩摩町のように、古い家屋が並んでいる。地図を見ると、道路もかなり入り組んでいて狭いようだった。そして、石寺町のように、集落の周囲には水路が巡っていて、集落の中央辺りに報恩寺という寺もある。この辺りの古い集落の一つの特徴かもしれない。
私の住んでいる高島市永田も同じように、安土時代に形成された大溝城下の古い地域には、水路を巧みに使った集落がある。
防御や防火、生活用水の確保など多様な役割を持った水路は生活インフラの基本だったのだろう。そういう暮らしを皆の協力で支えあう暮らしが長く続いていたはずだ。
だが、一方で、そういう集落だからこそ、新参者は受け入れてもらえない。新しい価値観を持ち込むことを極力嫌う保守的な文化がある。伝統を重んじることは大事だと思うが、固執する事で失うことも多いということも考えるべき。
高島市は人口減少に苦しんでいる。年間250人から300人程の人口減少が続いている。
市の財政はひっ迫し、インフラの保守整備もままならない。国は子育て支援策の充実を進め、人口減少に歯止めをかけようとしているが、高島市はすでに段階を超え、10年もすれば、他市との合併を考えなくては立ち行かなくなるのではと心配している。
地域の小集落は限界を迎えており、それでも伝統を守ろうと必死だ。神社や寺も財政難で苦しんでいる。・・ちょっと暗い話になったのでこれくらいで本筋に戻る。

ローソンを過ぎたところで、さざなみ街道から離れ、湖岸沿いの狭い道を進むことにした。実は、さざなみ街道を歩いている時、どうしても道路を走るトラックの騒音が気になったのだ。単調な道を歩いていると変なところが気になる。街中なら、車の騒音と新道なんてあって当たり前なのだが、これほど静かで単調な空間にいると感覚も変わってくる。
湖岸の道は、「湖の辺の道」というらしい。
突然大きな建物が見えた。琵琶湖コンファレンスセンターというらしい。それを過ぎると、住宅地らしいところに出た。ログハウスやテニスコート、研修所などもあるので、別荘地なのかもしれないと思い、地図を見ると、行く先には「新海浜水泳場」があった。今は冬なので人影はなく、寂れているようにも見える。
これ以上進んでも行き止まりだと判って、手前を左折してさざなみ街道に向かう。いや、失敗した。ここは大きな住宅地。すぐにさざなみ街道には出られない。住宅地の中の道をぐるりと回り込んで何とか出る事ができた。
何だか随分疲れてしまった。
湖岸を歩くのは、今回はここまでと決めた。さあ、最寄りのJR駅まで戻ろう。

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5日目⑥愛知川 [琵琶湖てくてく物語]

今回は、愛知川に掛かる「愛知川橋」をゴールとした。
この「愛知川」。豊橋から来た私にはちょっと不思議な読み方だ。
最初、「あいちがわ」だと思っていて、どうして、こんなところに愛知などという名がつく川があるのか不思議でならなかった。
だが、ちょっと調べてみると、これは、当て字のようだった。古くは「恵智川」と書いたようだ。広重の木曽海道六十九次の66番目の宿場として描かれたものにその名があるようだ。愛知県とは無関係のようだった。
愛知川は、鈴鹿山脈の雨乞岳を源流に永源寺町から琵琶湖まで注ぐ川である。東近江市や彦根市はその下流にできた扇状地にできた町と言える。
さて、最寄り駅は能登川駅のはずだがと、地図を調べてみる。まだ、かなりの距離がある。GoogleMapで経路を調べると、田んぼの中の道を進むことになりそうだった。
それならばと、愛知川の右岸を歩くことにした。すぐのところに橋があったが、工事中で通れず、そのまま進む。先ほど触れた「新海町」の南側の土手を歩いていく。川岸の土手の両側に樹木が鬱蒼と茂り、森の中を歩いている感覚になる。その先は、田附町。何だか戻ってきているようだった。
ずっと、土手の道を歩いていても味気ないので、脇の道を降りて少し集落の中を歩くことにした。区画整理がされた圃場の一番隅に集落がある。ほとんどの家に大きなガレージや納屋がある所を見ると、この周囲の圃場を管理している農家が多いようだった。途中、信行寺の前を通る。ここは古そうだった。周囲にもいくつか寺や神社もあるので、土手沿いはかなり古い集落なのかもしれないが、おそらく、住民が集まってきたのは、干拓事業のあとではないかとも思えた。
再び土手に上がり、進むと、橋が見えた。ちょっと今自分が居る場所が判らなくなってGoogleMapを開いてみた。この橋を渡らないとさらに遠くなりそうだった。
橋の名は、葉枝見橋。橋を渡る。愛知川を渡ると彦根市から東近江市へ入ることになる。橋を下ったところが、阿弥陀堂町。道路を挟んで、川南町。
それにしても、小集落の中に、寺と神社が必ずあるのは不思議だ。日本という国は、それ程信心深い国だったのかと思い知らされる。自分自身、観光で寺や神社に行くことはあるが、暮らしの中に根付いているとは言い難い。若い世代も同じなのではないだろうか。いつまで日本人は、神や仏を大事にしていたのだろうかと思う時がある。
少集落を抜けると田んぼの中を一直線に走る道路を歩く。
山路という交差点を左折すると、遠くに高い建物が見えた。おそらくあの辺りに駅がある。
かなり疲れが溜まってきている。
歩道を歩きながら、ずっと無言だった。
スポーツセンター前という看板の信号のところまで到達するとようやく住宅地に入った。振り返ると、「びわ湖よし笛ロード」の看板があった。今歩いてきた道はそういう名前だったのかと初めて知る。それにしても、ここまで来ると琵琶湖ははるかに遠い。ここらに住んでいる人には琵琶湖は余り身近とは言い難いのではなかろうか。
整然と並んだ住宅が続く。
能登川中学校西の信号を右折し、進む。
林中央公園に着く。入口に、パルテノン神殿のような(?)建物がある。
以前、ニュースで、この公園の冬のライトアップの事を見た事がある。まだやっているなら見たいとも思ったが、寄り道している時間はなかった。
能登川駅は目の前。
最後の力を振り絞って、駅へ向かう。

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5日目⑦能登川駅到着 [琵琶湖てくてく物語]

能登川駅前のフレンドマートに着いた。
時間は16時15分。日暮れまでにはまだ時間はあるが、今回はかなり体力を消耗した。
特に、愛知川沿いを歩いたところが最も辛かった。湖岸のゴールを終えて、駅へ向かうのは、或る意味「敗戦投手の仕事」みたいで、先へ進むという感覚が持てないのは精神的には厳しいことがよく判った。
フレンドマートで、ちょっと体を温めてから、駅へ。
能登川駅には、初めて来た。水車のオブジェがあるロータリー。フレンドマートと一体化している。
改札を抜けてホームへ。電車は17時01分。座席に座り休息した。降りる駅は南彦根駅。外はもう薄暗くなってきていた。
ぼんやりしていると、なんと、10分で到着。一日かけて歩いたところを電車では10分。余計に疲れが出た。
駐車場に向かい車に乗り込んでから、歩数計を見た。
33,877歩、距離は23㎞。
前回よりは長い距離を歩いているが、南彦根駅からスタート地点、ゴール地点から能登川駅までの距離を引くと、実質15㎞程度しか歩いていない計算になる。
疲れた割には進んでいない。
自宅へ向かう車中では、次の事を考える余裕がなかった。何故だか、随分と疲れてしまっていた。

家に辿り着いた時はもう外は真っ暗になっていた。
夕食をとりながら、妻とこれまでの事を振り返ってみた。
「やっぱり、トンネルの中を歩いたのはかなり記憶に残ってるわね。」
少し残念な記憶だ。
「修行みたいだったね。」
「ええ、無言で、騒音と戦いながら歩くというのは、修行というより拷問ね。」
まだ、あれくらいの距離だから耐えられたのかもしれない。
ふと、若い頃、信州に行く時に通った「恵那山トンネル」を思い出した。
運転免許を取ってまだ日が浅く、彼女と二人で、八ヶ岳に行った時の事だ。名古屋でレンタカー(ホンダ・シティ)を借りて、東名高速から小牧ジャンクションを抜けて中央道へ入り、眼前に迫る恵那山の下を抜けるトンネルを通る。8000mを越える長いトンネル。時速80㎞で走って6分ほど掛かる。眩いオレンジ色のナトリウムライトの中を走っていると、途轍もない圧迫感があった。免許を取って経験が少なかったことからか、同じような風景が長時間続いて、進んでいないような感覚になって、少し気持ち悪くなったのを思いだす。
免許を取って40年以上経った今は、さほど気にならないが、やはり、閉鎖された空間は苦手だ。いや、それ以上に、あのオレンジ色のナトリウムランプが苦手だったのかもしれない。最近は、ほとんどがLEDに変わっていて、昔とは比べ物にならないほどトンネルの中は明るく快適になりつつあるようだ。
「他には?」と訊いてみた。
「・・うんちくが・・うっとおしい・・かな。」
彼女は目を合わさず、缶ビールをグイっと飲んだ。

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5日目⑧中間点で振り返り [琵琶湖てくてく物語]

これまで5日間(5回)で歩いた道程は、184,495歩。距離は125㎞。
ようやく、琵琶湖半周になった。
琵琶湖の北東部に当たる、高島市・長浜市・米原市・彦根市・東近江市の5市を歩いたことになる。それぞれの町に特徴があり、考えさせられることも多かった。

歩くというのは、考えることかもしれないと思うようになった。
これまで、自動車での移動がほとんどだったが、やはり運転中は余り深く物事を考えることはできない。運転に集中すべきだから。
自転車もそんなに考え事は出来ない。
だが、「歩く」というのは、いろんなことを考える事ができる。
目から入ってくる情報から想像を膨らませることもできる。
遠くを見ながら、この先の事を考えることもできる。
妻と二人で歩いていると、思考の幅も当然増える。
4つの眼で捉えたものはかなり多くの話題を生んでくれる。
滋賀県に移り住んで、こんな機会がなければ、それぞれの土地の事を知り考える事もなかっただろう。
軽い気持ちで始めた事だが、かなり意味のあることをしていると知った。

豊橋に住んでいた頃も、街中を歩くことが楽しみの一つだった。マンションから見える景色のほとんどの街を歩いたと言っても過言ではない。だが、その頃は、主に、街中の花を見て回るのが目的だった。季節ごとに、庭先や道端に咲いている花を探し歩いていた。スーパーやコンビニも多かったので、歩き疲れたら、何か買って、気ままに休んでみたり、おしゃれな喫茶店があれば入ってみたり、ちょっと長めの散歩が多かった。
「琵琶湖てくてく」はそれとは全く違う。何と言っても1日20㎞以上歩くのだから、ぶらぶらというわけにはいかない。休み休み行くわけにはいかない。だからと言って、ただ無暗に歩けばいいというものでもなかった。道すがら、珍しいものを見つけては推理・推察しながら歩く。これまでの経験と知識をフル活用する。
体の健康と脳の健康の両方を維持する事ができると思う。
二人で歩くというのも良い。
何かのテレビ番組で、「夫婦仲はドライブした時間に比例する」と聞いた。根拠は忘れたが、確かに、二人で長時間狭い空間に居る事ができるのは夫婦仲が良い証だと思う。時々、ご夫婦で、運転席に御主人、後部座席に奥様という光景を見ることがある。
「あれってどうなんだろうね?」
妻が時々、そう言うことがある。
「後部座席の方が安全だからじゃないか?」
「そうかしら?一緒に出掛けて後ろに座るってよく判らない。」
妻は、「よく判らない」というフレーズをしばしば使う。彼女は「理解できない、納得できない、承服しない」などの意味で使うのだが、ややきつめの言い方の時は「否定」だ。
結婚して子供が生まれ、家族で出掛ける時、妻は必ず助手席に座る。子どもたちも、助手席はお母さんの席と認知し、妻が乗っていない時も、娘たちは助手席には座らない。我が家では、「助手席は特等席」となっている。

この先は琵琶湖の南半分。近江八幡市・野洲市・守山市・草津市・大津市を歩く。
北とはまた違った街並みを見ることになるに違いない。
特に、琵琶湖の南湖と呼ばれるエリアは興味深い。
さて、次は、いつから始めようか。

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6日目、①能登川から近江八幡まで [琵琶湖てくてく物語]

いよいよ後半。6日目は少し気温が下がった11月21日と決めた。
前回のゴール地点は、愛知川河口、愛知川大橋のたもとだったので、まずは、能登川駅に車で向かう。能登川駅では、フレンドマート隣接の駐車場に車を入れた。ただで駐車させてもらうのは忍びないので、フレンドマートで昼飯を購入して歩き始めた。
まずは、「びわ湖よし笛ロード」で本日のスタート地点、愛知川橋へ向かう。
一直線に延びる道路。能登川中学校、能登川グラウンド辺りまでは、住宅地ですいすいと歩いていける。そこを過ぎると、暫く田んぼの中を歩く。
秋が深くなると、草花もあまりなく、田んぼもすでに刈り取られていて、荒涼とした光景に見える。ここで一気に気力がダウンする。だが、まだ始まってもいない。
隣を歩く妻も静かだ。
元気の良い時は、周囲の風景から、時折、変なものを発見して「あれは何?」と子どものように尋ねる。
実は、妻は大学時代の同級生。
18歳の時、大学の新入生歓迎の企画で、同じサークルを見学した時に知り合った。黄色いカーペンタージーンズだったような記憶がある。髪の毛がマッシュルームカットになっていて、中学生くらいに見えたほどだった。
その頃から、彼女は常に何かにつけ興味を持つと人に訊ねる癖があった。結婚してからもそれは続いていて、今や、それで私が何かをこたえないと許さないという関係だ。私は彼女のその癖のおかげで、随分いろいろなことを調べ憶え、即座に応えるように訓練されてきたように思う。そしてそれは、仕事でも生かされてきた。
そして、その癖は、見事に、娘二人に引き継がれ、娘たちがまだ小学生や中学生だった頃は、会話の大半は、「あれは何?」「これってどういうこと?」という質問から始まっていたように思う。さすがに、大人になれば、そういうことは無くなるだろうと思っていたのだが、未だに、長女も次女も変わらない。突然、LINEで写真を送り付けてきて、「これ何?」と訊いてくる。下の娘はすでに結婚しているのだから、旦那に訊けと言いたいところだが、そこは、父親としてきちんと答えることにしている。
まあ、世間のことに何も興味も持たずぼんやり生きているより、疑問を持ち、知りたいと思う事は良いに違いない。だが、私をwikipedia代わりに使うのはそろそろ勘弁してもらいたいとも思うのだが・・。
小さな水路を渡る。
この水路は、伊庭内湖に繋がっている。ここらもかつては大きな内湖が広がっていたようだ。内湖には、「能登川水車とカヌーランド」という公園が整備されている。こちらに来る前、滋賀県の観光雑誌を買うと、ここの案内が大きく出ていたのを覚えている。びわ湖近くに住むのだからと、移住してすぐにカヌーを買ったが、まだ、ここには来たことはない。
その先に集落。乙女浜町というらしい。古地図にも、乙女濱村という記載があるので、内湖漁業で生計を立てて来た人達が住みついた場所なのだろう。この集落にもまた、中心部に寺、そして村の北側に大きな社、「濱之神社」がある。
そこを過ぎると、福堂町。ここも古地図に「福堂村」とある。そこからしばらくはまた田んぼの中をひたすら歩き、栗見出在家という信号に出る。ここで「さざなみ街道」に入ったことになる。一旦、愛知川橋のたもとに行き、本日のスタート地点に立った。すでに10時を回っている。

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6日目、②栗見新田 [琵琶湖てくてく物語]

出発してすぐ、「栗見新田」という集落になる。
その名前から、干拓後にできた新田だと思っていたが、干拓前の古地図にもすでに記されていた。ということは、江戸期から明治にかけて整備された圃場(田んぼ)なのだろう。
古地図を丹念に見ると、干拓前にここら一帯に広がっていた「大中湖」の西のはずれ、さすが伸びているところに小さな内湖があり、そこを丸く埋め立てた土地が二つ描かれ「栗見新田」と記載されていた。湿地帯を使った浮島の様な土地があったのかもしれない。集落の歪な地形がその名残なのだろう。
さらに、その先は「栗見出在家町」。
調べてみると、彦根藩が最後に行なった新田開発で出来た村だったそうで、土地が低いため何度も水害にあったとの事。家屋の周囲は石垣で守られていた。
おそらく、今まで歩いてきたところにあった町(村)は、みな同じような苦労をしてきた地域なのだろう。
そこを過ぎ、大同川に掛かる水車橋を渡る。
橋の上から見ると、その先の大中農地が広がっていた。橋からかなり下っていく感じで、水面よりも低い感じがする。やはり、かつてここに大きな内湖があったことが想像できる。
先に進もう。
ファミリーマートが見えたので小休止。
トイレを借りる。やはりただでトイレを借りるのは気が引けるので、タバコ1箱を買って出てきた。意外に小心者で律儀なのだよ。
そこから、いよいよ、山道に入ることになる。
ここは、伊崎山と奥津山の間の低い場所。峠と呼ぶほどではない。
古地図では「奥之島」「伊崎島」と描かれていたところだ。
島と言っても、砂州と葦原で陸続きで、周囲には、幾つもの村が描かれていた。この奥之島を古地図で見ると、幾つもの集落が書かれている。琵琶湖と内湖を巧みに使って豊かな暮らしがあったのかもしれない。
トンネルのように道路を覆う樹木の間を抜けると、堀切港だ。
琵琶湖唯一の有人島、沖島へ向かう連絡船が停泊していた。ちょっと寄り道して、港を覗いてみる。不思議なほどたくさんの車が停まっている。よく見ると、全ての駐車場に名前が書かれていた。沖島の住民がここへ車を停めているのだろう。沖島には車は必要ないし、入れない。だが、ここから近江八幡へ向かうには車は必需品に違いない。
今回、琵琶湖てくてくの際に、この港を知り、後日、沖島へ渡ることにした。チケットを買って、船を待っていると、消防車と救急車がサイレンを鳴らしながら港へ到着。降りた救急士たちは、素早く、港に停泊していた「消防救急艇」に乗り込んで、サイレンを鳴らして出発して行った。
まるで映画のワンシーンを見ているような感じがしたのを思い出した。
今、盛んに「空飛ぶ車」の開発が進んでいる。大阪万博では商業運航する予定らしい。
NHK「舞い上がれ」では、一足早く、離島を結ぶ有効な移動手段として描かれていた。「空飛ぶ車」という名前にはいまだに違和感を抱くが、(車と行ってもタイヤがないよね)ヘリコプターより手軽に飛べるのであれば、過疎地や離島には大いに有効に違いない。
ただ、安全性という点が心配なのだが、技術の進歩で私たちが抱く不安を払拭してくれるほどの安全な移動手段にいずれはなるのだろう。私自身は、その頃まで生きているとは思えないのが残念だが。
堀切港を横目に見ながら、いよいよ奥津山の道に入った。

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6日目、③山道を歩く [琵琶湖てくてく物語]

堀切港から先、奥津山の周囲を巡る道は、今回の「琵琶湖てくてく歩き」の中では、マキノから木之本と同じくらいの山道だ。いや、マキノから木之本までは、幹線道路で歩道もあって、車の通りも多かった。
ここは、殆んど車の通りもなく、歩道も整備されていないところばかり。木々が茂って、日差しを遮って暗いところもある。登ったり下ったり、右や左へ曲がる。地図で確認していた以上にワイルドな道だった。琵琶湖の湖面は遥か足元に見える程度の高いところもある。
道路わきに生えている草木を見ながら歩く。広葉樹が多い。おそらく、リスや猿、タヌキなどの野生動物も多いだろう。
下りきったところで前方に建物が見えた・・と思ったら、工事の船だった。
再び、登り道。右手前方には沖島が見えている。思ったよりも沖島は近いように感じた。
左に曲がったところで、美しい砂浜が広がる「休暇村・近江八幡」に着いた。
脇道に逸れて、下ると広い駐車場があって、そこを横切ると芝生広場があって、その先には砂浜がある。
ちょっと遅くなったが、ここで昼食休憩することにした。
夏はずいぶんにぎわうに違いない。広い芝生もあって、のんびりできそうだ。
芝生広場の端に置かれているベンチに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べる。ちょっと北西風が強くなってきて寒い。
「ねえ、あそこまでならカヌーで行けるんじゃない?」
おにぎりを食べながら、唐突に妻が言い出した。
目視の範囲では確かにそれほど遠くない。吹き始めた北西風のせいか、砂浜に寄せる波が高くなってきている。沖を見ると所々で白波も見えた。
「波が穏やかな時なら行けるかも・・。」
そう答えたものの、実際、殆んど漕ぐのは私だ。
苦労は目に見えている。それに、多少波が出ただけで、きっとすぐにやめようと言い出すに決まっている。
とはいえ、移住した時、初めての大きな買い物はカヌーだった。
カヌーと言っても、グラスファイバー製の立派なものではない。ゴムボートのように空気で膨らませるタイプ。沈んだり、転覆するリスクは低いのだが、波の揺れには結構弱い。風と波はかなりの注意が必要なタイプなのだが、これまでも夏にはあちこちで愉しんでいる。
初めのうちはおっかなびっくりで、自宅前の萩の浜にカヌーを浮かべ、隣の白浜水泳場辺りまで行くのがやっとだった。
徐々に慣れてくると、南にある「大溝港」に入ってみたり、白髭神社の鳥居の足元へ行ったりした。
以前にも書いたが、横江浜から出て、小さな水路を上ったこともある。歩いていけない、菅浦の浜でも遊んだ。桜の季節に海津大崎にも行こうと思っているのだが、近場でカヌーを出せるところが見当たらず、今のところ未着手。
実のところ、この琵琶湖一周てくてく旅が終わったら、今度はカヌーで一周してみたいとも思っているほどなのだが、かなり無理がある様に思って今のところ、妻には話していない。一度口にすると、妻は、すぐにやろうと言い出すに決まっている。
年齢を重ねて行けばどんどん体力も落ちてできなくなるのは判る。だが、出航した後、どうやってカヌーを持ち帰るか、スタート地点に一旦戻って、次は進んだ先から始めるという方法もあるが、そうなると、琵琶湖を2周するのと同じ。どれほどの体力が必要かと思うと、簡単には始められない。挑戦したい気持ちはあるが・・。まあ、今回のてくてくが終わってから考えよう。

そんなに長居はせず、さっと片付けてから、歩き始めた。

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6日目④ワインディングロード [琵琶湖てくてく物語]

その先も同じような山道がしばらく続いたが、次第に視界が広がってきた。徐々に低くなり、水面が近くなった。
大きなカーブを曲がったところで、前方におしゃれな建物が見えた。
「KaiserBergびわ湖」の看板、下の方に「レッドバロン」と書かれている。会員制リゾートクラブとあった。
ちょっとググってみたら、カフェやバーベキューサイトがある日帰りのリゾート施設と判った。レッドバロンが運営しているようで、ライダーの憩いの場となっているようだ。
確かに、今まで歩いてきた道は、バイク乗りには楽しいワインディングロードなのだろう。我が家の前の湖周道路も、休日ともなれば、多くのバイクが走り抜ける。交通量が少なく、信号もほとんどないので、きっと楽しいだろう。
ただ、バイクメーカーや販売店にお願いしたい。バイクの騒音についてもっと考えてもらえないか。日本のバイクの騒音規制は外国に比べて厳しいと聞いたが、「えっそうなの?」と思うほど、規制をすり抜けているバイクが多いように思う。
エンジン剥き出しのバイクは、排気音だけでなくエンジン音も大きいし、マフラーを改造しているバイクもよく見かける。最近の乗用車は、エンジン音や排気音はかなり抑えられているのに、バイクはいまだに変わらない様に思う。
無意味にエンジンをふかす不届き者に限らず、まっとうにバイクを愉しむ人達の乗るバイクも、まだまだかなりの排気音。自然の静けさを切り裂くようなバイクの音には閉口する。
以前にも書いたが、トンネルの中では、トラックや乗用車の音に比べて、バイクの騒音は異常ともいえるほどだ。バイクという構造自体が、もはや騒音を防ぐことはできないのだと思う。(カウリングをつけているバイクも増えてきたが、排熱のため完全に覆うのは無理だろう)
世界的に、乗用車もガソリンエンジンから電気モーターへ置き換わろうとしている。
バイクも、電動化を進めて行けば、騒音問題は解消できると思う。ただ、そうなると、今バイクを愉しんでいる人には魅力半減なのだろうが。しかし、どうにか、静かなバイクを作ってもらいたいと願う。
と、思っていると、中からバイクが2台出てきた。女性ライダーみたいだった。
エンジンを数回ふかし、大きな排気音を残して、走り出す。私たち二人は、その瞬間、耳を塞いだ。すぐ脇をすり抜けたバイク音はやはり我慢ならないものだった。

もう少し進むと、湖畔に突き出たような土地に、ログハウスが建っていた。
「シャーレ水が浜」と看板があった。
道路を隔てて、山側にも「369TerraceCafe近江八幡」というレストランらしきものがあった。
駐車場はいっぱいで、店の前にも人が並んでいる。
きっとSNS辺りで、『映える』ポイントとして紹介されたのだろう。
今回は。店内に入って楽しむ余裕はなかったので、外のテラス席でちょっと休憩した。
そこから見える琵琶湖もとても美しかった。向かいに見える山は、比良山系か、比叡山か、いずれにしても、湖面から立ち上がる山並のように見えて、なかなか良い。
琵琶湖岸は圧倒的に平地が多く、高台から琵琶湖を望めるところも少ない。そういう意味で、この「シャーレ水が浜」は魅力的な存在だと思う。特に、琵琶湖の対岸の風景は本当に素晴らしい。もう少し季節が進んで、比良山や比叡山に雪が積もると、さらに美しいだろうと想像する。今度、ゆっくり訪れたい場所の一つだ。

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6日目⑤フユイチゴ [琵琶湖てくてく物語]

一息入れたら出発。
あと少しで今回の目的地、長命寺町に到着できる。
「あれってイチゴじゃない?こんな時期に実がついてるのって変よね?」
妻が、道路わきの擁壁に、赤い実を見つけた。
フユイチゴの実だった。
我が家の周囲では「ニガイチゴ」が5月から6月にかけて実をつける。幼い頃、学校帰りに、その身を積んでおやつ代わりにしていたことを思い出して、移住した年から、妻と二人でたくさん摘んできて、ジャムにしている。ほのかな甘みしかないが、ジャムにすると美味しくいただける。初めは、鍋を使ってみたが、手間がかかるので、電子レンジで簡単に作る方法を見つけた。
「同じように見えるけど、あれはフユイチゴの実だな。」
実際、ニガイチゴとフユイチゴの実は、よく似ている。他にも、クサイチゴ、クマイチゴ等もある。野イチゴはとても魅力ある植物の一つだと思う。
栽培するのではなく、野に生えているのを摘み取ってきて食べるということが、何か随分と贅沢をしているように思える。
我が家の庭には、ブルーベリーの樹もあって、毎年のようにたくさん実をつける。
これもジャムにしているのだが、6月から収穫を始めて、1ヶ月程で3㎏程になる。全てをジャムにするのは大変なので、一旦冷凍して、小分けにジャムにする。1回に250g程度のジャムを作ると、2週間程度で食べきる。地中海ヨーグルトを10年近く作っているので、夕飯のあと、ヨーグルトに入れて食べる。休日の朝はパン食になるのでそこでも使う。「クサイチゴ」は、ブルーベリーのように冷凍できないので、摘んだものは全てすぐにジャムにする。例年、1㎏(小瓶で5本くらい)ほどを摘んでジャムにしてきた。
電子レンジを使ったジャムづくりは簡単。
ブルーベリーの場合、180gほどのブルーベリーに100gのグラニュー糖を入れ、500Wでまず5分加熱。途中でレモン汁を加えて混ぜたあと、状態をみてあと1分ほど加熱する。ほとんどジャムというよりソースに近い状態で止めるのが肝心。瓶に移して冷えるとだいたい250gほどの量でしっかりジャムになってくれる。
始めたばかりの頃は、状態の見極めができず、瓶に移して冷えるとスプーンが入らないくらい堅かった事もあったので、やや緩いくらいの方が良いと思う。
それと、粘り気があるので沸騰すると泡が容器を越えることがある。今は、百均で買った「ラーメン容器」を使っている。インスタント麺と水を容器に入れレンジでチンするという優れモノなのだが、今はジャムづくりで活躍している。深くて大きいので、吹きこぼれの心配はない。
昨年、前の土地を買って庭を広げた。100坪ほどの庭なのだが、ジャムづくりの楽しみのために、幾つもの果樹を植え付けた。
まずは昨年実をつけた杏をジャムにしてみた。まあまあだった。梅やキウイ、姫リンゴ、リンゴ、桃、サクランボが実をつけるのが待ち遠しい。
目の前に成っている「フユイチゴ」も摘んでジャムにしたいと思ったのだが、ここで摘んでも持ち帰るまでに傷んでしまうのであきらめた。
そう言えば、高島市では「アドベリー」という名前の特産品がある。
ポイズンベリーという木苺なのだが、熟した実は日持ちしない為、生食での流通はほとんどない。ほとんど加工品になっている。我が家でも作ってみたいと思うのだが、苗が高い。生育が難しいとも聞いて二の足を踏んでいるところだ。

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6日目⑥長命寺 [琵琶湖てくてく物語]

フユイチゴが成っている擁壁を過ぎると、松ヶ崎。そして、長命寺町内に入る。
長命寺は古地図にもしっかり載っていた。そして、長命寺村ともあった。北に山があり、南に開けた土地なので、住むには良いところだったのだろう。古地図では、琵琶湖は今の位置よりずっと奥まで入り込んでいて、近江八幡市北津田町辺りまで続いている。おそらく渡合堰がある所までが琵琶湖だったのだろうと思う。山沿いに集落が続いているのがその名残。
今回のゴールは、ここと決めた。
時間が遅かったからか、閑散期なのか、長命寺林道前の売店は閉まっていた。
ここをゴールとしたのは、これ以上進むと、最寄り駅へ戻る手段を失うからだ。
ここで近江八幡駅行きのバスに乗る。今回、初めてバスを使うことになった。バスを待つ間に、長命寺まで行ってみようかとも思ったが、地図を見ると、かなり山道を登ることになるので、バスの時間までには戻れそうにない。それを逃すと30分待つことになるので、また、別の機会にと思い、港あたりを少しぶらぶらした。
長命寺港には、沖島へ向かう船が就航しているが不定期便らしい。そこから右手に大きな建物がある。「長命寺温泉天葉の湯」というらしい。日帰り温泉で、食事もできるようだった。疲れていたので入りたいとも思ったが、全く用意をしてこなかったし、時間も気になるのでまた今度。何だか、「また今度」ばかりになってしまった。
実は、移住を考えていた時、この「長命寺町」も候補に挙がっていた。長命寺に上がる参道脇に、希望に近い物件を見つけた。少し高台の南向きの斜面に立ち、家の前には適当な広さの庭もあった。何より、家の前から琵琶湖を見下ろせるというのは最高だった。不動産屋に当たりをつける前に、ちょっとだけ見に行った。
今は、ネット情報で物件の写真や間取り、位置なども簡単に特定できるので、下見はしやすい。
だが、行ってみて愕然とした。ネットの写真はかなり昔なのか、実際に見ると、あちこちが壊れていたし、取付道路もかなり危うい状態だったのだ。あっさり諦めた。
そのあと、近江八幡のとある不動産屋へ行き、琵琶湖畔に近い物件を紹介してもらったが、いずれもかなり程度の悪いものばかりだった。
関西ではかなり大手の不動産屋だと思うのだが、紹介される物件はかなり酷いものが多かったのはどうしてなのか?
近江八幡のあと、大津・堅田の同じ系列の不動産屋に行った時など、「琵琶湖の湖畔」と条件を出しているのにも関わらず、山手の別荘地の古い物件ばかりを案内された。若い担当だったから、販売しにくい物件ばかりを持たされていたのか、私たちを怪しい客だと思ったのか、判らないが、こちらの条件などほとんど聞かずに次々に物件を案内するのには閉口した。同じ担当者は、別の日にも、同じようなところばかりを引き回し、挙句の果てに、物件の内覧をしようと行った先では、門から玄関まで草が伸び入れない状態、何とか玄関に辿り着いても、肝心の鍵も持っていない。さすがにこれには怒り心頭。すぐにその場でお別れした。
高島に移住先を絞った時の話は既に書いているので、これ以上はやめておくが、移住後、周囲に空き家がたくさんあるのを知ったことと、縄張りのようなものが不動産業界にはあるようで、若い社員の担当者は、あまり良い物件を持っていない状態なのだということも判った。古い慣習みたいなものががん然とあるように思うと、不動産業界の将来は暗いように思う。まあ、今となってはどうでもいい話だが・・・。
高島市では移住促進の取り組みに力を入れている。人口減少に歯止めがかからない現実の中、行政主導で進んでいるが、移住者の最も近い存在の不動産業界の問題にまでは手が届いていないのではなかろうか。是非、ご一考願いたいものだ。

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6日目⑦ローカルバス [琵琶湖てくてく物語]

時間になったのでバス停へ向かう。客は私たち二人だけ。やはり、ここでも公共交通機関の利用は少ないようだ。
全国、都市部を除いて多くの地域でローカルな公共交通機関の存続が危ぶまれている。
私が子どもの頃は、自家用車はようやく一家に1台という状況で、父親が通勤に使うと、外出にはバスを使うほかなかった。
買い物に出かける時は必ず利用していた。
私の田舎は、バス路線の終点だったし、峠道を越えなければスーパーマーケットや病院さえなかったので、母や祖母と一緒に乗った思い出がある。
それが、セカンドカー時代になって、たいていの外出は、自家用車を使う暮らしになった。二人暮らしの我が家でも、自家用車を2台保有しているので、公共交通機関を使う必要はほとんど無くなった。今後、必要になるとしたら「免許返納」の時だろう。
もっとも、高島市の公共交通機関・バスは路線数が少なく、我が家の近くにはバス停などない。バスの姿を見る事もない。それ程、バスはなじみのないものになってしまった。
そろそろ、次世代の交通インフラを考える時期になっているかもしれないと思う。マイカーブームの中で育った世代、ステイタスのごとく高級車に走る世代、そういう世代が高齢化していく。環境問題の中で、EV化も進んでいるが、結局、今の自動車のエンジンをモーターに置き換えるだけでは、少子高齢化・マイカー離れの時代には応えきれないのではないだろうか。公共交通機関も大量輸送ではない方向を考えることも必要になっていると思う。「空飛ぶ車」が一つの突破口になるとは思えない。それよりも、もっと手軽に必要な場所へ行ける手段として「超小型EV」を普及できないかとも思う。まあ、私の生きている間に実現するとは思わないが、過疎地や高齢化している地域で、国主導でも良いから(本当は地方自治体主体が望ましいが)、実証実験を進めてみたらどうかと思う。離島での小型EV利用などのニュースを見ると、大いに期待したくなる。
路線バスと言えば、幼稚園の時(今から57年前?)、通園のために使っていた市バスが事故を起こした記憶がある。
満席に近かった車内に、幼稚園児の私は座る席がなくて、バスの中央部にあった銀色のポールにしがみついていた。峠道をゆっくりと越えて、S字の道を降りていく。その先には、自衛隊の基地の外周を走る道路があった。道路脇には御濠のような水路がある。
雨が激しく降り、視界も悪かった。前を行くバイクを追い越そうとして、バスが右側に頭を振った瞬間、大きく傾いた。そしてそのまま、御濠の土手を滑り落ち、転落したのだ。
幼い私は、無意識に銀色のポールにしがみついた。目の前の風景がスローモーションで回転して、座っていた人たちが叫び声をあげて、宙に浮き、重力によって落ちていく。
バスは天井を一度地面につけてから横倒しになった。椅子や窓ガラスに血糊が見えた。うめき声や泣き声が聞こえた。
私は、ポールにしがみついたまま、横に倒れていた。どれほどか時間が経ったのか判らないが、横倒しになったバスの窓ガラスを割る音がして、大人の声が聞こえた。救急車の音が聞こえたような気がしたが、それよりも、雨音の方が耳に残っている。
余りに幼かった私にはその事故がどれほどの被害を生んだのか判らないが、乗り合わせていた中で無傷だったのは、私だけだったと母から聞いたことがある。
それ以来、バスが苦手になった。小学校の社会科見学や修学旅行で大型観光バスに乗ると、すぐに気分が悪くなってしまうようになっていた。今は、すっかり克服しているのだが、ただ、路線バスに乗るとついあの時の光景を思い出してしまう。
バスは、近江八幡駅に向かって走る。
バス事故の話は、妻にも話したことがある。だが、幼い時の話なので、ひょっとしたら大した事故ではなかったのかもしれないとは思うが、やはり、ついつい思い出してしまう。

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6日目⑧6日目終了 [琵琶湖てくてく物語]

長命寺町から近江八幡駅までのバスはなかなか快適だった。
駅に到着したところで、歩数計を見ると、32,249歩、22㎞だった。
能登川駅から出発地点までの距離を差し引くと、実質16㎞ぐらいしか進んでいないことになる。駅から田んぼの中の道を歩き、奥津島の山道を歩いたため、随分歩いた気分になっていたが、現実はこんなものだ。
次からはもっと前進できるように工夫しないといけないと思いつつ、近江八幡駅からJRに乗った。
近江八幡は魅力的な街だ。移住前にも家族で旅行したし、移住後も、年に2回以上は訪れている。古い町並み、八幡堀巡り、水郷巡り、日牟禮八幡宮、ラコリーナ近江八幡、ヴォーリズ建築、観光資源が豊富だからだけでなく、そこに新しい力を感じる事ができる。
不思議なのは、大中湖干拓が大規模に進められたにもかかわらず、内湖の一つである西の湖が残ったことだ。おかげで、信長が城を安土山に建てた理由がよく判るわけなのだが・。
そういう意味で、近江八幡は、最も近江らしい場所なのだと思う。琵琶湖と共生し、琵琶湖の恵みを巧みに利用した暮らしがそこにある。
駅を出ると、すぐに安土駅。近くに沙沙貴神社がある。
ここは、全国の佐々木源氏ゆかりの人たちがお参りする神社だそうだ。
実は、母の実家は「佐々木」姓。ゆかりがあると言えばそうなのだが、まだ、お参りしたことはない。ただ、言い伝えとして、私の実家「白井」一族は、承久の乱の際に上皇側につき、敗れたあと、山口(周防)の島に流刑となったということが判っている。同じ時、佐々木一族も上皇側につき敗走しているので、かなり近親の一族だったのは明らか。白井本家の跡継ぎが病死したため、絶えることを危惧した曽祖父が、娘の嫁ぎ先の佐々木一族から娘を養子とし、さらに、村上水軍の末裔であった「村上」一族からも男子を養子として迎え、婚姻したのだと祖母から聞いたことがある。それほどまでに本家は絶やしてはならぬという封建的な田舎町に生まれた私には、かなり責任が大きかった。
いまでは、妹が白井家を継いでいるので、私自身が白井を名乗る必要は無くなったのだが、まあ、今時、そんな一族繁栄みたいな話はどうでもいいように思うのだが、何か、自分という存在を確認するには、好都合な情報である。
実は、この話は、父が菩提寺探しをしている時に判ったことだった。
我が家には地所内に墓地があった。大きな墓が二つ並び、墓石はかなり古かった。傍らには、さらに古い墓石が並んでいて、墓地の広さはかなりのものだった。先にも書いたように、私の父と母は養子縁組である。したがって、墓に入っている人達の事はほとんど知らなかった。墓石に刻まれた人名もほとんど判らない状態だった。大きな墓石の周囲に並ぶ小さな墓石を見ると、現在の文字ではないのは明らかだった。
父は、何故だか、そういう状態を解消しなければと考え、集落にあった寺を尋ねた。そこで発見したのが、菩提寺が全く別のところにあったということ。そして、その寺を探し当て、過去帳から一族の名を見つけた。奇遇にも、その寺の住職は父の同級生だったこともあり、丁寧に調べ上げてくれた。その寺自身も、白井一族とともに京都から移ったことも判り、その寺を我が一族が庇護してきた記録も見つかったようだった。
父は、自慢げにそんな一族にまつわる話をしていたが、それからわずかの間に、癌で命を落とした。まるで、自分が墓に入るための準備をしていたようだと今になって思う事がある。
そんなことを考えている間に、能登川駅に到着した。
駐車場で車に乗り込み、自宅へと向かった。

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