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8日目⑦コロナ禍で思ったこと [琵琶湖てくてく物語]

イオンモールを越えて、近江大橋の下をくぐって進む。
この先から、湖岸は「琵琶湖漕艇場」になる。1000m6レーンのコースで、安定した水域となっていて、近隣の大学・高校などのクラブが活動しているそうだ。
ボート競技がどういうものかは、妻から聞いた。
妻は高校時代にボート部に所属していて、コックスという役割だったそうだ。オールを漕ぐのではなく、舵を取り、声掛けする司令塔のような役割だと聞いた。彼女の高校は、狩野川で練習していたそうで、艇庫も河岸にあった。高校からはかなり距離があり、移動するだけでも大変な労力だ。破傷風の予防注射は欠かせず、かなり真剣にやっていたらしい。
何故、コックスになったのか聞いたことがある。メンバーの中で体が小さく声が大きかったというのが理由らしいが、彼女の体格を見る限り、ロールを漕ぐ姿は想像できないし、それだけの筋力があるとも思えない。おそらくメンバー全員の合意だったに違いない。
私はスポーツとは無縁だった。小学生の頃、心臓の異常が見つかり、医師から運動を制限されたのが一番の理由だ。体育の時間は見学が多かったので、先生は、教室で勉強することを勧めてくれた。体育の時間になると、自分の好きな勉強ができると内心喜んでいたのを覚えている。体育がある前日には、図書館に行き、辞書とか辞典類を借りて来る。特に、特定のジャンルがあったわけではなく、その時、面白そうだと思った分野の辞典を読んでいた。家でも父がなけなしの金をはたいて、百科事典を買ってくれたので、布団に入る時間には必ず、百科事典を1冊持ち込んでいた。おかげで、雑学の量は増えた。中学生になった頃には、学校で教わることは概ね知っていることばかりだった。だが、そうした知識は年齢を重ねるとどんどん消えていってしまう。成人することにはただの凡人だったのは言うまでもない。
琵琶湖漕艇場から、ちょっと恥ずかしい過去の話になってしまった。
もう少し進もう。
このあたりは、湖岸も、綺麗に整備され、町並みの一部になる。少し日が傾き始め、散歩している人の姿も寒そうだ。ここまで来ると、もはや琵琶湖ではなく、瀬田川と呼んだ方が良いらしい。地図で見ると、漕艇場がある辺りから「瀬田川」と名前が入っている。
左手に、通りに白い防御壁が続く場所があった。
地図上では「ロイヤルオークホテル」となっていた。コロナ禍で最初に閉鎖されたホテルだった。私たちが歩いていた頃は、コロナ禍の緊急事態宣言の最中だった。旅行業・飲食業などが大きな打撃を受け、倒産が相次いだ。職を失った人も大勢生まれた。政府が言う「経済を回さなければならない」という言葉は、あの頃、空しく響いた。
私も妻も、福祉の仕事に携わっている。特に、妻は、障がいの重い人と日常的に接する仕事で、感染すれば命に関わる人も多い。インフルエンザやノロでも呆気なく命を落とすこともあるほど弱い存在の人と接しているため、感染には誰よりも注意していた。
私も、相談業務を担っていたので、どうしても面談や訪問をせざるを得ない。感染源にならないよう細心の注意を払う日々だった。
経済の停滞で収入が途絶え、倒産していく会社も深刻な問題だが、そのために、無理に経済を回す方策を取れば命を落とすリスクの高い人が居ることも十分考慮してもらいたい。日々そう願って過ごしてきた。2023年5月、5類への移行によって、周囲は一気に箍が外れたような状態になった。高齢者や障がい者・持病を持つ人が再び危険にさらされることになる。一刻も早く、有効な治療薬が開発されることを祈る。(これを書いている時にはまだ開発されていない)
コロナについては書きたいことは山ほどあるが、「てくてく物語」の本筋には戻れなくなるので止めておく。


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