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6 源治 [命の樹]


一週間が過ぎた日、加奈を送り出した後、哲夫は保育園へパンを届けるために、パン焼き窯に火を入れていた。与志さんはまだ現れていなかった。
ごそごそと厨房とパン焼き窯を行き来しているとき、ふと、玄関先に人影があるのに気付いた。
誰だろうと不審に思って、哲夫は、パン焼き窯のある裏手から、玄関へ回ってみた。
そこには、長靴に作業ズボン、Tシャツ姿の、白髪の男が立っていた。日に焼けた腕は太く、筋肉隆々で、一見して、漁師と判る風体だった。その男は、玄関からしきりに中の様子をうかがっているようだった。
「あの・・何か御用でしょうか?」
哲夫は男の背中越しの声を掛けたために、男はびくっと驚いて振り返り、じっと哲夫を睨みつけるような格好になってしまった。手には白い発泡スチロールの箱を抱えている。
「礼をしたくて来たんだ。これ、受け取ってくれ!」
男はそういうといきなり箱を哲夫に突きつけた。
「いや・・礼と言われても・・心当たりがないんですが・・・。」
哲夫は戸惑った。初対面の男から礼と言われても全く心当たりは無い。男は、眉間に皺を寄せて、さらに哲夫を睨みつけた。
「哲夫さんだろ?・・保育園にパンを届けてるって聞いたんだが・・・。」
「ええ・・確かにパンを届けてます。今日も届けるんですよ・・それが・・」
「だから・・なんだ・・そのパンで・・」
男は、どこから話すべきか少し戸惑っている様子だった。哲夫は、その様子に気付いて
「立ち話というのもなんですから・・宜しければ、中へどうぞ。」
と中に招きいれようとしたが、「この風体だからな・・」と男は遠慮した。
「ならば、裏へ回ってもらえますか?ちょうど今、保育園に持っていくパンを焼いているんです。様子が気になるので・・・・ああ・・裏にも、椅子がありますから・・ああ、そうだ、コーヒーいかがです?」
哲夫は男の返事を待たずに、玄関からパン焼き釜のところへ男を連れて行った。
「ここへどうぞ。すぐにコーヒーを煎れて来ますから。」
そう言うと勝手口から厨房へ入った。男は、ベンチに腰掛け、周囲を見回した。パン焼き釜からパンの焼ける匂いが漂っている。目の前には湖が広がり、なんて気持ちの良い場所なんだろうと感じていた。
目の前の生垣ががさがさと動くと、与志さんがひょっこりと現れた。
「おや?お前、源治じゃないか。なんだい、こんなところに、一体どうしたんだ?」
「いや・・俺は哲夫さんにちょっと用事が有って・・。」
「ふうん?で、てっちゃんは?」
「コーヒーを持ってくるって。」
与志さんはそれを聞いて、男の横に座った。
「ばあさんもここへよく来るのかい?」
「ああ・・気が向いたときに・・な・・。」
そんな会話をしているところに、哲夫が出てきた。
「やっぱり、与志さんもいらしたんですね。さあ、どうぞ。与志さんには紅茶を・・」
そう言うと、テーブルにコーヒーと紅茶を並べた。
与志さんは紅茶を一口啜ると切り出した。
「源治、お前の用事ってのはなんだい?」
その言葉に哲夫が反応した。
「源治さんっていうんですね。まだ名前も伺ってなかったから・・。」
「なんだい、お前、名乗らずにここにいるのかい?それでなくても怪しい風体なのに・・とんだ礼儀知らずだねえ。」
与志さんは源治を見下すように言った。
「うるさいよ、婆さん。俺は、礼を言いに来たんだ。」
「礼を?おや珍しい。・・お前も礼をいう事を覚えたのかい?」
初老の男を捕まえて、まるで子どもに言うように与志さんは言った。
「昔からの知り合いですか?」
哲夫が尋ねると与志さんが答えた。
「源治の事なら、赤子の時から知ってるんだ。若い頃には放蕩の限りをして、随分、皆に迷惑を掛けたもんさ。まあ、今は良い爺さんになったみたいだがねえ。」
「うるさいな・・なあ、哲夫さん。保育園にパンを持って行ってるんだってなあ。」
源治は、与志さんが現れた事で少し和んだように切り出した。
「ええ・・週に一度だけなんですが・・・」
「奈美って子を知ってるだろ?」
「ええ・・先週、初めて気づきましたが・・・。」
「奈美は俺の孫なんだよ。知ってるとは思うが、あの子の両親は、大きな事故にあって・・父親は死んじまった。即死だったそうだ。・・・母親の方は・・俺の娘なんだが・・・奇跡的に助かってな。今、病院にいる。」
「保育園の先生にお聞きしました。そうだったんですか・・・。早く元気になられると良いですね。」
哲夫が答えると、源治は大きな溜息をついた。
「いや・・おそらく・・無理だ。医者の話では意識は戻らないだろうって。大きな事故だった。連休を使ってうちへ帰省するって連絡があって、気をつけろとは言ったんだが・・それが・・高速から降りたばかりの、うちまであと僅かのところで・・大型トラックと衝突したんだ。奈美や裕も・・裕ってのは弟の方だが・・乗ってたんだ。だが、娘が二人を庇う様にして、車に挟まっていたらしい。それで二人はほとんど無傷だったんだ。車は見る影も無いほど大破していた。トラックの居眠り運転らしいんだが・・」
源治の話をじっと聞いていた与志さんがふと漏らすように言った。
「不憫だねえ・・。」
哲夫は源治に掛ける言葉を失っていた。源治は、遠くを見ながらコーヒーを一口飲んだ。

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