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10日目⑥滋賀と志賀 [琵琶湖てくてく物語]

「中浜」の信号で、再び、大通り(県道558号線)に合流した。
歩道をしばらく行くと、「和邇港」が見えたので入ってみた。そこから左手に、湖岸沿いの遊歩道のようなものがあったので進んでみる。公園の中を歩いているような、良い道だ。すぐに小さな橋があった。喜撰川にかかる、コンクリート製の歩行者専用の橋だった。その先にも同じような歩道が続いている。遠くに、沖島が見える。ここから見える琵琶湖はかなり大きい。対岸が霞んで見えるほどだ。ここで湖岸の道路は左に曲がる。前方に白い棒がたくさん立っているように見えた。ヨットの帆柱だった。金網の向こうにかなりの数のヨットが置かれている。大通りに出ると「志賀ヨットクラブ」の看板があった。
妻が必ず、この「志賀」の文字を見るという言葉がある。
「あれって、志賀高原の志賀よね。滋賀県の滋賀と、志賀ってどういう関係?そういえば、坂本も、土偏の坂とこざと偏の阪の二つあって、混在している。変なの?」
「いや、大阪も二つあるよね。」
「どっちでもいいってことじゃないわよね。はっきりしてもらいたいわ。」
うーむ、いったい誰がどうやってはっきりさせるのか、それほどの意味があることなのか、同意しかねるが、ややこしくなるので、あいまいに頷く。
だが、確かに、彼女の言う通り、どうして二つの「しが」があるのだろう?
気になって調べてみたら、答えは意外にシンプルだった。
日本の地名は、まだ、漢字が入ってきていない時代から存在していて、「音」だけが伝承されていた。「シガ(カ)」という地名がまず存在し、奈良時代に、その音に様々な漢字が当てられたようで、「滋賀」「志賀」「志我」とか、とにかく定まらないまま時代が過ぎ、江戸期には「滋賀郡」「志賀村」など混在していたようだ。明治になって県名を定める際に「滋賀県」となったらしい。詳しく書くとちょっとややこしくなるのでやめておく。
ただ、「滋賀県」が生まれるまでには、「大津県(南部地域)」「長浜県(北部地域)」が存在し、さらに、一時は「小浜」も「長浜県」に属していた時があったようだ。
某放送局で「県民ショー」というのが長寿番組が存在するが、時々、ローカルすぎて、同県民でも知らないことが上がるが、無理もないことである。必ずしも、現在の都道府県のくくりが、その地域文化とは遊離した極めて「政治的意図」で編成されたためといえる。
私は、18年間、山口県民だったが、長門と周防では大きく文化が異なるし、40年ほど愛知県民だったが、尾張と三河では方言すら違っていた。今は、滋賀県民となったが、東西南北、あまりに地域が違いすぎることに戸惑っている。言葉(方言)が特に違いが際立っているように思う。高島市でも北部(マキノ・今津)では、北陸特有の語尾を伸ばす言い方があるし、米原の知り合いと話すと、極めて「岐阜言葉」に近いものを感じる。信楽に行ったときには「伊勢言葉」に近いものを感じた。おそらく、大津あたりだと、京言葉に近いのではないかと思う。
かく言う私は、どこの言葉でもないと自負している。
山口から名古屋に出たとき、長州言葉(ちょる弁)が恥ずかしくて封印した結果、いわゆる標準語を使うことに努力した。NHKアナウンサー並みに努力したつもりだ。だから、尾張名古屋の言葉も、東三河の言葉も、「別の言葉」としてインプットされ、使い分けができるようになった。
だが、関西弁は難しい。
高島に来て、近畿(関西)のイントネーションを聞き始め、法則的なものをようやく発見できたところで、標準語と逆のイントネーションを使うことが、良いらしい。
この歳になって、長州弁や尾張名古屋、三河弁、そして滋賀弁を楽しみながら使えるようになった。

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