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7 礼の意味 [命の樹]


「奈美も裕も、うちへ来てからずっと元気が無かったんだ。まだ、両親の話はしていないんだが、子どもなりにわかっているみたいだ。だが、寂しいって泣くことをしないんだ。笑う事もない。何だか、死んでるみたいなんだ。・・奈美は保育園に行き始めて少し話しもするようになったんだが・・裕は何一つ言わなくなった。じっと一日、縁側に座って外を眺めてる。まだ三つだぞ・・そんな小さな子が・・・。」
源治は、そう言いながら涙ぐんでいる。
「おれも、女房も、何とか元気付けようとしてるんだが、変わらない。女房なんか、子ども達の様子を見ては毎日のように泣いている。」
哲夫は保育園で会った時の、奈美の笑顔を思い出していた。
「でも、奈美ちゃんはこの間、保育園で素敵な笑顔を見せてくれましたよ。」
「ああ、そうなんだ。あの日、保育園から奈美が戻ってきた時、びっくりするほど元気だった。そして、縁側に座っている裕のところへ一目散に駆け寄って、カバンの中から紙袋を取り出したんだ。」
「・・あのパンですか?」
「ああ、小さなパンだった。裕の奴、奈美からパンを貰うと、パクっと食べたんだ。そしたら、美味しいって口を開いたんだ。そして残りを綺麗に食べると、にっこりと笑ったんだよ。」
源治はそのときの情景を思い出して、満面の笑みを浮かべていた。
「初めてだったよ。あいつのあんな笑顔。そしたら、奈美もにっこりと笑ったんだ。女房はそれを見て涙を流したよ。俺もな。・・奈美はカバンにもう二つパンを持ってた。裕が食べたのを見てから、俺たちにもくれようとしたんだが、俺は、裕の笑顔が見たくてなあ。二人で食べるように言ったんだ。二人は縁側にちょこんと座って、美味しそうに食べてた。それから、裕は、随分元気になった。奈美も毎日嬉しそうに保育園に行くようになったしなあ。女房ももう泣く事も無くなったし・・。」
「そうですか・・それは良かった。」
「だから、哲夫さんにどうしても礼を言いたくてね。」
「いえ・・僕はただ、パンを作っただけですから。裕君が元気になったのは、奈美ちゃんのお陰でしょう。きっと奈美ちゃんも裕君が元気が無い事を苦にしていたんじゃないでしょうか?それに、そんな裕君を見て奥さんや源治さんが悩んでいるのも辛かったんじゃないでしょうか?奈美ちゃんの気持ちが裕君に伝わったんでしょう。」
それを聞いて、与志さんも言った。
「きっとそうだろうよ。お姉ちゃんというのは、時に母親代わりをするもんさ。」
「きっとそうですよ。だから、お礼なんて要りません。むしろお礼を言いたいのは僕の方です。僕の作ったパンでそんなふうに元気付けられる事があるなんて・・教えてくださって本当にありがとうございました。」
哲夫は心からそう思っていた。保育園でパンを配る時、子ども達の笑顔だけで充分幸せを感じることができていた。だが、源治の話しはさらに自分のパンが役に立っている事を証明してくれている。この町に来て良かった、哲夫はそう強く感じていた。
「いや、このままじゃ俺の気がすまない。これを受け取ってくれ。今朝、獲ってきた魚だ。俺にはこれくらいしかできないからな・・。」
源治は脇に置いていた発砲スチロールの箱を哲夫に突き出した。蓋を開けると、きらきらと光る魚がたくさん入っていた。
「おや・・美味しそうだね。キスかい?」
「ああ、今、旬だからな。」
哲夫は礼を言って受け取り、少し、与志さんにも分けた。
「源治さん、パンを食べてみてください。焼きたてできっと美味しいはずです。」
哲夫は源治の返事も訊かずに釜へ行き、焼きあがったパンを出してきた。
源治と与志は、パンを口にした。
「ふうん・・これは梅を使ったね?」
「ええ・・与志さんにいただいた梅ジャムを入れてみたんです。どうですか?」
「ああ、旨いよ。」
源治も頷いた。
哲夫は満足そうな笑顔を浮かべ、焼きあがったパンの並んだ皿を持って立ち上がり、「ゆっくりしていってくださいね。」と言うと、厨房へ入って行った。
「さあ、仕事、仕事。」
与志は残った紅茶を飲み干すと、そう言いながら、垣根の間から畑へ戻って行った。
源治は、与志を見送ると、厨房を覘いた。中で、哲夫がパンの袋詰めをしているのが見えた。源治は少し躊躇いながらも、そっとドアを開けて声を掛けた。
「あのさ・・哲夫さん・・。」
「源治さん、どうしました?」
「その・・保育園に持っていくパンを袋詰めしてるんだろ?」
「ええ、いつものことです。」
「俺にも手伝わせてもらえないかな?」
「ええ・・いいですよ。さあ、どうぞ。」
「そうかい?」
源治は、哲夫の横に立つと、黙々とパンの袋詰めを始めた。源治はそのごつい手で小さなパンをひょいっと摘まむと、白い紙袋に入れて、両端をくるりと回して口を閉じた。そして、全て終えると満足そうに帰っていった。

哲夫は、保育園にパンを運んだ。いつものように、子どもたちが次々にパンを受け取る。その中に、元気な笑顔の奈美の姿もあった。
「奈美ちゃん、はい、パン。今日は4つ、持ってお帰り。特別なパンだからね。」
「とくべつなパン?」
奈美は哲夫の言葉にきょとんとした。
哲夫は奈美の耳元で小さく言った。
「今日のパン、源治さんが袋に詰めてくれたんだよ。」
奈美は、一瞬、驚いた表情を見せ、すぐに、満面の笑みを浮かべ、哲夫から大事そうにパンを受け取った。

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