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4日目、⑤彦根郊外 [琵琶湖てくてく物語]

遠くに、彦根城が見えた。
彦根城は、毎年訪れている。
初めて行ったのは、「ひこにゃん」というキャラクターがいると知ってからの家族旅行だった。残念ながらその時は逢えず仕舞いだった。
二度目に夫婦で行った時は、平日は、ひこにゃんはお城にはいないと聞いた。残念に思いながら、彦根城の京橋口御門前から延びる「夢京橋キャッスルロード」にはずれにある「四番街スクエア」で土産物など選んでいたら、ひこにゃんが登場すると聞き、すぐに行ってみた。まあ、よくあるご当地キャラクターだろうと思っていたが、意外にも面白い。
進行役のお姉さんとの掛け合いも絶妙で、まったりした間合いと少ない動作で、引き込まれてしまった。妻は、最初から最後までひこにゃんが動くたびに、後をついて歩き、かなりの量の写真を撮っていた。もうすっかり虜になったようだった。
それからは毎年、思いつくと彦根城へ、いや、ひこにゃんに逢いに行くようになった。昨年は、年賀状を送ると返信があって、彦根城の無料券がもらえると聞いて、年賀状を出した。約束通り、返信が届き、4月の桜満開の彦根城へ行った。平日だったので、無理かなと思いつつ、彦根城を散策し、帰ろうと思った時に、博物館前に登場すると聞きさっそく並んだ。ウーム、やはりかわいい。
今、ご当地キャラクターは相当の数に上るだろう。
「くまもん」が大きな経済効果を引き出したことが影響して、全国でご当地キャラクター育成の機運を高めている。
数年前、豊橋市で、キャラクター集合のイベントがあった。豊橋のキャラクターは「とよっきー」赤い顔をした鬼のようなトラクターの様な正体不明のキャラクターだ。お世辞にも可愛いとは言い難い。
全国からたくさんのキャラクターが集まっていたが、その時はさほど関心はなかった。それより、AKBがやってくるということで豊橋運動公園には大勢の観客が居た。
時代の移り変わりの中で、人気アイドルはどんどん世代交代していくが、ご当地キャラクターは長く愛される存在に違いない。
最近は、KHNでも「チコちゃん」が予想以上に人気を博しているようだ。かくいう我が家も毎週録画して楽しんでいる。

さて、当初ゴール地点に設定した地点に到達した。
ここで終了にしても良いのだが、まだ時間は早いので、もう少し進むことにした。
彦根城の手前の信号を右折して、湖岸へ向かう。
CAINZを左に見ながら、道なりに進むと湖岸に出た。交通量が多いのに、ちょっとげんなりしながら、どうにか湖岸を歩く。
CAINZ&Beisiaは余りなじみがない。豊橋に居た頃、隣の蒲郡にあったが、そこまで行くほどの魅力を感じなかった。不慣れなこともあるだろうが、なにか、無駄買いをしそうで足が向かなかった。
そこを過ぎて、湖岸を行く。
芹川にかかる、下芹橋に到着した。
芹川は、彦根城築城に合わせて付け替えられた川で、外堀の役目を担ったと思われる。芹川より北は城下である。川の付け替えという荒業は、現在の日本では難しいだろう。
築城当時、周囲が未開発だった事や、強大な権力で大勢の人躯を確保できたことなどの背景を考えると、まさに、戦国自体から江戸時代初めは、かつてない経済発展の時期だったともいえるのではないだろうか。

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4日目、⑥庄堺公園 [琵琶湖てくてく物語]

更に湖岸を進んで、八坂町に入る。
この近くに毎年、5月と11月に訪れる『庄堺公園』がある。
今は冬なので立ち寄ることはない。『庄堺公園』を訪れるのは、バラを見るためだ。ここには、1000株を超えるバラ園がある。さほど広くはないが、よく手入れされていて、多様なバラを愉しむことができる。訪れる時は必ずお弁当を持っていく。季節もいいし、のんびりできる芝生広場もある。無料で利用できるのは何より。このバラ園で必見なのは、クイーンエリザベスというバラだ(たぶん)。特別な品種というわけではなく、園芸店やコメリでも売っている品種だ。だが、このバラ園では、クイーンエリザベスをバラ園の一番外側に植えていて、なおかつ、背を高く生育させている。2mほどもあるバラが、ぐるっと並んでいて、香りも強く、美しい。バラに詳しい人にとってはそれほど価値はないのかもしれないが、一般人には十分すぎる迫力がある。奥の壁にはわせた白いバラも美しい。多様なバラをゆっくり眺めるのは至福のひと時である。

今、自分の家でも庭づくりをしている。
「豊橋に居た頃は、近くに公園が多かったし、花の多い庭もあちこちにあったのに、高島には公園がないね。」
移住した頃、妻が呟いたことがある。田舎町で自然豊かな中に暮らしているためなのか、確かに、公園は少ないし、広い庭のある家でも、意外に花づくりをしている人は少ないように思う。
「じゃあ、バラ園でも作ろうか?」
何気なく言った一言が全ての始まりだった。
隣地を購入して、庭だけで約100坪ほどの敷地にした。果樹・花・バラ・畑などの骨格は出来ているが、まだまだ。
実は、この庄堺公園のバラ園を見て、バラ園にしようと決心した。
今のところ、バラは10種ほどでまだまだ小さい。
果樹も、梅・杏・サクランボ・アーモンド・桃・りんご等を植えたが、あと10年くらいはみすぼらしいままになるかもしれない。草花も植えた。
出来るだけお金をかけないで、自分のできることはやろうと決めたので、中々捗らない。仕事をしながらというのは厳しいと実感している。
妻も手伝っているのだが、やはり、体力的にかなり厳しい。100坪あると、草取りだけでも体力がいる。夏場は熱中症の心配もあって長時間は出来ないし、冬は降雪で作業もままならない。そんなことを言い訳にしながら、のんびりと進めている。
先般、雑誌を見ていたら、「高齢になったら庭もダウンサイジング」という見出しがあった。広い庭を管理するのは時間だけでなく、体力も必要だからだと・・なるほど一理ある。だからと言って、着手したものを放り出すわけにもいかない。以前のような荒地にしておくのももったいない。とにかく、庭らしくしなければならない。
そこで、近々、物置小屋を作ることにした。
素敵な庭の必須アイテムとして、ガーデンハウスを作りたいと思ったからだ。だが、それほどお金は掛けられない。妻にも「小さな物置小屋を作りたい。作業道具や大型品を収納する場所だから」と何とか説得した。
設計と建築は、知り合いの業者に依頼したら、「キットがあるから、自分で作ってみらどうですか?」とも言われた。だが、そのための道具一式をそろえるとなると痛い出費になるし、次にいつ使うかと考えると途轍もなく無駄な買い物になりそうだった。なにより、いつになったら完成するかも判らないので、依頼することに決めた。
その小屋と釣り合いの取れる様な庭造りを完遂するのが今の目標である。

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4日目、⑦南彦根駅へ向かう [琵琶湖てくてく物語]

「庭が出来上がるまで生きてるかしら?」
妻は時々嫌味な事を言う。
確かに、還暦を過ぎて始めるにはちょっと時間が足りないのかもしれない。
父が亡くなったのは私の今の歳である。先年亡くなった母は、畑に白菜やダイコンを植えて収穫を楽しみにしながらも突然逝った。元気すぎるほどだったが、あっけなかった。
ふと考えた。今まで気づかなかったが、我が一族で、私が一番年長になっていた。順番で言えば、次は自分の番なんだな。
「いつ死ぬかなんて、誰にも判らない。今日かもしれないし、明日かもしれない。案外、100歳まで生きるかも。そんなことを考えていたら、何もできない。そう思うなら、一緒に作業してくれないかな。」
と心の中で呟きながら、妻の嫌味な言葉を笑顔で聞き流している。
庭づくりの方は、また別の機会に書かせていただきたい。

歩みは真っ直ぐだが、話は道を逸れてしまった。
本論に戻る。
前方に高い建物がある。彦根市立病院だ。屋上にヘリポート。立派なランドマークだ。
さて、ここで迷った。
この先、湖岸を進むか、ここをゴールにするか。
このまま行くと、JRの最寄り駅がどんどん遠ざかる。最寄り駅は、南彦根駅、次は川瀬駅だ。後の行程を考えながら、ここをゴールとするか、もう少し進むか。
結局、この犬上川の畔を本日のゴール(次回の出発地)とした。
さあ、駅に向かおう。
ここから、南彦根駅までは一直線の道。くすのき通りというらしい。
彦根市民病院前を通過し、先般書いた、「庄堺公園」の横を通り、とにかく真っ直ぐに進む。閑静な住宅街が続く。戸賀町西の信号までが住宅地だった。
そこを過ぎると、自動車販売店や携帯ショップ、ピザ屋等の店舗が並び始める。道路も片側2車線になり、駅が近い事を教えてくれる。
だが、ここが、実に長かった。店舗が並ぶ通りは退屈しないのだが、何だか進んでいる気にならない。不思議な感覚だった。久しぶりに見る大きな建物のせいなのか、自分の存在が小さく小さく感じた。
高島に移住して、高層階の建物はほとんど見ていなかったせいもあるかもしれないが、大型のショッピングセンターや高層マンションが立ち並ぶような場所にいると、自分が地の底を這っているような感覚になる。
40年ほど前に、山口の田舎(本当に田舎で山一つ越えてようやく小さな町があるようなところで、バスが1日数本程度、鉄道なんてなかったし、集落に一つあったよろずやがライフラインだった。)から名古屋に出た時、名古屋駅前のビル群を見上げて、とんでもない所に来てしまったという思い出がある。人の多さ、車の多さ、鉄道やバスの多さに圧倒され、自分という存在がとてもちっぽけなものに感じた。
琵琶湖を回ってきた中で、初めてというべき「街」についた感じがした。
彦根城や長浜城、安土城など、見上げるような高さの天守閣は、当時の人々にとっては驚くべき存在だったに違いない。そして、それは、城主への畏怖となり服従せざるを得ない環境を作り出したのではないだろうか。
東京のビル群で働くエリートたちも、そういう大きな存在に身を置くことで自分の力を過信するほどの心理的トリックにおどらされていはしまいか。

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4日目、⑧ゴールの南彦根 [琵琶湖てくてく物語]

いよいよ、南彦根駅に着く。
次の行程のために、近隣の駐車場を探す。やはり、無料というわけにはいかないようだ。とりあえず、西口辺りに停められそうな駐車場を見つけた。次はここに車を停める。
それから、出発地点となる、犬上川、彦根市立病院近隣まで行けるバスを探す。駅まで戻る道のりは結構きつかった。出来れば、ここでは楽をしたい。病院へ向かうバス路線はありそうだった。
さて、今回は・・とスマホで確認。
31,553歩、21㎞。
いやはや、前回よりさらに短い距離になってしまった。
理由は明白だった。自宅を出て、歩き始めるまでのタイムロス。高島の自宅から、長浜までは軽く1時間かかる距離。9時に家を出れば、歩き始めは10時過ぎになり、午前中は2時間も歩けない。午後も早めに切り上げないと日暮れになってしまう。ざっと5時間程度しか歩けないことになるのだ。
計画の段階でのミス。冬は日暮れが早い。そんな単純なことを見落としていた。
それでは、南彦根駅でJRに乗り、長浜駅へ向かう。
電車だとあっという間についてしまう距離。
1日かけて苦労して歩いたことが、とてもか空しく感じられて、電車の中で、終始、無言になってしまった。
そんなことは判っていたはずだし、誰かに自慢するために歩いているわけでもない。褒めてもらおうなんて思っていないが、虚しさが広がっていた。
「あれが彦根城?」
唐突に、妻が口を開く。電車の窓の外に、彦根城が見えていた。
堂々とした威厳を感じるほどの城。
南側に城下町が広がり、北側は、松原内湖を持つ。北(越前)から攻めて来ると、水城で鉄壁の守りを誇り、南(京)から見ると、賑やかな城下とその先には広大な農地。そして、その向こうには、安土の山。これほど理想的な場所があるだろうかと思わせてくれる。
明治の初め、廃藩置県で、彦根県から長浜県、そして犬上県(長浜県)と変更された経緯がある。そして、大津県と合併し滋賀県となり、県庁が大津へ統合された。中世に琵琶湖を囲むように存在した「近江」と現在の滋賀県が重なるのも面白い。
「県民気質」という言葉を聞くことがあるが、そうかなと思うこともしばしばある。私自身、山口県民として生まれたが、やはり、県内でも、周防と長門では随分と風習も違う。知らないことも多い。だいたい、作為的に作られた「都道府県」の縛りは余り大した意味はないように思う。ただ、その地域には独特の文化や風習、言葉が存在し、狭い範囲ならば「〇〇気質」というのはおそらく明確に存在するように思う。
滋賀県に来て、特にそれを感じるようになった。琵琶湖を挟んで東西では随分と経済状況に違いがあるし、近隣市町村とのつながりも違う。高島市に住んでいると、嶺南地域は近い。ここ、彦根に来るには、琵琶湖をぐるりと回って約1時間近く。それに比べて、小浜市なら40分程度、京都だって1時間。距離感が全く違う。そういう中で、本当に「滋賀県民気質」というのが存在するとは思い難い。
彦根駅に着くと、大勢の乗客が降りていく。そして、すぐにたくさん乗ってくる。
米原駅を過ぎると、北陸線。田村駅を過ぎ、長浜駅に着いた。
駅から歩いて駐車場へ向かう。今回もいろいろと考えることが多かった。

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5日目①南彦根をスタート [琵琶湖てくてく物語]

いよいよ行程の半分に到達する段階。
今シーズンの「てくてく」は今回の5日目で前半終了。次は秋までお休み。
気合を入れて行きましょう!

3月1日、前回の反省を踏まえて、少し早めに家を出て、南回りで彦根へ向かう。
南彦根駅に着くまでの車中は、今まで歩いた道を振り返る会話だった。
10時半に南彦根へ着いた。目当ての駐車場に車を停めて、バス停へ向かう。時刻表を見ると、暫く待たないといけない。
「歩けばいいじゃん。」
妻の一言で、駅から歩き始めた。
前回の出発地点まで、Mapを確認すると約4㎞、1時間ほどかかる。
「まあ、いいか。」と歩き始めた。
スーパーや大型店舗が建ち並ぶ通りを過ぎ、住宅街へ。前回は気付かなかったが、通り沿いの家は新旧混在していた。
古めの家屋は門構えが立派で、樹木も植えられていて、小さいながらもしっかりした庭もある。一方、最近建てられた家は、機能性重視なのだろう。コンクリートで固められた敷地にカーポート、小さな花壇程度になっている。
住宅はその時の時代を残すタイムカプセルだ。
自宅周辺の散歩の時も、そうした時代の痕跡を見つけるのが好きである。
戦前から高度経済成長期までの家は、基本的に日本家屋。屋根には瓦が乗り、しっかりした門柱なども設えられていることが多い。だが、高度経済成長期に入ると、住宅不足が顕著になり、短時間で建設し、コストダウンを図ることが重視された家が多くなる。資材も大きく変わる。
60年代から70年代前半には、木造モルタル系の家や、新建材を貼り付けた家、屋根にはカラーベストが乗っている。マイカー時代を反映し、門柱が亡くなりカーポートが顔になっている。
最近は、エネルギー効率を考えた機能的な家が多くなり、大きなリビングを持つために間口の大きな家が多い様に思う。
ごく最近では、「リノベーション」が盛んで、古い日本家屋を改装し、機能性や熱効率も改善した形で、外見の美しさと室内の快適さの両方を満たしている家が増えているように思う。
住宅事業は総合産業と言われるが、なるほどと思うことが多い。その時代の基準やニーズ・技術などを詰め込み、設計する人や建築主の思いが込められている。
一見、ただの住宅地でも、こうした知識を持ってみていくと、その町の雰囲気は違って見えるし、楽しみでもある。
妻と歩きながら、家を見ながら、建てられた時期や住んでいる人の年代などを想像しながらの会話が弾む。
「私の家は、最初は小さな長屋みたいだったわ。部屋が三つ繋がっていて、一番奥に台所とお風呂。繋がった部屋は夜になると、家族6人の布団でいっぱいになった。狭い狭い家だった。姉の机が廊下に置かれていたの。」
不意に、妻が子どもの頃を思い出す。
「僕の家は、田舎の農家だから、土間があって竈があって、部屋は4つで、田の時に並んでいたかな。子ども部屋を増築したのは妹が生まれたあとだったはず。風呂は外で、水道はなかったから井戸水を汲んで五右衛門ぶろに運んだな。学校から帰ると、水を運ぶのが僕の仕事。」
同い年なのに、都会と田舎では住まいは随分違っていて、暮らし方も違うのが面白い。

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5日目②ウソのような宇曽川 [琵琶湖てくてく物語]

1時間ほど歩いてようやく、前回のゴール、今回の出発点に着いた。
さあ、これからが本番。湖岸を進む。犬上川を越えたところで、左手に滋賀県立大学の建物らしきものが遠景に見える。
信号脇にあったコンビニで昼飯を調達。コンビニの入り口わきに、ベンチが置かれていたので、そこで昼食とした。
ビワイチのサイクリストたちのための、サイクルスタンドもあった。昼食を取り始めたら、ビワイチの二人連れがコンビニへ入り、同じように昼食休憩をするようだった。
ヘルメットとサングラスを取ると、二人とも「外人」さんだった。
そう言えば、自宅の前の湖周道路を走り抜けていくビワイチのサイクリストたちには、いろんな人がいる。若い男女二人とか、家族という方も見るのだが、圧倒的に「ひとり」が多いように思う。
明らかに外国人と判る人も多い。外国からビワイチのために日本に来たとは思い難いが、彼らにはこの琵琶湖はどのように見えているのだろう。
何か機会があれば聞いてみたいと思う。
さて、昼食を終えて、いよいよ午後。これから4時間くらいは歩けるだろうか?
さざなみ街道は少し右にカーブして、湖岸沿いとなり、八坂町を通り抜ける。綺麗に区画された住宅地からして、ここもきっと埋め立て地ではないかと思いながら歩いていると、橋の奥に「矢坂港跡」があった。
Mapを見ると、その先にある「宇曽川」から分岐した水路があり、八坂港跡に続いていた。宇曽川と水路が囲む半円状の土地は紛れもなく干拓のあとに違いない。宇曽川の上流には「野田沼」があるのを見ると確実だと思う。おそらく、松原内湖と同時期、昭和の干拓だと思うが、琵琶湖東岸は、かなりの範囲で干拓・埋め立てされているのが明白だ。
寛永年間の近江国図を見ると、前方に見える荒神山や安土山、近江八幡の奥津山などが島だった様に描かれている。東海道本線より西側は、葦が茂る湿地・沼地だったと思われる。湖岸にある集落はおそらく砂州上に形成された漁村の名残なのかもしれない。
先を急ごうとした時、妻がまた呟いた。
「ねえ、あれって、沖の白石?」
随分前から見えていたのだが、ここでようやく気づいたようだった。
湖岸から西、対岸に目をやると、湖面から二つ岩が飛び出している。
「ああ、沖の白石だね。その向こうが高島だと思うよ。」
安曇川の河口の先をまっすぐ彦根を見た時に見えたはずだが、気づかなかった。こちらからの方がよく見える。
「じゃあ、あれは?」
少し右手を指さす。
「多景島だね。ちょっと見てみようか。」
私たち夫婦は、出かける時必ず小さな双眼鏡を持っている。昔からの習慣だ。二人とも視力は良かったので、展望台とかちょっとした高台などに行くと、周囲の風景に目を凝らして、知っている物がないかを探す癖がある。今回も、リュックサックには双眼鏡がある。立ち止まり、取り出して、ピントを合わせる。小さな双眼鏡で8倍程度。そんなに遠くのものを識別できるものではない。じっと、多景島を見る。
横に長い小さな島。左手に尖がった塔、右手に大きな岩が見える。なんでも、島全体は見塔寺の敷地で、塔は「誓いの御柱」大きな岩は「題目岩」というらしい。
「知り合いに、多景子さんっていう人が居るけど、きっとあの島の名からとったのね。」
「へえ、じゃあ竹生島から竹生(たけお)という人もいるかもね。」
何だか、暢気な会話をしている。

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5日目③荒神山と沼 [琵琶湖てくてく物語]

暢気な会話をしながらも先へ進む。
八坂町南の信号で右へ分岐して、出来るだけ湖岸に近いところを歩く。
須越町内へ入った。宇曽川の河口部、磯田漁港がある。
左前方には荒神山が見えている。
山頂には、荒神山神社や荒神山城跡がある。何でも、奈良時代に行基が三方大荒神を祀ったことで名がついたとされているそうな。
それよりも、山の南側に、県内第2の規模を誇る「前方後円墳」があるのが興味深い。古く弥生時代からこの周辺には大きな集落が存在していた証であり、前方後円墳を作れるほど、豊かな土地であった証拠とも言えることだ。
そして、その麓には曽根沼(内湖)がある。昭和の干拓事業で元の大きさの五分の一まで狭くなったらしい。以前に一度訪れた事があるが、沼の畔は公園になっていて、キャンプをしている様子もあった。静かなところだったのを覚えている。
さらに進むと、松原が続いていた。防風・防砂のために植林されたのだろうか。大きさを見る限り、それほど古くはない。昭和の干拓事業と関係しているかもしれない。
もう少し進むと、墓地があった。湖岸側に、柱が立ち並んでいる。刻まれた文字には、陸軍の文字が並ぶ。戦争で命を落とした方々の墓標だった。
滋賀に来て、こういう墓標をあちこちで見かける。ここに在る墓標よりさらに大きいものも見ることがある。集落単位の墓地の中でも、ひときわ目立つ場所に建っていることが多い様にも思う。私の実家周辺では、そういうものを見た事がなかった。
私の義祖父も、一度だけ、ボルネオに行き戦ったと話してくれたことがある。
義祖父は、「あれは酷い戦いで人間のする事ではない、武器を持たない民間人をたくさん殺した。生き地獄だった。国を守るためと言われ、出兵したがあれはそんなもんじゃない。ただの殺し合いだった。」と苦々しく話した。
私の親の世代は、青春時代を戦争で奪われ、満足な教育も受けず大人になった世代だ。祖母は、子ども4人を抱えて苦労したと聞いた。
あの墓標をどういう気持ちで建てたのか、そしてそれを今の人にどう伝えようとしているのかと考えてしまった。
大津市にある旧陸軍墓地を守る活動をされている人のブログには、「故郷を離れて傷つき亡くなった人たちに、どうか安らかに眠ってほしいという思いがある」という文章を見つけた。また、「戦死者が急増した日露戦争以降、個々の墓石は作らず、合祀されるようになった」ともあった。しかし、それは、旧大津陸軍墓地に限られたことであり、地域の墓地には、立派な墓標が建っている。おそらく、個人が建てたものではなく、地域住民がお金を出し合って作ったものだろう。
戦死した兵士は父母とともに一族の墓に入れず、「陸軍 階級名」をでかでかと入れて「国を守った英雄」のごとき扱いをしているように思えて仕方がない。
途轍もなく大きな墓標には、大尉だとか連隊長だとか、軍を率いて多くの命を犠牲にした「戦犯」に近い人物もいるはずだ。
墓標を作った時代には、おそらく、郷土の誇りとして扱われていたのではないかと思う。それが今も残ることに何か底知れぬ恐ろしさを感じる。戦争で命を落とした人自身に責任があるとは言わない。そこへ向かわせた思想・体制を厳しく断じるべきだと思う。
終戦の日が近づくと、首相をはじめ閣僚が靖国神社を参拝するニュースが報道される。「英霊の御霊を」という言葉が飛び交う。同盟国として、第2次世界大戦で戦ったドイツやイタリアでは、どうなのだろうか?ウクライナ親交を決断したプーチン大統領を英雄と捉えることと通じるのではないだろうか?日本は平和な国と言われるが、果たしてそうだろうか。
少なくとも、今の子どもたちが同じような行動に向かわないよう、祈るばかりだ。
複雑な想いで、墓標の前を通過する。

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5日目④薩摩町の謎 [琵琶湖てくてく物語]

しばらく行くと、「あのベンチ」があった。SNSで広まったと知る。
私たちが歩いた時は、それほどでもなかったように思うし、同じようなところは、私の家の前、「萩の浜」にもあるように思うけど・・。
最近は、SNSの情報で、それまでなんでもないような場所が急に脚光を浴びることがある。SNSの影響の大きさには驚くばかりだ。
気になるのは、「SNS映え」という言葉だ。その場所の見た目だけで評価する風潮に、何か不安を感じる。風光明媚なことを否定するつもりはない。そういう場所で人々は癒されたり、力を得たりするのは、古来からの習わしである。ただ、それだけでなく、どうしてそういうものが生まれたのかという視点で想像力を高めてみてはどうかと思う。とりわけ、人工物であれば、それを生み出した人々の営みや想いに想像力を働かせてみることで、より深く知る事ができるのではないかと思う。
それに、私は、昔からすこし天邪鬼なところがあって(少しばかりではないと妻は言うけれど)、昔から、人の評価を安易に受け入れない。そして、自分が良いと思ったものでも人に勧めることはない。冷静に考えると、ただの頑固者の爺さんなんだろう。そんなんで、「あのベンチ」もさほど評価しない。(ちょっといいなあとは思うが)
いやいや、気分を害された方が居たら謝罪するが、まあ、気にせんでいただきたい。
自分の尺度で物事を評価する、それだけでいいんじゃなかろうか。
「あのベンチ」があるところは、石寺町。
地図を見るとちょっと面白いことが判った。貴石山・本龍寺を中心とした町をぐるりと取り囲むように水路がある。古地図をみると、埋め立てられる前の曽根沼の西のはずれに位置していて、沼と琵琶湖を繋ぐ川に、同じように輪中のような土地があった。おそらくその名残なのだろうと思う。
しばらく進むと、再び、さざなみ街道と合流する。数百メートル進んだところで、分岐。浜沿いの道へ入る。
妻が口を開く。
「あれって、さつまって読むのよね?」
看板に、『薩摩町』とあった。彦根市に、薩摩町というのは確かに違和感を感じる。
京都や東京であれば、徳川幕府の命により、全国の藩邸が置かれていたので、各地の地名が町名に残っていてもおかしくはない。だが、ここは、彦根市である。更に、今いるところは城下からはかなり離れたところになる。
初めに思いついたのは、この地域の干拓事業で遠く薩摩の地からやって来た人々が住み着いた地域ではないかということ。だが、古地図にはすでに『薩摩村』の地名があるので、違うようだ。
そもそも、『薩摩』という言葉はいつ生まれたのか。
調べてみると、大宝律令まで遡ることが判った。ただし、江戸時代になると、薩摩ではなく、鹿児島という方が一般的になったようなので、ここ薩摩町(旧薩摩村)が成立するのは中世ではないかと推察する。
余分な話かもしれないが、町の北側に墓地があり、墓石に刻まれた家名を見ると、山本さんが多かった。薩摩出身の武士が移り住んだとするなら、山本姓はあまり考えられない。山本姓は、長浜市湖北で栄えた一族があり、もしかしたらだが、薩摩村が開かれた後、山本姓の方が移り住んだのではないかと考える。
結局、薩摩町の由来は判らないままだが、この辺りの地形は古地図とほぼ同じであることが興味深い。今はさざなみ街道で分断されているが、薩摩町の東にある『神上沼』の形はほぼ同じ状態にあるし、薩摩町の隣には柳川町がある。さらに、中世(1000年頃)に築かれ、織田信長によって廃城となった田附城跡のある田附町がある。
この辺りはおそらく平安時代には既に集落があったのではないかと思う。

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5日目⑤新海 [琵琶湖てくてく物語]

再び、さざなみ街道に合流。
この先は宅地分譲されたような場所だ。湖岸側に整然と家が並んでいるが、どうにも古い感じだ。中には朽ちそうなところもある。随分以前に別荘地で売り出したところなのかもしれない。住んでいる人はまばらの様子だ。
少し畑が続いたあと、ローソンの看板が見えた。
この辺りは、「新海町」というらしい。
高島へ移住する前に、この辺りの移住先も探してみた。しかし、不動産屋からは「あまりお勧めできませんよ」と言われたのを覚えている。理由は判らないが、確かに、生活するにはかなり不自由なところなのかもしれない。何しろ、周辺に量販店はない。
ふと、左手を見ると、集落が見える。
さきほどの薩摩町のように、古い家屋が並んでいる。地図を見ると、道路もかなり入り組んでいて狭いようだった。そして、石寺町のように、集落の周囲には水路が巡っていて、集落の中央辺りに報恩寺という寺もある。この辺りの古い集落の一つの特徴かもしれない。
私の住んでいる高島市永田も同じように、安土時代に形成された大溝城下の古い地域には、水路を巧みに使った集落がある。
防御や防火、生活用水の確保など多様な役割を持った水路は生活インフラの基本だったのだろう。そういう暮らしを皆の協力で支えあう暮らしが長く続いていたはずだ。
だが、一方で、そういう集落だからこそ、新参者は受け入れてもらえない。新しい価値観を持ち込むことを極力嫌う保守的な文化がある。伝統を重んじることは大事だと思うが、固執する事で失うことも多いということも考えるべき。
高島市は人口減少に苦しんでいる。年間250人から300人程の人口減少が続いている。
市の財政はひっ迫し、インフラの保守整備もままならない。国は子育て支援策の充実を進め、人口減少に歯止めをかけようとしているが、高島市はすでに段階を超え、10年もすれば、他市との合併を考えなくては立ち行かなくなるのではと心配している。
地域の小集落は限界を迎えており、それでも伝統を守ろうと必死だ。神社や寺も財政難で苦しんでいる。・・ちょっと暗い話になったのでこれくらいで本筋に戻る。

ローソンを過ぎたところで、さざなみ街道から離れ、湖岸沿いの狭い道を進むことにした。実は、さざなみ街道を歩いている時、どうしても道路を走るトラックの騒音が気になったのだ。単調な道を歩いていると変なところが気になる。街中なら、車の騒音と新道なんてあって当たり前なのだが、これほど静かで単調な空間にいると感覚も変わってくる。
湖岸の道は、「湖の辺の道」というらしい。
突然大きな建物が見えた。琵琶湖コンファレンスセンターというらしい。それを過ぎると、住宅地らしいところに出た。ログハウスやテニスコート、研修所などもあるので、別荘地なのかもしれないと思い、地図を見ると、行く先には「新海浜水泳場」があった。今は冬なので人影はなく、寂れているようにも見える。
これ以上進んでも行き止まりだと判って、手前を左折してさざなみ街道に向かう。いや、失敗した。ここは大きな住宅地。すぐにさざなみ街道には出られない。住宅地の中の道をぐるりと回り込んで何とか出る事ができた。
何だか随分疲れてしまった。
湖岸を歩くのは、今回はここまでと決めた。さあ、最寄りのJR駅まで戻ろう。

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5日目⑥愛知川 [琵琶湖てくてく物語]

今回は、愛知川に掛かる「愛知川橋」をゴールとした。
この「愛知川」。豊橋から来た私にはちょっと不思議な読み方だ。
最初、「あいちがわ」だと思っていて、どうして、こんなところに愛知などという名がつく川があるのか不思議でならなかった。
だが、ちょっと調べてみると、これは、当て字のようだった。古くは「恵智川」と書いたようだ。広重の木曽海道六十九次の66番目の宿場として描かれたものにその名があるようだ。愛知県とは無関係のようだった。
愛知川は、鈴鹿山脈の雨乞岳を源流に永源寺町から琵琶湖まで注ぐ川である。東近江市や彦根市はその下流にできた扇状地にできた町と言える。
さて、最寄り駅は能登川駅のはずだがと、地図を調べてみる。まだ、かなりの距離がある。GoogleMapで経路を調べると、田んぼの中の道を進むことになりそうだった。
それならばと、愛知川の右岸を歩くことにした。すぐのところに橋があったが、工事中で通れず、そのまま進む。先ほど触れた「新海町」の南側の土手を歩いていく。川岸の土手の両側に樹木が鬱蒼と茂り、森の中を歩いている感覚になる。その先は、田附町。何だか戻ってきているようだった。
ずっと、土手の道を歩いていても味気ないので、脇の道を降りて少し集落の中を歩くことにした。区画整理がされた圃場の一番隅に集落がある。ほとんどの家に大きなガレージや納屋がある所を見ると、この周囲の圃場を管理している農家が多いようだった。途中、信行寺の前を通る。ここは古そうだった。周囲にもいくつか寺や神社もあるので、土手沿いはかなり古い集落なのかもしれないが、おそらく、住民が集まってきたのは、干拓事業のあとではないかとも思えた。
再び土手に上がり、進むと、橋が見えた。ちょっと今自分が居る場所が判らなくなってGoogleMapを開いてみた。この橋を渡らないとさらに遠くなりそうだった。
橋の名は、葉枝見橋。橋を渡る。愛知川を渡ると彦根市から東近江市へ入ることになる。橋を下ったところが、阿弥陀堂町。道路を挟んで、川南町。
それにしても、小集落の中に、寺と神社が必ずあるのは不思議だ。日本という国は、それ程信心深い国だったのかと思い知らされる。自分自身、観光で寺や神社に行くことはあるが、暮らしの中に根付いているとは言い難い。若い世代も同じなのではないだろうか。いつまで日本人は、神や仏を大事にしていたのだろうかと思う時がある。
少集落を抜けると田んぼの中を一直線に走る道路を歩く。
山路という交差点を左折すると、遠くに高い建物が見えた。おそらくあの辺りに駅がある。
かなり疲れが溜まってきている。
歩道を歩きながら、ずっと無言だった。
スポーツセンター前という看板の信号のところまで到達するとようやく住宅地に入った。振り返ると、「びわ湖よし笛ロード」の看板があった。今歩いてきた道はそういう名前だったのかと初めて知る。それにしても、ここまで来ると琵琶湖ははるかに遠い。ここらに住んでいる人には琵琶湖は余り身近とは言い難いのではなかろうか。
整然と並んだ住宅が続く。
能登川中学校西の信号を右折し、進む。
林中央公園に着く。入口に、パルテノン神殿のような(?)建物がある。
以前、ニュースで、この公園の冬のライトアップの事を見た事がある。まだやっているなら見たいとも思ったが、寄り道している時間はなかった。
能登川駅は目の前。
最後の力を振り絞って、駅へ向かう。

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5日目⑦能登川駅到着 [琵琶湖てくてく物語]

能登川駅前のフレンドマートに着いた。
時間は16時15分。日暮れまでにはまだ時間はあるが、今回はかなり体力を消耗した。
特に、愛知川沿いを歩いたところが最も辛かった。湖岸のゴールを終えて、駅へ向かうのは、或る意味「敗戦投手の仕事」みたいで、先へ進むという感覚が持てないのは精神的には厳しいことがよく判った。
フレンドマートで、ちょっと体を温めてから、駅へ。
能登川駅には、初めて来た。水車のオブジェがあるロータリー。フレンドマートと一体化している。
改札を抜けてホームへ。電車は17時01分。座席に座り休息した。降りる駅は南彦根駅。外はもう薄暗くなってきていた。
ぼんやりしていると、なんと、10分で到着。一日かけて歩いたところを電車では10分。余計に疲れが出た。
駐車場に向かい車に乗り込んでから、歩数計を見た。
33,877歩、距離は23㎞。
前回よりは長い距離を歩いているが、南彦根駅からスタート地点、ゴール地点から能登川駅までの距離を引くと、実質15㎞程度しか歩いていない計算になる。
疲れた割には進んでいない。
自宅へ向かう車中では、次の事を考える余裕がなかった。何故だか、随分と疲れてしまっていた。

家に辿り着いた時はもう外は真っ暗になっていた。
夕食をとりながら、妻とこれまでの事を振り返ってみた。
「やっぱり、トンネルの中を歩いたのはかなり記憶に残ってるわね。」
少し残念な記憶だ。
「修行みたいだったね。」
「ええ、無言で、騒音と戦いながら歩くというのは、修行というより拷問ね。」
まだ、あれくらいの距離だから耐えられたのかもしれない。
ふと、若い頃、信州に行く時に通った「恵那山トンネル」を思い出した。
運転免許を取ってまだ日が浅く、彼女と二人で、八ヶ岳に行った時の事だ。名古屋でレンタカー(ホンダ・シティ)を借りて、東名高速から小牧ジャンクションを抜けて中央道へ入り、眼前に迫る恵那山の下を抜けるトンネルを通る。8000mを越える長いトンネル。時速80㎞で走って6分ほど掛かる。眩いオレンジ色のナトリウムライトの中を走っていると、途轍もない圧迫感があった。免許を取って経験が少なかったことからか、同じような風景が長時間続いて、進んでいないような感覚になって、少し気持ち悪くなったのを思いだす。
免許を取って40年以上経った今は、さほど気にならないが、やはり、閉鎖された空間は苦手だ。いや、それ以上に、あのオレンジ色のナトリウムランプが苦手だったのかもしれない。最近は、ほとんどがLEDに変わっていて、昔とは比べ物にならないほどトンネルの中は明るく快適になりつつあるようだ。
「他には?」と訊いてみた。
「・・うんちくが・・うっとおしい・・かな。」
彼女は目を合わさず、缶ビールをグイっと飲んだ。

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5日目⑧中間点で振り返り [琵琶湖てくてく物語]

これまで5日間(5回)で歩いた道程は、184,495歩。距離は125㎞。
ようやく、琵琶湖半周になった。
琵琶湖の北東部に当たる、高島市・長浜市・米原市・彦根市・東近江市の5市を歩いたことになる。それぞれの町に特徴があり、考えさせられることも多かった。

歩くというのは、考えることかもしれないと思うようになった。
これまで、自動車での移動がほとんどだったが、やはり運転中は余り深く物事を考えることはできない。運転に集中すべきだから。
自転車もそんなに考え事は出来ない。
だが、「歩く」というのは、いろんなことを考える事ができる。
目から入ってくる情報から想像を膨らませることもできる。
遠くを見ながら、この先の事を考えることもできる。
妻と二人で歩いていると、思考の幅も当然増える。
4つの眼で捉えたものはかなり多くの話題を生んでくれる。
滋賀県に移り住んで、こんな機会がなければ、それぞれの土地の事を知り考える事もなかっただろう。
軽い気持ちで始めた事だが、かなり意味のあることをしていると知った。

豊橋に住んでいた頃も、街中を歩くことが楽しみの一つだった。マンションから見える景色のほとんどの街を歩いたと言っても過言ではない。だが、その頃は、主に、街中の花を見て回るのが目的だった。季節ごとに、庭先や道端に咲いている花を探し歩いていた。スーパーやコンビニも多かったので、歩き疲れたら、何か買って、気ままに休んでみたり、おしゃれな喫茶店があれば入ってみたり、ちょっと長めの散歩が多かった。
「琵琶湖てくてく」はそれとは全く違う。何と言っても1日20㎞以上歩くのだから、ぶらぶらというわけにはいかない。休み休み行くわけにはいかない。だからと言って、ただ無暗に歩けばいいというものでもなかった。道すがら、珍しいものを見つけては推理・推察しながら歩く。これまでの経験と知識をフル活用する。
体の健康と脳の健康の両方を維持する事ができると思う。
二人で歩くというのも良い。
何かのテレビ番組で、「夫婦仲はドライブした時間に比例する」と聞いた。根拠は忘れたが、確かに、二人で長時間狭い空間に居る事ができるのは夫婦仲が良い証だと思う。時々、ご夫婦で、運転席に御主人、後部座席に奥様という光景を見ることがある。
「あれってどうなんだろうね?」
妻が時々、そう言うことがある。
「後部座席の方が安全だからじゃないか?」
「そうかしら?一緒に出掛けて後ろに座るってよく判らない。」
妻は、「よく判らない」というフレーズをしばしば使う。彼女は「理解できない、納得できない、承服しない」などの意味で使うのだが、ややきつめの言い方の時は「否定」だ。
結婚して子供が生まれ、家族で出掛ける時、妻は必ず助手席に座る。子どもたちも、助手席はお母さんの席と認知し、妻が乗っていない時も、娘たちは助手席には座らない。我が家では、「助手席は特等席」となっている。

この先は琵琶湖の南半分。近江八幡市・野洲市・守山市・草津市・大津市を歩く。
北とはまた違った街並みを見ることになるに違いない。
特に、琵琶湖の南湖と呼ばれるエリアは興味深い。
さて、次は、いつから始めようか。

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6日目、①能登川から近江八幡まで [琵琶湖てくてく物語]

いよいよ後半。6日目は少し気温が下がった11月21日と決めた。
前回のゴール地点は、愛知川河口、愛知川大橋のたもとだったので、まずは、能登川駅に車で向かう。能登川駅では、フレンドマート隣接の駐車場に車を入れた。ただで駐車させてもらうのは忍びないので、フレンドマートで昼飯を購入して歩き始めた。
まずは、「びわ湖よし笛ロード」で本日のスタート地点、愛知川橋へ向かう。
一直線に延びる道路。能登川中学校、能登川グラウンド辺りまでは、住宅地ですいすいと歩いていける。そこを過ぎると、暫く田んぼの中を歩く。
秋が深くなると、草花もあまりなく、田んぼもすでに刈り取られていて、荒涼とした光景に見える。ここで一気に気力がダウンする。だが、まだ始まってもいない。
隣を歩く妻も静かだ。
元気の良い時は、周囲の風景から、時折、変なものを発見して「あれは何?」と子どものように尋ねる。
実は、妻は大学時代の同級生。
18歳の時、大学の新入生歓迎の企画で、同じサークルを見学した時に知り合った。黄色いカーペンタージーンズだったような記憶がある。髪の毛がマッシュルームカットになっていて、中学生くらいに見えたほどだった。
その頃から、彼女は常に何かにつけ興味を持つと人に訊ねる癖があった。結婚してからもそれは続いていて、今や、それで私が何かをこたえないと許さないという関係だ。私は彼女のその癖のおかげで、随分いろいろなことを調べ憶え、即座に応えるように訓練されてきたように思う。そしてそれは、仕事でも生かされてきた。
そして、その癖は、見事に、娘二人に引き継がれ、娘たちがまだ小学生や中学生だった頃は、会話の大半は、「あれは何?」「これってどういうこと?」という質問から始まっていたように思う。さすがに、大人になれば、そういうことは無くなるだろうと思っていたのだが、未だに、長女も次女も変わらない。突然、LINEで写真を送り付けてきて、「これ何?」と訊いてくる。下の娘はすでに結婚しているのだから、旦那に訊けと言いたいところだが、そこは、父親としてきちんと答えることにしている。
まあ、世間のことに何も興味も持たずぼんやり生きているより、疑問を持ち、知りたいと思う事は良いに違いない。だが、私をwikipedia代わりに使うのはそろそろ勘弁してもらいたいとも思うのだが・・。
小さな水路を渡る。
この水路は、伊庭内湖に繋がっている。ここらもかつては大きな内湖が広がっていたようだ。内湖には、「能登川水車とカヌーランド」という公園が整備されている。こちらに来る前、滋賀県の観光雑誌を買うと、ここの案内が大きく出ていたのを覚えている。びわ湖近くに住むのだからと、移住してすぐにカヌーを買ったが、まだ、ここには来たことはない。
その先に集落。乙女浜町というらしい。古地図にも、乙女濱村という記載があるので、内湖漁業で生計を立てて来た人達が住みついた場所なのだろう。この集落にもまた、中心部に寺、そして村の北側に大きな社、「濱之神社」がある。
そこを過ぎると、福堂町。ここも古地図に「福堂村」とある。そこからしばらくはまた田んぼの中をひたすら歩き、栗見出在家という信号に出る。ここで「さざなみ街道」に入ったことになる。一旦、愛知川橋のたもとに行き、本日のスタート地点に立った。すでに10時を回っている。

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6日目、②栗見新田 [琵琶湖てくてく物語]

出発してすぐ、「栗見新田」という集落になる。
その名前から、干拓後にできた新田だと思っていたが、干拓前の古地図にもすでに記されていた。ということは、江戸期から明治にかけて整備された圃場(田んぼ)なのだろう。
古地図を丹念に見ると、干拓前にここら一帯に広がっていた「大中湖」の西のはずれ、さすが伸びているところに小さな内湖があり、そこを丸く埋め立てた土地が二つ描かれ「栗見新田」と記載されていた。湿地帯を使った浮島の様な土地があったのかもしれない。集落の歪な地形がその名残なのだろう。
さらに、その先は「栗見出在家町」。
調べてみると、彦根藩が最後に行なった新田開発で出来た村だったそうで、土地が低いため何度も水害にあったとの事。家屋の周囲は石垣で守られていた。
おそらく、今まで歩いてきたところにあった町(村)は、みな同じような苦労をしてきた地域なのだろう。
そこを過ぎ、大同川に掛かる水車橋を渡る。
橋の上から見ると、その先の大中農地が広がっていた。橋からかなり下っていく感じで、水面よりも低い感じがする。やはり、かつてここに大きな内湖があったことが想像できる。
先に進もう。
ファミリーマートが見えたので小休止。
トイレを借りる。やはりただでトイレを借りるのは気が引けるので、タバコ1箱を買って出てきた。意外に小心者で律儀なのだよ。
そこから、いよいよ、山道に入ることになる。
ここは、伊崎山と奥津山の間の低い場所。峠と呼ぶほどではない。
古地図では「奥之島」「伊崎島」と描かれていたところだ。
島と言っても、砂州と葦原で陸続きで、周囲には、幾つもの村が描かれていた。この奥之島を古地図で見ると、幾つもの集落が書かれている。琵琶湖と内湖を巧みに使って豊かな暮らしがあったのかもしれない。
トンネルのように道路を覆う樹木の間を抜けると、堀切港だ。
琵琶湖唯一の有人島、沖島へ向かう連絡船が停泊していた。ちょっと寄り道して、港を覗いてみる。不思議なほどたくさんの車が停まっている。よく見ると、全ての駐車場に名前が書かれていた。沖島の住民がここへ車を停めているのだろう。沖島には車は必要ないし、入れない。だが、ここから近江八幡へ向かうには車は必需品に違いない。
今回、琵琶湖てくてくの際に、この港を知り、後日、沖島へ渡ることにした。チケットを買って、船を待っていると、消防車と救急車がサイレンを鳴らしながら港へ到着。降りた救急士たちは、素早く、港に停泊していた「消防救急艇」に乗り込んで、サイレンを鳴らして出発して行った。
まるで映画のワンシーンを見ているような感じがしたのを思い出した。
今、盛んに「空飛ぶ車」の開発が進んでいる。大阪万博では商業運航する予定らしい。
NHK「舞い上がれ」では、一足早く、離島を結ぶ有効な移動手段として描かれていた。「空飛ぶ車」という名前にはいまだに違和感を抱くが、(車と行ってもタイヤがないよね)ヘリコプターより手軽に飛べるのであれば、過疎地や離島には大いに有効に違いない。
ただ、安全性という点が心配なのだが、技術の進歩で私たちが抱く不安を払拭してくれるほどの安全な移動手段にいずれはなるのだろう。私自身は、その頃まで生きているとは思えないのが残念だが。
堀切港を横目に見ながら、いよいよ奥津山の道に入った。

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6日目、③山道を歩く [琵琶湖てくてく物語]

堀切港から先、奥津山の周囲を巡る道は、今回の「琵琶湖てくてく歩き」の中では、マキノから木之本と同じくらいの山道だ。いや、マキノから木之本までは、幹線道路で歩道もあって、車の通りも多かった。
ここは、殆んど車の通りもなく、歩道も整備されていないところばかり。木々が茂って、日差しを遮って暗いところもある。登ったり下ったり、右や左へ曲がる。地図で確認していた以上にワイルドな道だった。琵琶湖の湖面は遥か足元に見える程度の高いところもある。
道路わきに生えている草木を見ながら歩く。広葉樹が多い。おそらく、リスや猿、タヌキなどの野生動物も多いだろう。
下りきったところで前方に建物が見えた・・と思ったら、工事の船だった。
再び、登り道。右手前方には沖島が見えている。思ったよりも沖島は近いように感じた。
左に曲がったところで、美しい砂浜が広がる「休暇村・近江八幡」に着いた。
脇道に逸れて、下ると広い駐車場があって、そこを横切ると芝生広場があって、その先には砂浜がある。
ちょっと遅くなったが、ここで昼食休憩することにした。
夏はずいぶんにぎわうに違いない。広い芝生もあって、のんびりできそうだ。
芝生広場の端に置かれているベンチに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べる。ちょっと北西風が強くなってきて寒い。
「ねえ、あそこまでならカヌーで行けるんじゃない?」
おにぎりを食べながら、唐突に妻が言い出した。
目視の範囲では確かにそれほど遠くない。吹き始めた北西風のせいか、砂浜に寄せる波が高くなってきている。沖を見ると所々で白波も見えた。
「波が穏やかな時なら行けるかも・・。」
そう答えたものの、実際、殆んど漕ぐのは私だ。
苦労は目に見えている。それに、多少波が出ただけで、きっとすぐにやめようと言い出すに決まっている。
とはいえ、移住した時、初めての大きな買い物はカヌーだった。
カヌーと言っても、グラスファイバー製の立派なものではない。ゴムボートのように空気で膨らませるタイプ。沈んだり、転覆するリスクは低いのだが、波の揺れには結構弱い。風と波はかなりの注意が必要なタイプなのだが、これまでも夏にはあちこちで愉しんでいる。
初めのうちはおっかなびっくりで、自宅前の萩の浜にカヌーを浮かべ、隣の白浜水泳場辺りまで行くのがやっとだった。
徐々に慣れてくると、南にある「大溝港」に入ってみたり、白髭神社の鳥居の足元へ行ったりした。
以前にも書いたが、横江浜から出て、小さな水路を上ったこともある。歩いていけない、菅浦の浜でも遊んだ。桜の季節に海津大崎にも行こうと思っているのだが、近場でカヌーを出せるところが見当たらず、今のところ未着手。
実のところ、この琵琶湖一周てくてく旅が終わったら、今度はカヌーで一周してみたいとも思っているほどなのだが、かなり無理がある様に思って今のところ、妻には話していない。一度口にすると、妻は、すぐにやろうと言い出すに決まっている。
年齢を重ねて行けばどんどん体力も落ちてできなくなるのは判る。だが、出航した後、どうやってカヌーを持ち帰るか、スタート地点に一旦戻って、次は進んだ先から始めるという方法もあるが、そうなると、琵琶湖を2周するのと同じ。どれほどの体力が必要かと思うと、簡単には始められない。挑戦したい気持ちはあるが・・。まあ、今回のてくてくが終わってから考えよう。

そんなに長居はせず、さっと片付けてから、歩き始めた。

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6日目④ワインディングロード [琵琶湖てくてく物語]

その先も同じような山道がしばらく続いたが、次第に視界が広がってきた。徐々に低くなり、水面が近くなった。
大きなカーブを曲がったところで、前方におしゃれな建物が見えた。
「KaiserBergびわ湖」の看板、下の方に「レッドバロン」と書かれている。会員制リゾートクラブとあった。
ちょっとググってみたら、カフェやバーベキューサイトがある日帰りのリゾート施設と判った。レッドバロンが運営しているようで、ライダーの憩いの場となっているようだ。
確かに、今まで歩いてきた道は、バイク乗りには楽しいワインディングロードなのだろう。我が家の前の湖周道路も、休日ともなれば、多くのバイクが走り抜ける。交通量が少なく、信号もほとんどないので、きっと楽しいだろう。
ただ、バイクメーカーや販売店にお願いしたい。バイクの騒音についてもっと考えてもらえないか。日本のバイクの騒音規制は外国に比べて厳しいと聞いたが、「えっそうなの?」と思うほど、規制をすり抜けているバイクが多いように思う。
エンジン剥き出しのバイクは、排気音だけでなくエンジン音も大きいし、マフラーを改造しているバイクもよく見かける。最近の乗用車は、エンジン音や排気音はかなり抑えられているのに、バイクはいまだに変わらない様に思う。
無意味にエンジンをふかす不届き者に限らず、まっとうにバイクを愉しむ人達の乗るバイクも、まだまだかなりの排気音。自然の静けさを切り裂くようなバイクの音には閉口する。
以前にも書いたが、トンネルの中では、トラックや乗用車の音に比べて、バイクの騒音は異常ともいえるほどだ。バイクという構造自体が、もはや騒音を防ぐことはできないのだと思う。(カウリングをつけているバイクも増えてきたが、排熱のため完全に覆うのは無理だろう)
世界的に、乗用車もガソリンエンジンから電気モーターへ置き換わろうとしている。
バイクも、電動化を進めて行けば、騒音問題は解消できると思う。ただ、そうなると、今バイクを愉しんでいる人には魅力半減なのだろうが。しかし、どうにか、静かなバイクを作ってもらいたいと願う。
と、思っていると、中からバイクが2台出てきた。女性ライダーみたいだった。
エンジンを数回ふかし、大きな排気音を残して、走り出す。私たち二人は、その瞬間、耳を塞いだ。すぐ脇をすり抜けたバイク音はやはり我慢ならないものだった。

もう少し進むと、湖畔に突き出たような土地に、ログハウスが建っていた。
「シャーレ水が浜」と看板があった。
道路を隔てて、山側にも「369TerraceCafe近江八幡」というレストランらしきものがあった。
駐車場はいっぱいで、店の前にも人が並んでいる。
きっとSNS辺りで、『映える』ポイントとして紹介されたのだろう。
今回は。店内に入って楽しむ余裕はなかったので、外のテラス席でちょっと休憩した。
そこから見える琵琶湖もとても美しかった。向かいに見える山は、比良山系か、比叡山か、いずれにしても、湖面から立ち上がる山並のように見えて、なかなか良い。
琵琶湖岸は圧倒的に平地が多く、高台から琵琶湖を望めるところも少ない。そういう意味で、この「シャーレ水が浜」は魅力的な存在だと思う。特に、琵琶湖の対岸の風景は本当に素晴らしい。もう少し季節が進んで、比良山や比叡山に雪が積もると、さらに美しいだろうと想像する。今度、ゆっくり訪れたい場所の一つだ。

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6日目⑤フユイチゴ [琵琶湖てくてく物語]

一息入れたら出発。
あと少しで今回の目的地、長命寺町に到着できる。
「あれってイチゴじゃない?こんな時期に実がついてるのって変よね?」
妻が、道路わきの擁壁に、赤い実を見つけた。
フユイチゴの実だった。
我が家の周囲では「ニガイチゴ」が5月から6月にかけて実をつける。幼い頃、学校帰りに、その身を積んでおやつ代わりにしていたことを思い出して、移住した年から、妻と二人でたくさん摘んできて、ジャムにしている。ほのかな甘みしかないが、ジャムにすると美味しくいただける。初めは、鍋を使ってみたが、手間がかかるので、電子レンジで簡単に作る方法を見つけた。
「同じように見えるけど、あれはフユイチゴの実だな。」
実際、ニガイチゴとフユイチゴの実は、よく似ている。他にも、クサイチゴ、クマイチゴ等もある。野イチゴはとても魅力ある植物の一つだと思う。
栽培するのではなく、野に生えているのを摘み取ってきて食べるということが、何か随分と贅沢をしているように思える。
我が家の庭には、ブルーベリーの樹もあって、毎年のようにたくさん実をつける。
これもジャムにしているのだが、6月から収穫を始めて、1ヶ月程で3㎏程になる。全てをジャムにするのは大変なので、一旦冷凍して、小分けにジャムにする。1回に250g程度のジャムを作ると、2週間程度で食べきる。地中海ヨーグルトを10年近く作っているので、夕飯のあと、ヨーグルトに入れて食べる。休日の朝はパン食になるのでそこでも使う。「クサイチゴ」は、ブルーベリーのように冷凍できないので、摘んだものは全てすぐにジャムにする。例年、1㎏(小瓶で5本くらい)ほどを摘んでジャムにしてきた。
電子レンジを使ったジャムづくりは簡単。
ブルーベリーの場合、180gほどのブルーベリーに100gのグラニュー糖を入れ、500Wでまず5分加熱。途中でレモン汁を加えて混ぜたあと、状態をみてあと1分ほど加熱する。ほとんどジャムというよりソースに近い状態で止めるのが肝心。瓶に移して冷えるとだいたい250gほどの量でしっかりジャムになってくれる。
始めたばかりの頃は、状態の見極めができず、瓶に移して冷えるとスプーンが入らないくらい堅かった事もあったので、やや緩いくらいの方が良いと思う。
それと、粘り気があるので沸騰すると泡が容器を越えることがある。今は、百均で買った「ラーメン容器」を使っている。インスタント麺と水を容器に入れレンジでチンするという優れモノなのだが、今はジャムづくりで活躍している。深くて大きいので、吹きこぼれの心配はない。
昨年、前の土地を買って庭を広げた。100坪ほどの庭なのだが、ジャムづくりの楽しみのために、幾つもの果樹を植え付けた。
まずは昨年実をつけた杏をジャムにしてみた。まあまあだった。梅やキウイ、姫リンゴ、リンゴ、桃、サクランボが実をつけるのが待ち遠しい。
目の前に成っている「フユイチゴ」も摘んでジャムにしたいと思ったのだが、ここで摘んでも持ち帰るまでに傷んでしまうのであきらめた。
そう言えば、高島市では「アドベリー」という名前の特産品がある。
ポイズンベリーという木苺なのだが、熟した実は日持ちしない為、生食での流通はほとんどない。ほとんど加工品になっている。我が家でも作ってみたいと思うのだが、苗が高い。生育が難しいとも聞いて二の足を踏んでいるところだ。

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6日目⑥長命寺 [琵琶湖てくてく物語]

フユイチゴが成っている擁壁を過ぎると、松ヶ崎。そして、長命寺町内に入る。
長命寺は古地図にもしっかり載っていた。そして、長命寺村ともあった。北に山があり、南に開けた土地なので、住むには良いところだったのだろう。古地図では、琵琶湖は今の位置よりずっと奥まで入り込んでいて、近江八幡市北津田町辺りまで続いている。おそらく渡合堰がある所までが琵琶湖だったのだろうと思う。山沿いに集落が続いているのがその名残。
今回のゴールは、ここと決めた。
時間が遅かったからか、閑散期なのか、長命寺林道前の売店は閉まっていた。
ここをゴールとしたのは、これ以上進むと、最寄り駅へ戻る手段を失うからだ。
ここで近江八幡駅行きのバスに乗る。今回、初めてバスを使うことになった。バスを待つ間に、長命寺まで行ってみようかとも思ったが、地図を見ると、かなり山道を登ることになるので、バスの時間までには戻れそうにない。それを逃すと30分待つことになるので、また、別の機会にと思い、港あたりを少しぶらぶらした。
長命寺港には、沖島へ向かう船が就航しているが不定期便らしい。そこから右手に大きな建物がある。「長命寺温泉天葉の湯」というらしい。日帰り温泉で、食事もできるようだった。疲れていたので入りたいとも思ったが、全く用意をしてこなかったし、時間も気になるのでまた今度。何だか、「また今度」ばかりになってしまった。
実は、移住を考えていた時、この「長命寺町」も候補に挙がっていた。長命寺に上がる参道脇に、希望に近い物件を見つけた。少し高台の南向きの斜面に立ち、家の前には適当な広さの庭もあった。何より、家の前から琵琶湖を見下ろせるというのは最高だった。不動産屋に当たりをつける前に、ちょっとだけ見に行った。
今は、ネット情報で物件の写真や間取り、位置なども簡単に特定できるので、下見はしやすい。
だが、行ってみて愕然とした。ネットの写真はかなり昔なのか、実際に見ると、あちこちが壊れていたし、取付道路もかなり危うい状態だったのだ。あっさり諦めた。
そのあと、近江八幡のとある不動産屋へ行き、琵琶湖畔に近い物件を紹介してもらったが、いずれもかなり程度の悪いものばかりだった。
関西ではかなり大手の不動産屋だと思うのだが、紹介される物件はかなり酷いものが多かったのはどうしてなのか?
近江八幡のあと、大津・堅田の同じ系列の不動産屋に行った時など、「琵琶湖の湖畔」と条件を出しているのにも関わらず、山手の別荘地の古い物件ばかりを案内された。若い担当だったから、販売しにくい物件ばかりを持たされていたのか、私たちを怪しい客だと思ったのか、判らないが、こちらの条件などほとんど聞かずに次々に物件を案内するのには閉口した。同じ担当者は、別の日にも、同じようなところばかりを引き回し、挙句の果てに、物件の内覧をしようと行った先では、門から玄関まで草が伸び入れない状態、何とか玄関に辿り着いても、肝心の鍵も持っていない。さすがにこれには怒り心頭。すぐにその場でお別れした。
高島に移住先を絞った時の話は既に書いているので、これ以上はやめておくが、移住後、周囲に空き家がたくさんあるのを知ったことと、縄張りのようなものが不動産業界にはあるようで、若い社員の担当者は、あまり良い物件を持っていない状態なのだということも判った。古い慣習みたいなものががん然とあるように思うと、不動産業界の将来は暗いように思う。まあ、今となってはどうでもいい話だが・・・。
高島市では移住促進の取り組みに力を入れている。人口減少に歯止めがかからない現実の中、行政主導で進んでいるが、移住者の最も近い存在の不動産業界の問題にまでは手が届いていないのではなかろうか。是非、ご一考願いたいものだ。

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6日目⑦ローカルバス [琵琶湖てくてく物語]

時間になったのでバス停へ向かう。客は私たち二人だけ。やはり、ここでも公共交通機関の利用は少ないようだ。
全国、都市部を除いて多くの地域でローカルな公共交通機関の存続が危ぶまれている。
私が子どもの頃は、自家用車はようやく一家に1台という状況で、父親が通勤に使うと、外出にはバスを使うほかなかった。
買い物に出かける時は必ず利用していた。
私の田舎は、バス路線の終点だったし、峠道を越えなければスーパーマーケットや病院さえなかったので、母や祖母と一緒に乗った思い出がある。
それが、セカンドカー時代になって、たいていの外出は、自家用車を使う暮らしになった。二人暮らしの我が家でも、自家用車を2台保有しているので、公共交通機関を使う必要はほとんど無くなった。今後、必要になるとしたら「免許返納」の時だろう。
もっとも、高島市の公共交通機関・バスは路線数が少なく、我が家の近くにはバス停などない。バスの姿を見る事もない。それ程、バスはなじみのないものになってしまった。
そろそろ、次世代の交通インフラを考える時期になっているかもしれないと思う。マイカーブームの中で育った世代、ステイタスのごとく高級車に走る世代、そういう世代が高齢化していく。環境問題の中で、EV化も進んでいるが、結局、今の自動車のエンジンをモーターに置き換えるだけでは、少子高齢化・マイカー離れの時代には応えきれないのではないだろうか。公共交通機関も大量輸送ではない方向を考えることも必要になっていると思う。「空飛ぶ車」が一つの突破口になるとは思えない。それよりも、もっと手軽に必要な場所へ行ける手段として「超小型EV」を普及できないかとも思う。まあ、私の生きている間に実現するとは思わないが、過疎地や高齢化している地域で、国主導でも良いから(本当は地方自治体主体が望ましいが)、実証実験を進めてみたらどうかと思う。離島での小型EV利用などのニュースを見ると、大いに期待したくなる。
路線バスと言えば、幼稚園の時(今から57年前?)、通園のために使っていた市バスが事故を起こした記憶がある。
満席に近かった車内に、幼稚園児の私は座る席がなくて、バスの中央部にあった銀色のポールにしがみついていた。峠道をゆっくりと越えて、S字の道を降りていく。その先には、自衛隊の基地の外周を走る道路があった。道路脇には御濠のような水路がある。
雨が激しく降り、視界も悪かった。前を行くバイクを追い越そうとして、バスが右側に頭を振った瞬間、大きく傾いた。そしてそのまま、御濠の土手を滑り落ち、転落したのだ。
幼い私は、無意識に銀色のポールにしがみついた。目の前の風景がスローモーションで回転して、座っていた人たちが叫び声をあげて、宙に浮き、重力によって落ちていく。
バスは天井を一度地面につけてから横倒しになった。椅子や窓ガラスに血糊が見えた。うめき声や泣き声が聞こえた。
私は、ポールにしがみついたまま、横に倒れていた。どれほどか時間が経ったのか判らないが、横倒しになったバスの窓ガラスを割る音がして、大人の声が聞こえた。救急車の音が聞こえたような気がしたが、それよりも、雨音の方が耳に残っている。
余りに幼かった私にはその事故がどれほどの被害を生んだのか判らないが、乗り合わせていた中で無傷だったのは、私だけだったと母から聞いたことがある。
それ以来、バスが苦手になった。小学校の社会科見学や修学旅行で大型観光バスに乗ると、すぐに気分が悪くなってしまうようになっていた。今は、すっかり克服しているのだが、ただ、路線バスに乗るとついあの時の光景を思い出してしまう。
バスは、近江八幡駅に向かって走る。
バス事故の話は、妻にも話したことがある。だが、幼い時の話なので、ひょっとしたら大した事故ではなかったのかもしれないとは思うが、やはり、ついつい思い出してしまう。

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6日目⑧6日目終了 [琵琶湖てくてく物語]

長命寺町から近江八幡駅までのバスはなかなか快適だった。
駅に到着したところで、歩数計を見ると、32,249歩、22㎞だった。
能登川駅から出発地点までの距離を差し引くと、実質16㎞ぐらいしか進んでいないことになる。駅から田んぼの中の道を歩き、奥津島の山道を歩いたため、随分歩いた気分になっていたが、現実はこんなものだ。
次からはもっと前進できるように工夫しないといけないと思いつつ、近江八幡駅からJRに乗った。
近江八幡は魅力的な街だ。移住前にも家族で旅行したし、移住後も、年に2回以上は訪れている。古い町並み、八幡堀巡り、水郷巡り、日牟禮八幡宮、ラコリーナ近江八幡、ヴォーリズ建築、観光資源が豊富だからだけでなく、そこに新しい力を感じる事ができる。
不思議なのは、大中湖干拓が大規模に進められたにもかかわらず、内湖の一つである西の湖が残ったことだ。おかげで、信長が城を安土山に建てた理由がよく判るわけなのだが・。
そういう意味で、近江八幡は、最も近江らしい場所なのだと思う。琵琶湖と共生し、琵琶湖の恵みを巧みに利用した暮らしがそこにある。
駅を出ると、すぐに安土駅。近くに沙沙貴神社がある。
ここは、全国の佐々木源氏ゆかりの人たちがお参りする神社だそうだ。
実は、母の実家は「佐々木」姓。ゆかりがあると言えばそうなのだが、まだ、お参りしたことはない。ただ、言い伝えとして、私の実家「白井」一族は、承久の乱の際に上皇側につき、敗れたあと、山口(周防)の島に流刑となったということが判っている。同じ時、佐々木一族も上皇側につき敗走しているので、かなり近親の一族だったのは明らか。白井本家の跡継ぎが病死したため、絶えることを危惧した曽祖父が、娘の嫁ぎ先の佐々木一族から娘を養子とし、さらに、村上水軍の末裔であった「村上」一族からも男子を養子として迎え、婚姻したのだと祖母から聞いたことがある。それほどまでに本家は絶やしてはならぬという封建的な田舎町に生まれた私には、かなり責任が大きかった。
いまでは、妹が白井家を継いでいるので、私自身が白井を名乗る必要は無くなったのだが、まあ、今時、そんな一族繁栄みたいな話はどうでもいいように思うのだが、何か、自分という存在を確認するには、好都合な情報である。
実は、この話は、父が菩提寺探しをしている時に判ったことだった。
我が家には地所内に墓地があった。大きな墓が二つ並び、墓石はかなり古かった。傍らには、さらに古い墓石が並んでいて、墓地の広さはかなりのものだった。先にも書いたように、私の父と母は養子縁組である。したがって、墓に入っている人達の事はほとんど知らなかった。墓石に刻まれた人名もほとんど判らない状態だった。大きな墓石の周囲に並ぶ小さな墓石を見ると、現在の文字ではないのは明らかだった。
父は、何故だか、そういう状態を解消しなければと考え、集落にあった寺を尋ねた。そこで発見したのが、菩提寺が全く別のところにあったということ。そして、その寺を探し当て、過去帳から一族の名を見つけた。奇遇にも、その寺の住職は父の同級生だったこともあり、丁寧に調べ上げてくれた。その寺自身も、白井一族とともに京都から移ったことも判り、その寺を我が一族が庇護してきた記録も見つかったようだった。
父は、自慢げにそんな一族にまつわる話をしていたが、それからわずかの間に、癌で命を落とした。まるで、自分が墓に入るための準備をしていたようだと今になって思う事がある。
そんなことを考えている間に、能登川駅に到着した。
駐車場で車に乗り込み、自宅へと向かった。

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7日目①近江八幡から守山まで [琵琶湖てくてく物語]

さて、いよいよ7日目になった。12月5日。季節はもう冬。
ここからは琵琶湖の南半分になる。今回は少し変則的な始まりになった。というのも、前回までのように出発地点に車を置いて電車で戻る形になると、自宅から随分遠くなるためだ。だが、どうすれば良いか、かなり考えた。
自宅を出て、琵琶湖大橋を渡り、「ピエリ守山」駐車場に車を停めた。そこから、草津駅までのバスに乗り、草津駅から近江八幡駅に向かう。そして、前回のゴール地点、長命寺町へ行くという方法だった。
こうすると、ゴールはおのずと「ピエリ守山」ということになる。そこから自宅までなら40分くらいということになる。ピエリ守山前のバス停から草津駅までのバス路線を調べたところ、比較的本数は多そうだった。
自宅を出て、琵琶湖大橋を渡り、ピエリ守山駐車場まで予定通りに移動できた。車を置き、バス停に向かうと、すでにバスの姿が見えていた。駆けだして何とか間に合う事ができ、森山駅まで向かった。
バスの時刻表を見誤ったわけではない。どういう事情かは判らないが、予定よりバスが早かった。久しぶりに思い切り走った。還暦近くになって準備運動もなく走り出すのは、体に悪い。バスの座席に座った後も、暫く、息が上がって苦しかった。
バスは森山駅前に停車し、駅に向かう。予定通りに近江八幡駅まで向かった。
近江八幡に着いて、長命寺町へのバスを探す。前回、バスの下調べを怠ってしまったのは痛かった。さほど大きな駅ではないのだが、なかなか見つからず、ようやく発見して時刻表を見ると、ついさっき出たばかりだと判った。
さて、次のバスを待つかと思ったが、せっかく近江八幡に来たのだから、少し、街並みも見学して目的地の長命寺町へ向かうのも良いかもと思い始めたところで、妻の一言。
「ねえ、歩きましょう。ここでバスを待っていても仕方ないでしょ。」
まるで私の心の中を見透かすような発言。
拒否する必要はないので、歩くことにした。
GoogleMapで調べると、6㎞ほどだと判った。前回の能登川駅からの道程に近く、多分1時間半くらい掛かる。まあ、大丈夫だろう。
近江八幡駅の北口(?)から北西へ進む。「ぶーめらん通り」というらしい。一説には、道が途中に少し曲がっていて、ブーメランのような形状をしているからとか。いや、きっと別の理由があると思うが・・。
CLUB HARIE近江八幡店の前を通過し、直進。ガストの信号(中村町)を左折し、県道2号線に沿って進む。土田町の信号で一度Mapで確認。このまま直進すると、長命寺町方面から離れていくので、この信号を右折する。歩道が整備されていて歩きやすい。
しばらく行くと、前方右側に大きな白い建物が見えた。本願寺八幡別院とあった。門は閉じられていて、中の様子は確認できなかった。そのまま直進すると、急に道幅が狭まった。Mapは合っているので、少し心配しながら進む。
再度、Mapを確認すると、近江八幡市街地は綺麗に碁盤の目になっているのが判る。今いる場所はその一番外側の通りのようだった。道幅が2間あるかないかの狭さ。この道路は、戦国期に豊臣秀次により近江八幡が整備された時のままなのではないかと思える。
前方に極めて珍しい建物が見えた。赤レンガを積み上げた建物。旧中川煉瓦製造所縄縫工場。ちょっと立ち寄ってみた。
敦賀や舞鶴でみる赤レンガ倉庫のミニチュアのようだ。じっくり見るとかなり頑強に見える。大正期のものらしい。近くには、土取場跡やホフマン式窯のあるレンガ工場跡などもある。大正期には大いに賑わった場所なのかもしれない。

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7日目②意外な名所発見 [琵琶湖てくてく物語]

さらに前進すると、八幡堀に出た。
八幡堀巡りの船に、数年前に、家族で乗ったことを思い出した。
その日は、平日だったせいか、ほとんど待たずに乗れた。時代を間違えそうな風景の中、のんびり進む船の上で、船頭さんのガイドを聞きながら、ぼんやりの時間を過ごして思いのほか癒されたのを思い出す。
「何故だか、旅行に行くと、貴方と長女は何かと船とかロープウェイとか日常的ではない乗り物に乗りたがる」と、妻が言ったのも思い出した。
いやいや、旅行というのは非日常を味わうものだろうと反論するが、そんな言葉は聞いていない様子だった。
そんなことをぼんやり思い出しながら、橋を渡り、突き当りを左折し山際の道を進む。
歩道がなく、車両の通りも多いので、一列になって進む。
白壁の蔵が幾つか並んでいた。中心部からはかなり離れていると思うのだが、ここもまだ近江商人の町並のようだ。
直進道路はさらに道幅が狭くなってきて、歩道が無くなったので、山沿いの脇道へ入ることにした。道のうねり具合から、こちらは旧道だろう。小さな鳥居がある。地図で確認すると石段を上がった先に「綾神社」があるらしい。
そのまま道に沿って進む。開けたところから見ると、この辺りには大きな屋敷が点在している。中には、敷地に幾つも家屋が連なっているようなところもある。ここ、船木地区は、室町時代に船木城(船木氏館)が築かれたところのようで、以降も、材木運搬の要衝だったらしい。高島市安曇川町の船木地区も、材木運搬で栄えた場所で、「船木」という地名は、そういう材木運搬・船の運搬業で栄えた地名なのだと思う。
少し進むと、ちょっと変わった(?)お寺を見つけた。
屋根の一部が茅葺の寺。天台宗のお寺で、豊臣秀次が開基したと書かれている。
ざっと400年以上前。その前身のお寺は聖徳太子が八幡山に建てたと伝わっているとの事。船木地区のほぼ中央にあることは、この近江地域の集落の特徴だ。こういう伝承というのは、ほとんどの寺社仏閣に見る事ができる。それは、その寺社仏閣を守る人々の強い意志が脈々と語り継がれてきた証だ。寺はまだ、日本の歴史の中では文献などで証拠を見つけることは可能だが、神社は殆んど神話の世界だ。だからこそ面白い。どうしてそんな話が生まれたのかと思うようなことが山ほどある。きっとそこにはその神話に通じる何か事実が存在したはずだと思うとさらに興味がわく。
さらに進むと、津田という集落に入る。この集落でも、伝承を見つけた。
集落の東側、八幡山の麓に「津田城跡」があった。その脇に建つ顕彰之碑には、この地を治めていた「津田氏」は織田一族の始祖とあった。織田信長の先祖ということになるわけだが、14世とあるので、ざっと400年ほどの時間が経っていることになり、信長自身がどこまで知っていたかは判らないと思うのだが・・。
その集落を抜けると、整備された大きな農地が広がっていた。先回も書いたが、かつては、津田集落から長命寺町までの間には、琵琶湖が内陸まで入り込んでいた場所で、ここも干拓によってできた農地だ。農地の中に真っすぐに道路が伸びている。排水路を越えると、「津田内湖土地改良区」の事務所があった。ようやくこの場所の名前が判った。そこからさらに進むと、近江八幡運動公園を越えて、何とか、長命寺町の入り口に当たる「長命寺橋」に着いた。
さあ、ここが今日の出発地点になる。

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7日目③空腹のピンチ [琵琶湖てくてく物語]

・・だが、もう時間は正午を迎えていた。
朝、ピエリ森山に車を停め、バスとJRで近江八幡駅に着き、ここまで歩いて、3時間ほど経過したことになる。
昼となれば、腹が減る。
実は、この長命寺橋のたもとに、たこ焼き屋の屋台がいつもは開いているのだが・・何と、今日はいないではないか。先月来た時には確かあったような記憶があるのだが・・寒くなって商売にならないのか・・。
困った。今回、昼食を途中で買ってくるはずだったのに、結局、コンビニらしきものがなくて、最後の砦と、ここのたこ焼き屋を当てにしていたのに・・。どっと疲れた。
「チョコレートとバナナがあるけど食べる?」
疲れと脱力感で座り込んでいる私を見て、妻が言う。
「バナナ?」
「ええ、先回、甘いものが食べたいと思ってたから持ってきたの。」
なんと、素晴らしい。
疲れた体に「チョコレートとバナナ」とは、栄養満点、やる気満々のご馳走ではないか。
実のところ、どこかに出かける時、妻は支度に時間が掛かる。化粧に時間が掛かるのではなく、心配症で何かといろいろと持っていこうとして手間取るのだ。一泊程度の旅行でも、大きなカバン満杯の荷物になる。そんなに必要なの?と心の中で思いながら、ぐっとこらえているのが常だ。そんなことを言おうものなら機嫌を損ねてさらに時間が掛かるからだ。
だが、今回は見直した。「チョコレート」だけなら、まあ普通にそうかというくらいだが、「バナナ」とは見上げたものだ。そういう発想にこれまでも助けられたことがしばしばあったような気がする。一つ一つは思い出せないが・・。
「バナナ」について・・・今では、多様なバナナが流通し、店頭でも、年間安定して販売されている。バナナは、低カロリーながらカリウムやビタミン等を多く含み、栄養面では極めて素晴らしい食品である。
私が子どもの頃、病気になると「滋養があるから食べなさい」と祖母が買ってきてくれたことを思い出す。その頃は、1ドル360円の固定相場制だったため、輸入品はおしなべて今の3倍近くになる。100%輸入に頼っている「バナナ」も、今は1房100円くらいから売っているけど、当時は、恐らく3倍以上だったはずで、一方の収入は、今の5分の1程度なので、15倍という事になる。単純に言うと、1房1500円くらいという高価だったはず。それでも、「滋養があるから」と言って買ってきてくれた。祖母の優しさに感謝すべきなのだろう。
ただ、当時のバナナは今と違ってさほどおいしくなかった。
社会科見学で下関のバナナ工場へ行った時、真っ青なバナナが大きなコンテナに入っていて、それを地下にある「室」に入れ蒸気をあてると黄色くなって出てきたのを覚えている。当時はまだ、病害虫の検疫のため、どこか薬品臭かった。皮からちょっと変な匂いがしていたのを思い出した。今は、何れも味と栄養価と熟度を競い合うようになっていて、とっても美味しい。当時は、「遠足のおやつは300円まで」などというルールもあって、「バナナはおやつですか?」という質問をするのが笑い話のようになっていたのだが、おそらく、当時、バナナ1本で300円くらいの価値があったのではないかと思う。
そう言えば、当時は、チョコレートも普通のお菓子とは別にガラスのケースに入って売っていた。今では安売りのコーナー商品になっている「ガーナミルクチョコ」の赤いパッケージがガラスケースの中にそっと置かれていて、子どもは触ってはいけないもののように見えたものだ。原料のカカオも輸入品なので、こちらも相当高価だったということだろう。
土手に座って、バナナとチョコを食べながら、そんな話をした。
空腹が満たされたわけではないが、何とか、午後の道のりを歩くエネルギー補充は出来たような気がした。

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7日目④藤ヶ崎龍神社 [琵琶湖てくてく物語]

さざなみ街道を守山を目指して進む。
歩道が整備されているので歩きやすい。時折、ビワイチの自転車とすれ違う。白鳥川を越えたところに緑地があったので、中に入る。歩道のアスファルトと違って、土の道は膝に優しい。水茎干拓地という場所らしい。
ここから、さざなみ街道は「頭山」の小さな峠を越える。ここには、室町時代に佐々木氏が築城した「水茎岡山城」(砦)があったようだ。岡山は周囲が湖であったため、防御には強い城(砦)に違いない。今はまったく遺構もないそうだ。
峠道に入る前に、Mapを見ると、湖岸沿いに道がある。通り抜けられるか心配だったが、先端に「藤ヶ崎龍神社」というパワースポットがあるというのを見つけたので行くことにして、脇道に逸れた。
山際の細い道を進むと、突然、「藤ヶ崎龍神社」が現れた。
琵琶湖に突き出すような恰好で大きな岩があり、そこに祠と鳥居があった。外宮らしい。二拝二拍手一拝で道中の安全を祈願した。振り返ると内宮がある。大きな岩の割れ目深く空洞があり、中にご神体らしきものがあるようだった。
というのも、内宮に入ろうとしたら、中から怪しげな声が聞こえて来たので、足を踏み入れるのを躊躇った。若い女性が二人いて、一人の女性が特異な服装をして何かを唱えていて、横にいる女性も熱心に手を合わせているのだ。
どういうものかは全く理解できなかったが、二人が占拠しているところに足を踏み入れるのはさすがに申しわけなく、すぐに退散した。
外の看板に、水茎の岡として、万葉集に40首余り読まれている景勝地だと書かれていた。
パワースポットという言葉はいつから広まったのだろう。
私が若い頃、余り耳にしない言葉だったような気がする。1990年バブル前後から、聞き始めたような言葉だと思う。
「神霊鮮かな場所」として、伊勢神宮、熊野大社、鞍馬山、高千穂、富士山等々、日本人は、自然のエネルギーを知り、信仰と結びつけ、そうした場所に社や祠を建ててきた。そういう場所が「パワースポット」と称されるようになったのだが、今や、そういう概念から逸脱したような「パワースポット」が観光資源として生まれ始めていて、ちょっと、勘弁してくださいという様なものもある気がする。
新しいものを否定するつもりは全くないが、そこに強い力を感じる感性があるとは思えない人達がふざけて写真を撮ったり、むやみに傷つけたりする行為をニュースなどで見るとがっかりする。観光雑誌などでも時々節操のない記事を見ることがあり、「え?それってなんでパワースポットなの?」と言いたくなるものもある。
先ほど、藤ヶ崎龍神社の内宮で、何かお祈りの様な儀式をしていた女性二人はどうなのだろうか。そこに霊験あらたかな力を感じての所業であれば良いのだが・・そういう場所を悪利用して、怪しげな宗教を始め、詐欺まがいの事をやろうとする輩もいるのでご注意を。
そんな心配をしながら、藤ヶ崎龍神社を後にする。その先には小さな砂浜と売店のような建物があった。勿論季節外れで閉まっていた。
そこを通り抜けると、ふたたび、さざなみ街道へ入ることになる。
この先は、日野川の河口部に当たり、日野川の水流で運ばれた土砂が堆積してできた地形だと判る。古地図を見ると、日野川は「仁保川」と書かれていた。隣り合うように流れている「家棟川」が古地図には載っていないから、恐らく、「仁保川」は昭和の干拓事業の中で流れが変わって、日野川と家棟川とに分かれたのではないかと推察される。それにしても、昭和の大干拓事業は凄いものだったようだ。琵琶湖の形が大きく変わったのだろう。


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7日目⑤いずれが菖蒲か杜若 [琵琶湖てくてく物語]

日野川を渡った辺りからは、松並木が続いている。白い砂浜も見える。佐波江浜というらしい。近くの集落も佐波江町とあった。古地図には載っていないので、まだ比較的新しい町だろう。古地図では、湖岸近くに、野田村・五條村・野村などが並んでいる。野田や野村は、今は、県道26号がある辺りなので、琵琶湖岸は随分内陸部にあったことが判る。
しばらく、松並木と田んぼの風景が続く。
私たちの後方から、私たちよりも年上の、いわゆる「お婆さん達」が3人が歩いていた。
女三人で姦しいとはよく言ったもので、何か大きな話し声が聞こえたので、振り向いてみて気づいた。軽装なので、恐らく散歩だろうと思っていたら、見る見るうちに近づき、私たちを追い抜いて行った。恐るべし老年パワー。日ごろから脚力を鍛えているに違いない。これなら介護保険サービスを当分使う事はないだろう。感心している場合じゃなかった。今度はお爺さんが同じように凄いスピードで近づき、あっという間に追い抜いて行った。
その方も軽装だったので、近くの方達だろう。佐波江の住民は、皆さん、きっと脚力自慢に違いない。還暦の私たちも、もっと脚力を鍛えなければと反省していたのだが、さらに驚いたことがあった。先ほど私たちを追い抜いて行った「かしまし娘」達が戻ってきたのだ。どこかまで歩いて戻って来た様子だが、何か用事を済ませて来たのではなく、とにかく、この佐波江浜の歩道を行き来してウォーキングをしているようだった。「琵琶湖一周するぞ!」なんて、浮かれた気分で歩く前に「日ごろからこうやって鍛錬すべきだよ」と言われているようで、ちょっと恥ずかしかった。
そんなちょっとブルーな気分で、家棟川を越えた。
おっと、あのブルーの看板は・・ローソンではないか!ちょっと気分が上がり、さきほどの「かしまし娘」のように足運びが早くなる。
さすがに、バナナとチョコでは満腹にはならなかった。そうか、「かしまし娘」達に追い抜かれたのは、きっと、空腹のせいだ!
ローソンは、道路の反対側。目の前まで来て、なかなか道路が渡れない。さざなみ道路は信号がほとんどない。国道8号線に比べて、走る距離は長くなるが、快適に走れるので、車の数は多い。そして、スピードが速い。これは、高島市の湖周道路でも同じ。ほとんどの車は時速70㎞~80㎞で走り抜ける。ここはさらに、道路がカーブしているので、見通しが悪く、ちょっと車が途切れたと思うとすぐに姿を見せる。渡るのは勇気が要る。それでも何とか、道路を渡り、ローソンに飛び込む。
体が冷えているので、絶対、「肉まん」を買おうと思い勇んで入ったのだが、「ただいま加温中」の看板が掛けてあった。うーむ、残念。結局、おにぎりとサンドイッチを買って、店を出た。風は弱くなり、天気も良いので、浜辺に出て食べることにした。とにかく、まずはこの空腹を満たしたい。先ほどと同様に、往来の激しい道路を渡り、浜へ出た。
砂浜に座り、おにぎりとサンドイッチを妻と分けて食べる。
ぼんやりと、この先の行程をMapで確認していて、ちょっと面白い事を発見した。
先ほどのローソンは、野洲菖蒲店だった。その南側には、近江鉄道バスあやめ営業所がある。さらに、その隣には「杜若(かきつばた)神社」があるのだ。
菖蒲とあやめと杜若。菖蒲とあやめは、いずれも同じ「ユリ目アヤメ科アヤメ属」の花ですし、漢字変換すると同じなので、まあ、許せるとして、杜若(かきつばた)は「キジカクシ目アヤメ科アヤメ属」とまったくちがう花だ。その3種が、隣り合う場所に名を連ねているというのはおそらく他にはないことだろう。
杜若神社の謂れを見ると、野洲川上流にある長澤神社のあやめ池から流れ着き広がった場所であったことで名がついたとされていた。だが、地名は菖蒲(あやめ)。名をつけた当時は、菖蒲も杜若も同じだったのか、それともわざとそういう名にしたのか・・ちょっとしたミステリーだ。

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7日目⑥名前とは妙なもの [琵琶湖てくてく物語]

腹を満たして元気になった。ゴールまではあと少しだ。
再び、さざなみ街道の歩道を進むと、前方には有名な(?)マイアミ浜がある。
「昭和25年(1950年)頃、戦後の復興に必死になって働いている人々に、安らぎと保養の場を提供できれば…世界的リゾート地であるアメリカフロリダ州マイアミビーチのように…
というのが命名の由来』(マイアミオートキャンプ場ブログより抜粋)だそうだ。オートキャンプ場とデイキャンプがあり、周辺にもレジャーを愉しむための店もある。琵琶湖のレジャーの基地だと言いたいところだが、実はまだ入ったことはない。理由は、その名前。ここが、「アヤメ浜オートキャンプ場」ならきっと利用した。
何だかいかにも「レジャーを楽しんでください」と言わんばかりの名前にはちょっと気後れしてしまう。戦後復興の最中、日本がどんどんアメリカ化していた時代を象徴するような場所にも思えて仕方がない。デイキャンプやオートキャンプは嫌いではない。むしろ、子供が小さかった頃はのめり込んでいた時期もあったくらいだ。だが、この地名には、どうしても、抵抗感がある。
横目で見ながら、マイアミ浜を通過する。すぐ隣に、「アイリスパーク」があった。
この名前には感動した。もちろん、ここにはアヤメ(花しょうぶ)が植えられているのだが、アイリスは、アヤメや花しょうぶ・杜若などの総称を指す言葉なので、ここの地名としてはぴったりだ。今度、花のある5月に訪れようと思う。マイアミ浜もせめて「アイリス浜」ならもう少し行きやすいのではと思うが・・如何に。
その先には、川のような内湖のような場所があった。Mapを見ると、川のように見えるが、上流部分は緑地公園になっていて、殆んど川ではない状態だ。
古地図をみると、野洲川が分流した一つだとわかる。古地図では、野洲川が堤村の下流で三つに分かれて描かれていた。その一つの名残に違いない。野洲川も氾濫しやすい川だったようで、「堤村」などという地名が残っているくらいだから、昔から治水に苦労した地域なのだと思う。
この先で、さざなみ街道が大きく左にカーブをして南へ向かう。
その先に、「鮎家の郷」があった。私たちが歩いた2020年12月には、まだ営業していた。滋賀県で生まれ育った人には、鮎という魚は身近なものなのかもしれないが、海育ちの私には、好んで食する対象とはならない。そのため、「鮎家の郷」には入ったことがなかった。ちょっと寄り道になるが、この機会に入ってみよう。鮎の立派なオブジェ、入口がなんだか少し寂しさを感じる。土産物が多数並んでいるのだが、どれも値引きされている。店員さんも何だか素っ気ない。これだけ土産物を安売りしているのだから、もうちょっと元気があっても良いのではと思いつつ、一回りして出てきた。(この後、閉店の話を聞いたので納得)
ここの跡地にできた「めんたいパーク」には正直驚いた。
「明太子」だけで、あれだけの事業になるというのが何よりも大きい。おそらく、ネーミングの力が大きいのではないだろうか。「めんたいパーク」・・何、それ?とつい突っ込みたくなってしまうので、行った事のある人は必ず説明する。これが宣伝になって、知らぬうちに人を寄せることに繋がっているはずだ。明太子は、嫌いではない。むしろ、好物と言っていい。だが、魚卵の一つに過ぎないわけで、それほど人を惹きつける魅力があるとも思えないのだが、大いに繁盛している。
愛知県にも何カ所か「めんたいパーク」ができていた。幾つか寄ってみたことはあるし、ついつい買ってきてしまった。悔しいけれど、また、買いに行こうと思わせてくれるところがある。歩いた時は、まだ、めんたいパークはなかったので、素通りすることになった。
小さな水路のような場所を渡る。吉川港の看板。
もうその先は、野洲川の大きな河口になっていて、そこを越えれば、守山市になる。

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7日目⑦フォトスポット [琵琶湖てくてく物語]

野洲川を越え、守山市へ入った。
橋を渡り切ったところに、看板がある。「ビワイチよりみち」と書かれている。隣に「しあわせの丘」の看板もあった。それ以外の案内が見つからず、意味も解らず通り過ぎた。跡で、ここがビワイチのフォトスポットになっている事を知った。
そこから少しのところに、「もりやまフルーツランド」がある。立ち入ったことはない。ナシ・ブドウ・カキ直売所の看板も出ている。今は冬で当然、閉鎖されているに違いない。
それにしても、こういう直売所って、結構、「良いお値段」で販売していると感じるのは私だけだろうか。
産地で「直売」なら、物流費や市場手数料がないのだから、その分お安くても良いのではと思うのだが、スーパーよりも高いと思うことがほとんどだ。
勿論、収穫したての新鮮さは、スーパーでの販売では手に入らないのだから、高価でも当然なのかもしれないが、何だか、割り切れない感じがある。
私は、昔、農産バイヤーをやっていた。
市場流通において手数料や梱包費、輸送量、市場手数料などの中間経費や直接経費が余りにも大きい事には、生産者とともに憤りを感じたことはあった。ただ、遠くの産地から如何に鮮度を保持して消費者に届けようかと生産者や流通業者が協力して作り上げたシステムを一概に問題だとも思わない。
例えば、「さくらんぼ」で考えてみたい。
山形が主産地であるのは皆さんもご存じのはず。
サクランボは、梅雨時期に収穫される果物だが、実は、かなりデリケート。雨に当たらないよう、巨大な雨よけハウス(ゆうに10mを越える高さ)を作り、生育する。
熟度を上げないと酸味が強くて食べられないので、収穫農家は、旬になると毎日収穫に追われる。それからできるだけ短時間のうちに、選別し、小さなパックに綺麗に並べる作業が待っている。綺麗に並べるのは、見栄えを良くするためではない。サクランボは衝撃に弱く、すぐに実割れを起こす。実割れを起こすと、あっという間にカビが発生する。だからきれいに並べることが求められる。
農家は、短い旬のために、収穫からパック詰めまで短時間で行うため、アルバイトも雇っている。包装資材にもこだわり、人件費もかかる。
さらに、それを消費地(都市)へ輸送するには、「冷蔵車」が必須だ。蒸れは大敵。カビに繋がる。強い振動も禁物なので、高級種は「エアサス仕様」のトラックを使う。輸送コストは、他の野菜とはケタ違いになる。
市場でも、冷蔵保管し、小売りまで届ける「冷蔵チェーン」が確立しているところでないと難しいということになる。
これだけの作業にかかる費用を産地・農家は負担することになる。当然、高価な産物になるわけなのだが、市場流通では自分たちで価格は決められない。あくまで、競りで価格は決まる。大量に出荷されれば安くなり、少量なら高騰する。市場手数料はパーセンテージ。より高い価格をつけてもらわないといけない。さらに、農家は見栄えや鮮度を追及することになり、コストアップにつながっていく。
産地の直売では、農家(生産者)自身が価格を決める事ができる。自分で作った産物は、やはり他より良いものだという自負があり、安くは出来ない心情は理解できる。だが、消費者自身が労力と経費を払って買いに来るわけだから、当然、その分少しはお安く手に入って良いのではないかとも思う。
もりやまフルーツランドの直売所が、どういう値段で産物を販売しているかは全く知らず、見当はずれな事を言っているかもしれない。

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7日目⑧モニュメント [琵琶湖てくてく物語]

守山フルーツランドの対面には、松林が続いている。
随分と枯れている松が目立つ。松枯れ病なのか。このままだと、この辺り一帯の松林は早晩消えることになるに違いない。・・と思っていたら、つい先日、再び通った時、すでに大半の松が切り倒されていた。
信号を過ぎると、左手に沼のようなところがあった。さらに、琵琶湖マリオットホテルを過ぎたところにも同じような沼。
地図で確認すると、かつて、野洲川の分流だった場所だと判る。かつて、野洲川は新庄大橋のたもと、笠原町の笠原さくら公園の辺りで分岐し、水俣町にある「びわこ地球市民の森」を流れ、今浜町でさらに二つに分かれて流れていたようだ。マリオットホテルが建つ場所は、その川の中州ということになる。
琵琶湖マリオットホテルの前、第2なぎさ公園に、「BIWAKO」モニュメントがある。私たちが歩いた時は、まだ、なかった。
今は、バイクやビワイチの方達のフォトスポットになっているらしい。先日、テレビで神戸港の様子を見た時、メリケンハーバーに、「BE KOBE」のモニュメントがあった。
全国に同じような「文字型モニュメント」はかなりあるらしい。確かに、そこに行ったという証拠にもなるし、造形の美しさもある。だが、ローマ字表記が多いのが気になる。
せっかくなら、日本語モニュメントを増やしてもらいたい。漢字やひらがなの造形は難しいのかもしれないが、そこを何とかモニュメントにできれば・・等と考えていたら、大阪・梅田には「梅田いす」とも呼ばれる漢字のオブジェがあるらしい。ネットで見ると、なかなか面白い。やはり、大阪らしいと思う。
いよいよゴールが近くなってきた。
第1なぎさ公園のところで、湖岸沿いの道へ入る。第1なぎさ公園は、夏にひまわりを見に来たことがある。なかなか良かった。
湖岸沿いの土手の上の道を歩く。湖岸に建つマンションを見上げつつ、回り込む形で湖岸を進むと、ピエリ守山が見えた。
ピエリ守山に到着。陽が傾いている。
広い駐車場を横切って、車の場所を探す。バスに乗る為に駐車したので、かなり外側の位置に車を停めていた。

さて、歩数は・・36,790歩、25㎞だった。確実に、20㎞以上歩けるようになった。

昼食騒ぎがあった割に、今回は元気だ。いや、昼食の時間が遅かった事で、まだ、空腹になっていないからかもしれない。
さて、次回は、この「ピエリ守山」が出発点になる。
「ねえ、琵琶湖大橋は歩いて渡れないの?」
助手席の妻が呟く。
「いや、歩いて渡れるはずだよ。ほら・・。」
と、琵琶湖大橋を車で渡っていたら、何人も橋を歩いている。
「じゃあ、次は、琵琶湖大橋を歩いて渡りましょう。」
妻は、あっさりと言った。
ということは、次は、堅田に車を停めて歩き始めるということになるが・・。確かに、その方が都合が良いかもしれないと考えつつ、家路を急いだ。

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8日目①琵琶湖大橋を渡る [琵琶湖てくてく物語]

8日目は12月28日に決めた。
仕事納めの翌日、この日なら、まだ、年始の準備をする時間があるはず。
まあ、年始と言っても、娘たちは帰省する予定はないので、夫婦二人の静かな正月になる予定で、さほど大変な事もないのだが、ただ、大掃除だけはやっておきたい。特に、キッチン回りの掃除は手を抜けない。ガスレンジや換気扇、壁、収納棚の汚れは落としてから、正月に備えるのが恒例なのだ。それで、28日と決めた。

今回は、堅田駅が出発点になる。ゴールは、瀬多川にかかる「瀬田の唐橋」の予定だ。
前回、琵琶湖大橋を歩いて渡るという話題になったため、帰りのことも考えて、駅周辺に車を停めたい。平和堂が最寄だったが、琵琶湖大橋に近い「コメリ」に駐車することにした。カード会員で随分買い物をしているので、大目に見ていただきたい。
そこから、まず、琵琶湖大橋を目指す。
コメリからすぐ、琵琶湖大橋の取り付け道路に繋がる信号へ出た。一旦道路を渡り、橋の北側の歩道を進むことにした。琵琶湖大橋の入り口には、「道の駅・琵琶湖 米プラザ」がある。初めて、琵琶湖に来た時にも寄った場所だった。琵琶湖大橋の景観を楽しむには格好の場所である。今回は立ち寄らない。
琵琶湖大橋は全長1400mある。
「ちょっと質問。琵琶湖大橋と関門大橋(関門海峡)はどちらが長いでしょう。」
妻に訊いてみた。
妻は関門海峡の実際を見た事はない。
「そりゃあ、関門海峡の方が広いに決まってるでしょ?なんたって、海だし、海峡っていうんだから。川とは違うでしょ。」
あっさりと答えた。だが、実は、関門海峡大橋は1,068m。かなり短い。
「嘘!絶対、関門海峡の方が長いに決まってる。」と妻は譲らない。
後日、実家に帰った時、下関まで足を延ばして観光がてら、関門海峡大橋を渡った。
海峡をまたぐ橋だけに、高いつり橋で、圧倒される。建造当時は、東洋一のつり橋と言われたものだった。琵琶湖大橋と比べて、確かに大きく見えた。
だが、対岸に目を遣ると、それは明らかだった。
対岸までは1000mもない。向こうを歩く人の姿が肉眼でもはっきりわかるくらいで、実は600mほどしかない。(「越すに越されぬ大井川」と詠まれた大井川の木造橋、蓬莱橋が約900mなので、それよりも狭い海峡幅となる。)
平家滅亡の舞台となった壇之浦は、海峡が最も狭まり、干満差によって複雑で早い潮流で遭難しやすい場所だ。普通でも、船から落ちればまず命の保障はないほどの場所。追い詰められた平家が安徳天皇を抱き入水したという話は少し出来過ぎているように思うが・・。
ここは、琵琶湖だ。
そんなうんちくを話しながら、琵琶湖大橋を渡る。
普段は車で走って、東行きで「琵琶湖周航の歌」のメロディーを聞くことが多い。歩くのは初めてだった。
歩道はかなり広い。半分ほどは上っていくことになり、橋のほぼ中央部にちょっと休憩できるベンチがあった。
欄干から下を覗くと、かなり高い。説明看板に26mあると書かれていた。マンションの9階くらいの高さになる。ここから落ちたら、まず命は助からないだろうと思うと、ちょっと足がすくんだ。
豊橋で住んでいたマンションは14階建てで、我が家は4階だった。下見の時、いくつかの階の部屋を見たが、ベランダに出て落ち着いていられる高さは4階までだった。それ以上だとベランダに出ることはできないと直感していたのを思い出した。

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8日目②南湖を南下 [琵琶湖てくてく物語]

橋の上は風が強い。遮るものが何もないのでどうしようもない。早々に渡り切りたい。
渡り終えると、料金所の横の歩道から外へ出られた。そして、ピエリ守山の駐車場へ。
さて、ここからが本当の出発になる。
琵琶湖大橋東詰の交差点にあるローソンでちゃんと昼食を確保したあと、道路を渡り、湖岸沿いを進む。ヤンマーマリーナを過ぎると、琵琶湖岸になる。先ほどわたって来た琵琶湖大橋の全景が見える。こうやって見ると、やはり、かなり長い橋だということが判る。
ここからはほぼ南に向いて歩くことになる。
真正面から日差しを浴びることになり、ちょっと暑さを感じるほど。師走、晦日前で本当ならかなり寒いはずだが、こうやって歩いていると寒さは余り感じなくなる。人間の体は不思議だ。
対岸が比較的近いので、歩きながら対岸の様子も見ていけるので、飽きずに行けそうだ。
暫くすると、SGホールディングスの陸上競技場があった。佐川急便の特徴あるブルーの色の看板が出ているのですぐに判った。
これはおそらくデマだと思うが、私が名古屋に通勤していた頃、名古屋在住の職場の同僚が「佐川は自己破産した人が多く働いているんだよ。」と少し蔑むような意味を込めて言ったことがあった。
「お前はどれほどの者なんだ」と思いつつ、「へえ」と無意味な相槌を打って聞き流した。
おそらくそういう噂は数多く世の中にあるだろう。
今はSNSでそういうデマカセがまことしやかに流れてくる時代だ。
自分の眼で見て確かめた事すら危ういことなのに、ちょっとした「つぶやき」を真に受けて行動することだけは避けたいものだ。
1970年代のオイルショックの時に、トイレットペーパーが無くなるという話が広がってスーパーに列ができた事があった。
あれは、大阪・千里ニュータウンの一角で起きた珍事を、テレビや新聞がこぞって報道したために、全国に波及してパニックになったのだ。何故、トイレットペーパー?と思うのだが、当時、千里ニュータウンには水洗トイレが完備していた。それまでの汲み取りトイレでは、「チリ紙」が使えたのだが、水洗トイレは「トイレットペーパー」でないと詰まって使えなくなるというのが理由。トイレットペーパーは命綱みたいなものだったのだ。
結局、オイルショックでトイレットペーパーが無くなることはなく、我先にと買い込んだ人々によって、メーカーや販売店が迷惑しただけだった。
あれ以来、「おひとり様〇〇個まで」という制限して販売する方法が定着した。
コロナ禍でも、品薄のマスクや殺菌剤などがこうした方法で販売されたのが記憶に新しい。そして、今、卵の不足で値上がりと同時に数制限が起きている。生鮮品はさすがに買い占めできないが、それでも、幾つかのお店をはしごして、買い求める消費者がいるようだ。
『足るを知る』ということを、昔、祖母が言っていた。
身の丈にあった範囲で、必要なものを手にすれば良いという事をよく言っていた。この歳になって、ようやく、それを実践できている自分が恥ずかしいが・・。
デマ話から脱線した。
歩みは進んでいる。
陸上競技場に隣接して、保養所、さらに美術館が並ぶ。社員の福利厚生にここまで力を入れている企業はそう多くないだろう。
右手に、守山漁港と金毘羅宮。ここらは、もともと内湖だったところを埋め立てて造成された場所のようで、コカ・コーラボトリングを越えたところに、綺麗に並んだ住宅地があった。地図を見ると、造成地の東側には古くからの街がある。町の中心に、光照寺(伊能忠敬が泊ったらしい)があるのがその証。北には蛭子神社もある。

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