SSブログ

5日目④薩摩町の謎 [琵琶湖てくてく物語]

しばらく行くと、「あのベンチ」があった。SNSで広まったと知る。
私たちが歩いた時は、それほどでもなかったように思うし、同じようなところは、私の家の前、「萩の浜」にもあるように思うけど・・。
最近は、SNSの情報で、それまでなんでもないような場所が急に脚光を浴びることがある。SNSの影響の大きさには驚くばかりだ。
気になるのは、「SNS映え」という言葉だ。その場所の見た目だけで評価する風潮に、何か不安を感じる。風光明媚なことを否定するつもりはない。そういう場所で人々は癒されたり、力を得たりするのは、古来からの習わしである。ただ、それだけでなく、どうしてそういうものが生まれたのかという視点で想像力を高めてみてはどうかと思う。とりわけ、人工物であれば、それを生み出した人々の営みや想いに想像力を働かせてみることで、より深く知る事ができるのではないかと思う。
それに、私は、昔からすこし天邪鬼なところがあって(少しばかりではないと妻は言うけれど)、昔から、人の評価を安易に受け入れない。そして、自分が良いと思ったものでも人に勧めることはない。冷静に考えると、ただの頑固者の爺さんなんだろう。そんなんで、「あのベンチ」もさほど評価しない。(ちょっといいなあとは思うが)
いやいや、気分を害された方が居たら謝罪するが、まあ、気にせんでいただきたい。
自分の尺度で物事を評価する、それだけでいいんじゃなかろうか。
「あのベンチ」があるところは、石寺町。
地図を見るとちょっと面白いことが判った。貴石山・本龍寺を中心とした町をぐるりと取り囲むように水路がある。古地図をみると、埋め立てられる前の曽根沼の西のはずれに位置していて、沼と琵琶湖を繋ぐ川に、同じように輪中のような土地があった。おそらくその名残なのだろうと思う。
しばらく進むと、再び、さざなみ街道と合流する。数百メートル進んだところで、分岐。浜沿いの道へ入る。
妻が口を開く。
「あれって、さつまって読むのよね?」
看板に、『薩摩町』とあった。彦根市に、薩摩町というのは確かに違和感を感じる。
京都や東京であれば、徳川幕府の命により、全国の藩邸が置かれていたので、各地の地名が町名に残っていてもおかしくはない。だが、ここは、彦根市である。更に、今いるところは城下からはかなり離れたところになる。
初めに思いついたのは、この地域の干拓事業で遠く薩摩の地からやって来た人々が住み着いた地域ではないかということ。だが、古地図にはすでに『薩摩村』の地名があるので、違うようだ。
そもそも、『薩摩』という言葉はいつ生まれたのか。
調べてみると、大宝律令まで遡ることが判った。ただし、江戸時代になると、薩摩ではなく、鹿児島という方が一般的になったようなので、ここ薩摩町(旧薩摩村)が成立するのは中世ではないかと推察する。
余分な話かもしれないが、町の北側に墓地があり、墓石に刻まれた家名を見ると、山本さんが多かった。薩摩出身の武士が移り住んだとするなら、山本姓はあまり考えられない。山本姓は、長浜市湖北で栄えた一族があり、もしかしたらだが、薩摩村が開かれた後、山本姓の方が移り住んだのではないかと考える。
結局、薩摩町の由来は判らないままだが、この辺りの地形は古地図とほぼ同じであることが興味深い。今はさざなみ街道で分断されているが、薩摩町の東にある『神上沼』の形はほぼ同じ状態にあるし、薩摩町の隣には柳川町がある。さらに、中世(1000年頃)に築かれ、織田信長によって廃城となった田附城跡のある田附町がある。
この辺りはおそらく平安時代には既に集落があったのではないかと思う。

nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント