SSブログ

2日目、③大浦到着 [琵琶湖てくてく物語]

大浦地区に到着した。
ここまでざっと10km。
ここで紹介したいお店がある。「みつとし本舗」だ。
実は、大浦は、移住を決めた頃、初めに購入を予定していたログハウスがあった。広い敷地、綺麗なログハウス、手ごろな値段で九割がた購入を決めて、内覧もさせていただいた。だが、ちょっと狭かった。もう一部屋あれば・・と断念した経緯があった。
その時、この「みつとし本舗」を見つけた。
「ピーナッツせんべい“丸子船”」オンリーの店。
この地区の旧家の佇まいで、一見、お店とは思えない。黄色い看板と暖簾はあるが、今時の店内が見えるような構造ではなく、ちょっと入るのに勇気がいる。だが、入ってみると何とも言えない温かみを感じた。150g入り500円(税込540円)を購入する。素朴な味わいに納得。実は、以前、私はピーナッツアレルギーだった。ナッツ類の入った菓子を口にすると、咳が止まらなくなり、気管支喘息のような症状が出ていた。だが、ピーナッツは好物。ジレンマと戦いながら食していた。不思議なことに、ここのピーナッツせんべいでは、アレルギー症状が出なかった。そんな不思議なことがあるとは思えないし、恐らく医学的にはあり得ないことなのだろうが、いずれにしても、この店の「ピーナッツせんべい」は大丈夫なのだ。以来、思い出すたびに、寄って購入している。

さて、お昼時となった。
大浦川に架かる橋を渡り、直ぐ、右手の川沿いを歩く。天気も良く、風も穏やかなので、湖岸で、コンビニで仕入れた昼食を食べることにした。
貸しボートの看板がある岸辺の道を進むと大浦園地に出る。まずはトイレ。公園のトイレを拝借する。
丸石を積み上げた湖岸に座り、昼食を取る。
湖に向かって左手には大浦漁港、右手は先程歩いてきた湖岸道路が見える。
若い頃から、外出の際、妻は、大きめの水筒にコーヒーと麦茶を持って出ることに決めている。勿論、若い頃は「節約」のためだった。自動販売機で飲料を買うのがどうにも無駄だと感じていたようだ。今回、琵琶湖を歩くことにした時も、この習慣は変わらない。冬なので、温かいコーヒーは欠かせない。
一息ついて、出発。
本当なら、この先菅浦へ向かいたいところだが、その先の道がないため、ここはやむなく、山越えの道を選ぶ。
大浦の街中で通り過ぎ、北へ向かうと、「北淡海・丸子船の館」がある。
ここ大浦は、日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさんの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運部という水運の一翼を担っていたようだ。
琵琶湖には大小48の港があったとも言われているが、敦賀からのルート上では、塩津と大浦・菅浦は要衝と言える。〇の印を染め抜いた帆を掲げた荷船が、琵琶湖を行き交う姿はきっと勇壮だったに違いない。ここで解説を見る限り、琵琶湖の水運が盛んだったころ、やはり「水軍」がいたようだ。正当な運搬船だけでなく、それを襲う輩もいたらしい。そうなる背景には、貧富の差がある。海津の石積みを見ると、改めてそう感じる。光と影、富める者と貧しき者、支配する者と虐げられる者、人の世は難しい。皆が助け合い、寄り添いあうような社会は幻想か・・。
そういう思いを浮かべながら、「丸子船の館」を素通りして、国道303号線の大浦口へ向かう。

nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

2日目、④山越えの道 [琵琶湖てくてく物語]

国道303号線の大浦口信号から東へ向かう。
ここからは山中のルートになる。暫くは琵琶湖から遠く離れてしまう。菅浦まで歩いて、奥琵琶湖パークウェイのルートも考えたが、さすがに厳しい。ちょっと安易な道を選択してしまった。
303号線に入ると歩道があり、歩きやすい。右側だと、山の下に広がる集落が見える。
この道路は「琵琶湖西縦貫道」というらしい。
初めてこの道を通った時、「動物注意」の道路標識の下に「この付近 シカ・イノシシ・タヌキなどの動物がよく飛び出る区間 走行注意」の大きな看板があるのに驚いたのを覚えている。確かに、民家がほとんどない山間を抜けているので動物が飛び出しても不思議はない。以前によほど大きな事故でもあったのかと思う。ただ、ここのような山間を抜ける道路はどこにでもある。以前に暮らしていた愛知県でも山間地域にはざらにあった。
妻は、ここを通るたびに、この看板の事を口にする。
ただ、ここでは一度も動物を見た事はない。
むしろ、高島市内へ入った方が動物を見かけることが多いように思う。
つい先日(これを書いている2023年4月)も、鵜川の48体石仏のある墓地で猿の軍団に出くわした。椿の花を美味しそうに食べていた。
昨年秋には、鹿ヶ瀬の手前で、鹿が道路を歩いていた。柵の隙間から出て来たのか、まだ小鹿のようだったが、あの後どうしたか。
小浜市へ抜ける道路では、猪の親子がのんびりと横断していった。
何より、家の庭には、イタチ、テン、タヌキ、こともあろうに、アライグマまで顔を見せる。住む人が年々減っている高島市は、恐らく、動物が増えていると思う。
看板を読むと、どうしても、野生動物を厄介者のように扱っているように感じるが、むしろ、人間が動物の領域を我が物顔で立ち入っているのではないかと思う。
以前に書いた「アスカケ」のⅠ部で、霧島山の麓に暮らす翁の話を書いた。獣と戦い、両腕を失い、人の厄介になることを避けるように、自ら郷を離れ、人と動物の住む境界に暮らし、互いが干渉しすぎないように命を賭けている翁の話だ。人は自然の中に生かされている存在であるにも関わらず、容赦なく自然を破壊する。大和国家が成立する前は、恐らくそういう時代であったはずだ。(よろしければ、「アスカケ」も読んでいただければと・・・)

そのまましばらく行くと、岩熊隧道に入る。
入ってみて驚いた。トンネルの中を歩く経験は余りなく、今回、海津大崎のトンネルで初めてだったかもしれない。ただ、あのトンネルでは、殆んど車が通らなかったため、気づかなかった。
トンネルの中は、激しい騒音なのだ。会話は全くできない。息苦しささえ感じる。普段、車で通過しているが、それほどとは思わなかった。
大型トラックが来ると、轟音と風圧に命の危険さえ感じる。岩熊隧道は、広い歩道があり、決して危なくないのだが、騒音と風圧だけで恐ろしい。
さらに驚くのは、バイクだ。乗用車やトラックの比ではない。バイクの排気音は特別だった。F1レース場のごとく、甲高い音で鼓膜がおかしくなる程だった。時々、トンネル工事を見かけることがあるが、この騒音の中で重機を使って工事をするというのはもはや人間業ではない。きっと耳栓はしているに違いない。1時間もトンネルに居たら精神的に変になるとさえ思った。
この岩熊隧道(第2)は、全長796m。滋賀県で10番目らしい。歩いて抜けるまでだいたい15分。限界に近かった。
ところで、岩熊という地名。読み方は「やのくま」らしい。

nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

2日目⑤あぢかまの里 [琵琶湖てくてく物語]

トンネルを抜けると、長い下り坂。
トンネルの出口近くに「矢合神社」がある。
春にここを通った時、境内に咲いていた桜が目に入り、思わず駐車した。道路からすぐに鳥居があり、石段を上ると本殿がある。大きな神社ではないが、そこにある桜は見事なものだった。ソメイヨシノではなく、淡い桜色をした枝垂桜だ。周囲の桜が咲き終わった頃に花を開く。歩いた時は真冬で、それが桜だとは気づかなかった。

その先は国道8号線と303号線の塩津交差点である。
今回の計画では、ここから、左に折れて、近江塩津駅でゴールになるはずだった。
先ほど、大浦を出発してここまで7km弱しかあるいていない。
「もう少し歩きましょう。」
妻が笑顔で言う。
確かに、まだ午後2時過ぎ。ここで終えるには少し早い。
だが、ここから、賤ケ岳方面に向かうと、最寄りの駅が無くなる。GoogleMapで調べてみると、この先でJR駅が最も近くなるのは、木之本駅だった。塩津交差点から木之本駅までは、7km。なんとかなるか・・。
道の駅塩津海道あぢかまの里で一息つく。
前から、この「あぢかま」とは何ぞやと思っていた。
ここの案内所で掲示されていたのを見て納得。
「あぢかまの塩津を指して漕ぐ船の名は告(の)りてしを逢はざらめやも」
と読まれた塩津の浜の枕詞「あぢかま」が由来だそうだ。
だが、やはり判らない。
そもそも『あぢかま』という言葉は何?
これは後日調べた事だが、「水辺で冬を過ごすカモ」のことを『あぢカモ』と呼ぶらしい。これ以上のことは判らなかったが、万葉集が詠まれた時代には、自然への造詣は今より深く、カモ一つにも、様々な表現があったに違いない。
現代よりも、大和言葉はもっともっと多様だったのかもしれないと思う。

ここで、GoogleMapを見る。
どうやら、目の前の道は新しいようで、少し東側に旧道がある。車の通りも少なく、歩くにはちょうど良さそうだった。
国道を横断して、西浅井郵便局から旧道を進む。
山に沿うように、街道が続いている。地形を見る限り、旧道より西側はかつては湖だったと思われる。それが証拠に、旧道の先に行くと、人家の湖岸沿いには石垣が積まれているところがある。対岸の陸地はコンクリ―ト製で、この場所が近年埋め立てられたことが判る。

旧道沿いを歩くと、面白いものを見つけた。
ここは、塩津海道、塩津港のあった場所で、琵琶湖最北に面する集落である。
大浦と同じように、丸子船の基地として栄え、多くの商家があったそうだ。
今でも、旧家屋が所々残っていて、その名残を感じられる場所に、小さな看板が掛けられている。酒蔵や米蔵、宿などがあったようで、古めかしい文字で説明文が書かれていた。
ほんのわずかではあるが、そうした営みを後世に伝えようとしているのには感心した。近年増えている「シャッター街」で、現代アートで彩られているところも一興だが、こうした古い町並みにちょっとした看板を置いて、往年の姿を想像させる趣向も面白い。

nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

2日目⑥トンネル回避で眺望 [琵琶湖てくてく物語]

そこからしばらく行くと、藤ヶ崎トンネルが見えた。
先ほど、岩熊隧道で散散な目に遭っていたので、再び、スマホのgooglemapを開く。
山川産業滋賀工場から、湖岸沿いに県道336号線が伸びている。どうやら、湖岸沿いを歩けるようだった。迷うことなく、湖岸沿いに向かう。
トンネルを進めば1.5km。湖岸だと3.2km。
倍以上歩くことにはなるが、「琵琶湖岸を歩いて1周する」という当初の目的には叶っている。半分ほどの場所に「休憩所」という文字も見える。
30分ほど歩くと、その場所に来たが、少しばかり駐車スペースがある程度で、何もなかった。ただ、ここからの眺めはすこぶるよかった。
天気も良く、時間も午後2時を回った。12月だというのに、気温が高くなっている。
「ちょっと休憩。」
妻が急に立ち止まる。
朝早く家を出た時はかなり寒く、北西風に煽られると体温が奪われるに違いない。そう考えたので、やや厚着にした。ダウンジャケットを上着にして、ヒートテックの下着、同じくヒートテックのネックシャツ、さらに、マフラー。だが、思いのほか気温が高くなり、この厚着が裏目に出た。
背中にじっとりと汗をかいている。
妻の顔が少し赤らんでいる様にもみえた。暑い。
リュックサックからタオルを取り出し、背中に入れて汗を拭く。汗が冷えると風邪をひく。この歳で風邪をひくと、かなり堪えるので、しっかり汗を拭いておく。実はこの先も、同じような目に遭うことになる。
歩くというのは、立派な有酸素運動。
それも20kmを超えるほど歩くのは、かなりの運動量になる。
家の周りの散歩とはわけが違う。日暮れまでに目的地に着かなくてはならない。どうしても速足になり、予想以上の運動となっていた。
たぶん、健康には良いはずだと言い聞かせる。
汗を拭き、一息ついたら歩き始める。眺めの良い湖岸の道路をしばらく進むと、ようやく、国道が見えてきた。
飯浦の信号の脇には、廃墟があった。調べてみると「奥琵琶湖ドライブイン」跡らしい。時々、こういう建物を見かけるが、往年の雄姿は如何様なものだったのか、想像すると哀しくなる。それにしても、廃墟となった建物の所有権はどうなっているのだろうか?買い手もつかず放置され、この先どうなるのか。考えてしまった。
その向かい側には、小さな漁港がある。
以前、バス釣りの検索をしていた時、ここを発見し、すぐに来たことがある。
港の中には、魚影がたくさん見えた。ここは釣れるだろうと、喜び勇んで、ロッドを出して港に降りた。1,2回キャストしたところで、赤色灯をつけたミニパトが現れた。釣り禁止とは書いていないが・・と近づいてくる警官を見ていると、
「ライフジャケットをつけてください。昨日、事故が起きたばかりですから。」
と、やんわり注意されてしまった。
しまった、ライフジャケットを持っていない。止む無く退散した。そんな苦い思い出がある場所だった。
還暦近くになって、若い警官から注意をされるというのはかなり恥ずかしいものだ。

nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

2日目⑦賤ケ岳トンネル [琵琶湖てくてく物語]

飯浦の信号まで出ると右折し、国道沿いを歩く。道路は広いのだが、歩道らしき部分がない。敦賀と長浜を結ぶ道路は、大型トラックが頻繁に通る。少々、危ない思いをしながら歩いていくと、分岐点があった。左に行けば、賤ケ岳の峠道、左はやや上り坂ながら直線道路。トンネルは避けたいが・・と思い、Googlemapを開くとどちらもトンネルがあった。
ここは、やはり国道かな・・。
303号線を選んで、トンネルに入る。
岩熊トンネルで轟音は体験済みだったが、ここは、さらに厳しかった。何と言っても、歩道がほとんどないに等しい。50㎝くらいだろうか、妻と二人、前後になって黙々と歩く。
賤ケ岳トンネル、全長850m。
車で走ればあっという間だが、歩くと15分くらい掛かる。15分は長いか短いか・・。綺麗な景色で太陽を浴びながら歩くのなら、15分なんて気にならないだろう。
だが、トンネルの隙間から染み出ている水が歩道に溜まっていて、足元は悪く、さらに、照明はついていても足元はおぼつかない。何より、騒音。いや、騒音ではなく、爆音だ。
とにかく、一刻も早くこの地獄のような空間から抜け出したい。
その一心で黙々と歩く。
ここは、ビワイチ(自転車)のコースにもなっているのかなと思いながら歩く。
耳を塞ぎ、とにかく、出口の灯りを目指して歩く。
10分ほど歩くと前方に光が見えた。
車で通過している人にはどんなふうに見えるのだろう。
「おい、人が歩いているぞ!」
「物好きだね」
「馬鹿じゃないの?」
等と言われているのかもしれない。確かに物好きなのかもしれないが、まあ、皆さんに迷惑をかけているわけじゃないので大目に見てくださいな。
そんな事を思いながら、ようやく出口に着いた。
太陽の光が、幸せを感じさせてくれた。
ここから木之本駅まではもう僅かの距離だ。
気を取り直して、歩く。
ふと前方に、「賤ケ岳古戦場」の看板を見つけた。余り歴史に詳しくない私でも「賤ケ岳の戦い」は知っている。羽柴秀吉と柴田勝家の戦いだ。
「リフトがあるみたいね。」
妻が小さな看板に気付いて言った。ここは何度も通った道だが、知らなかった。
看板は出ているが、国道からはリフト乗り場が確認できない。今回は、「琵琶湖てくてく」なので、立ち寄るのはまた別の機会にしようと言い、先を急ぐ。
もともと、今回はこんなところまで来る計画ではなかった。早々に、近江塩津駅から帰路に着いていたはずだったのだ。
後日、秋口に賤ケ岳リフトに行ってきた。大木が生える山中を切り開区形でリフトがあった。それに乗り山頂(?)まで行くと、展望広場があった。北には余呉湖、南には琵琶湖。古戦場跡なので、解説の看板もあった。
遠く、敦賀までの範囲で、羽柴秀吉軍と柴田勝家軍が戦を繰り広げた場所。各武将が山々に砦を作っていたことが記されている。だが、ちょっと不思議だ。山深い場所での戦とはどういうものだったのだろう。大河ドラマ等では、平地や丘の様な描写は見るが、こうした山中の戦いはあまり目にしたことはない。だいたい、こんな山中で戦になったのか、敵と出くわす事すら難しいのではと思ってしまった。

nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

2日目⑧木之本まで到達 [琵琶湖てくてく物語]

トンネルを抜けてしばらく行くと、大音(おおと)である。
余呉川にかかる橋の架け替え工事がされている。もうずいぶん長い期間工事をしているように思う。
琵琶湖周辺の河川は、平地・低地を流れるところが多く、山間で降った雨が、平地の緩やかな流れで一気に増水してしまう。
2022年8月には、滋賀県内は記録的な大雨に見舞われ、県内各所の河川が増水し、氾濫も起きた。長浜市内を流れる高時川が増水・氾濫し一帯が水没した。
その時、同じ長浜市内を流れる、この余呉川の様子は知り得ないが、ニュースで見る限り大きな被害はなかったようだ。
この川の上流部に位置する「余呉湖」は治水の役割を持っている。いわゆる、山間部にあるような大きな堰堤を持ったダムではないが、堰と放水路で流量を調整する機能があり、平成25年の18号台風の豪雨の際には、余呉湖の流量調整によって、余呉川の氾濫を食い止めた記録があった。おそらく、昨年も機能したに違いない。
この辺り一帯は以前は「伊香郡」という地名だったようで、遥か北側の山の麓に『伊香具神社』がある。奈良にある「香具山(香久山)」と同様の、延喜式に記されている神社のようで、古から信仰されている由緒ある場所であり、一度訪れてみたいと考えている。
その橋を超えると、「木之本インター入口」。
真っすぐ進めば、木之本の町中へ向かう。前方に、木之本地蔵院。6mの高さの仏像が建っていて町を見守っている。
後日、ここも訪れた。
木之本は、北国街道と北国脇往還が交わる場所。
近世には大いに栄えた町だったと思われる。ここから北へ向かうと山中に入るため、北国街道を旅してきた者はおそらく、この地で休み、英気を養ったはずである。街道沿いには今も古き良き時代の家屋が現存している。
寺社仏閣も多く、規模も立派。
宿場町・門前町として栄え、財を成した人も多かったに違いない。木之本駅から木之本地蔵院へ向かう道は、門前町の風情があって良い。そして、地蔵院間を横切る北国街道も風情がある。滋賀から福井方面へ向かわれる方には是非立ち寄ってほしい場所だ。

今回、琵琶湖てくてくでは、木之本の街にはいかず、手前で左折し駅に向かった。
JR木之本駅。
駅の西側に無料の駐車場を発見。次回、ここを出発点にすることにして、JR北陸線・木之本駅へ入った。
ここまで、40574歩。距離は28km。当初予定より、10km近く長く歩いたことになる。
2日間通算で43621歩。57km。ようやく琵琶湖一周の5分の1を歩いたことになった。
木之本駅から近江塩津駅へ向かい、そこで乗り換えて、湖西線で、マキノ駅へ戻り、自家用車で自宅へ向かう。

2日目の行程で得た教訓は、「トンネルは歩行者には優しくない」ということだ。
車に乗り慣れている自分としても、今後は、トンネルを通過する時、歩行者や自転車には十分注意しようと思う。

さて、次からはいよいよ、琵琶湖東岸を歩くことになる。西岸と比べて比較的開発が進んでいる地域であり、往来も多い。最後まで歩く事ができるか・・。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目①木之本から長浜を目指す [琵琶湖てくてく物語]

さて、いよいよ3日目。11月・12月と月1ペースでやってきた。
年明け1月はいつ歩くか。悩んだあげく、正月休みを使って歩くことにした。
元旦には、いつものように、初日の出を拝んで、お節を食べ、のんびり過ごした。
そして、2日に歩き初めということにしたのだ。
前回、木之本まで歩いてしまったので、少し計画が前倒しになっている。今回は、木之本駅に車を置き、目指すのは長浜・豊公園。ざっと、25km程度だ。
元旦の夜、天気予報を見ると「雨のち晴れ」。なんとかなるだろうと決行した。
自宅から自家用車で木之本駅へ向かう。
うーむ、雨だ。冷たい雨だ。心が重い。
実は、琵琶湖東岸を歩く行程を見ていて、一番困ったのは、最寄りのJR駅がかなり絞られるということだった。湖岸から駅までの道のりが長いということは、それだけ湖岸を歩く距離が短くなる。実際の前進行程が短くなる。これでは10日間では歩き切れないかもしれない。木之本を出て、長浜までの行程を見ると、途中で断念することはむしろ厳しい。最寄り駅がないのだ。始めたら、確実に長浜駅に到着しなければならない。だが、雨。てくてく歩くには最悪の天候だ。
木之本駅に着くまで、運転しながら私はそんなことを繰り返し考えていた。
駅前の無料駐車場に着く。やっぱり雨だ。
「今更、考えたって、どうしようもないでしょ?」
妻が軽やかに言う。
いやいや、いつも、過去を振り返って愚痴愚痴言うのは君ではないか、と心の中で思いつつ、口には出さない。
こんな時のために、雨合羽を買っていた。車中で羽織り、外へ出る。寒い。正月から何でこんなことに・・とまだ、気持ちは沈んでいる。
それでも何とか出発した。駅を出て、前回の道に少し戻る。大音の橋のたもと、余呉川に沿って琵琶湖岸を目指した。この道は「さざなみ街道」と呼ぶらしい。
しばらく行くと、道路沿いに白い花を見つけた。樹の様子から、それは桜のようだった。おそらく、四季咲き桜だろう。少し気分が和らぐ。
少し進むと、不思議な場所がある。Googlemapでもその場所の不思議さが判る。
余呉川の西側には、賤ケ岳から連なる山地が伸びていて、南方向へ続いている。そして、木之本町西山方面の余呉川を遮るように山並みが東へ伸びていて、余呉川がそれを貫いている格好になっている。道路の左側は明らかに削られている。この辺り一帯が区画整理がすっかり終わっているところを見ると、この地域の大規模改修がされた時、この山も大きく削り取られたのではないかと推察する。もしかしたら、土地改良工事以前の余呉川はもっと違う場所にあったのではないか。
そんなことを考えているのは、やっぱり、冷たい雨のせいだ。
天気が良ければのんびり湖を目指しながら、妻とも会話を楽しみつつ足を運ぶはずだった。だが、冷たい雨は容赦なく降り続いていて、ついつい無口になってしまう。
そのまましばらく行くと、右手の山に「磯野山城址」の看板が見えた。
さざなみ街道からは、余呉川を越えた対岸にある。
木々が生い茂り、そこにそのような城址があるのか、入口さえも判らない。後で調べた事だが、ここは、1500年頃、磯野昌友によって築かれた山城とのこと。近世の城とは違い、ほぼ砦に近いもので、土塁や堀切などで敵を退けるような造りと城主の館があるくらいだったに違いない。城というと、近世の大きな天守閣を持つ者をイメージしがちだが、本来、戦に備えて領地を守る役割をもっていたはずで、山や島、ちょっとした高台を巧みに使って、領地領民を外敵から守るには、この磯野山城は格好の場所だったろう。
などと、想像を働かせて、更に、余呉川に沿って歩く。

nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目②余呉川に沿って [琵琶湖てくてく物語]

次第に雨が小降りになって来た。
余呉川は、西柳野区のはずれで二手に分かれる。
右手は、西野放水路として直進して、西野水道を通じて琵琶湖へ注がれる。本流である余呉川はここで左に湾曲し、山本山の麓に沿うようにして琵琶湖へ続く。
西野水道は、元は西野隧道と書かれている。調べてみると、江戸期1836年から10年近くの歳月をかけて、手掘りで硬い岩盤を掘削して作られたと知った。余呉川の度重なる氾濫で、西野地区は壊滅的な被害を受けており、充満寺住職西野恵荘が発案し、彦根藩の協力も得て完成させたとあった。今回はそちらには行かず、余呉川に沿って琵琶湖に出る。
しばらく行くと、トンネルが見えた。片山隧道とある。
左側にはガードレール付きの歩道があった。2カ所でトンネルの恐怖を味わったので、ここに入る時の勇気が必要だった。だが、車が通らず、静かな中を歩く事ができた。さすがに、正月2日は車の通りが少ない。ラッキーだった。
トンネルを抜けると、琵琶湖岸だ。前方、湖の中ほどに竹生島が見える。その先で、ちょっと寄り道をした。
湖岸のさざなみ街道よりも一つ山側に住宅地があったからだ。脇道のような形になっているが、恐らく、こちらがもともと湖岸道路だったと思われる。
通り沿いに民家が立ち並び、神社や寺もある。直ぐに、片山漁港に着いた。漁港をまたぐようにさざなみ街道があるのを見る限り、やはり、ここがもともとの湖岸道路だろうと推察された。浄明寺前のT字路。そのまま直進すると、山本山の西側に沿って行き、再び余呉川に出会う。次第に湖岸からは離れてしまうので、ここで、右折してふたたび、さざなみ街道へ戻ることにする。真っすぐ進むと、ちょっと妙な道になっていた。さざなみ街道に合流するのではなく、平行に道が続いていた。そのまま進むと、ちょっとした駐車場がある。看板には「早崎尾上片山園地」とあった。
狭い通路から公園の中に入る。その先には「野田沼」は広がっていた。訪れる人は殆んど居ないのか、ちょっと荒れている。真冬だからかもしれない。沼の周りには幾つか鮒釣りの足場の様なものも残っている。季節になれば、多くの釣り人が集うのかもしれない。
公園を抜けて、先を急ぐ。
湖北町尾上という地区に入る。
ここには、葛籠尾崎湖底遺跡資料館がある。100年ほど前に、漁師の網に引っかかった「土器」をきっかけに調査が始まり、湖底に縄文期から平安期までの土器が見つかり、大きな遺跡であることが確認されたようだ。中には水深700mの深い場所からも見つかったようで、単純に、琵琶湖の水位変化だけでは解明できないようだ。もしかしたら、平安後期の内陸地震が関係しているかもしれない。もともと、軟弱な地盤の上にあった集落が、琵琶湖で起きた津波や、液状化などで琵琶湖側へ引きずり込まれたのではないか・・などと考えると、この遺跡の謎解明は、今の我々にとっても「防災」の面でも重要なのかもしれない・・などと考えてしまった。
それよりも、この尾上地区は不思議な街並みだ。
集落を分断するように、水路があり、水路沿いに道路、そして民家が建ち並んでいる。水路は比較的大きな石垣が組んであり、同じような石垣を湖岸でも見たので、おそらく、水路から琵琶湖側は、何らかの意図をもって埋め立てた場所ではないかと思う。中世には、「尾上城(砦)」があったそうなので、もしかしたらこの一角全体が城だったのかもと思う。
ここに在る「小江神社」は、垂仁天皇の皇女倭姫命勅命を奉じ野州郡江頭の地を舟出され、湖上を北に向かい、「小江浦」に上陸し休息したとされている場所で、神代の時代から、ここらに集落があったのは確かだろう。
いろんな想像を巡らせてくれる不思議な場所だった。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目③道の駅で [琵琶湖てくてく物語]

その集落を西へ向けて抜けて、さざなみ街道へ戻る。
突き当りには、尾上温泉旅館紅鮎がある。高島へ移住する前、琵琶湖の観光雑誌を見ると、必ず、取り上げられていた旅館だ。夕暮れの景色は格別らしい。さて、そろそろ、昼も近付いてきた。
気づくと、すっかり雨は上がっていた。
前方、左手には「湖北野鳥センター」。そして、道路を挟んで湖岸には「湖北水鳥公園」がある。これまでも何度か訪れた事がある。冬には、コハクチョウが飛来する。高島市にもコハクチョウは飛来するが、ここは、夕暮れ時に戻ってくるコハクチョウを観察でき、写真家も数多く訪れる場所だ。季節になると、歩道には多くに写真家が望遠レンズでコハクチョウを撮影している。私たちが来た時は、昼間と逢って、コハクチョウも写真家の姿はほとんどなかった。
さて、昼になった。
今回は、この先の「道の駅湖北みずどりステーション」で摂る予定だ。
駐車場に入る。おやおや・・車がいない・・まさか・・。
そうなのだ。今日は正月2日。みずどりステーションはお休みだった。
それにしても、この「道の駅」というのはちょっと変ではないか?
国土交通省の肝いりで、当初の目的は「国道沿いにドライバーの休息のために設置された」と聞いたが、今では、地域振興の機能も強化され、場所によっては、そこを目的にドライブする人も多い。
私自身も、滋賀県内のほとんどの道の駅を訪れた。
中でも「あいとうマーガレットステーション」は、ひまわりや秋桜、マーガレットなどの花を楽しみに、毎年のように訪れている。
高島市にある「藤樹の里あどがわ」は、コンビニもあって、大いに賑わっていて、夜間でも車が多い。
なのに、みずどりステーションはお休み・・。
朝から雨に降られて、さんざんな思いをしてここまで歩いてきたのは、この道の駅で休息できると思っていたからで・・というのは少しオーバーだが、やはり、休息は取りたいし、昼食も何とかしなければならない。このままでは、この先歩けない・・。
この先をGoogleMapで検索してみるが、コンビニは当分なさそうだった。飲食店もなさそうだし、何とかしないと、と狼狽えてしまった。こんな時、私は修正力が極めて弱く、狼狽え騒ぎ、動けなくなる。妻は、そんな私を見て、「またか」という顔をする。
彼女も極めて心配性であり、見知らぬところに行くのは嫌がるタイプ。でも、私と違うのは一旦、決心すると強いのだ。今回の琵琶湖1周もそうだ。チャレンジし始めるまでかなり尻込みするのだが、やると決めたら逃げない。途中であきらめることもしない。ピンチになった時こそ強いタイプだ。
私とは真逆だと思う。私は正直意気地なし。やると決めても、上手くいかなくなったら理由をつけてすぐに投げ出す。他人のせいにする。上手くいかないのは自分のせいなのはわかっていても、つい逃げようとする。駄目駄目な私なのだが、彼女と結婚した事で随分幸せな人生になったと思っている。
「ねえ、あそこでいいんじゃない?」
狼狽える私を見て妻が笑顔で言った。
道の駅の前に、小さなラーメン屋(屋台)が出ていた。
風除けのビニールシートをくぐって中に入る。ストーブと椅子は四つばかり。うどんやラーメンがメニューにある。とにかく、温かいものを食べてエネルギーをチャージしないと持たない。妻と二人で温かいうどんを注文した。出汁が利いていて美味い。(と言っても私は味音痴なのですみません)救われた。ありがとうございました。こんな正月にご苦労様です。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目④冬の天候 [琵琶湖てくてく物語]

やはり、真冬に歩く時は、天候には注意した方が良い。
特に、琵琶湖北部は、天気予報は当てにならない。いや、天気予報が当てにならないのではなく、滋賀県という括りで考えてはいけない。
我が家では、NHK以外のニュースや天気予報は見ない。これは、結婚してからの習慣だ。昔、NHKの番組で、アナウンサー研修を見た。その時、NHKのルールで、アナウンサーは1分間に400字を読むことや、言葉遣いの正確さ・アクセントなどとても大事にしている事を知った。以来、我が家はNHKがスタンダード。ドラマは民放を見るが、ニュースや天気予報はNHKと決めている。(高い受信料の元は取りたいという思いもある)
豊橋にいた時は、名古屋放送局のニュースや天気予報を違和感なく受け入れていた。
高島に来て少し変わった。
大阪放送局のニュースや天気予報になじめないのだ。自分に、大阪までの距離感がないのが一番。そして、高島(湖北・湖西)地域にとっては、大阪よりも福井(日本海)のほうが圧倒的に近く感じる。しかし、NHK大阪放送局は、関西・近畿という括りでニュースや天気予報を扱う。福井(嶺北・嶺南)は、関西でも近畿でもないらしい。
そう言えば、名古屋放送局では、中部圏で、東海と北陸のニュースや天気予報をやっていた。嶺北・嶺南地域の天気予報が必ず出ていてちょっと意味が判らなかった。
地図を見ると、どう見ても嶺南地方は近畿・関西だと思うが、扱われない。ちょっと話がくどくなったが、湖北や湖西地域の天気予報は、滋賀県の天気予報ではなく、嶺南地域の天気予報の方があっている。特に、冬季は、北西風の影響で、嶺南から雪雲が流れ込んでくる。気温も雨量も嶺南の天気予報の方が正確だと思う(個人の意見の範囲です)。NHKさん、地域をバッサリ切り分けずに、少し互いに重なるような形にしてもらえませんかね。県境近くに住んでいる住民のつぶやき。
ちょっと話が脱線しすぎたようだ。
昼食に温かいうどんを食べ、何とかエネルギーチャージを終えて出発する。
日差しが出てきた。
ここからはさざなみ街道で長浜の街を目指して行く。
しばらく行くと、『延勝寺』の看板。その反対側の湖岸は、初夏になると「蓮の花」の群生が現れる場所だ。規模は大きくないが、琵琶湖の中に蓮の花の群生を見るのは良い。
毎年ここも訪れている。少し先に、無料駐車場もあって助かる。
『蓮の花』を見に行く時、妻は必ず同じ話をする。
以前に、福井県南越前町の「花はす公園」に行った時も、車中で口にした。
「蓮の花って開く時にポって音がするのかしら。昔、何かの本で読んだことがあるけど」
そんなことはないだろうと思いながら、頷いて聞いている。
彼女が正解を求めているのではないのは判っている。そんなふうに、想像することを愉しんでいるだけなのだ。
「小学校の時、夏休みの宿題で、朝顔を育ててね。前の日の夜、つぼみを筒にいれておくの。朝起きて、それを外すと、一気に開くのか観察したわ。」
これも正確な答えはわからない。訊いても憶えていないというだけなのも判っている。
しかし、そんなふうに、花を相手にいろいろ想像する事ができるのは羨ましい。
彼女は小さな事に幸せや感動を感じる事ができる瑞々しい心を今も持っている。
もう還暦を過ぎているのだが、彼女の心は出会った頃と変わっていないように思う。
奥琵琶スポーツの森に到着したので、トイレ休憩する。
池を中心にした広い公園だ。
天気が良くなって少し気温も上がってきた。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目⑤姉川を越える [琵琶湖てくてく物語]

次の目標は、姉川河口にある姉川大橋。
ただひたすら、湖岸のさざなみ街道を南下する。右手は琵琶湖、左手は農地が続く単調な道だ。途中、八木浜という集落の横を通過する。
八木浜の集落には、中村屋住宅という、江戸期彦根藩の代官が住んだ屋敷が残っている。
時間があれば立ち寄りたいところだが、また、今度にする。
ただ、この八木浜地区は、やたら広い敷地に大きな住宅が立ち並んでいて、代官屋敷があったということは、江戸期にはかなり栄えた地区だったことが判る。周囲の農地もかなり肥沃に違いない。
姉川大橋が見えてきた。
「姉川って、あの戦いがあった川?」
唐突に妻が切り出した。
姉川と聞くと、「姉川の戦い」を思い出すのは当然のことだろう。
ただ、古戦場に同定されているのは、姉川の上流部で浅井家の居城小谷城の南、北国脇往還に近い野村橋あたりだとされている。ここからは遥か東の山の麓に近い場所だ。
「誰と誰が戦ったんだっけ?」
再び妻が聞く。
「信長と家康軍と、浅井・朝倉軍の戦いだよ。」と答える。
「浅井って、信長の妹が嫁いだところだったわね。浅井三姉妹の母だった・・お市の方。」
妻の知識の大半は、ドラマである。
大河ドラマファンの我が家では、役名より誰が演じたかの方が判りやすい。ここから、暫くは、大河ドラマの話をしながら、歩いていく。
戦国時代の話はやはり面白い。史実をもとに作られているのだが、同じ時代でも描かれ方はそれぞれ違う。登場人物も、かなり違うのに話の本筋は同じなのだからなお面白い。
豊橋に居た頃、「おんな城主 直虎」をやっていた。
直虎の舞台は、浜松市(合併してしまったので)。浜名湖の奥の引佐町井伊谷を領地とする井伊家の存亡を描いたドラマだった。織田信長や家康、秀吉、武田信玄、今川義元など遠国大名に囲まれた国が如何に生き残るかという話だった。同じ、戦国時代を描いたドラマも多い中、こんな無名に近い存在を扱うというのは実に面白いと思った。などと、大いに話したのだが、恥ずかしいので、内容は端折ることにする。
そう言えば、井伊家はのちに家康に重用されて、彦根城主となるほどに出世した。
近江と遠江は何か不思議な縁があるようだ。
それにしても、近江の国は、信長が安土城を作ったように、戦国時代には、世の中を治めるためにどうしても手中にしたいほどの国だったのだということに改めて気づく。
京への水運、東西の要、地の利を考えると重要な場所だったに違いない。もし、信長が明智光秀に討たれず、天下を納め、家康のように長期にわたる政権を維持できていたら、もしかしたら、滋賀県は首都になっていたかもしれない。などと妄想が膨らむ。

さて、姉川大橋を越えた。
ここで、琵琶湖は内陸へ向かって窪んだ形になっている。東へ向かって歩くことになる。
「ねえ、ちょっと寄り道しよう。」
妻が言った。姉川大橋を越えたところ、右に入る脇道があり、より湖岸に近い道だった。民宿の看板がある。今もやっているのかは定かではない。ただ、この先には水泳場があるので、もしかしたら夏場は開いているのかもしれない。今は真冬なのでお休みかな。
ぐるりと回り込んだ形で再びさざなみ街道に出た。産地直売・びわ・みずべの里があった。ちょっと、トイレを借りに立ち寄り、何も買わずに出てきた。
さてあと少し。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目⑥緑地公園の畔 [琵琶湖てくてく物語]

この先は、南側に琵琶湖を望むことになる。真冬ではあるが、日差しが湖面に反射して何か温かく感じられる。ここから長浜の豊公園近くまでの湖岸は、緑地公園に整備されていて、どこでものんびり琵琶湖を愉しむことができそうだった。春に車で通った時、桜の花が綺麗だったのを覚えている。
湖岸緑地公園を眺めながら歩いていく。
まず、左手に「ヤンマーびわ工場」が現れる。入口にある「あの地球儀」は有名らしい。
「ヤンマー長浜工場」は、私の父が若い頃研修に来たところだ。
父は漁師の息子で、男兄弟が6人、女3人の9人兄弟の三男だった。長男は、祖父から漁師を継ぎ地元にいたが、三男の父は自由に生きられたようで、職を転々とし、一時は潜水夫をやったこともあった。
私が生まれた時は、船を持つ漁師になっていて、母の実家に婿養子として入り、半農半漁の暮らしだった。
だが、時代は高度経済成長の真っただ中。台風に遭い、船を失い失意の中で、「漁師を続けるよりもサラリーマンの方が収入も安定し暮らしは良くなる」と決心し、陸へ上がった。そして、少し知識のあった機械産業の道を探して、ヤンマーに勤めることにした。
初めに、長浜で研修を受け、戻った父は、兄弟たちのヤンマー農機具の販売代理店を始めたのだ。敢え無く、代理店は倒産し、港にある鉄工所に勤めたものの大怪我をして退職。その後、知り合いの伝手で、ヤンマー直営販売店に拾ってもらって何とか生活を維持したのだ。父の半生を短くまとめてしまったが、随分苦労したに違いないと今では思う。定年までしっかり務めあげ、肺がんであっけなく亡くなったが、父の人生はどうだったのだろうか。
私が大学まで行けたのも、実はヤンマーのおかげともいえる(かも)。実のところ、やん坊、まあ坊は、私にとっては兄弟のような存在なのだ。

左手に「オリエンタル酵母工業びわ工場」が見える。
初めて、「オリエンタル」の名を聞いた時、名古屋では定番の「ハヤシもあるでよ~(名古屋弁)」のオリエンタルを思い浮かべてしまった。ちょっと調べてみると、あのCMは昭和30年代に大ヒットしたとあるが、私が名古屋に来た昭和54年、名古屋地域では、あのCMが流れていたように思う。微かな記憶だし、もしかしたら、新しいバージョンなのかもしれないが、「うみゃーでいかんわ」という名古屋弁はインパクトがあった。実際、名古屋に来て、あんな言葉を使っているわけはないだろうと思っていたのだが、大学の生協食堂あたりでは頻繁に耳にした。極々普通の言葉だった。そのあと、安城市に移り住んだ時、名古屋から50kmほど離れると、もう全く別の言葉だった。豊橋に来るとまた更に・・。愛知県の中でも尾張と西三河と東三河は言葉の違いが鮮明だった。
今NHK大河ドラマで「どうする家康」を放映しているが、あの中で耳にする言葉が、時折、東三河の言葉や遠州の言葉が混ざっているのは、意図的なのかと深読みしてしまうことがある。今川の人質として育ち、岡崎(西三河)に戻ってからも、尾張の小田に急き立てられるようにして、遠州・今川領へ攻め入り、浜松を拠点にする事で、おそらく家臣団には、西三河や東三河、尾張や遠州の者も雑多に居たのだろうなどと想像する。
いや「オリエンタル酵母工業」の名前から、またもや、大幅に脱線してしまった。
「オリエンタル酵母工業」はパンに使うイースト菌を90年前から製造し国内シェアトップの企業だそうだ。さすが、滋賀は発酵文化の土地だと感心する。そう言えば、先日、滋賀県大津市がパンの購入量日本一になったニュースがあった。この「オリエンタル酵母」と関係があるかもしれないと密かに思ったのだった。

その先には、もう豊公園の長浜城が見えてきた。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー