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8 診察の日 [命の樹]


夕方に、加奈が帰宅すると、哲夫は今朝からの出来事を嬉しそうに話して聞かせた。
「良かったわね。」
加奈は、哲夫の話を一通り聞き終えると、哲夫に負けないくらいの笑顔で、そう言った。
「ああ、良かった。ここへ来て良かった。人の輪の中で生かされてるって実感したよ。」
「そうね。」
哲夫の言葉を聞いて、加奈はほろりと涙を流した。それに気づかれないように、加奈が立ち上がって言った。
「今日は、私が夕飯を作るわね。」
加奈が、エプロンを着けて冷蔵庫を覗き込むと、白い皿にキスが開いてあるのを見つけた。それに気づいて哲夫が言った。
「たくさんキスを貰ったから開いておいたんだ。フライか天ぷらかにしようよ。」
「いいわねえ。じゃあ、今日は天ぷらにしましょう。残りは、フライにできるようにパン粉をつけて冷凍しておけばいいわ。・・ねえ、キスフライのサンドイッチっていうのも良いんじゃないかしら?」
哲夫も厨房に入り、夕食作りを手伝い、その日は、キスの天ぷらをおかずに楽しく夕食を済ませた。

片づけを終えて、二人は、中央に置かれた真っ赤なソファに座って、コーヒーを飲んで寛いでいた。
「ねえ、次の診察は明後日よね?」
哲夫は少し疲れたのか、うとうとしながら答えた。
「ああ、明後日だよ・・・。」
「大丈夫よね?」
「ああ・・ここへ来てから調子は良い。大丈夫さ。」
夜が更けていった。

翌々日、加奈は休みを取って、哲夫を病院へ送っていく事にしていた。病院は、浜松市内の大学病院だった。
「今日は、CT検査もあるから午前中いっぱい掛かるよ。駅前にでも行ってくれば?」
哲夫はそう言ったが、加奈は一緒にいるといって駐車場に車を停めた。
病院に入るとすぐに診察室へ向った。
「あら、随分、元気そうですね。」
診察室には、30代の女性の医師がパソコンを前に座っていた。
「水上先生、お久しぶりです。最近、調子がいいんですよ。」
そう言いながら哲夫は椅子に座る。
水上医師は、哲夫の顔色や目の様子、胸部・腹部に聴診器を当てて、音を聞き、触診まで手早く済ませた。
「じゃあ、今日は、CT検査と血液検査、エコーもやっておきましょう。」
水上医師がそう言うと、若い看護士が検査室へ案内した。
診察室を出ると、加奈が長椅子に座って待っていた。加奈は、哲夫の顔を見て微笑んだ。そして、階段の方を指さして、コップを持つ仕草をした。病院内にある喫茶店に行くという合図だった。哲夫は了解したというふうに頷いた。
哲夫が検査室に向うと、加奈はすぐに診察室に入った。
「加奈さん、おじさんに変わった様子はありませんか?」
水上医師はかなり深刻な表情を浮かべて加奈に尋ねた。
「・・引っ越してから、かなり調子は良いみたいです。見た目にはずいぶん元気になったなあって・・・。」
「そうですか。・・・体重は?」
「変わってないはずです。食欲もあるみたいですし、毎朝、早起きして店の準備もやってます。パン焼きの腕も随分上達したみたいです。先生も一度いらしてください。」
「あの・・加奈さん・・先生って呼ぶの、やめてもらえませんか?何だか、変な感じ。いつもみたいに、結って呼んで下さい。」
「え?でも・・ここでは水上先生でしょう?」
水上医師は少し嫌な表情をしながら話をつづけた。
「まあ良いです。検査の結果を見なければわかりませんが、もうすぐ、痛みが強くなるかもしれません。痛むが強くなれば、食欲も湧かなくて、次第に体力が落ちてきます。そうなると、一気に深刻な状態になると思いますから。小さな変化でもすぐに知らせてください。早く処置すればそれだけ長く生きられるはずです。」
「はい・・・すぐに・・。」
加奈は涙を浮かべていた。そう話す、水上医師も涙を浮かべている。
「くれぐれも、無理だけはさせないでください。」

加奈は、水上医師と話をしたあと、喫茶店に行った。
検査には1時間ほど掛かった。検査を終えて診察室に戻って来ると、加奈が診察室の前の長椅子で待っていた。加奈は「大丈夫?」というような視線を送る。哲夫はいつもの事差というふうに微笑んだ。
診察室に入ると、水上医師がCT検査の結果やエコーの結果を食い入るように見ていた。
「どうですか?」
哲夫が椅子に座って医師に尋ねる。
「うーん・・・」
水上医師は、哲夫の方を見ず、じっと検査結果を見比べている。
「まあ・・大きな変化はないようね。薬はちゃんと飲んでいますね?」
「ええ・・。」
「今のところ大丈夫でしょう。ただ、無理は禁物ですよ。調子が悪くなったらすぐに連絡してくださいね。」
「はい。でも、先生もお忙しいでしょう。」
哲夫の返事に水上医師は半ば怒ったような表情で言った。
「何、言ってるんですか!良いですか、たとえ何があろうと、おじさんの具合が悪ければすぐに行きますからね。おじさんには1日でも長く生きていてもらわないと・・・」
水上医師はそこまで言うと、医者らしくなく涙を浮かべていた。
「ごめん・・結ちゃん、ちゃんと連絡するよ。ごめんね。」
「もう・・おじさん・・おじさんが居なくなったら・・私・・。」
哲夫の言葉に、水上医師は、もう医師であることを忘れていた。


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