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10日目③真野浜 [琵琶湖てくてく物語]

堅田ふれあいパークの前を通り過ぎると、伊豆神田神社。伊豆神社と神田神社の合祀らしい。路地のような道を進んで、琵琶湖大橋のたもとに出て、下を抜けて、道の駅米プラザに到着した。小休止。道の駅米プラザの南のはずれ、駐車場の中に入ると、琵琶湖大橋を真下から眺めることができる。ここで写真を1枚。
米プラザ駐車場わきの道路を北へ進むと、少しばかり民家の間の狭い道があり、そこを抜けたところで、真野川に出た。
橋を渡ると、真野浜水泳場。真野川が作った砂州が続く。湖岸沿いを進むと、小さな港があった。住宅地を回り込むようにして、再び、大通り(高島大津線)へ出た。しばらくの間歩道を歩く。そろそろ、腹が減ってきた。コンビニ、すき家、ラーメン店、いろいろあるが、天気が良いので、バローで弁当を買って食べることにした。
バローを出て適当な場所を探す。
どこか、湖岸に出られるところはないか。大通り沿いの歩道を北へ。だが、湖岸に出る道が見つからない。結局、30分近く歩いてしまった。WESTマリーナ・オリーブの看板を過ぎたところで湖岸が見えたので、入ってみたら、「マルゴ水産」の敷地に入り込んでしまった。土曜日で、会社は休業のようだったので、失礼して、脇から湖岸に出させてもらう。(すいません、不法侵入ですね)
水路に降りて、適当な石に座って昼食をいただく。ちょっとした木々が生えていて、意外に気持ちいい。水路の向こう側は、おそらくオリーブの中にある、オープンデッキのようだ。冬場でお客さんはなさそうだった。15分ほど滞在して、再び歩き始める。
少しだけ大通りを歩くと、脇道に入った。
ちょっと変わった通りだと感じた。立ち並ぶ家が少し変わっている。いくつか新築もあるようだが、古い家もある。だが、それは、近江一帯でみられるような、弁柄塗の日本家屋ではなく、どちらかというと、築30年くらいの新建材で建てられたような家が、不規則に並んでいるのだ。長い塀が続くような御屋敷も混ざっている。家の向こう側は琵琶湖湖岸。別荘地として売り出されたのだろうか。ログハウスがあるのを見て、やはり、ここはかつて別荘地として売り出されたのだと推察できた。四つ角に出たので、右手の道で湖岸に向かう。保養所のような建物もある。大きな建物が見えてきた。・・いわゆる新興宗教の一つ、「〇〇の〇学」だった。人影はない。足早に通り過ぎる。そこから先には、湖畔のレジャー基地がいくつも並んでいて、湖岸には近づけない。
琵琶湖は国定公園だ。はじめ、琵琶湖国定公園は、琵琶湖全域だと思っていた。しかし、この場所のように、湖岸まで私有地化されているところが実に多い。琵琶湖が国定公園化されたのは1950年で、まだ、戦後復興の途中である。そんなころから、湖岸はすでに私有地化されていたのかと思っていたら、どうやら事情が違っていた。国定公園となっているのは、琵琶湖の一部地域であって、普通地域も多い。先回歩いてきた、大津あたりの湖岸でも、公園化され護岸工事などもされている場所があり、私有地になっている場所もある。(反町隆史の別荘も湖岸にボートが着くようになっている)国定公園というのは、国立公園に準じる景勝地として自然公園法に基づいて環境大臣は指定した公園らしく、その管理は都道府県にゆだねられているらしい。なんだか、割り切れないのは私だけだろうか。瀬戸内に生まれた私としては、海岸は誰の所有物でもなく、漁業権はあったが、立ち入りできる場所ばかりだったので、海や湖、川などはそういうものだと思っていた。だが、よく考えれば、「プライベートビーチ」と言って、ホテルが所有する海岸というのはどこにでもある。土地の所有というのは、なかなか奥が深い。
つまらないことを考えていたら、川に出た。和邇川だった。

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10日目④和邇 [琵琶湖てくてく物語]

和邇という地名、初めて見たときどう読むのか判らなかったので、すぐに調べてみた。
「わに」と読むらしい。「わに」って、あの爬虫類の?それとも、神話に出てくる「サメ類」の総称の「鰐」?いずれも、琵琶湖とは無関係な生き物だ。別の理由があるに違いない。それで、もう少し調べてみると、古代豪族の「和邇氏」と関係があると分かった。「和爾氏」は、大和盆地の北東部を勢力圏にした豪族だが、その一族がこの地を治めたことでこの名があるということだった。
琵琶湖西岸、特に、堅田以北の地は、今ではかなり寂しい状況にあるが、大和成立のころには、琵琶湖の水運により大いに発展していたようだ。それにしても、1000年以上にわたり、地名として残っていることは驚くべきことだと思う。
地名といえば、小学生の時、担任の先生が日本史について楽しく教えてくださり、友達と、近くの古墳や遺跡を巡ることが好きになった(今でも好きだが)。
そのころ、自分の家の地名にも興味がわいて、図書館で古地図を開いてみて驚いた。その地図には、我が家の地所に「城尾」という字名がついていた。どうにも気になって、小学生のくせに、郷土の古代史を研究されている方を訪ねて訊いてみた。
その方がおっしゃるには「城尾」というのは、紛れもなく城の外れを示していて、研究資料を見せてもらうと、地所の外れに井桁マークが付けられていた。これは何かと訊くと、「狼煙場」の跡だということだった。大和朝廷が成立したあと、西の玄関口である、九州・博多の防人から、大和へ外敵来襲などを知らせるための仕組みとして、瀬戸内の各所に狼煙場があったという。我が家の地所はその狼煙場の一つだったと知った。「城尾」という地名があったことから、狼煙場だけでなく、おそらく「砦」のようなものもあったに違いない。そう思うと、なんだかわくわくしたのを覚えている。子供のころに聞いた話なので、おそらく、大きな間違いかもしれない。だが、そういう話を聞くと、がぜん興味が湧き、自分で調べてみたくなる、好奇心に火が付くという経験になったし、それ以降、勉強するのが好きになった。
まあ、私の子供のころの話はどうでもいいのだが、こういう「難読地名」というのは、たいていの場合、故事や過去の記憶が刻まれている。そして、そこには何かしらの「わくわく」が見つかる。
和邇川を越えるために、いったん、上流側へ向かうが行き止まり。少し戻ると、細い道がある。道のうねり方を見ると、おそらく昔の街道ではないかと思う。今宿自治会の看板が目に入る。確か、古地図で「今宿村」の地名を見た。古地図では、かなり琵琶湖岸にあったはずだが、やはり、和邇川が運んだ土砂が堆積した地域だと思われる。
少し行くと、すぐに小さな橋があった。そこを渡ると、また、風景が変わった。少し回り道になるが、和邇川に沿って湖岸まで出た。広場のような場所。おそらく、夏場には駐車場になるはず。ところどころに白線の跡が残っていた。ちょっと戻って、路地のようなところを歩く。寂れた建物が並んでいるが、冬場で休業中になっているだけかもしれない。
和邇浜水泳場は、なんだかそれらしくない。ちょっと、マキノあたりに似ている。
ここからしばらく、旧街道のような道を進んでいく。時々、近江地域固有の弁柄塗の家屋がある。ただ、どういうわけか、高さ1mから1.3mくらいのところまで、格子模様のタイル張りの家が並んでいた。本来なら、焼き板か漆喰の壁になるところがタイル張りになっているのだ。
タイル張りは、昭和の住宅の特性だった。台所やお風呂などの水回りには、タイルが貼られて、白い目地で埋まっていた。私が子供のころ、我が家の台所も、竈を撤去して、プロパンガスのコンロと、細かい細工模様の流しを置き、土間をコンクリートで固めた。風呂も外にあった五右衛門風呂は、家の中に入り、タイル張りの浴槽になった。昭和40年代はタイル加工の全盛期だったと思う。この地域の家も、そのころ建てられたか、そのころの大工や左官が施工したと思う。なんだか、懐かしさを感じる通りだった。

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10日目⑤琵琶湖水害 [琵琶湖てくてく物語]

家の隙間から湖岸が見えた。通り沿いに進んで、右側の道を進むと、「木元神社」があった。道の反対側には浄土真宗本願寺派の「慶専寺」がある。
そこを抜けるとようやく、湖岸沿いの道になった。道路を挟んで、民家が左手、湖岸は右手。湖岸には、畑や庭、駐車場のように使われているところが続いている。
途中、茶色の看板が立っていた。「琵琶湖水害と石垣沿(堰)堤」の文字。明治に二度、2.9mと4.0mの浸水があったと記されていた。よく見ると、草むらに隠れるように「石垣」があった。琵琶湖の水位が上昇したことで大きな水害が発生したため、堰堤を作って防御したのだろう。それにしても、4.0mというのは異常だ。軽く1階は水に埋まり、2階に避難したとしてもかなり厳しい。しばらく、湖岸の道を歩く。よく見るとあちこちに石垣が残っている。看板に気づかなければ、それまでだった。
明治29年の琵琶湖水害をちょっと調べてみた。
9月3日から12日の10日間で1008mmの雨量(平均降水量の6割に達する)を記録、特に7日には597mm(彦根)を記録した。このため琵琶湖水位は+3.76mの過去最高水位を記録した。浸水日数は237日にも及んだ。とされていた。被害の多くは東岸に集中しているようだが、西岸でも大きな被害にあったようだ。その後、瀬田川の浚渫工事や洗堰の造営など、治水作業は大幅に前進したともあった。
昨今、「異常気象」とひとまとめにして、「ゲリラ豪雨」「線状降水帯」「○○年に一度の災害」という言葉が常套句のように使われている。だが、過去にも、最近のような豪雨災害は起きている。もともと、東岸エリアは、内湖を干拓し埋めたてしたところが多く、ほんの少しの水位上昇で大きな被害につながる。西岸でも同様の地域はあるはずだ。
私が住んでいる萩の浜・永田地区は、数年前に、鴨川堤防が決壊し、浸水した地域だ。災害記録も見た。我が家は少し盛り土されて周囲より高くなっていて、家の基礎も通常より高くしていて、2m程度の浸水なら被害はない。だが、明治29年の時のように4mという浸水が発生すれば、逃げ場がない。周囲には高台も高層ビルもない。
そう思うと、災害を予見しいかに早く避難するかが極めて重要になる。
琵琶湖には、流入する川は優に400を超えるが、流れ出る川は瀬田川のみ。周囲に降った雨はすべて琵琶湖に注がれ、瀬田川のみで排水することになる。さらに、野洲川・姉川・愛知川など、東岸の川は、奥深い山地から流れ出て、勾配差がほとんどない平地を流れ、周囲より高い「天井川」になっている個所も多い。東岸を歩いた時に見た、排水施設はまさに命綱といえる。
こう考えると、滋賀県はほぼ全域で、水害のリスクは高いことになり、他の都道府県に比較にならないほど治水対策が重要と言えよう。
さらに、琵琶湖西岸には断層帯もあり、大地震発生の危険性がある。過去には、断層地震で琵琶湖でも津波が発生した記録もあるようだ。
近頃は、全国的に地震が続いている。不安を掻き立てるような報道もある。
よく考えてみると、日本列島は、世界に類を見ないほど災害に見舞われる場所だ。そもそも、日本列島事態、プレート境界上の地殻変動が生んだものであり、温帯特有の四季がある。年間を通じて、災害要因が常にあると考えるべきではないか。
そこに住む人間として、災害に対して自らの命を守る手段を確保しておくべきだと思う。滋賀県固有の地域特性を知り、災害に備えること。私の住む高島市は、隣接地域とは161号線のみが陸路となっている。(朽木方面では京都へ通じる道路はある)地震や豪雨による土砂崩れなどで陸路は絶たれる危険性は高く、高島市丸ごと孤立化する。そのことを冗談交じりに話すことがある。仮にそうなったとき、どうすればよいか、道路の復旧はどれほどの時間が必要か。そんなk十を考えているとき、ふと、目の前の琵琶湖が目に入る。陸路が発達する前、琵琶湖は水運が盛んだった。仮に、陸路が立たれた時、水路・水運を活用する救援策というのは考えられないだろうか。

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10日目⑥滋賀と志賀 [琵琶湖てくてく物語]

「中浜」の信号で、再び、大通り(県道558号線)に合流した。
歩道をしばらく行くと、「和邇港」が見えたので入ってみた。そこから左手に、湖岸沿いの遊歩道のようなものがあったので進んでみる。公園の中を歩いているような、良い道だ。すぐに小さな橋があった。喜撰川にかかる、コンクリート製の歩行者専用の橋だった。その先にも同じような歩道が続いている。遠くに、沖島が見える。ここから見える琵琶湖はかなり大きい。対岸が霞んで見えるほどだ。ここで湖岸の道路は左に曲がる。前方に白い棒がたくさん立っているように見えた。ヨットの帆柱だった。金網の向こうにかなりの数のヨットが置かれている。大通りに出ると「志賀ヨットクラブ」の看板があった。
妻が必ず、この「志賀」の文字を見るという言葉がある。
「あれって、志賀高原の志賀よね。滋賀県の滋賀と、志賀ってどういう関係?そういえば、坂本も、土偏の坂とこざと偏の阪の二つあって、混在している。変なの?」
「いや、大阪も二つあるよね。」
「どっちでもいいってことじゃないわよね。はっきりしてもらいたいわ。」
うーむ、いったい誰がどうやってはっきりさせるのか、それほどの意味があることなのか、同意しかねるが、ややこしくなるので、あいまいに頷く。
だが、確かに、彼女の言う通り、どうして二つの「しが」があるのだろう?
気になって調べてみたら、答えは意外にシンプルだった。
日本の地名は、まだ、漢字が入ってきていない時代から存在していて、「音」だけが伝承されていた。「シガ(カ)」という地名がまず存在し、奈良時代に、その音に様々な漢字が当てられたようで、「滋賀」「志賀」「志我」とか、とにかく定まらないまま時代が過ぎ、江戸期には「滋賀郡」「志賀村」など混在していたようだ。明治になって県名を定める際に「滋賀県」となったらしい。詳しく書くとちょっとややこしくなるのでやめておく。
ただ、「滋賀県」が生まれるまでには、「大津県(南部地域)」「長浜県(北部地域)」が存在し、さらに、一時は「小浜」も「長浜県」に属していた時があったようだ。
某放送局で「県民ショー」というのが長寿番組が存在するが、時々、ローカルすぎて、同県民でも知らないことが上がるが、無理もないことである。必ずしも、現在の都道府県のくくりが、その地域文化とは遊離した極めて「政治的意図」で編成されたためといえる。
私は、18年間、山口県民だったが、長門と周防では大きく文化が異なるし、40年ほど愛知県民だったが、尾張と三河では方言すら違っていた。今は、滋賀県民となったが、東西南北、あまりに地域が違いすぎることに戸惑っている。言葉(方言)が特に違いが際立っているように思う。高島市でも北部(マキノ・今津)では、北陸特有の語尾を伸ばす言い方があるし、米原の知り合いと話すと、極めて「岐阜言葉」に近いものを感じる。信楽に行ったときには「伊勢言葉」に近いものを感じた。おそらく、大津あたりだと、京言葉に近いのではないかと思う。
かく言う私は、どこの言葉でもないと自負している。
山口から名古屋に出たとき、長州言葉(ちょる弁)が恥ずかしくて封印した結果、いわゆる標準語を使うことに努力した。NHKアナウンサー並みに努力したつもりだ。だから、尾張名古屋の言葉も、東三河の言葉も、「別の言葉」としてインプットされ、使い分けができるようになった。
だが、関西弁は難しい。
高島に来て、近畿(関西)のイントネーションを聞き始め、法則的なものをようやく発見できたところで、標準語と逆のイントネーションを使うことが、良いらしい。
この歳になって、長州弁や尾張名古屋、三河弁、そして滋賀弁を楽しみながら使えるようになった。

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10日目⑦湖畔の別荘地 [琵琶湖てくてく物語]

さて、ここからはしばらく大通り(県道558号線)を歩く。
右手には、ワニベース、BBQハウス、大阪成蹊大学びわこセミナーハウス、BSCなどなどと並んでいて、湖岸には入れそうもない。
湖西線が県道を跨ぐ場所、「南舩路」の信号で湖岸に出られそうな道があったので入ってみた。県道321号線らしい。少し狭いが、湖岸道路だった。湖岸に張り付くようにアスファルトの道路が続いていて、ちょっとよそ見をして運転しているとそのまま、琵琶湖にハマってしまうくらいの位置にある。その道路を挟むようにして、別荘が並んでいる。今は冬場で、水辺のレジャーどころではないので、ほぼ無人になっている。贅を凝らした建物もあれば、しばらく使っていないような建物もある。
それにしても、琵琶湖が近い。しばらく歩いていると、なんだか懐かしい感じがしていた。
「ねえ、ここ、初めて来た気がしないわ。」
妻も同じように感じていたようだ。だが、初めて歩く道には間違いない。
「ねえ、やっぱりここって、あそこみたい・・ほら、最初に移住先を探したころに回っていた・・ええっと・・。」
妻の言葉に、ようやく思い出した。
移住を決めて、物件を探し始めた時、まずは手近な浜名湖周辺を物色した。
浜名湖は、日本で3番目の大きさを誇る湖だ。ただ、淡水湖ではなく汽水湖。今からざっと500年ほど前、マグニチュード8.4(推定)の明応地震で、海と湖を隔てていた陸地が崩壊して今切口ができ、太平洋の海水が入り込んだ。その地震では8mの大津波が押し寄せ、浜名湖周辺で家屋が流出するなどの被害が出た。それから200年後の宝永大地震が発生した。そのときは静岡県(遠江・駿河)全域で大きな被害が出た。さらにその後150年ほどして安政大地震、その50年後に東南海地震。わずか500年の間に4回の大地震が起きた。ただ、そんな最近の地震ではなく、さらに古い地震があったことは明らかだ。浜名湖の東部の丘陵地には、大津波で削られた跡があちこちに見られるし、湖西市から渥美半島のかけての海岸線は、大津波でざっくりと削られた崖が続いている。東海道には、その痕跡が至る所にある。
そんな浜名湖周辺は、今では一大レジャーエリアになっている。ヨットハーバーやリゾートホテル、温泉街などが続く。年間通じて温暖な気候とあって、冬場でもリゾート客は多い。
そんなところに移住できればと思い、あちこち物件を探した。そのときに、回った場所が、この蓬莱地区に似ているのだ。
湖沿いの舗装道路を挟んで並ぶ別荘。家からほんの10歩足らずで湖のほとりに出られる。中には、船着き場が庭につながっているところもあった。管理された別荘地も多く、管理費だけでも高い。浜名湖では、とにかく、これはいいなと思うような物件はべらぼうに高額だった。とても、退職金程度では購入できるものではなく、早々にあきらめた。
そんな場所とここはよく似ている。おそらくここも、高島に比べれば、高額なのだろう。
「ああ、浜名湖のね・・。」
妻の問いに、ぼんやりと答えた。
「そうそう・・でも、あそこはこんなに人がいなくはなかったね。」
それはそうだ。物件を見たのは確か夏場だった。ここだって、夏に来れば、レジャーを楽しむ別荘族がいるはずだよ。と思いながら、「ああ」と軽くうなずく。
宝くじにでも当たれば、こういう物件を購入して住んでみたいと今でも時々思うことがある。まあ、宝くじも買わなければ当たらないのだが・・・。
そういえば、ここの駅名、蓬莱。なかなか意味深で面白い。神仙思想の中で、不老不死の仙人が住む場所を「蓬莱」と呼んでいる。駅名に蓬莱とあるが、地名ではない。西に聳える比良山系にある「蓬莱山」への登山口にあたるため、江若鉄道の当初は比良口駅とされていたのが、改名され、「蓬莱駅」となったらしい。それがそのままJRが使用しているわけだ。

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10日目⑧ びわ湖バレイ [琵琶湖てくてく物語]

ここからしばらくの間は、湖畔に立つ別荘地を歩くことになる。別荘も様々だが、現在も使われているものは、ほとんど、ボートハウスがついている。大きなボートがそのまま、道路を横切って湖畔に出られるようになっているところがほとんどだった。バスボートではない。ほとんどがスポーツボートかクルージングボートだ。安くても500万円以上、おそらくどれも1千万円以上ではないかと思う。年間どれだけ使うのだろう。メンテナンス費用など、相当な額になるに違いない。30年以上前のバブルの時、こうしたレジャーが拡大したが、今もなお、富裕層には魅力的なお金の使い方なのかもしれない。こういうところを歩いていると、なんだか、無性に腹立たしく思えて仕方ない。私は器の小さい人間です。
八屋戸浜を過ぎ、野離子川を超える。まだまだ、別荘地は続く。
ようやく別荘地を抜けると、木戸川に架かる橋に着いた。
この川の上流に、びわ湖バレイロープウェイ乗り場がある。
「ねえ、あれってびわ湖バレイよね。」
妻は、また、あの勘違い事件を蒸し返そうとしている。
「ああ、そうだよ。間違ったところだよ。」
この会話は何度目だろう。
「びわ湖バレイ」には、少し恥ずかしい思い出がある。
まだ、こちらへの移住を決めていなかったころ、何気なく、琵琶湖周辺の観光情報を見ていた時、「山頂・百合園」の記事が目に入った。山の頂上一面が色とりどりのユリで埋め尽くされていた。平地とは違う時期の開花とあって、直近の休みを使って行くことにした。まだ、琵琶湖の地理に疎いころだった。豊橋から東名・名神で大津まで来て、琵琶湖西岸を北上。湖西道路を走っていると、左手の山にロープウェイがあるのが目に入った。きっと、あれが、「山頂百合園」に違いない。何の疑いもなく、「志賀ランプ」で降りて、旧道から琵琶湖バレイ駐車場へ向かった。駐車場からバスでロープウェイ乗り場へ。そこでようやく違和感を感じた。「百合」の文字はどこにもない。だが、駐車場料金も払ったし、このまま、帰るのは口惜しい。
「まあ、山頂に登れば眺めはいいだろうし、それも観光だ。」
ロープウェイ乗り場に行き、チケットを買う。
片道2000円、往復3500円。二人で7000円。ちょっと高いかな・・・。
チケットを貰って、乗り場へ行くと、かなりの長蛇の列。確かに、下の駐車場も車がいっぱいだったし、乗り場送迎バスの中も多かった。だが、こんなに並んでいてはかなり待つのかなと思っていると、思ったより大型のゴンドラがやってきた。
121人乗り、5分で標高1100mまで連れて行ってくれる。これなら、7000円は安いのか。
長打になった客は一気にゴンドラへ乗って、あっという間に、山頂駅に到着した。なんでも、日本最速のロープウェイらしい。
山頂からは、琵琶湖が一望できる最高の眺めだった。ロープウェイの駅から、さらにリフトを乗り継いで行けば、1174mの蓬莱山まで行ける。今は、この駅に隣接して、琵琶湖テラスができ、さらに魅力的になっているのだが、私たちが訪れたときはまだできていなかった。それでも、眺望だけで十分に満足できた。
それにしても、やはり「百合」は咲いていなかった。だが、誰かに訊くのもちょっと恥ずかしい感じがして、そのまま、降りてきた。
そこから、さらに北上してようやく、目指すべき「山頂・百合園」は、高島市の箱館山だと判った。だが、もう夕暮れ近くになっていて、今回は諦めることにした。
という、思い出があった。
滋賀県には、びわ湖バレイロープウェイ・箱館山ゴンドラ・八幡山ロープウェイ・賤ケ岳リフト・伊吹山リフトなどがある。狭いエリアの中でこれだけあるのも珍しいのではないかと思う。

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10日目⑨比良駅ゴール [琵琶湖てくてく物語]

木戸川を超えると、緑地公園があり、ちょっとトイレを拝借した。田圃を抜けたあたりから少し様子が違う。ここまで大半が別荘だったがここから先は、古くからの集落になるようだ。街並みがずいぶん落ち着いている。弁柄塗の日本家屋、農作業のための小屋、軽トラックなどを見ながら進む。
初めて大きなT字路があった。左手(西)、湖西線の高架橋の向こうに、鳥居が見えた。その先に、樹下神社(じゅげじんじゃ)が見える。琵琶湖から神社までまっすぐに道が伸びている。樹下神社は、木戸庄の氏神様らしいが、この地にあった木戸城主佐野氏が勧進したと伝わっているが、それ以前に、比良山を神とする信仰があったようだ。その間に、仏教伝来・比叡山の興隆・信長による焼き討ち・明治政府による神仏分離など、大きな流れの中でこの神社も数奇な運命をたどり、時代に応じて名を変えながら、今日まで存続されてきたらしい。ただ、今回、そこをお詣りする時間的体力的余裕はなく、とりあえず、鳥居の方向に向いて「二礼二柏手一礼」させていただいた。
ここまで来て、突然思いついたことがあった。確か、琵琶湖東岸を歩いていた時は、寺領を中心に集落が形成されているところが多かったように思う。だが、西岸にはそういう集落は少ない。まあ、西岸といっても大半が大津市で都市開発が進んでいて、古い集落が少なかっただけだろうが、西岸はやはり、比叡山延暦寺の絶大なる勢力圏であったことや、古くは大津京が置かれたり、水運の町として発展してきた経過といった経緯があるのかもしれない。できれば一度じっくり調べてみたいものだ。
しばらく進むと、「志賀駅」に到着した。ゴールまではあと一駅分歩くだけとなった。
線路沿いの道は少し殺風景なので、もう一本湖に近い道を歩く。旧家が並ぶ通りを過ぎると、砂浜が見えた。「松の浦水泳場」だ。真冬のこの時期に人はいないのだが、だからこそ、白砂青松の美しい景色を楽しむことができた。やはり、こうしたところには別荘が並んでいる。
前方が少し上りになっている。上るとそこには、大谷川が流れていた。
この先は、湖西線高架下の道路を進んで、再び、湖岸沿いを進む。青柳浜水泳場・オートキャンプ場の横を通り、進んでいくと、アスファルト舗装がなくなり、狭い道になった。ちょっと不安を感じながら進むと、浜に出た。一般道なのか、敷地内なのかわからないところを歩く。レンガが敷き詰められたところもあり、おそらく私有地の中を歩いているのだろう。幸いオフシーズンで誰もいない。その先で、さらに驚いた。完全に湖畔に建っている建物がある。「〇〇寮」という名前なので、どこかの会社のものだろうが、建築許可は取れているのかちょっと怪しい感じがした。隣にも2軒ほど建っている。不思議だ。
墓地が見えた。南比良区の看板があるから、おそらく、集落の人の墓地だろう。道に沿って進むと「南比良船溜まり公園」があった。船溜まりということは、ここに小さな港があったはず。その横に、「本立寺」があり、昔は寺の前に船着き場・港があったことになる。よく見ると、周囲の家の周囲に、石垣が残っていて、公園の周囲をぐるりと取り囲んでいた。もう少し進むと、以前にマキノ町海津で見た「石垣」に似たものがあったので、おそらく、ここも湖の水害から土地を守る機能を持たせていたのだろうと推察された。
北比良水泳場を見ながら進むと。もうゴールの「比良駅」が見えた。
さて、本日はここまでとしよう。
今回は、32,563歩・22㎞だった。もともとの計画では、堅田から近江舞子まで20㎞歩くはずだったのだが、寄り道しながら歩いたせいか、ずいぶんと距離が延びていた。10回で終了するはずだったが、何度か予定変更もあり、あと1回を残すことになった。
こうやって歩いてみて、なんだか、昨年歩き始めたのがずいぶんと昔に感じる。歩くたびにいろんな発見があり、不思議に思うことも多かった。若いころにはできなかったことだと改めて感じている。

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11日目①比良から自宅へ [琵琶湖てくてく物語]

しくじった。いやあ、しくじった。
家の前の空き地の雑草があまりにひどい状態だったので、他人の土地にも拘らず、勝手に草刈りをやった。
長年放置されている空地で、長靴を履いて鎌を片手に入り、刈り始め、暫くして足に違和感を感じた。暫くするとジンジンという痛みに変わってきて、草刈りを中断して、長靴を見ると、靴底に板が貼りついている。
「えっ、これってどういうこと?」
左足を上げて靴底を見ると長靴の底を貫く釘の頭が見えた。
痛みの原因が判った。大きな釘が刺さった板を踏み抜いたのだ。
ゆっくりと板を持ちそっと引き抜く。釘の頭は真っ赤に染まっている。この場で長靴を脱ぐわけにもいかず、つま先立ちの状態でなんとか家に戻り、テラスに上がり、椅子に座ってゆっくりと長靴を脱ぐと、中からボタボタと鮮血が流れた。痛みよりも痺れに近い感覚。消毒して絆創膏を貼り、包帯を巻いて横になる。
徐々に痛みが増して来る。
余計なことをしなければよかった・・後悔、先に立たず。
動けなくなるほどの痛みが巡る。
来週は、琵琶湖てくてくの予定。だが、これでは満足に歩けない・・。
妻は今日は仕事だったので、恐らく、帰ってきてこの有様を見ると、怒り心頭になるのは間違いない。最悪!

という訳で、完歩は先送りになり、足のケガが完全に治った5月ゴールデンウィーク中になってしまった。
暑さ対策と日焼け対策を考えなくてはいけない。5月といっても天気が良ければ、熱中症にも注意が必要なので、大き目の水筒やペットボトル、タオルなどをもっていよいよ最後のスタートとした。
最後のゴールは自宅になるので、朝、自宅から近江高島駅まで歩いて向かう。近江高島駅から、比良駅へ。そこが本日のスタート地点である。
駅を降りて、まっすぐ北比良水泳場まで出る。湖に日差しが反射して眩い。いざ出発。すぐに神社の鳥居。湖に向かって建っている。振り返ると、山手に森がある。地図で確認すると、「比良天満宮」とあった。鳥居の近くには、「天満宮御旅所」があった。この「御旅所」、ここに来るまでにいくつか目にしていた。祭礼の際、神輿(神様)が休むところらしい。この「天満宮御旅所」は、お堂があるので、この地域の祭りはさぞかし盛大なのだろうと想像できた。
そして、その先には、北比良旧船溜まり公園。南比良と同じく、小さな港があったようだ。公園を目の前にした場所には食料品店(料理・仕出し・お食事)の看板のある建物。今はもうやっていないようだったが、いわゆる地域のよろずやだったのかもしれない。かつての、この町の賑わいを感じることができる。
集落の路地を歩く。
次第に方向感覚が鈍くなってきて、どっちに湖があるのかわからなくなった。まっすぐに自宅のほうへ向かっているのかも怪しいので、一度わかる場所に向かうことにした。山のあるほうへ向かえば、大きな通りに出られるはずだ。
それにしても、この集落はとても大きい。生垣や石垣が立派な家が並んでいて、できればゆっくりと回ってみたい。だが、今回はやめておくことにした。予想以上に気温が高く、体力的に不安があったので、早めに切り上げたほうが良いと考えたからだ。

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11日目②近江舞子 [琵琶湖てくてく物語]

すぐに少し広い道に出た。歩道があり、ビワイチ用の自転車通行帯の青い線があった。車の通りも少ない。しばらく行くと、右手に湖畔が見えた。少し距離がある。もう一本湖畔沿いの道がないか、GoogleMapで調べると、わき道から湖畔沿いの道があることが分かった。すぐに右手に入る。車一台分の道路があって、両サイドに別荘らしき建物が並んでいた。別荘の隙間から湖畔が見えた。そこからしばらくは、うっそうとした茂みのある道になった。目の前に小さな坂道があり、その先は川。
「比良川」だった。ほとんど水が流れていない。確か、この川の上流、ちょうど湖西道路があるあたりには、巨石がゴロゴロ並んでいたはず。標高1000mを超える山から、ほんの3㎞で琵琶湖へ注ぐ川であり、雪解け時にはかなりの流量になるに違いない。3月に歩いていたら、この川の流れを確認できたかもしれない。
橋を越えると、ようやく琵琶湖が見えた。相変わらず、この辺りにはボートプールが並んでいる。この先は、近江舞子だ。狭い道路の両脇に、ホテルや民宿が並んでいる。
この「近江舞子」という地名にはちょっと引っ掛かりがある。
というのも、愛知県、知多半島には「新舞子」という地名があるからだ。愛知にいたとき、なぜ、「新」なのかと疑問に思ったので、一度調べたところ、神戸の名勝「舞子の浜(白砂青松の風景)」になぞらえてつけられたらしいということが分かっていた。そこにきて、この「近江舞子」である。これはきっと、同じ由来だろうと思ったら案の定。
昭和のレジャーブームで一気に火が付いたというところだろうか。
ここにある民宿「白汀苑」も同じ由来に違いない。商売上手なのか、オリジナリティがないのか、評価はそれぞれだろうが、おそらく、現在では、神戸の舞子の浜はそれほど認知されているとは言えないので、ネームバリューは低下しているだろう。
ただ、名前は別にして、この浜は美しい。
北に向かって緩やかに湾曲し、白い砂浜と緑の松林が見事にマッチしている。そして、さらにそれにプラスして、内湖があるために、余計な街並みが目に入らず、1000mを超える比良山系を眺めることができる。これほどの景色は、琵琶湖を歩く中で初めて見たといっても過言ではない。
近江舞子の中を抜ける道は、舗装路ではなく、白い砂道で、それも新鮮だった。
浜を通り抜けたところに、「近江舞子中浜水泳場」の大きな看板のついた門があった。
真夏はずいぶん混雑するんだろう。駐車料金を見て驚いた。
シーズン中(7月から8月)は1500円。シーズンオフには1000円。時間制ではなく1回の料金らしい。意外に安い。管理者が南小松自治会というのも珍しい。これなら、きっとシーズンにはずいぶんと混むに違いない。
「水泳場」という呼び名には未だ馴染めないでいる。
私は生まれが瀬戸内で、生家の目の前は海だった。強風の時には、磯の海藻が飛ばされてくるほど近かった。
泳ぐのはもっぱら海。だから、夏になると、日中はほとんど海にいた。いわゆる「海水浴」というのではなく、とにかく遊び場が海岸だったのだ。
「貝掘り」をしたり(潮干狩りなんて生易しいものではない。夕食の材料を確保したり、売るために掘るのだ)、海藻採り、蛸採り、魚採り、みな遊びではなく、生きるために近かった。泳ぎ方は、幼児のころに勝手に覚えていた。学校の水泳の授業が、なんとも生ぬるく思えた。水泳というのはスポーツであると勝手に思い込んでいるので、「水泳場」と聞くと、どうも、競技会がある場所のイメージに繋がってしまう。
「海水浴場」という言葉があるのだから、「湖水浴場」でよいのではないかと思う。ちょっと、語呂が悪いかな?

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11日目③琵琶湖周航の歌 [琵琶湖てくてく物語]

まあ、そんなことはどうでもいい。そろそろ、近江舞子を抜け、再び、湖西線が見えてきた。そういえば、湖西線はよく止まる。強風の時は高い頻度で止まる。それも、この近江舞子から近江塩津の間で止まる。はじめはどうしてなのか判らなかったが、ここの地形を見て理解した。ほんの数キロ先に1000m級の比良山系が連なり、冬になれば北西風が山を越えて吹き降ろす。高架になった線路はかなりもろいに違いない。
そんなことを考えながら、高架の下を潜ろうとしたが、すぐ手前に赤く色づけられた「歩行者・自転車専用道路」を発見した。この道はGoogleMapにも出ていなかった。
細い道だが、湖畔沿いに進めそうだったので、入ってみた。
少し行くと、「北浜水泳場」の看板と矢印があったので、入ってみた。松林を抜けた先がぱっと開けると、湖畔に出た。これは、なかなかの演出。ホテル琵琶レイクオーツカという建物。きっと客室の窓からは琵琶湖が一望できるに違いない。
小さな碑があった。「琵琶湖周航の歌」の歌碑だった。彫られていたのは2番の歌詞。
「松は緑に砂白き 雄松が里の乙女子は 赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや」
この辺りが、雄松が里というところらしい。
「琵琶湖周航の歌」。琵琶湖大橋を大津から守山へ向かって走ると、真ん中あたりから、メロディーが聞こえてくる。時速60㎞で走るとうまく聞こえるのが、「琵琶湖周航の歌」だ。
琵琶湖周航の歌は、旧制第三高校(現・京都大)のボート部が、琵琶湖を1周する漕艇のさなかに、高島市今津に寄港したときに詩が披露され、その後メロディが付けられ親しまれてきたものだ。こちらは大正時代にうまれたものだ。
調べてみると、これまで様々な人がレコーディングしていた。もっとも有名なのは、加藤登紀子が歌ったものだろう。(個人的には加藤登紀子の声が嫌いなので聞いたことはない)滋賀県民は誰もが歌えると聞いたが、実際には高齢者に限るようだ。若い人はほとんど知らないようだ(自分の周りで訊いた範囲)
高島の我が家の近く、萩の浜の入り口辺りにも、似たような碑がある。
こちらは、昭和16年、旧制第四高校(現・金沢大学)のボート部の遭難事故の追悼碑。「琵琶湖哀歌」が知られている。
萩の浜沖で突風に煽られて転覆するという事故。4月に発生していることから、気候条件をあまり知らなかったのではなかった。前にも書いたが、この地へきて、カヌーを始めたころ、琵琶湖は意外に恐ろしいことを知った。特に、岸辺近くでは、風と波が、浜ごとで違う。目の前の浜が凪いでいたとしても、一つ河口を超えると、風が強くなって波も高いということがある。特に、萩の浜から白髭神社、北小松へ向かうと、時折、比良山から吹き降ろす突風を体験する。
湖西線もこの辺りが強風で止まることが多い。そういう琵琶湖特有の気候条件を知らなければならない。昨年も、プレジャーボートが転覆するという事故があった。
琵琶湖を侮ってはいけない。
ところで、「琵琶湖哀歌」と「琵琶湖周航の歌」は、7割がた、メロディが似ていると言われる。聞き比べてみてもやはりそう思うし、琵琶湖哀歌を歌おうとすると、周航の歌になってしまうこともある。だから、旧制第四高校遭難事故を悼み、「琵琶湖周航の歌」が作られたと思っている人が少なくないにちがいない。かく言う私も、一時期、混同していた。
琵琶湖を素材にすると同じようなメロディになるというのはあり得ないことなので、おそらく、琵琶湖哀歌を作詞・作曲した方々が、琵琶湖周航の歌を意図的に使って作られたと考えるのが妥当だと思う。
旧制三高と旧制四高。なかなか興味深い。

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11日目④ソーラー発電所 [琵琶湖てくてく物語]

話を「てくてく」に戻す。
ぐるりと回りこんで再び、湖西線沿いの道に出た。赤く塗られた歩道を歩く。湖畔側には、現代的なデザインの家が並んでいた。見事に別荘だとわかる。
次第に湖西線が離れていき、別荘地を抜けたところで、視界が広がり、大型の太陽光発電所が目に入ってきた。
ここもか・・という思いで見た。ここから先、高島市にかけて、あちこちにこれくらいの規模のソーラー発電所がある。その多くは、耕作放棄地だ。
環境問題の解決策として、再生可能エネルギーが推奨され、全国各地で、耕作放棄地が太陽光発電所に代わっていった。最近では、絵系不振になり倒産した「ゴルフ場」なども使用されているようだ。
「食料より電力」。こういう時代が来るとは思いもしなかった。
もちろん、石油は有限資源であり、輸入に頼らざるを得ないのはわかっていた。
私が幼いころから、そういう問題を扱ったテレビ番組や映画は数多くあったので、環境問題や資源問題には関心があるほうだろう。
特に、太陽光発電(ソーラー発電)は、1973年オイルショックを機にかなり関心を集め、21世紀にはエネルギーの主力になるだろうとも考えていた。私が想像していたのは、各家庭が自前のソーラー発電でエネルギー自給が進み、大企業なども、自社で発電するようになり、自動車はすべて電気自動車に置き換わるだろうと思っていた。
だが、そう簡単ではなかった。
国は、原子力発電推進に舵を切った。安全性の不安から起きる住民の反対運動を税金を使った補助金で解決し、全国に広げていった。それも大半は過疎にあえぐ地域が対象になった。だが、原子力は人類のコントロールできないレベルのエネルギーである。それをわかっていながら無責任に広げていった。
その結果、あの東日本大震災では、取り返しのつかない甚大な被害を生み出した。しかし、喉元過ぎれば・・という言葉通り、今、再び、稼働し始めている。
CO2を大量に排出する、石油・石炭資源を基にした火力発電の問題は解決できない問題であり、再生可能エネルギーの開発は、全世界で極めて重要な問題であると同時に、石油エネルギーに置き換えられるほどには進んでいない。
この先の未来、何があるのか。
太陽光発電も万能ではない。天候に大きく左右されるため、安定した電力の確保が課題であると同時に、近年では、老朽化し発電能力が低下し、廃棄されるときの環境負荷の問題も大きく取り上げられるようになってきた。
近年注目されている「水素エネルギー」についても、水素を作り出すための電力の問題は解決できていないように思う。
何か、この問題を突破する画期的な発見は生まれないものか。資源の発見ではなく、環境負荷がないクリーンエネルギーは存在しないのだろうか?

そんなことを考えながら、歩いていくと、小さな橋に出た。橋を越えたところで、川沿いに湖岸に向かう道があったので向かうと、北小松水泳場に出た。
時計を見ると、ちょうど正午になっていたので、ここで昼食とした。
朝、近江高島駅前にあるローソンで購入したおにぎりを食べる。こうやって、コンビニで買い物をして、手ごろな場所で食事をとるのも11回目になった。還暦を迎えようという夫婦が、湖岸に腰を下ろして、コンビニで買ったおにぎりを食べている。周囲からはどんなふうに見えているんだろう。

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11日目⑤北小松水泳場 [琵琶湖てくてく物語]

北小松の湖畔を歩く。
鮎料理松水の横を通り過ぎる。松水の建物の壁に、味わい深いイラストと文字。
「はじめて食べた鮎の味。思い出すあの頃と、あの笑顔」
鮎になじみがない私でも、こういう表現には何かほっとさせられる。
海のそばで育った私には、そういう味というと、漁師だった父が『タテアミ漁』で獲ってきた魚を市場に出荷した後に残る「雑魚」ということになるかもしれない。
「雑魚」は、市場価値がない魚で、名前もわからないような雑多な種類が混ざっていた。
母はそれを甘辛く醤油で煮つけ、鍋ごとテーブルに運んできた。それを家族でつつくように食べた。おいしいかどうかよりも、腹を満たせるかどうかが重要な頃だった。ただ、「雑魚」は小骨が多いものばかりで、幾度ものどに骨をひっかけて大騒ぎになった。そのたびに、ご飯を丸呑みする。骨が取れると、家族みんなで安堵して笑った。貧しかった時代だが、楽しい時代でもあった。そんなことを思い出した。
その建物の反対側、湖畔に、芝生の広場とテーブル席。いくつもの柱が建っているので、おそらく、夏の水泳シーズンには休憩所になるのだろう。その先、湖に突き出た桟橋があった。なかなかの風景だった。
そこを通り過ぎて、不思議な場所を見つけた。
通り沿いは板塀が続き、真ん中あたりに立派な門がある。門の軒先には菊の御紋がついている。門の隙間から中をのぞくと、鳥居が建っていた。明らかに神社だった場所と思われるが、社殿はなく、空き地になっている。北の隅に、小さな社の屋根が板塀越しに見えた。但し書きも何もないので、何なのか全くわからない。空地の状態を見る限り、火事で焼失したとも思えない。GoogleMapを見ても何も書かれていない。御存知の方があれば是非お教え願いたい。
謎の場所を過ぎると、小松浜水泳場。湖沿いに「海の家」ならぬ「湖の家」が建っている。夏になると、賑わうのだろう。
さて、ここからは遮るものが何もない湖岸の道路を歩く。
アスファルト舗装はされているが、ぎりぎりに道路があるため、ちょっとハンドルを誤ると湖に落ちてしまうにちがいない。
遥か前方に、白髭神社らしきものが見えてきた。いや、まだまだ遠い。この辺りは別荘地ではなく、古くからの集落だ。大きな家が並んでいる。
この辺りは、国道161号線の高架化の工事が進んでいる。
先ほどのメガソーラー発電所までは、山間を抜けるバイパスが整備されたが、北小松はまだできていない。そのために、休日でなくとも、渋滞が発生しやすい場所だ。車に乗っている者には、厄介なところなのだが、見方を変えれば、住民からすれば、絶えず車が渋滞し、騒音と排煙に苦しんでいることになる場所で、高架化することでおそらく暮らしは一変するだろう。その高架化の中で、実に面白い風景が生まれている。
北小松にある「樹下神社(金刀比羅宮)」の参道を横切る形で高架橋が通っているのだ。まだ完成はしていないが、入口の鳥居と境内(社)の間に高架道路が走るようになっている。まだ、橋げたはできておらず、橋脚だけが並んでいるため、ちょっとわかりづらい。
完成すると、どんな風に見えるか。今は、鳥居から社がまっすぐに見えていて厳かな雰囲気を感じられるが、道路が完成すると、参道が分断されるように見えるはずだ。
信心深い者には、ショックな光景ではないだろうか。
ただ、先ほども書いたように、ここ北小松の住民にとって常に渋滞している道路が高架になれば、日常の暮らしはきっと静かなものになるに違いない。そのために、神の御力(社殿)を使わせていただくということで納得しているのかもしれない。
ひょっとしたら、とても変わった風景ということで、写真マニアとか神社マニアの参拝が増えるかもしれない。

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11日目⑥北小松集落 [琵琶湖てくてく物語]

湖岸を進んでいくと、ふいに気づいたことがあった。
湖岸に面した家にはどれも大きな石垣が組まれているのだ。ここまで歩いてきて、何度も見てきた光景。海津でも、和邇でも見かけた「湖の侵食・浸水」から家を守るための堰だ。かなりの古さを感じる場所もあった。琵琶湖東岸は、干拓等で近代的な護岸工事が進んでいて、こうした石垣を見ることはなかった。だが、琵琶湖西岸は、あちこちにこうした古い堰が残っていて、今も日常の暮らしを守っているのには驚いた。
しばらくすると、湖岸から離れて、家並みの中を歩くことになった。細いわき道があったので入ってみる。
それにしてもこの辺りには〇〇食品という看板が目に付く。
こんな場所で何を製造しているのか。答えは明瞭。この先に北小松漁港がある。鮎などの湖魚の佃煮を製造しているのだ。
古くからの町、少し調べてみると、琵琶湖の水運が盛んだった時代から、港として栄えていたらしい。ただ、そのころの港は湖底にあるそうだ。現在の北小松港は、昭和50年ごろに整備されたもので、それ以前は、小さな内湖を船溜まりにした小さな港だったそうだ。
その後、港が整備されると、船溜まりには、養殖池に代わり、現在は埋め立てられ姿を消してしまったらしい。
琵琶湖の水位に合わせ、姿を変えてきた北小松。おそらく、琵琶湖畔の古くからの集落や港はそういう歴史を持っているに違いない。別荘が立ち並んでいるのも、その歴史の1ページになるのだろうか。
北小松の集落を抜けると、国道161号線を歩くことになる。歩道は、左側にあり、湖岸からは少し離れる。ここから、高島までは、山が近く、平地が少ない地形になる。
崖下の「岩除地蔵尊」があった。
今から300年ほど前に建立されたようだが、もともと、この先に大きな岩壁(鎧岩)があり、落石が多く、安全祈願でお地蔵様が祀られたらしい。
この「鎧岩」は、明治20年ごろに開削され、現在は国道161号線が走っている。ただ、この先には、まだ落石の危険から、歩道は洞門になっている。
今、ちょうど、この「岩除地蔵尊」の上に、トンネルが作られている。161号線のバイパスである。かなり時間が掛かっていたところを見ると、おそらく、この地帯は破砕帯ではないかと考える。頑強な岩盤・岩壁であれば、落石も多くないはず。破砕帯であるからこそ、風雨によって浸食されやすくもろいのではないかと考える。
気になって、琵琶湖西岸断層の位置を調べてみた。
案の定、比良山系の麓にはいくつもの断層があり、北小松から白髭神社にかけては、断層が斜めに分断された状態で折り重なっていた。さらに、湖底にもいくつも断層があり、その距離と場所が重なっている。南東から北西に向かって、力が加わり、大地が盛り上がって、比良山系が構成されているようだ。
恐ろしいのは、その先の勝野断層がほぼ直角に走っていることだ。北東から南西にも力が加わっていて、それがぶつかる場所が、北小松から鵜川の辺りで、もっとも中心になるのが「岩除地蔵尊」が置かれている「鎧岩」がある場所になる。
ここらの地層はかなり複雑で、いくつもの破砕帯が存在しているに違いない。ちょっとしたことで、地崩れが起きてもおかしくないような場所だと思う。昔の人もそういう場所だと認識して、この「岩除け地蔵尊」を祀ったのだろう。

「岩除地蔵尊」にお参りして、ちょっと休憩。

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