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命の樹(序) [命の樹]

「それなら、あそこに行くと良いだろう。」
分解したエンジンを前に、油に塗れた笑顔で呟くように言った。視線は、今、取り外したばかりのクランクに注がれたままだった。
脇には、歪んだ丸椅子に居場所がなさそうな格好で座った、10代の青年が居る。
表情な硬く、何か思い詰めているような、でも、何かを求めているようでもなく、おそらく、自分の若さをどこに向けていいのかわからない、そんな表情だった。
口を開いたのは、20代後半の男であった。
「俺もさ・・・今のお前みたいだったと思うよ。」
10代の青年は、無表情のまま聞いているのか、聞いていないのか微動だにしない。
「何とか、会社に入ったのは良いが、途轍もなく、場違いなところに居るみたいでさ。満足な仕事なんかできないくせに、どこか認めてもらいたくて・・・何かが違う、何かが違うって・・いつも心の中で叫んでいたような気がするよ。」
一区切り、言葉をつづけると、再び、エンジンの方へ向き直り、先ほどの部品と見比べている。男の言葉に、青年は表情も変えず、硬くなったままだった。
「その店は、浜名湖の周遊道路を西へ走ると見えるよ。」
少し手を止めて、視線を天井に送り、何かきちんと思い出そうとしているようだった。
「小さく突き出した岬の上に建ってる、赤い屋根が目印になるんだ。でも、近づくと、ふいに視界から消える。まあ・・山影で見えなくなるだけなんだが・・・。」
男は少し笑みを浮かべている。きっと、そこへ行った時のことを思い出したのだろう。
男の言葉に、青年は少し遠くを見るように顔を上げた。
「きっとここらにあるだろうって見当をつけて・・進んでいくと、小さな自転車屋がある。・・・これを見落としちゃいけないぞ。そこに小さな焼き板が掛かってる。・・・喫茶【命の樹】はこの先ですって・・すごく遠慮がちに書いてあるんだ。」
そう言いながら、男は青年を見て、親指と人差し指で四角い形を作って見せた。それは、案内板と呼ぶにはあまりにも小さいサイズだった。
青年は少し表情が変わった。
四角く形作った指が真っ黒に汚れていたのと、おそらく、その指で鼻先でも触れたのだろう。男の鼻は真っ黒に汚れていて滑稽な表情をしていたのだった。それでも、【命の樹】の事を熱心に語ろうとするのとあまりにもアンバランスで、可笑しくなってしまっていた。
そんな青年の変化などお構いなしに、男は話を続ける。
「角を曲がると、両脇に古い民家が立ち並んだ通りがある。そうだな・・・300m位の通りだ。よおく見ると、その突き当りには、鳥居が建ってる。門前の町ってとこかな?一本道だから、もう迷うことはないだろうと、安易に入り込むととんでもないことになる。・・・まあ、これ以上説明するとつまらなくなるから・・そこから先はお前が確かめてみろ。・・・とにかく、そこから【命の樹】っていう店まではすぐだから。」
ようやく青年は、男の話の興味を持ったようで、一言聞いた。
「その店って何か旨い料理でも食わしてくれるんですか?」
その問いに、少し考えてから男は答えた。
「いや。たぶん、ない。」
男の答えは妙に中途半端だ。店を勧める以上、料理を勧めるべきなのだが・・・。
「その店は、サンドイッチしかメニューにはないんだ。ああ・・それと、コーヒーくらいかな。マスターなコーヒーにはこだわりを持っていたけど・・さほどおいしいとは思わなかったな。だいたい、メニューがひとつっきりってのは、客をバカにしてる!」
男の言葉は変だった。良い店だから進めるのが普通だが、半ばけなしている。
「じゃあ・・・景色がいいんですか?・・そうだ・・・奥さん?ママ?がきれいだとか?」
青年の問いに再び男は頭をひねった。
「景色はまあ、そこそこかな。なにせ、浜名湖を見下ろせる高台にあるからな。ママは・・まあ、あの年にしては綺麗なほうかもしれないが・・店にはほとんどいないし・・。機嫌がいい時は、絶品のパスタを作ってくれるんだが・・店の料理にはしていないみたいだからな。」
男との話はなんだかつじつまが合わなくなってきている。
青年もようやく興味を持ってきたのだが、いきなり、話が見えなくなってしまった。
「じゃあ・・・健さん、どうしてその店に行ってみろっていうんですか?」
男の名は健さんというらしい。
「いや。店の料理とかじゃなくて、あそこに行くことが大事なんだ。行けばきっと何か自分の中になかったものが手に入る。そんな場所なんだよ。」
健さんはそこまで言うと、再びバイクの方に向いて、修理を始めた。
その間、青年の頭の中には、浜名湖のほとりに建つ、赤い屋根の小さな喫茶店のイメージが広がっていた。ひげを蓄えた白髪交じりのマスター、その眼はすべてのものを見通すような深い色をしていて、寡黙だけど、大事なことをしっかりを教えてくれる。柔らかい風がそっと吹き抜けていく空間。・・・
「ああ、そうだ。もう一つ伝えておきたいことがある。マスターは、大した人物じゃないぞ。物知りみたいだけど、中途半端なんだな。大事な事はすぐに忘れてしまうし、どこかぼんやりしていて、奥さんには頭が上がらないし・・・。」
「何だか、健さんみたいですね。」
「バカ言うな、俺はあの人みたいにはなれない。・・とにかく、良い人なんだ。近くにいると、ほっとするっていうか、安心するんだ。逢ってみる価値はある。でも、何かを教わろうなんて無理だからな。そこは期待しない方がいい。」
「じゃあ、いったい、何が良くて、そこに行けっていうんです。」
「さあ・・言葉じゃうまく言えないけど・・・今、お前がどん詰まりの中にいるようだったから、そこへ行くと良い。俺もそうだったから。さあ、修理できたぞ。大事にしろよ。」
そう言って、目の前のバイクのシートを丁寧に拭いて、青年に見せた。
「もし、あの店に行くようだったら、ドーナッツを買って、手土産にもっていくと良い。俺から聞いたって言って、それを差し出せ。きっと奥さんは喜んで迎えてくれる。奥さんの好物なんだ。あそこで奥さんに気に入って貰えれば、しばらく、世話になれる。」


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1.朝日の中で [命の樹]

物語は、5年ほど遡る。

「おはよう。」
二階からゆっくりと階段を降りてきたのは、【命の樹】の奥さん、加奈だった。パジャマ姿でまだ少し眠そうだった。

この店のオーナーである、倉木夫妻は、五十歳になったのを機に、二人とも、会社勤めを辞めて、街場の自宅を処分して、この田舎に移り住んだ。
最初は、1年ほど、貸家を住まいにしていたが、高台のこの地を手に入れて、小さな店を作った。
赤い屋根のログハウス風の建物で、一階は喫茶店、二階には夫婦の居室のほかに二つほど部屋がある。時々、東京や名古屋に住む娘たちが顔を見せる。二人の娘はすでに成人し、それぞれに暮らしている。

店を開いてまだ1年半ほどしかたっていなかった。

主人の哲夫が厨房から声をかけた。
「おはよう。調子はどうだい?」
加奈は、ブラインドを開けながら答えた。
「ええ、元気よ。あなたは?」
「ああ、大丈夫だ。」
少し妙な挨拶だが、これが二人の朝のお決まりの会話だった。

加奈は、玄関に行って新聞を抜き取ると、朝日が差し込んでいる東の窓際の席に座った。
一応、喫茶店なので、白木のテーブルとイスが4セットほどおいてある。一つは西側の窓の下、一つは東側の窓の下。そして、二つのセットは、南に開いた掃き出し窓のところに並んでいた。中央には、大きめの真っ赤なソファセットが置いてある。
加奈は、老眼鏡をかけて、新聞を読み始める。そこへ、哲夫が、トレイに乗せた、朝食を運んでくる。
「ありがと・・・」
小さく呟くと、大きめのコーヒーカップを持ち上げて一口飲んだ。それから、視線をトレイの上に置かされたお皿にやる。
「さあて・・今日のメニューは何ですか?」
加奈の問いかけに、厨房に戻った哲夫が、遠慮がちに答える。
「今日は・・いつもの保育園へ届け物をする日なんで、小さめのパンを焼いてみたんだ。」
「ふーん。」
奥さんがちょっと口をとがらせるような表情をして、目の前の小皿に乗ったパンを見た。
口を尖らせたのには訳がある。
いつもは大抵、何かのサンドイッチが朝食メニューなのだ。
だが、時折、こうして新作のパンが登場する。
だが、哲夫が焼く新作のパンは二回に一回はお世辞にもおいしくないのだった。だが、率直のおいしくないと感想を述べると、哲夫の落胆ぶりは尋常ではなく、しばらく、何もできなくなるほどで、機嫌を取るのに苦労する。
だから、こんな風に新作が出てきたときは、加奈はこの後の展開を想像して、すぐに食べる気になれなかったのだった。
しかし、目の前にはすでに、子供の握りこぶしほどの小さくて丸いパンが二つ乗っている。

加奈がこういう気遣いをしていることを哲夫は気付いているのだろうか?加奈の心の中にはそんな疑問が絶えず湧いている。いや、おそらく何も気づいていないだろう。そういうことには気づかない鈍感さが哲夫の取り柄でもあるのだから。
加奈は、勇気を出して小さなパンを手に取った。
ほんのりと柑橘系の香りがしている。まだ焼いたばかりで温かい。半分に割ると、中から一層強い柑橘の香りが広がった。
「うーん、良い香り。」
この一言で、哲夫は満面の笑みを浮かべた。
加奈が半分に割ったパンをぱくりと頬張る。少し酸味はあるが気になるほどではない。それ以上に、口から鼻に抜ける香りが心地よく、噛んでみると甘さが口に広がる。
「これって・・・オレンジ?・・・じゃなさそうね。」
「ああ・・・この前、与志さんに貰ったみかんジャムを使ったんだ。最初は、ジャムパンにしようかと思ったんだけど・・・小さな子どもたちだから、ジャムをこぼして服を汚したしちゃうかなって思って・・生地に練りこんでみた。」
加奈は哲夫の得意げな顔を見て、にっこりとほほ笑んだ。
「合格!」
加奈の言葉に哲夫は小さくガッツポーズをして見せた。

「いけない、遅刻しちゃう。」
加奈は残りのパンとサラダを搔き込むと、バタバタと二階へあがっていった。
しばらくすると、身支度を整え、すっかり化粧も済ませた加奈が階段から転げ落ちるように降りてきた。
「今日は、午後も授業だから少し遅くなるかも・・・。」
「ああ、わかった。」
加奈は、車で三十分ほどのところにある専門学校の講師をやっていた。
ここへ来る前、介護の仕事に就いていて、多くの資格を持っていたので、知り合いを通じて、講師の口を手に入れたのだった。
「じゃあ、行ってきます。」
玄関を開けて出ていく加奈を哲夫は見送った。
「ああ・・看板、出しといてくれるかい。」
加奈は、哲夫の言葉に、手を挙げて答えた。
そして、高台から下へ降りる石段に足音を響かせて出かけて行った。下の方から、クラクションが一つなった。加奈のいつもの合図だった。

2.常連の与志さん [命の樹]

パン焼き窯は、厨房の勝手口を出たところに造られていた。
レンガを積み上げたしっかりした造りで、薪を使うタイプだった。
一度にたくさんは焼けないが、じっくりじっくり焼き上げる、そのゆったりした時間が哲夫は好きだった。不慣れなうちは火加減が判らず,随分だめにしてしまった事もある。天候にも左右される。真夏は地獄のような暑さだし、雨が降ればほとんど焼けない。それでも、そういった天候に左右されたのんびりした暮らしが好きだったのだ。

今日は、天気も良かった。火を入れて落ち着いたところで、すでに成型を終えたパンを窯の中へゆっくりと入れた。窯の横にあるベンチに座り、顔を上げると、朝日が湖を照らしてキラキラと輝く風景が広がっていた。ふーっと息を吐き遠くを眺めた。
パンが焼きあがるまで、こうしてのんびりと景色を眺めていると、決まって、来客がある。

その客は、玄関からはやって来ない。
パン焼き窯のある垣根の隙間から現れる。
がさがさと藪が動くと、ちょうど人ひとり通れるほどの垣根の隙間から、姉さん被りに野良着姿の女性が顔を見せた。
「やあ、おはようございます。与志さん。」
「ああ。おはようさん。」
与志さんは、70を超える老婆だった。
いつも朝早くから畑に出ていて、パンを焼いているときに限って、こうやって現れるのだった。おそらく、パンの焼ける匂いに誘われて来るに違いなかった。
与志さんはめったに店の中には入らない。
野良着で店を汚すのが嫌だということもあるが、パン焼き窯の裏手は、与志さんの畑を見下ろせる絶好の場所であり、その風景をじっくり楽しめるベンチが気に入っていたからだった。与志さんは、10年以上前にご主人に先立たれ、一人暮らしだった。喫茶【命の樹】が建っている土地はもともと与志さんのものだった。畑仕事用に小さな小屋を建てていたのだが、事情があって手放さざるを得なくなって、地元の不動産会社を通じて、倉木夫妻が買ったのだった。
与志さんの家は、畑を挟んですぐ下にある。だから、与志さんは畑仕事をしながら、気が向くと、こうやってパン焼き窯の横にあるベンチに来るのだった。
「今日も湖は静かだねえ。」

与志さんのいつもの言葉を聞くと、哲夫は決まって同じことを考えた。
きっとここからの眺めはご主人と一緒に眺めていたに違いない。そして、ここへ来るのは、少し寂しさを感じた時なんじゃないか。

「与志さん、ちょうど良かった。今日は与志さんに貰ったジャムで新作を作ったんだ。試食してみてくれますか?」
「ああ・・」
「ちょっと待っててくださいね。・・・ええっと・・・紅茶で良かったよね。」
哲夫はそういうと、厨房に戻ってすぐに、与志さん専用のカップに紅茶を入れてもってきた。
ベンチの前には小さなテーブルがある。ほとんど与志さん専用みたいなものだった。
哲夫はテーブルに紅茶のカップを置き、すぐにパン焼き窯を覗いた。
「うん・・いい具合に焼けてる。」
そういって、ゆっくりとパンを取り出し、小皿にパンを二つほど載せてテーブルに置いた。
「さあ、どうぞ。」
与志さんは、すでに紅茶に口をつけていた。そして、焼きあがったばかりのパンをしばらく眺めた後、ゆっくりと二つに割った。与志さんは、そっと鼻を近づけて言った。
「ほう・・みかんジャムを使ったんだね。」
哲夫は少し複雑な表情で答える。
「ええ・・・生地に練りこんでみたんです。どうかな?」
与志さんはぱくりと口に入れ、ゆっくり噛みしめるように味わっている。少し眉間に皺を寄せたが、すぐににこりと笑って言った。
「うん・・いいねえ・・・。」
「そう?良い?実は加奈も旨いって言ってくれたんだよね・・・。」
哲夫は得意そうな顔つきに変わった。
それを見て、与志さんは少し意地悪な表情で言った。
「やっぱり、私の作ったジャムは最高だね。」
「ええ?・・」
哲夫が少し落胆したような表情を見せたところで、与志さんは大笑いして、「いや、パンは最高だよ」と言った。哲夫も笑った。

「ねえ、与志さん。また今度、違うジャムもくださいな。」
「そうかい?・・そうだね、もうすぐ、梅の実の収穫に入るから、今度は、梅ジャムを作ってみようかね。」
「梅ジャムか・・・どんな味になるかな?」
哲夫はちょっとパンには合わないかもなと考えた。
「大丈夫さ、私が作るジャムなんだよ。きっと旨いに決まってる。」
与志さんは嬉しそうに答えた。
「これ、保育園に届けるんですよ。」
「そうかい・・きっと、みんな喜ぶだろう・・・。そういえば、あの子はどうしてる?」
「ああ・・・サチエちゃん?・・」
「ああ、それと妹のユキエちゃん・・・ちゃんと、暮らしてるんだろうね?」
「ええ・・サチエちゃんは今春には小学校に入りましたし、ユキエちゃんも保育園です。なんとか、親子三人暮らしているみたいで・・時々、店にも来てくれますよ。」
哲夫は思い出していた。


3.サチエとユキエ [命の樹]


サチエとユキエは姉妹だった。
半年ほど前に、哲夫は偶然、神社の入り口で姉妹と出会った。

晩秋の夕暮れ、哲夫は買い物を終えて店に戻るところだった。
いつもなら、鳥居をくぐってすぐに右の石段を店の方へ登っていくのだが、その日に限って、何か、神社へお参りしなければならないように思えて、足を向けた。
柏手を打ち、拝礼をして手を合わせていると、どこからか、しくしくと小さな泣き声が聞こえてきた。神社の森は深く薄暗い、さらに日暮れ近くなり、闇が近づいてきている時間帯だった。哲夫は恐るおそる、泣き声のする神社の裏手に回ってみた。
そこには、幼い姉妹が身を寄せるように座っていた。
「どうしたんだい、こんなところで?」
哲夫の声に、姉妹は驚いたように身を縮めた。そして、捨てられた猫のような眼で哲夫を睨み付けた。
「寒くないかい?」
哲夫の問いかけに、姉の方が首を横に振る。
「もう暗くなってきたから・・家まで送ってあげよう。」
そう言うと、再び首を横に振り、妹を強く抱きしめ頑なに拒む気配を見せた。
そこに、与志さんが現れた。
畑仕事を終え、自宅に戻る途中、哲夫の声を聞きつけたのだった。
「おや・・どうしたんだい?」
与志さんはそう言うと、哲夫を見た。哲夫の困った表情と小さく固まるように座る幼子の姿に大体のことを察した。
与志さんは、幼い二人に近づいて、優しく二人の手を取った。
「もうこんなに冷たくなってるじゃないか。お腹も空いてるんじゃないのかい?さあさあ、婆ばと一緒に行こう。」
そう言って二人を抱きしめた。そこに、加奈も仕事を終えて戻ってきた。
二人は、与志さんと加奈に抱っこされて、【命の樹】に連れていかれた。
もうすっかり外は暗くなってしまった。
窓辺の席に二人を座らせると、加奈が温かいミルクとパンを二人の前に差し出した。
「さあ、どうぞ。あったまるわよ。パンも食べてね。」
妹の方はいったん手を出しかけたが、姉に手を引っ張られてすぐに手を引っ込めた。
「良いのよ、遠慮なんかしないで。さあ・・・」
与志さんも二人の前に座って、同じように差し出されたミルクを飲んだ。
「ああ。旨いねえ。温かい。さあ、お食べ。良いんだよ、さあ。」
その様子に我慢できなくなったのか、妹がミルクを飲んだ。そして、パンを手にして口に入れた。
「おいしい・・・お姉ちゃん、おいしいよ。」
姉の方も、妹の様子を見て、我慢の限界に達して、ついにミルクを口にした。そして、ぽろぽろと涙をこぼした。今まで溜めてきた何かが一気に噴き出したようだった。
哲夫は、駐在所に電話をかけていた。幼い姉妹、きっと、親も心配しているに違いない。
すぐに二人の身元は分かった。
町の入り口近くにある古いアパートに住んでいる、サチエとユキエの姉妹だった。
以前にも何度か二人がアパートの外で泣いているのを近所の人に保護されていたのだった。
アパートには母親と三人で暮らしているのだが、元夫が、時々、ふらっと現れては、金をせびりに来るのだった。現れるときにはたいてい、酒を飲んでいて、アパートの外で大声を出したり、そこらのものを壊したりする。それを止めようと中に入れると、暴力をふるう、それが怖くて部屋から逃げて隠れていたのだった。

警察からの連絡を受けて、母親が【命の樹】にやってきたのは、夜10時を回ったころだった。
まだ20代前半くらいの若い母親だった。
目を真っ赤に泣きはらした様子で、口元には切れた痕と青あざも見える。明らかに暴力を受けているのが判った。母親は、店の前で何度も何度も頭を下げた。
「まあ・・いいから・・中へどうぞ。」
哲夫はそういうと母親を店の中へ入れ、椅子に座らせた。
「少し、落ち着きましょう。」
加奈がホットミルクを作って持ってきた。
「さあどうぞ。」
母親の名は、飯田郁子といった。
警察から聞いた話の真偽を確かめると、郁子はあっさりと認めた。
「みんな・・私が悪いんです・・・。あの子たちに怖い思いをさせてしまって、母親失格なんです・・・」
そう言って泣き始めた。
「そうじゃないだろ!みんな、元旦那のせいだろう!」
郁子の話を聞いていた、与志さんが腹立たしそうに言った。
ふと見ると、サチエもユキエもうつらうつらと眠そうな様子だった。
「今夜は、もう遅いし、ウチで寝かせてあげましょう。・・郁子さんも一緒にどう?」
「でも・・ご迷惑ばかりおかけしてしまって・・申し訳ないです・・・。」
「良いのよ。部屋は空いているし・・アパートに戻るのも大変でしょう?」
その日は、親子三人、2階の部屋に布団を並べて休ませる事にした。

哲夫と加奈は、ベランダのロッキングチェアに座り、コーヒーを飲みながら夜空を見上げていた。
「郁子さんって、まだ25歳なんだって。」
「ええ?じゃあ、うちの娘より若いんだ。」
「そうなのよ。」
「それで、二人の子どもを育ててるんじゃ大変だな。」
「そうよね。その上に・・。」
「ああ、たちの悪い元夫が付きまとってるなんて・・・何とかなんないのかね?」
「そうね・・悪縁を切るのは簡単じゃないのよね・・・。」
「何とかならないのかなあ・・。」

4.サチエとユキエ② [命の樹]

4 サチエとユキエ2
翌朝、三人が起きた時にはすでに朝食の支度は済んでいた。
「さあ、どうぞ。」
加奈は、窓際のいつもの自分の席に座って、三人を招いた。
「ごめんね。いつも、朝はサンドイッチなの。哲夫さんが朝食を用意しているのよ。」
哲夫は、サチエとユキエには小ぶりなサンドイッチを用意していた。はちみつとバター、ブルーベリーのジャムサンド、それとエッグサンドだった。
「お母さん、おいしいよ。」
妹のユキエが、口いっぱいにサンドイッチを頬張って、無邪気に言った。
「うん。おいしい。」
姉のサチエも一口食べて言った。
「ありがとう。そう言ってくれるとうれしいよ。」
郁子も、目の前のサンドイッチを口にした。
「本当・・美味しいね・・。」
そう言いながら涙ぐんでいた。
「サチエちゃん、ユキエちゃん、いつでも遊びにおいで。おいしいパン作って、待ってるから。」
哲夫は二人の頭を撫で乍ら言った。
親子三人は、朝食を終え、何度も頭を下げて、店を出て言った。

それから一月ほどが経った時だった。
夕食を終えて、片づけをしていると、店の玄関をどんどんと叩く音がした。誰だろうと哲夫がドアを開けると、必死な表情をしたサチエが立っていた。裸足だった。
「どうしたんだい?」
サチエはがたがたと震えている。
「お母さんが・・・お母さんが・・・。」
サチエはそういうと哲夫に縋り付いた。二階から降りてきた、加奈がその様子を見て、ただ事ではないと直感して言った。
「哲夫さん、すぐに警察には連絡して!私、アパートに行ってみるから。」
そう言って、加奈が店を飛び出していった。

加奈がアパートに着くと、部屋からユキエの叫ぶような泣き声が聞こえた。ドアを開けると、ユキエは、横たわった母親の傍らに座って泣いている。
「ユキエちゃん、大丈夫よ。」
加奈はすぐにユキエを抱きしめた。そして、横たわった郁子の様子を見た。
「郁子さん!大丈夫?」
反応がない。明かりをつけると、床には真っ赤な血が広がっている。
駐在所から警官が駆けつけてきた。
「救急車を!救急車を呼んでください!」
すぐに救急車が到着して、郁子を搬送した。

元夫がいつものように金をせびりに来て、断った郁子に逆上して、包丁で刺したのだった。すぐに、元夫は港近くで発見され、逮捕された。
幸い、郁子の傷は致命傷ではなく、1か月ほどの入院治療で済んだ。

「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません・・・。」
郁子は病室のベッドの上で泣いていた。
「しばらく、二人はうちで預かるからね。大丈夫、二人とも聞き分けのいい良い子だし、哲夫さんも可愛い娘を相手にできて幸せそうだし・・・だから、あなたは、何も心配しなくていいの。それより、早く怪我を治して、あの子たちに元気な姿を見せてちょうだい。」
病室で、加奈は郁子を前に笑顔で言った。
それから、郁子が退院するまでの間、サチエとユキエは【命の樹】で暮らすことになった。
サチエは、朝早く起きて、哲夫がパンを焼くのを手伝うのが気に入っていた。
パン生地をこねて成型し、焼きあがったパンを食べるのがこの上なく好きになっていた。ブドウパン、くるみパン、かぼちゃパン、チョコパン、どれも大好物になっていた。
ユキエは、加奈が毎晩絵本を読んでくれるのが大好きだった。それと、加奈と一緒にお風呂に入って髪を洗ってもらうのが何より好きだった。
哲夫は、何十年ぶりかに小さな娘ができたようで、サチエとユキエのやることの一つ一つが愛おしくてたまらなかった。加奈にしても、同様であった。
二人とも、毎日、笑顔で暮らした。しかし、夕方になると、パン焼き窯のある場所に二人はこっそりとやってきて、町の様子を眺めるのだった。その視線の先には、郁子が入院している病院があった。

1か月して郁子が退院した。しかし、まだ普通には動けず、親子三人で、もう一月ほど【命の樹】で暮らすことになった。

哲夫は、ベランダのロッキングチェアでコーヒーを飲みながら言った。
「二人を自分の娘のように思ってきたけど・・よく考えると違うね。」
「え?そりゃそうでしょ?本当の娘じゃないんだから・・・・。」
「いや・・そういう意味じゃないんだ。」
「どういうこと?」
「郁子さんが来てみて判ったんだ。ほら、郁子さんはうちの娘と同世代だろ?」
哲夫の言葉に、加奈もどういうことか判って、少しがっかりしたような表情をした。
「そうね・・・娘じゃなくて・・・」
「そうさ・・孫だろ?・・ね、加奈おばあちゃん。」
「嫌だわ・・おばあちゃん・・ああ、がっかり・・・。」
「でも、楽しかったねえ、ここ数か月は。」
「ええ・・とっても。あの子たちも早く結婚してくれないかしらね。」
加奈は、壁にかかった家族写真を見て呟いた。

5 奈美 [命の樹]


哲夫は、その頃の事を思い出すと、涙が零れそうになるのだった。
「ええ・・サチエちゃんはもう小学校に入りましたし、ユキエちゃんは保育園です。郁子さんは近くの工場に就職できて、ちゃんと暮らしているみたいです。時々、お母さんも一緒に、遊びに来ますよ。」
「そうかい・・それなら安心だが・・・。」
与志さんは、湖を眺めながら静かに言った。
「与志さん、ゆっくりしていってね。」
そう言うと、哲夫は、焼きあがったパンを届ける箱に詰め直すために厨房に入っていった。
与志さんは満足そうな顔で、残りのパンを口に運び、紅茶を飲んでいた。

哲夫は、厨房でちょうどパンが収まるサイズの紙袋にひとつひとつ包み込んで、平箱に移していた。その間には、客は一人も現れなかった。支度が終わると、箱を抱えて店を出た。
そして、石段を降りると、看板を裏返した。
≪しばらく不在ですが、じきに戻ります。よろしければ、店の中でお待ちください。≫
看板にはそう書かれていた。何と不用心な事かと思うが、滅多に客の来ない店にはちょうど良いのだった。

哲夫は、自転車の後ろに箱を載せて紐で縛ると、がたつきはないか何度か確認して、ゆっくりと出発した。保育園まではほんのわずか、鳥居を抜け、街並みを過ごし、門まで出ると左に曲がる。周遊道路を少し行くと、保育園が見えてくる。
園庭には子どもたちの遊ぶ元気な声が溢れている。
哲夫の自転車が近づくと、誰かが見つけて叫んだ。
「てっちゃんが来たよ!」
その声に、園児たちが一斉に集まってくる。
「てっちゃん、今日は何パン?」
「ジャムパン?」
「アンパン?」
口々に訪ねてくる。その声の中に、聞きなれた声が聞こえた。
「てっちゃん!」
ユキエだった。あの頃よりずいぶん大きくなっていた。

パンの入った箱を持って、園の中に入ると、園児たちはまっすぐに列を作った。
哲夫が箱を開けて一つ一つ園児に手渡す。いつの間にかそういう習慣になっていた。小さなパンを紙袋に入れたのはこの為だった。
哲夫の前に、小さなもみじのような手が広がる。
「はい」
そう言って、紙袋を一つ乗せると「ありがとう」と言って、小さな手が紙袋を大事そうに包み込む。みんなに行き渡ると、先生が声を掛ける。
「さあ、席についてね・・・いい、じゃあ、手を合わせてください。」
その声に園児たちは一斉に「いただきます。」と大きな声を上げる。そうして紙袋を開けてパンを食べ始める。哲夫の最も幸せな瞬間だった。
ふと見ると、ユキエと同じ組の女の子が一人、隅の方に座っていて、紙袋を開けようとしないのに気付いた。見慣れない女の子だった。その様子をユキエが気付いた。
「あの子、奈美ちゃん。ちょっと前にお友達になったの。」
最近編入したようだった。哲夫がそっと近づいて、訊いた。
「奈美・・ちゃんっていうのかな?」
その子は驚いた表情で哲夫を見て、こくりとうなずいた。
「奈美ちゃんは・・パンは嫌いだった?」
奈美は首を横に振った。
「じゃあどうして食べないの?」
その問いに、奈美はもじもじして答えられないような表情をしている。
「おいしいよ、食べてみて?」
奈美はこくりとうなずいて、紙袋を開けたが、じっと覗きこんだままだった。そうしているところへ、ユキエがやってきて言った。
「ねえ・・てっちゃん、お姉ちゃんの分も貰っていい?」
「ああ・・たくさん持ってきてから、もってお帰り。」
「お母さんにも良い?」
「ああ、いいさ。」
哲夫がそう答えると、じっと袋の中を覗きこんでいた奈美が驚いたように顔を上げた。
「え?貰ってもいいの?」
その問いに、哲夫は優しく答えた。
「ああ・・たくさん持ってきてるから・・・奈美ちゃんは幾つ欲しい?」
奈美は、手を広げ、思い出すようにして指を折った。
「三つ・・・裕くんとおじいちゃんとおばあちゃんの分・・・。」
「え?お父さんとお母さんの分は?」
哲夫が訊くと、奈美は俯いた。
そのやり取りを見ていた保育園の先生が哲夫に耳打ちした。
「奈美ちゃんのご両親・・少し前に交通事故に遭われて・・お父様は亡くなってしまって・・お母様もまだ入院中なんです。今、近くのお爺様のお宅に・・・」
哲夫は、言葉を失った。その様子に、先生が、
「さあ・・美奈ちゃん、はい、三つ。カバンにしまっておいてね。」
「ありがとう・・。」
奈美はそう言うと、満面の笑みを浮かべ、手にしたパンを大事そうにカバンにしまいこむと、席に戻って満足そうにパンを食べ始めた。

6 源治 [命の樹]


一週間が過ぎた日、加奈を送り出した後、哲夫は保育園へパンを届けるために、パン焼き窯に火を入れていた。与志さんはまだ現れていなかった。
ごそごそと厨房とパン焼き窯を行き来しているとき、ふと、玄関先に人影があるのに気付いた。
誰だろうと不審に思って、哲夫は、パン焼き窯のある裏手から、玄関へ回ってみた。
そこには、長靴に作業ズボン、Tシャツ姿の、白髪の男が立っていた。日に焼けた腕は太く、筋肉隆々で、一見して、漁師と判る風体だった。その男は、玄関からしきりに中の様子をうかがっているようだった。
「あの・・何か御用でしょうか?」
哲夫は男の背中越しの声を掛けたために、男はびくっと驚いて振り返り、じっと哲夫を睨みつけるような格好になってしまった。手には白い発泡スチロールの箱を抱えている。
「礼をしたくて来たんだ。これ、受け取ってくれ!」
男はそういうといきなり箱を哲夫に突きつけた。
「いや・・礼と言われても・・心当たりがないんですが・・・。」
哲夫は戸惑った。初対面の男から礼と言われても全く心当たりは無い。男は、眉間に皺を寄せて、さらに哲夫を睨みつけた。
「哲夫さんだろ?・・保育園にパンを届けてるって聞いたんだが・・・。」
「ええ・・確かにパンを届けてます。今日も届けるんですよ・・それが・・」
「だから・・なんだ・・そのパンで・・」
男は、どこから話すべきか少し戸惑っている様子だった。哲夫は、その様子に気付いて
「立ち話というのもなんですから・・宜しければ、中へどうぞ。」
と中に招きいれようとしたが、「この風体だからな・・」と男は遠慮した。
「ならば、裏へ回ってもらえますか?ちょうど今、保育園に持っていくパンを焼いているんです。様子が気になるので・・・・ああ・・裏にも、椅子がありますから・・ああ、そうだ、コーヒーいかがです?」
哲夫は男の返事を待たずに、玄関からパン焼き釜のところへ男を連れて行った。
「ここへどうぞ。すぐにコーヒーを煎れて来ますから。」
そう言うと勝手口から厨房へ入った。男は、ベンチに腰掛け、周囲を見回した。パン焼き釜からパンの焼ける匂いが漂っている。目の前には湖が広がり、なんて気持ちの良い場所なんだろうと感じていた。
目の前の生垣ががさがさと動くと、与志さんがひょっこりと現れた。
「おや?お前、源治じゃないか。なんだい、こんなところに、一体どうしたんだ?」
「いや・・俺は哲夫さんにちょっと用事が有って・・。」
「ふうん?で、てっちゃんは?」
「コーヒーを持ってくるって。」
与志さんはそれを聞いて、男の横に座った。
「ばあさんもここへよく来るのかい?」
「ああ・・気が向いたときに・・な・・。」
そんな会話をしているところに、哲夫が出てきた。
「やっぱり、与志さんもいらしたんですね。さあ、どうぞ。与志さんには紅茶を・・」
そう言うと、テーブルにコーヒーと紅茶を並べた。
与志さんは紅茶を一口啜ると切り出した。
「源治、お前の用事ってのはなんだい?」
その言葉に哲夫が反応した。
「源治さんっていうんですね。まだ名前も伺ってなかったから・・。」
「なんだい、お前、名乗らずにここにいるのかい?それでなくても怪しい風体なのに・・とんだ礼儀知らずだねえ。」
与志さんは源治を見下すように言った。
「うるさいよ、婆さん。俺は、礼を言いに来たんだ。」
「礼を?おや珍しい。・・お前も礼をいう事を覚えたのかい?」
初老の男を捕まえて、まるで子どもに言うように与志さんは言った。
「昔からの知り合いですか?」
哲夫が尋ねると与志さんが答えた。
「源治の事なら、赤子の時から知ってるんだ。若い頃には放蕩の限りをして、随分、皆に迷惑を掛けたもんさ。まあ、今は良い爺さんになったみたいだがねえ。」
「うるさいな・・なあ、哲夫さん。保育園にパンを持って行ってるんだってなあ。」
源治は、与志さんが現れた事で少し和んだように切り出した。
「ええ・・週に一度だけなんですが・・・」
「奈美って子を知ってるだろ?」
「ええ・・先週、初めて気づきましたが・・・。」
「奈美は俺の孫なんだよ。知ってるとは思うが、あの子の両親は、大きな事故にあって・・父親は死んじまった。即死だったそうだ。・・・母親の方は・・俺の娘なんだが・・・奇跡的に助かってな。今、病院にいる。」
「保育園の先生にお聞きしました。そうだったんですか・・・。早く元気になられると良いですね。」
哲夫が答えると、源治は大きな溜息をついた。
「いや・・おそらく・・無理だ。医者の話では意識は戻らないだろうって。大きな事故だった。連休を使ってうちへ帰省するって連絡があって、気をつけろとは言ったんだが・・それが・・高速から降りたばかりの、うちまであと僅かのところで・・大型トラックと衝突したんだ。奈美や裕も・・裕ってのは弟の方だが・・乗ってたんだ。だが、娘が二人を庇う様にして、車に挟まっていたらしい。それで二人はほとんど無傷だったんだ。車は見る影も無いほど大破していた。トラックの居眠り運転らしいんだが・・」
源治の話をじっと聞いていた与志さんがふと漏らすように言った。
「不憫だねえ・・。」
哲夫は源治に掛ける言葉を失っていた。源治は、遠くを見ながらコーヒーを一口飲んだ。

7 礼の意味 [命の樹]


「奈美も裕も、うちへ来てからずっと元気が無かったんだ。まだ、両親の話はしていないんだが、子どもなりにわかっているみたいだ。だが、寂しいって泣くことをしないんだ。笑う事もない。何だか、死んでるみたいなんだ。・・奈美は保育園に行き始めて少し話しもするようになったんだが・・裕は何一つ言わなくなった。じっと一日、縁側に座って外を眺めてる。まだ三つだぞ・・そんな小さな子が・・・。」
源治は、そう言いながら涙ぐんでいる。
「おれも、女房も、何とか元気付けようとしてるんだが、変わらない。女房なんか、子ども達の様子を見ては毎日のように泣いている。」
哲夫は保育園で会った時の、奈美の笑顔を思い出していた。
「でも、奈美ちゃんはこの間、保育園で素敵な笑顔を見せてくれましたよ。」
「ああ、そうなんだ。あの日、保育園から奈美が戻ってきた時、びっくりするほど元気だった。そして、縁側に座っている裕のところへ一目散に駆け寄って、カバンの中から紙袋を取り出したんだ。」
「・・あのパンですか?」
「ああ、小さなパンだった。裕の奴、奈美からパンを貰うと、パクっと食べたんだ。そしたら、美味しいって口を開いたんだ。そして残りを綺麗に食べると、にっこりと笑ったんだよ。」
源治はそのときの情景を思い出して、満面の笑みを浮かべていた。
「初めてだったよ。あいつのあんな笑顔。そしたら、奈美もにっこりと笑ったんだ。女房はそれを見て涙を流したよ。俺もな。・・奈美はカバンにもう二つパンを持ってた。裕が食べたのを見てから、俺たちにもくれようとしたんだが、俺は、裕の笑顔が見たくてなあ。二人で食べるように言ったんだ。二人は縁側にちょこんと座って、美味しそうに食べてた。それから、裕は、随分元気になった。奈美も毎日嬉しそうに保育園に行くようになったしなあ。女房ももう泣く事も無くなったし・・。」
「そうですか・・それは良かった。」
「だから、哲夫さんにどうしても礼を言いたくてね。」
「いえ・・僕はただ、パンを作っただけですから。裕君が元気になったのは、奈美ちゃんのお陰でしょう。きっと奈美ちゃんも裕君が元気が無い事を苦にしていたんじゃないでしょうか?それに、そんな裕君を見て奥さんや源治さんが悩んでいるのも辛かったんじゃないでしょうか?奈美ちゃんの気持ちが裕君に伝わったんでしょう。」
それを聞いて、与志さんも言った。
「きっとそうだろうよ。お姉ちゃんというのは、時に母親代わりをするもんさ。」
「きっとそうですよ。だから、お礼なんて要りません。むしろお礼を言いたいのは僕の方です。僕の作ったパンでそんなふうに元気付けられる事があるなんて・・教えてくださって本当にありがとうございました。」
哲夫は心からそう思っていた。保育園でパンを配る時、子ども達の笑顔だけで充分幸せを感じることができていた。だが、源治の話しはさらに自分のパンが役に立っている事を証明してくれている。この町に来て良かった、哲夫はそう強く感じていた。
「いや、このままじゃ俺の気がすまない。これを受け取ってくれ。今朝、獲ってきた魚だ。俺にはこれくらいしかできないからな・・。」
源治は脇に置いていた発砲スチロールの箱を哲夫に突き出した。蓋を開けると、きらきらと光る魚がたくさん入っていた。
「おや・・美味しそうだね。キスかい?」
「ああ、今、旬だからな。」
哲夫は礼を言って受け取り、少し、与志さんにも分けた。
「源治さん、パンを食べてみてください。焼きたてできっと美味しいはずです。」
哲夫は源治の返事も訊かずに釜へ行き、焼きあがったパンを出してきた。
源治と与志は、パンを口にした。
「ふうん・・これは梅を使ったね?」
「ええ・・与志さんにいただいた梅ジャムを入れてみたんです。どうですか?」
「ああ、旨いよ。」
源治も頷いた。
哲夫は満足そうな笑顔を浮かべ、焼きあがったパンの並んだ皿を持って立ち上がり、「ゆっくりしていってくださいね。」と言うと、厨房へ入って行った。
「さあ、仕事、仕事。」
与志は残った紅茶を飲み干すと、そう言いながら、垣根の間から畑へ戻って行った。
源治は、与志を見送ると、厨房を覘いた。中で、哲夫がパンの袋詰めをしているのが見えた。源治は少し躊躇いながらも、そっとドアを開けて声を掛けた。
「あのさ・・哲夫さん・・。」
「源治さん、どうしました?」
「その・・保育園に持っていくパンを袋詰めしてるんだろ?」
「ええ、いつものことです。」
「俺にも手伝わせてもらえないかな?」
「ええ・・いいですよ。さあ、どうぞ。」
「そうかい?」
源治は、哲夫の横に立つと、黙々とパンの袋詰めを始めた。源治はそのごつい手で小さなパンをひょいっと摘まむと、白い紙袋に入れて、両端をくるりと回して口を閉じた。そして、全て終えると満足そうに帰っていった。

哲夫は、保育園にパンを運んだ。いつものように、子どもたちが次々にパンを受け取る。その中に、元気な笑顔の奈美の姿もあった。
「奈美ちゃん、はい、パン。今日は4つ、持ってお帰り。特別なパンだからね。」
「とくべつなパン?」
奈美は哲夫の言葉にきょとんとした。
哲夫は奈美の耳元で小さく言った。
「今日のパン、源治さんが袋に詰めてくれたんだよ。」
奈美は、一瞬、驚いた表情を見せ、すぐに、満面の笑みを浮かべ、哲夫から大事そうにパンを受け取った。

8 診察の日 [命の樹]


夕方に、加奈が帰宅すると、哲夫は今朝からの出来事を嬉しそうに話して聞かせた。
「良かったわね。」
加奈は、哲夫の話を一通り聞き終えると、哲夫に負けないくらいの笑顔で、そう言った。
「ああ、良かった。ここへ来て良かった。人の輪の中で生かされてるって実感したよ。」
「そうね。」
哲夫の言葉を聞いて、加奈はほろりと涙を流した。それに気づかれないように、加奈が立ち上がって言った。
「今日は、私が夕飯を作るわね。」
加奈が、エプロンを着けて冷蔵庫を覗き込むと、白い皿にキスが開いてあるのを見つけた。それに気づいて哲夫が言った。
「たくさんキスを貰ったから開いておいたんだ。フライか天ぷらかにしようよ。」
「いいわねえ。じゃあ、今日は天ぷらにしましょう。残りは、フライにできるようにパン粉をつけて冷凍しておけばいいわ。・・ねえ、キスフライのサンドイッチっていうのも良いんじゃないかしら?」
哲夫も厨房に入り、夕食作りを手伝い、その日は、キスの天ぷらをおかずに楽しく夕食を済ませた。

片づけを終えて、二人は、中央に置かれた真っ赤なソファに座って、コーヒーを飲んで寛いでいた。
「ねえ、次の診察は明後日よね?」
哲夫は少し疲れたのか、うとうとしながら答えた。
「ああ、明後日だよ・・・。」
「大丈夫よね?」
「ああ・・ここへ来てから調子は良い。大丈夫さ。」
夜が更けていった。

翌々日、加奈は休みを取って、哲夫を病院へ送っていく事にしていた。病院は、浜松市内の大学病院だった。
「今日は、CT検査もあるから午前中いっぱい掛かるよ。駅前にでも行ってくれば?」
哲夫はそう言ったが、加奈は一緒にいるといって駐車場に車を停めた。
病院に入るとすぐに診察室へ向った。
「あら、随分、元気そうですね。」
診察室には、30代の女性の医師がパソコンを前に座っていた。
「水上先生、お久しぶりです。最近、調子がいいんですよ。」
そう言いながら哲夫は椅子に座る。
水上医師は、哲夫の顔色や目の様子、胸部・腹部に聴診器を当てて、音を聞き、触診まで手早く済ませた。
「じゃあ、今日は、CT検査と血液検査、エコーもやっておきましょう。」
水上医師がそう言うと、若い看護士が検査室へ案内した。
診察室を出ると、加奈が長椅子に座って待っていた。加奈は、哲夫の顔を見て微笑んだ。そして、階段の方を指さして、コップを持つ仕草をした。病院内にある喫茶店に行くという合図だった。哲夫は了解したというふうに頷いた。
哲夫が検査室に向うと、加奈はすぐに診察室に入った。
「加奈さん、おじさんに変わった様子はありませんか?」
水上医師はかなり深刻な表情を浮かべて加奈に尋ねた。
「・・引っ越してから、かなり調子は良いみたいです。見た目にはずいぶん元気になったなあって・・・。」
「そうですか。・・・体重は?」
「変わってないはずです。食欲もあるみたいですし、毎朝、早起きして店の準備もやってます。パン焼きの腕も随分上達したみたいです。先生も一度いらしてください。」
「あの・・加奈さん・・先生って呼ぶの、やめてもらえませんか?何だか、変な感じ。いつもみたいに、結って呼んで下さい。」
「え?でも・・ここでは水上先生でしょう?」
水上医師は少し嫌な表情をしながら話をつづけた。
「まあ良いです。検査の結果を見なければわかりませんが、もうすぐ、痛みが強くなるかもしれません。痛むが強くなれば、食欲も湧かなくて、次第に体力が落ちてきます。そうなると、一気に深刻な状態になると思いますから。小さな変化でもすぐに知らせてください。早く処置すればそれだけ長く生きられるはずです。」
「はい・・・すぐに・・。」
加奈は涙を浮かべていた。そう話す、水上医師も涙を浮かべている。
「くれぐれも、無理だけはさせないでください。」

加奈は、水上医師と話をしたあと、喫茶店に行った。
検査には1時間ほど掛かった。検査を終えて診察室に戻って来ると、加奈が診察室の前の長椅子で待っていた。加奈は「大丈夫?」というような視線を送る。哲夫はいつもの事差というふうに微笑んだ。
診察室に入ると、水上医師がCT検査の結果やエコーの結果を食い入るように見ていた。
「どうですか?」
哲夫が椅子に座って医師に尋ねる。
「うーん・・・」
水上医師は、哲夫の方を見ず、じっと検査結果を見比べている。
「まあ・・大きな変化はないようね。薬はちゃんと飲んでいますね?」
「ええ・・。」
「今のところ大丈夫でしょう。ただ、無理は禁物ですよ。調子が悪くなったらすぐに連絡してくださいね。」
「はい。でも、先生もお忙しいでしょう。」
哲夫の返事に水上医師は半ば怒ったような表情で言った。
「何、言ってるんですか!良いですか、たとえ何があろうと、おじさんの具合が悪ければすぐに行きますからね。おじさんには1日でも長く生きていてもらわないと・・・」
水上医師はそこまで言うと、医者らしくなく涙を浮かべていた。
「ごめん・・結ちゃん、ちゃんと連絡するよ。ごめんね。」
「もう・・おじさん・・おじさんが居なくなったら・・私・・。」
哲夫の言葉に、水上医師は、もう医師であることを忘れていた。


9 おじさん [命の樹]


水上医師が≪おじさん≫と呼んだのには理由があった。
まだ、水上医師が高校生の時、暴漢に襲われたところを、哲夫が偶然通りかかって救ったことがあったからだった。

18年ほど前の夏の日の出来事だった。
哲夫はまだ名古屋の製造メーカーで開発部のリーダーになったばかりだった。終電で帰宅するのが常だったが、その日はいつもより早く帰宅できた。それでももう午後9時を回っていた。
駅から自宅までは自転車だった。自宅のマンションが遠くに見える辺りまで来た時、悲鳴のようなものが聞こえた気がした。自転車を停めて、聞き耳を立ててみた。空耳か?と思ったが、念のため辺りを観察してみた。
右前方に小さな神社があった。神社に上がる石段の脇に、ピンク色の自転車が倒れていて、学生のカバンらしきものが転がっていた。もしやと思い、近づいてみると、再び悲鳴が聞こえた。こんどは空耳ではない。
声は神社の横の土手の下から聞こえたようだった。近くに街灯はなく、月明かりでぼんやり様子が見える程度だった。慎重に声のする方に近づいてみた。草むらの中に人影が見えた。目を凝らしてみると、男が誰かに馬乗りになっているように見えた。
「何してる!」
哲夫が声を掛けると、一瞬人影はびくっと動きを止めた。
「た・・す・・け・・て・・」
口を押えられているのか、とぎれとぎれに漏れるような声がした。
「止めなさい!こら!やめろ!」
哲夫は暴漢だと確信して怒鳴った。
哲夫の声に、男が立ち上がり、フーフーと肩で息をしながら、哲夫の方を向いて、鬼のような形相で睨み付けた。手にはキラリと光るものが握られている。
男はじりじりと哲夫に近づいてくる。次の瞬間、ドスンと男は哲夫に体当たりをした。左脇腹に鈍い痛みが走る。哲夫は男の腰に手を回し、ベルトを強く掴んだ。男は身を離そうともがこうとしたが、哲夫はがっちりとベルトを掴んで離さない。
「さあ・・はやく・・逃げるんだ!・・どこでもいい、近くの家に飛び込むんだ!」
女子高生らしい女の子は哲夫の声にはっと気づいて、身を起こした。
哲夫が男と揉み合っている様子を見て、女の子は「わあ」と声を上げて駆け出した。
男は、追いかけようと再び身をよじる。その度に脇腹が強く痛む。哲夫は意識が徐々に朦朧とし始めていた。そのうち、女の子が飛び込んだ家から数人の家人が飛び出してきた。周囲の家からも何事かと出てきた。
哲夫はついに気を失って倒れ込んだ。その隙に、男が逃げようとしたが、周囲は既に多くの人が取り囲んでいた。
「すぐに、警察が来る。もう逃げられんぞ!諦めろ!」
男は為すすべなく取り押さえられた。パトカーのサイレンが響いている。
「怪我をしてる!救急車を!」と誰かが叫んだ。
哲夫の腹部にはナイフが突き刺さったままだった。真っ赤な血が流れている。

哲夫が目を覚ますと、病院のベッドの上だった。脇には加奈が座ったまま眠っていた。
身を起こそうとしたら、腹部に激痛が走った。
「いてて・・」
その声に加奈は目を覚ました。
「気がついた?」
「ああ・・。」
加奈は哲夫の返事を確認すると、ナースコールを押した。すぐに医師と看護師がやって来た。医師は、哲夫の顔や目を診察して「もう大丈夫でしょう」といって帰っていった。看護師が腹部のガーゼを交換した。
ふと見ると、加奈がぽろぽろと泣いている。
「どうしたんだ?」
「どうしたじゃないわよ!無茶するんだから!死ぬところだったのよ!」
「そんな、大げさだなあ・・・。」
その会話を聞いて、看護師が言った。
「いえ・・大げさじゃありませんよ。三日間もこん睡状態だったんですから。」
「三日?・・・そんなに?」
「先生は、最初、覚悟してくださいなんておっしゃったんだから・・・。」
加奈はまだ涙が止まらなかった。
哲夫は「心配かけてごめんな?」というのが精一杯だった。

意識が戻った事を聞いて、すぐに警察がやってきて、事件の様子をしつこく尋ねてきた。おそらく、証拠固めをしているのだろう。発見した時のこと、男がどのように向ってきたのか、ナイフはどのように持っていたとか、よく覚えていないことも尋ねられた。ようやく一通りの質問が終わったところで、哲夫が訪ねた。
「女の子は無事だったんでしょうか?」
「ええ・・幸いにも・・無傷でした。」
哲夫は安堵した。
薄明かりの中、遠くに逃げ去る女の子の後ろ姿はぼんやり覚えていたが、無事だったかどうか、気になっていたのだった。警察が帰ると、哲夫は少し眠った。

午後、加奈が子どもたちを連れてやってきた。
「お父さん、大丈夫?」
上の娘の名は、美里(みさと)といい小学6年生だった。下の娘は千波(ちなみ)で3年生になる。二人の娘は神妙な顔で訊いた。
「ああ・・大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて。」
そう答えると、二人の娘は哲夫に抱きつくようにしてわあわあと泣いた。
事件の事は加奈から聞いていたのだろうが、意識が戻るまでは会わせない方がいいだろうと、加奈は二人に留守番をさせていたのだった。二人は、随分と心細かったに違いなかった。哲夫は二人を抱きしめ、何度も何度も謝った。

10 水上 結 [命の樹]


しばらくの時間、美里や千波からここ数日の様子を聞いて楽しく過ごした。
夕方近くになったころ、病室のドアがノックされた。
「どうぞ・・。」
哲夫が返事をすると、初めて見る、40代くらいで小柄な看護師が入ってきた。
「検温ですか?」
その看護師は、「いえ」と返事をして、「さあ、入りなさい」と誰かに声を掛けた。
女の子が一人、看護師の後ろをついて病室に入ってきた。
ベッドの脇まで来ると、看護師が深々と頭を下げながら言った。
「このたびは、娘を助けてくださって・・本当にありがとうございました。」
隣にいた女の子も頭を下げた。
看護師の言葉で、哲夫は、この女の子があの時の女子高生だった事を理解した。
「無事で良かった。」
哲夫が言うと、女の子は、緊張した表情で、再び頭を下げた。
「水上・結です。・・本当にありがとうございました。」
母である看護師は、哲夫が救急搬送された時、偶然にもこの病院の当直で、事件の様子も、哲夫の怪我の具合も、一時は命の危険があった事も全て知っていて、暴漢から娘を守って貰った事に深く感謝し、何度も何度も頭を下げた。
「もう・・良いですから・・・偶然、通りかかっただけだし・・それに、・ああ・そう、警察にも注意されたんですが・・刃物を持っている相手に素手で向うなんて絶対やめなさいとね・・。ゆい・・ちゃんだったか・・君がすぐに逃げて人を呼んでくれたお陰で、僕も死なずに済んだんだから・・礼を言うのは僕の方だよ。」
哲夫の言葉に、水上結は緊張が解けたのかぽろぽろと涙を零した。
結の母親は帰り際に、お礼にと、紙袋を差し出した。加奈は「お礼なんて要りませんよ。」と言った。
「なあに?」
下の娘の千波が、不躾に袋の中を覗きこんだ。
「わあ・・みかんだ!」
「ええ・・私の実家で作ったみかんなんです。父がたくさん送ってきてくれたんです。こんなもので済みませんが・・どうぞ、受け取ってください。」
そう言って、結の母が差し出すと、千波がパッと受け取ってしまった。
「ありがとうございます。この子たち、みかんが大好きなんですよ。」
哲夫は、二ヶ月ほど入院治療が必要で、その後もリハビリが必要だった。
会社では、開発部の課長として幾つかのプロジェクトを仕切っていた。長期入院とわかって、翌日には部下たちが病院へ押しかけてきて、たくさんの書類をベッドの周りに広げた。その様子に看護師は厳しく注意した。しかし、哲夫は、仕事の状態を考えると部下たちには注意もできず、入れ替わりでそっと来るように言うしかなかった。哲夫はベッドから動けない状態であり、隠れてしまうわけにもいかず、会社に行くよりも仕事をしたような気がしていた。
そんなある日、水上結が一人で尋ねてきた。
「おや・・どうしたの?一人で?」
「はい。お見舞いに来ました。先日はまだ事件の事で動揺していて、きちんとお礼がいえませんでしたから・・。本当にありがとうございました。」
今日は、制服姿のためか、礼を言いに来た時と、少し印象が違っていた。
「学校の帰りかい?」
「はい・・このあと、塾に行くんです。あの日は塾の帰りでした。」
結は、地元でも有名な進学校のものだった。
「そうか・・受験する大学はもう決まってるの?」
「はい。浜松の大学です。自宅からも通えますから・・・。」
「そうか、受かるといいね。それで将来は?」
「医者になりたいんです。」
結はきっぱりと答えた。
「そうか・・医者か。すごいな。・・・じゃあ、勉強、がんばんなくちゃね。」
「はい。」
「どうなんだい?受かるのかな。」
哲夫は質問してからしまったと感じた。誰もが不安になる時期だった。
「はい。きっと大丈夫です。」
結の返事は、先ほどにもましてはっきりと自信をもって答えた。

結は、その後も何度か見舞いにやって来た。
結は、幼い頃、父を病気で亡くしていて、母子二人暮らしだった。医者になろうと決めたのも、父の事がきっかけになっていたし、看護師である母の影響も大きかった。
結は病室を訪れるたびに、学校の事、友達の事、受験の事、等いろんな事を遠慮無しに哲夫と話せるようになっていた。哲夫は、次第に、結が自分の中に父親を感じているのではないかと思うようになり、そういうふうに接するようになっていた。
結は、哲夫が自宅療養になると、自宅にもやってきて、娘たちとも仲良くなった。結の母は当直などで不在になる事も多く、そんな日は、哲夫の家に泊まるようにもなっていた。
一番喜んでいたのは、上の娘の美里だった。突然、素敵な姉ができたようで、何でも相談した。結も一人っ子だったから、可愛い妹が二人でき、勉強を教えたり、一緒に遊んだりするのが楽しみにもなっていた。
結は、哲夫の事を自然に「おじさん」と呼ぶようになっていった。だが、加奈の事は、「叔母さん」ではなく、何故か「加奈さん」と呼んでいた。
結の受験が近づくと勉強が大変になったようで、次第に疎遠となっていったが、時折、息抜きのつもりなのか、やってきて楽しい時間を過ごしていた。
年が明け、「念願の医大に合格した」と結が報告に来た時、盛大にお祝いをした。
哲夫も加奈もわが事のように喜んだ。
大学に進んでからも毎月のようにやってきていたが、医師として病院勤務になってからは、仕事が大変な様子らしく、少し疎遠となっていた。

11 哲夫の病気 [命の樹]


哲夫が50歳になったある日、会社帰りの駅の改札で急に気分が悪くなり、そのまま、その場に蹲った。それを、駅員が見つけ、救急車を呼んだ。
運ばれた病院には、結が勤務していて、その日は偶然当直をしていた。
救急車が到着した時、患者の顔を見て、結は驚いた。
「どうしたの!おじさん!しっかりして!・・御家族に連絡は?」
「いや・・まだ・・身元も調べていませんので・・。」
救急隊員の返答に、結はすぐにPHSを取り出して、加奈に連絡を取った。
治療室に運び込まれた時、哲夫の呼吸は弱く、血圧も急激に低下していた。結は看護師に指示してすぐに治療に当たった。
治療を終えた頃、ようやく、加奈が顔色をなくして現れた。
結が治療室から出てくると、加奈が待合室でうな垂れて長椅子に座っていた。
「加奈さん・・・。」
結が声を掛けると、加奈が駆け寄ってきた。
「哲夫さんは?・・いったいどうしたの?・・朝はなんとも無かったのに・・・。」
そう言うとぽろぽろと涙を零して泣き始めてしまった。
「大丈夫です。今は安定しています。・・・でも、詳しく検査してみないといけません。」
結の言葉に加奈が言った。
「検査?」
「ええ・・おそらく心臓か肺か、あるいは肝臓か・・・。」
「そんなに悪いの?」
「いや・・でも、こんな状態になるなんて・・深刻な状態を疑ってみないと・・すぐに入院手続きを取りましょう。少し長くなるかもしれません。」

翌朝、哲夫は病室のベッドの上で目が覚めた。加奈が、哲夫の手を握って座っていた。
「ここは?」
「市民病院よ。昨日、駅で倒れたの。それで救急車でここへ運ばれたのよ。」
加奈に言われて、少し記憶が戻ってきた。確かに、改札を出た時気分が悪くなって座り込んでしまったような記憶があった。
ドアがノックされて、白衣を着た結が入ってきた。
「どう?おじさん。」
結は、哲夫の体の具合を尋ねたのだが、哲夫は、
「いや・・りっぱな女医さんになったんだね。聴診器もかけて・・驚いたよ。」
と答えた。
「何言ってるの!調子はどうかって訊いてるんですよ。」
結は困った表情を浮かべて言った。
「ああ・・そうか・・・・いや、どうって言われても・・まだ・・・。」
結に訊かれて改めて自分の状態を考えてみた。全身がだるい、頭もぼんやりしている、だが痛い所はなさそうだった。
結はベッドの脇に立つと、ペンライトを取り出して、哲夫の瞼を広げて瞳孔の状態をチェックし、「さあ、胸を見せて」と言って、聴診器を当てて音を聞いた。最後に心電計をチェックして、心拍と血圧を確認した。
結いは一呼吸おいてから、じっと哲夫の顔を見て言った。
「おじさん、暫く入院です。詳しく検査をしておきましょう。重い病気だと困るから・・・。」
「いや・・だが・・どこも痛くないし・・ほら・・きっと疲れが出たんだろ?少し休めばいいくらいじゃないのかい?」
「昨日ここへ来た時の状態を見る限り、ただの疲労ではなさそうなんです。」
「一体、どんな病気が・・健康診断も受けてるし・・今までどこも悪くなかったんだ・・。」
「健康診断でわかる範囲なんて僅かなんですよ。これを機会にしっかり調べておきましょう。ねえ、加奈さん?」
結は哲夫が納得しそうも無いので加奈に援護を求めた。
「ええ・・そうしてちょうだい。・・哲夫さん、もう50歳なのよ。あちこち悪くなってるかもしれないじゃない。結ちゃんが言ってるんだから・・ね。」
加奈の言葉に哲夫はしぶしぶ承諾した。
精密検査が始まった。2週間ほどで結果が出た。
結は、検査結果を見て愕然とした。
哲夫の病気は、末期の肺癌だった。他への転移は無かったものの、小さな癌細胞が肺のあちこちに広がっていて、切除手術では取りきれず、抗がん剤治療も難しい状態だった。
結は、結果を哲夫にどう伝えればよいのか考えあぐねてしまい、加奈を呼び出した。
加奈は、結から結果を聞き、おいおいと泣いた。結も、加奈と一緒に泣いた。医師としての非力さと、親しい人であるがゆえの虚しさに胸が張り裂ける思いだった。結局、いくら二人で話し合っても、哲夫にどう伝えるべきか答えは出ないまま、検査結果を伝える日が来てしまった。
診察室には、加奈に連れられ、車椅子に座った哲夫が入ってきた。加奈の表情は固かった。
それを見て、哲夫は自分の病気が如何に深刻な事かを察した。
「結ちゃん・・・嘘偽り無く、結果を教えてくれるかい?」
結はすぐに返事ができなかった。
「加奈と結ちゃんの様子を見ていれば、自分の病気が深刻なのはすぐに判ったよ。それで・・いつまで生きていられるんだい?」
結は観念した。そして、できるだけ冷静に、そして丁寧に哲夫の病状を伝えた。
一通り、聞き終わると哲夫が大きな溜息をついたあとで、静かに言った。
「ありがとう、結ちゃん。きちんと話してくれて。加奈、本当にすまない。こんなことになってしまって・・」
哲夫はぐっと涙を堪えていた。
「おじさん・・ごめんなさい・・。」
「いや・・良いんだ、結ちゃんはちゃんと診てくれたんだ。仕方ないさ。こんなになるまで気づかなかった自分のせいだから・・良いんだよ。・・・さあ、加奈、家へ帰ろう。」

12 決断 [命の樹]


哲夫はすぐに仕事を辞めた。いつ倒れるか判らない状態では重要なプロジェクトを受け持つ事等できないと考えたからだった。会社側は、哲夫の突然の辞表提出に、会長までやってきて慰留を求めてきた。だが哲夫は、訳を言わず、一身上の都合とだけ答えた。
娘たちは既に成人していた。
上の娘、美里は大学を卒業して、名古屋で就職し、2年目を迎え、ようやく責任ある仕事に就いたばかりだった。
下の娘、千波は東京の大学に入学し、あと1年で卒業というところだった。就職先も決まっていて、そのまま東京暮らしをすることになっていた。
哲夫は、娘たちには、病気の事は伝えない事にした。それぞれの人生を精一杯生きる事が望みだと、加奈も説得して、いよいよの時には知らせてくれと頼んでいたのだった。もちろん、結にも同じことを頼んだ。

そうして、哲夫は加奈とじっくり相談し、浜名湖畔の古い借家に転居することに決めた。今までは通勤の都合を考え、街中の高層マンションに住んでいたのだが、もう少しゆったりとした場所で残りの時間をゆっくりと過ごしたいと考えたからだった。

突然の退職と転居の知らせに、当然ながら、二人の娘は驚いた。
上の娘は仕事の休みを使って、転居する日に戻ってきた。
「いったいどういう事?仕事も辞めて、転居するって?一体何、訳が判らない。それに私たちにだって一言相談してくれたっていいじゃない。このマンションは私の育った場所、実家なのよ。転居したら、どこへ戻ればいいわけ?勝手なことしないでよ!」
美里はまくし立てるように哲夫と加奈に言った。
「あなたはお姉ちゃんなんだからしっかりしなきゃ。」と言われ続けて育ったせいで、美里はきつい性格だった。おかしい事はおかしいと言い、納得出来ない事はとことん追求する。仕事ではかなりリーダーシップも取れるために認められているようだが、父や母にも同様の厳しさを求めてくるのだった。少し、加奈の性格に近い、いや、加奈にそっくりだなあと哲夫は常々感じていたが、今回の件では、想定以上の勢いで、「とにかく認めない」の一点張りで、哲夫は閉口した。
「そろそろ、のんびり暮らしてみたかったのよ。あなたたちにも手が掛からなくなったし。」
加奈がそう言っても聞き入れようとしない。
「私が納得できるように説明してよ!」
「納得って・・・ただ、のんびり暮らしたくなったの・・それ以外にないわよ。」
「訳わからない!また来るから」
と言って、結局納得しないままに帰っていった。

翌日には妹の千波が、東京から戻ってきた。
千波は玄関を開けるや否や、大きな声で言った。
「超びっくり!でも、今度の家って庭が有るんでしょ?良かったね、お父さん。前から、庭弄りをやってみたいって言ってたもんね。お姉ちゃん、随分、怒ってたでしょ!まあ、無理ないけどね。・・でも、お母さんも、のんびり暮らせるほうが良いよねえ。」
妹のほうは気楽なものだった。
昔から、自由奔放という言葉がぴったりで、やりたいと思った事はすぐにでもやってしまう、そのための苦労など考えもしない。そして、必ずやってしまうという不思議な生き方をしている。どちらかというと哲夫に似ているのではないかと加奈は思っていた。
「ああ・・疲れた・・ねえ、冷たいジュースある?」
そう言いながら、大きなカバンをどさっと置くと、キッチンへ行った。冷蔵庫を開け、缶ジュースを取り出してごくごくと飲み始めた。
「ふう・・生き返ったみたい。」
そう言うと、キッチンのカウンターに白い薬袋が置かれているのを見つけた。
「何?お父さんの名前が書いてあるけど・・どこか悪いの?」
加奈は驚いて、薬袋を取り上げようとした。しかし、千波は一層不審がって懐に抱えたまま、トイレに駆け込んだ。そして、すぐにスマホを取り出して、薬名を調べ始めた。しばらく、静かになった。
ゆっくりとドアを開けて、千波は出てきた。帰ってきた時の威勢の良さはなくなっていて、随分と戸惑った表情だった。
「ねえ・・お母さん・・・お父さん、癌なの?」
千波は、小さな声でそう言うと頼りない目で加奈を見つめた。加奈は、小さく頷いた。
「お父さん、知ってるの?」
加奈はふたたび小さく頷いた。
「どうして・・・お父さんが・・・」
千波はそれ以上言葉が続かず、キッチンの床に座り込んでしまった。
「あなたたちには内緒にしようって決めてたんだけどね・・。」
「内緒って!そんなの、いやよ!」
隣の部屋で引越しの荷造りをしていた哲夫が、二人の会話を耳にして、やってきた。
「すまんな・・無用な心配を掛けたくなかったんだ。」
父の言葉は何か他人事のように聞こえた。
「心配かけたくないって・・そんな・・・ちゃんと診てもらったの?」
「ああ・・結・・いや、水上先生に診察してもらったんだ。」
「治るの?」
哲夫は小さく首を横に振った。
「もう末期なんだって・・手術も難しくてね・・だから、残された時間をお母さんと一緒に静かに暮らしたいって思ったんだ。すまんな。」
もう千波は哲夫の言葉が耳に入らず、ぼろぼろと涙をこぼして泣いた。加奈もそれを見て泣いた。
美里には、千波が伝えた。すぐに、美里は目を真っ赤にして再び戻ってきた。
加奈と美里と千波は、顔を合わせるや否や、抱き合ってわあわあと泣いた。

13 新しい暮らし [命の樹]


それから、家族四人でじっくりと話し合った。美里も数日休みを取って帰ってきたようで、転居先を見に行ったり、病院で結から哲夫の病状を詳しく訊いたり、万一の時はどういうふうに連絡を取るか、とにかく、何度も何度も話し合った。
「とにかく無理はしないでね。少しでも調子が悪くなったら、すぐに結さんに連絡してね。もう隠し事はしないでね。」
美里は、そう言いながら後ろ髪を引かれる思いで、名古屋へ戻って行った。
千波も同じ日に東京へ戻ることにした。
「私がお嫁に行くまでは元気でいてよ。」
そんなふうに言えるほど落ち着いた様子で、新幹線に乗り込んでいった。

「何だか、疲れたな。」
哲夫は千波を見送った後、ふと駅のホームで口走った。
「大丈夫?病院行く?」
加奈は少し過敏になっているようだった。
「あ・・いや、大丈夫さ。気疲れしたっていうか・・心配してくれてるのは判るんだが・・。」
「そうね、でも、あの子たち、あなたの事が大好きなのね。普段は勝手な事ばかりやってるようなのに・・やっぱり、小さい時からあなたがよく面倒みてたからかしら。」
「そうかな・・・俺は、加奈の事を気遣っているように見えたけどな。お母さんを一人にしてどうするつもりって美里は言ってたよ。千波も、お母さんが寂しがるよねってさ。」
「そう・・。」

いよいよ転居の日が来た。平日の人の少ない時を選んで、マンションを後にした。
転居先までは、車で2時間ほどだった。湖のほとりに建っている古い貸家だった。しばらく使っていなかったからと言い訳のようなことを不動産屋が言ったが、意外と綺麗だった。
そこには半年ほど住んだが、隙間風が多くて冬は結構冷えた。
『風邪をひくのが一番怖いんですよ。』
結の言葉が加奈には気がかりで仕方がなかった。
加奈は、いくつもの介護の資格を持っていて、以前の勤め先からの紹介で地元の介護専門学校の講師の職についていた。
その専門学校の理事長は随分と加奈を気に入ってくれていて、良い土地があるからそこに家を建てたらどうかと勧めてくれていた。
「ねえ・・お店をやらない?小さな喫茶店なんかどう?」
その頃、哲夫は家事や庭仕事などで暇をつぶしているような暮らしをしていた。体調もさほど悪くないが、改めて仕事に就くのは難しいと考えていた。
「喫茶店か・・・だが・・資金が・・。」
「うちの理事長の紹介で、随分安く譲ってもらえそうなの。建物だけなら、今ある貯金でなんとかなるんじゃないかしら。」
すぐに二人は土地を見に行った。岬の上の見晴らしの良い場所だった。集落からは、少し離れていて不便な感じはあったが、何よりもそこからの景色は、哲夫が18歳まで過ごした瀬戸内の漁村とよく似ていて、一目で気に入ってしまったのだった。
哲夫が会社を辞めて、ちょうど一年になる日に、新しい家が完成した。
引越しの日には、二人の娘も、手伝いに来てくれた。
引越しの片づけもほぼ終わると、一階の喫茶店にする予定の広いリビングに置かれた真っ赤なソファに哲夫と加奈はゆったりと腰かけて、リビングの前に広がる庭を眺めていた。
「この年になって家を建てるなんて考えもしなかったな。」
哲夫が言うと、加奈が答える。
「そうね・・あなたが病気にならなかったら、定年まであのマンションにいたかしら。いや、定年の後もきっとあそこにいたのよね。」
「ああ・・それはそれで良かったかもな。」
まだほんの1年ほど前の事なのに、はるか昔のような気がしていた。

厨房で料理をしていた美里と千波が料理を運んできた。
「さあ、夕飯にしましょう。」
四人で窓際の白木のテーブルに、何種類かのパスタが並べられて、楽しく夕食をとった。
「いいなあ・・ここ。私もここへ引っ越してこようかしら?」
美里が言うと、
「駄目よ。この家は私がもらうんだから。だって、お姉ちゃんは結婚するんでしょ?」
と千波が口走った。
「結婚?」
加奈と哲夫が同時に言った。
「千波!何、言ってんのよ・・まだ、ダメだって言ったじゃない。」
「どういうこと?」
加奈が訊くと、千波が答えた。
「この前、職場の先輩からプロポーズされたんだって。良いじゃない、結婚すれば、良い人なんでしょ、性格は。。」
何だか意味深な説明をした。
「まだ判らないけど・・確かに優しくて真面目で良い人よ。・・でも、ちょっと・・。」
「ジャガイモなんだって。」
千波が茶化すようなことを言った。
「ジャガイモじゃない!そりゃあ、目もちいさいし、丸っこい顔してるし・・・でも見た目じゃないわよね、お母さん。」
美里が妙なところで加奈に同意を求めた。加奈は哲夫の顔を見ながら、ほほ笑んで言った。
「そうね・・男は顔じゃないわよ。優しくなくっちゃね。」
「おいおい、そりゃ聞き捨てならないぞ!」
哲夫が加奈を睨み乍ら言った。
岬の上に建つ赤い屋根の喫茶店≪命の樹≫はこんなふうにして始まったのだった。

14 薔薇の庭 [命の樹]


話は、哲夫の診察の日に戻る。

哲夫が診察室を出ると、加奈が「どうだった?」と訊ねた。
「大丈夫だってさ。」
哲夫は少し端折って伝えた。
「本当?」「ああ、本当さ。」「ほんとにほんと?」「しつこいな。」
二人はそんな会話を繰り返しながら病院を後にした。
「ちょっとドライブしないか?・・ちょっと行きたいところがあるんだ。」
車に乗りこむと哲夫が言った。
哲夫は以前から気になっていた、「薔薇の庭がある喫茶店」に行こうと言った。
「でも、もう薔薇の季節じゃないでしょう?」
「ああ・・そうなんだが・・薔薇を植えたら、どんなふうになるのかなって思ってさ。」
「どこにあるの?」
「奥山高原の途中・・これ、電話番号と住所。」
加奈はカーナビに電話番号を入力して、ルート検索をした。あまり遠いのは哲夫の体に障るかもしれなかったからだった。
「ふーん・・ここから30分くらいね。いいわ、行ってみましょう。」
加奈は車を走らせた。
街中を抜け、奥浜名へ向う。天竜川を一旦超えると暫く川沿いを走り、そこから山道を上っていく。カーナビでは高低差が判らなかったが、かなり山の上に上がっていく。7月に入って街中は時折30度を超える真夏の暑さだったが、少し上っただけで涼しさを感じるようになってきた。目指す喫茶店はかなり辺鄙なところにあった。

山間の東斜面を切り取ったような場所で、周囲はみかん畑が広がっている。道路際の駐車場に車を停め、看板の示すとおり石段を下りていくと、地中海の町の建物のような、淡いピンク色の石造りの建物が見えた。石段の途中にも小さなガーデンは設えてあり、薔薇が植えられている。少し花が残っているところもあった。下に着いて、ふと振り返ると、すり鉢上の底に建物があり、そこからは周囲全てに薔薇が植えられているのが判った。
「花が咲いていたら見事だろうな。」
哲夫はふと口にした。ほんの少し花が残っているせいか、ほんのり甘い香りが残っている。
庭には、薔薇が良く眺められるように、テラス席が5つほど設えられていた。
ピンク色の建物の中は、カウンターとキッチン、併設して薔薇のグッズが並べられたスペースになっていた。
キッチンには、エンジ色のメイド服に身を固めた女性が3人、静かに立っていた。それは、どこか中世の雰囲気を醸し出していて、まるで絵画を見る様でもあった。
加奈と哲夫は、まだ咲き残っている薔薇が間近に見える席に座った。
柔らかな甘い香りが漂っている。キッチンにいた女性の一人が、銀のトレイを右手に持って、静かに近づいてきた。
「いらっしゃいませ。」
上品な微笑みを浮かべ、ささやくように言うと、水の入ったグラスをテーブルに置き、小さなメニューを差し出した。加奈はメニューを受け取ると、しばらく考えてから言った。
「わたしは、この・・ローズヒップティとサンドイッチにするわ。あなたは?」
そう言って、哲夫にメニュー渡した。
「僕は・・コーヒーと・・・ピザもあるんだね・・じゃあ、ピザにしようかな。」
「かしこまりました。」
女性はそう言うと再び静かにキッチンへ戻って行った。
「薔薇が一面に咲いていれば見事だったろうね。」
「ええ・・・」
加奈は薔薇の様子よりも、女性の服装に興味深々の様子だった。
加奈はヒソヒソ話のように小さな声で言った。
「さっきの人さあ・・そんなに若くないわよね。きっとわたしたちと同じくらいじゃない?何だか、不思議な感じ・・というより・・コスプレ趣味かしらね?」
「まあ・な・・でも、悪くないよ。あれで、若い娘だったら、完全にメイド喫茶だけどね。」
「わたしにも着れるかな?」
「着たいのかい?」
「まさか!」
そこへ今度は別の女性が、注文の品を運んできた。
ローズヒップティはポットとカップで、コーヒーは大きめのカップに入っていた。
木皿にはサンドイッチと小さなサラダがついていた。
「申し訳ありません。ピザはもう少しお時間が掛かります。」
その女性は、先ほどの女性より、少し若かったが、顔立ちが良く似ていた。先ほどの女性同様、落ち着いた雰囲気だった。
「あの・・このお店はどれくらい前からやっているんですか?」
哲夫が女性に聞いた。
「・・3年ほど前からです。最初は姉だけでやっていたんですが、お客様が多くなったのでわたしたちも手伝っているんです。花が少なくなりましたから、あと1週間ほどで、秋までお休みになります。」
その女性の話で、姉妹で店を切り盛りしている事がわかった。
「たった3年でこれほどの薔薇が?」
「いえ、薔薇は、亡くなった父が、わたしたちが子どもの頃から育てていたんです。母が好きだったらしくて、母との思い出にと、植え始めたんです。今ではこんなに大きくなって・・。」
「お母様の思い出?」
加奈が訊いた。
「ええ・・母は妹が生まれてすぐに病気で亡くなりました。3人姉妹を抱えて、父も大変だったと思います。父は5年前に亡くなったんですが、姉がここを守りたいって言い出して、この店を始めたんです。薔薇の咲いている間だけはわたしたちも手伝う事にしています。薔薇の香りに包まれていると、父と母が傍にいてくれるようで幸せなんです。」


15 思い出の薔薇 [命の樹]


加奈も3姉妹の末っ子だった。女性の話に、急に親近感を抱いたようで、
「良いですね。薔薇の香り・・お父様やお母様に包まれて姉妹で時間を共有するなんて。」
「ええ・・ここにいると時間を忘れてしまいそうです。」
「あの・・・その、メイド服は?」
「ああ、これは妹の言い出したことなんです。父の遺品を片付けている時、古い写真が出てきたんです。そこにはこんなメイド服を着た女性とスーツ姿の男性が写っていました。裏書に、初めての出会いと書かれていて、よく見ると、メイド服の女性は若い頃の母だったんです。何処かのカフェで知り合ったのか・・わかりませんが、同じような姿でこの庭に居れば、父も喜ぶんじゃないかって・・・もういい歳なので、抵抗はあったんですが、姉も気に入ってるようなので・・・。」
そんな会話をしていると注文のピザを下の妹が運んできた。
「マルゲリータです。全て手作りなんですよ。どうぞ、ごゆっくり、お過ごしください。」
そう言うと、静かにキッチンへ戻って行った。
「何だか、素敵なお話だったわね。」
加奈はサンドイッチを口に運びながら言った。
「ああ・・そう・・そうだな。」
哲夫は、何か別のことを考えているようで、ぼんやりと答えた。
「どうしたの?・・ピザ、美味しくなかった?」
「いや・・美味しかったよ。」
「じゃあ、何?・・何か気にかかることがあるの?」
「見事な薔薇園を作るって、やっぱり時間がかかるんだな。」
「そりゃあ、そうでしょ?」
「そうだな・・。」
哲夫は寂しそうな笑顔を返した。
残された時間を大事に使いたいと仕事を辞め、転居し、店を開いた。
だが、この先どうなるのか、加奈を一人残していくことも辛い、改めて、我が身の定めを恨めしく感じていたのだった。

「コーヒーのおかわりはいかがですか?」
出迎えてくれた長女が二人のところへやってきた。
「ええ・・いただけますか?」
コーヒーをカップに注ぎながら、女性が遠慮がちに言った。
「薔薇はお好きですか?」
「ええ・・」
加奈が答えた。すると、長女が言った。
「もしよろしければ、バラの苗木をお持ちになりませんか?」
「苗木?」
今度は、哲夫が訊き返した。
「ええ・・ここの薔薇は今では珍しい品種らしいんです。もともと、薔薇は花を楽しむものか、香りを楽しむものかの品種に分かれるらしいんです。でも、父の育てた薔薇は、大輪の真っ赤なバラで香りが強いんです。」
「しかし・・」
「父は、亡くなる直前まで苗木を育てておりました。売るためにではありません。ひとりでも多くの方にこの花を知ってもらいたい、育ててもらいたいと願っていたんです。お庭がなくても、プランターでも立派に育ちます。是非、お持ち帰りください。」
「しかし・・上手に育てられるか・・。」
「大丈夫ですよ。最近の品種と違って丈夫ですから。きっと、そのうちに困るほどに大きくなるはずです。そんな時は思い切って剪定してください。棘もそれほど頑固じゃありませんし、剪定したほうが綺麗な花が着くみたいですから。」
それでもなお、哲夫は遠慮しようとしていた。自分が世を去った後のことを考えるとやはり決心できなかった。加奈はそんな哲夫の様子を見て言った。
「是非、いただきます。それほど丈夫なら、わたしにも面倒みれますよね?」
「ええ、きっと。わたしたちにだって出来るんですから。」
「ねえ、大丈夫よ。いただきましょう?ねえ。」
哲夫は、薔薇の苗木を2本受け取った。
「秋には、きっと花が付きますから」と喫茶店の長女は笑顔とともに手渡してくれた。
哲夫は自宅に戻ると、薔薇の苗木を抱えて、植え場所を探した。
玄関前、パン焼き釜の周囲、神社からの上がり口、うろうろしながら、薔薇が大きく育った時の風景を想像していた。
結局、店の南側のテラスの脇に植えることにした。日除け用に小さな屋根の支柱が薔薇を固定するにも、もってこいだった。
「どうだい、ここならソファからきっと花を眺める事が出来る。」
「そうね。右と左、2本が伸びてきて、真ん中あたりで一つになると良いわね。」
「ああ、きっと・・・」
哲夫はソファに座って、テラスを覆うほどに育ち、真っ赤な花と甘い香りが漂うバラの姿を想像した。そして、その風景をきっと自分は見ることはないのだろうと思うと、ふと涙が出そうになってしまい、口をつぐんだ。
加奈は、哲夫の様子に気づかぬふりをして、わざと楽しそうに言った。
「そうね・・きっとそうなるわ。素敵ね。」
そして、さらに続ける。
「ねえ・・薔薇だけじゃ寂しいわ、せっかくこんなに広いお庭があるんだもの、もっとお花を植えましょう。春には、チューリップ、夏はひまわり、秋はコスモス、冬は・・冬ってどんな花があるんだっけ?」
加奈が余りにも在り来たりな花の名前を並べるのが可笑しくなって哲夫が言った。
「冬は、水仙とか・・梅や蝋梅も良いよね。」
「水仙?水仙って夏じゃないの?」
「夏は百合の花だろう。」
「百合の花って秋でしょ?」
「まあ、いいさ。少しずつ花を増やそう。
花を育てる事は、その先の季節を考える事になる。あの花が咲く頃まではと、一日でも長く生きたいという希望が生まれるのではないか、加奈も哲夫も考えていた。

16 夏休み 玉木屋 [命の樹]

16 夏休み 玉木屋
夏が近づいてきた。
哲夫は、保育園へパンを届けた帰り道、集落の真ん中辺りにある玉木商店に寄った。
ここは、この集落唯一の商店で、所謂よろずやであった。大抵のものはここに頼んでおくと手配してくれて、時には配達もしてくれた。
「済みません・・頼んでおいた砂糖と小麦粉は入りましたか?」
哲夫が店先で声を掛けると、奥から店主が出てきた。
背の低い丸々とした体格で、残念ながら頭頂部は完全に皮膚が露出した状態になっていた。歳は哲夫と変わらない。
「ああ。てっちゃん、入ったよ。今、もってくかい?」
「ええ。」
玉木商店の店主は若くて結婚したため、もう孫が二人いた。いったん、店の奥へ入って注文品を段ボールに入れて持ってきた。
「はい、これ。」
「ありがとうございます。いつもすみません。」
「いや、てっちゃんが来て、うちも少し儲かってるから、こっちこそ、毎度ありってことだ。」
哲夫が代金を払って、自転車の荷台に商品を括り付けていると、店主が思い出したように言った。
「そう言えば、てっちゃんのパン、評判良いらしいね。うちの孫に聞いたんだが・・皆が持って帰っているって。だけど・・ただで届けているって聞いたけど、大丈夫かい?」
「ええ・・あれは趣味みたいなものですから。」
「いや、きっと売れるよ。注文とって届けたらどうだい?」
「いや、注文なんて、気まぐれに作る方が良いですから。」
「そうかい?残念だな。うちで注文を取って、俺が届けてやってもいいんだがな。結構な商売になると思ったんだが・・・。」
「いや、それはどうでしょう?」
哲夫は、店主の根拠もない思い付きが、少し可笑しかった。
「・・・ああそうだ、実は、うちの孫たちがね、これが大好きなんだ。今度、パンを焼く時使ってみてくれないかい?」
そう言って、干しブドウの袋を哲夫に差し出した。
「ええ、良いですよ。おいくらですか?」
「いや・・代金は要らないよ。使ってみてほしいんだ。」
「そうですか・・じゃあ、いただいていきます。ありがとうございます。さっそく、来週にでも使ってみましょう。」
「そうかい・・で、さあ。その代わりといったら何だが・・・実は、もうすぐ夏休みだろ?」
哲夫は、子どもたちが大人になってしまっていたので、夏休みの時期など当に忘れてしまっていた。
「ああ、そうなんですね。」
「でな、夏休みには、ほら、姫ヶ浦の海開きだろ。」
哲夫は店主が何を言いたいのかいまいちわからない表情をしていた。
「そこで、毎年、海の家を開いてるんだよ。」
店主の言うとおり、岬の途中、神社へ通じる道路の脇から先に、夏になると海水浴場が開くのだった。臨時駐車場も出来て、意外に遠方からも客が訪れる海水浴場なのだった。
「だが、今年は、女房が腰を悪くしちまって、たぶん、仕事にならないんだ。そこで、少しさ、てっちゃんに手伝ってもらえないかなと思ってるんだが・・・。」
「いや・・それは・・。」
「てっちゃんのパンを並べるだけでもいいんだよ。できれば、昼時にはサンドイッチとかジュースとかも出してくれるとありがたいんだが・・。」
「はあ・・。」
「いや、土日だけでも良いんだ。平日は人も少ないし、それに、結構な儲けにもなるんだ。頼むよ。」
店主は人懐っこい笑顔で哲夫に懇願した。
「一度、加奈とも相談してみます。店の事もあるし、中途半端なこともできないんで・・。」
哲夫はとりあえずの返事をして、家に戻った。
誰かの役に立つ、頼まれるのは嬉しい事だった。ただ、真夏の海の家の仕事は、体力的にはかなり厳しいだろう。加奈に相談すれば必ず反対されるに決まっていた。

夕方、加奈が仕事から戻ると、哲夫はできるだけ加奈の機嫌を取るようにした。そして、夕食の時間に、昼間の玉木屋からの依頼を恐るおそる口にした。

「ふうん・・・!」
加奈は、夕食のパスタを口に運びながら、意外にも、穏やかな反応をした。
「いいかな?」
哲夫は、遠慮がちに訊いた。
「体の具合はどうなの?」
「ああ・・今のところは特には・・のんびりやってるからね。」
「そう・・。」
「毎日薬もちゃんと飲んでるし、ほんの少しなら、大丈夫じゃないかな?」
「そうね。玉木屋さんにはいつもお世話になっているし、奥様の具合が悪いんじゃねえ。」
「そうだろ?町の人とも少しお付き合いもしなくちゃいけないだろうし・・・」
「わかったわ。じゃあ土日の3時間だけよ。」
「いいのかい?」
哲夫は加奈の許しが出るとは思っていなかった。
「ただし、条件が一つ。私も一緒にいく。それが条件。」
「一緒に?」
「ええ、そうよ。楽しそうじゃない。海の家って、昔からやってみたかったのよ。」

加奈の許しが出て、哲夫は翌日には玉木屋に報告に言った。
「そうかい!じゃあ、材料は用意してやるよ。必要なものを言ってくれ。・・来週には、海の家の準備が始まるから、顔を出してくれ。」
話が決まると、町中の人にすぐに知れ渡った。
哲夫が喫茶店を始めた時、一応、あいさつには回ったが、よそ者とみられて、余り良い反応はなかった。だが、保育園にパンを届けるようになってからは少しずつだが、哲夫の店に興味を持っている人も増えてきた。そんな時に海の家の手伝いとなり、町の一員になれたような気がしていた。

17 海の家 [命の樹]

17 海の家
海の家が始まった。哲夫と加奈は前日にメニューを相談した。できるだけ手間かからず、運び込むにも楽なようにいろいろと考え、結局、サンドイッチは止めて、ホットドッグにした。それから、おやつ代わりになるような、小さなパンを持ち込むことにした。飲み物は、玉木屋の店主が揃えてくれた。
海の家は、崖に沿う形で作られていて、日蔭も多く、思ったよりも暑さは気にならなかった。海水浴客が休める板の間が広くとってあるのと、簡易シャワーと着替え室があった。哲夫たちの店は畳3畳ほどの大きさがあった。
初日には、集落の子供たちがこぞってやってきた。哲夫の店を見つけると、保育園の子供たちとその父母がやってきて、昼過ぎには、用意したものすべてが売り切れてしまった。
翌日の日曜日は、量を増やした。しかし、遠方からの来客もあったため、やはり午後の早い時間には売り切れてしまった。
3週目に入ると、来客の様子も大体掴めるようになって、品切れも少なくなっていた。
哲夫も慣れてきて、海水浴客の希望を聞いて、サンドイッチもアレンジする余裕も出てきていた。
「てっちゃん、大好評だよ!!おかげで、こっちも大繁盛さ!」
玉木屋の店主は、禿げ頭の汗を拭きながら、焼きそばを焼き、嬉しそうだった。
加奈も楽しんでいた。
「子どたちが小さい頃、海水浴にも行ったわね。」
「ああ、そうだったな。二人とも真っ黒に日焼けしていた。・・そうそう、どこかで、くろんぼ大会ってのをやっていて、見事、入賞したっけ。」
「そうそう。」
目の前を走り回る子供たちを見て、昔の事を思い出していた。
「体は大丈夫?」
加奈がふと気遣う言葉をかけた。
「ああ・・大丈夫。もっと疲れるかと思ったけど・・これなら、ひと夏続けられそうだよ。」
「そう・・無理しないでよ。」
「ああ、わかってる。」
そんな会話をしながら、そろそろ店じまいを始めた時だった。

「きゃあー!」
何か、悲鳴のような声が聞こえた。
目の前には砂浜が広がっているのだが、少し先には岩場があったたちの。悲鳴はその方角から聞こえたようだった。砂浜で遊んでいる人たちの歓声で、悲鳴のような声ははっきりしなかった。
哲夫は、店じまいの手を止めて、砂浜へ出てみた。
すると、今度は、
「誰か!誰か!助けて!」
とはっきりした声が聞き取れた。居合わせた海水浴客もこれには驚いて静かになった。すると岩場の方から今度は男の声で、
「救急車!救急車を呼んで下さい!」
と叫んでいるのが耳に入ってきた。
哲夫は、声の方へ走り出した。他にも数人が同じ方向に走った。
大きな岩の上に、若い男が立って、同じ言葉を叫んでいる。
哲夫が近づくと、その岩の下に、若い女性が座り込んで震えている。
「どうしたんですか!」
哲夫が言うと、その女性が震えながら指をさした。その先を見ると、岩と岩の間に挟まれるように、小さな子どもがうつ伏せになっている。身をよじってその子の側へ行きつくと、潮溜まりが真っ赤な血に染まっていた。哲夫は、その子を抱き起した。額から血が流れている。
「おい!しっかりしろ!」
揺り動かしたが反応がない。その様子を見ていた人の誰かが救急車を呼んだようだった。
「けいちゃん、けいちゃん・・・死なないで!」
指さした女性はその子どもの母親だった。ぶるぶると震えて動けないようだった。大岩の上から叫んだのは、この子の父親らしかった。
「おかあさん。しっかりして!」
哲夫の後を追ってきた加奈が、女性に声をかけた。
加奈は、その女性からバスタオルと奪うようにして取り上げ、哲夫に渡した。
「哲夫さん、しっかり傷口を押えて。」
哲夫はその子を抱えあげ、タオルを額に当てた。そして、そのまま抱きかかえて、海の家まで運んだ。
「救急車は時間が掛かるそうだって。」
通報した人が来て言った。
「ここへ来る途中の道で事故があって、渋滞しているらしい。」
「どれくらいで来るんでしょう?」
「さあ、とにかく、ここまでの道は一本しかない。迂回できないんじゃ、当分は無理だろう。」
母親はそれを聞いて半狂乱になって、父親に縋り付いてわめくように言った。
「死んじゃう!けいちゃんが・・けいちゃんが・・死んじゃう!」
父親は、なすすべなく、母親を抱きしめている。
「どうして、こんなことに?」
加奈が尋ねた。
父親は眉間に皺を寄せながら言った。
「潮溜まりで貝や魚を見ていたんです。僕が岩に上ってあたりを見ていたら、娘が真似をして、ちょっと大きな岩に上った時に、足を滑らせて、落ちたんです。」
岩といってもほんの数十センチほどの高さの岩だった。
傷の具合から見ても命に別条はなさそうだった。
母親は、「死んじゃう・・」と繰り返して泣き続けていた。
「大丈夫!こんなことで子どもは死なないわ!しっかりしなさい。母親でしょ!」
加奈がしかりつけるように母親に言った。
「しかし・・救急車が到着しないんじゃ、満足な手当もできない。出血だけでも止めないと。ここらか病院に運ぶとしても道路が渋滞なら一緒だな。」
哲夫は、子供の傷口を押えたまま、できるだけ冷静に言った。
「結ちゃんに連絡してみたらどうかしら?」
「だが・・ここへ来れるかどうか・・。」
「何かできることはないか尋ねてみましょう。」
加奈がすぐに携帯電話で、結に連絡した。

18 水上医院 [命の樹]

18 水上医院
≪おじさんに何かあったの?≫
受話器の向こうから、結の慌てた声が聞こえる。
「いいえ・・哲夫さんじゃないの・・。」
加奈は前置きしてから、状況を伝えた。
≪それなら、そのまま傷口を強く抑えていて。・・・姫ケ浦よね。・・近藤というお宅が周遊道路沿いにあるわ。そこから山手の方へあがる道があるの。ええっと、確か3軒目に、村上という家があるわ。そこへ運んでください。私もすぐに行きます。大丈夫、私はオートバイだから。そうね、10分ほどで着くと思うから。≫
水上結は細かい案内をしてくれた。
加奈は結の話を哲夫に伝えた。
「よくわからないけど、とにかくそこへ運ぼう。・・お父さん、さあ。」
哲夫は、女の子を父親に抱かせた。額に置いたタオルはもう真っ赤になっていた。手元にあったタオルと交換して、傷口を押えた。加奈は母親を抱きかかえるようにして、指定された村上という家をめざした。
玉木屋の店主が加奈の話を聞いて、はっと思い出したように言った。
「そこは昔、村上医院があったところだ。もうずいぶん昔に、大先生が亡くなって閉院したはずだが。」
「とにかく、そこへ行きましょう。」
哲夫は玉木屋の店主に先導を頼んで向かった。通りをすすんで。周遊道路に出る手前に近藤というお宅はあった。結の言った通り、山手に進むと白い外観の建物が見えた。しかし、入口には工事用もフェンスが張り巡らされていて、入口が見つからなかった。
そこへ大型オートバイを走らせて結が到着した。へルメットを取り、すぐに、子どもの傷口を診た。
「深くないわね。大丈夫。さあ、中へ。」
結はジャンパーのポケットから鍵を取り出して、フェンスを開け中へ入った。建物は改築中のようだった。玄関を開けると、診察室という看板がかかった部屋に子どもを運び入れた。
「タオルを外してもかまいません。もう出血もほとんど止まっていますから。」
結は、診察室の奥の控室に入ると、白衣に着替えて出てきた。そして、ベッドに寝かされたこどもの傷口を消毒し、ピンセットで傷の中を丹念に調べた。そして、5センチほどの四角いテープを取り出して、傷口に貼り付けた。見事な手際だった。
「とりあえずの応急処置をしておきました。まあ、少し痕は残るかもしれませんが、大丈夫でしょう。・・落ちたショックが大きかったから、ちょっと気を失っただけですよ。命に別条はありませんが、大きな病院でしっかり診察を受けてくださいね。」
結は笑顔を見せて、子どもの母親に言った。
母親は安心してその場に座り込んでしまった。すぐに、怪我をした子どもが目を覚ました。
「お母さん・・お父さん・・。」
「気が付いた?びっくりしたよね。どこか痛くない?」
結が訊くと、子どもはぼんやりとした表情で「痛くない」と言った。
「そう・・もう大丈夫よ。ちょっとおでこに怪我をしてるから、しばらくは痛いかもしれないけど、すぐに良くなるわ。さあ、お父さんとお母さんと一緒に、帰っていいわよ。」
両親と子どもは何度も何度も頭を下げて、その場を後にした。
その場には、哲夫と加奈、そして結が残った。海の家の片づけはやっておくからと、玉木屋の店主も戻って行った。
「びっくりしたわ。」
結が言った。
「ごめんなさいね。でも、結ちゃんくらいしか、思い当たらなくて・・。」
加奈が答えると、
「おじさん、海の家の手伝いをしているんですって?無理しないでってお願いしたでしょう?」
結は少し咎めるような口調で言った。
「嫌・・それほど無理はしてないよ。加奈も一緒だし・・ほんの3時間ほどなんだ。それより、ここはいったい?」
哲夫は部屋を見回しながら訊いた。
「ああ・・ここはね・・。」
結はちょっと考えてから言った。
「ここに開院しようと思って。母の実家の近くで、良い場所はないかなって、探してたら、ここが見つかって。昔、病院があったようで、少し改築すれば使えるって言うんで、もうすぐ開院の予定です。」
「大学病院は?」
「慰留するようには言われているんですけど・・ほら、ここらには病院がなくて困っている人も多いでしょう。せっかくなら、人の役に立てるって実感できる場所が良いかなって。」
「そうなの。大学病院の先進医療の研究も充分人の役に立てる仕事だと思うけど。」
加奈が言った。
「・・あそこにはドクターはたくさんいますし、若い人が頑張って勉強するところなんです。私くらいの年齢になると、いろいろと難しいんですよ。」
「ふーん、そんなものなの。」
「そうなんですよ。」
結はまだ30前半である。本来なら、これからが重要な時期に違いない。
加奈は、結が哲夫のためにここに病院を作ろうとしているのだろうと思っていた。
結は、哲夫たちが浜名湖のほとりに転居すると同時に、市民病院から浜松の大学病院へ転職した。その時には、先進医療の研究のためだと言っていた。
そして今度は、近くに病院を開くというのだから、それ以外の理由はないと確信していた。
「結ちゃん、ありがとう。ほんとにありがとう。」
加奈は結の思いに思わず涙ぐんでしまった。結も加奈の言いたいことがわかって、涙ぐんでいる。
医院の中を見回っていた哲夫が、隣の治療室になる予定の部屋から妙に大きな声を出した。
「すごいなあ・・結ちゃんは。このあたりの人はきっと喜ぶよ。さっきだって、救急車がすぐに来れないっていうんだ。・・お年寄りも多いし、少しぐらいの病気じゃ、大学病院へは行きづらいって言ってたしね。すごいよ、結ちゃん。大したもんだよ。」
哲夫はノー天気に結の開院を喜んでいるように見えた。しかし、そこには先進医療で使うような高価な器具が並んでいて、それが自分が万一の時に必要と考えて結が揃えたものだと哲夫には分かった。
「そうでしょう?おじさん。すごいでしょう?」
「ああ、すごい。きっとお母さんも喜んでいるだろう。」
「ええ・・母にも、ここで働いてもらうんです。もう高齢ですけど、看護師としては優秀ですから。」
「いいじゃないか。じゃあ。ここに一緒に住むんだろ?そりゃ、お母さんも喜んでくれるに違いない。」
「はい。母も喜んでいました。・・ホントに、おじさんのおかげです。」

19 結の告白 [命の樹]

19 結の告白
その時、隣室で、ガチャンと何かが落ちる音がした。結と加奈は驚いて、すぐに隣室に向かった。ドアを開けると、哲夫がベッドにもたれる様に座り込んでいた。
「おじさん!」「哲夫さん!」
ほとんど同時に、二人は、哲夫に駆け寄った。
「ああ。大丈夫だ。ちょっとよそ見をしていて器具に躓いただけだ。ごめん、ごめん。」
哲夫はそう言ったが、顔は真っ青で、呼吸も乱れている。額に手を当てると微熱があるようだった。
「おじさん、ここに横になって。」
結は、そう言うと、まだ開封されていない医療器具の箱を開け始めた。
加奈も結の指示でいくつもの器具を用意した。用意しながら、この病院に入っている医療器具のほとんどが、哲夫の病気のためであることは自然に判ってきた。
検査が始まると、加奈はいったん治療室から出された。1時間ほど、検査と処置が行われた。
「加奈さん、もう大丈夫よ。」
治療室から結が出てきた。
「疲れのようね。微熱があって、少し呼吸も苦しそう。今、点滴をしています。」
「ありがとう。良かった・・。」
「ほんと、良かった。」
二人はしばらく沈黙した。
沈黙を破ったのは、加奈だった。
「ねえ、結ちゃんは結婚しないの?」
結は少し躊躇いがちに答えた。
「え・・あ、お話していませんでしたっけ?私、結婚してたんですよ。」
「え?知らなかったわ。ちゃんと、知らせてくれなきゃ。お祝いもしてないなんて・・。」
「いえ、いいんです。・・・ちょうど、医師になって市民病院に勤務し始めて1年ほどで、彼は、同じ市民病院の医師でした。でも、半年で離婚しました。」
「離婚?」
「ええ。結婚してすぐ私は救急医療の現場へ、彼は海外の医療チームへしばらく行くことになって、すれ違いが多くなったというか・・ほとんど結婚生活になっていませんでした。・・他にもいろいろ理由があったと思いますが、とにかく、二人で暮らす理由が見つからなかったんです。」
「そう・・。」
「母は、随分反対しました。」
「でしょうね。」
加奈は、どう言えばいいか、言葉が見つからなかった。
「本当のことを言うとね・・。」
結が少し笑みを浮かべて加奈に言った。
「彼は、私の理想の男性じゃなかったんです。」
「理想の男性?・・そんな、理想の男性なんてそうそう現れたりしないものでしょう?」
加奈は、結の言葉があまりに少女っぽくて、呆れたように言い返した。
「そう、理想は理想。・・でも、もし、目の前に理想の男性が現れたとしたら、どうします?」
加奈は答えに困って言った。
「理想の男性なんて、いるのかしら?」
結はしばらく沈黙し、そして、決意したような表情を浮かべ、加奈を真っ直ぐに見て言った。
「私の理想の男性は、おじさんなんです。」
「え?」
加奈は、結の告白を驚いたような表情で反応した。しかし、以前から、加奈は結の気持ちを疑っていた。高校生の頃には、まだ、哲夫を亡くなった父親と重ねて見ているのだろうと思っていたが、大学進学後に、時折、顔を見せた結に、何か若さへの嫉妬のようなものを感じ、哲夫を見る結のまなざしにも不安を感じていた。若さゆえに何をするかわからない、時にそんな不安も感じていたのだった。
「高校生の時、あの時、おじさんは私を命をかけて守ってくださいました。大学進学のときも、医師免許を取る時も、優しく背中を押してくださって・・・。」
「それは・・お父さんみたいなものってことでしょう?」
「最初はそう思おうとしました。だから、《おじさん》と呼ぶことにしました。高校生でしたから・・自分でもきっと錯覚している、父への想いをおじさんに重ねている、そう思う事にしたんです。」
「違った・・の?」
「医師になり、忙しくてなかなかお宅へ伺えなくなってから、一層、おじさんに遭いたいって思うようになって・・寂しくて寂しくて・・恋しいって初めて感じたんです。」
結の口から《恋しい》と言うことばが出て、加奈は少し冷静ではいられなくなっていた。
「結婚を決めたのも、自分の想いを断ち切るためだったかもしれません。でも、結局、長くは続かなかった・・・。やっぱり、おじさんへの想いを断ち切ることが出来ませんでした。」
加奈は、判らなくなっていた。これまで、結に対しては、時には母親のように叱り、時には姉のように相談に乗ってきた。今、こうして結の告白をどういう立場で受け止めればよいのか、哲夫の妻としてならば、断じて認めることなど出来ない。
「おじさんが救急車で病院へ運ばれた時、息が止まるほど驚きました。たぶん、周りに居た看護士も、普段見せないうろたえぶりにびっくりしたはずです。私は、医師としてではなく、一人の女として、この人を守りたい、助けたいって強く思ったんです。」
「そうなの・・。」
「でも、あの日、そう、告知の日、加奈さんとおじさんが寄り添う姿を見て判ったんです。おじさんは加奈さんと一緒にいるから幸せで、おじさんであるのだと。自分の気持ちなど、お二人の間に入り込む隙もないって判ったんです。」
「そんな想いを抱えていたなんて・・・。」
加奈は、結の強い想いを聞き、改めて出会いから今日までの日々を思い出していた。
「それで・・・おじさんのために自分に出来る事は何かって考えて・・・。」
「浜松の大学病院に転職したのも、この病院も、そうなのね?」
「ええ・・ここなら、おじさんが急変してもすぐに対応できますし、お二人の幸せな様子も知る事が出来ます。これが私の出した答えなんです。」
「そうなの・・・。」
結は、加奈が戸惑っている事を察知した。
「加奈さん、私はおじさんを奪おうという気持ちはありません。きっと、おじさんもそれは望まないでしょう。ただ、最後の日が来るまで、どうか、近くに居させてください。お願いします。」
「結ちゃん・・・。」
加奈は、結の哲夫に対する真っ直ぐな想いを認めるしかなかった。

20 夏の終わり [命の樹]

20 夏の終わり
哲夫が体調を崩した事で、海の家の手伝いは、夏休みを2週残して終了した。
町の皆がたいそう残念がったので、哲夫は、少しだけパンを焼き届ける事だけは続けた。
そんなある日、物置小屋の片付けをしていた哲夫は、懐かしいものを見つけた。
「まだ取って置いたんだなあ・・。」
独り言を言いながら、物置から、釣竿一式を持ち出した。転居の際に、大半のものは処分してきたが、これだけは捨てなかった。
『仕事ばかりで・・趣味もないなんて・・ねえ、釣りでもやってみれば?』
まだ哲夫が若かった頃に、加奈が誕生プレゼントだといって買ってくれたものだった。
「まだ使えるかな?」
南のテラスのロッキングチェアに座って、釣竿を伸ばしてみた。何とか使えそうだった。リールも針も糸も、かなり古くはなっていたが、手慰み程度であれば問題なさそうだった。
「あら、釣竿?・・まだ残ってたのね。」
「ああ、これだけは捨てなかったからね。」
「行ってみる?」
真夏の暑さは残っていたが、夕方の数時間程度なら大丈夫だろうと、加奈も判断して、哲夫とともに行く事にした。集落の通りから用水路沿いの路地を抜けると、小さな港がある。
「おや、もう大丈夫なのかい?」
声を掛けたのは、源治だった。漁師仲間とともに、波止場に網を広げて繕いの作業をしていた。
「ええ・・ご心配をおかけしました。」
哲夫が答えると、加奈も頭を下げた。
「釣りかい?」
「ええ・・そのつもりなんですけど・・餌がなくて・・・。」
「なら、船にあるから出してやるよ。ここらは、小エビかカニを使うんだ。」
源治は船に乗り込んでしばらくするとバケツいっぱいの餌を手渡してくれた。
「元気になったら、今度、船で行こう。なあに、ここらは波もなく穏やかだから心配ない。ここらで釣るよりもっと大物が釣れるはずだ。・・ああ、そうだ、投げ釣りなら、その先の桟橋がいい。今なら、コチとかハゼあたりならすぐに釣れるさ。カニを使えば、チンタあたりも食ってくるかもな。」
哲夫と加奈は、源治が教えてくれた桟橋へ向かった。途中、何人かの漁師に会って、挨拶した。
穏やかな港の風景の中、哲夫は言われたとおりの場所で糸を垂れた。加奈は、隣に座って、文庫本を読み始める。
「ねえ、暑くない?大丈夫?」
時折、加奈が思い出したように哲夫に尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。」
久しぶりの感覚だった。
そう言えば、娘たちがまだ小学生の頃、夏の終わりに、家族で渥美半島に釣りに行った事があった。娘たちは、海水浴をしながら、時々、釣果を確かめるように哲夫のところにやってきて、気が向くと竿を持ったり、連れた魚を覗き込んだりして楽しい時間を過ごした。上の娘は、ラッキーな事にちょうど釣竿を持った時に魚の当たりを感じ、喜んでリールを巻き上げ、10センチほどのチンタを釣り上げたのだった。初めての釣りで、娘にとっては忘れがたい思い出になったはずだ。そう言えば、大学生になってから一度、釣りに行きたいと言い出して、連れて行ったことがあった。それが、最後の釣りだったと記憶している。
今日はさっぱり釣れなかった。
ぴくりともしない。何度か巻き上げてみても、餌もなくなっていなかった。
「今日は、お魚さんはどこかへ旅行でしょうか?」
加奈が冷やかすように言った。日が暮れるまでもうしばらくだった。

「あの・・。」
桟橋の二人のところへ、一人の若い漁師がやってきた。初めて見る顔だった。
「あの・・哲夫さんですよね。」
「ええ・・」
「あの岬の上の赤い屋根の家、あそこの方ですよね。」
何か慎重に訊いてくる。
「ええ、そうですけど。」
「ああ、僕は村上亮太です。ここの漁師です。さっき、源治さんに聞いて、どうしてもお二人にお話したい事があって・・。」
「はい・・なんでしょう・・。」
「僕、高校を出て親父の跡をついで漁師になりました。まだ、2年目で、怒られてばかりなんですけど、この間からようやく一人で漁に出れるようになったんです。知ってますか?漁に出るのって、夜なんです。昼間は魚も目が利いてなかなか獲れないから、夜、明かりを点して魚を集めて獲るんです。」
「はあ・・そうなんですか。・・じゃあ、こんな時間が釣りも駄目ですね。」
「いえ、投げ釣りはまた違います。多分、もうじき釣れ始めるでしょう。夕間詰めっていって、潮も今から動きますし、日暮れ近くになると魚も元気になりますから・・」
「そうなんですか・・。」
哲夫は、何だか、恥ずかしい思いをしていた。そう言えばそんなことを何処かで聞いたことがあった。
「・・実は、漁に出て初めて判ったんですけど、船に乗ると目線はほとんど水平線と同じなんです。今、自分がどこにいるか判らなくなる。源治さんほどになれば判るんでしょうけど・・。判らなくなるとすごく不安になります。このまま、港に戻れなくなるんじゃないかって。」
「そうなんですか?」
加奈が興味を持って身を乗り出した。
「ええ、今でも時々不安になる事があります。でも、先日気づいたんです。目線を上げると、小さな明かりが見えるんです。そう、まだ朝の4時頃だったと思います。真っ暗な中でぼんやりと明かりが見えて、それが、あの赤い屋根のあるところだって気づきました。そのすぐ下には港がある。そう思うと、何だか、とっても安心したんです。それで、赤い屋根のお宅の方へ、お礼を言いたくて。」
「お礼なんて・・。」
加奈は驚いて返答した。
「きっと漁師のみんなも、そう思っているはずです。でも、随分、朝早くから明かりが点いているんですね。」
「ああ、多分、パン焼きの日でしょう。ちょうど4時ごろに起きますから。毎日じゃないんですよ。」
「そうですか・・でも、明かりが見えるっていうのは安心です。これからも宜しくお願いします。」
若い漁師はそう言って頭を下げて去っていった。

21 ヘルメットの男 [命の樹]

21 ヘルメットの男
若い漁師が去ってから、いきなり、当たりが出始め、ハゼやコチの小さなものが結構釣れた。
その日は、煮魚が夕食のメニューとなった。
次の日、加奈が休みだったので、哲夫は加奈に頼んで、車で30分ほどのところにあるホームセンターへ連れて行ってもらった。哲夫も運転免許は持っているのだが、病気が判ってから、他人を事故に巻き込むかもしれないからと運転はやめたのだった。加奈も、哲夫と一緒に出かける事で安心できる。

哲夫はホームセンターへ着くと、野外設備の売り場へ行った。
「一体、何を買うの?」
「ああ・・これこれ。」
哲夫が手にしたのは、屋外用の回転灯だった。
「そんなもの、どうするの?お店の看板でも出すつもり?」
「いや、看板につけるんじゃないよ。これを屋根に付けるんだ。」
哲夫が何をやりたいのか、加奈にもすぐにわかった。
「それじゃ、小さいでしょ。もっと大きいのが良いわ。」
「そうかい?・・・」
うろうろしていると、店員がやってきた。事情を説明すると、店員が倉庫へ行き、大型のライトを持ってきた。
「これならかなり目立ちますよ。最新のLEDですから、簡単に壊れたりしませんし、電気もあまり使わないから便利ですよ。」
哲夫は、納得して、店員の持ってきた大型ライトと配線キット、それとちょっと高価だったがミニソーラーパネルと電池一式を購入した。
ホームセンターからの帰り道、加奈は憮然としていた。無駄使いに怒っているのではなかった。この後の仕事を考えていたのだった。一旦は同調したものの、やはり、それを自分で取り付けるなんて大変な作業だと思い当たったのだった。ただ、若い頃から、哲夫はいろんなものを器用に作る。マンションに住んでいた頃には、ドアやサッシを修理したし、トイレも自分で改装した。子どもの自転車などは簡単に修理した。
『親父から教わったんだよ。』
事あるごとに、哲夫は口にしたのだった。哲夫の父は、旋盤や電気配線、エンジン修理、溶接、いろんな資格を持っていて、なんでも器用にやってのける人だった。哲夫は幼い頃から父の傍で仕事を見ていて、自然に覚えたのだった。
自宅に戻ると、買ってきた物を一旦家まで運んだ。随分、重いものばかりだった。
「ねえ、これを屋根の上に取り付けるの?」
「ああ・・。」
「ねえ、誰かに手伝ってもらいましょう?あなた一人じゃ無理よ。また、体を壊すわ。」
かなの心配は、尤もな事だった。
「それに、ほら、天気も悪くなってきたし・・・。」
加奈の言うとおり、朝からはっきりしない天候だったが、昼を過ぎると随分雲が厚くなり、今にも雨が降り出しそうだった。
「そうだなあ・・。」
「ね、天気がよくなってからで良いじゃない。」
夕方から風雨が強くなってきた。台風ではなかったが、発達した低気圧のせいで、土砂降りの雨となった。哲夫たちがここへ来て初めて経験する豪雨だった。
「ちょっと、与志さんのところへ行ってみるよ。」
与志さんの家は、哲夫たちの家から畑を一つはさんだ、下の斜面に建っていた。一人暮らしで、家も古く、きっと不安に思っていると感じたのだった。
「気をつけてよ。」
「ああ、すぐだから大丈夫さ。」
パン焼き釜のある裏口から、畑を抜けてすぐのところだった。降り続く雨で足元はぬかるんでいる。懐中電灯を手に与志さんの家に着くと、与志さんは居間に一人でいた。
「与志さん、大丈夫?どこか雨漏りとかしていない?」
「いや・・今のところは大丈夫みたいだな。だけど、雨音が酷くて・・」
与志さんは、不安げな様子だった。
「与志さん、うちへ行こうよ。うちなら安心だから。」
哲夫の言葉に与志はすぐに立ち上がった。与志さん尾家を出て、来た道を戻ろうとしたが、斜面をしぶきを上げて流れる雨水を見て危ないと感じて、平坦な道へ迂回して神社から家へ戻ることにした。
合羽を着ているが、雨が弾ける音で普通に会話が出来ないほどになっていた。懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくりと神社までの平坦な道を進んだ。
途中、雨で地盤が緩んで不安定だった場所に立っていった樹が道を塞ぐように倒れていた。なんとかその樹を越えたところで、与志さんが哲夫を引き止めた。
「おい、てっちゃん!あれ!」
与志さんが指差す先に、人影が見える。普段、この道を使うのは与志さんか、ここらにみかん畑を持っている人くらいだった。近づいてみると、バイクのヘルメットを被って、力なく座っているようだった。
「どうした?」
哲夫が尋ねると、その人影がふっと顔を上げた。そして、哲夫の足にすがりついた。
「事故のようだね。ほら、あれ。」
与志さんは、樹の下を指差した。大型バイクが倒木に一部挟まった状態になっていた。
「歩けるか?」
哲夫が尋ねると、ヘルメットを被った人が頷いた。
「うちへ行こう。」
結局、哲夫は、与志さんとそのバイクの人を連れて、家に戻った。

家では、加奈が心配顔で待っていた。
「帰ったよ。」
加奈は、バスタオルを何枚も持ってきて、ずぶ濡れになっている与志さんの体を拭いた。
「私は良いから、あの人を。」
玄関口に、全身ずぶ濡れのヘルメットを被った人が座り込んでいた。
「さあ、中へ。」
ヘルメットを取ると、まだ20代の青年だった。ポロシャツとジーンズはずぶ濡れになっていた。
すっかり憔悴した表情をしている。

22 嵐の夜 [命の樹]

22 嵐の夜
すぐに、加奈が2階の部屋に行き、哲夫と与志、そして青年のために、着替えを持ってきた。
着替えが終わったところで、青年と与志さんは、テーブル席に着いた。
「ああ、ほっとした。こんなに降るなんてねえ。長い間生きてきたが初めてだね。てっちゃん、ほんとに、ありがとうね。」
「いえ・・いつもお世話になってるんですから・・。それより寒くないですか?」
哲夫はそう言いながら、ホットミルクを運んできた。
「ええっと・・君は・・ミルクでいいかな?」
青年はまだボーっとしていた。
「おい!青年、しっかりしな!」
与志さんの言葉に、青年は我に返った。
「ああ、済みません。ありがとうございます。助かりました。」
「そうか、良かった。僕は倉木哲夫、妻の加奈。ここで喫茶店をやってるんだ。それと、与志さん。」
「僕は、伊藤 健です。バイクでぶらぶらと旅をしてて・・なんだか、急な雨で、どこかで雨宿りさせてもらおうとあの先に明かりが見えたんで・・向かってたんです。」
「それで、あそこで・・」
「ええ、目の前に、突然、樹が倒れてきて・・。」
「そうなの・・でも良かったわ。怪我がなくて。」
加奈は、皆が脱いだ衣服を集めながら言った。
「まあ、今日はどうしようもないから、明日、晴れたらバイクを見に行こう。それより、腹減ったな。」
「そうね、夕飯にしましょう。与志さんもまだでしょう?・・健さんは?」
健は少し戸惑った表情ながら、「まだです」と返事をした。
「パスタでいいかしら?」
「おや、君が作ってくれるのかい?」
「ええ。今日は私が作るわ。」
加奈はそう言うと厨房に入っていった。
「バイクでぶらぶら旅なんて羨ましいなあ。・・君、仕事は?」
哲夫が訊いた。
「・・今は・・無職です。少し前までは、会社勤めをしていたんですが・・・。」
「ふーん。嫌になったかい?」
与志さんが言った。
「嫌と言うか・・何だか、よく判らなくなって・・何のために仕事してるんだろうって。」
「良いねえ、お気楽で。何のためって、そりゃ、生きるためだろ?金を稼がなくちゃ、生きていけないだろ?それ以外に何があるんだよ。」
与志さんは少し口調がきつかった。
「お金はもちろんそうですけど・・それだけじゃあ・・」
その会話を聞いていて哲夫もふと考え込んでしまった。
病気が見つかるまでは、仕事に邁進するのが当たり前、それこそ自分が生きている意味だと信じていた。だが、病気が見つかった時、一体、何のために仕事に邁進していたのか、急に疑問が湧いてきた。あっさりと辞める決断が出来た事も、今になってみると不思議な感じがしていた。

「さあ、出来たわよ。運んで!」
厨房から加奈が哲夫を呼んだ。
大皿に山盛りのパスタ、そして、小さめの器に、ミートソースとホワイトソースとジェノバ風ソース(加奈の命名)の3種、それぞれに小さな取り皿が配られた。
「久しぶりだね、こういうの。」
「そうでしょ?せっかく人数も多いから、こういうのが良いかなって。さあ、自分で食べたいだけ取って、お好みのソースを絡めて召し上がって!」
「昔、娘たちが居た頃、パスタパーティって言って、よくやったんだ。これなら、一度にいろんな味が楽しめるから、娘たちには好評だったんだよ。さあ、どうぞ。」
哲夫はそう言うと、真っ先にパスタを皿に取り、ミートソースをかけ、大きく口を開けて食べた。
与志さんもそれを見て、「こりゃいいよ」と言ってパスタを取った。健も続いた。
健はそうとう空腹だったのか、取り皿いっぱいにパスタを取った。
「一度にそんなに・・いろんなソースがあるから、少しずつ食べてみてよ。」
加奈が言うと、健は恐縮した表情を見せ、取ったパスタを戻そうとした。
「良いんだよ。好きに取れば・・足りなければ、まだゆでれば良いんだから。」

外は相変わらず激しい雨が降っていた。
ひとしきり、楽しい夕食の時間を過ごした。食器を片付けながら加奈が言った。
「2階に部屋が空いているから、今日は泊まっていってね。お風呂も入れるから。」
健と与志は加奈に案内されるまま、それぞれ、部屋に入り、順番に風呂も済ませた。

健が風呂を済ませて、1階に顔を見せた時、哲夫はソファで横になって眠っていた。
加奈は、哲夫の横で、寝顔を見ながらコーヒーを飲んでいた。
「ありがとうございました。」
健が言うと、加奈は立ち上がって、厨房からコーヒーを運んできた。
「ご主人、寝ちゃったんですね。」
「ええ、早寝早起きなの。パンを焼く日には、9時過ぎには寝てるわ。与志さんも畑仕事を朝早くからやっているからもう寝ちゃったんじゃないかしら。」
「そうか・・みんな、仕事されてるんですよね。」
「私も仕事してるわ。近くの専門学校の先生よ。」
「へえ、そうなんですか。」
「ねえ、健さん。しばらく、うちで仕事してみない?」
「え?仕事ですか・・・。」
むくりと哲夫が起き上がり、二人を見て言った。
「そうだ。それが良い。どうせ、バイクの修理もしなくちゃならないだろ。その間だけでもどうだい?」
「なに、起きてたの?・・もう、しょうがない人なんだから。・・そうね、部屋は空いているし、給料を払うなんて無理だけど、食事は用意できるから。」
健は少し迷っていたが、哲夫の言うとおりバイクの修理は相当時間が掛かるだろうし、どうせ行く当てもないのだ。少し、ここで世話になるのも悪くないかもと考えた。
「じゃあ、お願いします。」

23 嵐の去った後 [命の樹]

23 嵐の去った後
翌日は晴天だった。
加奈を仕事に送り出してから、哲夫は、まず与志さんの家を見に行った。
壊れた場所はなかったが、畑から土砂が庭先に流れ込んでいて、物置の戸が壊れていた。
哲夫は早速修理に取り掛かった。健には土砂を取り除くように言って、自分は、まず蝶番を外して戸の歪みを直して取り付けなおした。その頃には、健もすっかり土砂を取り除いていた。
「これで大丈夫。」
「ありがとうね。」
哲夫と健は、与志さんと別れて、倒木の下敷きになっているバイクを見に行った。
昨日は、夕暮れで薄暗い中、どれほどの状態か判らなかった。行ってみると、倒木はかなりの大きさだった。そのままではバイクは引き出せそうになかった。
「小さく切らなきゃ、駄目かな。与志さんもこの道が通れないと困るだろうし・・。」
哲夫と健は、一旦、自宅に戻ると、物置小屋に入った。
「確か、小さなチェーンソーがあったはずだが・・・。」
健は小屋の中を見て驚いた。ちょっとした工房のようだったのだ。
「ああ・・あった。使えるかな。」
哲夫はところどころにマシン油を指して、エンジンをかけた。ブーンと特有の音を立ててチェーンが回った。
「大丈夫だな。」
そう言うと、石段を降りて、神社の脇を通り先ほどの場所へ戻った。
1時間ほどかけて、倒木を小さく切り分け、道路の脇へ積み上げると、ようやくバイクが姿を現した。
健はすぐにバイクを起こしてみた。エンジンスイッチを入れてみたが、セルの回る音だけだった。
ハンドルとマフラーが歪んでいる。タイヤのスポークも3本ほど折れてしまっていた。
「こりゃあ、修理するのは手が掛かりそうだな。」
「どこか、バイク屋はないでしょうか?」
「バイク屋か・・・この町にはないなあ。浜松辺りならあると思うけど・・。とりあえず、うちの駐車場まで持っていこう。」
夏の終わり、日差しは強かったが、森の中の道は涼しかった。
健はバイクを引きながら哲夫の後をついていき、神社の脇の駐車場にバイクを停めた。

哲夫は、一旦、家に戻った。急に疲れが出た。少し息が上がっているのが自分でもわかる。
「悪いが、少し横になるよ。何だか、慣れない仕事で疲れたみたいだ。・・ああ、昼食は、そこにパンがある。冷蔵庫から何でも適当に出して、サンドイッチでも作ると良い。・・上にいるから、誰か来たら起こしてくれ。」
哲夫は健にそう言うと、階段を上っていった。
健は厨房の棚にあるパンを見つけ、冷蔵庫からジュースを取り出して、昼食にした。それから、電話帳を探し出して、バイク修理の店を探した。
何軒かの店は見つけたが、電話をすると、「出張修理は難しい、店に持ち込んでくれれば出来る」という返答ばかりだった。場所を確認すると相当遠いところばかりだった。そこまでどうやってバイクを運ぶか、まさか引いていくには無理がある。誰かに軽トラックでも借りなきゃ難しいぞ。しかし、この辺りには知り合いも居ないし、哲夫さんなら誰か当てはないかと考えた。
哲夫が2階に上がってから、3時間近く経とうとしていた。お客は一人も来なかった。そのうちに、健も、ソファに座って、うとうとと、し始めた。
「あなた、誰?」
目の前に若い女性が立っている。スリムな体系、短いスカート、大きなバッグを持っている。
健はぼんやりした頭で、お客と思って、反射的に答えた。
「いらっしゃいませ・・。」
「いらっしゃいませって・・ねえ、あなた、誰?バイト?そんな必要ないでしょ、この店に。」
その女性はそう言うと、健に大きなバッグを投げつけ、スタスタと2階へ上っていった。
「ねえ、お父さん!お父さん!・・どこ?ねえ、変な人がいるわよ!」
その女性は、下の娘、千波だった。
その直後、血相を変えて、ばたばたと階段を下りてきた。
店の中を見回し、何かを探しているようだったが、いきなり、健からバッグを取り上げて、携帯電話を取り出した。
「もしもし、結さん?・・お父さんが・・・・ええ、待ってます。ねえ、どうしたらいいの、・・・ええ・・わかりました。」
携帯電話を握り締めて、再び、2階へ駆け上がった。健も心配になってそっと2階へ上がってみた。
2階には部屋が三つあった。いずれも傾斜天井で、屋根裏部屋の形状となっていた。
昨夜、与志と健が泊まった、6畳ほどの客室が東側に二つ。風呂と洗面台をはさんで、西側に10畳ほどの大きな部屋があった。そこにはベッドと机などが置かれていて、夫婦の寝室らしかった。
寝室のドアが少し開いていた。健が中を覗くと、千波が哲夫に何かを着けている。千波の陰でよくわからない。ドアをもう少し開けようとした時、千波が振り返った。
「出て行って!」
そう言って、バタンとドアを締めてしまった。
30分ほどすると、石段を駆け上がってくる足音が響いた。慌ててやってきたというのが足音だけで充分判った。今度は30代の女性だった。
「あなた、誰?」
「あ・・いや・・その・・」
健が答えるまもなく、
「おじさんは?」
健が、恐る恐る2階を指差すと、靴を脱ぎ散らかして、その女性が階段を駆け上がっていった。
「千波ちゃん!おじさんはどう?」
その声だけは聞き取れた。しかし、その後は静かになった。
そのうちに陽が傾いてきた。健は、突然の事にその場から動けず、ぼーっとして外を眺めていた。
小さく、車の停まる音がした。
「哲夫さん!」
今度は加奈が戻ってきたのだった。
今、目の前で起きていることは尋常な事でない、哲夫の身に何かあったんだと、健は思っていた。何が出来るわけでもないが、結果が判るまで健は落ち着かなかった。

24 女たちの相談 [命の樹]

24 女たちの相談
日がすっかり暮れた頃、千波と結、加奈が階段を下りてきた。健は緊張した表情で立ち上がった。
しかし、下りてきた3人は、予想外に穏やかな表情をしていた。
「まったく、千波は大げさなんだから・・。」
加奈が笑いながら言った。
「だって・・。」
千波は口をとがらせて不満そうに答える。
「まあ、でも安心したわ。まさか、ぐっすり眠りこんでいただけなんてね・・。ほんと、千波のおっちょこちょいは誰に似たのかしらね?」
加奈が言うと、結が少しからかうように言った。
「え?千波ちゃんはお母さん似じゃないんですか?」
「まさか、哲夫さんよ。・・いや、でも、あの人の場合、おっちょこちょい、じゃなくてせっかちね。」
「じゃあ、やっぱり、加奈さんに似たんでしょ?」
「嫌なこと言うわねえ。」
三人は、そこに健が居ることを忘れたかのように、和やかに会話しながらテーブルに着いた。
「あ・・あの・・」
どう会話に入っていいかわからず、健が小さく呟くように言った。
「あら、健さん、ごめんなさいね。・・・ええっと、こっちは次女の千波、大学生。そして、こちらは、水上結さん。まあ、私の妹みたいなものかしらね。」
「あ、僕は、伊藤 健、フリーターです。」
健はちょこんと頭を下げた。
「フリーター?・・何それ?・・無職ってことでしょ?」
千波は、健を品定めするようにじろじろと見ながら言った。
「千波ちゃん、相変わらずね。どうして、そんなに男の子には厳しいの?」
結が言うと、千波は何食わぬ顔で続けた。
「厳しいんじゃないわ。周りに、情けない男が多すぎるだけ。」
仕方ないわねという顔をしながら、加奈は、厨房に行くと、コーヒーを運んできながら言った。
「それにしても、千波、一体どうしたってわけ?こんな時期に。帰るなら前もって連絡しなさいっていつも言ってるでしょう?」
「ごめん。昨日、イタリアから戻ったばかりなの。夏休みに一ヶ月ほど、ヨーロッパあたりを旅行をしてたもんだから・・ついでに帰省しようかなって・・。」
千波はコーヒーを口にしながら、ちょっと視線を外して答えた。
「嘘でしょ?」
加奈もコーヒーを飲みながら言った。
「実はさあ・・ちょっと予定より滞在が伸びてしまって・・ピンチなのよね。」
「やっぱりね。今度は幾ら?」
千波は、アルバイトで貯めたお金でふらっと海外旅行に行くのが趣味だった。ただ、無計画なために、時々、生活費に困ることがあった。
「ごめん。いくらでもいいの。」
千波の答えも大体同じだった。こう言うと、加奈が5万円くらいを都合していたのだった。
「仕方ないわねえ・・。」
健は、哲夫に何かあったのではないかと大いに心配していたのだが、三人の会話は何事もなかったように他愛のない様子で、大したことではないのだろうと思い、そのまま訊かずにいた。数日前に偶然世話になっただけである。余りに立ち入った事を訊くのも気が引けたのだった。
「結ちゃん、今日、泊まっていけるんでしょう?」
加奈が訊いた。
「・・そうですね。特に予定もないし・・。」
「そう?良かった。じゃあ、夕食にしようか。」
加奈はそう言って立ち上がった。
「ねえ、部屋は?」
千波が、大きな荷物を抱えて、加奈に訊いた。
「ああ、そうか。・・2階の小さい部屋、一つは、健さんが使ってるから隣を使って。結ちゃんも千波と一緒で良いでしょ?布団は押入れにあるから。」
加奈が言い終わらぬうちに、千波は階段を上っていった。後を、結がついて上った。
「健さん、ちょっと手伝ってもらって良いかしら?」
加奈は健に夕食の準備の手伝いを頼んだ。
夕食の支度が出来て、テーブルに、加奈と千波と結が着いた。
「健さんもどうぞ。・・ねえ、せっかくだから、ワインを開けましょう。ほら、哲夫さんは下戸でしょ?いつも、私一人で飲んでてつまんないのよ。今日は楽しみましょう。」
「やったあ!」
千波が喜んだ。夕食は、千波がヨーロッパ旅行で撮ってきた写真を見ながらの土産話で終始した。

午後9時を回った頃には、健はかなり酔ってしまって、正体を失くし、ソファで寝てしまっていた。
それを確認して、加奈が結に訊いた。
「哲夫さんの具合はどうなの?」
加奈も千波も結も、相当ワインを飲んでいたはずだったが、少しも酔っていなかった。
「少し無理をしたみたいですね。でも、千波さんがすぐに酸素ボンベを着けてくれたから、大事に至らず良かったです。今、点滴もしていますから、明日にはもう普段どおりに動けるでしょう。」
「そう・・・彼が来て、哲夫さんも少し張り切っていたみたいね。・・」
加奈が不ソファで眠っている健をチラリと見た。
「これからは、もっと、こういうことが起きると思います。」
「そんなに悪くなってるの?」
千波が不安げに訊いた。
「ええ・・こうして普通に暮らしている事自体、奇跡だなんです。痛みが出ていないのが不思議です。」
「でも、いつもこんなふうに、哲夫さんの傍に居られるわけじゃないし・・。」
加奈も不安げに訊いた。
「その為に、良いものを持ってきました。携帯用酸素ボンベです。」
結は席を立って厨房の脇に置いた箱を開けて、ちょうどPETボトルほどのものを持ってきた。
「これから、哲夫さんにはこれをいつも持ち歩いてもらうようにしてください。」
「それがあれば、少しは・・。」
「ええ、苦しくなったらすぐに使うことで、楽になります。とにかく、呼吸を確保することです。」
3人は、それ以外にも注意する事を夜遅くまで話し合った。

25 結と哲夫 [命の樹]

25 結と哲夫
明け方になって、哲夫は目を覚ました。
すでに酸素マスクも点滴も片付けられていて、哲夫は、自分の身に起きた事を知らないまま、むくりを起き上がった。全身がだるかった。カーテンを通して朝日が差し込み始めていて、部屋の中はぼんやりと明るくなっていた。隣のベッドで加奈が静かに寝息を立てていた。
昼前に戻ってきたが、余りに疲れてしまっていて、少し眠るつもりでベッドに入ったところまでは覚えている。その後、誰かが呼ぶ声がしたような記憶がぼんやりと残っている。パジャマに着替えているところをみると、眠っている間に、着替えをしてもらったに違いない。
哲夫はベッドから起き上がり、静かにドアを開けて階下へ降りて行った。
階段下に、見慣れないヒールが二つ並んでいた。一つは、おそらく千波。もう一つは長女の美里ではなさそうだった。美里はヒールのある靴を履かない主義だったからだ。
厨房を見ると、夕食の片付けが中途半端な状態で残っていて、ワインの瓶とグラス、それに小皿が何枚か、流しに置かれていた。
勝手口から外へ出た。既に朝日が差していた。
椅子に座り、ぼんやりと景色を眺めていると、がたがたと音がして、勝手口が開いた。
「おじさん・・・」
顔を見せたのは、結だった。
哲夫は振り返って、やはり・・という顔をした。
「昨日は、大変だったのかな・・。」
「ええ・・でも、千波ちゃんが気付いて、すぐに酸素マスクを・・。」
「そうか・・すまなかったね。迷惑をかけたようだ・・。」
「迷惑なんて・・いつでも、おじさんのためなら駆けつけます。・・でも、おじさん、無茶なことはしないでください。普通じゃないんですよ。」
「ああ・・判っているんだが・・なんだか、病気の事、忘れそうなくらい、毎日が楽しくてね。ここへ来て本当に良かったよ。なんだか、自分がみんなに生かされているって、本当にありがたい気持ちで毎日暮らせるんだ。」
「だからって・・。」
「いや、すまない。これからは気を付けるよ。」
「本当に・・おじさんが居なくなるなんて・・考えたくないんです。医師のくせに・・いや、医師だからこそ、一日でも長く普通に暮らしていてもらいたいんです。」
「すまなかった、本当にすまなかった。」
「わたし・・いつまでも・・おじさんのお傍に居たいんです。・・」
結はそう言うと、哲夫に縋って泣いた。
結の言葉には、一人の女性として哲夫を愛していると言えない、一線を超えられない、精一杯の想いが詰まっていた。
しばらく哲夫は結の肩を抱いていた。

湖の方から、漁船のエンジン音が響いていた。一隻の船がライトを点滅させているのが見えた。
哲夫は結の肩を抱いた手を放し、立ち上がって、手を振った。
「きっと、源治さんの船だ。」
結も湖のほうを見た。朝日に照らされて湖面がきらきらと輝いている。
「浜の漁師の方がね、この家は灯台みたいに目印なんだってさ。うちの明かりが見えるとホッとするらしいんだ。・・ね、いいだろう。そんなふうに、ちょっと、みんなの役に立てるなんてさ。」
結は黙って哲夫の姿を見ていた。
「結ちゃん、昨日のお詫びに、パンを焼こうと思うんだが・・良いかな?」
「無理しないでください。・・」
「君も手伝ってくれないかい?」
「はい、手伝います。」
結はそういうと一旦、家の中に戻って行った。しばらくすると、着替えを済ませてやってきた。白いTシャツにジーンズ、小さなエプロンを着けていた。哲夫は、厨房にいて、冷凍してあったパン生地を取り出して、解凍していた。
「どんなパンを焼くんです?」
「手の込んだものは、今からじゃ、無理だから食パンにしよう。朝食のサンドイッチ用にするんだ。・・生地が解けるまで、窯の火を準備しよう。」
そう言うと、勝手口から結と一緒に外へ出た。窯の横に積み上げてある薪を取り出して小さく割り、釜口へ入れて火をつける。
「釜全体を暖めて、炭火になってから成型した生地を入れるんだ。」
結は、初めて哲夫の手伝いをした。
窯の火加減を見ながら、厨房で解凍したパン生地を食パン型に入れ、少し発酵させてから窯に入れる。医者になってから、哲夫の家に足を運んだことは数えるほどになっていて、ここへ転居してからは今度が二度目だった。
昔の会社員だった哲夫とは別人のように、体を動かし、いきいきしているように見えた。確かに、病人であることを忘れてしまってもおかしくないと結も感じていた。そしてこんな姿をすぐ傍で見ていたいと願っていた。
哲夫は、出会った時の17歳だった結は、まだ少女の面影を残していて、自分の子どもように見ていたのだが、今、こうして傍にいる結は、すでに立派な女性となっていて、娘として扱いことはどこか違うようで、戸惑っていた。
パンの焼きあがるのを待つ間に、哲夫はコーヒーを煎れてきた。
「はい。どうぞ。」
結は哲夫からコーヒーカップを受け取った。
「昨日の事は、あの・・健さんには知らせていませんから。」
「そう・・ありがとう。それでいい。・・余計な気を使わせちゃうからね・・。」
「ええ。」
「おじさん、私の病院がもうすぐ開院するんです。そしたら、週に1回、検査に来て下さい。」
「ああ、判った。・・そうだ・・保育園にパンを届けるから、その後に行く事にするよ。検査で行くなんてみんなが聞いたら驚くだろうから、パンの注文を届けるという事でいいかな?」
「ええ・・私もおじさんのパン、毎週1回食べられるのは楽しみ。ぜひ、そうしてください。・・でも、無理してパン作りしないでくださいよ。」
「ああ・・判ってるよ。・・そろそろ、焼きあがるから、みんなを起こしてきてくれないか?」
「はい。」
結は勝手口から家の中へ戻って行った。

26 朝食 [命の樹]

26 朝食
みんなが、朝食のテーブルについたのは、もうすっかり朝日が昇ってしまっている時間だった。
「千波、昨日はすまなかったな。」
朝食のサンドイッチを配りながら、哲夫が千波に言うと、「びっくりさせないでね。」と答えた。
「それは私のセリフよ!」
加奈が千波と哲夫の両方に言った。
「それに、結さんまで呼んでしまうんだもの。」
結はにこにこしながら、みんなの会話を聞いている。健は、やはり会話に入れず、変なつくり笑顔を見せている。
「いけない!もうこんな時間。今日は朝から実習なの。早めに行って準備しなきゃ。」
加奈がさらに残ったサンドイッチを一気に口に入れ、コーヒーで流し込むと、バタバタと2階へあがって行き、カバンをもって降りてきた。
「結ちゃん、ありがとうね。またいつでも来てね。じゃあ。」
加奈はそう言うと、バタンとドアを開けて出て行った。しばらくして、クラクションが1回鳴った。
「じゃあ、私もそろそろ帰ります。病院の準備しなくちゃ。おじさん、来月には開院するんです。時々顔を見せてくださいね。ごちそうさま。」
結も荷物をもって帰って行った。
哲夫は二人の皿とカップを片付けながら、千波に訊いた。
「お前、いつまでいるんだ?」
「え?・・ああ、そうね。明後日くらいには戻るわ。そろそろ、バイトもしなきゃいけないし・・。」
「そうか。まあ、無理するなよ。」
「お父さんもね。」
それだけの会話だったが、親子で互いに気遣う姿が、健には何だか妙に新鮮に感じて、ぼんやりと二人を見ていた。
「ねえ、健君ってバイトじゃないの?」
千波が少しきつい声で言った。「健君」と言われて少しびっくりした。確か自分より年下だと思うが、どうして「君」付けなのだろう、そう思ったが、こらえた。
「いや・・バイトというか・・」
「だって、バイト代の代わりに3食付なんでしょ?だったら、仕事しなさいよ。」
千波はそう言うと、千波は、哲夫が皿を洗っているのを見た。健に皿洗いしろと暗に言っている。
「ああ・・・わかりました。・・哲夫さん、皿洗いしますよ。」
「哲夫さんじゃないでしょ?マスターって呼べば?」
千波は小姑のごとく厳しい口調で健に言った。
「いやあ、マスターは勘弁してくれよ。ほとんど客の来ない店なんだぞ。」
泡立てたスポンジで皿を洗いながら哲夫が言った。
「それより・・健君、バイクの修理の件だが・・一つ心当たり・・というか考えたことがあるんだ。後で、一緒に。」
「ええ、お願いします。」
健は厨房に入って、哲夫の洗う皿を布巾で拭きながら言った。
「その代り、一つ手伝ってもらいたいことがあるんだ。」
「ええ。・・良いですよ。僕でできる事ならやりますよ。」
洗い物が終わると、哲夫は健を連れて物置小屋へ行き、先日ホームセンターで買ってきたライトとソーラーパネルのセットを出してきた。
「これをあそこに取り付けたいんだ。一人じゃちょっと難しそうなんでね。」
哲夫は屋根の上を指さした。赤い屋根の上には風見鶏が乗っている。その脇に取り付けることにした。
「ねえ、お父さん、無理しないでね。」
千波が下から見守る中、哲夫と健は2階のベランダから梯子を使って屋根に上った。風もなく穏やかな天候だった。空にはそろそろ、絹雲のかけらが見える頃になっていた。
ライトとソーラーセット、それから大工道具を一通り運び上げた。哲夫は健にライトの取り付ける場所やソーラーパネルとバッテリーの固定の仕方などを教えた。結局、2時間ほどかけて完成した。
「センサーが付いているから、暗くなると光りだすはずだ。」
作業を終えて庭に降りてきた哲夫が、ライトを見上げながら、満足そうに言った。
「あんなの付けてどうするつもり?お客さんでも呼べるの?」
千波は不思議そうに見上げた。
「少し前に港で漁師の人がね、うちの明かりが湖から見ると灯台みたいで、安心するんだって教えてくれたんだ。だけど、お父さんが早朝に起きた時だけしか明かりは点かないだろ?こうしておけば、一晩中、屋根の上に明かりが点いていることになる。安心の明かりが届けられるじゃないか。」
「ふーん・・そうなんだ。我が家が灯台ってことなのね。」
「そうさ、良いだろ?」
「うん・・良いね。・・・きっと、漁師さんだけじゃないわよ。遠くからもこの赤い屋根見えるから、周囲の人もきっと喜ぶでしょ。・・そして、お客さんが増えればもっと良いじゃない?」
「そんなにうまくいくかな?」
健は二人の会話を聞きながら、のんきな親子だなと思ったのだった。
「ねえ、お父さん、もうお昼ちかくよ。私、お腹空いちゃった。」
昼は三人でインスタントラーメンを作って食べた。
「バイクの修理の事だけどね。とにかくここらには修理できる店がない。結局、浜松辺りまで運ぶしかないだろう。そのために、どこかで軽トラックを借りたらどうかって・・それで、以前に知り合った源治さんっていう人がいるんだ。その人に相談すれば、だれか紹介してくれるんじゃないかと思うんだ。後で一緒に、源治さんのところへ行ってみよう。」
片づけをしながら哲夫が健に言った。それを聞いて千波が言った。
「それなら私が行くわ。お父さんは、お店があるでしょ?」
健は少し妙な感じがした。権がここへ来て数日、客の姿を見たことが無かったからだった。
「ああ・そうか・・じゃあ、頼む。港に行って誰かに尋ねれば、すぐに判るだろう。」
「ええ・・。じゃあ、支度してくるから・・。」
千波はそう言うと2階へ上がっていき、しばらくして、ジーンズにTシャツ姿で降りて来た。
「お母さんの靴、借りるね。・・じゃあ、健君、行くわよ。」
そう言って二人で店を出て行った。
哲夫は二人を見送ったあと、厨房に戻った。厨房の隅に黒い見慣れないカバンを見つけた。カバンには、「おじさんへ」と書かれた手紙が張り付いていた。
中を見ると、銀色の細いボトルのようなものがたくさん入っていた。手紙には、「胸が苦しくなったら使ってください。楽になります。それからすぐに私を呼んでください。」と書かれていた。
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27 千波の告白 [命の樹]

27 千波の告白
千波と健は、店を出ると、通りまで行き、港へ繋がる道を探した。千波は、両親が転居して何度かこの町を訪れてはいるが、外出する事は少なく、町の事は、ほとんど知らなかった。
通りを北へ進むと、町の中ほどに用水路が流れていて、用水路沿いに車一台ほど通れる道があった。二人はとりあえず、その道を歩いていった。ほどなく、港が見えてきた。漁船が幾隻も係留されている。ざっと港を見回ってみたが、誰も居なかった。
「どうする?」
千波が少し苛立った様子で言った。
「どこかの、このあたりの家に行って訊ねてみるかな・・。」
健はそう言うと、人が居そうな家はないか、港の防潮堤に上って、辺りを見回した。しかし、どの家がいいのか全く判らない。
「しばらく、ここで誰か来るの待ってましょう。」
千波はそう言うと、防潮堤の上に座った。気持ちのいい海風が吹いている。
「ねえ、健君はどこから来たの?」
千波は遠くの湖面に視線をやりながら呟くように言った。
「ああ・・東京から。なんとなく西へ向ってみようと思ってね。」
「東京?私もよ。・・・歳からすると、就職したけど行き詰って、会社を辞めたって処でしょ?」
千波が行った事は当っていた。
「まあ・・そんなところかな。自分には向いてなかったんだよ。」
健は少しはぐらかすように答えた。
「この就職氷河期に、就職できただけでもラッキーなのに・・向いていないなんて・・。」
「でもさ、いやいや仕事をしているって不幸だろ。もっと自分にあった場所があると思うんだ。」
「・・甘えてるわ!・・仕事に行き詰ったって?・・どうせ、自分はもっとできるはずだ、なのに重要な仕事をさせてもらえない、上司が理解してくれない、周りが認めてくれない、なんてところでしょ。それで、自分はこんなはずじゃ無かった。・・何様のつもりよ!」
「そんな・・俺はただ、自分は何者か、どんな形で役に立てるのか・・そう思って・・。」
「自分が何者かって?そんなの、ふらふら旅をしていて見つかるわけないじゃない!」
千波の言葉はいちいち当たっていた。東京を出てからあちこちを旅してきたが、何も見つかっていないし、自分が何者かなんて、次第に考えなくなっていたのも事実だった。
しかし、他人に言われると無性に頭にくる。何だか、途轍もなく、お気楽な人間だと言われているようだった。だが、健は反論できなかった。

しばらくの沈黙のあと、千波が思い切ったように口を開いた。
「親には内緒だけど・・私、イタリア旅行の前にね・・インドに居たの。」
「インド?」
健には、千波が想像もできない世界にいるように見えた。
「国際ボランティア団体の斡旋があって、インドの病院のボランティアに行ったの。・・貧困の中で満足に医療を受けることができない人を無償で受け入れる病院があって、そこで、ボランティアをね・・。」
千波の口から、ボランティアという言葉は何だか不似合いだなと健は感じた。
「インドは著しい発展をしているわ。でもね、貧富の差が大きいの。首都は東京に負けないほどの高層ビルが建ってるのに・・少し、離れたところでは、水道も電気も充分に使えない、医師もいない、教育も満足に受けられない、そういうスラムもたくさんあるのよ。」
「知らなかったな・・。」
「そんな貧しい人へ何か出来る事があるんじゃないかって思ったの。学生だからこそ、時間があるうちにできることをやろうって決めたの。」
千波は表情をこわばらせて話し続けた。
「でもね、思い上がっていたのね。目の前にある現実はそんなに甘くなかった。日本では何気なく暮らせているでしょ。でもね、そんな環境じゃあ、他人の世話なんてできわけがない。自分が生きていくだけでも大変。日本なら当たり前のことがそこでは通用しない。ボランティアなんて無理。私、2週間で逃げ出したのよ。・・」
千波の思わぬ告白に健は何と言えばいいのか言葉を失くしていた。
「イタリアへ行ったのは、そのまま日本に帰れない・・帰れば、そのまま何もできなくなるんじゃないかって怖かった。イタリアではとにかく、インドの事は忘れようって毎日観光地を回っていたの。・・でも結局、忘れられなかった。・思い上がっていた自分の姿を思い出してしまって・・情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて・・とにかく、一度、家に戻ろうって・・。」
「帰ってきてどうだった?」
「・・・」
千波は答えなかった。

千波が健に厳しく当たっていたのは、自分自身への苛立ちの裏返しだったのだ。健を見ていると、思い上がっていた自分を思い出してしまう。そういう自分自身もまだ強く生きる決心も出来ていない。そういう混ざり合った感情が健へ向かっていたのだった。

「そんなところは特別だろ?そんなところからは誰でも逃げ出すに決まってるさ。無理する必要なんかないんじゃないか。日本にいれば、自分にあった・・居心地のいい場所があるに決まってる。」
健の、場当たり的な言葉に千波は苛立ちを隠せなかった。
「それが許せないの!結局、そうなのよ。自分にあった場所?何処にあるの、そんなところ。こんなぬるま湯みたいな日本にいるから・・そんなこと言って、自分探しなんて、おかしな余裕見せて、ふらふらできるのよ!」
「ふらふらって・・・・」
「もっと毎日真剣に生きてみなさいよ!」
「真剣にって・・・やりたいことをやって生きていくのが一番の幸せじゃないのか!・・ほら・・哲夫さんだって、毎日のんびり暮らしてる。あんな風に、悠悠自適に生きていられるっていいよな。」
それを聞いて、千波はさらに怒りを見せた。
「・・・お父さんは・・・お父さんも、お母さんも・・毎日、真剣に戦ってるの!・・・・何にも知らないくせに!」
千波はそういうと防潮堤から飛び降りた。
そこへ、漁師らしき男が、大きな網の塊を担いでやってきて、防潮堤の上にどさっと置いた。
「あ・・確か・・」
千波はそう呟くと、その人のところへ駆け寄っていった。

28 竜司と源治 [命の樹]

28 竜司と源治
「こんにちは・・竜司さん。昨日はありがとうございました。送ってもらって助かりました。」
その言葉に、その男は振り返って、陽に焼けた額の汗を拭いながら答える。
「ああ、千波ちゃんか・・・良いんだよ。俺も家に戻るところだったから・・。で、今日は?」
「源治さんって言う人を探してるんです。」
「源治さん?・・ああ、俺の師匠だよ。ここの漁師なら誰でも世話になってる。そのうち、顔を見せるんじゃないかな。そろそろ、漁に出る支度を始める時間だから。」
「これから、漁に出るんですか?」
「ああ、夏場は夜のほうが獲れるからね。・・俺もこれから支度だよ。」
「へえそうなんですか。」
「で?・・そっちは?」
竜司は、ちょっと睨むような目つきで健を見た。
「ああ・・うちの店のバイト・・健君です。・・お客さんなんか居ないんだから、バイトなんて要らないんですけどね。お父さんも物好きなんだから・・。」
妙な紹介をされてしまって、健は申しわけなさそうに小さく頭を下げた。
「ねえ・・竜司さんもお父さんのお店、来てくださいよ。・・たいしたものはないけど・・。お父さんにはサービスするように言っておくから・・」
「喫茶店だったよね。・・ああ、今度、漁の無い日にでも顔出してみるよ。」
そこへ、源治が現れた。
「おや?珍しい。若い娘が居るじゃないか。なんだい、竜司の彼女か?」
挨拶代わりに、源治は、竜司を冷やかすように言った。
「何言ってるんだ!ほら、あの赤い屋根の喫茶店の娘さん。千波ちゃんだよ。」
竜司は、大きく網を広げながら言った。
「ああ・・そうかい・・てっちゃんの娘さんかい。ほう・・そう言えば、てっちゃんに似てるなあ。」
千波は少しむっとした表情を浮かべた。
「源さんに用事があるんだってさ。」
竜司が、再び仕事をしながら言った。
「ほう、こんな可愛い娘が俺に何の用かな?・・てっちゃんの娘なら、何でもきいてやるよ。」
源治の言葉に千波はにこりと笑って、健の方を見た。
「さあ・・健君。」
健は緊張した表情で進み出て言った。
「すみません・・伊藤・・健と言います。・・あの・・バイクが故障してしまって、修理をしたいんですが・・この近くには修理できるところがないみたいで・・・それで、浜松まで運びたいんです。どなたか、トラックを持っている方を教えていただきたいんです。」
源治は少し怪訝な表情を浮かべながら、健の話を聞いていた。
「ふーん・・そうか、オートバイが故障か・・そりゃ困ったな。・・」
「ねえ、源治さん、トラックを貸してくれそうな方、ご存じないですか?」
千波も訊いた。源治は頭を掻き乍ら、少し考えてから言った。
「トラックか・・・昔はみんな、魚を運ぶのに持っていたんだがな・・近頃じゃ、魚は浜松の港まで直接、この船で運び込むことが出来るようになったんで、トラックは持たなくなっちまったんだ。俺も、今は持ってないしな・・。」
「そうですか・・。」
健はがっかりした表情を浮かべた。
「だがな・・」
源治は続けた。
「オートバイの修理ならできるかもしれないぞ。」
健も千波も、えっという表情を浮かべた。
「通りの端っこ、信号から2軒目に、須藤自転車って店がある。」
「自転車屋さんじゃ・・無理でしょう?」
千波は健を見ながら言った。
「いや・・元々は、自転車屋だったんだが、若い頃からオートバイが大好きでなあ。趣味が高じて商売になっちまったんだ。機械いじりは昔っから好きだったから、時々、船のエンジンも修理してくれたこともある。めっぽう腕は良いはずだ。」
源治がそう言うと、仕事をしていた竜司が手を止めて言った。
「いや・・だめだ。あそこの親父、病気になっちまって、店を閉めたんだ。」
源治はそうだったと思い出したような表情を浮かべた。
「ああ・・そうだったな。だが、何か相談くらいには乗ってくれるんじゃないか。知り合いのバイク屋とか、ひょっとしたら、直し方を教えてくれるかもしれない。道具もきっとそのままだろうから・・。」
「どうかな・・体が動かないって聞いたし、それに、病気になってから、家に閉じこもって人に会いたがらないらしい、一度も顔を見たこともないじゃないか。」
竜司は仕事の手を止めず、言った。
「ああ・・そうかもしれないが・・。」
「訊ねて行っても追い返されるだけかもしれないぞ。」
「だがよ・・あの歳で引きこもってるなんてなあ・・奥さんも気の毒だ。・・すまないなあ、あまり役に立てなくて・・」
源治は、千波と健に、申しわけなさそうに言った。
「いえ・・いいんです。とにかく、その須藤自転車店へ行ってみます。ありがとうございました。」

千波と健は、源治の話に一縷の望みを託して、行ってみることにした。
通りまで戻って、源治に教えられた通りに行くと、店の場所はすぐに判った。
だが、古びた建物のシャッターは閉まったまま、「しばらく休業します」の古い貼紙があって、声を掛けたが返答は無かった。
「やっぱり無理みたいだな。」
健はあっさり諦めようとした。しかし、千波は諦めきれない。いや、引きこもっているという話を聞いて、バイクの修理よりも、自転車屋の主人の事が気になっていたのだった。
千波は、店の脇にある路地を見つけた。
そこから、少し奥へ入ると、ちょうど店の裏側に地続きで家屋があった。
門の表札に「須藤」とあった。


29 須藤自転車店 [命の樹]

29 須藤自転車店
「こんにちは・・すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
千波は、門から少し身を乗り出して声を掛けたが、返答がない。仕方なく、門扉を開けて中に入った。先ほどの店の裏口からの通路が伸びていて、玄関に繋がっている。
「失礼します。」
千波は少し緊張しながら中へ足を踏み入れた。
健も千波の後に続いた。数歩、歩いたところで、野太い声が響いた。
「誰だ!」
声はすぐ傍で聞こえたが所在が判らない。
辺りを見回すと、玄関の隣、広縁に置かれた椅子に白髪の老人が座って、千波たちを睨んでいた。

「突然に、すみません。」
千波はそういうと深々と頭を下げた。ゆくりと顔を起してその老人を見ると微動だにせず二人を睨んだままだった。
「初めまして・・私、倉木千波といいます。・・岬のところで父が喫茶店をやっているんですが・・あの・・漁師の源治さんに教えていただいて・・伺ったんです。」
老人の表情は一向に変わらない。いや、ますます険しい表情になったように感じた。
「何の用だ!」
老人の言葉に、千波は健を見た。健は千波の後ろに立っていたはずだが、知らぬ間に門の処まで後ずさりしていて、老人には見えない場所に身を隠した状態になっていた。
千波は健を睨みつけ、少し不機嫌な表情を浮かべた。
「あの・・バイクの・・バイクの修理をしていただけないでしょうか?」
千波は健に代わって言った。
「バイクの修理?・・ふん、馬鹿馬鹿しい。・・・帰れ!」
老人はそう言うと、眼を閉じた。取り付く島もない。
そんなやり取りを聞きつけたのか、玄関が開いて、老人の奥さんらしき人が顔を見せた。奥さんは慌てて千波に駆け寄ってきて、手を引っ張って門の外へ連れ出した。そこには権がばつの悪そうな顔をして身を潜めていた。

「ごめんなさいね。」
奥さんはいきなり二人に謝った。
「いえ・・そんな・・。」
「あの人、病気をしてからあんなふうになっちゃってね。・・誰が来ても追い返すのよ。」
「いえ、突然お邪魔してしまって、こちらこそ申しわけありませんでした。源治さんから、こちらならバイクの修理ができるかもってうかがったものですから・・」
「そう・・源治さんから・・・確かに、昔は腕も良くて、結構遠くからも修理の仕事を貰っていたんだけどね。・・あの人、2年ほど前に、脳梗塞を患ってしまってね。体が不自由になったのよ。もう、昔みたいにはできないの。」
「あの・・見てもらうだけでも・・修理はできなくても・・どこが壊れているか・・どうしたら直るかとか教えてくださらないでしょうか?」
奥さんは困った顔をしている。
「なら・・どこか、近くでバイクの修理をしていただけそうな方を紹介してもらえませんか?」
更に奥さんは困った顔をして言った。
「御免なさいね。せっかく、来て貰ったのに。・・あの人、もう誰とも逢おうとしないし、バイクの事は考えたくもないらしいのよ。・・」
竜司が言っていた事は本当だった。

やむなく二人は店に戻ることにした。
千波たちが、店に戻ったのは夕方だった。千波は、これまでの経緯を哲夫に話した。
「残念だったな・・まあ、バイクの修理はまだ何か手があるだろう。・・健君、別に急ぐ旅じゃなかったんだよね。じっくり考えようか。・・・ああ、千波、明日には帰るんだろ?」
「ええ。朝、お母さんに駅まで送ってもらうつもり。」
「そうか・・東京に戻ればまた大変だろうから、とりあえず、のんびりしなさい。」
哲夫はそういうと、厨房で明日の仕込みを始めた。

翌日は、いつもの保育園へパンを届ける日だった。
哲夫は朝早く起きてパンを焼いていた。千波もそれを知って早朝から哲夫を手伝った。パンが焼きあがったころに、与志さんが顔を見せた。
「おや、千波ちゃん、久しぶりじゃないか。元気だったかい?」
いつもの席に与志さんは座って、紅茶を飲みながらそう言った。
「ええ、いつも父がお世話になっています。」
「いやいや、こっちが世話になってるんだよ。こないだも、家の修理もしてもらったし、大雨の日にはここで避難もさせてもらったんだ。近くに住んでもらって助かってるんだよ。」
「そう・・。これからもよろしくお願いします。」
こくりと頭を下げて、千波は焼きあがったパンをもって厨房へ入っていった。
「すっかり大人だねえ。前にあった時はまだ子どもみたいだったけど・・。」
「ええ・・何だか、妻に似てきてるみたいです。」
与志さんは紅茶を飲み、焼きあがったばかりのパンを食べ終わると、畑に戻って行った。

朝食を終えると、加奈は出勤のついでに千波を駅まで送っていった。
「お父さん、体、大事にしてよね。今度はお正月くらいには戻れると思うけど・・。」
玄関先で、千波は振り返って哲夫に言った。少し心配そうな表情なのに健は気づいた。
「ああ・・お正月だな・・待ってるよ。」
哲夫の返事に千波は少し涙ぐんでいるように見えた。
「さあ、行きなさい。電車に遅れるよ。」
哲夫は玄関で千波を見送った。健は、加奈の車まで荷物を運んで行った。
「健君、ここにいる間はしっかり働きなさいよ!」
千波はそう言い残して加奈の車に乗り込んだ。