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琵琶湖を歩く?! [琵琶湖てくてく物語]

新しいお話が浮かんでこないので、実体験を綴っていこうと思います。

57歳で早期退職して、いろんなシガラミから抜け出すように、滋賀県に「移住」。
琵琶湖の畔の中古住宅を購入し、暫くは、悠々自適、晴耕雨読の暮らしを満喫していたのだが、何か、このままでは、いけない様な気がして、まだ、体が動くうちに、やっておくことはないか、そんな事を思っていると、妻が「ビワイチって知ってる?」と言ってきた。

ビワイチ、自転車で琵琶湖一周するってのは知っていた。
それも面白そうだと思って少し調べてみたが、それなりのスポーツサイクルと装備が必要だと判り、そこまでして・・という思いが湧いてしまって、どうにも、前向きに考えられなくなった。
我が家にある自転車は、買い物用に購入したママチャリ2台。春から秋にかけて、市内をサイクリングする程度なら大丈夫だろうが、さすがに、琵琶湖一周は厳しい。
だいたい、琵琶湖って一周するとどれくらいなのかも判っていない。
調べてみるとざっと250km。高低差は少ないものの、やはり体力に自信はない。
躊躇している私を見て、妻が「琵琶湖一周、歩けないかな?」と言い出した。
彼女は時々、突飛な事を思いつく。

250kmを歩くとなると、1時間4km程度として、62,5時間。
歩き通して三日間は掛かることになる。だが、歩くことは嫌いじゃない。昔から、散歩は好きだし、観光旅行でも街中をぶらぶら一日歩き回ることもある。まあ、無理をしない範囲で、何日かに分けて歩くのは可能だろうと判断した。ただ、それがどれほど興味深い、あるいは感動するようなことがあるかは未知数だった。とりあえず、やってみることに決めた。

こういう時、私は悪い癖が出る。
計画をしっかり立ててからでないと始められないのだ。

旅行の時も、かなり緻密にスケジュールを立て、移動手段や時間、どこの名物が美味いとか、どこのスポットが眺望が良いとか、とにかく、計画を作るのが好きなのだ。
思い起こせば、学生時代に、今の妻と交際していた時、信州旅行をすることになった。レンタカー(当時流行していたホンダ・シティで)で八ヶ岳まで1泊旅行。途中での観光地をガイドブックで選びながら、自分たちで行先を話し合うのが楽しかった。それから、旅行の度にプランを作るようになり、究極は、結婚前(今から40年近く前)、結婚式と新婚旅行の準備をしていた時だった。
当時は、結婚式・披露宴・新婚旅行はパッケージを使うのが主流だった。私たちも、「高砂殿」という結婚式場に申込み、新婚旅行もセットのプランで準備を始めた。新婚旅行の行き先は、北海道。そうなると、旅行部門の営業が打合せに現れて、いくつかのプランを提示する。だが、どうにも、納得できない。

やはり、計画好きの虫が動き始めて、ガイドブック片手に自分でプランを作ることにした。
当時はまだインターネットなどは普及していない。スマホだってない時代。ガイドブックと地図を頼りに、自分で旅行プランを立てた。特にこだわったのは、泊まる所。ありきたりの観光ホテルや旅館じゃ物足りない。ガイドブックの巻末にあるリストから、変わり種のペンション・民宿を探し、直接電話して様子を聞いたり、予約もして、ほとんどすべてを自分の手で組み立てた。老夫婦がセカンドライフで始めたペンションとか、ユースホステル転用のペンションとか、新婚旅行には似つかわしくない場所を選んでみたり、途中の食事の場所とメニューまで調べてみたり、終いには、かなり細かい旅の栞に仕上げる始末だった。若かったからか、妻はその栞を見ながら随分楽しんでくれたように思っているのだが・・。後悔しているのは、そのために、結婚式や披露宴の準備がかなり厳しかった事だ。

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琵琶湖を一周する計画は・・・。 [琵琶湖てくてく物語]

話を戻そう。
今回、琵琶湖一周歩くことに決めた時も、やはり、計画にはこだわった。
まず、250kmを何日で歩き切るか。1時間4kmを目安にすると、1日6時間で24km程度。そうすると10日間で1周出来ると決めた。
次に、歩くルートを24kmを目安に、区切って見る。そこで役に立つのが、GoogleMapだった。昔はこんなものはなかった。地図から自分で距離を読み取るしかなかったから、かなり大雑把だったに違いない。今は、出発地と目的地を入力すれば、ルートと距離が瞬時にわかる。便利になったものだ。
そんな形で、まずルートを選択した。

ここではっと気づいた。
歩くとしても・・だ。自宅の出発は良いとしても、その日の到着地点からどうやって戻ればいい?そして、次の出発地までどうやって行けばいい?
少し悩んだ挙句、鉄道と自家用車を駆使することにした。
初日は自宅を出発し、到着地点最寄りの駅から鉄道を使って戻る。次は、その駅まで自家用車で行き、前日の到着店まで行き、再開する。幸い、琵琶湖の両岸にはJRが走っている。何とかうまく組み合わせて行程表を作り上げた。
1日目、自宅からマキノまで25km。
2日目、マキノから近江塩津まで17km。
3日目、塩津から長浜まで27km。
4日目は長浜から彦根(滋賀県立大学)までの17km。
5日目は彦根から近江八幡までで20km。
6日目は近江八幡から草津で25km。
7日目は草津から大津・唐橋で25km。
8日目は、大津・唐橋から堅田までの25km、
9日目は、堅田から近江舞子までで20km。
そして最終日は、近江舞子から自宅までの20km。
そんな形で10日間で歩き切るルートはほぼ完成した。

次に、いつから始めるか。
まず、真夏は無理。炎天下、日蔭もない湖岸の道路を6時間歩けば、熱中症で命が危うい。何より、夏はカヌーに勤しみたい。春はどうか?春は行楽シーズン。できれば、花を愛でるような旅行もしたいし、庭の手入れもしなくちゃいけない。秋も同様。
やはり、歩くのは冬に限る。
私たち夫婦は比較的寒さには強い。寒さ対策さえしっかりすれば大丈夫。そう決めて、初日は11月下旬と決めた。そして、体に無理が掛からないよう、月1行程にして、11月から3月までの5回。2シーズンで完了する計画になった。

計画書にまとめ、妻に見せた。
琵琶湖西岸は、生活圏でもあり、かなり良かったはずだった。だが、東岸はあまりなじみのない所で、一抹の不安もあった。だが、いつまでも始まらないより、まず動いてみることが大事だと言い聞かせた。
妻はすんなり(ざっくり見て)、なんとなく賛同してくれて、いよいよ2019年11月10日(日)にスタートとなった。
いや、この計画、ちょっとしたミス、いやいや大きなミスが見つかったのは行程の半ばになってからだった。その話は、その時に書くことにする。

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1日目①自宅からマキノを目指す [琵琶湖てくてく物語]

2019年11月10日(日)
さあ、良い天気。
少し寒いくらいだった。いよいよ出発。
本日の行程は、自宅からマキノ・海津を湖岸道路沿いに歩く約24km。
朝はゆっくり9時30分に出発。自宅から湖岸道路まで出ると、ずっと、湖岸沿いを歩くことになる。
湖岸の道は、見慣れた風景。通勤でも使っているため、新鮮味はあまりない。しかし、歩いてみて判ることもたくさんある。時速60kmの自家用車では、絶対に判らない光景に出会い、それこそが今回の楽しみだと信じたい。
歩き始めて直ぐ、鴨川の橋の手前には、淡竹の群生。春になればタケノコがとれるはず。川沿いに隠れるように建っている小さな喫茶店の看板。

鴨川の橋を超えたところで、すぐに右の湖岸沿いに入っていく。
障がい者福祉施設(生活介護)の「大地」の作業場があった。
大きなビニールハウスの中には、障がい者の皆さんが育てている苗が並んでいる。ここが作る「ふれん土」という培養土(?)は意外に安くて使い勝手がいい。毎年、購入して、猫の額ほどの畑に入れている。
そこからしばらく進むと、墓地の向こうに公園。バーベキューをするにはとても良いところに見える。周囲の住民は迷惑しているかもしれないが・・。以前、ここの公園の浜から、カヌーを出したことを思い出した。
その時は、琵琶湖をただ漕いでいくのでは味気ないと思い、水路の中に入った。私の持っているカヌーは空気を入れるボートタイプなので、多少浅くても進む。
水路の水は澄んでいて、水草が活き活きと育っている。水路は生活の一部だ。水路沿いの民家からは水路に降りる階段があり、洗い場の様なものもある。水辺で暮らすことはやはりゆたかだと思う。
その水路を出て、松の木内湖にも入ってみた。
ここは冬になると「コハクチョウ」のねぐらになる。カヌーで入った時は、夏だったので、シラサギが佇んでいるくらいだった。少し排水が悪いので、水は濁っているし、岸辺には、ゴミの様なものも多かった。やはり、人間が水を汚すんだなと思い知った。

歩きながら、そんな思い出話をしながら進んでいく。
歩くというのは、やはり、自転車とは違う。
不意に立ち止まって、足元の草木を眺めたり、思い出話をしたり、時間が途轍もなくゆっくりと流れていくように感じられる。とても人間的。

四津川の集落に入る。ここは、古くは漁業が盛んだったようで、道路沿いの家は、どこも大きく立派だ。蔵のある家もたくさん残っていて、そういう古き良き時代を感じられるのも良い。今でも、漁港はちゃんとある。

おや?あれはなんだ!
道路沿いに幾つも並ぶ男の子の看板。
滋賀県発祥の「飛び出し坊や」がたくさん並んでいてなかなかユーモラス。ここは子どもが多かったんだろうか。事故にならぬようにという親心を感じる。何度も色が剥げて書き直した跡も残っていて、最初の飛び出し坊やとは違う表情のものばかり。個性があって宜しい。
妻がそれを見て、「うちにも一つ欲しいわ」という。家の前は殆んど車の通りはないし、必要ないのだが、まあ、一つくらいあってもいいかもしれない。

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1日目②安曇川から新旭へ [琵琶湖てくてく物語]

四津川を抜け、再び、湖岸道路に戻った。
この先は、船木地区。かつては安曇川を通じて、朽木からの材木が運ばれ、河口近くには今も、大きな材木店がある。以前、古民家再生の会社で「古材磨き」のアルバイトをした時、ここにある大きな材木店にいった。材木を扱うには広い土地が必要になる。とても都市部では成り立たない事業に違いない。高島だからこそ、生き残っている、そう感じられる。
安曇川南流の橋を渡る。
信号を右に行くと「琵琶湖子どもの国」がある。
休みとなると、かなりの親子連れがやってくる。高島市民ではなく、大津・京都・大阪・福井、近隣府県のファミリーが楽しく遊んでいる。夏には湖水浴も楽しめる。駐車場は有料なのだが、入園料は不要なので、経済的。
そう言えば、子どもが幼かった頃、愛知子どもの国(西尾市)にもかなりの頻度で行ったのを思い出した。あそことは比較にならないほど小さいが、それでも結構楽しめる。
安曇川は南流と北流があり、船木地区はその間に挟まれた低い土地にあり、水害にも悩まされてきたと聞いたことがある。水害から家屋を守るため、石垣が築かれている家をたくさん見る事ができる。今も、この地域の防災意識は高いようだ。
北船木は特に古い町並みを残していて、大通りから脇道が幾つも伸びていて、その中には広場のような場所もある。また、ゆっくりこの辺りを散策してみたい。

本道に戻る。
この先少し進むと、新旭町へ入ることになる。
湖岸道路も、この辺りは「風車街道」というらしい。道路の西側の舗道沿いに800本を超える桜並木が続いている。その全てが、新旭町の皆さん(桜を守る会?)が大切に手入れをされているのだ。
美しい桜は人の情熱によって守られていると思うと、また、感慨深い。
そう言えば・・(このフレーズはこれからもかなり頻繁に出て来る予定なのでご容赦)
森山直太朗さんの「さくら」を聞いた時、ちょっと不思議な感覚になった。メロディーはさすがに素晴らしいし、声も母親譲りの美声。
違和感を抱いたのは、歌詞。
あの歌は、卒業ソングだ。だが、卒業式はほとんどの場合、3月中旬から下旬。大学となると3月上旬のところもあるはず。いやいや、そんな時期に「さくら」は咲いていないよね。今年(2023年)は例年より1週間から10日ほど開花が早いと聞いているが、それでも、東京で3月23日くらいが満開でしょ?何とか卒業式に間に合うかもしれないけれど・・。
私が大学に入学した年、1979年4月。大学の校門脇の桜が満開を迎えて、時折風に舞い散る桜の花びらが綺麗だったのをよく覚えている。ソメイヨシノの満開はやはり、入学式じゃないのだろうか。
とすれば、森山氏が歌う「さくら」は、ソメイヨシノではないということになる。ソメイヨシノより先に咲く「桜」となると、寒緋桜、河津桜なんてところか。ただ、河津桜は、それほど普及しているとは言い難く、さらに、花と葉がほぼ同時に出て来て、花もちも良く、余りひらひらとは舞わない。『さくら さくら 今咲き誇る・・』のフレーズを思い起こすたびに、何の種類だったのか気になっていた。まあ、そんなこと深く考えず、音楽は愉しむべきだと思うが・・。
横道にそれすぎたので、本道に戻ります。
ここまで、ほぼ2時間ほど歩いてきた。ちょっと休憩。桜並木の湖岸道路には、あちこちに小さな公園がある。
そのひとつ、源氏浜公園で一休み。

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1日目③新旭の風車街道 [琵琶湖てくてく物語]

ここまで歩きながら、妻と思いつくまま、いろんな会話をしていた。
もともと、家でも話をする方だが、こうして歩きながら、見るもの感じるものを材料に、他愛もない会話をするのも楽しいものだ。
 思い返せば、一緒に暮らし始めて40年以上になる。大学の同級生だったせいか、互いに歳を重ねているはずだが、時折、あの頃に戻ることがある。そんなことを言うと、妻は鼻で笑うのだが・・。
 桜並木を歩いていくと、左手には流行りの「グランピング施設・STAGIX高島」が見えてきた。私たちが転居してきた時は「道の駅・風車村」だったんだが、さすがに、交通量が少なく立ち寄る人も少ないため、閉鎖され、グランピング施設に変わった。
 正直、グランピングの良さは今一つ理解しがたいものがあるので、立ち寄らずに進む。

その先には、六ツ矢崎キャンプ場。
湖畔の芝生にテントを立ててゆっくり楽しめる場所。グランピングより、こっちの方が、良いなあと思うのは、世代だろうか?
さすがに、冬場はキャンパーは居ないかなと覗いてみると、いえいえ、ちゃんといらっしゃいますね。冬空のキャンプ。強者とお見受けした。まあ、真夏のキャンプよりは、過ごしやすいかもしれない。
そう言えば、まだ、子どもが幼かった頃、1990年代。バブル景気のあと、子育て世代は、完全に「オートキャンプブーム」。田舎育ちの私は、幼いころはほぼ野生生活に近かったので、キャンプにそれ程楽しみは感じなかったんだが、妻は町の子。キャンプに行くのは、非日常の極みだったんだろう。子どもたちと一緒に、随分楽しんでいたようだった。だが、ほとんど支度をするのは、私の仕事だ。真夏のキャンプは地獄だ。カンカン照りの中、大量の荷物を自家用車へ運び込み、現地に着いてから、またまた、カンカン照りの中、テントとタープを立てる。高原のキャンプ場と言えども、やはり真夏は暑い。あの頃はまだ若かったので何とか出来たが、きっと、今なら音を上げる。そんな地獄のようなキャンプに、毎年、岐阜や長野、三重辺りにしょっちゅう出かけていたのを思い出した。
そんなことを話していると、妻は今でも、キャンプはやってみたいと言う。せっかくだから、広い庭にテントを張ってみようか・・というと、それじゃつまらないと言い出した。まあ、確かに、日常と非日常の境目みたいな感じになるので、醍醐味は薄れるにちがいない。
左手には、針江の別荘地が見えてきた。
何でも温泉付き別荘地で売り出されたようだが、なかなかここは曲者。詳しくは言わないが、私も移住の時、ここらの物件も見たが、いろいろ問題があって、止めておいた。市役所の定住促進課の方からも「あそこは止めた方が良いでしょう」とアドバイスをいただく始末。住んでおられる方のためにも、これくらいにしておきましょう。
一つだけ。これから移住を考えておられる方にアドバイス。「水」は大きな要件だということ。生きていくうえで、都市部に住んでいると「上下水道」や「都市ガス」「電気」といったインフラは整備されていて当たり前だと思っている。だが、それが地方都市、さらに過疎化が進んでいる地域では当たり前ではない。「電気」はほぼ全国どこでも整備されている。これは電力会社の努力のたまもの。ガスも、ガス会社(都市ガスやプロパンガスなどの燃料会社)の競争でほぼ困ることはない状態。だが、上下水道は「公共事業」。いわゆる、市町の運営管理で占有事業である。その場合、競争相手がないので、必要最低限のインフラとして整備されがちである。ここ高島では、いわゆる市街地には上下水道がほぼ完備している。だが、市街地でないところは、私的水道が優先されてしまう。別荘地などはほとんどが私的水道。管理会社や住民の共同管理のため、価格とか水質など、公共水道と比べると厳しい側面は否めない。移住先を選定する時、出来れば、公共の上下水道が引ける場所を選ぶのが得策だと思う。

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1日目④新旭から今津へ [琵琶湖てくてく物語]

さて、いよいよ、新旭町から今津町へ入る。
桜並木が終わる辺りは、「饗庭」という地域。
愛知県にも饗庭という地名があり、担当になったものの、何と読むのか判らなかった苦い想い出があった。
饗庭(あいば)とは、昔、宴を開く際に食材を確保する場所だったという事を聞いたことがある。愛知県西尾市吉良町饗庭では、信長や家康が狩りをした場所だったとか、それ以前からも猟場だったとも聞いた。ただ、ググってみると、「饗宴を開いた場所」という説明になっていて少し違いがある。
吉良町饗庭はとてもそういう場所ではないし、ここ、高島市新旭町饗庭もそんな場所とは思えない。まあ、今は、自衛隊の饗庭野演習場があるのですから、或る意味、「軍隊の饗宴の場所?」であるのかもしれないが・・。
地名というのはその意味を知るととても面白いことが見えてくる。
ここ、新旭町も、「新しい旭」ではなく、新儀村と饗庭村が合併して、新旭町という町名になった。饗庭村は、饗庭村・熊野本村・旭村・針江村・深溝村が合併してできたので、新儀村と旭村の名前の一部が残っているということになる。
何故、旭村の旭が残ったのかはよく判らないが、たぶん、その時の有力者のパワーバランスだったんだろう。
などという薀蓄を妻に披露し、途轍もなく、つまらない顔をされてしまった。

湖岸道路(風車街道)とバイパスが並んでいるところを過ぎると、湖岸に、少し大きめのログ風の建物が見えて来る。「水鳥観察センター」だ。
琵琶湖岸にはいくつかこうした観察センターがあるが、ここは、おそらく最も小さい。建物周辺の水辺には、木道の散策路が整備されているのだが、少々朽ち果てたところもあるので、外観だけでは、寂れているように見える。立ち寄る人がどれくらい居るのかと心配するほどだ。
でも、是非立ち寄ってもらいたい。それだけの魅力はある。
高島へ転居した年の冬、妻と二人で訪れた。水鳥に興味があるわけではなく、ただ、何となく立ち寄った。入口を入ると、右手は喫茶店(カフェ?)。左手が観察スペースだった。
窓際には、三脚に取り付けた双眼鏡が幾つも並んでいる。
気弱そうな職員が迎えてくれて、とにかく、窓際に置かれた双眼鏡を覗く。冬場は渡り鳥が多く種類も豊富だそうな。
先ほどの気弱そうな職員が、丁寧に優しく解説をしてくれる。バン、オオバン、カモ、シラサギ、ゴイサギ、鵜、等々、とにかく、双眼鏡で見つける水鳥を説明してくれて、意外と楽しい。
特に、琵琶湖の名物とも言える「カイツブリ」は面白い。小型の鳥で、さして綺麗な鳥でもないが、集団で湖を泳ぐ。そして、先頭の一羽が水に潜ると、つられる様に一斉に潜る。そして、予想もしないところで集団で現れる。しばし、その動きに見惚れてしまった。
「もうすぐ、ここにもコハクチョウが来ますよ。」と教えてくれた。コハクチョウは本格的な冬の訪れを教えてくれる鳥だ。コハクチョウというが、実際かなり大きい。
昨年冬にも、安曇川の田んぼで餌をあさるコハクチョウを見て来たが、とにかく、鳴き声が騒がしい。それに、飛び上がる時のジタバタ感も半端ない。ただ空を優雅に飛び回る姿は美しい。そして、滑空しながら降りて来るところは、さながら、航空機の着陸のように見える。
いやはや、随分、横道にそれてしまった。

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1日目⑤今津と古津 [琵琶湖てくてく物語]

さあ、ようやく、今津町が見えてきた。
おっと、その前に一つ。饗庭には「木津浜」(こつはま)というところがある。
地元ではあまり知られていないようだった。今は、数軒の家が並ぶ程度。
もともと、小浜藩から大津・京都へ年貢米を運ぶ際、琵琶湖の畔に多くの蔵を設置した。今でも「木津浜」には「御蔵屋敷跡」があり、小浜市の重要文化財の類になっているようだ。時々、古銭が見つかると聞いたことがある。その頃の賑わいを見てみたいとも思う。
さらに、奈良時代までさかのぼってみると、「木津郷」の名が記されているそうだ。
「古津(こうつ)」とも書くようで、「今津」と並ぶとその意味がよく判る。
「津」は、港・渡し場という意味があるから、古い港と新しい港ということだろう。
街道も、小浜から上中、熊川を経て、保坂、藺生(ゆう)、弘川、弘川口で、今津港と木津浜に分岐している。旧道は木津へ向かうようになっている。
往年の賑わいを感じながら、こうした史跡を巡るのは元来好きだ。
特に、地名にはその時々の人々の思いや願いが込められているから興味深い。さらに、その謂れとそれをわずかに感じる事ができる痕跡を見つけるのは意外に面白い。こんな田舎町だからこそ、人知れず、興味深い逸話を見つけることもできる。
そういえば、愛知県新城市から旧鳳来町の豊川(とよがわ)に沿って、「貝津」という地名が点在している。数か所どころではない。川が蛇行し、少し平地がある辺りには、この地名が並んでいる。上貝津・中貝津・下貝津・北貝津・西貝津等々。何か大いに意味のある地名に違いない。「貝の取引場所」というには、余りにも不自然。
一説には「垣内」を「貝津」としたともあるが、豊川沿いの地名はいずれも人家の少ないところ。水害との関係の方が大きいのではないかと推察する。
そろそろ、お昼近くになってきた。
今津町に入る手前に、近江ちゃんぽんのお店がある。
ちょうどお昼時で、駐車場は満車だった。何度か食べに行ったが、なかなかのものだった。ボリュームと味、価格、いずれも十分満足した記憶がある。(実は、小生、いささか味音痴。何を食べてもおいしいと思うし、美味しいと言われて行った店がさほどということもあったりして、グルメとは程遠いので真に受けないように)
チャンポンというと、長崎ちゃんぽんを思い浮かべてしまうが、近江ちゃんぽんは別物。くせになる味。ちゃんぽん通には物足りないかもしれないが・・。
私たちも、昼をどうするか考えながら歩いていく。
庄界川(小さな水路)を超えると今津町に入る。
分岐を右に、湖岸沿いを歩いていく。竹生島クルーズの今津港まで来た。
少し寒いけれど、天気が良いので、何か買って湖畔で食するのも一興と思い、今津駅前にあるコンビニ(セブンイレブン)に入ってみたものの、今ひとつピンとこないので、何も買わず、通りへ出て、少し歩いてみる。
平和堂今津店が見える。
そう言えば、高島の人たちは、ここを「いまへい」と呼ぶようだ。
最初、何の事か判らなかった。安曇川にある平和堂を、「あどへい」とは聞いたことがない。きっと、安曇川の平和堂と区別するための呼び名かと推察する。
高島市に来て、スーパーが少ないことに驚いた。人口5万人弱ならやむを得ないのかもしれないが、初めのうちは戸惑った。だが、5年も暮らすと、慣れて来るものだ。平和堂・バロー・コスモスでだいたい必要なものは手に入るし、大津方面へ30分も走れば、ユニクロもある。セカンドライフの私たちには十分だと思う。

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1日目⑥今津の湖畔道路 [琵琶湖てくてく物語]

「いまへい」の向かいにある店を見て、妻が「あそこにしましょう」と言った。
彼女が、そういうふうに店を決めるのは少ないので尊重する。
そう、「マクドナルド」だ。
関西では「マクド」と呼ぶらしい。
関東では「マック」が主流。確か、愛知県でも「マック」だったように思う。トイレにも行きたいので、「マクド」に決めた。全国チェーンの店舗は、余所者にはありがたい。コンビニも同様。大抵どの店舗も同じようなつくりですぐに判る。「マック」は、入る前からメニューも想像できるし価格も判る。安心感というのは大きい。
こういう時、たいてい、頼むのはビッグマックセットとチーズバーガーセット。店内に入ると、外を歩いてきたせいか、随分温かく(いや暑い)感じたので、ドリンクはゼロコーラにした。
コーラとゼロコーラは別物だと思う。カロリーを気にして、つい、ゼロコーラを頼みがちだが、あの甘味料「アセスルファムリウム(アセスルファムK)」の味が気になる。
昔、生協に勤めていた頃、「アセスルファムリウム(アセスルファムK)」や同類の「アスパルテーム」等のもとになっている「L=フェニルアラニン化合物」は体に悪いと宣伝していたことを思い出す。フェニルケトン尿症の患者には摂取制限があり、過剰摂取で「知的障がい」に繋がる可能性があると言っていた。
勿論、正論ではあるが、「一事が万事」というような過剰宣伝ではなかったのかと思うことがある。今なら、かなりの社会問題になるに違いない。そんなことを思い出すせいか、ゼロコーラ独特の甘みに体が過剰反応しているに違いない。
食べ終えて、「マクド」を出て、再び、歩き始める。
湖岸の旧道は趣があって良い。
竹生島へ向かう観光船の乗り場周辺は、観光化していてそれはそれで面白いのだが、それ以上に、その先の通りが良い。
通りから湖側に面した土地に建つ家の中には、昔の建物が残っていて、改修したところが多い。丁子屋という旅館は、おそらく江戸時代からの作りではないかと推察する。
少し進むと、「住吉宮」がある。その隣には、「九里半街道起点」の看板がある。今津から若狭(小浜)までを結ぶ街道が九里半だったことにちなむらしい。さきほどの「木津浜(古津)」が奈良時代から室町時代に栄え、安土・桃山時代以降はこちらが栄えたのだろう。その間に、なにがあったのか。例えば、物資の量が増えた事で、以前の港だけでは足りず、新たに港が整備されそちらに主流が移ったとか、災害によって何か不都合が生じたとか、琵琶湖の水位変化があったとか・・いろいろと想像を膨らませるのも面白い。
民家の間の所々に、浜へ降りる道がある。
ちょっと寄り道して浜へ出る。
浜に出ると、今津の地形がよく判る。琵琶湖に向かって、右手は安曇川まで大きく湾曲していて、左手も石田川まで湾曲している。砂浜は少なく、小石の浜だ。
再び、通りに戻る。平和堂の裏手を通り、石田川を超える。
この先は、「湖西の松林」と呼ばれる美しい浜が続く。今津町浜分からマキノ町高木ビーチまで5kmほどらしい。防風林と魚付き林の役割をもって明治期に植林された。おそらく当時はまだ小さな松だっただろうが、今でははるかに見上げるほど大きく、根が道路を浮き上がらせるほどに成長している。

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1日目⑦マキノへ入る [琵琶湖てくてく物語]

ここからしばらく、湖岸道路(風車街道)を歩くことになる。今津浜水泳場、浜分沼を過ぎて、再び、湖畔の道路を歩く。暫くすると、桂浜園地に着く。ここで小休止。
桂浜園地は、秋の彼岸には、曼珠沙華(彼岸花)が咲き乱れる美しい所だ。ほぼ毎年、見に行くことにしている。いつの頃からか、真っ赤な彼岸花が好きになり、愛知県に居た頃も、あちこちの彼岸花を見て回った。突然のように咲く花がこの上なく好きだ。
子供の頃、祖母に「彼岸花の下には人の死体が埋まっているから近付くな」と脅されたことがある。おそらく、祖母は、彼岸花が持つ毒のことを教えるために行ったのだろうが、子どもだった私は、そんなはずはないと敢えて、彼岸花を見にいっては摘んできたものだった。田畑の畦に彼岸花が咲いているのは、偶然じゃなく、農作物を守るためだと聞いたことがある。彼岸花の根が持つ毒(アルカロイド)の成分で、モグラとかネズミとかから農作物を守っているらしい。
人の死体とは全く無縁なのは明らかだが、時々、山間部の何でもない斜面で彼岸花を見つけると、祖母の言葉を思い出す。ただ、殺人事件とかじゃなくて、昔の合戦で命を落とした武者がそこに埋まっているのではと思ってみるのだが・・
一休みをした後、いよいよラストスパート。残り、5km程度のはず。
11月は日暮れが早い。特に、この辺りは西に聳える箱館山が夕日を遮るので、急がなければいけない。
桂浜園地を出るとすぐに、貫川内湖(北湖・南湖)がある。バス釣りやヘラブナ釣りが良いらしい。冬になると、少し物寂しい。
さらに進む。
実は、高島に移住先を決めた時、初めは、この辺りで住居を探していた。妻も、この辺りの風景を気に入っていたのだが、なかなか物件が見つからなかった。
通り沿いにある「グリーンライフ」という不動産屋に飛び込んで、相談したのだが、湖岸沿いの物件はなかなか出ないとの事。
店主のT氏も、大津在住で、カヌーやSUPの趣味が高じて、琵琶湖畔に移住した方だった。器用な方で、実は、移住後の住宅の改修はこの方にお願いし丁寧に仕上げてもらった。
「1年とか2年とかのスパンなら見つかるかもしれません。それまで待てるなら探します。」と言われた。その時、出来れば、年内中に移住先を決めたかったので、その提案は飲めなかった。
「いっそ、土地を買って家を建てるというのはどうですか。」と再提案された。それも一つの方法かもと考えてみたものの、土地は安いが湖岸の土地は建築制限があることが判った。建ぺい率は30%だと聞き、30坪の家なら土地は100坪が必要になる。さらに隣地との境界の距離制限もあり、100坪程度だとかなり窮屈になると言わざるを得ない。さらに、土地と建物を計算すると、手持ち資金が厳しい。ちょっと無理かと諦めた。
「少し山手に入れば物件はありますよ」とも云われたが、やはり、琵琶湖の畔が良い。せっかく、琵琶湖の近くに来るのだから、山手にあるような別荘地なら、ここじゃなくてもいい。むしろ、長野や山梨の方が、中央アルプスや南アルプス、富士山などを眺めて暮らせるのでよほどいいと思ってしまう。せめて道一本くらい入っても、歩いてすぐに湖岸に出られるところが良い。
そう思い、別の不動産屋に行く。名誉のため、どこの不動産屋かは書かないが、マキノ駅近くの店に入るなり、ちょっと不愛想な人が出てきて、「住民票はありますか?ない人にはここらの土地は売れません。お帰り下さい。」とかなり高圧的な対応をされた。人口減少に陥っている高島市に、転入者を迎えることは意義あるはず。けんもほろろな対応は、高島市の印象を悪くするだけではないのか?それ程儲かっているような店には見えなかったが・・
転居した後で聞いたのだが、その店は、外から来る人に対して強い偏見を持っているとの事で、不動産屋の仲間内でも困った存在らしい。どこの業界にもそういう人はいる。

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1日目⑧マキノ・知内浜 [琵琶湖てくてく物語]

いよいよゴールが見えてきた。
松並木沿いを歩いていく。この辺りは「中庄浜」と呼ぶらしい。ここからの竹生島の景色が私は一番好きだ。
その先、百瀬川の手前から、知内という地区の街並みが続く。湖岸側に家はないので、庭先から湖が見えるロケーションが羨ましい。
百瀬川を越えると今日のゴールとした「マキノサニービーチ」だ。
カタカナの町名は珍しい。
随分前のことになるが、この「マキノサニービーチ」という名称にちょっと驚いたことがある。どこか、明るい「湘南」のイメージを感じて、調べてみると琵琶湖だった。
その頃は、ネットは無くて、観光ガイドブックを本屋で立ち読みするような形で見た記憶があるが、白い砂と松林、そこで愉しむ観光客の姿の写真があった。
キャンプ場併設というので、子供ができたら連れて行こうとその時は思っていたのだが、すっかり忘れていた。
キャンプ場を過ぎると、グランドパークホテル奥琵琶湖マキノ、その先に数軒の店があり、「マキノサニービーチ高木浜」に到着した。
ここには「マキノサニービーチ湖のテラス」がある。
ネットでもいくつか写真がアップされているのでご覧になっている方もいるだろうが、なかなか良いところ。青い湖、その先に対岸の山々も見え、琵琶湖の大きさがよく判る。マキノ駅から「アクアパレス通り」の一本道の突き当たり。これからの季節、のんびりするには良いところではないだろうか。
とりあえず、今回のゴールはここと決めた。
時間は15時30分。朝、9時30分に家を出て、6時間。
記念写真を撮って、アクアパレス通りを通って、マキノ駅に向かう。カフェが数軒並んでいる。
マキノ駅からJR湖西線で近江高島まで戻って、近江高島駅から自宅まで再び歩いて、帰宅は17時。
歩いた距離は29km。43,032歩。消費カロリーは1620Kcal。
初日としてはかなりの距離だった。
妻はさほど疲れていない様子だった。彼女は細身で小さく一見か弱く見えるのだが、実は、かなりのバイタリティの持ち主。歳を重ね、時々疲れた顔を見せることはあるが、大病を患う事もなく、過ごしてきた。
彼女のモットーは「いつも笑顔で健康に。」年賀状には必ず書き添えるくらいだ。
一方、私はというと、大きな失敗をしていた。歩くには足元は軽い方が良いだろうと、軽量のランニングシューズを選んでしまった。ソールは薄く、歩き始めは快適だったが、途中から何か、足首や足の甲に痛みが出るようになった。家に帰ると、膝まで痛みが出ていた。長時間、長距離を歩くためには、しっかりとしたウォーキングシューズが良いらしい。さっそく、次の休みに、「平和堂」に行ってみようと思った。
ただ、大きな事故もなく、無事に家に戻れたことには安堵した。さて、次は来月12月の予定だ。今回よりも短い距離なので大丈夫だろうと思って休むことにした。

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2日目、①マキノから塩津を目指す! [琵琶湖てくてく物語]

さて、いよいよ、2日目。初日からほぼ1ヶ月あいた12月8日。
今回は、マキノから近江塩津までの、ざっと15kmの予定。
山中を歩くルートになるので体への負担を考え、短めに設定した。
琵琶湖を徒歩で一巡りしようと決めてから、計画を練っている時、幾つか困ったことがあった。それは、湖岸沿いに歩くルートがない所があることだった。
その一つが、このルート。
マキノから、海津大崎を経由して大浦までは湖岸沿いの道路がある。
春になると花見観光で混雑する「海津大崎の桜」ルートだ。そこから湖岸沿いには、「菅浦」地区までは行ける。だが、その先はどうか。
GoogleMapで見ると、それらしき道はないようだった。だが、もしかしたら、歩道くらいはあるかもしれない。事前に、菅浦へ行ってみた。
菅浦は、時間の流れが止まったような場所だった。
村の出入口には、茅葺の棟門があり、これが菅浦の四方にあったそうだ。今は西と東が見学できる。棟門では、明治維新まで、村への出入の検察が行われていたそうだ。中世から、「惣」と呼ばれる住民自治の組織が発展していたようで、厳しい環境の中で村を守る力が重要だったそうだ。その茅葺の棟門の一つ「東の四足門」の先に行ってみた。私有地かもしれないところを更に入っていくと、湖岸に降りる。その先には、やはり、道はなかった。(菅浦の事はまた別の機会に書き記そうと思う)
ということで、結果として、山中を歩くルートとなった。

朝、8時30分、車で家を出て、マキノ駅へ向かう。マキノ駅前には無料の駐車場があり、そこに車を停めた。そこから、前回のゴール地点となった「マキノサニービーチ湖のテラス」へ向かう。今回のルート上には、コンビニがほとんどないので、マキノ町高木浜交差点にあるファミリーマートで昼食を買い、リュックに入れる。
さて、いよいよ、出発。
湖岸沿いの道を歩き始める。
湖のテラスを出て直ぐ、湖岸へ降りる道を見つけて湖岸に出る。
散策路が続いていた。人の家の裏(?)を歩くような感じだが、快適。湖岸に建つ家に住んでいる人には、湖岸はほぼプライベートビーチみたいなものだろう。花を植えている人や机や椅子を置いている人もいる。羨ましい。
しばらく行くと、再び、通りに戻る。
その先には、「海津の石積み」がある。調べてみると、全長1.2kmで江戸期には完成していたらしい。家屋を守るためという解説があるが、琵琶湖は土地を侵食するような高い波は起きない。更に言えば、中世の琵琶湖は今より水位が低かったと言われている。土地を侵食するというより、流れ込む土砂の堆積の方が問題だったはずだ。
遠くから眺めてみると、この石積みは、どこか「城壁」を思わせるところがある。
もしかしたら、外敵からの防御なのではないだろうか。
海津は湖上交通の要衝として栄えてきた。あれだけの石積みを作れるとすればかなりの財力を持った人達がいたにちがいない。中世は、瀬戸内でもいわゆる「海賊」が力で治めていた時代である。琵琶湖も同様だったのではないだろうか。そうした輩から、町を守るための「石積み」だと思うと、納得がいく。今も、石積みの残る辺りには、たくさんの民家が建ち並んでいて、人々が普通に暮らしている。私の知り合いも住んでいて、一度、家に入ったことがある。湖に面したところに、離れの家屋があり、窓を開けると、南面に琵琶湖が広がるロケーション。贅沢の極みなのかもしれない。
その街並みを過ぎ、突き当たりを右に曲がると、「海津大崎の桜並木」に入る。

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2日目、②海津大崎を歩く [琵琶湖てくてく物語]

「海津大崎の桜並木」は、驚くほど有名だ。もちろん、この時期に桜の姿はない。転居してきたばかりの頃、春真っ盛りの平日に立ち寄った。交通規制がなかったので、車で入って行ったが、失敗した。ここから先、道路幅はかなり狭い。なおかつ、無遠慮な駐車車両もあって、かなり渋滞していた。だからと言って、反転して戻ることもできない。桜の花を見るには良いが、運転する身には辛い想い出しかない。
冬場のここは、ほとんど車も通らず、人影はない。のんびり歩くにはちょうどいい。
歩き始めて直ぐのところに、「義経の隠れ岩」なるものがある。
文治3年、都落ちした義経が北陸へ向かう途中、身を隠していたとの表記があった。さほど大きくない岩なのだが、身を隠すほどのところは想像しにくい。ただ、そうした伝説が残っているということは、何らかのエピソードがあったに違いない。
再び歩き始めると、その先に「海津大崎港」と「大崎寺」に着く。今回は、素通りする。
高島へ移住したばかりの頃、ここへ来た。
その時、「西近江七福神巡り」を知った。市内にある寺社7カ所に七福神が割り当てられていて、台紙を購入して、まず、ここ大崎寺で御朱印を貰った。それから、唐崎神社(マキノ)・西行寺(今津)・行過天満宮(今津)・正傳寺(新旭)・玉泉寺(安曇川)・白髭神社(高島鵜川)を回り、あっけなくコンプリート。
一番印象に残っているのは、安曇川町田中にある玉泉寺。
立派な山門をくぐると、右手に「五智如来石仏」が鎮座している。鵜川にある48体阿弥陀仏と同じ造りで2m弱の大きさ。歴史を感じる。ただ、それよりも強いインパクトは、この寺の御住職。ふらりと参拝に訪れた私たちを温かく迎えて下さり、仏教の教えを講釈いただき、最後には「忘己利他」の書までいただいた。FBでも発信されていて、活動的。室町時代に再建された寺と聴く。寺巡りは好きだが、なかなか御住職とお話する機会は少なく、今でも鮮明に覚えている。
ちなみにいただいた「忘己利他」の書は、リビングの壁に貼ってある。「もうこりた」と読む。「我を忘れ、他を利するは慈悲の極みなり」という天台宗・最澄の教えとのこと。自我が強い私にはなかなか難しい。いらいらした時やむしゃくしゃした時、その書を見て反省している。元来、神仏を信じるほうではない。生家は「浄土真宗」だったが、葬式や法事以外にはあまり考える事もない。最近は、怪しげな新興宗教などに関連して事件も多く、そういうことを考えない様な風潮も強い。ただ、今回、玉泉寺の御住職から話を伺ってみて、日本の仏教は、まさに「教えの道」なのではないかと思うようになった。遠く、ヤマトが成立し、日本民族というかたまりが生まれてから、人々が日々の暮らしの中で得た叡智が詰め込まれているような気がした。

また、話が脇道にそれた。

さて、海津大崎を過ぎると、トンネルを5つ抜けることになる。短いトンネルでさっさと歩く。その先には、二本松キャンプ・水泳場。そこから先は、長浜市となる。
ここまで余り書かなかったが、歩いていて困ることの一つに「トイレ」がある。街中であれば、公園やコンビニで済ますこともできるが、見つからない時もある。実は、この行程で、この辺りで大変困った。二本松キャンプ場を見つけた時、ほっとしたのだが、冬場は閉鎖されていて結局我慢することになった。
奥琵琶湖の景観が素晴らしい。入り組んだ湖岸、澄んだ水、何より民家がほとんどなく、自然そのものの中にいると感じられる。
しばらく行くと、「ロテル・デュ・ラク」。かなり高級そうなホテルだ。その先は別荘地、奥琵琶湖老人ホームを過ぎ、いよいよ、大浦地区に入る。

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2日目、③大浦到着 [琵琶湖てくてく物語]

大浦地区に到着した。
ここまでざっと10km。
ここで紹介したいお店がある。「みつとし本舗」だ。
実は、大浦は、移住を決めた頃、初めに購入を予定していたログハウスがあった。広い敷地、綺麗なログハウス、手ごろな値段で九割がた購入を決めて、内覧もさせていただいた。だが、ちょっと狭かった。もう一部屋あれば・・と断念した経緯があった。
その時、この「みつとし本舗」を見つけた。
「ピーナッツせんべい“丸子船”」オンリーの店。
この地区の旧家の佇まいで、一見、お店とは思えない。黄色い看板と暖簾はあるが、今時の店内が見えるような構造ではなく、ちょっと入るのに勇気がいる。だが、入ってみると何とも言えない温かみを感じた。150g入り500円(税込540円)を購入する。素朴な味わいに納得。実は、以前、私はピーナッツアレルギーだった。ナッツ類の入った菓子を口にすると、咳が止まらなくなり、気管支喘息のような症状が出ていた。だが、ピーナッツは好物。ジレンマと戦いながら食していた。不思議なことに、ここのピーナッツせんべいでは、アレルギー症状が出なかった。そんな不思議なことがあるとは思えないし、恐らく医学的にはあり得ないことなのだろうが、いずれにしても、この店の「ピーナッツせんべい」は大丈夫なのだ。以来、思い出すたびに、寄って購入している。

さて、お昼時となった。
大浦川に架かる橋を渡り、直ぐ、右手の川沿いを歩く。天気も良く、風も穏やかなので、湖岸で、コンビニで仕入れた昼食を食べることにした。
貸しボートの看板がある岸辺の道を進むと大浦園地に出る。まずはトイレ。公園のトイレを拝借する。
丸石を積み上げた湖岸に座り、昼食を取る。
湖に向かって左手には大浦漁港、右手は先程歩いてきた湖岸道路が見える。
若い頃から、外出の際、妻は、大きめの水筒にコーヒーと麦茶を持って出ることに決めている。勿論、若い頃は「節約」のためだった。自動販売機で飲料を買うのがどうにも無駄だと感じていたようだ。今回、琵琶湖を歩くことにした時も、この習慣は変わらない。冬なので、温かいコーヒーは欠かせない。
一息ついて、出発。
本当なら、この先菅浦へ向かいたいところだが、その先の道がないため、ここはやむなく、山越えの道を選ぶ。
大浦の街中で通り過ぎ、北へ向かうと、「北淡海・丸子船の館」がある。
ここ大浦は、日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさんの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運部という水運の一翼を担っていたようだ。
琵琶湖には大小48の港があったとも言われているが、敦賀からのルート上では、塩津と大浦・菅浦は要衝と言える。〇の印を染め抜いた帆を掲げた荷船が、琵琶湖を行き交う姿はきっと勇壮だったに違いない。ここで解説を見る限り、琵琶湖の水運が盛んだったころ、やはり「水軍」がいたようだ。正当な運搬船だけでなく、それを襲う輩もいたらしい。そうなる背景には、貧富の差がある。海津の石積みを見ると、改めてそう感じる。光と影、富める者と貧しき者、支配する者と虐げられる者、人の世は難しい。皆が助け合い、寄り添いあうような社会は幻想か・・。
そういう思いを浮かべながら、「丸子船の館」を素通りして、国道303号線の大浦口へ向かう。

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2日目、④山越えの道 [琵琶湖てくてく物語]

国道303号線の大浦口信号から東へ向かう。
ここからは山中のルートになる。暫くは琵琶湖から遠く離れてしまう。菅浦まで歩いて、奥琵琶湖パークウェイのルートも考えたが、さすがに厳しい。ちょっと安易な道を選択してしまった。
303号線に入ると歩道があり、歩きやすい。右側だと、山の下に広がる集落が見える。
この道路は「琵琶湖西縦貫道」というらしい。
初めてこの道を通った時、「動物注意」の道路標識の下に「この付近 シカ・イノシシ・タヌキなどの動物がよく飛び出る区間 走行注意」の大きな看板があるのに驚いたのを覚えている。確かに、民家がほとんどない山間を抜けているので動物が飛び出しても不思議はない。以前によほど大きな事故でもあったのかと思う。ただ、ここのような山間を抜ける道路はどこにでもある。以前に暮らしていた愛知県でも山間地域にはざらにあった。
妻は、ここを通るたびに、この看板の事を口にする。
ただ、ここでは一度も動物を見た事はない。
むしろ、高島市内へ入った方が動物を見かけることが多いように思う。
つい先日(これを書いている2023年4月)も、鵜川の48体石仏のある墓地で猿の軍団に出くわした。椿の花を美味しそうに食べていた。
昨年秋には、鹿ヶ瀬の手前で、鹿が道路を歩いていた。柵の隙間から出て来たのか、まだ小鹿のようだったが、あの後どうしたか。
小浜市へ抜ける道路では、猪の親子がのんびりと横断していった。
何より、家の庭には、イタチ、テン、タヌキ、こともあろうに、アライグマまで顔を見せる。住む人が年々減っている高島市は、恐らく、動物が増えていると思う。
看板を読むと、どうしても、野生動物を厄介者のように扱っているように感じるが、むしろ、人間が動物の領域を我が物顔で立ち入っているのではないかと思う。
以前に書いた「アスカケ」のⅠ部で、霧島山の麓に暮らす翁の話を書いた。獣と戦い、両腕を失い、人の厄介になることを避けるように、自ら郷を離れ、人と動物の住む境界に暮らし、互いが干渉しすぎないように命を賭けている翁の話だ。人は自然の中に生かされている存在であるにも関わらず、容赦なく自然を破壊する。大和国家が成立する前は、恐らくそういう時代であったはずだ。(よろしければ、「アスカケ」も読んでいただければと・・・)

そのまましばらく行くと、岩熊隧道に入る。
入ってみて驚いた。トンネルの中を歩く経験は余りなく、今回、海津大崎のトンネルで初めてだったかもしれない。ただ、あのトンネルでは、殆んど車が通らなかったため、気づかなかった。
トンネルの中は、激しい騒音なのだ。会話は全くできない。息苦しささえ感じる。普段、車で通過しているが、それほどとは思わなかった。
大型トラックが来ると、轟音と風圧に命の危険さえ感じる。岩熊隧道は、広い歩道があり、決して危なくないのだが、騒音と風圧だけで恐ろしい。
さらに驚くのは、バイクだ。乗用車やトラックの比ではない。バイクの排気音は特別だった。F1レース場のごとく、甲高い音で鼓膜がおかしくなる程だった。時々、トンネル工事を見かけることがあるが、この騒音の中で重機を使って工事をするというのはもはや人間業ではない。きっと耳栓はしているに違いない。1時間もトンネルに居たら精神的に変になるとさえ思った。
この岩熊隧道(第2)は、全長796m。滋賀県で10番目らしい。歩いて抜けるまでだいたい15分。限界に近かった。
ところで、岩熊という地名。読み方は「やのくま」らしい。

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2日目⑤あぢかまの里 [琵琶湖てくてく物語]

トンネルを抜けると、長い下り坂。
トンネルの出口近くに「矢合神社」がある。
春にここを通った時、境内に咲いていた桜が目に入り、思わず駐車した。道路からすぐに鳥居があり、石段を上ると本殿がある。大きな神社ではないが、そこにある桜は見事なものだった。ソメイヨシノではなく、淡い桜色をした枝垂桜だ。周囲の桜が咲き終わった頃に花を開く。歩いた時は真冬で、それが桜だとは気づかなかった。

その先は国道8号線と303号線の塩津交差点である。
今回の計画では、ここから、左に折れて、近江塩津駅でゴールになるはずだった。
先ほど、大浦を出発してここまで7km弱しかあるいていない。
「もう少し歩きましょう。」
妻が笑顔で言う。
確かに、まだ午後2時過ぎ。ここで終えるには少し早い。
だが、ここから、賤ケ岳方面に向かうと、最寄りの駅が無くなる。GoogleMapで調べてみると、この先でJR駅が最も近くなるのは、木之本駅だった。塩津交差点から木之本駅までは、7km。なんとかなるか・・。
道の駅塩津海道あぢかまの里で一息つく。
前から、この「あぢかま」とは何ぞやと思っていた。
ここの案内所で掲示されていたのを見て納得。
「あぢかまの塩津を指して漕ぐ船の名は告(の)りてしを逢はざらめやも」
と読まれた塩津の浜の枕詞「あぢかま」が由来だそうだ。
だが、やはり判らない。
そもそも『あぢかま』という言葉は何?
これは後日調べた事だが、「水辺で冬を過ごすカモ」のことを『あぢカモ』と呼ぶらしい。これ以上のことは判らなかったが、万葉集が詠まれた時代には、自然への造詣は今より深く、カモ一つにも、様々な表現があったに違いない。
現代よりも、大和言葉はもっともっと多様だったのかもしれないと思う。

ここで、GoogleMapを見る。
どうやら、目の前の道は新しいようで、少し東側に旧道がある。車の通りも少なく、歩くにはちょうど良さそうだった。
国道を横断して、西浅井郵便局から旧道を進む。
山に沿うように、街道が続いている。地形を見る限り、旧道より西側はかつては湖だったと思われる。それが証拠に、旧道の先に行くと、人家の湖岸沿いには石垣が積まれているところがある。対岸の陸地はコンクリ―ト製で、この場所が近年埋め立てられたことが判る。

旧道沿いを歩くと、面白いものを見つけた。
ここは、塩津海道、塩津港のあった場所で、琵琶湖最北に面する集落である。
大浦と同じように、丸子船の基地として栄え、多くの商家があったそうだ。
今でも、旧家屋が所々残っていて、その名残を感じられる場所に、小さな看板が掛けられている。酒蔵や米蔵、宿などがあったようで、古めかしい文字で説明文が書かれていた。
ほんのわずかではあるが、そうした営みを後世に伝えようとしているのには感心した。近年増えている「シャッター街」で、現代アートで彩られているところも一興だが、こうした古い町並みにちょっとした看板を置いて、往年の姿を想像させる趣向も面白い。

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2日目⑥トンネル回避で眺望 [琵琶湖てくてく物語]

そこからしばらく行くと、藤ヶ崎トンネルが見えた。
先ほど、岩熊隧道で散散な目に遭っていたので、再び、スマホのgooglemapを開く。
山川産業滋賀工場から、湖岸沿いに県道336号線が伸びている。どうやら、湖岸沿いを歩けるようだった。迷うことなく、湖岸沿いに向かう。
トンネルを進めば1.5km。湖岸だと3.2km。
倍以上歩くことにはなるが、「琵琶湖岸を歩いて1周する」という当初の目的には叶っている。半分ほどの場所に「休憩所」という文字も見える。
30分ほど歩くと、その場所に来たが、少しばかり駐車スペースがある程度で、何もなかった。ただ、ここからの眺めはすこぶるよかった。
天気も良く、時間も午後2時を回った。12月だというのに、気温が高くなっている。
「ちょっと休憩。」
妻が急に立ち止まる。
朝早く家を出た時はかなり寒く、北西風に煽られると体温が奪われるに違いない。そう考えたので、やや厚着にした。ダウンジャケットを上着にして、ヒートテックの下着、同じくヒートテックのネックシャツ、さらに、マフラー。だが、思いのほか気温が高くなり、この厚着が裏目に出た。
背中にじっとりと汗をかいている。
妻の顔が少し赤らんでいる様にもみえた。暑い。
リュックサックからタオルを取り出し、背中に入れて汗を拭く。汗が冷えると風邪をひく。この歳で風邪をひくと、かなり堪えるので、しっかり汗を拭いておく。実はこの先も、同じような目に遭うことになる。
歩くというのは、立派な有酸素運動。
それも20kmを超えるほど歩くのは、かなりの運動量になる。
家の周りの散歩とはわけが違う。日暮れまでに目的地に着かなくてはならない。どうしても速足になり、予想以上の運動となっていた。
たぶん、健康には良いはずだと言い聞かせる。
汗を拭き、一息ついたら歩き始める。眺めの良い湖岸の道路をしばらく進むと、ようやく、国道が見えてきた。
飯浦の信号の脇には、廃墟があった。調べてみると「奥琵琶湖ドライブイン」跡らしい。時々、こういう建物を見かけるが、往年の雄姿は如何様なものだったのか、想像すると哀しくなる。それにしても、廃墟となった建物の所有権はどうなっているのだろうか?買い手もつかず放置され、この先どうなるのか。考えてしまった。
その向かい側には、小さな漁港がある。
以前、バス釣りの検索をしていた時、ここを発見し、すぐに来たことがある。
港の中には、魚影がたくさん見えた。ここは釣れるだろうと、喜び勇んで、ロッドを出して港に降りた。1,2回キャストしたところで、赤色灯をつけたミニパトが現れた。釣り禁止とは書いていないが・・と近づいてくる警官を見ていると、
「ライフジャケットをつけてください。昨日、事故が起きたばかりですから。」
と、やんわり注意されてしまった。
しまった、ライフジャケットを持っていない。止む無く退散した。そんな苦い思い出がある場所だった。
還暦近くになって、若い警官から注意をされるというのはかなり恥ずかしいものだ。

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2日目⑦賤ケ岳トンネル [琵琶湖てくてく物語]

飯浦の信号まで出ると右折し、国道沿いを歩く。道路は広いのだが、歩道らしき部分がない。敦賀と長浜を結ぶ道路は、大型トラックが頻繁に通る。少々、危ない思いをしながら歩いていくと、分岐点があった。左に行けば、賤ケ岳の峠道、左はやや上り坂ながら直線道路。トンネルは避けたいが・・と思い、Googlemapを開くとどちらもトンネルがあった。
ここは、やはり国道かな・・。
303号線を選んで、トンネルに入る。
岩熊トンネルで轟音は体験済みだったが、ここは、さらに厳しかった。何と言っても、歩道がほとんどないに等しい。50㎝くらいだろうか、妻と二人、前後になって黙々と歩く。
賤ケ岳トンネル、全長850m。
車で走ればあっという間だが、歩くと15分くらい掛かる。15分は長いか短いか・・。綺麗な景色で太陽を浴びながら歩くのなら、15分なんて気にならないだろう。
だが、トンネルの隙間から染み出ている水が歩道に溜まっていて、足元は悪く、さらに、照明はついていても足元はおぼつかない。何より、騒音。いや、騒音ではなく、爆音だ。
とにかく、一刻も早くこの地獄のような空間から抜け出したい。
その一心で黙々と歩く。
ここは、ビワイチ(自転車)のコースにもなっているのかなと思いながら歩く。
耳を塞ぎ、とにかく、出口の灯りを目指して歩く。
10分ほど歩くと前方に光が見えた。
車で通過している人にはどんなふうに見えるのだろう。
「おい、人が歩いているぞ!」
「物好きだね」
「馬鹿じゃないの?」
等と言われているのかもしれない。確かに物好きなのかもしれないが、まあ、皆さんに迷惑をかけているわけじゃないので大目に見てくださいな。
そんな事を思いながら、ようやく出口に着いた。
太陽の光が、幸せを感じさせてくれた。
ここから木之本駅まではもう僅かの距離だ。
気を取り直して、歩く。
ふと前方に、「賤ケ岳古戦場」の看板を見つけた。余り歴史に詳しくない私でも「賤ケ岳の戦い」は知っている。羽柴秀吉と柴田勝家の戦いだ。
「リフトがあるみたいね。」
妻が小さな看板に気付いて言った。ここは何度も通った道だが、知らなかった。
看板は出ているが、国道からはリフト乗り場が確認できない。今回は、「琵琶湖てくてく」なので、立ち寄るのはまた別の機会にしようと言い、先を急ぐ。
もともと、今回はこんなところまで来る計画ではなかった。早々に、近江塩津駅から帰路に着いていたはずだったのだ。
後日、秋口に賤ケ岳リフトに行ってきた。大木が生える山中を切り開区形でリフトがあった。それに乗り山頂(?)まで行くと、展望広場があった。北には余呉湖、南には琵琶湖。古戦場跡なので、解説の看板もあった。
遠く、敦賀までの範囲で、羽柴秀吉軍と柴田勝家軍が戦を繰り広げた場所。各武将が山々に砦を作っていたことが記されている。だが、ちょっと不思議だ。山深い場所での戦とはどういうものだったのだろう。大河ドラマ等では、平地や丘の様な描写は見るが、こうした山中の戦いはあまり目にしたことはない。だいたい、こんな山中で戦になったのか、敵と出くわす事すら難しいのではと思ってしまった。

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2日目⑧木之本まで到達 [琵琶湖てくてく物語]

トンネルを抜けてしばらく行くと、大音(おおと)である。
余呉川にかかる橋の架け替え工事がされている。もうずいぶん長い期間工事をしているように思う。
琵琶湖周辺の河川は、平地・低地を流れるところが多く、山間で降った雨が、平地の緩やかな流れで一気に増水してしまう。
2022年8月には、滋賀県内は記録的な大雨に見舞われ、県内各所の河川が増水し、氾濫も起きた。長浜市内を流れる高時川が増水・氾濫し一帯が水没した。
その時、同じ長浜市内を流れる、この余呉川の様子は知り得ないが、ニュースで見る限り大きな被害はなかったようだ。
この川の上流部に位置する「余呉湖」は治水の役割を持っている。いわゆる、山間部にあるような大きな堰堤を持ったダムではないが、堰と放水路で流量を調整する機能があり、平成25年の18号台風の豪雨の際には、余呉湖の流量調整によって、余呉川の氾濫を食い止めた記録があった。おそらく、昨年も機能したに違いない。
この辺り一帯は以前は「伊香郡」という地名だったようで、遥か北側の山の麓に『伊香具神社』がある。奈良にある「香具山(香久山)」と同様の、延喜式に記されている神社のようで、古から信仰されている由緒ある場所であり、一度訪れてみたいと考えている。
その橋を超えると、「木之本インター入口」。
真っすぐ進めば、木之本の町中へ向かう。前方に、木之本地蔵院。6mの高さの仏像が建っていて町を見守っている。
後日、ここも訪れた。
木之本は、北国街道と北国脇往還が交わる場所。
近世には大いに栄えた町だったと思われる。ここから北へ向かうと山中に入るため、北国街道を旅してきた者はおそらく、この地で休み、英気を養ったはずである。街道沿いには今も古き良き時代の家屋が現存している。
寺社仏閣も多く、規模も立派。
宿場町・門前町として栄え、財を成した人も多かったに違いない。木之本駅から木之本地蔵院へ向かう道は、門前町の風情があって良い。そして、地蔵院間を横切る北国街道も風情がある。滋賀から福井方面へ向かわれる方には是非立ち寄ってほしい場所だ。

今回、琵琶湖てくてくでは、木之本の街にはいかず、手前で左折し駅に向かった。
JR木之本駅。
駅の西側に無料の駐車場を発見。次回、ここを出発点にすることにして、JR北陸線・木之本駅へ入った。
ここまで、40574歩。距離は28km。当初予定より、10km近く長く歩いたことになる。
2日間通算で43621歩。57km。ようやく琵琶湖一周の5分の1を歩いたことになった。
木之本駅から近江塩津駅へ向かい、そこで乗り換えて、湖西線で、マキノ駅へ戻り、自家用車で自宅へ向かう。

2日目の行程で得た教訓は、「トンネルは歩行者には優しくない」ということだ。
車に乗り慣れている自分としても、今後は、トンネルを通過する時、歩行者や自転車には十分注意しようと思う。

さて、次からはいよいよ、琵琶湖東岸を歩くことになる。西岸と比べて比較的開発が進んでいる地域であり、往来も多い。最後まで歩く事ができるか・・。

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3日目①木之本から長浜を目指す [琵琶湖てくてく物語]

さて、いよいよ3日目。11月・12月と月1ペースでやってきた。
年明け1月はいつ歩くか。悩んだあげく、正月休みを使って歩くことにした。
元旦には、いつものように、初日の出を拝んで、お節を食べ、のんびり過ごした。
そして、2日に歩き初めということにしたのだ。
前回、木之本まで歩いてしまったので、少し計画が前倒しになっている。今回は、木之本駅に車を置き、目指すのは長浜・豊公園。ざっと、25km程度だ。
元旦の夜、天気予報を見ると「雨のち晴れ」。なんとかなるだろうと決行した。
自宅から自家用車で木之本駅へ向かう。
うーむ、雨だ。冷たい雨だ。心が重い。
実は、琵琶湖東岸を歩く行程を見ていて、一番困ったのは、最寄りのJR駅がかなり絞られるということだった。湖岸から駅までの道のりが長いということは、それだけ湖岸を歩く距離が短くなる。実際の前進行程が短くなる。これでは10日間では歩き切れないかもしれない。木之本を出て、長浜までの行程を見ると、途中で断念することはむしろ厳しい。最寄り駅がないのだ。始めたら、確実に長浜駅に到着しなければならない。だが、雨。てくてく歩くには最悪の天候だ。
木之本駅に着くまで、運転しながら私はそんなことを繰り返し考えていた。
駅前の無料駐車場に着く。やっぱり雨だ。
「今更、考えたって、どうしようもないでしょ?」
妻が軽やかに言う。
いやいや、いつも、過去を振り返って愚痴愚痴言うのは君ではないか、と心の中で思いつつ、口には出さない。
こんな時のために、雨合羽を買っていた。車中で羽織り、外へ出る。寒い。正月から何でこんなことに・・とまだ、気持ちは沈んでいる。
それでも何とか出発した。駅を出て、前回の道に少し戻る。大音の橋のたもと、余呉川に沿って琵琶湖岸を目指した。この道は「さざなみ街道」と呼ぶらしい。
しばらく行くと、道路沿いに白い花を見つけた。樹の様子から、それは桜のようだった。おそらく、四季咲き桜だろう。少し気分が和らぐ。
少し進むと、不思議な場所がある。Googlemapでもその場所の不思議さが判る。
余呉川の西側には、賤ケ岳から連なる山地が伸びていて、南方向へ続いている。そして、木之本町西山方面の余呉川を遮るように山並みが東へ伸びていて、余呉川がそれを貫いている格好になっている。道路の左側は明らかに削られている。この辺り一帯が区画整理がすっかり終わっているところを見ると、この地域の大規模改修がされた時、この山も大きく削り取られたのではないかと推察する。もしかしたら、土地改良工事以前の余呉川はもっと違う場所にあったのではないか。
そんなことを考えているのは、やっぱり、冷たい雨のせいだ。
天気が良ければのんびり湖を目指しながら、妻とも会話を楽しみつつ足を運ぶはずだった。だが、冷たい雨は容赦なく降り続いていて、ついつい無口になってしまう。
そのまましばらく行くと、右手の山に「磯野山城址」の看板が見えた。
さざなみ街道からは、余呉川を越えた対岸にある。
木々が生い茂り、そこにそのような城址があるのか、入口さえも判らない。後で調べた事だが、ここは、1500年頃、磯野昌友によって築かれた山城とのこと。近世の城とは違い、ほぼ砦に近いもので、土塁や堀切などで敵を退けるような造りと城主の館があるくらいだったに違いない。城というと、近世の大きな天守閣を持つ者をイメージしがちだが、本来、戦に備えて領地を守る役割をもっていたはずで、山や島、ちょっとした高台を巧みに使って、領地領民を外敵から守るには、この磯野山城は格好の場所だったろう。
などと、想像を働かせて、更に、余呉川に沿って歩く。

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3日目②余呉川に沿って [琵琶湖てくてく物語]

次第に雨が小降りになって来た。
余呉川は、西柳野区のはずれで二手に分かれる。
右手は、西野放水路として直進して、西野水道を通じて琵琶湖へ注がれる。本流である余呉川はここで左に湾曲し、山本山の麓に沿うようにして琵琶湖へ続く。
西野水道は、元は西野隧道と書かれている。調べてみると、江戸期1836年から10年近くの歳月をかけて、手掘りで硬い岩盤を掘削して作られたと知った。余呉川の度重なる氾濫で、西野地区は壊滅的な被害を受けており、充満寺住職西野恵荘が発案し、彦根藩の協力も得て完成させたとあった。今回はそちらには行かず、余呉川に沿って琵琶湖に出る。
しばらく行くと、トンネルが見えた。片山隧道とある。
左側にはガードレール付きの歩道があった。2カ所でトンネルの恐怖を味わったので、ここに入る時の勇気が必要だった。だが、車が通らず、静かな中を歩く事ができた。さすがに、正月2日は車の通りが少ない。ラッキーだった。
トンネルを抜けると、琵琶湖岸だ。前方、湖の中ほどに竹生島が見える。その先で、ちょっと寄り道をした。
湖岸のさざなみ街道よりも一つ山側に住宅地があったからだ。脇道のような形になっているが、恐らく、こちらがもともと湖岸道路だったと思われる。
通り沿いに民家が立ち並び、神社や寺もある。直ぐに、片山漁港に着いた。漁港をまたぐようにさざなみ街道があるのを見る限り、やはり、ここがもともとの湖岸道路だろうと推察された。浄明寺前のT字路。そのまま直進すると、山本山の西側に沿って行き、再び余呉川に出会う。次第に湖岸からは離れてしまうので、ここで、右折してふたたび、さざなみ街道へ戻ることにする。真っすぐ進むと、ちょっと妙な道になっていた。さざなみ街道に合流するのではなく、平行に道が続いていた。そのまま進むと、ちょっとした駐車場がある。看板には「早崎尾上片山園地」とあった。
狭い通路から公園の中に入る。その先には「野田沼」は広がっていた。訪れる人は殆んど居ないのか、ちょっと荒れている。真冬だからかもしれない。沼の周りには幾つか鮒釣りの足場の様なものも残っている。季節になれば、多くの釣り人が集うのかもしれない。
公園を抜けて、先を急ぐ。
湖北町尾上という地区に入る。
ここには、葛籠尾崎湖底遺跡資料館がある。100年ほど前に、漁師の網に引っかかった「土器」をきっかけに調査が始まり、湖底に縄文期から平安期までの土器が見つかり、大きな遺跡であることが確認されたようだ。中には水深700mの深い場所からも見つかったようで、単純に、琵琶湖の水位変化だけでは解明できないようだ。もしかしたら、平安後期の内陸地震が関係しているかもしれない。もともと、軟弱な地盤の上にあった集落が、琵琶湖で起きた津波や、液状化などで琵琶湖側へ引きずり込まれたのではないか・・などと考えると、この遺跡の謎解明は、今の我々にとっても「防災」の面でも重要なのかもしれない・・などと考えてしまった。
それよりも、この尾上地区は不思議な街並みだ。
集落を分断するように、水路があり、水路沿いに道路、そして民家が建ち並んでいる。水路は比較的大きな石垣が組んであり、同じような石垣を湖岸でも見たので、おそらく、水路から琵琶湖側は、何らかの意図をもって埋め立てた場所ではないかと思う。中世には、「尾上城(砦)」があったそうなので、もしかしたらこの一角全体が城だったのかもと思う。
ここに在る「小江神社」は、垂仁天皇の皇女倭姫命勅命を奉じ野州郡江頭の地を舟出され、湖上を北に向かい、「小江浦」に上陸し休息したとされている場所で、神代の時代から、ここらに集落があったのは確かだろう。
いろんな想像を巡らせてくれる不思議な場所だった。

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3日目③道の駅で [琵琶湖てくてく物語]

その集落を西へ向けて抜けて、さざなみ街道へ戻る。
突き当りには、尾上温泉旅館紅鮎がある。高島へ移住する前、琵琶湖の観光雑誌を見ると、必ず、取り上げられていた旅館だ。夕暮れの景色は格別らしい。さて、そろそろ、昼も近付いてきた。
気づくと、すっかり雨は上がっていた。
前方、左手には「湖北野鳥センター」。そして、道路を挟んで湖岸には「湖北水鳥公園」がある。これまでも何度か訪れた事がある。冬には、コハクチョウが飛来する。高島市にもコハクチョウは飛来するが、ここは、夕暮れ時に戻ってくるコハクチョウを観察でき、写真家も数多く訪れる場所だ。季節になると、歩道には多くに写真家が望遠レンズでコハクチョウを撮影している。私たちが来た時は、昼間と逢って、コハクチョウも写真家の姿はほとんどなかった。
さて、昼になった。
今回は、この先の「道の駅湖北みずどりステーション」で摂る予定だ。
駐車場に入る。おやおや・・車がいない・・まさか・・。
そうなのだ。今日は正月2日。みずどりステーションはお休みだった。
それにしても、この「道の駅」というのはちょっと変ではないか?
国土交通省の肝いりで、当初の目的は「国道沿いにドライバーの休息のために設置された」と聞いたが、今では、地域振興の機能も強化され、場所によっては、そこを目的にドライブする人も多い。
私自身も、滋賀県内のほとんどの道の駅を訪れた。
中でも「あいとうマーガレットステーション」は、ひまわりや秋桜、マーガレットなどの花を楽しみに、毎年のように訪れている。
高島市にある「藤樹の里あどがわ」は、コンビニもあって、大いに賑わっていて、夜間でも車が多い。
なのに、みずどりステーションはお休み・・。
朝から雨に降られて、さんざんな思いをしてここまで歩いてきたのは、この道の駅で休息できると思っていたからで・・というのは少しオーバーだが、やはり、休息は取りたいし、昼食も何とかしなければならない。このままでは、この先歩けない・・。
この先をGoogleMapで検索してみるが、コンビニは当分なさそうだった。飲食店もなさそうだし、何とかしないと、と狼狽えてしまった。こんな時、私は修正力が極めて弱く、狼狽え騒ぎ、動けなくなる。妻は、そんな私を見て、「またか」という顔をする。
彼女も極めて心配性であり、見知らぬところに行くのは嫌がるタイプ。でも、私と違うのは一旦、決心すると強いのだ。今回の琵琶湖1周もそうだ。チャレンジし始めるまでかなり尻込みするのだが、やると決めたら逃げない。途中であきらめることもしない。ピンチになった時こそ強いタイプだ。
私とは真逆だと思う。私は正直意気地なし。やると決めても、上手くいかなくなったら理由をつけてすぐに投げ出す。他人のせいにする。上手くいかないのは自分のせいなのはわかっていても、つい逃げようとする。駄目駄目な私なのだが、彼女と結婚した事で随分幸せな人生になったと思っている。
「ねえ、あそこでいいんじゃない?」
狼狽える私を見て妻が笑顔で言った。
道の駅の前に、小さなラーメン屋(屋台)が出ていた。
風除けのビニールシートをくぐって中に入る。ストーブと椅子は四つばかり。うどんやラーメンがメニューにある。とにかく、温かいものを食べてエネルギーをチャージしないと持たない。妻と二人で温かいうどんを注文した。出汁が利いていて美味い。(と言っても私は味音痴なのですみません)救われた。ありがとうございました。こんな正月にご苦労様です。

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3日目④冬の天候 [琵琶湖てくてく物語]

やはり、真冬に歩く時は、天候には注意した方が良い。
特に、琵琶湖北部は、天気予報は当てにならない。いや、天気予報が当てにならないのではなく、滋賀県という括りで考えてはいけない。
我が家では、NHK以外のニュースや天気予報は見ない。これは、結婚してからの習慣だ。昔、NHKの番組で、アナウンサー研修を見た。その時、NHKのルールで、アナウンサーは1分間に400字を読むことや、言葉遣いの正確さ・アクセントなどとても大事にしている事を知った。以来、我が家はNHKがスタンダード。ドラマは民放を見るが、ニュースや天気予報はNHKと決めている。(高い受信料の元は取りたいという思いもある)
豊橋にいた時は、名古屋放送局のニュースや天気予報を違和感なく受け入れていた。
高島に来て少し変わった。
大阪放送局のニュースや天気予報になじめないのだ。自分に、大阪までの距離感がないのが一番。そして、高島(湖北・湖西)地域にとっては、大阪よりも福井(日本海)のほうが圧倒的に近く感じる。しかし、NHK大阪放送局は、関西・近畿という括りでニュースや天気予報を扱う。福井(嶺北・嶺南)は、関西でも近畿でもないらしい。
そう言えば、名古屋放送局では、中部圏で、東海と北陸のニュースや天気予報をやっていた。嶺北・嶺南地域の天気予報が必ず出ていてちょっと意味が判らなかった。
地図を見ると、どう見ても嶺南地方は近畿・関西だと思うが、扱われない。ちょっと話がくどくなったが、湖北や湖西地域の天気予報は、滋賀県の天気予報ではなく、嶺南地域の天気予報の方があっている。特に、冬季は、北西風の影響で、嶺南から雪雲が流れ込んでくる。気温も雨量も嶺南の天気予報の方が正確だと思う(個人の意見の範囲です)。NHKさん、地域をバッサリ切り分けずに、少し互いに重なるような形にしてもらえませんかね。県境近くに住んでいる住民のつぶやき。
ちょっと話が脱線しすぎたようだ。
昼食に温かいうどんを食べ、何とかエネルギーチャージを終えて出発する。
日差しが出てきた。
ここからはさざなみ街道で長浜の街を目指して行く。
しばらく行くと、『延勝寺』の看板。その反対側の湖岸は、初夏になると「蓮の花」の群生が現れる場所だ。規模は大きくないが、琵琶湖の中に蓮の花の群生を見るのは良い。
毎年ここも訪れている。少し先に、無料駐車場もあって助かる。
『蓮の花』を見に行く時、妻は必ず同じ話をする。
以前に、福井県南越前町の「花はす公園」に行った時も、車中で口にした。
「蓮の花って開く時にポって音がするのかしら。昔、何かの本で読んだことがあるけど」
そんなことはないだろうと思いながら、頷いて聞いている。
彼女が正解を求めているのではないのは判っている。そんなふうに、想像することを愉しんでいるだけなのだ。
「小学校の時、夏休みの宿題で、朝顔を育ててね。前の日の夜、つぼみを筒にいれておくの。朝起きて、それを外すと、一気に開くのか観察したわ。」
これも正確な答えはわからない。訊いても憶えていないというだけなのも判っている。
しかし、そんなふうに、花を相手にいろいろ想像する事ができるのは羨ましい。
彼女は小さな事に幸せや感動を感じる事ができる瑞々しい心を今も持っている。
もう還暦を過ぎているのだが、彼女の心は出会った頃と変わっていないように思う。
奥琵琶スポーツの森に到着したので、トイレ休憩する。
池を中心にした広い公園だ。
天気が良くなって少し気温も上がってきた。

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3日目⑤姉川を越える [琵琶湖てくてく物語]

次の目標は、姉川河口にある姉川大橋。
ただひたすら、湖岸のさざなみ街道を南下する。右手は琵琶湖、左手は農地が続く単調な道だ。途中、八木浜という集落の横を通過する。
八木浜の集落には、中村屋住宅という、江戸期彦根藩の代官が住んだ屋敷が残っている。
時間があれば立ち寄りたいところだが、また、今度にする。
ただ、この八木浜地区は、やたら広い敷地に大きな住宅が立ち並んでいて、代官屋敷があったということは、江戸期にはかなり栄えた地区だったことが判る。周囲の農地もかなり肥沃に違いない。
姉川大橋が見えてきた。
「姉川って、あの戦いがあった川?」
唐突に妻が切り出した。
姉川と聞くと、「姉川の戦い」を思い出すのは当然のことだろう。
ただ、古戦場に同定されているのは、姉川の上流部で浅井家の居城小谷城の南、北国脇往還に近い野村橋あたりだとされている。ここからは遥か東の山の麓に近い場所だ。
「誰と誰が戦ったんだっけ?」
再び妻が聞く。
「信長と家康軍と、浅井・朝倉軍の戦いだよ。」と答える。
「浅井って、信長の妹が嫁いだところだったわね。浅井三姉妹の母だった・・お市の方。」
妻の知識の大半は、ドラマである。
大河ドラマファンの我が家では、役名より誰が演じたかの方が判りやすい。ここから、暫くは、大河ドラマの話をしながら、歩いていく。
戦国時代の話はやはり面白い。史実をもとに作られているのだが、同じ時代でも描かれ方はそれぞれ違う。登場人物も、かなり違うのに話の本筋は同じなのだからなお面白い。
豊橋に居た頃、「おんな城主 直虎」をやっていた。
直虎の舞台は、浜松市(合併してしまったので)。浜名湖の奥の引佐町井伊谷を領地とする井伊家の存亡を描いたドラマだった。織田信長や家康、秀吉、武田信玄、今川義元など遠国大名に囲まれた国が如何に生き残るかという話だった。同じ、戦国時代を描いたドラマも多い中、こんな無名に近い存在を扱うというのは実に面白いと思った。などと、大いに話したのだが、恥ずかしいので、内容は端折ることにする。
そう言えば、井伊家はのちに家康に重用されて、彦根城主となるほどに出世した。
近江と遠江は何か不思議な縁があるようだ。
それにしても、近江の国は、信長が安土城を作ったように、戦国時代には、世の中を治めるためにどうしても手中にしたいほどの国だったのだということに改めて気づく。
京への水運、東西の要、地の利を考えると重要な場所だったに違いない。もし、信長が明智光秀に討たれず、天下を納め、家康のように長期にわたる政権を維持できていたら、もしかしたら、滋賀県は首都になっていたかもしれない。などと妄想が膨らむ。

さて、姉川大橋を越えた。
ここで、琵琶湖は内陸へ向かって窪んだ形になっている。東へ向かって歩くことになる。
「ねえ、ちょっと寄り道しよう。」
妻が言った。姉川大橋を越えたところ、右に入る脇道があり、より湖岸に近い道だった。民宿の看板がある。今もやっているのかは定かではない。ただ、この先には水泳場があるので、もしかしたら夏場は開いているのかもしれない。今は真冬なのでお休みかな。
ぐるりと回り込んだ形で再びさざなみ街道に出た。産地直売・びわ・みずべの里があった。ちょっと、トイレを借りに立ち寄り、何も買わずに出てきた。
さてあと少し。

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3日目⑥緑地公園の畔 [琵琶湖てくてく物語]

この先は、南側に琵琶湖を望むことになる。真冬ではあるが、日差しが湖面に反射して何か温かく感じられる。ここから長浜の豊公園近くまでの湖岸は、緑地公園に整備されていて、どこでものんびり琵琶湖を愉しむことができそうだった。春に車で通った時、桜の花が綺麗だったのを覚えている。
湖岸緑地公園を眺めながら歩いていく。
まず、左手に「ヤンマーびわ工場」が現れる。入口にある「あの地球儀」は有名らしい。
「ヤンマー長浜工場」は、私の父が若い頃研修に来たところだ。
父は漁師の息子で、男兄弟が6人、女3人の9人兄弟の三男だった。長男は、祖父から漁師を継ぎ地元にいたが、三男の父は自由に生きられたようで、職を転々とし、一時は潜水夫をやったこともあった。
私が生まれた時は、船を持つ漁師になっていて、母の実家に婿養子として入り、半農半漁の暮らしだった。
だが、時代は高度経済成長の真っただ中。台風に遭い、船を失い失意の中で、「漁師を続けるよりもサラリーマンの方が収入も安定し暮らしは良くなる」と決心し、陸へ上がった。そして、少し知識のあった機械産業の道を探して、ヤンマーに勤めることにした。
初めに、長浜で研修を受け、戻った父は、兄弟たちのヤンマー農機具の販売代理店を始めたのだ。敢え無く、代理店は倒産し、港にある鉄工所に勤めたものの大怪我をして退職。その後、知り合いの伝手で、ヤンマー直営販売店に拾ってもらって何とか生活を維持したのだ。父の半生を短くまとめてしまったが、随分苦労したに違いないと今では思う。定年までしっかり務めあげ、肺がんであっけなく亡くなったが、父の人生はどうだったのだろうか。
私が大学まで行けたのも、実はヤンマーのおかげともいえる(かも)。実のところ、やん坊、まあ坊は、私にとっては兄弟のような存在なのだ。

左手に「オリエンタル酵母工業びわ工場」が見える。
初めて、「オリエンタル」の名を聞いた時、名古屋では定番の「ハヤシもあるでよ~(名古屋弁)」のオリエンタルを思い浮かべてしまった。ちょっと調べてみると、あのCMは昭和30年代に大ヒットしたとあるが、私が名古屋に来た昭和54年、名古屋地域では、あのCMが流れていたように思う。微かな記憶だし、もしかしたら、新しいバージョンなのかもしれないが、「うみゃーでいかんわ」という名古屋弁はインパクトがあった。実際、名古屋に来て、あんな言葉を使っているわけはないだろうと思っていたのだが、大学の生協食堂あたりでは頻繁に耳にした。極々普通の言葉だった。そのあと、安城市に移り住んだ時、名古屋から50kmほど離れると、もう全く別の言葉だった。豊橋に来るとまた更に・・。愛知県の中でも尾張と西三河と東三河は言葉の違いが鮮明だった。
今NHK大河ドラマで「どうする家康」を放映しているが、あの中で耳にする言葉が、時折、東三河の言葉や遠州の言葉が混ざっているのは、意図的なのかと深読みしてしまうことがある。今川の人質として育ち、岡崎(西三河)に戻ってからも、尾張の小田に急き立てられるようにして、遠州・今川領へ攻め入り、浜松を拠点にする事で、おそらく家臣団には、西三河や東三河、尾張や遠州の者も雑多に居たのだろうなどと想像する。
いや「オリエンタル酵母工業」の名前から、またもや、大幅に脱線してしまった。
「オリエンタル酵母工業」はパンに使うイースト菌を90年前から製造し国内シェアトップの企業だそうだ。さすが、滋賀は発酵文化の土地だと感心する。そう言えば、先日、滋賀県大津市がパンの購入量日本一になったニュースがあった。この「オリエンタル酵母」と関係があるかもしれないと密かに思ったのだった。

その先には、もう豊公園の長浜城が見えてきた。

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3日目⑦長浜の街 [琵琶湖てくてく物語]

豊公園の長浜城まであと僅かのところまで来た。
いよいよゴールが近い。
カーブを曲がると、長浜城。そしてその右手に「長浜ホテル」が見える。
「あそこに泊ったわよね。」
妻が思い出したように言った。
そう、初めて滋賀県に来た時、あのホテルに宿泊した。
どんなところだったか、妻も私もまったく記憶にない。
まあ、記憶にないということは、それなりに良かったということだろう。
子どもたちが大きくなり手が掛からなくなると、夫婦で旅をした。毎月とまではいかなかったが、季節の度くらいの頻度で旅をした。豊橋に住んでいたので、関東から信州、近畿北陸はほぼ1泊のエリアだった。じゃらんの記録にはかなりの数のホテル・旅館が登録されている。今は、自分で記録しなくてもちゃんと記録されているので便利だ。
だが、妻と私は旅の目的が違う。
私は、その地の名所や旧跡を回るのが目的だが、妻は、温泉と上げ膳据え膳でゆっくり休むのが目的。当然、タイムスケジュールには苦労する。早めに宿に着くことが必須条件。名所旧跡に留まる時間は最小限にならざるを得ない。
長浜に初めて来た時は、黒壁スクエアと竹生島がメインだった。下調べはしていたが、黒壁スクエアでガラス工房の体験に予想以上に時間を費やしてちょっとハードなスケジュールになったことは覚えている。
そんな思い出話をしていると、左手に、立派なホテルがあった。「浜湖月」。本格的な温泉料理旅館のようだ。すぐに、じゃらんで検索すると、クチコミ4.6。全てにおいて満足度が高いようだ。料金プランも、なかなか。ハイクラスのようだ。
ところで、旅行の宿泊場所を選ぶ際、どんな基準や価値観が妥当なのか。ひと時代前は、こんなネット検索でさっと評価や料金、評判など知ることはなかった。だから、旅行会社に足を運び、納得の上で予約した。それでも、がっかりすることも少なくなかった。
妻は最近ほとんどネットのクチコミを基準にしている。[☆]の比較とか、書き込みをじっくり読んで、いくつか気に入ったところを提示してくる。
私は、それほど宿泊場所にはこだわらない。ただ、料金だけは気になる。バリバリに働いていた頃でも、まあ、1泊2食で一人2万円くらいまでが妥当だろうと思っている。それなりのところが見つかる。
一度、函館に旅行した時、1泊朝食付で一人5万円近いところに泊ったことがある。確かに豪華で至れり尽くせりではあったし、料金に見合ったものだとも思った。だが、何か凄い無駄遣いをしているような、背徳感すら感じてしまったのだ。それ以来、余り高級なところは対象にしないことにしている。
それにしても、クチコミ評価を読むと、酷いものも少なくない。勿論、それなりに問題もあったのだろうが、自分で選んだ結果なのだから、悪い書き込みは自虐的にも見えてしまって、なんだかなあ、とも思う時がある。悪評を増やして、仕返しでもしてやったと言わんばかりのものもある。もし、不満があるなら、直接、その場で言えばいいのではないのか。以前、あるホテルで夕食の献立表に書かれた料理が1品足りないことがあった。何かの手違いだったのだろう。仲居さんに言うと、女将がすぐにやってきて謝罪をしてくれた。そんな遣り取りすら想い出の一つになる。旅先での人とのふれあいは至極愉快だ。そういうチャンスを得ず、酷評を書き込むのは如何か・・自分が満足すればそれでよいと思うのだが・・。

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3日目⑧3日目終了 [琵琶湖てくてく物語]

豊公園に到着した。
最初、ここは「ゆたかこうえん」だと思っていたが、正しくは「ほうこうえん」。何故だかしっくりしないのは私だけだろうか・・。
太閤秀吉が初めて城主となった場所である。
今は、梅や桜の花が美しい市民の憩いの場所で、城は昭和に復元されたようで、名古屋城のように内部にはエレベーターもある博物館。歴史的な価値はないだろうが、そこからの景色は素晴らしいと聞いた。
お城は好きだが、こんなふうに復元されたところは余り好きになれない。むしろ、城址のままの方が良かったのではと思うくらいだ。
豊公園の周囲は埋め立てられ、幹線道路が走り、昔の面影を探すのが難しい。
もともと、長浜城は湖に突き出した形で建てられた「水城」で、琵琶湖の水運を手中にしようという秀吉の執念が作らせた城。軍港が隣接し、船を使って大津・京都へ向かうには格好の場所だったに違いない。そういう歴史的な意味合いを今感じることはできないのが残念でならない。
そう言えば、名古屋城は、全面的に建て替え、江戸期の木造にする計画があったがどうなったのだろう。大変な税金が投入されるようだが、そこまでこだわる必要があるのだろうか。「観光資源」としての活用が前面に出過ぎてしまうと興ざめだ。
一方で、地震で甚大な被害を受けた「熊本城」は、歴史的価値を重視して完全復元のために30年を費やして取り組まれている。私が生きているうちに完全な姿は拝めないが、復元のために一生懸命努力している方々には敬意を表したい。同じように大金を使うとしても、未来価値は大きく違ってくると思う。

ようやく、3日目のてくてく旅が終了した。あとは、豊公園から長浜駅へ向かい、JR北陸線で、木之本へ戻るだけ。
次の出発地は、豊公園からと決めた。
長浜駅は目の前。大通りの横断歩道を渡るとすぐに駅西口である。
以前に、長浜市街地をてくてくした時に立ち寄った。「長浜鉄道スクエア」の向かいには「慶雲館」、「長濱浪漫ビール」等もあり、ちょっと風情のある街並みになっていて面白かった。少し足を延ばすと、「黒壁スクエア」もある。長浜市街はてくてくするには格好の場所だと思う。
駅に到着。
長浜駅は、鉄道の歴史の中でかなり重要な場所。明治15年に開業し、米原駅ができるまでの間、北陸地域と関西・東海を繋ぐ場所で、当時の駅舎が、隣地に「長浜鉄道スクエア」という名で資料館として現存している。
もう一つ、えきまちテラス長浜にある「QUONチョコレート」を紹介しておきたい。かなり高級なチョコレートで、手軽に買える様なものではないのだが、ちょっと御縁がある。
「障がい者がショコラティエとして、かっこよく社会の中で育ち輝き続け、チョコレートを手に取る人々にロマンを与え、豊かで明るい未来づくりにこだわっています。」という言葉にいたく感動し、その創業は、なじみのある豊橋市花園商店街にあった小さなパン屋。創業当時、何度か、パンを買いに行った事があったが、時間とともに大きく成長し全国展開するほどになったことにいたく感動した。
さて、本日の結果は、35,444歩。24㎞。
結果的に、3日間で最も短い距離になったのだが、とても長かったように感じた。
雨の中の出発、予定していた昼食が取れなかった事や、湖岸の単調な道程、ちょっと今回はきつかった。特に、雨はてくてく歩くには厳しい。寒さ以上に、精神的ダメージが大きいことを身をもって感じた。

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4日目、①長浜から彦根を目指す [琵琶湖てくてく物語]

2020年2月1日、4日目は、長浜・豊公園を出発して、彦根を目指す道程。
9時過ぎに自宅を出て、北回りで長浜へ。豊公園の駐車場に車を停めて出発したのが10時30分。やや遅い出発になった。
天気は少し曇り空。(この季節、こういう天気がほとんど)
湖岸道路の歩道を歩いていくと、前方に「大仏」が見える。
琵琶湖を背にして立っていらっしゃる。ちょっと寄り道(妻がトイレを拝借)。
この大仏は見るからに古いものではない。以前はコンクリート製だったようだが、老朽化し平成になって建て直されたとの事。琵琶湖に向かってではなく、背を向けているのは街を見守っているからだろう。有難いことだ。
そう言えば、マキノ・小荒路にある長善禅寺にある、黄金色に輝く「大観音像」は山に向かって立っている。
「なんで、あんな方向を向いているの?」
小荒路を通るたびに、妻が訊いてくる。
「知らんわ!大仏様に聞いてくれ!」と心の中で呟いている。
以前に、小荒路あたりも散策したが、結局、理由は判らなかった。
長善禅寺には、ありとあらゆる仏像が並んでいて「仏像の見本市」なので、どちらを向いているかはあまり問題ではないのかもしれない。だが、幹線道路から見ると、お尻が見える格好なので、ちょっとおかしい。
前回通った、木之本町にある木之本地蔵院の地蔵像は、寺の奥から街を見下ろす格好で立っている。駅を降りて寺へ向かう参道から山門をくぐると像が目に入る。至極スタンダードな感じ。
シンボルと言える大仏と言えば、鎌倉・高徳院の大仏座像。
門を入ると目に飛び込んでくる。やはり、そういうイメージが強いので、背を向けている像を見るとちょっと驚く。
いろんな仏像・大仏があるものだ。

ここを過ぎると、市街地から離れていく。
長浜新川を越えると暫くは、水田と道路と湖という景色が続く。
湖岸に墓地がある。いつだったか、秋にここを通った時、墓地の周りに彼岸花が群生していた。駐車場に車を入れて彼岸花を見ながら昼食を取ったのを思い出した。彼岸花は今でも好きだ。ちょっと前には、彼岸花の群生があると聞けば探しに行ったくらいだ。(彼岸花の事は以前にも書いたのでこれくらいにしておく)

前方左側に、長浜バイオ大学が見えてきた。
その先には、長浜バイオ大学ドーム。
移住先を探しに滋賀へ来た時、米原ジャンクションから北陸道に入り、トンネルを越えたところで琵琶湖が見えるが、その時、必ずこの「長浜ドーム」が目に入る。周囲の風景とあまりに違和感があり、印象的だった。まだ、入ったことはない。近くで見ると予想以上に大きかった。
ここを過ぎると、米原市に入った。
私の頭の中の地図では、米原市というのは伊吹山の麓というイメージだった。琵琶湖に面しているのを今回歩いてみて初めて知った。GooglMapで調べてみると、伊吹山の山頂は米原市でそこから北の山並も含んでいる。そして、琵琶湖岸までずいぶんいびつな形をしていた。そして、米原市役所は南東のはずれにあるのが判った。
醒ヶ井宿も、ローザンベリー多和田も、伊吹山ゴンドラも、伊吹薬草の里も、米原市。これまで何度か訪れた事のある場所の多くが米原市だったことに気付いた。恐るべし米原市。

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4日目、②世継から入江へ [琵琶湖てくてく物語]

しばらく行くと、「道の駅近江母の郷」があった。ここで小休止。
ここは道の駅にしては、静かだ。その理由は、駐車場の位置だと思う。たいていの道の駅は、道路に面して広い駐車場があって、奥に農産物や土産物の直売所などの建物がある。ここは、広い駐車場が建物の奥になっていて、入口の駐車場は狭い。
入口には、「近江母の里文化センター」のモニュメントが立っていることからも、道の駅は後付けなのだろうと推察する。文化センターのため、広い公園(緑地)があり、静かに休憩するにはいい場所だと思う。
入口にある農産物直売所「さざなみ」に入ってみた。
ここで、干し柿を買った。干し柿は滋養豊富な食品と子どもの頃から教えられていたので、疲れた体には良いだろうと買った次第だ。
干し柿は各地の名産品となっているが、米原市では日光地区で「あまんぼう」と呼ばれ、伊吹山から吹き下ろす風で飛び切りのものができるそうだ。
一昨年から、我が家でも、干し柿づくりをしている。高島市今津町周辺は渋柿の産地で、一袋30個程度は言ったものが1000円で売られている。それを購入して、皮を剥き、紐に縛って干す。1年目は1袋にしたが、うまく出来たので、昨年は3袋購入した。それで軒先に吊るしていた。
或る夜、外でごとごと音がした。不審に思ってカーテンを開けると黒い影。すぐに外に出ると、縞々のしっぽの犬くらいの大きさの動物が2匹いた。私たちがテラスに出ると、その2匹も一瞬動きを止めた。数秒間、にらみ合いとなる。
アライグマだった。
器用にテーブルに乗って、天戸枠を使い、干し柿に手を掛けている。
ワーッと叫ぶと、バタバタと逃げて行った。
その後干し柿を見ると、5個ほどへただけが残った状態になっていた。その日から、室内に入れて干すことにしたが、うまく出来なかった。後日談ではあるが、よく見ると、庭にある柿の木の実もかなりの数齧られていた。一度食べ物のありかを知ると何度も寄ってくるらしい。何とか、退治しないといけない。
妻は、アライグマに干し柿を取られたことがよほどショックだったのか、今でも、夜に外で物音がするとカーテンを開けてみる。食い物の恨みは恐ろしい。

話が脱線した。

昼前なのでもう少し進むことにする。
米原市世継集落に入る。
ここは「世継のかなぼう」が有名なところ。「かなぼう」とは、湧水のこと。
地図を見ると、「世継温泉」と書いてある。だが、温泉ではないので入浴施設等はない。「霊仙山からの湧水」とあり、鉄分がひと際多い、鉱冷泉である。集落の中に5カ所あるという看板があるが、今回は寄らずに通過する。
そう言えば、高島市も針江地区では湧水が多く、「かばた」を持つ家も多く、水との共生文化がある。他にも、市内のあちこちに用水路や湧水があるが、あちこちで「茶褐色」の汚れ(付着物)を見ることがある。
特に、冬場に活躍する「融雪設備」の吹き出し箇所は、茶褐色になっている。琵琶湖周辺の湧水は鉄分が多いのが特徴かもしれない。

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4日目、③彦根に入る [琵琶湖てくてく物語]

天野川を越えて、朝妻地区へ入る。湖岸が整備されて綺麗だった。
少し北西風が強くなる。
緑地が無くなって、湖岸の岸壁に波が打ち付ける。前方を見ると、歩道が濡れている。どんどん波が高くなっていくようで、時折、打ち付けた波が砕けて風に乗って、水滴が雨のように降ってくる。
冬場に、北西風が強く吹くのは当然だが、高島に住んでいると、北西風は陸地から琵琶湖へ向かうため、波が岸辺に打ち付けることはない。高い波を見ることは少ない。ここはその逆だ。琵琶湖を渡る北西風が波を起こし、岸に打ち付ける。東と西では同じ季節でも感じ方は大いに違う。残念なことに、北西風のせいで、湖面を漂うゴミが岸辺に寄ってきて景観を損ねている。特に、この周辺は遮るものがないので、ゴミが漂い集まってくるのがよく判る。
滋賀県民は、琵琶湖をマザーレイクと呼んで大切にしているようなので、こうしたごみの類は、おそらく観光客が出したものだと思う。
高島にも湖岸に幾つもキャンプ場があり、夏だけでなく年間通じて開いているキャンプ場もある。こうしたところで出るごみが湖面を漂ってくるに違いない。
実際、私の住んでいる地区では、土日キャンプ客が多い時は、月曜日の朝、地区のゴミ集積場に不法投棄が絶えない。分別されていないゴミ、キャンプで使用した調理器具の廃棄、中身が残ったままの飲料のペットや缶類が放置される。道路にもこうした者が転がっていることが少なくない。勿論、大半の観光客・キャンプ客はきちんとごみを処理しているのだと思うが、一部の心ない輩によって、こうした事態を招いている。161バイパスを走っていても、タバコのポイ捨てとか、ゴミの放り投げ等を見かけることはある。マナーの悪い人間が少なからずいるのは明らか。
昔は、若者がと言われてきたが、そんなことはない。先日見かけたのは、シルバーマークを貼った軽トラックの高齢者ドライバー。コンビニで缶ビールを買い込み、軽トラに乗り込むといきなり缶を開けて飲み始め、空き缶をポイとその場に捨てて走り去った。飲酒運転とゴミの不法投棄。おそらく彼には日常的なことなのだろうと思われた。マナー・ルール違反は、世代とは関係ない。つまらない話になってしまった。
風に舞う水しぶきから逃げるように歩みを進める。
入江橋を越える。
ここに「干拓資料館」がある。
古地図を見ると、ここにはかつて「入江湖」という内湖があり、南側の彦根城近くにも「松原湖」という内湖があったことが判る。
「入江湖」はこの入江橋から米原駅までの広い範囲であったようだ。東海道線が大きく湾曲し山側に向かっているのは、鉄道が敷かれた当時、まだ、入江湖があったことを示している。昭和の干拓事業で入江湖は全て埋まり、広大な農地になったという。干拓事業の最中、この「入江湖」周辺には縄文時代から平安時代までの遺跡・遺物が出土したとあり、水辺の恵みで豊かだったことが想像できる。入江湖だったところが判るのは、入江地区をぐるりと取り巻くように流れている水路である。水路の内側が全て干拓されたエリア。低地のため、水路にはあちこちに揚水場(機)が設置されている。
歩いてみて初めて判ることは多い。

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4日目、④幻の松原内湖 [琵琶湖てくてく物語]

前方に大きな建物が見えた。
「エクシヴ琵琶湖」だ。この建物は、対岸の高島からも良く見える。
通り過ぎてしばらく行くと信号。県道2号(さざなみ街道)はここからいったん琵琶湖を離れるので、信号から右手の道に入る。
民家の中を進むと、悠々の館(老人ホーム)。さざなみ街道から一本入ると静かだ。小さな漁港を通り過ぎる。前方に山影が見えてきた。
再び、さざなみ街道に戻る辺りで、湖に大きな岩が並んでいる。
「烏帽子岩」。夕日がきれいな景勝地らしい。道路の反対側に「磯崎神社」がある。日本武尊が亡くなった地と伝承されている。日本武尊の伝承は日本各地にあるが、滋賀県では、伊吹山の神を討伐する際、毒に侵され、醒ヶ井の清水で正気を取り戻したのち、この地で亡くなったとされている。
そろそろ昼を過ぎていて、お腹も空いてきた。磯崎を回り、少し行ったところでついに彦根市へ入る。
COCO’Sの看板を見つけたので、入ってみる。
だが、ちょっと予想と違う。中に入ると、右手に大きな建物。看板には「ミシガン州立大学連合日本センター」とある。奥の方に、COCO’Sの建物が見えた。ちょっと気後れしてしまって、そのまま出てきた。
もうちょっと歩いてみる。前方に、セブンイレブンの看板を見つけた。トイレを拝借し、昼食を購入。日差しもあるので、湖岸で食べることにした。
ちょうど、脇道のように湖岸に沿った道がある。
セブンイレブンで買ったおにぎりをもって、湖岸に座って食べる。振り返ると「つるつる」という麺屋さんがあって、客席から見られていた。まあ、いい。
食べ終えて、再び歩きだす。
湖岸沿いの道には、松が植わっていた。北西風が強いところなので、防風・防砂の役割を持っていると思う。
米原市入江地区を歩いているところでも書いたが、この辺りも、昔は「松原内湖」があった場所だ。今いる場所は、琵琶湖と内湖を隔てる砂州だったところだ。
彦根城天守内に公開されている「彦根城郭旧観図」を見ると、今の彦根城の北側と西側にかけては琵琶湖の内湖(松原湖)が広がっていて、その北にある入江湖とも繋がっていたようだ。長浜城から彦根城までの間は内湖で繋がっていたと言ってもおかしくない。
城下町も湿地帯を埋め立てて整備されたようで、彦根はほとんどが中世の計画都市だったと言える。
飛鳥の時代から都市整備と政権は密接な関係にある。平城京・平安京、鎌倉、そして、安土、江戸。新たな時代には新たな都市がそれを担う構図がよく判る。
東京(江戸)開発はその究極なのかもしれないが、全国各地で同じように都市開発が進んだ理由を探るのは、歴史的な研究ポイントかもしれない。
武将は、戦の力ではなく、「都市開発力」の方が重要だったとも思うし、優秀な戦略家や軍司は、土木知識に長けていたのかもしれない。都市開発の視点で歴史を見ていくのも面白いだろう。

歩きながら、そんな話をしていた。
その先には「お浜御殿」があった。道路からはそれが何か判るものではない。ただ、大きな森が続いているだけ。調べてみると、彦根藩11代当主によって造営された屋敷らしい。文化7年というから、江戸末期に近い。お殿様の別荘の一つということか。
そのまままっすぐ進むと、彦根港である。途中で左折し、ふたたび、さざなみ街道へ戻る。

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