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8日目⑥イオンモール [琵琶湖てくてく物語]

帰帆島を過ぎると、イオンモール草津だ。
豊橋に居た頃は、イオンモール浜松志都呂店にはよく行った。豊橋市内には、昔のジャスコから転身したイオンタウンもあり、普段はこちらに通った。結婚したばかりの頃は、ユニーとかジャスコとかイトーヨーカドーとか、いわゆる大型ショッピングセンターが主流だったが、次第に、郊外型の大型ショッピングモールへ転換した。
滋賀に来てからはめっきり減ってしまった。高島に住んでいると、やはり、ここまで足を延ばすのは大変だ。それでも、イオンカードは重宝している。
そう言えば、イオンカードなどのクレジットカードは、簡単に作れるものだという認識だったが、実は意外に問題もあることをこちらに来て、いや、仕事を辞めてから知った。年収がどれほどあるかが、まともなカード会社であれば重要なものらしい。支払能力で限度額も違ってくる。(そういうカード会社ばかりではなく、銀行口座不要などと宣伝しているところもあるが、私の周りでは、苦しんでいる人を予想以上に見ている)
政府が進めているデジタル化の中でも、生活場面でのキャッシュレスは予想以上の速さで進み始めている。スマホ決済とかカード決済が日常的になっているが、高齢者、特にごくわずかな年金収入に頼っている高齢者、障がい者にとって、それは、喜ばしい事なのかということが気になる。
他人事ではない。自分も仕事を辞めた直後、収入は一時ゼロになった。この時、銀行口座を開設し、クレジットカードも作ったが、銀行マンは少し怪訝な顔をしていた。やはり決まった収入があるかどうかを気にしていたのだ。幸い、貯蓄額が多かったこともあり、すんなりカードは作れた。だが、この先、年金頼りの暮らしになれば、恐らく、イオンカードなどのクレジットカードも使用制限されるのではと不安になる。
以前、愛知に居た頃の年収は、かなりの額だった。
その頃、カードを使った買い物だけでなく、日常的な買い物もあまり金額を考えた事はなかった。車を買う時もキャッシュでその場支払いという贅沢をしていた。住宅ローンは早々に完済していたので、借金はまったくなかった。だから、充分に貯金が出来ていた。
ただ、人間はそういう暮らしをすべきではないとも思う。やはり、身の丈に合った、慎ましい暮らしこそ、美徳なのだと、最近は思っている。(収入は現在以前の5分の一程度になったからというのが本当のところだが・・・)
先日、「見えないお金のトラブル」という研修会があった。クレジットカードだけではない。高額な物を購入する事でトラブルになるというのはひと時代前の話。むしろ、サブスクとか、リボ払いとか、実際の購入と支払が繋がらない形の消費が増えていて、気づかぬうちに支払い能力を超えるという実態が広がっているようだ。
そして、それはスマホが大きな役割を果たしているという。
知的障がいや精神障がいのある人は、こうした落とし穴に気づかず、どんどん深みにはまって、苦しんでいる。
支援者もそこまで立ち入ることができず、中には詐欺の様な手口で御金をだまし取られるケースもあり、実態を正確につかんだ頃には取り返しのつかない状態になっていることがある。
「今日はおけらだ!」なんて言葉はもはや死語になっているように思う。現金がなくても買い物は出来るし、後払いで分割できるからと地獄へ向かっているのに気付かない。
デジタル化、DXがみんなの幸せにつながることを祈りたい。広めようという人達が、弱者に目を向けて、誰もが安心して活用できる技術開発を進めてもらいたいと願う。
イオンモール草津から、おかしな方向へ話が飛躍した。
てくてくに戻ろう。

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8日目⑦コロナ禍で思ったこと [琵琶湖てくてく物語]

イオンモールを越えて、近江大橋の下をくぐって進む。
この先から、湖岸は「琵琶湖漕艇場」になる。1000m6レーンのコースで、安定した水域となっていて、近隣の大学・高校などのクラブが活動しているそうだ。
ボート競技がどういうものかは、妻から聞いた。
妻は高校時代にボート部に所属していて、コックスという役割だったそうだ。オールを漕ぐのではなく、舵を取り、声掛けする司令塔のような役割だと聞いた。彼女の高校は、狩野川で練習していたそうで、艇庫も河岸にあった。高校からはかなり距離があり、移動するだけでも大変な労力だ。破傷風の予防注射は欠かせず、かなり真剣にやっていたらしい。
何故、コックスになったのか聞いたことがある。メンバーの中で体が小さく声が大きかったというのが理由らしいが、彼女の体格を見る限り、ロールを漕ぐ姿は想像できないし、それだけの筋力があるとも思えない。おそらくメンバー全員の合意だったに違いない。
私はスポーツとは無縁だった。小学生の頃、心臓の異常が見つかり、医師から運動を制限されたのが一番の理由だ。体育の時間は見学が多かったので、先生は、教室で勉強することを勧めてくれた。体育の時間になると、自分の好きな勉強ができると内心喜んでいたのを覚えている。体育がある前日には、図書館に行き、辞書とか辞典類を借りて来る。特に、特定のジャンルがあったわけではなく、その時、面白そうだと思った分野の辞典を読んでいた。家でも父がなけなしの金をはたいて、百科事典を買ってくれたので、布団に入る時間には必ず、百科事典を1冊持ち込んでいた。おかげで、雑学の量は増えた。中学生になった頃には、学校で教わることは概ね知っていることばかりだった。だが、そうした知識は年齢を重ねるとどんどん消えていってしまう。成人することにはただの凡人だったのは言うまでもない。
琵琶湖漕艇場から、ちょっと恥ずかしい過去の話になってしまった。
もう少し進もう。
このあたりは、湖岸も、綺麗に整備され、町並みの一部になる。少し日が傾き始め、散歩している人の姿も寒そうだ。ここまで来ると、もはや琵琶湖ではなく、瀬田川と呼んだ方が良いらしい。地図で見ると、漕艇場がある辺りから「瀬田川」と名前が入っている。
左手に、通りに白い防御壁が続く場所があった。
地図上では「ロイヤルオークホテル」となっていた。コロナ禍で最初に閉鎖されたホテルだった。私たちが歩いていた頃は、コロナ禍の緊急事態宣言の最中だった。旅行業・飲食業などが大きな打撃を受け、倒産が相次いだ。職を失った人も大勢生まれた。政府が言う「経済を回さなければならない」という言葉は、あの頃、空しく響いた。
私も妻も、福祉の仕事に携わっている。特に、妻は、障がいの重い人と日常的に接する仕事で、感染すれば命に関わる人も多い。インフルエンザやノロでも呆気なく命を落とすこともあるほど弱い存在の人と接しているため、感染には誰よりも注意していた。
私も、相談業務を担っていたので、どうしても面談や訪問をせざるを得ない。感染源にならないよう細心の注意を払う日々だった。
経済の停滞で収入が途絶え、倒産していく会社も深刻な問題だが、そのために、無理に経済を回す方策を取れば命を落とすリスクの高い人が居ることも十分考慮してもらいたい。日々そう願って過ごしてきた。2023年5月、5類への移行によって、周囲は一気に箍が外れたような状態になった。高齢者や障がい者・持病を持つ人が再び危険にさらされることになる。一刻も早く、有効な治療薬が開発されることを祈る。(これを書いている時にはまだ開発されていない)
コロナについては書きたいことは山ほどあるが、「てくてく物語」の本筋には戻れなくなるので止めておく。


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8日目⑧ついに唐橋 [琵琶湖てくてく物語]

漕艇場を横目に進む。マクドナルドを過ぎた辺りで、大通りから湖岸へ入る脇道があった。その先は、湖岸公園になっていて、車の騒音から離れて歩けた。
東海道本線の下を抜けると、目の前には、瀬田川大橋。歩道もここまでかと思ったら、さらに瀬田川大橋の下を抜けて小さな橋を渡る。そこには、「唐橋公園」が広がっていた。公園を抜けると、瀬田漁港。瀬田と言えばシジミ。この漁港は、シジミ取りの船がならんでいるはず。滋賀県によると、セタシジミは琵琶湖固有種で、昭和40年ころまでは岸辺にもたくさんいて、子供が水遊びがてら、取って帰って晩御飯のおかずにしていたほどに生息していたらしいが、以降、急速に減少したらしい。
セタシジミだけでなく、アサリとかハゼとか、身近だった水産資源の枯渇という話は頻繁に聞く。何故だか、「昭和30年から40年をピークに」というフレーズも当たり前のようになっている。日本の高度経済成長、海岸の埋め立て・大規模工場・コンビナートといった海岸や湖岸の大きな環境変化によるものは明白だ。私が生まれたのは昭和36年(1961年)。小さな半農半漁の村だったが、前の浜では、アサリが売るほどに採れた。タコやイカ、小魚は子どもでも簡単に捕れるほどいた。だが、今は港の整備・護岸埋め立てなどでほとんど生き物がいない海になった。人間の経済活動が生態系を狂わせ、結果として食料危機を招いている。愚かとしか言いようがない。
再び湖岸沿いの歩道で、終に「瀬田の唐橋」に到達した。
何故「唐橋」か。何度もかけられる中で「唐様」の橋であったからというのが通説になっている。調べてみると、大津京遷都(667年)の時、架けられていたという記述があるようで、もしかしたら歴史上もっとも古い歴史を持つ橋ということになるのかもしれない。その後、幾度も戦乱の舞台となり、焼け落ちて架け替えられた記録もあるようで、一つ一つが時代を変える戦乱でもあったらしい。
「唐橋」になったのは、織田信長の時代らしく、その橋も明智光秀軍によって破壊され、豊臣秀吉によって再建されている。
今の位置に橋が出来たのは豊臣秀吉によるものらしい。
そんなエピソードを知れば、この橋は途轍もなく面白いと思える。知らなければ、ただ交通量の多い渋滞しがちな橋ということで終わってしまうだろう。
本日は、この瀬田の唐橋の中島をゴールとしよう。
さて本日の記録は・・38,595歩、26㎞だった。前回よりやや長い。琵琶湖大橋を渡ったことも距離が伸びた原因だろう。
帰りは、堅田駅まで向かうのだが、まずは、京阪石山坂本線の「唐橋前駅」で乗車。そこから「京阪大津京駅」まで行き、JR湖西線の「大津京駅」で「堅田」まで向かった。
この時、初めて、京阪に乗車した。
電車の事は詳しくないが、広軌道のようで、揺れも少なく快適な電車だった。軒先を掠めるように、民家の中を縫って走る場所もあった。隣接する住宅は窓を開ければ電車が走っている事になるのだが、どんな暮らしをしているのかと想像したくなる。京都や鎌倉で同じような場所に行った事があり、電車が暮らしに密着している風情が、レトロで何だか安らげた。
大津京駅で、JRに乗り換えたが、こちらは、高架化されたこともあり、琵琶湖を眺めながら乗れる点では愉快だった。日ごろ、殆んど自動車を使って外出しているため、電車に乗るのは、非日常体験で少し気持ちがふわふわする。
見知らぬ他人と同じ空間に居て、みな目的地が違い、喜怒哀楽もそれぞれだろう。そういう様々な人を乗せて走る電車という空間だけで、何か物語が生まれてくるような気がした。
唐橋から堅田まで、電車ではほんのわずかの時間だったが、意外に楽しかった。
堅田駅から橋の袂のコメリまで戻って、ようやく本日は終了した。
湖岸沿いの、緑地公園が連なる静かな空間を歩いてきたのとは随分違った体験だった。町並というのはやはりそこに人の営みがあり、人が居るからこそ様々な物語が生まれる。

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9日目①唐橋から堅田を目指す [琵琶湖てくてく物語]

先月、ついに唐橋に到着し、琵琶湖の最南端まで歩いた。琵琶湖東岸を制覇したというところで、ここからは琵琶湖西岸を北上することになる。残りの距離は少ないはずだが、まだ、半分ほどしか歩いていない感覚がある。
さて、今日は、2021年1月31日。
コロナ禍の真っただ中である。自宅を出るのが少し遅れて9時20分になった。
というのも、前日は妻の誕生日で、還暦を迎えた。
18歳の時に彼女と大学で出会い、42年になる。
24歳で結婚し、仕事を持ちながら二人の娘を育てあげた。いつも独楽鼠のように動き回り、いろいろと周囲に気を遣い、笑顔を絶やさず、健康に留意して、かなり自制した生き方をしてきた人だ。ずっと、同じペース、同じテンポを維持しようと頑張っていたように思う。今も同じだ。そして、それは母親譲りだ。大正生まれの彼女の母親も同じように自分は一番最後の残り物で良いというような生き方だったように思う。戦前生まれの私の母も同様だった。
今の時代、妻や母親たちのように、自分を犠牲にしてでも家族を守るというような生き方は評価されていないのかもしれないが、少なくとも、そういう生き方をしてきた人々が、命を繋いできたのは事実だ。
子育てを終え、こうして気ままに「琵琶湖てくてく一周」などという事ができているのも、彼女が若い頃から将来を見据えて、生きて来た結果だと思う。
そんなことを考えながら、昨夜はささやかな誕生祝いをし、少しばかり贅沢なケーキも買ってきて食べた。結婚当時の写真が書棚に飾ってあるが、多少、老けてはいるが、その時とほとんど変わらぬ容姿だ。私はと言えば、大きく様変わりしてしまったと思う。おそらく、高校時代の友人と会っても判ってもらえないくらい。およそ「自制」という言葉とは真逆に生きて来たのだから。

そんなこんなで、9時過ぎに家を出て、堅田へ向かう。
平和堂の駐車場に車を置き、JR湖西線で大津京駅まで行き、京阪大津京から唐橋前駅まで向かった。先回の逆コースだが、電車の時間が合わず、堅田から唐橋前まで40分もかかってしまった。
唐橋前駅で下車して、一旦、唐橋・中ノ島の出発点へ向かう。
天気は上々。歩き始めたのはちょうど11時だった。
国道422号(宇治川ライン)を北上する。
マンションが幾つも並んでいるのが見える。ココスの前の右手側に脇道があった。その先に瀬田川が見えたので入ってみる。
岸辺が整備された公園になっていた。桜の木が植えられていて、きっと春には綺麗な花が咲くだろう。瀬田川大橋(国道1号線)の下は通り抜けられるようになっていて、その先にまだ公園が続いている。
更に行くと、瀬田川新港に入ったので一旦大通りに出た。
東海道本線の下をくぐって、再び、湖岸に出た。前方に橋がある。瀬田川共同橋である。水道やガス、電話線などを通している。
少し前、和歌山市でこうした水道橋が壊れて、断水になった事が報道されていたが、住民にとっては命綱の様なものだ。こうしたインフラ整備には多大な維持費が必要だ。私が住む高島市は年々人口が減少していて、生活インフラの整備費用を捻出することが難しくなってきている。水道代が大幅に値上げされたり、市道は舗装修理が追いつかない。こうした生活インフラや防災インフラの整備に国はもっと予算を割くべきではないか。防衛費という名目の軍事費増額に熱心な政治家には、国会から退場してもらいたいと願うのは私だけではないはずだが。

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9日目②瀬田川から琵琶湖へ [琵琶湖てくてく物語]

瀬田川共同橋を通り過ぎ、暫くすると公園が終わり、再び本通りへでた。
小さな橋を越えたところに再び公園がある。どうやら、石山のなぎさ公園のようだ。再び、公園に入って進む。ここら辺りが、瀬田川と琵琶湖の境界線になる。公園の中に石碑があった。「粟津の晴嵐」と書かれていた。近江八景の一つ。松並木と琵琶湖の青、その先に見える比叡山や比良山の景観が素晴らしいところらしい。ここからは、なぎさ公園の中を歩くことにした。綺麗に整備されていて、安心して歩く事ができる。対岸が徐々に遠く見えるようになり、琵琶湖が徐々に広がっているのを実感する。
「前回は、あっち側だったのよね。」
妻がのんびりとした口調で判り切ったことを訊いた。そう言われて、対岸を見る。確かに歩いたのだが、こうやって見ると随分長い道のりを歩いたように見える。
歩くというのは今更ながらに凄い事だと感じた。一歩一歩はわずか60㎝程度なのだが、その一歩一歩を積み上げることで長い道のりになる。当たり前のことなのだが・・。
生きているとそんな当たり前のことを忘れてしまう。一足飛びにゴールへ到達したいと焦り、ジタバタし、結局、着実に取り組むことだと気付く。そういう慎ましい生き方が、今は少し軽んじられているのではないか。判らないことはすぐにWik・・で調べればわかるとか、Googleが教えてくれたとか、最近ではチャットGPTなるものまで生まれ、人よりも優れた文章やフェイク画像とか・・そのうち、アカデミー賞をAIが受賞することも遠くはなさそうな勢いだ。そういうものに頼って如何に合理的にスピーディにゴールへ辿り着くものが勝者とされる時代を哀しく思う。やはり、年老いたのか。
歩くというのはやはり人生を考える時間を持つには素晴らしい行為だと再確認した。
この「琵琶湖てくてく」も既に残り少なくなっている。一周する間に、少しは成長するのだろうか。
さて、道のりは依然として湖岸の「なぎさ公園」にある。快適に歩いていくのだが、少々、北西風が強くなってきた。ちょうど向かい風になるので、寒さが堪える。
公園はゆっくりと左カーブを描いていく。前方に、木立が見えてきた。
一旦、本道に戻って進むと、歩道から、なにやら大門が見えた。門だけで、それに続く塀もない。ちょっと寄り道して入ってみる。「膳所城跡」と分かった。門は、模造されたもので、ここに城があったことを示すために作られたようだ。
「膳所城」は、徳川家康が藤堂高虎に命じて造らせたもので、関ヶ原の戦のあと、すぐに取り掛かったそうだ。この地は、飛鳥時代から様々な戦いが繰り広げられ、この地を制する者は天下を制するとまで思われていたということだ。琵琶湖の浮き城の一つだったが、度重なる水害・浸食のため建て替えを余儀なくされた、ともあった。明治の廃城令により姿を消したのだが、それはやはりこの地が政治上重要だったことを物語っていると言えるだろう。
今ではそれほど重要視されていない様に思うが、当時とは、経済や交通・輸送等が大きく変わったためだろう。
それよりも「膳所」という地名の方が興味深い。
膳を整える場所と考えるのが筋だが、どうも、飛鳥大津京の時代に、朝廷の御厨(厨房)が置かれていたため、この辺りを「陪膳浜(おもののはま)」と呼んだことに由来するらしい。ざっと1300年、引き継がれてきた事を示す言葉だ。北陸や東海の産物を琵琶湖の水運で朝廷へ運ぶための重要な地だったに違いない。その頃の姿を見てみたいものだ。
「膳所城址」で少し休み、ふたたび歩き始める。まだ3kmほどしか歩いていない。
東岸を歩いていた頃は、足取りも早く、目的地に真っすぐ向かっていたように思うが、西岸は街中を歩くせいか、いろんなものに興味が湧いてしまって、なかなか進めない。
先を急がなければ・・この先、まだまだ、興味深いものが待っている。

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9日目③湖水渡り [琵琶湖てくてく物語]

膳所城址を離れ、近江大橋のたもとに来る。
こんなところに港がある。同じ形の小舟がずらりと並んでいて、多くの船に「小林」の文字が入っている。道路の反対側に「小林貸船釣具店」があるので、ここに並んでいるのが貸船と判った。
琵琶湖の釣り船となれば、当然、バス釣り。
滋賀に移住して、やはり、バス釣りにはチャレンジしてみた。海釣りは経験あるのだが、バス釣りは未経験。さらに、ルアーも未経験。一通り、ガイドブックを読み、それなりの道具を揃え、何度かチャレンジしてみたが、まだ、釣れた事はない。妻の方が腕が良いのか、釣りに行くと何らかの釣果がある。無欲の勝利なのかもしれない。バスは調理してもおいしいと聞いた。琵琶湖博物館で、バスの天丼をいただいたことがあるが、結構美味しかった。もし釣れたら、蒲焼きにでもしたいと思っているのだが、まだ姿を拝めない。
近江大橋の下を抜けて、向こう側に出ると、そこは琵琶湖なぎさ公園。膳所城址までもなぎさ公園というらしいが、たいていの場合、この公園を指している。
春になると、近江大橋のたもと近くにある「八重桜」が見事に咲くので、何かのついでに立ち寄ることが多い。今は冬。桜も葉を落として、何の気か判らないくらいの状態だった。
ここからは暫く公園の中を歩いた。
なぎさ公園市民プラザという名前の小さな広場。梅の木が植えられていた。花はまだ咲いていなかった。そこから、目の前に琵琶湖プリンスホテルが見える。
琵琶湖の写真には、結構映り込んでいる、半円柱の高い建物。そこから、体育館やスポーツセンター、マンションが建ち並んでいる。ウォーターフロントというべき場所だ。
そう言えば、先日、大津のマンションが話題になっていた。石山駅前の工場跡地に1000邸を越えるマンションが建つらしい。大津は、京都や大阪に比べて価格が抑えられているのが魅力だそうで、JRで京都までは15分程度。京都市内に住んでいるより、便利なのかもしれない。確実に京都への通勤圏だし、周囲の商業施設も充実している。びわ湖の景観も楽しめる。その上価格が安ければ、滋賀県民になるという人も少なくないだろう。今歩いている辺りも、同様だ。
滋賀県芸術劇場びわ湖ホール、滋賀県立琵琶湖文化館、老人福祉センター、滋賀県警本部など、滋賀県の主要な施設が集中している。広い滋賀県の最も南のはずれにこうした施設が集中しているのは、何とも不思議な感じがする。
琵琶湖文化館の建つ場所は、「明智左馬之助湖水渡りのところ」と記されている。
NHK大河ドラマで、その存在を初めて知った。明智光秀が本能寺の変のあと、山崎の戦いで、秀吉に敗れて命を落としたと知った、左馬之助は安土から坂本城へ戻るが、途中で豊臣方の堀秀政軍と遭遇し、やむなく、琵琶湖を馬で渡ったという逸話がある場所である。
今の場所を見る限り、どういうことかは判らない。
本能寺の変が起きた頃、この辺りには葦が茂り、木々も多かっただろう。ここから、明智光秀の居城、坂本城までは僅かの距離。陸路には、堀秀政の軍が坂本城へ向けて進軍していたに違いない、その中を突っ切るのは無理と判断し、浅瀬を一気に馬で駆け抜けたのではないかと推察する。
我が家の前の萩の浜は、砂が堆積していて、かなり沖まで行っても腰ほどもないほどの浅瀬が広がっているので、岸から見た時、異様な場所に人が立っているように見えるところがある。そういう場所が、「湖水渡り」の湖岸にもあったとしたら、岸から見ると、まるで湖面を飛ぶ様に馬が走り抜けたように見えたのではないだろうか。また、主君亡きあと、坂本城に居る一族を守る忠臣として、後世に美化された形で伝えられた可能性もある。いずれにしても、歴史物語というのは、真実から離れ、庶民が語るに値する様な話に変わっていくのは常の事だ。で、なければ、こんなふうに逸話として残ってはいまい。
先を急ぐ。

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9日目④琵琶湖疎水 [琵琶湖てくてく物語]

なぎさ公園の中を歩く。琵琶湖ホテル、ラウンドワンを横目に見ながら進む。
前方に、大きな船が停泊している。びわ湖ミシガンクルーズの船だ。
滋賀に転居して比較的早い頃、ミシガンクルーズの乗船券をいただいたので、バラの咲く時期が良いだろうと、5月の末に乗船した。ランチバイキングだったので、つい食べ過ぎてしまった。ミシガンは赤いパドル(外輪)が動力の日本では数少ない外輪船だ。この船、どこかで見た事があると思ったら、東京ディズニーランドのマークトウェイン号と似ている。勿論大きさが段違いにミシガンの方が大きいし、実際に、エンジンでパドルを動かし、航行しているのだから比べることは無意味かも知れない。しかし、雰囲気は同じ。非日常を体験するにはちょうど良い。乗船した日は、天気が良く、琵琶湖から比叡山や比良山が見え、快適だったのを覚えている。
大津マリーナを越えた辺りでちょうど昼になった。天気が良いので、どこか公園にでも行って昼食にしようと考え、最寄りのコンビニを探す。大通りに戻ると、ローソンがあった。おにぎり?サンドイッチ?いろいろ考えたが、体を温めた方が良いと思い、カップラーメンにした。こういう時、外れがないのはカップヌードル。昔、日清食品の方とお会いした時、カップヌードルは完全食品を目指していると聞いたことがある。真偽のほどは判らないが、1か月間カップラーメンだけで生活した人が、栄養不足になることもなく、健康を維持できたのだとも聞いたことがあった。勿論、食事は栄養価だけが大事なのではない。楽しみとか刺激とか、そういった人間臭いものがなければならない。ただ、もし、大災害などでとにかく命を繋ぐためであればカップヌードルは価値ある食品だろう。まあ、味も多様にあるし食べ方も工夫すれば、毎食カップヌードルでも大丈夫かもしれないが・・。
と考えているうちに3分たってしまうので、お湯を注いで、ローソンを出た。湖の畔が良さそうなので、浜大津4丁目の信号を渡って再び大津マリーナのある方へ向かった。だが、これといった場所が見つからず、ちょっと北側の高い建物前に小さな公園を見つけたのでそこで食べることにした。すでに3分を経過している。やや伸びている感じはするが、温かさが身に染みた。体が温まったところで再び歩き始める。
大通りに出て北へ行くと、すぐに橋があった。橋の上から西の方角を見ると、大きな煉瓦造りの水門がある。琵琶湖疎水の取水口だ。
明治18年、京都府知事北垣氏の発案により、5年の歳月をかけ、人力での工事で、全長2436mの第1トンネルが完成。20年後には第2トンネルも完成し、京都発展の礎になったものだそうだ。
維新からわずか18年。ちょんまげ姿の人達から散切り頭へ代わり、西洋化が急ピッチで進んだ時代。琵琶湖疎水だけでなく、あらゆるものが大きく変革した時代に生きた人々には強い憧れがある。それまでの価値観を壊し、未来へ向けた希望のみがエネルギーだったに違いない。
山口県生まれの私は、そういうものへの憧れが強い。今あるもの、目の前で当たり前とされている事の全てを疑い、新しい考え方や価値観を見つけることこそ、生きる意味だと、中学生だった私に教えて下さった先生が居られた。
その先生は社会科の教師だった。決して人格者でも道徳者でもなかったが、権力とか、体制とかそういうものを毛嫌いしていた。
テレビやラジオの報道も鵜呑みにするな。所詮、報道は事実を一面的に捉えているに過ぎない。自分の頭で考えろ。と事あるごとに話されていた。
明治維新でさえ、全てが素晴らしいことではない。政権を取るために、長州藩が何をしたのか、本当にそれが正しかったのかと疑ってみろと言われた。
還暦を迎えた今でも、その思考は強く残っていて、時々、いや、結構な頻度で、トラブルを生むことがあるように思う。
ただの「天邪鬼」ではないのかと言われたら、そうかもしれないが・・。

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9日目⑤イングリッシュガーデン [琵琶湖てくてく物語]

琵琶湖疎水取水口を過ぎるとしばらくは、大通りを歩くことになる。
びわこボートレース場を過ぎると、茶が崎。まるで、琵琶湖の湖岸に壁のように連なるマンション。周囲には、バローやイオンスタイル、MEGAドンキ等が建ち並んでいて、大津市内ではかなりの商業地域となっている。柳が崎に到達した。
この信号を右折すると、びわ湖大津館とイングリッシュガーデン、柳が崎湖畔公園となる。今回は、立ち寄らないが、ここも、バラの季節と冬のイルミネーションを楽しみに何度か訪れた。イングリッシュガーデンは憧れの一つだ。
初めて本格的なイングリッシュガーデンを見たのは、信州・蓼科旅行の帰りに立ち寄った「バラクライングリッシュガーデン」だった。1万㎡の敷地に、テーマごとの庭が続いていて、奥に行くにしたがって自然の林の中にいるようだった。
今、自宅の庭を少しずつ作っているのだが、庭づくりには思ったよりも費用が掛かる事が判った。バラを植えて、足元のカバープランツ、敷石、パーゴラ等、とにかく、形を整えるだけで大変だ。何より、体力勝負。
勿論、造園業者に頼んで一気に整備してもらう方法も考えたのだが、それは、完成した絵画を買うようなもので、やはり、絵画は自分で描きたいと思う性格なので、少しづつ取り掛かっている。完成することには命が尽きているなんてこともあるかもしれないと思いつつ、作る楽しみを堪能しているところだ。
自宅の庭は、イングリッシュガーデンとはいかない。何と言っても、畑が優先だからだ。移住する一つの目的は、土に触れて作物を作ってみたいという思いがあったから。マンション住まいでは、プランターが限界だった。小さくても、野菜を作れる場所が欲しかった。だから、ガーデンは一部で、見栄えの良いものではないかもしれないが、それでも、テラスから見て少しでも癒されるような空間にしたいと思っている。
イングリッシュガーデンの定義は、自然美をたたえる庭であり、風景を楽しめるよう工夫されたものだ。壁や通路にも工夫がされている。だが、造り込み過ぎず、植物もあるがままに見せる工夫が必要になる。かなり高度な技術が必要になる。
大津館のイングリッシュガーデンは、そういう意味ではやや物足りなさがあり、イングリッシュガーデン風のローズガーデンといったところだと思う。しかし、何と言っても、琵琶湖畔のロケーションは解放感もあるので、あれこれ難しいことは考えず、ぼんやり過ごすには良いところだ。
今回は横目で見ながら先を進む。
すぐに、ブランチ大津京に到着する。まだ、ここができて間もない頃に来たことがある。芝生が広がり、子ども連れでのんびりするスペースが充実している点は、周辺のショッピングモールとは違うが、私の様な年配者には今ひとつ魅力が判らない。
そのまま、大通りを歩く。本当は湖岸を歩きたいのだが、この辺りの湖岸はほとんど私有地になっていて、湖畔に立ち入れない。
自衛隊大津駐屯地を過ぎた辺りで、大通りが再び湖岸沿いになるがすぐに遠ざかる。
唐崎に入った。ウェルシアのあるところで、脇道に入る。
ここには「近江八景・唐崎の夜雨」で描かれた「唐崎の松」を守る唐崎神社があるらしい。というものも、まだ訪れたことはない。背景に近江富士が見える絶景だと聞いているので、また訪れたい。
唐崎神社の入り口に「白髭神社道標」があった。「白髭」の文字と「京」の文字が読める。大津市内には7カ所残っているそうで、天保年間に作られたと判った。
再び、大通りに戻る。

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9日目⑥日吉大社 [琵琶湖てくてく物語]

そこから少し行くと、縞々模様のちょっと変わった建物が見えた。
「ねえ、KKRって何?」
いつものように、妻が気になったことを不躾に訊く。
ローマ字3つというと、daigoを思い出すが、「はて、何だったか?」とすぐに答えが出て来ない。いろんなところで、KKRの文字は目にしていたはずなのだが・・。
「確か・・公務員と関係があったような・・。」
「公務員って英語でなんて言うんだっけ?」と妻。
「英語で公務員?・・何か、あまり感心しない単語だったような・・」
「感心しないって、どういうこと?悪い意味ってこと?」と妻。
初めの質問からどんどん変わっていく。これはいつもの事。そういう会話をもう40年以上繰り返してきた。そういう会話をしながら、初めの質問を考えている。
「KKは・・確か、国家公務員のKだね。つぎのKは・・共済かな?Rは・・・」
そう答えているうちに、妻はスマホでちゃっちゃと調べて、
「国家公務員共済連合会。国家公務員って、霞が関にいる人達が使う施設ってこと?」
いや、霞が関だけが国家公務員ではないが、まあ、そういう人達も使うだろうなと思いつつ、「そうかもね」とあいまいに答えてこの話を終えた。
その先で歩道が無くなり、公園の中に入る。
しばらく行くと、湖に突き出すように赤い鳥居が見えた。
日吉大社の「七本柳鳥居」だった。日吉大社の山王祭で、神輿を船に乗せる船渡御(ふなとぎょ)が行われると看板に書かれていた。ここを出た船は、唐崎神社の沖で、膳所・粟津浜から運ばれた供え物を受け取る「粟津の御供」が営まれるとあった。いずれも故事に則って営まれているとあった。
各地に残る「祭り」の多くは、古事を起源としていることが多い。もともと日本には八百万の神(あらゆるものに神が宿る)という考え方があり、それを敬うことで健康や安全・五穀豊穣を祈る文化が醸成されてきた。それが、神事や祭事となり受け継がれているのだ。神道や仏教などの宗教と結びつく以前から、存在しているのだが、時代においてそれが為政者によって歪められることもある。日本神話を拠り所とするものは、ある意味、飛鳥・大和・平城・平安の長き間、天皇が日本を治める存在とされた時、神として崇められ、神事や祭事に影響する。室町以降、武家が治める時代には、為政者自ら神となろうとしてきた。信長しかり、家康然り。現在、そうした時代背景や儀式の意味を正しく理解せず、ただ、伝承しようとしている向きも感じる。新興宗教の危うさとはまた違った危うさを持っているように思う。などと、不毛な考えはせず、ただ、大衆の一人として祭りを楽しめればいいのだが。
話は逸れるが、私の住む地域でも祭りがある。
日吉神社の祭りで、湖西地方随一の曳山祭だ。町内には5基の曳山があり、町を練り歩き、神社前に集合する姿は圧巻である。日吉神社は、嘉祥2年(1107年)創建の長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まる。後に長宝寺は廃絶、当神社は土豪高島氏の崇敬を受けて存続したが、高島氏が明智光秀らの軍により滅ぼされると荒廃した。江戸時代に入り、大溝藩主分部氏の保護を受け、社頭が整備された。(wikipediaから引用)神仏習合により生まれた神社であり、この地に住む神(地主神)を抑え込み服従させるのが目的なのだ。そして、それは、時の為政者によって作られた。曳山も、大溝藩主分部氏が伊勢から入封した際に持ち込まれたとも書かれていた。
私が納得いかないのは、この祭りを支えるため、地域の住民自治会と表裏一体で運営され、財政面でもかなり深く入り込んでいることだ。地域を治めるために祭りが使われるという構図は、江戸時代から連綿と続いてきたというわけだ。移住してすぐに、「祭りと自治会とは切り分けるべきでは?」と口にすると、多大なバッシングにあった。

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9日目⑦おごと温泉 [琵琶湖てくてく物語]

「七本柳鳥居」に隣接する形で、坂本城址公園がある。
明智光秀の居城として有名になった場所だ。残念ながら、城址公園は、坂本城の外に当たる。本来の城があったところにはどこかの会社の研修所のような建物(現在は使われていない?)が建っている。古地図を見ると、本丸・天守は湖の中にあり、いわゆる浮城であったようだ。琵琶湖周辺の主な城は全て、浮城といっても過言ではないだろう。それだけ、琵琶湖の水運を重用し、防御にも活用したということだ。坂本城はその典型かもしれない。
江戸初期の古地図では、既に坂本城の姿はなく、その場所は「山王神輿船着場」となっていて、石垣だけが残った状態で描かれていた。
9日目⑦おごと温泉しばらく行くと、淡いパステルグリーンに塗られた歩道橋が見えた。そこから脇道に入る。昔の街道なのだろうか、静かな住宅地で、古い日本家屋が並んでいる。大きな玄関、弁柄塗の2階建て、滋賀県特有の家屋が並ぶ。低い石垣も残っている。更に、脇道があり、湖岸が見えたので入ってみる。突き当りに公園があった。公園を抜けてさらに先へ向かう。細い水路沿いの道を行くと、行き止まりになった。琵琶湖の突き出すような形、鳥のくちばしのような地形だ。その両側に新築の家が並んでいる。窓を開ければ目の前は琵琶湖というロケーションは羨ましい。駐車場の車はいずれも高級車だったので、恐らく、富裕層に近い人たちが住んでいると見た。
突き当りになったので、折り返す。旧道はまだ続いている。静かな住宅街を歩いていく。時々、商家だったのではと思うような家屋や、立派な石垣と塀で囲まれた家、もしかたら宿屋だったんじゃと思うような大きな2階建ての建物などもあった。いきなり田んぼに出てしまう。町並が終わった。
その先に工場。カネカ滋賀工場だった。大きな「安全最優先」の看板が見える。この辺りは歩道があり歩きやすい。
小さな川を渡る。
道路の右手には大きな樹が並んでいる。その中は、「琵琶湖流域下水道・湖西浄化センター」だ。琵琶湖の水質保全には欠かせない施設である。
ここは、毎年5月には訪れている。浄化センターの敷地内にはバラ園があるからだ。春のバラが開花すると一定期間、無料開放されている。休日は混むのでたいていは平日に行く。大津館イングリッシュガーデンのバラも素敵だと思うが、ここのバラはそれ以上に圧巻だ。浄化処理の過程で生まれる汚泥を肥料化し、それを土に入れているためか、大輪の花を咲かせている。種類も豊富で、毎年少しずつ花も変わっているように思う。
ここを過ぎるといよいよ「雄琴」だ。
ある程度の年配の方には、ドキッとする地名だろう。戦後ベビーブーム世代、いわゆる団塊世代が寝る間も惜しんで働き、かつてない好景気の中で、この地は日本有数の歓楽街となっていた。今でいう「風俗」の走りである。
しかし、実は、雄琴温泉とは無縁だった。歓楽街ができたのは、雄琴温泉の南側、鹿苗(のうか)の一角であったし、おごと温泉の湯は引かれていない。おそらく、どこかの3流週刊誌が面白がって報道して「雄琴温泉=歓楽街・風俗」というイメージが広まったのだろう。
本当の雄琴温泉は、最澄によって開かれたと伝わる1200年の歴史を持つ由緒ある温泉だ。2000年以降は、雄琴温泉は「おごと温泉」とひらがな表記に変えイメージアップを図っている。
滋賀へ初めて家族で訪れた時、おごと温泉の「湯元館」に宿泊した。宿泊した後に知ったことだが、「湯元館」はおごと温泉で最も古い旅館で1929年(昭和4年)創業だった。あと数年で創業100年を迎える。屋上にある露天風呂からの眺めは最高だった。妻や娘たちは、温泉の質が良いと言って大満足だった。滋賀に移住したので、観光で宿泊する必要はないのだが、友人が訪ねてきた時などに使ってみようと考えている。

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9日目⑧湖族の郷 [琵琶湖てくてく物語]

おごと温泉を過ぎると、ゴールの堅田は目前である。
天神川橋を越えたところで、妻がいきなり「反町隆史ってこの辺りに住んでるんじゃない?」と言い出した。
以前、妻は、友人との会食で、堅田のイタリアンの店に入った時、彼を目撃していた。
「バス釣りで、確か別荘があるとは聞いた事はあるけど・・。」
以前にTV番組で見た事を思い出した。この辺りかどうかは定かではないが、ちょっと面白そうなので、寄り道することにした。
仰木口の信号で右折する。堅田高校の横を通り抜けて、真っすぐに湖岸を目指す。徐々に道が狭くなる。左手に「神田神社」があった。この地の氏神を祀る神社だそうだ。クランク上の道を進むと、ちょっと広くなった所に『湖族の郷資料館』があった。
湖族というのは、湖とともに生きて来た町衆の事らしい。資料館周辺に残る古い家屋は、一つ一つが大きく趣がある。賑わっていた町の様子を感じさせるものだった。ただ、貼りだされていた看板を見ると、この辺り一帯は、堅田藩の陣屋が置かれていた場所だったようで、単純に町衆が作った町とは言えないように思う。ただ、この町も中心部に大きな寺があった。ここには三つも並んでいて、堅田藩陣屋があった頃から地図にあるところをみると、江戸期には、寺と藩はかなり密接な関係にあったと言える。
『湖族の郷資料館』を過ぎてさらに直進すると、他県の人も一度は映像で見た事のある「浮御堂」がある。琵琶湖に突き出していて、近江八景にも描かれている。私たちが到着した時間にはすでに閉館していて、入れなかったが、外から眺める方が良いかもしれない。
少し戻り、北へ向かう道を進むと、「伊豆神社」があった。
由緒が気を見ると、創建は892年で三島明神(三島大社?)の分霊とあり、伊豆という名の意味が分かった。室町時代には、この神社を中心に自治組織があったとも書かれていた。江戸期に堅田藩が陣屋を置く前から栄えた地域だったのが判る。
おそらくその頃の名残が、この神社を取り巻く濠ではないかと推察する。まるで、城の防御のための堀とよく似ている。神域を示すためではなく、水害や外敵への備えのためではないかと思う。神への信仰が自治組織と繋がり、繁栄をもたらした中世ならではの町だったのだと気付く。
ちょっと古地図を見てみた。江戸期の地図にもこの神社は描かれていて、陣屋の脇に位置している。堅田藩は、この町の財力や水運支配等を手中にするために、ここに陣屋を置いたのではないかと推察する。武力で庶民を抑圧し略奪し支配する典型的な武家政治が垣間見えた様な気がした。神社の中には「幸運の霊石」があった。ハート形の石を撫でると幸せが訪れるとされていた。なんとなく胡散臭いが、こういうものがネット上で話題になり、観光資源になっていくのも現代風で面白い。
結局、当初の目的だった「反町隆史の家」探しは未達成のまま、古い街並みを抜けて、堅田内湖に出てしまった。
内湖に架かる橋を渡り、堅田駅までは真っ直ぐいけばゴール。5分で堅田駅に到着した。

本日の歩数、38,801歩、26㎞だった。結構な距離を歩いていた。ただ、唐橋からここまで、もっと時間をかけてゆっくり歩けばもっともっと面白いものが見つかったに違いない。また、別の機会に、大津の町をくまなく歩いてみたいと思う。
計画では、あと1日で全工程終了となるはず。こうやって、最終ゴールが近づいてみると、終わるのがもったいない感じがする。堅田から戻って、残りの距離を再確認してみた。あと1日で最終ゴールの自宅に戻れるはずだった。GoogleMapでルート検索すると、残りは27㎞。歩けない距離ではない。ただ、唐橋から堅田まで歩いた後、家に着いたのは夕方6時をゆうに回っていて、真っ暗になっていた。次回は2月の予定なので、寒さもひとしおだろう。ここは無理をせず、残りの半分に留めておくことにして、計画を変更した。

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10日目①堅田から出発 [琵琶湖てくてく物語]

2月13日、10日目のスタート。スタート地点は、堅田だが、例のごとく、まずは本日のゴール地点まで車で移動する。本日のゴール地点は、比良駅。駐車場に車を停めて、JR湖西線・比良駅から堅田駅へ向かう。
堅田駅に到着して、先回のゴールと決めた「堅田内湖」に向かおうとした時、妻が言った。
「ねえ、浮御堂をもう一度見たいわ。前回、夕方でよく判らなかったから。」
いやいや、ちゃんと見えたけど・・と心の中で思ったが口には出さない。
まあ、今回は歩く距離は短いので、多少の寄り道は問題ない。
「判った。じゃあ、まず、浮御堂へ行こう。」
そう答えると、堅田駅のロータリーから南へ出る。
平和堂の横を抜け、本堅田の信号から真っすぐ湖岸を目指して進み、古い町並の中を通り伊豆神社を横目に浮御堂へ到着。写真を何枚か撮って、いよいよスタートとした。
古い町並みのある狭い通りを歩いていく。
妻が何やらキョロキョロしている。
ああ、そうか。やっぱり、「反町隆史の別荘」が気になっているようだ。
前回、全くわからず、途中からは諦めてしまっていたから、そこが本当の理由なのかと思いつつ、口にはせずに歩く。
「気になってるんだ。」
と呟く様に訊いた。
「ええ、でもね、反町という表札じゃないらしいのよ・・本名の野口って出てるみたい。相当な豪邸だって。」
彼女は、事前にネットで調べたみたいだった。
そんなにミーハーだったかな?
「バス釣りのための別荘だろ?じゃあ、湖岸沿いにあるんじゃない?」
そう言って、スマホでMapを確認して、出来るだけ湖岸沿いの道を選んで歩いた。
それにしても、湖岸沿いの道には、旧家が多く並んでいる。
中には、白い塀に囲まれた御屋敷とか、大きな商家とか、ひと時代前には大いに栄えていたことがよく判る。
結局、それらしい家は発見できないまま、細い通りを歩いていく。
後で調べてみたら、「彼の別荘」は、もっと南、衣川緑地公園が見えるマリーナの隣にあることが判った。GoogleMapで丁寧に見ていくと、大きな屋根と独特のデザインの屋敷があり、大きな門の奥に広がる庭に何台もの車とバス釣り用のボートが置かれているのが判る。上空の写真で、彼の所有する大型のボート(黒のボディに赤いペイント)も湖岸に停泊しているのが見える。全く見当違いのところを探していたことになる。もっと丁寧に調べておかなくちゃ。それにしても、こんなに簡単に見つかるとは、ネット社会にプライバシーとか個人情報という言葉は無意味だと痛感する。
有名人じゃなくて幸せだったかな‥と負け惜しみ。

細い通りをしばらく行くと、小さな港が見えた。
Mapを見ると「出島の灯台」とあった。
明治時代に作られた琵琶湖最古の木造の灯台らしい。この辺りで座礁や難破事故が絶えなかった事から作られ、昭和36年第2室戸台風で倒壊寸前となったのを地元の保存運動で昭和48年に修復されたとあった。ここで写真をパチリ。北を向くと、琵琶湖大橋の雄姿が見える。ここらが琵琶湖で最も狭い場所であり、水深図をみるとかなり沖まで浅くなっているのが判る。水位の変化次第で座礁が起きやすいのは仕方ないところだったのだろう。

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10日目②樹木葬 [琵琶湖てくてく物語]

再び、港へ通じる道路に戻り、細い道を進む。かなり狭くなってきて車幅一杯ではないかともう程になった時、行き止まり、民家へ入ることになった。脇に人が通れる道があったので、さっと通り抜ける。ここで、Mapを確認。どうやら、一本西側の大きい道路に出た方が良さそうだった。
広い道路を少し行くと、「堅田ふれあいパーク」の看板があった。
ここは、樹木葬のある墓地が広がるところだ。
「琵琶湖てくてく」を始める前に、一度来たことがある。
私たち夫婦は、18歳で実家を出て、大学を卒業し、2年ほどで結婚した。当時はそれが当たり前だった。妻の実家は静岡、私は山口。それぞれ実家は兄弟姉妹が跡を継いでいるので、戻ることはない。ということは、自分たちで墓を用意しなければいけないということになる。若い頃はそんなこと考えた事もなかった。だが、還暦目前になれば、自分たちの最期を考えることも多くなった。いわゆる「終活」。
娘二人はそれぞれ独立していて近くには住んでいない。立派な墓を作っても、後を見てくれる事もないだろう。死んだ後も二人きりということになるわけで、それならば、立派な墓石など持たず、樹木葬が良いと妻が言い出した。
理に適っているので、私も同意して近隣の樹木葬を探すと、この「堅田ふれあいパーク」に辿り着いた次第だ。
悪くはない。だが、どこまで維持されるのかと不安になった。いやいや、死んでしまえばどうでもいい事じゃないかと、どこかで考えているのだが・・。
こんな暢気な事を言っていられるのは幸せの証かもしれない。実際、余命宣告を受けたら、そんなことは考えもしないだろう。生きていて幸せだからこそ、死後のことを考えられる。何だか皮肉な話だ。
昨年、納骨堂が閉鎖されるニュースを見た。経営破綻によりビルが競売にかけられ、経営者と連絡が取れなくなっているというものだった。同様の事態は全国で起きている。一方で、墓の維持管理ができず「改葬」して「墓じまい」も急増しているという。
私の実家も、昔は、「先祖代々の墓」が地所の中にあった。2基並んでいて、大きくて、かなり古いものだった。2基の周りにも小さな墓石が並んでいて、おそらく、我が一族が葬られていたようだった。以前にも書いたが、実家は、承久の乱の後、島流しにあった一族の末裔で、我が家はその一族の本家にあたる。古い墓石はほとんど彫られた文字も読めないほどになっていたので、相当古いものだと推察された。
子どものころは、この墓には一族の祖先が葬られているから、大事に守っていかなくてはならない、それが跡継ぎの仕事だと、祖母から何度も聞かされた。長男というのはそう言うものだと子どもながらに納得していた。
だが、親父は、あっさりと古い墓を改葬し、町の共同墓地に新しい墓を作った。理由は明らかだった。実家の地所は、借金ですでに所有権はなく、借地になっていたからだ。持ち主から強く撤去を求められたらしい。本家でありながら、曾祖父が事業に失敗して、ほとんどの土地を抵当に入れていたらしく、それを祖母は長く秘密にしていた。そんな事情もあり、親父は短期間のうちに墓じまいをした。墓に収められていた骨壺は一つにまとめられ、新しい墓に収められた。その数年後に父も他界し、墓に入った。そのすぐ後に亡くなった祖母は、別の墓(嫁いでいた先の墓)に入った。一昨年亡くなった母は、父が建てた墓に父とともに入っている。そんなことを経験すると、墓とは何か考えてしまう。いっそ、散骨もいいかも。ただし、琵琶湖は飲用水になっているので、海洋散骨のほうが迷惑が掛からないかも。
樹木葬の「堅田ふれあいパーク」からおかしな話になってしまった。

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