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8日目③湖岸緑地の憂い [琵琶湖てくてく物語]

さらに進むと、レークサイドゴルフコース。
私はゴルフはやらないので全く興味がない。ただ、何度かこの前を通った時、駐車場がいつも満杯なのが気になっていた。今回もたくさん車が並んでいる。だが、通りから見えるコースには人影はない。妻とここを通る時は、「謎だね」というのが口癖になっている。
その先には「木浜北P」の看板。湖岸緑地に隣接した駐車場だ。ちょっと緑地公園に入ってみた。メタセコイヤの並木と芝生で綺麗に整備されていた。バーベキューもできる公園のようだ。大きな外来魚回収ボックスが置かれているところから、ここはバスフィッシングには良いところなのかもしれない。
そう言えば、2023年のゴールデンウィークには、湖岸の緑地公園の有料化実験があった。湖岸緑地のほとんどは無料で利用でき、バーベキューやキャンプも可能だし、トイレも完備している。
シーズンになると、他府県ナンバーの車を多く見かけるようになる。有料化の社会実験は、利用者によるゴミ投棄、直火の焚火とか花火などマナー悪化に対する利用制限と費用負担の在り方を検証するものらしい。NHKのニュースで何度か報道されていたので、その様子は滋賀県民の多くが見たはずだ。緑地の端に隠すように捨てられたバーベキューコンロとか、食器類、残った炭や、PETボトル等々・・有料化し予約制にする事で、利用者にも応分の負担をしてもらうことが必要ということなのだろうが、結局、隣接する無料のエリアが混みあった結果となっていたらしい。
我が家の前にある「萩の浜」も、バーベキューはもとより、キャンプやタープ類などの増設も禁止していて、それを示す大きな看板が立っている。しかし、夏になると、それを無視してデイキャンプに入り込んでいる人を見る。(浜の真正面に住むK氏は夏になると見張のように浜を眺め、こうした輩を発見すると警察へ通報するのでご注意を)そして、ゴミ類を放置したり、自治会のゴミステーション(同じくK氏が鍵をもって管理している)の周りに放り投げていく人もいる。マナーの悪い人は、どれだけ規制しても現れる。どうしたものかと溜息が出る。
今いる、木浜の湖岸緑地もおそらくそういう憂き目にあっているに違いない。
そんなことを考えていると気持ちが沈むので、すっかり忘れて、前へ進もう。
木浜緑地を過ぎると、暫く、田んぼと湖岸の風景が続く。
その先で、時々、モーター付きのパラグライダーを見かけることがあった。湖岸にその基地、MPG琵琶湖というのがあるようだ。そこを過ぎると、再び湖岸緑地が続く。
左手、東側の田んぼの向こうに、ちょっとした森の様なものが見える。
もりやま芦刈園だ。
ここは、毎年6月下旬になると足を運んでいる。芦刈園のアジサイを見るためだ。
何故か、アジサイ園は昔から好きで、愛知にいた時も、あちこちのアジサイ園に足を運んでいた。鎌倉のアジサイ寺にも行ったし、三河・形原のアジサイ寺は毎年のように訪れた。そう言えば、お寺とアジサイという組み合わせは、全国あちこちにあるように思う。
もりやま芦刈園は、規模はそれほど大きくないが、自然に近い地形と種類の多さが特徴だと思う。池を挟んで、白アジサイが山のように広がっているのも圧巻。通路沿いに、とにかく珍しいアジサイが並んでいて、咲く時期も少しずれて来るので、結構長く楽しめる。
こちらに来て、余呉湖畔のアジサイも見に行った。手入れはどうなっているのか、意図的にそうしているのか判らないが、とにかく大きく、背丈以上の高さのものもあった。迫力という点はかなりのものだが、なんだが、伸び放題のものもあって少し残念に感じた。
我が家の庭にも、アジサイが10本ほど植わっている。白、ピンク、ブルー等の色と、ボールのような形状のものや星が飛んでいるようなものなどだ。
梅雨時期が近づくと、アジサイが楽しみになる。

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8日目④烏丸半島 [琵琶湖てくてく物語]

芦刈園を横目に見ながら先へ進むと、いよいよ、草津市に入る。
前方に烏丸半島。「河原の洲の間」(かわらのすのま)で、烏丸なのだと聞いたことがある。京都の烏丸も同じらしい。
その手前にある「道の駅草津グリーンプラザからすま」に立ち寄る。
昼食の時間になっていた。夏は賑わうのだろうか?オフシーズン、年末ということもあって、客はまばら。自動販売機の脇にあるベンチで、朝、琵琶湖大橋東詰のローソンで買ったおにぎりなどを食べた。小休止の後、再出発。
行く手には、草津水生植物公園と滋賀県立琵琶湖博物館がある。
草津水生植物公園には三度ほど行った事がある。初めて訪れた時は、娘たちも一緒だった。入口で「ウーパールーパー」がお出迎え。上の娘が幼かった頃に、一躍人気者になった水生生物だ。これを見ると、なぜか、Jリーグの選手だった北沢を思い出す。おそらくこれもテレビの影響だと思うが・・上の娘は幼い記憶に重ねて、嬉しそうに見ていた。温室の中に入ると、亜熱帯・熱帯の植物が所狭しと植えられている。その先には、大きな花蓮の池。色とりどりの蓮の花が咲いていて美しい。パンフレットで見る「オオバス」は外の池にあった。ここまででも十分特徴的だが、春先になると、一足早いチューリップを楽しむことができる。夏あたりから球根を冷蔵し、一足早く目覚めさせて開花させたものだ。アイスチューリップと聞いた。ちょっと自然の摂理とはずれていて、どうかなと思うこともあるが、まあ、花の少ない時期に目を楽しませてくれるのはありがたい。
隣には、琵琶湖博物館。ここは、妻が、県政モニターをやっていることで毎年無料招待券をいただいているので、年に1回程度訪れる。初めて行った時は、まあ、こんなもんかという感じだったが、その後、大幅リニューアルが成されて、琵琶湖を巡る歴史的な展示が充実した事でぐっと魅力が増している。知らなかった琵琶湖を巡る人々の営みを知ることは、郷土愛をはぐくむには良い教材だと思う。県内の様々なところの展示が集められているので、意外に楽しめる。
今回のてくてく旅は、そういうところによる時間はないので、入口辺りで写真を撮ってすぐに出発した。
博物館の前の信号を過ぎて暫くすると、津田江閘門に着く。
ここは、草津市の水害防止に欠かせぬ場所。実は、琵琶湖の周囲、特に東側は、内湖の干拓でできた土地が多く、川や琵琶湖の水位より低い地域が広がっている。降雨量によって、排水しなければならない地域も多く、排水機能を持った水門は命を守る重要な役目だ。これまで回って来た道程にも、数えきれないほどあった。しかし、琵琶湖周辺の地域は、それ程、危険なところに住んでいる事を忘れてしまうほど穏やかなところである。
水門を過ぎると、琵琶湖側には大樹が並んで湖面が確認できないほどなのだが、反対側の「津田江内湖」が良く見える。ここは、バスフィッシングが盛んな場所らしい。
ここからしばらく、緑地公園が続く道を歩くことになる。
途中途中、緑地に入り込んで歩いてみる。木々が少なく、開けた緑地で足元も良く歩くには良い場所だった。今は冬なので木々の葉も少ないが、春から夏にかけて葉が茂ると、木陰で休むこともできるかもしれない。
さざなみ街道に戻ると、東側に池のような場所が見えた。
平湖という内湖だった。地図を見ると、その隣には、柳平湖がある。初めはもっと広い内湖だったのかもしれない。
先へ進む。ここから暫く、田んぼと湖の間をさざなみ街道が続いているエリアになる。
目の前に、ビニールハウスが並んでいた。
メロン栽培のハウスらしい。そう言えば、さざなみ街道と平行(?)するような形で、「メロン街道」という名の道路があった。何故、「メロン街道」なのか、その時は判らなかったが、ようやく合点がいった。

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8日目⑤急がば回れ [琵琶湖てくてく物語]

そこを過ぎると、目の前に異様な建物が見えた。
広大な土地の中に、円形の建物や傾斜屋根の競技場のような建物、綺麗に整備された庭や植え込みがある。「岡田茂吉研究所」の文字が門に掲げられていた。
岡田茂吉が如何なる人かはまったく知らなかったが、MOAと聞き理解した。
昔、自然農法を推進する団体に「MOA」という名前を聞いたことがあり、農業の手法というよりも、ある種信仰に近い考え方であったのを思い出した。
ネットで検索すると、ここの施設は、異様な宗教法人であることを強く訴えている記事があった。さらに、この宗教法人は、岡田茂吉とはほとんど絶縁状態になっているとも書かれていた。
私自身、そうした新興宗教のようなものには直接触れた事はないので、評論できる資格はないと思っている。ただ、自らを神、あるいは神の申し子と称して、人の弱みに付け込んで私利私欲に走り、大きな財を成しているようなところは、この社会から抹殺してもらいたいと思っている。
ここの「岡田茂吉研究所」がどういう団体かは知らないし、知ろうとも思わない。ただ、これだけの建物と敷地を持つということは、かなりの財力と維持するための費用が必要であり、そのためにどういう事業収入があるのかを想像すると、とても、まっとうなものとは言い難いと思う。この施設があることによって、暮らしを脅かされる人がいるなら、悪としか言いようがないと思うのだが・・。
私の祖母も一時、ある宗教団体の会員になったことがある。義祖父が病に倒れたのがきっかけだった。学びと修行を積むことで家から不幸を追い出せると言い出し、創始者の著作物を買い込み、毎週のように集会へ行き、挙句の果てに孫である私までも巻き込もうとした。見かねた両親が祖母と絶縁し、初めに、誘った知人を訴えたらしい。その後、祖母は改心し、あれだけのめり込んでいた団体を信者だと判ると徹底的に説得して脱会させていた。その団体は今でも存在し、政治の世界でも幅を利かせているのが不思議だ。政教分離をもっと明確にやるべきだと思う。
いや、むしろ、政治と宗教は持ちつ持たれつの関係なのかもしれない。そういう構図を信奉する政治家たちには早く退場してもらいたいものだ。
こういう話は気が滅入るのでこの辺りで止めておきたい。
そこを過ぎると、矢橋帰帆島に入る。
名前の由来は、白い帆を広げた船が琵琶湖に浮かび、矢橋港に近づき帆をたたむ。その情景「矢橋帰帆」が近江八景として名づけられたようだ。
もともとは、矢橋港があった場所を埋め立てて、人工島としたようだ。
「急がば回れ」の諺の語源ともなった場所。室町時代の連歌師・宗長の歌「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋(唐橋)」からきているとか。
それほどに、この矢橋、いや琵琶湖は、水上交通が盛んでありながら、冬の北西風(比叡山からの吹き下ろし、比良山の吹き下ろし等)が強くて、当時の帆船では、転覆の危険性が高かったということらしい。
夏場も、琵琶湖では、朝・夕には強い風が吹く。静かだと思っても、場所によっては高い波も立つ。厄介なのは、海と違って、波の方向がバラバラだということ。海は基本的に波が沖から海岸に向かって寄せる。ぐるりと岸が囲む湖の場合、どこから波が来るかは予測がつかない。
実際、カヌー遊びをしている小生も、家の前の「萩の浜」に波がなくても、少し南の大溝港前で強い横波をうけたり、白髭神社辺りでは比良山周辺の風が巻いて強い波を受けた事もある。普段は凪状態の湖も一度波が立ち始めるとなかなか収まらない。
おそらく、室町時代の帆船を操っていた人々も波を読むのには苦労したに違いないと思う。だからこそ、船が出るのを待っているより、瀬田の唐橋を回る方が確実に京へ向えたのだ。

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8日目⑥イオンモール [琵琶湖てくてく物語]

帰帆島を過ぎると、イオンモール草津だ。
豊橋に居た頃は、イオンモール浜松志都呂店にはよく行った。豊橋市内には、昔のジャスコから転身したイオンタウンもあり、普段はこちらに通った。結婚したばかりの頃は、ユニーとかジャスコとかイトーヨーカドーとか、いわゆる大型ショッピングセンターが主流だったが、次第に、郊外型の大型ショッピングモールへ転換した。
滋賀に来てからはめっきり減ってしまった。高島に住んでいると、やはり、ここまで足を延ばすのは大変だ。それでも、イオンカードは重宝している。
そう言えば、イオンカードなどのクレジットカードは、簡単に作れるものだという認識だったが、実は意外に問題もあることをこちらに来て、いや、仕事を辞めてから知った。年収がどれほどあるかが、まともなカード会社であれば重要なものらしい。支払能力で限度額も違ってくる。(そういうカード会社ばかりではなく、銀行口座不要などと宣伝しているところもあるが、私の周りでは、苦しんでいる人を予想以上に見ている)
政府が進めているデジタル化の中でも、生活場面でのキャッシュレスは予想以上の速さで進み始めている。スマホ決済とかカード決済が日常的になっているが、高齢者、特にごくわずかな年金収入に頼っている高齢者、障がい者にとって、それは、喜ばしい事なのかということが気になる。
他人事ではない。自分も仕事を辞めた直後、収入は一時ゼロになった。この時、銀行口座を開設し、クレジットカードも作ったが、銀行マンは少し怪訝な顔をしていた。やはり決まった収入があるかどうかを気にしていたのだ。幸い、貯蓄額が多かったこともあり、すんなりカードは作れた。だが、この先、年金頼りの暮らしになれば、恐らく、イオンカードなどのクレジットカードも使用制限されるのではと不安になる。
以前、愛知に居た頃の年収は、かなりの額だった。
その頃、カードを使った買い物だけでなく、日常的な買い物もあまり金額を考えた事はなかった。車を買う時もキャッシュでその場支払いという贅沢をしていた。住宅ローンは早々に完済していたので、借金はまったくなかった。だから、充分に貯金が出来ていた。
ただ、人間はそういう暮らしをすべきではないとも思う。やはり、身の丈に合った、慎ましい暮らしこそ、美徳なのだと、最近は思っている。(収入は現在以前の5分の一程度になったからというのが本当のところだが・・・)
先日、「見えないお金のトラブル」という研修会があった。クレジットカードだけではない。高額な物を購入する事でトラブルになるというのはひと時代前の話。むしろ、サブスクとか、リボ払いとか、実際の購入と支払が繋がらない形の消費が増えていて、気づかぬうちに支払い能力を超えるという実態が広がっているようだ。
そして、それはスマホが大きな役割を果たしているという。
知的障がいや精神障がいのある人は、こうした落とし穴に気づかず、どんどん深みにはまって、苦しんでいる。
支援者もそこまで立ち入ることができず、中には詐欺の様な手口で御金をだまし取られるケースもあり、実態を正確につかんだ頃には取り返しのつかない状態になっていることがある。
「今日はおけらだ!」なんて言葉はもはや死語になっているように思う。現金がなくても買い物は出来るし、後払いで分割できるからと地獄へ向かっているのに気付かない。
デジタル化、DXがみんなの幸せにつながることを祈りたい。広めようという人達が、弱者に目を向けて、誰もが安心して活用できる技術開発を進めてもらいたいと願う。
イオンモール草津から、おかしな方向へ話が飛躍した。
てくてくに戻ろう。

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8日目⑦コロナ禍で思ったこと [琵琶湖てくてく物語]

イオンモールを越えて、近江大橋の下をくぐって進む。
この先から、湖岸は「琵琶湖漕艇場」になる。1000m6レーンのコースで、安定した水域となっていて、近隣の大学・高校などのクラブが活動しているそうだ。
ボート競技がどういうものかは、妻から聞いた。
妻は高校時代にボート部に所属していて、コックスという役割だったそうだ。オールを漕ぐのではなく、舵を取り、声掛けする司令塔のような役割だと聞いた。彼女の高校は、狩野川で練習していたそうで、艇庫も河岸にあった。高校からはかなり距離があり、移動するだけでも大変な労力だ。破傷風の予防注射は欠かせず、かなり真剣にやっていたらしい。
何故、コックスになったのか聞いたことがある。メンバーの中で体が小さく声が大きかったというのが理由らしいが、彼女の体格を見る限り、ロールを漕ぐ姿は想像できないし、それだけの筋力があるとも思えない。おそらくメンバー全員の合意だったに違いない。
私はスポーツとは無縁だった。小学生の頃、心臓の異常が見つかり、医師から運動を制限されたのが一番の理由だ。体育の時間は見学が多かったので、先生は、教室で勉強することを勧めてくれた。体育の時間になると、自分の好きな勉強ができると内心喜んでいたのを覚えている。体育がある前日には、図書館に行き、辞書とか辞典類を借りて来る。特に、特定のジャンルがあったわけではなく、その時、面白そうだと思った分野の辞典を読んでいた。家でも父がなけなしの金をはたいて、百科事典を買ってくれたので、布団に入る時間には必ず、百科事典を1冊持ち込んでいた。おかげで、雑学の量は増えた。中学生になった頃には、学校で教わることは概ね知っていることばかりだった。だが、そうした知識は年齢を重ねるとどんどん消えていってしまう。成人することにはただの凡人だったのは言うまでもない。
琵琶湖漕艇場から、ちょっと恥ずかしい過去の話になってしまった。
もう少し進もう。
このあたりは、湖岸も、綺麗に整備され、町並みの一部になる。少し日が傾き始め、散歩している人の姿も寒そうだ。ここまで来ると、もはや琵琶湖ではなく、瀬田川と呼んだ方が良いらしい。地図で見ると、漕艇場がある辺りから「瀬田川」と名前が入っている。
左手に、通りに白い防御壁が続く場所があった。
地図上では「ロイヤルオークホテル」となっていた。コロナ禍で最初に閉鎖されたホテルだった。私たちが歩いていた頃は、コロナ禍の緊急事態宣言の最中だった。旅行業・飲食業などが大きな打撃を受け、倒産が相次いだ。職を失った人も大勢生まれた。政府が言う「経済を回さなければならない」という言葉は、あの頃、空しく響いた。
私も妻も、福祉の仕事に携わっている。特に、妻は、障がいの重い人と日常的に接する仕事で、感染すれば命に関わる人も多い。インフルエンザやノロでも呆気なく命を落とすこともあるほど弱い存在の人と接しているため、感染には誰よりも注意していた。
私も、相談業務を担っていたので、どうしても面談や訪問をせざるを得ない。感染源にならないよう細心の注意を払う日々だった。
経済の停滞で収入が途絶え、倒産していく会社も深刻な問題だが、そのために、無理に経済を回す方策を取れば命を落とすリスクの高い人が居ることも十分考慮してもらいたい。日々そう願って過ごしてきた。2023年5月、5類への移行によって、周囲は一気に箍が外れたような状態になった。高齢者や障がい者・持病を持つ人が再び危険にさらされることになる。一刻も早く、有効な治療薬が開発されることを祈る。(これを書いている時にはまだ開発されていない)
コロナについては書きたいことは山ほどあるが、「てくてく物語」の本筋には戻れなくなるので止めておく。


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8日目⑧ついに唐橋 [琵琶湖てくてく物語]

漕艇場を横目に進む。マクドナルドを過ぎた辺りで、大通りから湖岸へ入る脇道があった。その先は、湖岸公園になっていて、車の騒音から離れて歩けた。
東海道本線の下を抜けると、目の前には、瀬田川大橋。歩道もここまでかと思ったら、さらに瀬田川大橋の下を抜けて小さな橋を渡る。そこには、「唐橋公園」が広がっていた。公園を抜けると、瀬田漁港。瀬田と言えばシジミ。この漁港は、シジミ取りの船がならんでいるはず。滋賀県によると、セタシジミは琵琶湖固有種で、昭和40年ころまでは岸辺にもたくさんいて、子供が水遊びがてら、取って帰って晩御飯のおかずにしていたほどに生息していたらしいが、以降、急速に減少したらしい。
セタシジミだけでなく、アサリとかハゼとか、身近だった水産資源の枯渇という話は頻繁に聞く。何故だか、「昭和30年から40年をピークに」というフレーズも当たり前のようになっている。日本の高度経済成長、海岸の埋め立て・大規模工場・コンビナートといった海岸や湖岸の大きな環境変化によるものは明白だ。私が生まれたのは昭和36年(1961年)。小さな半農半漁の村だったが、前の浜では、アサリが売るほどに採れた。タコやイカ、小魚は子どもでも簡単に捕れるほどいた。だが、今は港の整備・護岸埋め立てなどでほとんど生き物がいない海になった。人間の経済活動が生態系を狂わせ、結果として食料危機を招いている。愚かとしか言いようがない。
再び湖岸沿いの歩道で、終に「瀬田の唐橋」に到達した。
何故「唐橋」か。何度もかけられる中で「唐様」の橋であったからというのが通説になっている。調べてみると、大津京遷都(667年)の時、架けられていたという記述があるようで、もしかしたら歴史上もっとも古い歴史を持つ橋ということになるのかもしれない。その後、幾度も戦乱の舞台となり、焼け落ちて架け替えられた記録もあるようで、一つ一つが時代を変える戦乱でもあったらしい。
「唐橋」になったのは、織田信長の時代らしく、その橋も明智光秀軍によって破壊され、豊臣秀吉によって再建されている。
今の位置に橋が出来たのは豊臣秀吉によるものらしい。
そんなエピソードを知れば、この橋は途轍もなく面白いと思える。知らなければ、ただ交通量の多い渋滞しがちな橋ということで終わってしまうだろう。
本日は、この瀬田の唐橋の中島をゴールとしよう。
さて本日の記録は・・38,595歩、26㎞だった。前回よりやや長い。琵琶湖大橋を渡ったことも距離が伸びた原因だろう。
帰りは、堅田駅まで向かうのだが、まずは、京阪石山坂本線の「唐橋前駅」で乗車。そこから「京阪大津京駅」まで行き、JR湖西線の「大津京駅」で「堅田」まで向かった。
この時、初めて、京阪に乗車した。
電車の事は詳しくないが、広軌道のようで、揺れも少なく快適な電車だった。軒先を掠めるように、民家の中を縫って走る場所もあった。隣接する住宅は窓を開ければ電車が走っている事になるのだが、どんな暮らしをしているのかと想像したくなる。京都や鎌倉で同じような場所に行った事があり、電車が暮らしに密着している風情が、レトロで何だか安らげた。
大津京駅で、JRに乗り換えたが、こちらは、高架化されたこともあり、琵琶湖を眺めながら乗れる点では愉快だった。日ごろ、殆んど自動車を使って外出しているため、電車に乗るのは、非日常体験で少し気持ちがふわふわする。
見知らぬ他人と同じ空間に居て、みな目的地が違い、喜怒哀楽もそれぞれだろう。そういう様々な人を乗せて走る電車という空間だけで、何か物語が生まれてくるような気がした。
唐橋から堅田まで、電車ではほんのわずかの時間だったが、意外に楽しかった。
堅田駅から橋の袂のコメリまで戻って、ようやく本日は終了した。
湖岸沿いの、緑地公園が連なる静かな空間を歩いてきたのとは随分違った体験だった。町並というのはやはりそこに人の営みがあり、人が居るからこそ様々な物語が生まれる。

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9日目①唐橋から堅田を目指す [琵琶湖てくてく物語]

先月、ついに唐橋に到着し、琵琶湖の最南端まで歩いた。琵琶湖東岸を制覇したというところで、ここからは琵琶湖西岸を北上することになる。残りの距離は少ないはずだが、まだ、半分ほどしか歩いていない感覚がある。
さて、今日は、2021年1月31日。
コロナ禍の真っただ中である。自宅を出るのが少し遅れて9時20分になった。
というのも、前日は妻の誕生日で、還暦を迎えた。
18歳の時に彼女と大学で出会い、42年になる。
24歳で結婚し、仕事を持ちながら二人の娘を育てあげた。いつも独楽鼠のように動き回り、いろいろと周囲に気を遣い、笑顔を絶やさず、健康に留意して、かなり自制した生き方をしてきた人だ。ずっと、同じペース、同じテンポを維持しようと頑張っていたように思う。今も同じだ。そして、それは母親譲りだ。大正生まれの彼女の母親も同じように自分は一番最後の残り物で良いというような生き方だったように思う。戦前生まれの私の母も同様だった。
今の時代、妻や母親たちのように、自分を犠牲にしてでも家族を守るというような生き方は評価されていないのかもしれないが、少なくとも、そういう生き方をしてきた人々が、命を繋いできたのは事実だ。
子育てを終え、こうして気ままに「琵琶湖てくてく一周」などという事ができているのも、彼女が若い頃から将来を見据えて、生きて来た結果だと思う。
そんなことを考えながら、昨夜はささやかな誕生祝いをし、少しばかり贅沢なケーキも買ってきて食べた。結婚当時の写真が書棚に飾ってあるが、多少、老けてはいるが、その時とほとんど変わらぬ容姿だ。私はと言えば、大きく様変わりしてしまったと思う。おそらく、高校時代の友人と会っても判ってもらえないくらい。およそ「自制」という言葉とは真逆に生きて来たのだから。

そんなこんなで、9時過ぎに家を出て、堅田へ向かう。
平和堂の駐車場に車を置き、JR湖西線で大津京駅まで行き、京阪大津京から唐橋前駅まで向かった。先回の逆コースだが、電車の時間が合わず、堅田から唐橋前まで40分もかかってしまった。
唐橋前駅で下車して、一旦、唐橋・中ノ島の出発点へ向かう。
天気は上々。歩き始めたのはちょうど11時だった。
国道422号(宇治川ライン)を北上する。
マンションが幾つも並んでいるのが見える。ココスの前の右手側に脇道があった。その先に瀬田川が見えたので入ってみる。
岸辺が整備された公園になっていた。桜の木が植えられていて、きっと春には綺麗な花が咲くだろう。瀬田川大橋(国道1号線)の下は通り抜けられるようになっていて、その先にまだ公園が続いている。
更に行くと、瀬田川新港に入ったので一旦大通りに出た。
東海道本線の下をくぐって、再び、湖岸に出た。前方に橋がある。瀬田川共同橋である。水道やガス、電話線などを通している。
少し前、和歌山市でこうした水道橋が壊れて、断水になった事が報道されていたが、住民にとっては命綱の様なものだ。こうしたインフラ整備には多大な維持費が必要だ。私が住む高島市は年々人口が減少していて、生活インフラの整備費用を捻出することが難しくなってきている。水道代が大幅に値上げされたり、市道は舗装修理が追いつかない。こうした生活インフラや防災インフラの整備に国はもっと予算を割くべきではないか。防衛費という名目の軍事費増額に熱心な政治家には、国会から退場してもらいたいと願うのは私だけではないはずだが。

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9日目②瀬田川から琵琶湖へ [琵琶湖てくてく物語]

瀬田川共同橋を通り過ぎ、暫くすると公園が終わり、再び本通りへでた。
小さな橋を越えたところに再び公園がある。どうやら、石山のなぎさ公園のようだ。再び、公園に入って進む。ここら辺りが、瀬田川と琵琶湖の境界線になる。公園の中に石碑があった。「粟津の晴嵐」と書かれていた。近江八景の一つ。松並木と琵琶湖の青、その先に見える比叡山や比良山の景観が素晴らしいところらしい。ここからは、なぎさ公園の中を歩くことにした。綺麗に整備されていて、安心して歩く事ができる。対岸が徐々に遠く見えるようになり、琵琶湖が徐々に広がっているのを実感する。
「前回は、あっち側だったのよね。」
妻がのんびりとした口調で判り切ったことを訊いた。そう言われて、対岸を見る。確かに歩いたのだが、こうやって見ると随分長い道のりを歩いたように見える。
歩くというのは今更ながらに凄い事だと感じた。一歩一歩はわずか60㎝程度なのだが、その一歩一歩を積み上げることで長い道のりになる。当たり前のことなのだが・・。
生きているとそんな当たり前のことを忘れてしまう。一足飛びにゴールへ到達したいと焦り、ジタバタし、結局、着実に取り組むことだと気付く。そういう慎ましい生き方が、今は少し軽んじられているのではないか。判らないことはすぐにWik・・で調べればわかるとか、Googleが教えてくれたとか、最近ではチャットGPTなるものまで生まれ、人よりも優れた文章やフェイク画像とか・・そのうち、アカデミー賞をAIが受賞することも遠くはなさそうな勢いだ。そういうものに頼って如何に合理的にスピーディにゴールへ辿り着くものが勝者とされる時代を哀しく思う。やはり、年老いたのか。
歩くというのはやはり人生を考える時間を持つには素晴らしい行為だと再確認した。
この「琵琶湖てくてく」も既に残り少なくなっている。一周する間に、少しは成長するのだろうか。
さて、道のりは依然として湖岸の「なぎさ公園」にある。快適に歩いていくのだが、少々、北西風が強くなってきた。ちょうど向かい風になるので、寒さが堪える。
公園はゆっくりと左カーブを描いていく。前方に、木立が見えてきた。
一旦、本道に戻って進むと、歩道から、なにやら大門が見えた。門だけで、それに続く塀もない。ちょっと寄り道して入ってみる。「膳所城跡」と分かった。門は、模造されたもので、ここに城があったことを示すために作られたようだ。
「膳所城」は、徳川家康が藤堂高虎に命じて造らせたもので、関ヶ原の戦のあと、すぐに取り掛かったそうだ。この地は、飛鳥時代から様々な戦いが繰り広げられ、この地を制する者は天下を制するとまで思われていたということだ。琵琶湖の浮き城の一つだったが、度重なる水害・浸食のため建て替えを余儀なくされた、ともあった。明治の廃城令により姿を消したのだが、それはやはりこの地が政治上重要だったことを物語っていると言えるだろう。
今ではそれほど重要視されていない様に思うが、当時とは、経済や交通・輸送等が大きく変わったためだろう。
それよりも「膳所」という地名の方が興味深い。
膳を整える場所と考えるのが筋だが、どうも、飛鳥大津京の時代に、朝廷の御厨(厨房)が置かれていたため、この辺りを「陪膳浜(おもののはま)」と呼んだことに由来するらしい。ざっと1300年、引き継がれてきた事を示す言葉だ。北陸や東海の産物を琵琶湖の水運で朝廷へ運ぶための重要な地だったに違いない。その頃の姿を見てみたいものだ。
「膳所城址」で少し休み、ふたたび歩き始める。まだ3kmほどしか歩いていない。
東岸を歩いていた頃は、足取りも早く、目的地に真っすぐ向かっていたように思うが、西岸は街中を歩くせいか、いろんなものに興味が湧いてしまって、なかなか進めない。
先を急がなければ・・この先、まだまだ、興味深いものが待っている。

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9日目③湖水渡り [琵琶湖てくてく物語]

膳所城址を離れ、近江大橋のたもとに来る。
こんなところに港がある。同じ形の小舟がずらりと並んでいて、多くの船に「小林」の文字が入っている。道路の反対側に「小林貸船釣具店」があるので、ここに並んでいるのが貸船と判った。
琵琶湖の釣り船となれば、当然、バス釣り。
滋賀に移住して、やはり、バス釣りにはチャレンジしてみた。海釣りは経験あるのだが、バス釣りは未経験。さらに、ルアーも未経験。一通り、ガイドブックを読み、それなりの道具を揃え、何度かチャレンジしてみたが、まだ、釣れた事はない。妻の方が腕が良いのか、釣りに行くと何らかの釣果がある。無欲の勝利なのかもしれない。バスは調理してもおいしいと聞いた。琵琶湖博物館で、バスの天丼をいただいたことがあるが、結構美味しかった。もし釣れたら、蒲焼きにでもしたいと思っているのだが、まだ姿を拝めない。
近江大橋の下を抜けて、向こう側に出ると、そこは琵琶湖なぎさ公園。膳所城址までもなぎさ公園というらしいが、たいていの場合、この公園を指している。
春になると、近江大橋のたもと近くにある「八重桜」が見事に咲くので、何かのついでに立ち寄ることが多い。今は冬。桜も葉を落として、何の気か判らないくらいの状態だった。
ここからは暫く公園の中を歩いた。
なぎさ公園市民プラザという名前の小さな広場。梅の木が植えられていた。花はまだ咲いていなかった。そこから、目の前に琵琶湖プリンスホテルが見える。
琵琶湖の写真には、結構映り込んでいる、半円柱の高い建物。そこから、体育館やスポーツセンター、マンションが建ち並んでいる。ウォーターフロントというべき場所だ。
そう言えば、先日、大津のマンションが話題になっていた。石山駅前の工場跡地に1000邸を越えるマンションが建つらしい。大津は、京都や大阪に比べて価格が抑えられているのが魅力だそうで、JRで京都までは15分程度。京都市内に住んでいるより、便利なのかもしれない。確実に京都への通勤圏だし、周囲の商業施設も充実している。びわ湖の景観も楽しめる。その上価格が安ければ、滋賀県民になるという人も少なくないだろう。今歩いている辺りも、同様だ。
滋賀県芸術劇場びわ湖ホール、滋賀県立琵琶湖文化館、老人福祉センター、滋賀県警本部など、滋賀県の主要な施設が集中している。広い滋賀県の最も南のはずれにこうした施設が集中しているのは、何とも不思議な感じがする。
琵琶湖文化館の建つ場所は、「明智左馬之助湖水渡りのところ」と記されている。
NHK大河ドラマで、その存在を初めて知った。明智光秀が本能寺の変のあと、山崎の戦いで、秀吉に敗れて命を落としたと知った、左馬之助は安土から坂本城へ戻るが、途中で豊臣方の堀秀政軍と遭遇し、やむなく、琵琶湖を馬で渡ったという逸話がある場所である。
今の場所を見る限り、どういうことかは判らない。
本能寺の変が起きた頃、この辺りには葦が茂り、木々も多かっただろう。ここから、明智光秀の居城、坂本城までは僅かの距離。陸路には、堀秀政の軍が坂本城へ向けて進軍していたに違いない、その中を突っ切るのは無理と判断し、浅瀬を一気に馬で駆け抜けたのではないかと推察する。
我が家の前の萩の浜は、砂が堆積していて、かなり沖まで行っても腰ほどもないほどの浅瀬が広がっているので、岸から見た時、異様な場所に人が立っているように見えるところがある。そういう場所が、「湖水渡り」の湖岸にもあったとしたら、岸から見ると、まるで湖面を飛ぶ様に馬が走り抜けたように見えたのではないだろうか。また、主君亡きあと、坂本城に居る一族を守る忠臣として、後世に美化された形で伝えられた可能性もある。いずれにしても、歴史物語というのは、真実から離れ、庶民が語るに値する様な話に変わっていくのは常の事だ。で、なければ、こんなふうに逸話として残ってはいまい。
先を急ぐ。

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9日目④琵琶湖疎水 [琵琶湖てくてく物語]

なぎさ公園の中を歩く。琵琶湖ホテル、ラウンドワンを横目に見ながら進む。
前方に、大きな船が停泊している。びわ湖ミシガンクルーズの船だ。
滋賀に転居して比較的早い頃、ミシガンクルーズの乗船券をいただいたので、バラの咲く時期が良いだろうと、5月の末に乗船した。ランチバイキングだったので、つい食べ過ぎてしまった。ミシガンは赤いパドル(外輪)が動力の日本では数少ない外輪船だ。この船、どこかで見た事があると思ったら、東京ディズニーランドのマークトウェイン号と似ている。勿論大きさが段違いにミシガンの方が大きいし、実際に、エンジンでパドルを動かし、航行しているのだから比べることは無意味かも知れない。しかし、雰囲気は同じ。非日常を体験するにはちょうど良い。乗船した日は、天気が良く、琵琶湖から比叡山や比良山が見え、快適だったのを覚えている。
大津マリーナを越えた辺りでちょうど昼になった。天気が良いので、どこか公園にでも行って昼食にしようと考え、最寄りのコンビニを探す。大通りに戻ると、ローソンがあった。おにぎり?サンドイッチ?いろいろ考えたが、体を温めた方が良いと思い、カップラーメンにした。こういう時、外れがないのはカップヌードル。昔、日清食品の方とお会いした時、カップヌードルは完全食品を目指していると聞いたことがある。真偽のほどは判らないが、1か月間カップラーメンだけで生活した人が、栄養不足になることもなく、健康を維持できたのだとも聞いたことがあった。勿論、食事は栄養価だけが大事なのではない。楽しみとか刺激とか、そういった人間臭いものがなければならない。ただ、もし、大災害などでとにかく命を繋ぐためであればカップヌードルは価値ある食品だろう。まあ、味も多様にあるし食べ方も工夫すれば、毎食カップヌードルでも大丈夫かもしれないが・・。
と考えているうちに3分たってしまうので、お湯を注いで、ローソンを出た。湖の畔が良さそうなので、浜大津4丁目の信号を渡って再び大津マリーナのある方へ向かった。だが、これといった場所が見つからず、ちょっと北側の高い建物前に小さな公園を見つけたのでそこで食べることにした。すでに3分を経過している。やや伸びている感じはするが、温かさが身に染みた。体が温まったところで再び歩き始める。
大通りに出て北へ行くと、すぐに橋があった。橋の上から西の方角を見ると、大きな煉瓦造りの水門がある。琵琶湖疎水の取水口だ。
明治18年、京都府知事北垣氏の発案により、5年の歳月をかけ、人力での工事で、全長2436mの第1トンネルが完成。20年後には第2トンネルも完成し、京都発展の礎になったものだそうだ。
維新からわずか18年。ちょんまげ姿の人達から散切り頭へ代わり、西洋化が急ピッチで進んだ時代。琵琶湖疎水だけでなく、あらゆるものが大きく変革した時代に生きた人々には強い憧れがある。それまでの価値観を壊し、未来へ向けた希望のみがエネルギーだったに違いない。
山口県生まれの私は、そういうものへの憧れが強い。今あるもの、目の前で当たり前とされている事の全てを疑い、新しい考え方や価値観を見つけることこそ、生きる意味だと、中学生だった私に教えて下さった先生が居られた。
その先生は社会科の教師だった。決して人格者でも道徳者でもなかったが、権力とか、体制とかそういうものを毛嫌いしていた。
テレビやラジオの報道も鵜呑みにするな。所詮、報道は事実を一面的に捉えているに過ぎない。自分の頭で考えろ。と事あるごとに話されていた。
明治維新でさえ、全てが素晴らしいことではない。政権を取るために、長州藩が何をしたのか、本当にそれが正しかったのかと疑ってみろと言われた。
還暦を迎えた今でも、その思考は強く残っていて、時々、いや、結構な頻度で、トラブルを生むことがあるように思う。
ただの「天邪鬼」ではないのかと言われたら、そうかもしれないが・・。

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9日目⑤イングリッシュガーデン [琵琶湖てくてく物語]

琵琶湖疎水取水口を過ぎるとしばらくは、大通りを歩くことになる。
びわこボートレース場を過ぎると、茶が崎。まるで、琵琶湖の湖岸に壁のように連なるマンション。周囲には、バローやイオンスタイル、MEGAドンキ等が建ち並んでいて、大津市内ではかなりの商業地域となっている。柳が崎に到達した。
この信号を右折すると、びわ湖大津館とイングリッシュガーデン、柳が崎湖畔公園となる。今回は、立ち寄らないが、ここも、バラの季節と冬のイルミネーションを楽しみに何度か訪れた。イングリッシュガーデンは憧れの一つだ。
初めて本格的なイングリッシュガーデンを見たのは、信州・蓼科旅行の帰りに立ち寄った「バラクライングリッシュガーデン」だった。1万㎡の敷地に、テーマごとの庭が続いていて、奥に行くにしたがって自然の林の中にいるようだった。
今、自宅の庭を少しずつ作っているのだが、庭づくりには思ったよりも費用が掛かる事が判った。バラを植えて、足元のカバープランツ、敷石、パーゴラ等、とにかく、形を整えるだけで大変だ。何より、体力勝負。
勿論、造園業者に頼んで一気に整備してもらう方法も考えたのだが、それは、完成した絵画を買うようなもので、やはり、絵画は自分で描きたいと思う性格なので、少しづつ取り掛かっている。完成することには命が尽きているなんてこともあるかもしれないと思いつつ、作る楽しみを堪能しているところだ。
自宅の庭は、イングリッシュガーデンとはいかない。何と言っても、畑が優先だからだ。移住する一つの目的は、土に触れて作物を作ってみたいという思いがあったから。マンション住まいでは、プランターが限界だった。小さくても、野菜を作れる場所が欲しかった。だから、ガーデンは一部で、見栄えの良いものではないかもしれないが、それでも、テラスから見て少しでも癒されるような空間にしたいと思っている。
イングリッシュガーデンの定義は、自然美をたたえる庭であり、風景を楽しめるよう工夫されたものだ。壁や通路にも工夫がされている。だが、造り込み過ぎず、植物もあるがままに見せる工夫が必要になる。かなり高度な技術が必要になる。
大津館のイングリッシュガーデンは、そういう意味ではやや物足りなさがあり、イングリッシュガーデン風のローズガーデンといったところだと思う。しかし、何と言っても、琵琶湖畔のロケーションは解放感もあるので、あれこれ難しいことは考えず、ぼんやり過ごすには良いところだ。
今回は横目で見ながら先を進む。
すぐに、ブランチ大津京に到着する。まだ、ここができて間もない頃に来たことがある。芝生が広がり、子ども連れでのんびりするスペースが充実している点は、周辺のショッピングモールとは違うが、私の様な年配者には今ひとつ魅力が判らない。
そのまま、大通りを歩く。本当は湖岸を歩きたいのだが、この辺りの湖岸はほとんど私有地になっていて、湖畔に立ち入れない。
自衛隊大津駐屯地を過ぎた辺りで、大通りが再び湖岸沿いになるがすぐに遠ざかる。
唐崎に入った。ウェルシアのあるところで、脇道に入る。
ここには「近江八景・唐崎の夜雨」で描かれた「唐崎の松」を守る唐崎神社があるらしい。というものも、まだ訪れたことはない。背景に近江富士が見える絶景だと聞いているので、また訪れたい。
唐崎神社の入り口に「白髭神社道標」があった。「白髭」の文字と「京」の文字が読める。大津市内には7カ所残っているそうで、天保年間に作られたと判った。
再び、大通りに戻る。

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9日目⑥日吉大社 [琵琶湖てくてく物語]

そこから少し行くと、縞々模様のちょっと変わった建物が見えた。
「ねえ、KKRって何?」
いつものように、妻が気になったことを不躾に訊く。
ローマ字3つというと、daigoを思い出すが、「はて、何だったか?」とすぐに答えが出て来ない。いろんなところで、KKRの文字は目にしていたはずなのだが・・。
「確か・・公務員と関係があったような・・。」
「公務員って英語でなんて言うんだっけ?」と妻。
「英語で公務員?・・何か、あまり感心しない単語だったような・・」
「感心しないって、どういうこと?悪い意味ってこと?」と妻。
初めの質問からどんどん変わっていく。これはいつもの事。そういう会話をもう40年以上繰り返してきた。そういう会話をしながら、初めの質問を考えている。
「KKは・・確か、国家公務員のKだね。つぎのKは・・共済かな?Rは・・・」
そう答えているうちに、妻はスマホでちゃっちゃと調べて、
「国家公務員共済連合会。国家公務員って、霞が関にいる人達が使う施設ってこと?」
いや、霞が関だけが国家公務員ではないが、まあ、そういう人達も使うだろうなと思いつつ、「そうかもね」とあいまいに答えてこの話を終えた。
その先で歩道が無くなり、公園の中に入る。
しばらく行くと、湖に突き出すように赤い鳥居が見えた。
日吉大社の「七本柳鳥居」だった。日吉大社の山王祭で、神輿を船に乗せる船渡御(ふなとぎょ)が行われると看板に書かれていた。ここを出た船は、唐崎神社の沖で、膳所・粟津浜から運ばれた供え物を受け取る「粟津の御供」が営まれるとあった。いずれも故事に則って営まれているとあった。
各地に残る「祭り」の多くは、古事を起源としていることが多い。もともと日本には八百万の神(あらゆるものに神が宿る)という考え方があり、それを敬うことで健康や安全・五穀豊穣を祈る文化が醸成されてきた。それが、神事や祭事となり受け継がれているのだ。神道や仏教などの宗教と結びつく以前から、存在しているのだが、時代においてそれが為政者によって歪められることもある。日本神話を拠り所とするものは、ある意味、飛鳥・大和・平城・平安の長き間、天皇が日本を治める存在とされた時、神として崇められ、神事や祭事に影響する。室町以降、武家が治める時代には、為政者自ら神となろうとしてきた。信長しかり、家康然り。現在、そうした時代背景や儀式の意味を正しく理解せず、ただ、伝承しようとしている向きも感じる。新興宗教の危うさとはまた違った危うさを持っているように思う。などと、不毛な考えはせず、ただ、大衆の一人として祭りを楽しめればいいのだが。
話は逸れるが、私の住む地域でも祭りがある。
日吉神社の祭りで、湖西地方随一の曳山祭だ。町内には5基の曳山があり、町を練り歩き、神社前に集合する姿は圧巻である。日吉神社は、嘉祥2年(1107年)創建の長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まる。後に長宝寺は廃絶、当神社は土豪高島氏の崇敬を受けて存続したが、高島氏が明智光秀らの軍により滅ぼされると荒廃した。江戸時代に入り、大溝藩主分部氏の保護を受け、社頭が整備された。(wikipediaから引用)神仏習合により生まれた神社であり、この地に住む神(地主神)を抑え込み服従させるのが目的なのだ。そして、それは、時の為政者によって作られた。曳山も、大溝藩主分部氏が伊勢から入封した際に持ち込まれたとも書かれていた。
私が納得いかないのは、この祭りを支えるため、地域の住民自治会と表裏一体で運営され、財政面でもかなり深く入り込んでいることだ。地域を治めるために祭りが使われるという構図は、江戸時代から連綿と続いてきたというわけだ。移住してすぐに、「祭りと自治会とは切り分けるべきでは?」と口にすると、多大なバッシングにあった。

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9日目⑦おごと温泉 [琵琶湖てくてく物語]

「七本柳鳥居」に隣接する形で、坂本城址公園がある。
明智光秀の居城として有名になった場所だ。残念ながら、城址公園は、坂本城の外に当たる。本来の城があったところにはどこかの会社の研修所のような建物(現在は使われていない?)が建っている。古地図を見ると、本丸・天守は湖の中にあり、いわゆる浮城であったようだ。琵琶湖周辺の主な城は全て、浮城といっても過言ではないだろう。それだけ、琵琶湖の水運を重用し、防御にも活用したということだ。坂本城はその典型かもしれない。
江戸初期の古地図では、既に坂本城の姿はなく、その場所は「山王神輿船着場」となっていて、石垣だけが残った状態で描かれていた。
9日目⑦おごと温泉しばらく行くと、淡いパステルグリーンに塗られた歩道橋が見えた。そこから脇道に入る。昔の街道なのだろうか、静かな住宅地で、古い日本家屋が並んでいる。大きな玄関、弁柄塗の2階建て、滋賀県特有の家屋が並ぶ。低い石垣も残っている。更に、脇道があり、湖岸が見えたので入ってみる。突き当りに公園があった。公園を抜けてさらに先へ向かう。細い水路沿いの道を行くと、行き止まりになった。琵琶湖の突き出すような形、鳥のくちばしのような地形だ。その両側に新築の家が並んでいる。窓を開ければ目の前は琵琶湖というロケーションは羨ましい。駐車場の車はいずれも高級車だったので、恐らく、富裕層に近い人たちが住んでいると見た。
突き当りになったので、折り返す。旧道はまだ続いている。静かな住宅街を歩いていく。時々、商家だったのではと思うような家屋や、立派な石垣と塀で囲まれた家、もしかたら宿屋だったんじゃと思うような大きな2階建ての建物などもあった。いきなり田んぼに出てしまう。町並が終わった。
その先に工場。カネカ滋賀工場だった。大きな「安全最優先」の看板が見える。この辺りは歩道があり歩きやすい。
小さな川を渡る。
道路の右手には大きな樹が並んでいる。その中は、「琵琶湖流域下水道・湖西浄化センター」だ。琵琶湖の水質保全には欠かせない施設である。
ここは、毎年5月には訪れている。浄化センターの敷地内にはバラ園があるからだ。春のバラが開花すると一定期間、無料開放されている。休日は混むのでたいていは平日に行く。大津館イングリッシュガーデンのバラも素敵だと思うが、ここのバラはそれ以上に圧巻だ。浄化処理の過程で生まれる汚泥を肥料化し、それを土に入れているためか、大輪の花を咲かせている。種類も豊富で、毎年少しずつ花も変わっているように思う。
ここを過ぎるといよいよ「雄琴」だ。
ある程度の年配の方には、ドキッとする地名だろう。戦後ベビーブーム世代、いわゆる団塊世代が寝る間も惜しんで働き、かつてない好景気の中で、この地は日本有数の歓楽街となっていた。今でいう「風俗」の走りである。
しかし、実は、雄琴温泉とは無縁だった。歓楽街ができたのは、雄琴温泉の南側、鹿苗(のうか)の一角であったし、おごと温泉の湯は引かれていない。おそらく、どこかの3流週刊誌が面白がって報道して「雄琴温泉=歓楽街・風俗」というイメージが広まったのだろう。
本当の雄琴温泉は、最澄によって開かれたと伝わる1200年の歴史を持つ由緒ある温泉だ。2000年以降は、雄琴温泉は「おごと温泉」とひらがな表記に変えイメージアップを図っている。
滋賀へ初めて家族で訪れた時、おごと温泉の「湯元館」に宿泊した。宿泊した後に知ったことだが、「湯元館」はおごと温泉で最も古い旅館で1929年(昭和4年)創業だった。あと数年で創業100年を迎える。屋上にある露天風呂からの眺めは最高だった。妻や娘たちは、温泉の質が良いと言って大満足だった。滋賀に移住したので、観光で宿泊する必要はないのだが、友人が訪ねてきた時などに使ってみようと考えている。

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9日目⑧湖族の郷 [琵琶湖てくてく物語]

おごと温泉を過ぎると、ゴールの堅田は目前である。
天神川橋を越えたところで、妻がいきなり「反町隆史ってこの辺りに住んでるんじゃない?」と言い出した。
以前、妻は、友人との会食で、堅田のイタリアンの店に入った時、彼を目撃していた。
「バス釣りで、確か別荘があるとは聞いた事はあるけど・・。」
以前にTV番組で見た事を思い出した。この辺りかどうかは定かではないが、ちょっと面白そうなので、寄り道することにした。
仰木口の信号で右折する。堅田高校の横を通り抜けて、真っすぐに湖岸を目指す。徐々に道が狭くなる。左手に「神田神社」があった。この地の氏神を祀る神社だそうだ。クランク上の道を進むと、ちょっと広くなった所に『湖族の郷資料館』があった。
湖族というのは、湖とともに生きて来た町衆の事らしい。資料館周辺に残る古い家屋は、一つ一つが大きく趣がある。賑わっていた町の様子を感じさせるものだった。ただ、貼りだされていた看板を見ると、この辺り一帯は、堅田藩の陣屋が置かれていた場所だったようで、単純に町衆が作った町とは言えないように思う。ただ、この町も中心部に大きな寺があった。ここには三つも並んでいて、堅田藩陣屋があった頃から地図にあるところをみると、江戸期には、寺と藩はかなり密接な関係にあったと言える。
『湖族の郷資料館』を過ぎてさらに直進すると、他県の人も一度は映像で見た事のある「浮御堂」がある。琵琶湖に突き出していて、近江八景にも描かれている。私たちが到着した時間にはすでに閉館していて、入れなかったが、外から眺める方が良いかもしれない。
少し戻り、北へ向かう道を進むと、「伊豆神社」があった。
由緒が気を見ると、創建は892年で三島明神(三島大社?)の分霊とあり、伊豆という名の意味が分かった。室町時代には、この神社を中心に自治組織があったとも書かれていた。江戸期に堅田藩が陣屋を置く前から栄えた地域だったのが判る。
おそらくその頃の名残が、この神社を取り巻く濠ではないかと推察する。まるで、城の防御のための堀とよく似ている。神域を示すためではなく、水害や外敵への備えのためではないかと思う。神への信仰が自治組織と繋がり、繁栄をもたらした中世ならではの町だったのだと気付く。
ちょっと古地図を見てみた。江戸期の地図にもこの神社は描かれていて、陣屋の脇に位置している。堅田藩は、この町の財力や水運支配等を手中にするために、ここに陣屋を置いたのではないかと推察する。武力で庶民を抑圧し略奪し支配する典型的な武家政治が垣間見えた様な気がした。神社の中には「幸運の霊石」があった。ハート形の石を撫でると幸せが訪れるとされていた。なんとなく胡散臭いが、こういうものがネット上で話題になり、観光資源になっていくのも現代風で面白い。
結局、当初の目的だった「反町隆史の家」探しは未達成のまま、古い街並みを抜けて、堅田内湖に出てしまった。
内湖に架かる橋を渡り、堅田駅までは真っ直ぐいけばゴール。5分で堅田駅に到着した。

本日の歩数、38,801歩、26㎞だった。結構な距離を歩いていた。ただ、唐橋からここまで、もっと時間をかけてゆっくり歩けばもっともっと面白いものが見つかったに違いない。また、別の機会に、大津の町をくまなく歩いてみたいと思う。
計画では、あと1日で全工程終了となるはず。こうやって、最終ゴールが近づいてみると、終わるのがもったいない感じがする。堅田から戻って、残りの距離を再確認してみた。あと1日で最終ゴールの自宅に戻れるはずだった。GoogleMapでルート検索すると、残りは27㎞。歩けない距離ではない。ただ、唐橋から堅田まで歩いた後、家に着いたのは夕方6時をゆうに回っていて、真っ暗になっていた。次回は2月の予定なので、寒さもひとしおだろう。ここは無理をせず、残りの半分に留めておくことにして、計画を変更した。

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10日目①堅田から出発 [琵琶湖てくてく物語]

2月13日、10日目のスタート。スタート地点は、堅田だが、例のごとく、まずは本日のゴール地点まで車で移動する。本日のゴール地点は、比良駅。駐車場に車を停めて、JR湖西線・比良駅から堅田駅へ向かう。
堅田駅に到着して、先回のゴールと決めた「堅田内湖」に向かおうとした時、妻が言った。
「ねえ、浮御堂をもう一度見たいわ。前回、夕方でよく判らなかったから。」
いやいや、ちゃんと見えたけど・・と心の中で思ったが口には出さない。
まあ、今回は歩く距離は短いので、多少の寄り道は問題ない。
「判った。じゃあ、まず、浮御堂へ行こう。」
そう答えると、堅田駅のロータリーから南へ出る。
平和堂の横を抜け、本堅田の信号から真っすぐ湖岸を目指して進み、古い町並の中を通り伊豆神社を横目に浮御堂へ到着。写真を何枚か撮って、いよいよスタートとした。
古い町並みのある狭い通りを歩いていく。
妻が何やらキョロキョロしている。
ああ、そうか。やっぱり、「反町隆史の別荘」が気になっているようだ。
前回、全くわからず、途中からは諦めてしまっていたから、そこが本当の理由なのかと思いつつ、口にはせずに歩く。
「気になってるんだ。」
と呟く様に訊いた。
「ええ、でもね、反町という表札じゃないらしいのよ・・本名の野口って出てるみたい。相当な豪邸だって。」
彼女は、事前にネットで調べたみたいだった。
そんなにミーハーだったかな?
「バス釣りのための別荘だろ?じゃあ、湖岸沿いにあるんじゃない?」
そう言って、スマホでMapを確認して、出来るだけ湖岸沿いの道を選んで歩いた。
それにしても、湖岸沿いの道には、旧家が多く並んでいる。
中には、白い塀に囲まれた御屋敷とか、大きな商家とか、ひと時代前には大いに栄えていたことがよく判る。
結局、それらしい家は発見できないまま、細い通りを歩いていく。
後で調べてみたら、「彼の別荘」は、もっと南、衣川緑地公園が見えるマリーナの隣にあることが判った。GoogleMapで丁寧に見ていくと、大きな屋根と独特のデザインの屋敷があり、大きな門の奥に広がる庭に何台もの車とバス釣り用のボートが置かれているのが判る。上空の写真で、彼の所有する大型のボート(黒のボディに赤いペイント)も湖岸に停泊しているのが見える。全く見当違いのところを探していたことになる。もっと丁寧に調べておかなくちゃ。それにしても、こんなに簡単に見つかるとは、ネット社会にプライバシーとか個人情報という言葉は無意味だと痛感する。
有名人じゃなくて幸せだったかな‥と負け惜しみ。

細い通りをしばらく行くと、小さな港が見えた。
Mapを見ると「出島の灯台」とあった。
明治時代に作られた琵琶湖最古の木造の灯台らしい。この辺りで座礁や難破事故が絶えなかった事から作られ、昭和36年第2室戸台風で倒壊寸前となったのを地元の保存運動で昭和48年に修復されたとあった。ここで写真をパチリ。北を向くと、琵琶湖大橋の雄姿が見える。ここらが琵琶湖で最も狭い場所であり、水深図をみるとかなり沖まで浅くなっているのが判る。水位の変化次第で座礁が起きやすいのは仕方ないところだったのだろう。

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10日目②樹木葬 [琵琶湖てくてく物語]

再び、港へ通じる道路に戻り、細い道を進む。かなり狭くなってきて車幅一杯ではないかともう程になった時、行き止まり、民家へ入ることになった。脇に人が通れる道があったので、さっと通り抜ける。ここで、Mapを確認。どうやら、一本西側の大きい道路に出た方が良さそうだった。
広い道路を少し行くと、「堅田ふれあいパーク」の看板があった。
ここは、樹木葬のある墓地が広がるところだ。
「琵琶湖てくてく」を始める前に、一度来たことがある。
私たち夫婦は、18歳で実家を出て、大学を卒業し、2年ほどで結婚した。当時はそれが当たり前だった。妻の実家は静岡、私は山口。それぞれ実家は兄弟姉妹が跡を継いでいるので、戻ることはない。ということは、自分たちで墓を用意しなければいけないということになる。若い頃はそんなこと考えた事もなかった。だが、還暦目前になれば、自分たちの最期を考えることも多くなった。いわゆる「終活」。
娘二人はそれぞれ独立していて近くには住んでいない。立派な墓を作っても、後を見てくれる事もないだろう。死んだ後も二人きりということになるわけで、それならば、立派な墓石など持たず、樹木葬が良いと妻が言い出した。
理に適っているので、私も同意して近隣の樹木葬を探すと、この「堅田ふれあいパーク」に辿り着いた次第だ。
悪くはない。だが、どこまで維持されるのかと不安になった。いやいや、死んでしまえばどうでもいい事じゃないかと、どこかで考えているのだが・・。
こんな暢気な事を言っていられるのは幸せの証かもしれない。実際、余命宣告を受けたら、そんなことは考えもしないだろう。生きていて幸せだからこそ、死後のことを考えられる。何だか皮肉な話だ。
昨年、納骨堂が閉鎖されるニュースを見た。経営破綻によりビルが競売にかけられ、経営者と連絡が取れなくなっているというものだった。同様の事態は全国で起きている。一方で、墓の維持管理ができず「改葬」して「墓じまい」も急増しているという。
私の実家も、昔は、「先祖代々の墓」が地所の中にあった。2基並んでいて、大きくて、かなり古いものだった。2基の周りにも小さな墓石が並んでいて、おそらく、我が一族が葬られていたようだった。以前にも書いたが、実家は、承久の乱の後、島流しにあった一族の末裔で、我が家はその一族の本家にあたる。古い墓石はほとんど彫られた文字も読めないほどになっていたので、相当古いものだと推察された。
子どものころは、この墓には一族の祖先が葬られているから、大事に守っていかなくてはならない、それが跡継ぎの仕事だと、祖母から何度も聞かされた。長男というのはそう言うものだと子どもながらに納得していた。
だが、親父は、あっさりと古い墓を改葬し、町の共同墓地に新しい墓を作った。理由は明らかだった。実家の地所は、借金ですでに所有権はなく、借地になっていたからだ。持ち主から強く撤去を求められたらしい。本家でありながら、曾祖父が事業に失敗して、ほとんどの土地を抵当に入れていたらしく、それを祖母は長く秘密にしていた。そんな事情もあり、親父は短期間のうちに墓じまいをした。墓に収められていた骨壺は一つにまとめられ、新しい墓に収められた。その数年後に父も他界し、墓に入った。そのすぐ後に亡くなった祖母は、別の墓(嫁いでいた先の墓)に入った。一昨年亡くなった母は、父が建てた墓に父とともに入っている。そんなことを経験すると、墓とは何か考えてしまう。いっそ、散骨もいいかも。ただし、琵琶湖は飲用水になっているので、海洋散骨のほうが迷惑が掛からないかも。
樹木葬の「堅田ふれあいパーク」からおかしな話になってしまった。

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10日目③真野浜 [琵琶湖てくてく物語]

堅田ふれあいパークの前を通り過ぎると、伊豆神田神社。伊豆神社と神田神社の合祀らしい。路地のような道を進んで、琵琶湖大橋のたもとに出て、下を抜けて、道の駅米プラザに到着した。小休止。道の駅米プラザの南のはずれ、駐車場の中に入ると、琵琶湖大橋を真下から眺めることができる。ここで写真を1枚。
米プラザ駐車場わきの道路を北へ進むと、少しばかり民家の間の狭い道があり、そこを抜けたところで、真野川に出た。
橋を渡ると、真野浜水泳場。真野川が作った砂州が続く。湖岸沿いを進むと、小さな港があった。住宅地を回り込むようにして、再び、大通り(高島大津線)へ出た。しばらくの間歩道を歩く。そろそろ、腹が減ってきた。コンビニ、すき家、ラーメン店、いろいろあるが、天気が良いので、バローで弁当を買って食べることにした。
バローを出て適当な場所を探す。
どこか、湖岸に出られるところはないか。大通り沿いの歩道を北へ。だが、湖岸に出る道が見つからない。結局、30分近く歩いてしまった。WESTマリーナ・オリーブの看板を過ぎたところで湖岸が見えたので、入ってみたら、「マルゴ水産」の敷地に入り込んでしまった。土曜日で、会社は休業のようだったので、失礼して、脇から湖岸に出させてもらう。(すいません、不法侵入ですね)
水路に降りて、適当な石に座って昼食をいただく。ちょっとした木々が生えていて、意外に気持ちいい。水路の向こう側は、おそらくオリーブの中にある、オープンデッキのようだ。冬場でお客さんはなさそうだった。15分ほど滞在して、再び歩き始める。
少しだけ大通りを歩くと、脇道に入った。
ちょっと変わった通りだと感じた。立ち並ぶ家が少し変わっている。いくつか新築もあるようだが、古い家もある。だが、それは、近江一帯でみられるような、弁柄塗の日本家屋ではなく、どちらかというと、築30年くらいの新建材で建てられたような家が、不規則に並んでいるのだ。長い塀が続くような御屋敷も混ざっている。家の向こう側は琵琶湖湖岸。別荘地として売り出されたのだろうか。ログハウスがあるのを見て、やはり、ここはかつて別荘地として売り出されたのだと推察できた。四つ角に出たので、右手の道で湖岸に向かう。保養所のような建物もある。大きな建物が見えてきた。・・いわゆる新興宗教の一つ、「〇〇の〇学」だった。人影はない。足早に通り過ぎる。そこから先には、湖畔のレジャー基地がいくつも並んでいて、湖岸には近づけない。
琵琶湖は国定公園だ。はじめ、琵琶湖国定公園は、琵琶湖全域だと思っていた。しかし、この場所のように、湖岸まで私有地化されているところが実に多い。琵琶湖が国定公園化されたのは1950年で、まだ、戦後復興の途中である。そんなころから、湖岸はすでに私有地化されていたのかと思っていたら、どうやら事情が違っていた。国定公園となっているのは、琵琶湖の一部地域であって、普通地域も多い。先回歩いてきた、大津あたりの湖岸でも、公園化され護岸工事などもされている場所があり、私有地になっている場所もある。(反町隆史の別荘も湖岸にボートが着くようになっている)国定公園というのは、国立公園に準じる景勝地として自然公園法に基づいて環境大臣は指定した公園らしく、その管理は都道府県にゆだねられているらしい。なんだか、割り切れないのは私だけだろうか。瀬戸内に生まれた私としては、海岸は誰の所有物でもなく、漁業権はあったが、立ち入りできる場所ばかりだったので、海や湖、川などはそういうものだと思っていた。だが、よく考えれば、「プライベートビーチ」と言って、ホテルが所有する海岸というのはどこにでもある。土地の所有というのは、なかなか奥が深い。
つまらないことを考えていたら、川に出た。和邇川だった。

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10日目④和邇 [琵琶湖てくてく物語]

和邇という地名、初めて見たときどう読むのか判らなかったので、すぐに調べてみた。
「わに」と読むらしい。「わに」って、あの爬虫類の?それとも、神話に出てくる「サメ類」の総称の「鰐」?いずれも、琵琶湖とは無関係な生き物だ。別の理由があるに違いない。それで、もう少し調べてみると、古代豪族の「和邇氏」と関係があると分かった。「和爾氏」は、大和盆地の北東部を勢力圏にした豪族だが、その一族がこの地を治めたことでこの名があるということだった。
琵琶湖西岸、特に、堅田以北の地は、今ではかなり寂しい状況にあるが、大和成立のころには、琵琶湖の水運により大いに発展していたようだ。それにしても、1000年以上にわたり、地名として残っていることは驚くべきことだと思う。
地名といえば、小学生の時、担任の先生が日本史について楽しく教えてくださり、友達と、近くの古墳や遺跡を巡ることが好きになった(今でも好きだが)。
そのころ、自分の家の地名にも興味がわいて、図書館で古地図を開いてみて驚いた。その地図には、我が家の地所に「城尾」という字名がついていた。どうにも気になって、小学生のくせに、郷土の古代史を研究されている方を訪ねて訊いてみた。
その方がおっしゃるには「城尾」というのは、紛れもなく城の外れを示していて、研究資料を見せてもらうと、地所の外れに井桁マークが付けられていた。これは何かと訊くと、「狼煙場」の跡だということだった。大和朝廷が成立したあと、西の玄関口である、九州・博多の防人から、大和へ外敵来襲などを知らせるための仕組みとして、瀬戸内の各所に狼煙場があったという。我が家の地所はその狼煙場の一つだったと知った。「城尾」という地名があったことから、狼煙場だけでなく、おそらく「砦」のようなものもあったに違いない。そう思うと、なんだかわくわくしたのを覚えている。子供のころに聞いた話なので、おそらく、大きな間違いかもしれない。だが、そういう話を聞くと、がぜん興味が湧き、自分で調べてみたくなる、好奇心に火が付くという経験になったし、それ以降、勉強するのが好きになった。
まあ、私の子供のころの話はどうでもいいのだが、こういう「難読地名」というのは、たいていの場合、故事や過去の記憶が刻まれている。そして、そこには何かしらの「わくわく」が見つかる。
和邇川を越えるために、いったん、上流側へ向かうが行き止まり。少し戻ると、細い道がある。道のうねり方を見ると、おそらく昔の街道ではないかと思う。今宿自治会の看板が目に入る。確か、古地図で「今宿村」の地名を見た。古地図では、かなり琵琶湖岸にあったはずだが、やはり、和邇川が運んだ土砂が堆積した地域だと思われる。
少し行くと、すぐに小さな橋があった。そこを渡ると、また、風景が変わった。少し回り道になるが、和邇川に沿って湖岸まで出た。広場のような場所。おそらく、夏場には駐車場になるはず。ところどころに白線の跡が残っていた。ちょっと戻って、路地のようなところを歩く。寂れた建物が並んでいるが、冬場で休業中になっているだけかもしれない。
和邇浜水泳場は、なんだかそれらしくない。ちょっと、マキノあたりに似ている。
ここからしばらく、旧街道のような道を進んでいく。時々、近江地域固有の弁柄塗の家屋がある。ただ、どういうわけか、高さ1mから1.3mくらいのところまで、格子模様のタイル張りの家が並んでいた。本来なら、焼き板か漆喰の壁になるところがタイル張りになっているのだ。
タイル張りは、昭和の住宅の特性だった。台所やお風呂などの水回りには、タイルが貼られて、白い目地で埋まっていた。私が子供のころ、我が家の台所も、竈を撤去して、プロパンガスのコンロと、細かい細工模様の流しを置き、土間をコンクリートで固めた。風呂も外にあった五右衛門風呂は、家の中に入り、タイル張りの浴槽になった。昭和40年代はタイル加工の全盛期だったと思う。この地域の家も、そのころ建てられたか、そのころの大工や左官が施工したと思う。なんだか、懐かしさを感じる通りだった。

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10日目⑤琵琶湖水害 [琵琶湖てくてく物語]

家の隙間から湖岸が見えた。通り沿いに進んで、右側の道を進むと、「木元神社」があった。道の反対側には浄土真宗本願寺派の「慶専寺」がある。
そこを抜けるとようやく、湖岸沿いの道になった。道路を挟んで、民家が左手、湖岸は右手。湖岸には、畑や庭、駐車場のように使われているところが続いている。
途中、茶色の看板が立っていた。「琵琶湖水害と石垣沿(堰)堤」の文字。明治に二度、2.9mと4.0mの浸水があったと記されていた。よく見ると、草むらに隠れるように「石垣」があった。琵琶湖の水位が上昇したことで大きな水害が発生したため、堰堤を作って防御したのだろう。それにしても、4.0mというのは異常だ。軽く1階は水に埋まり、2階に避難したとしてもかなり厳しい。しばらく、湖岸の道を歩く。よく見るとあちこちに石垣が残っている。看板に気づかなければ、それまでだった。
明治29年の琵琶湖水害をちょっと調べてみた。
9月3日から12日の10日間で1008mmの雨量(平均降水量の6割に達する)を記録、特に7日には597mm(彦根)を記録した。このため琵琶湖水位は+3.76mの過去最高水位を記録した。浸水日数は237日にも及んだ。とされていた。被害の多くは東岸に集中しているようだが、西岸でも大きな被害にあったようだ。その後、瀬田川の浚渫工事や洗堰の造営など、治水作業は大幅に前進したともあった。
昨今、「異常気象」とひとまとめにして、「ゲリラ豪雨」「線状降水帯」「○○年に一度の災害」という言葉が常套句のように使われている。だが、過去にも、最近のような豪雨災害は起きている。もともと、東岸エリアは、内湖を干拓し埋めたてしたところが多く、ほんの少しの水位上昇で大きな被害につながる。西岸でも同様の地域はあるはずだ。
私が住んでいる萩の浜・永田地区は、数年前に、鴨川堤防が決壊し、浸水した地域だ。災害記録も見た。我が家は少し盛り土されて周囲より高くなっていて、家の基礎も通常より高くしていて、2m程度の浸水なら被害はない。だが、明治29年の時のように4mという浸水が発生すれば、逃げ場がない。周囲には高台も高層ビルもない。
そう思うと、災害を予見しいかに早く避難するかが極めて重要になる。
琵琶湖には、流入する川は優に400を超えるが、流れ出る川は瀬田川のみ。周囲に降った雨はすべて琵琶湖に注がれ、瀬田川のみで排水することになる。さらに、野洲川・姉川・愛知川など、東岸の川は、奥深い山地から流れ出て、勾配差がほとんどない平地を流れ、周囲より高い「天井川」になっている個所も多い。東岸を歩いた時に見た、排水施設はまさに命綱といえる。
こう考えると、滋賀県はほぼ全域で、水害のリスクは高いことになり、他の都道府県に比較にならないほど治水対策が重要と言えよう。
さらに、琵琶湖西岸には断層帯もあり、大地震発生の危険性がある。過去には、断層地震で琵琶湖でも津波が発生した記録もあるようだ。
近頃は、全国的に地震が続いている。不安を掻き立てるような報道もある。
よく考えてみると、日本列島は、世界に類を見ないほど災害に見舞われる場所だ。そもそも、日本列島事態、プレート境界上の地殻変動が生んだものであり、温帯特有の四季がある。年間を通じて、災害要因が常にあると考えるべきではないか。
そこに住む人間として、災害に対して自らの命を守る手段を確保しておくべきだと思う。滋賀県固有の地域特性を知り、災害に備えること。私の住む高島市は、隣接地域とは161号線のみが陸路となっている。(朽木方面では京都へ通じる道路はある)地震や豪雨による土砂崩れなどで陸路は絶たれる危険性は高く、高島市丸ごと孤立化する。そのことを冗談交じりに話すことがある。仮にそうなったとき、どうすればよいか、道路の復旧はどれほどの時間が必要か。そんなk十を考えているとき、ふと、目の前の琵琶湖が目に入る。陸路が発達する前、琵琶湖は水運が盛んだった。仮に、陸路が立たれた時、水路・水運を活用する救援策というのは考えられないだろうか。

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10日目⑥滋賀と志賀 [琵琶湖てくてく物語]

「中浜」の信号で、再び、大通り(県道558号線)に合流した。
歩道をしばらく行くと、「和邇港」が見えたので入ってみた。そこから左手に、湖岸沿いの遊歩道のようなものがあったので進んでみる。公園の中を歩いているような、良い道だ。すぐに小さな橋があった。喜撰川にかかる、コンクリート製の歩行者専用の橋だった。その先にも同じような歩道が続いている。遠くに、沖島が見える。ここから見える琵琶湖はかなり大きい。対岸が霞んで見えるほどだ。ここで湖岸の道路は左に曲がる。前方に白い棒がたくさん立っているように見えた。ヨットの帆柱だった。金網の向こうにかなりの数のヨットが置かれている。大通りに出ると「志賀ヨットクラブ」の看板があった。
妻が必ず、この「志賀」の文字を見るという言葉がある。
「あれって、志賀高原の志賀よね。滋賀県の滋賀と、志賀ってどういう関係?そういえば、坂本も、土偏の坂とこざと偏の阪の二つあって、混在している。変なの?」
「いや、大阪も二つあるよね。」
「どっちでもいいってことじゃないわよね。はっきりしてもらいたいわ。」
うーむ、いったい誰がどうやってはっきりさせるのか、それほどの意味があることなのか、同意しかねるが、ややこしくなるので、あいまいに頷く。
だが、確かに、彼女の言う通り、どうして二つの「しが」があるのだろう?
気になって調べてみたら、答えは意外にシンプルだった。
日本の地名は、まだ、漢字が入ってきていない時代から存在していて、「音」だけが伝承されていた。「シガ(カ)」という地名がまず存在し、奈良時代に、その音に様々な漢字が当てられたようで、「滋賀」「志賀」「志我」とか、とにかく定まらないまま時代が過ぎ、江戸期には「滋賀郡」「志賀村」など混在していたようだ。明治になって県名を定める際に「滋賀県」となったらしい。詳しく書くとちょっとややこしくなるのでやめておく。
ただ、「滋賀県」が生まれるまでには、「大津県(南部地域)」「長浜県(北部地域)」が存在し、さらに、一時は「小浜」も「長浜県」に属していた時があったようだ。
某放送局で「県民ショー」というのが長寿番組が存在するが、時々、ローカルすぎて、同県民でも知らないことが上がるが、無理もないことである。必ずしも、現在の都道府県のくくりが、その地域文化とは遊離した極めて「政治的意図」で編成されたためといえる。
私は、18年間、山口県民だったが、長門と周防では大きく文化が異なるし、40年ほど愛知県民だったが、尾張と三河では方言すら違っていた。今は、滋賀県民となったが、東西南北、あまりに地域が違いすぎることに戸惑っている。言葉(方言)が特に違いが際立っているように思う。高島市でも北部(マキノ・今津)では、北陸特有の語尾を伸ばす言い方があるし、米原の知り合いと話すと、極めて「岐阜言葉」に近いものを感じる。信楽に行ったときには「伊勢言葉」に近いものを感じた。おそらく、大津あたりだと、京言葉に近いのではないかと思う。
かく言う私は、どこの言葉でもないと自負している。
山口から名古屋に出たとき、長州言葉(ちょる弁)が恥ずかしくて封印した結果、いわゆる標準語を使うことに努力した。NHKアナウンサー並みに努力したつもりだ。だから、尾張名古屋の言葉も、東三河の言葉も、「別の言葉」としてインプットされ、使い分けができるようになった。
だが、関西弁は難しい。
高島に来て、近畿(関西)のイントネーションを聞き始め、法則的なものをようやく発見できたところで、標準語と逆のイントネーションを使うことが、良いらしい。
この歳になって、長州弁や尾張名古屋、三河弁、そして滋賀弁を楽しみながら使えるようになった。

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10日目⑦湖畔の別荘地 [琵琶湖てくてく物語]

さて、ここからはしばらく大通り(県道558号線)を歩く。
右手には、ワニベース、BBQハウス、大阪成蹊大学びわこセミナーハウス、BSCなどなどと並んでいて、湖岸には入れそうもない。
湖西線が県道を跨ぐ場所、「南舩路」の信号で湖岸に出られそうな道があったので入ってみた。県道321号線らしい。少し狭いが、湖岸道路だった。湖岸に張り付くようにアスファルトの道路が続いていて、ちょっとよそ見をして運転しているとそのまま、琵琶湖にハマってしまうくらいの位置にある。その道路を挟むようにして、別荘が並んでいる。今は冬場で、水辺のレジャーどころではないので、ほぼ無人になっている。贅を凝らした建物もあれば、しばらく使っていないような建物もある。
それにしても、琵琶湖が近い。しばらく歩いていると、なんだか懐かしい感じがしていた。
「ねえ、ここ、初めて来た気がしないわ。」
妻も同じように感じていたようだ。だが、初めて歩く道には間違いない。
「ねえ、やっぱりここって、あそこみたい・・ほら、最初に移住先を探したころに回っていた・・ええっと・・。」
妻の言葉に、ようやく思い出した。
移住を決めて、物件を探し始めた時、まずは手近な浜名湖周辺を物色した。
浜名湖は、日本で3番目の大きさを誇る湖だ。ただ、淡水湖ではなく汽水湖。今からざっと500年ほど前、マグニチュード8.4(推定)の明応地震で、海と湖を隔てていた陸地が崩壊して今切口ができ、太平洋の海水が入り込んだ。その地震では8mの大津波が押し寄せ、浜名湖周辺で家屋が流出するなどの被害が出た。それから200年後の宝永大地震が発生した。そのときは静岡県(遠江・駿河)全域で大きな被害が出た。さらにその後150年ほどして安政大地震、その50年後に東南海地震。わずか500年の間に4回の大地震が起きた。ただ、そんな最近の地震ではなく、さらに古い地震があったことは明らかだ。浜名湖の東部の丘陵地には、大津波で削られた跡があちこちに見られるし、湖西市から渥美半島のかけての海岸線は、大津波でざっくりと削られた崖が続いている。東海道には、その痕跡が至る所にある。
そんな浜名湖周辺は、今では一大レジャーエリアになっている。ヨットハーバーやリゾートホテル、温泉街などが続く。年間通じて温暖な気候とあって、冬場でもリゾート客は多い。
そんなところに移住できればと思い、あちこち物件を探した。そのときに、回った場所が、この蓬莱地区に似ているのだ。
湖沿いの舗装道路を挟んで並ぶ別荘。家からほんの10歩足らずで湖のほとりに出られる。中には、船着き場が庭につながっているところもあった。管理された別荘地も多く、管理費だけでも高い。浜名湖では、とにかく、これはいいなと思うような物件はべらぼうに高額だった。とても、退職金程度では購入できるものではなく、早々にあきらめた。
そんな場所とここはよく似ている。おそらくここも、高島に比べれば、高額なのだろう。
「ああ、浜名湖のね・・。」
妻の問いに、ぼんやりと答えた。
「そうそう・・でも、あそこはこんなに人がいなくはなかったね。」
それはそうだ。物件を見たのは確か夏場だった。ここだって、夏に来れば、レジャーを楽しむ別荘族がいるはずだよ。と思いながら、「ああ」と軽くうなずく。
宝くじにでも当たれば、こういう物件を購入して住んでみたいと今でも時々思うことがある。まあ、宝くじも買わなければ当たらないのだが・・・。
そういえば、ここの駅名、蓬莱。なかなか意味深で面白い。神仙思想の中で、不老不死の仙人が住む場所を「蓬莱」と呼んでいる。駅名に蓬莱とあるが、地名ではない。西に聳える比良山系にある「蓬莱山」への登山口にあたるため、江若鉄道の当初は比良口駅とされていたのが、改名され、「蓬莱駅」となったらしい。それがそのままJRが使用しているわけだ。

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10日目⑧ びわ湖バレイ [琵琶湖てくてく物語]

ここからしばらくの間は、湖畔に立つ別荘地を歩くことになる。別荘も様々だが、現在も使われているものは、ほとんど、ボートハウスがついている。大きなボートがそのまま、道路を横切って湖畔に出られるようになっているところがほとんどだった。バスボートではない。ほとんどがスポーツボートかクルージングボートだ。安くても500万円以上、おそらくどれも1千万円以上ではないかと思う。年間どれだけ使うのだろう。メンテナンス費用など、相当な額になるに違いない。30年以上前のバブルの時、こうしたレジャーが拡大したが、今もなお、富裕層には魅力的なお金の使い方なのかもしれない。こういうところを歩いていると、なんだか、無性に腹立たしく思えて仕方ない。私は器の小さい人間です。
八屋戸浜を過ぎ、野離子川を超える。まだまだ、別荘地は続く。
ようやく別荘地を抜けると、木戸川に架かる橋に着いた。
この川の上流に、びわ湖バレイロープウェイ乗り場がある。
「ねえ、あれってびわ湖バレイよね。」
妻は、また、あの勘違い事件を蒸し返そうとしている。
「ああ、そうだよ。間違ったところだよ。」
この会話は何度目だろう。
「びわ湖バレイ」には、少し恥ずかしい思い出がある。
まだ、こちらへの移住を決めていなかったころ、何気なく、琵琶湖周辺の観光情報を見ていた時、「山頂・百合園」の記事が目に入った。山の頂上一面が色とりどりのユリで埋め尽くされていた。平地とは違う時期の開花とあって、直近の休みを使って行くことにした。まだ、琵琶湖の地理に疎いころだった。豊橋から東名・名神で大津まで来て、琵琶湖西岸を北上。湖西道路を走っていると、左手の山にロープウェイがあるのが目に入った。きっと、あれが、「山頂百合園」に違いない。何の疑いもなく、「志賀ランプ」で降りて、旧道から琵琶湖バレイ駐車場へ向かった。駐車場からバスでロープウェイ乗り場へ。そこでようやく違和感を感じた。「百合」の文字はどこにもない。だが、駐車場料金も払ったし、このまま、帰るのは口惜しい。
「まあ、山頂に登れば眺めはいいだろうし、それも観光だ。」
ロープウェイ乗り場に行き、チケットを買う。
片道2000円、往復3500円。二人で7000円。ちょっと高いかな・・・。
チケットを貰って、乗り場へ行くと、かなりの長蛇の列。確かに、下の駐車場も車がいっぱいだったし、乗り場送迎バスの中も多かった。だが、こんなに並んでいてはかなり待つのかなと思っていると、思ったより大型のゴンドラがやってきた。
121人乗り、5分で標高1100mまで連れて行ってくれる。これなら、7000円は安いのか。
長打になった客は一気にゴンドラへ乗って、あっという間に、山頂駅に到着した。なんでも、日本最速のロープウェイらしい。
山頂からは、琵琶湖が一望できる最高の眺めだった。ロープウェイの駅から、さらにリフトを乗り継いで行けば、1174mの蓬莱山まで行ける。今は、この駅に隣接して、琵琶湖テラスができ、さらに魅力的になっているのだが、私たちが訪れたときはまだできていなかった。それでも、眺望だけで十分に満足できた。
それにしても、やはり「百合」は咲いていなかった。だが、誰かに訊くのもちょっと恥ずかしい感じがして、そのまま、降りてきた。
そこから、さらに北上してようやく、目指すべき「山頂・百合園」は、高島市の箱館山だと判った。だが、もう夕暮れ近くになっていて、今回は諦めることにした。
という、思い出があった。
滋賀県には、びわ湖バレイロープウェイ・箱館山ゴンドラ・八幡山ロープウェイ・賤ケ岳リフト・伊吹山リフトなどがある。狭いエリアの中でこれだけあるのも珍しいのではないかと思う。

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10日目⑨比良駅ゴール [琵琶湖てくてく物語]

木戸川を超えると、緑地公園があり、ちょっとトイレを拝借した。田圃を抜けたあたりから少し様子が違う。ここまで大半が別荘だったがここから先は、古くからの集落になるようだ。街並みがずいぶん落ち着いている。弁柄塗の日本家屋、農作業のための小屋、軽トラックなどを見ながら進む。
初めて大きなT字路があった。左手(西)、湖西線の高架橋の向こうに、鳥居が見えた。その先に、樹下神社(じゅげじんじゃ)が見える。琵琶湖から神社までまっすぐに道が伸びている。樹下神社は、木戸庄の氏神様らしいが、この地にあった木戸城主佐野氏が勧進したと伝わっているが、それ以前に、比良山を神とする信仰があったようだ。その間に、仏教伝来・比叡山の興隆・信長による焼き討ち・明治政府による神仏分離など、大きな流れの中でこの神社も数奇な運命をたどり、時代に応じて名を変えながら、今日まで存続されてきたらしい。ただ、今回、そこをお詣りする時間的体力的余裕はなく、とりあえず、鳥居の方向に向いて「二礼二柏手一礼」させていただいた。
ここまで来て、突然思いついたことがあった。確か、琵琶湖東岸を歩いていた時は、寺領を中心に集落が形成されているところが多かったように思う。だが、西岸にはそういう集落は少ない。まあ、西岸といっても大半が大津市で都市開発が進んでいて、古い集落が少なかっただけだろうが、西岸はやはり、比叡山延暦寺の絶大なる勢力圏であったことや、古くは大津京が置かれたり、水運の町として発展してきた経過といった経緯があるのかもしれない。できれば一度じっくり調べてみたいものだ。
しばらく進むと、「志賀駅」に到着した。ゴールまではあと一駅分歩くだけとなった。
線路沿いの道は少し殺風景なので、もう一本湖に近い道を歩く。旧家が並ぶ通りを過ぎると、砂浜が見えた。「松の浦水泳場」だ。真冬のこの時期に人はいないのだが、だからこそ、白砂青松の美しい景色を楽しむことができた。やはり、こうしたところには別荘が並んでいる。
前方が少し上りになっている。上るとそこには、大谷川が流れていた。
この先は、湖西線高架下の道路を進んで、再び、湖岸沿いを進む。青柳浜水泳場・オートキャンプ場の横を通り、進んでいくと、アスファルト舗装がなくなり、狭い道になった。ちょっと不安を感じながら進むと、浜に出た。一般道なのか、敷地内なのかわからないところを歩く。レンガが敷き詰められたところもあり、おそらく私有地の中を歩いているのだろう。幸いオフシーズンで誰もいない。その先で、さらに驚いた。完全に湖畔に建っている建物がある。「〇〇寮」という名前なので、どこかの会社のものだろうが、建築許可は取れているのかちょっと怪しい感じがした。隣にも2軒ほど建っている。不思議だ。
墓地が見えた。南比良区の看板があるから、おそらく、集落の人の墓地だろう。道に沿って進むと「南比良船溜まり公園」があった。船溜まりということは、ここに小さな港があったはず。その横に、「本立寺」があり、昔は寺の前に船着き場・港があったことになる。よく見ると、周囲の家の周囲に、石垣が残っていて、公園の周囲をぐるりと取り囲んでいた。もう少し進むと、以前にマキノ町海津で見た「石垣」に似たものがあったので、おそらく、ここも湖の水害から土地を守る機能を持たせていたのだろうと推察された。
北比良水泳場を見ながら進むと。もうゴールの「比良駅」が見えた。
さて、本日はここまでとしよう。
今回は、32,563歩・22㎞だった。もともとの計画では、堅田から近江舞子まで20㎞歩くはずだったのだが、寄り道しながら歩いたせいか、ずいぶんと距離が延びていた。10回で終了するはずだったが、何度か予定変更もあり、あと1回を残すことになった。
こうやって歩いてみて、なんだか、昨年歩き始めたのがずいぶんと昔に感じる。歩くたびにいろんな発見があり、不思議に思うことも多かった。若いころにはできなかったことだと改めて感じている。

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11日目①比良から自宅へ [琵琶湖てくてく物語]

しくじった。いやあ、しくじった。
家の前の空き地の雑草があまりにひどい状態だったので、他人の土地にも拘らず、勝手に草刈りをやった。
長年放置されている空地で、長靴を履いて鎌を片手に入り、刈り始め、暫くして足に違和感を感じた。暫くするとジンジンという痛みに変わってきて、草刈りを中断して、長靴を見ると、靴底に板が貼りついている。
「えっ、これってどういうこと?」
左足を上げて靴底を見ると長靴の底を貫く釘の頭が見えた。
痛みの原因が判った。大きな釘が刺さった板を踏み抜いたのだ。
ゆっくりと板を持ちそっと引き抜く。釘の頭は真っ赤に染まっている。この場で長靴を脱ぐわけにもいかず、つま先立ちの状態でなんとか家に戻り、テラスに上がり、椅子に座ってゆっくりと長靴を脱ぐと、中からボタボタと鮮血が流れた。痛みよりも痺れに近い感覚。消毒して絆創膏を貼り、包帯を巻いて横になる。
徐々に痛みが増して来る。
余計なことをしなければよかった・・後悔、先に立たず。
動けなくなるほどの痛みが巡る。
来週は、琵琶湖てくてくの予定。だが、これでは満足に歩けない・・。
妻は今日は仕事だったので、恐らく、帰ってきてこの有様を見ると、怒り心頭になるのは間違いない。最悪!

という訳で、完歩は先送りになり、足のケガが完全に治った5月ゴールデンウィーク中になってしまった。
暑さ対策と日焼け対策を考えなくてはいけない。5月といっても天気が良ければ、熱中症にも注意が必要なので、大き目の水筒やペットボトル、タオルなどをもっていよいよ最後のスタートとした。
最後のゴールは自宅になるので、朝、自宅から近江高島駅まで歩いて向かう。近江高島駅から、比良駅へ。そこが本日のスタート地点である。
駅を降りて、まっすぐ北比良水泳場まで出る。湖に日差しが反射して眩い。いざ出発。すぐに神社の鳥居。湖に向かって建っている。振り返ると、山手に森がある。地図で確認すると、「比良天満宮」とあった。鳥居の近くには、「天満宮御旅所」があった。この「御旅所」、ここに来るまでにいくつか目にしていた。祭礼の際、神輿(神様)が休むところらしい。この「天満宮御旅所」は、お堂があるので、この地域の祭りはさぞかし盛大なのだろうと想像できた。
そして、その先には、北比良旧船溜まり公園。南比良と同じく、小さな港があったようだ。公園を目の前にした場所には食料品店(料理・仕出し・お食事)の看板のある建物。今はもうやっていないようだったが、いわゆる地域のよろずやだったのかもしれない。かつての、この町の賑わいを感じることができる。
集落の路地を歩く。
次第に方向感覚が鈍くなってきて、どっちに湖があるのかわからなくなった。まっすぐに自宅のほうへ向かっているのかも怪しいので、一度わかる場所に向かうことにした。山のあるほうへ向かえば、大きな通りに出られるはずだ。
それにしても、この集落はとても大きい。生垣や石垣が立派な家が並んでいて、できればゆっくりと回ってみたい。だが、今回はやめておくことにした。予想以上に気温が高く、体力的に不安があったので、早めに切り上げたほうが良いと考えたからだ。

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11日目②近江舞子 [琵琶湖てくてく物語]

すぐに少し広い道に出た。歩道があり、ビワイチ用の自転車通行帯の青い線があった。車の通りも少ない。しばらく行くと、右手に湖畔が見えた。少し距離がある。もう一本湖畔沿いの道がないか、GoogleMapで調べると、わき道から湖畔沿いの道があることが分かった。すぐに右手に入る。車一台分の道路があって、両サイドに別荘らしき建物が並んでいた。別荘の隙間から湖畔が見えた。そこからしばらくは、うっそうとした茂みのある道になった。目の前に小さな坂道があり、その先は川。
「比良川」だった。ほとんど水が流れていない。確か、この川の上流、ちょうど湖西道路があるあたりには、巨石がゴロゴロ並んでいたはず。標高1000mを超える山から、ほんの3㎞で琵琶湖へ注ぐ川であり、雪解け時にはかなりの流量になるに違いない。3月に歩いていたら、この川の流れを確認できたかもしれない。
橋を越えると、ようやく琵琶湖が見えた。相変わらず、この辺りにはボートプールが並んでいる。この先は、近江舞子だ。狭い道路の両脇に、ホテルや民宿が並んでいる。
この「近江舞子」という地名にはちょっと引っ掛かりがある。
というのも、愛知県、知多半島には「新舞子」という地名があるからだ。愛知にいたとき、なぜ、「新」なのかと疑問に思ったので、一度調べたところ、神戸の名勝「舞子の浜(白砂青松の風景)」になぞらえてつけられたらしいということが分かっていた。そこにきて、この「近江舞子」である。これはきっと、同じ由来だろうと思ったら案の定。
昭和のレジャーブームで一気に火が付いたというところだろうか。
ここにある民宿「白汀苑」も同じ由来に違いない。商売上手なのか、オリジナリティがないのか、評価はそれぞれだろうが、おそらく、現在では、神戸の舞子の浜はそれほど認知されているとは言えないので、ネームバリューは低下しているだろう。
ただ、名前は別にして、この浜は美しい。
北に向かって緩やかに湾曲し、白い砂浜と緑の松林が見事にマッチしている。そして、さらにそれにプラスして、内湖があるために、余計な街並みが目に入らず、1000mを超える比良山系を眺めることができる。これほどの景色は、琵琶湖を歩く中で初めて見たといっても過言ではない。
近江舞子の中を抜ける道は、舗装路ではなく、白い砂道で、それも新鮮だった。
浜を通り抜けたところに、「近江舞子中浜水泳場」の大きな看板のついた門があった。
真夏はずいぶん混雑するんだろう。駐車料金を見て驚いた。
シーズン中(7月から8月)は1500円。シーズンオフには1000円。時間制ではなく1回の料金らしい。意外に安い。管理者が南小松自治会というのも珍しい。これなら、きっとシーズンにはずいぶんと混むに違いない。
「水泳場」という呼び名には未だ馴染めないでいる。
私は生まれが瀬戸内で、生家の目の前は海だった。強風の時には、磯の海藻が飛ばされてくるほど近かった。
泳ぐのはもっぱら海。だから、夏になると、日中はほとんど海にいた。いわゆる「海水浴」というのではなく、とにかく遊び場が海岸だったのだ。
「貝掘り」をしたり(潮干狩りなんて生易しいものではない。夕食の材料を確保したり、売るために掘るのだ)、海藻採り、蛸採り、魚採り、みな遊びではなく、生きるために近かった。泳ぎ方は、幼児のころに勝手に覚えていた。学校の水泳の授業が、なんとも生ぬるく思えた。水泳というのはスポーツであると勝手に思い込んでいるので、「水泳場」と聞くと、どうも、競技会がある場所のイメージに繋がってしまう。
「海水浴場」という言葉があるのだから、「湖水浴場」でよいのではないかと思う。ちょっと、語呂が悪いかな?

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11日目③琵琶湖周航の歌 [琵琶湖てくてく物語]

まあ、そんなことはどうでもいい。そろそろ、近江舞子を抜け、再び、湖西線が見えてきた。そういえば、湖西線はよく止まる。強風の時は高い頻度で止まる。それも、この近江舞子から近江塩津の間で止まる。はじめはどうしてなのか判らなかったが、ここの地形を見て理解した。ほんの数キロ先に1000m級の比良山系が連なり、冬になれば北西風が山を越えて吹き降ろす。高架になった線路はかなりもろいに違いない。
そんなことを考えながら、高架の下を潜ろうとしたが、すぐ手前に赤く色づけられた「歩行者・自転車専用道路」を発見した。この道はGoogleMapにも出ていなかった。
細い道だが、湖畔沿いに進めそうだったので、入ってみた。
少し行くと、「北浜水泳場」の看板と矢印があったので、入ってみた。松林を抜けた先がぱっと開けると、湖畔に出た。これは、なかなかの演出。ホテル琵琶レイクオーツカという建物。きっと客室の窓からは琵琶湖が一望できるに違いない。
小さな碑があった。「琵琶湖周航の歌」の歌碑だった。彫られていたのは2番の歌詞。
「松は緑に砂白き 雄松が里の乙女子は 赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや」
この辺りが、雄松が里というところらしい。
「琵琶湖周航の歌」。琵琶湖大橋を大津から守山へ向かって走ると、真ん中あたりから、メロディーが聞こえてくる。時速60㎞で走るとうまく聞こえるのが、「琵琶湖周航の歌」だ。
琵琶湖周航の歌は、旧制第三高校(現・京都大)のボート部が、琵琶湖を1周する漕艇のさなかに、高島市今津に寄港したときに詩が披露され、その後メロディが付けられ親しまれてきたものだ。こちらは大正時代にうまれたものだ。
調べてみると、これまで様々な人がレコーディングしていた。もっとも有名なのは、加藤登紀子が歌ったものだろう。(個人的には加藤登紀子の声が嫌いなので聞いたことはない)滋賀県民は誰もが歌えると聞いたが、実際には高齢者に限るようだ。若い人はほとんど知らないようだ(自分の周りで訊いた範囲)
高島の我が家の近く、萩の浜の入り口辺りにも、似たような碑がある。
こちらは、昭和16年、旧制第四高校(現・金沢大学)のボート部の遭難事故の追悼碑。「琵琶湖哀歌」が知られている。
萩の浜沖で突風に煽られて転覆するという事故。4月に発生していることから、気候条件をあまり知らなかったのではなかった。前にも書いたが、この地へきて、カヌーを始めたころ、琵琶湖は意外に恐ろしいことを知った。特に、岸辺近くでは、風と波が、浜ごとで違う。目の前の浜が凪いでいたとしても、一つ河口を超えると、風が強くなって波も高いということがある。特に、萩の浜から白髭神社、北小松へ向かうと、時折、比良山から吹き降ろす突風を体験する。
湖西線もこの辺りが強風で止まることが多い。そういう琵琶湖特有の気候条件を知らなければならない。昨年も、プレジャーボートが転覆するという事故があった。
琵琶湖を侮ってはいけない。
ところで、「琵琶湖哀歌」と「琵琶湖周航の歌」は、7割がた、メロディが似ていると言われる。聞き比べてみてもやはりそう思うし、琵琶湖哀歌を歌おうとすると、周航の歌になってしまうこともある。だから、旧制第四高校遭難事故を悼み、「琵琶湖周航の歌」が作られたと思っている人が少なくないにちがいない。かく言う私も、一時期、混同していた。
琵琶湖を素材にすると同じようなメロディになるというのはあり得ないことなので、おそらく、琵琶湖哀歌を作詞・作曲した方々が、琵琶湖周航の歌を意図的に使って作られたと考えるのが妥当だと思う。
旧制三高と旧制四高。なかなか興味深い。

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11日目④ソーラー発電所 [琵琶湖てくてく物語]

話を「てくてく」に戻す。
ぐるりと回りこんで再び、湖西線沿いの道に出た。赤く塗られた歩道を歩く。湖畔側には、現代的なデザインの家が並んでいた。見事に別荘だとわかる。
次第に湖西線が離れていき、別荘地を抜けたところで、視界が広がり、大型の太陽光発電所が目に入ってきた。
ここもか・・という思いで見た。ここから先、高島市にかけて、あちこちにこれくらいの規模のソーラー発電所がある。その多くは、耕作放棄地だ。
環境問題の解決策として、再生可能エネルギーが推奨され、全国各地で、耕作放棄地が太陽光発電所に代わっていった。最近では、絵系不振になり倒産した「ゴルフ場」なども使用されているようだ。
「食料より電力」。こういう時代が来るとは思いもしなかった。
もちろん、石油は有限資源であり、輸入に頼らざるを得ないのはわかっていた。
私が幼いころから、そういう問題を扱ったテレビ番組や映画は数多くあったので、環境問題や資源問題には関心があるほうだろう。
特に、太陽光発電(ソーラー発電)は、1973年オイルショックを機にかなり関心を集め、21世紀にはエネルギーの主力になるだろうとも考えていた。私が想像していたのは、各家庭が自前のソーラー発電でエネルギー自給が進み、大企業なども、自社で発電するようになり、自動車はすべて電気自動車に置き換わるだろうと思っていた。
だが、そう簡単ではなかった。
国は、原子力発電推進に舵を切った。安全性の不安から起きる住民の反対運動を税金を使った補助金で解決し、全国に広げていった。それも大半は過疎にあえぐ地域が対象になった。だが、原子力は人類のコントロールできないレベルのエネルギーである。それをわかっていながら無責任に広げていった。
その結果、あの東日本大震災では、取り返しのつかない甚大な被害を生み出した。しかし、喉元過ぎれば・・という言葉通り、今、再び、稼働し始めている。
CO2を大量に排出する、石油・石炭資源を基にした火力発電の問題は解決できない問題であり、再生可能エネルギーの開発は、全世界で極めて重要な問題であると同時に、石油エネルギーに置き換えられるほどには進んでいない。
この先の未来、何があるのか。
太陽光発電も万能ではない。天候に大きく左右されるため、安定した電力の確保が課題であると同時に、近年では、老朽化し発電能力が低下し、廃棄されるときの環境負荷の問題も大きく取り上げられるようになってきた。
近年注目されている「水素エネルギー」についても、水素を作り出すための電力の問題は解決できていないように思う。
何か、この問題を突破する画期的な発見は生まれないものか。資源の発見ではなく、環境負荷がないクリーンエネルギーは存在しないのだろうか?

そんなことを考えながら、歩いていくと、小さな橋に出た。橋を越えたところで、川沿いに湖岸に向かう道があったので向かうと、北小松水泳場に出た。
時計を見ると、ちょうど正午になっていたので、ここで昼食とした。
朝、近江高島駅前にあるローソンで購入したおにぎりを食べる。こうやって、コンビニで買い物をして、手ごろな場所で食事をとるのも11回目になった。還暦を迎えようという夫婦が、湖岸に腰を下ろして、コンビニで買ったおにぎりを食べている。周囲からはどんなふうに見えているんだろう。

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11日目⑤北小松水泳場 [琵琶湖てくてく物語]

北小松の湖畔を歩く。
鮎料理松水の横を通り過ぎる。松水の建物の壁に、味わい深いイラストと文字。
「はじめて食べた鮎の味。思い出すあの頃と、あの笑顔」
鮎になじみがない私でも、こういう表現には何かほっとさせられる。
海のそばで育った私には、そういう味というと、漁師だった父が『タテアミ漁』で獲ってきた魚を市場に出荷した後に残る「雑魚」ということになるかもしれない。
「雑魚」は、市場価値がない魚で、名前もわからないような雑多な種類が混ざっていた。
母はそれを甘辛く醤油で煮つけ、鍋ごとテーブルに運んできた。それを家族でつつくように食べた。おいしいかどうかよりも、腹を満たせるかどうかが重要な頃だった。ただ、「雑魚」は小骨が多いものばかりで、幾度ものどに骨をひっかけて大騒ぎになった。そのたびに、ご飯を丸呑みする。骨が取れると、家族みんなで安堵して笑った。貧しかった時代だが、楽しい時代でもあった。そんなことを思い出した。
その建物の反対側、湖畔に、芝生の広場とテーブル席。いくつもの柱が建っているので、おそらく、夏の水泳シーズンには休憩所になるのだろう。その先、湖に突き出た桟橋があった。なかなかの風景だった。
そこを通り過ぎて、不思議な場所を見つけた。
通り沿いは板塀が続き、真ん中あたりに立派な門がある。門の軒先には菊の御紋がついている。門の隙間から中をのぞくと、鳥居が建っていた。明らかに神社だった場所と思われるが、社殿はなく、空き地になっている。北の隅に、小さな社の屋根が板塀越しに見えた。但し書きも何もないので、何なのか全くわからない。空地の状態を見る限り、火事で焼失したとも思えない。GoogleMapを見ても何も書かれていない。御存知の方があれば是非お教え願いたい。
謎の場所を過ぎると、小松浜水泳場。湖沿いに「海の家」ならぬ「湖の家」が建っている。夏になると、賑わうのだろう。
さて、ここからは遮るものが何もない湖岸の道路を歩く。
アスファルト舗装はされているが、ぎりぎりに道路があるため、ちょっとハンドルを誤ると湖に落ちてしまうにちがいない。
遥か前方に、白髭神社らしきものが見えてきた。いや、まだまだ遠い。この辺りは別荘地ではなく、古くからの集落だ。大きな家が並んでいる。
この辺りは、国道161号線の高架化の工事が進んでいる。
先ほどのメガソーラー発電所までは、山間を抜けるバイパスが整備されたが、北小松はまだできていない。そのために、休日でなくとも、渋滞が発生しやすい場所だ。車に乗っている者には、厄介なところなのだが、見方を変えれば、住民からすれば、絶えず車が渋滞し、騒音と排煙に苦しんでいることになる場所で、高架化することでおそらく暮らしは一変するだろう。その高架化の中で、実に面白い風景が生まれている。
北小松にある「樹下神社(金刀比羅宮)」の参道を横切る形で高架橋が通っているのだ。まだ完成はしていないが、入口の鳥居と境内(社)の間に高架道路が走るようになっている。まだ、橋げたはできておらず、橋脚だけが並んでいるため、ちょっとわかりづらい。
完成すると、どんな風に見えるか。今は、鳥居から社がまっすぐに見えていて厳かな雰囲気を感じられるが、道路が完成すると、参道が分断されるように見えるはずだ。
信心深い者には、ショックな光景ではないだろうか。
ただ、先ほども書いたように、ここ北小松の住民にとって常に渋滞している道路が高架になれば、日常の暮らしはきっと静かなものになるに違いない。そのために、神の御力(社殿)を使わせていただくということで納得しているのかもしれない。
ひょっとしたら、とても変わった風景ということで、写真マニアとか神社マニアの参拝が増えるかもしれない。

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11日目⑥北小松集落 [琵琶湖てくてく物語]

湖岸を進んでいくと、ふいに気づいたことがあった。
湖岸に面した家にはどれも大きな石垣が組まれているのだ。ここまで歩いてきて、何度も見てきた光景。海津でも、和邇でも見かけた「湖の侵食・浸水」から家を守るための堰だ。かなりの古さを感じる場所もあった。琵琶湖東岸は、干拓等で近代的な護岸工事が進んでいて、こうした石垣を見ることはなかった。だが、琵琶湖西岸は、あちこちにこうした古い堰が残っていて、今も日常の暮らしを守っているのには驚いた。
しばらくすると、湖岸から離れて、家並みの中を歩くことになった。細いわき道があったので入ってみる。
それにしてもこの辺りには〇〇食品という看板が目に付く。
こんな場所で何を製造しているのか。答えは明瞭。この先に北小松漁港がある。鮎などの湖魚の佃煮を製造しているのだ。
古くからの町、少し調べてみると、琵琶湖の水運が盛んだった時代から、港として栄えていたらしい。ただ、そのころの港は湖底にあるそうだ。現在の北小松港は、昭和50年ごろに整備されたもので、それ以前は、小さな内湖を船溜まりにした小さな港だったそうだ。
その後、港が整備されると、船溜まりには、養殖池に代わり、現在は埋め立てられ姿を消してしまったらしい。
琵琶湖の水位に合わせ、姿を変えてきた北小松。おそらく、琵琶湖畔の古くからの集落や港はそういう歴史を持っているに違いない。別荘が立ち並んでいるのも、その歴史の1ページになるのだろうか。
北小松の集落を抜けると、国道161号線を歩くことになる。歩道は、左側にあり、湖岸からは少し離れる。ここから、高島までは、山が近く、平地が少ない地形になる。
崖下の「岩除地蔵尊」があった。
今から300年ほど前に建立されたようだが、もともと、この先に大きな岩壁(鎧岩)があり、落石が多く、安全祈願でお地蔵様が祀られたらしい。
この「鎧岩」は、明治20年ごろに開削され、現在は国道161号線が走っている。ただ、この先には、まだ落石の危険から、歩道は洞門になっている。
今、ちょうど、この「岩除地蔵尊」の上に、トンネルが作られている。161号線のバイパスである。かなり時間が掛かっていたところを見ると、おそらく、この地帯は破砕帯ではないかと考える。頑強な岩盤・岩壁であれば、落石も多くないはず。破砕帯であるからこそ、風雨によって浸食されやすくもろいのではないかと考える。
気になって、琵琶湖西岸断層の位置を調べてみた。
案の定、比良山系の麓にはいくつもの断層があり、北小松から白髭神社にかけては、断層が斜めに分断された状態で折り重なっていた。さらに、湖底にもいくつも断層があり、その距離と場所が重なっている。南東から北西に向かって、力が加わり、大地が盛り上がって、比良山系が構成されているようだ。
恐ろしいのは、その先の勝野断層がほぼ直角に走っていることだ。北東から南西にも力が加わっていて、それがぶつかる場所が、北小松から鵜川の辺りで、もっとも中心になるのが「岩除地蔵尊」が置かれている「鎧岩」がある場所になる。
ここらの地層はかなり複雑で、いくつもの破砕帯が存在しているに違いない。ちょっとしたことで、地崩れが起きてもおかしくないような場所だと思う。昔の人もそういう場所だと認識して、この「岩除け地蔵尊」を祀ったのだろう。

「岩除地蔵尊」にお参りして、ちょっと休憩。

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11日目⑦鵜川 [琵琶湖てくてく物語]

先ほどの「洞門」を歩き抜けると、大津市から高島市へ入る。
最初の集落は「鵜川」。
ここは、比良山系の麓の傾斜地に広がる「棚田」が有名である。それほど広くはないが、眼前に琵琶湖を見下ろすことができ、棚田と琵琶湖の風景は他にはないところだ。
161号線沿いにある「うかわファーム」もなかなか良い。
最近の農産物直売所は、道の駅やJA店舗併設といった形で大型化し、中には、他の産地からの農産物も混じって売られていて、ただの野菜売り場になっているところもある。
ここは、小さな建物で、鵜川地区で採れた野菜や花き類を販売している。初めて高島に来た時、行きがけにこのファームを見つけ、帰りに寄ろうと思っていたら、夕方早い時間で閉店になっていて残念な思いをした記憶がある。
小さい直売所だけに、産物がなくなれば閉店するのは当たり前。なんだか、売上目標とか来店者数などといった下世話な数値とは無縁な感じが良い。
こうした長閑さを残してほしいと思う。実際、私たちがここに到達した時点ですでに閉店していた。
そういえば、この「うかわファーム」の向かいの空き地に、ホットドッグ屋(古いタイプのキッチンカー)が、雄実に出ているのを見かけた。あれで商売になるのかと思うほどなのだが、どうだろう。
夏近くになると、同じ場所に「スイカ売り」が出ていることがある。かなり安く売っているのだが、どこで仕入れてくるのか・・ちょっと怪しい感じがするのは私だけか。
「岩除地蔵尊」と「白髭神社」に挟まれた、ちょっとした隔離に近い地域だ。
私の山口の実家も似たところがある。
室町時代くらいまでは、町から切り離された島だったが、干拓によって地続きになった。里に入るには、北側にある峠を越えるか、西側の海岸伝いの道路を行くほかなく、里の中央を流れる川沿いの道と東西の山沿いの道の3本の道路だけ。その道路沿いに家が立ち並ぶ。里には小さなよろずやが1軒あるだけ。峠道と海岸沿いの道が封鎖されれば隔離される。
こういう里では、ほとんどすべての人が顔見知りであり、いくつかの一族集団で統治されているのが常である。私の里は、海岸に近い、漁業中心の人たちを束ねる一族と、東と西に分かれて統治する一族、そして山中に小さな集落を作る一族の4つの集団があった。
令和の時代に、なんだか、とてつもなく時代劇のような設定に思えるだろうが、少なくとも私が生まれ育ち18歳で里を出るまではそんな環境だった。私の家は、この4つの一族を束ね、集落全体をまとめる本家の長男だった。
里の中では、私を知らない者はいない。どこかの家に遊びに行くと、その家では最大級のもてなしをしてくれた。それは当たり前だとも思っていた。当然、この家を継ぐ者だと定められていて、祖母や父母はことあるごとにそういう話をしていた。
なんだが、横溝正史の推理小説に出てきそうな状況だが、確かにそういう場所だった。
もちろん、今は、私のように里を出ていくものばかりになり、高齢過疎の里となっていて、子供は数人しかいない状態だから、こんな古臭い設定など受け継がれてなどいない。
ただ、この「鵜川」という集落を見ていると、なんだかまだそういう風習・統治力みたいなものが残っているのではないかと思えてしまう。
高島に移住したてのころ、私の住む町内の私の組は、大半が移住者なのだが、町の自治会単位になると、いまだに、古い風習をかたくなに守ろうとする地元の住民が牛耳ることになっている。そういう古い風習から脱却したくて、新天地を求めてきたのだが、難しい。ちょっとでも異論を口にすると、これほどに非難を浴びるのかと思うほど、痛い目にあった。不満や異論は口にしない、そのためには自治会に参加しない、そういう構図が広がっている。おそらく、あと数年で、ここの自治会は崩壊するに違いない。
もはや、令和の時代、新しい住民自治の仕組みを考えたほうが良いと思うのだが・・。

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