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9日目⑧湖族の郷 [琵琶湖てくてく物語]

おごと温泉を過ぎると、ゴールの堅田は目前である。
天神川橋を越えたところで、妻がいきなり「反町隆史ってこの辺りに住んでるんじゃない?」と言い出した。
以前、妻は、友人との会食で、堅田のイタリアンの店に入った時、彼を目撃していた。
「バス釣りで、確か別荘があるとは聞いた事はあるけど・・。」
以前にTV番組で見た事を思い出した。この辺りかどうかは定かではないが、ちょっと面白そうなので、寄り道することにした。
仰木口の信号で右折する。堅田高校の横を通り抜けて、真っすぐに湖岸を目指す。徐々に道が狭くなる。左手に「神田神社」があった。この地の氏神を祀る神社だそうだ。クランク上の道を進むと、ちょっと広くなった所に『湖族の郷資料館』があった。
湖族というのは、湖とともに生きて来た町衆の事らしい。資料館周辺に残る古い家屋は、一つ一つが大きく趣がある。賑わっていた町の様子を感じさせるものだった。ただ、貼りだされていた看板を見ると、この辺り一帯は、堅田藩の陣屋が置かれていた場所だったようで、単純に町衆が作った町とは言えないように思う。ただ、この町も中心部に大きな寺があった。ここには三つも並んでいて、堅田藩陣屋があった頃から地図にあるところをみると、江戸期には、寺と藩はかなり密接な関係にあったと言える。
『湖族の郷資料館』を過ぎてさらに直進すると、他県の人も一度は映像で見た事のある「浮御堂」がある。琵琶湖に突き出していて、近江八景にも描かれている。私たちが到着した時間にはすでに閉館していて、入れなかったが、外から眺める方が良いかもしれない。
少し戻り、北へ向かう道を進むと、「伊豆神社」があった。
由緒が気を見ると、創建は892年で三島明神(三島大社?)の分霊とあり、伊豆という名の意味が分かった。室町時代には、この神社を中心に自治組織があったとも書かれていた。江戸期に堅田藩が陣屋を置く前から栄えた地域だったのが判る。
おそらくその頃の名残が、この神社を取り巻く濠ではないかと推察する。まるで、城の防御のための堀とよく似ている。神域を示すためではなく、水害や外敵への備えのためではないかと思う。神への信仰が自治組織と繋がり、繁栄をもたらした中世ならではの町だったのだと気付く。
ちょっと古地図を見てみた。江戸期の地図にもこの神社は描かれていて、陣屋の脇に位置している。堅田藩は、この町の財力や水運支配等を手中にするために、ここに陣屋を置いたのではないかと推察する。武力で庶民を抑圧し略奪し支配する典型的な武家政治が垣間見えた様な気がした。神社の中には「幸運の霊石」があった。ハート形の石を撫でると幸せが訪れるとされていた。なんとなく胡散臭いが、こういうものがネット上で話題になり、観光資源になっていくのも現代風で面白い。
結局、当初の目的だった「反町隆史の家」探しは未達成のまま、古い街並みを抜けて、堅田内湖に出てしまった。
内湖に架かる橋を渡り、堅田駅までは真っ直ぐいけばゴール。5分で堅田駅に到着した。

本日の歩数、38,801歩、26㎞だった。結構な距離を歩いていた。ただ、唐橋からここまで、もっと時間をかけてゆっくり歩けばもっともっと面白いものが見つかったに違いない。また、別の機会に、大津の町をくまなく歩いてみたいと思う。
計画では、あと1日で全工程終了となるはず。こうやって、最終ゴールが近づいてみると、終わるのがもったいない感じがする。堅田から戻って、残りの距離を再確認してみた。あと1日で最終ゴールの自宅に戻れるはずだった。GoogleMapでルート検索すると、残りは27㎞。歩けない距離ではない。ただ、唐橋から堅田まで歩いた後、家に着いたのは夕方6時をゆうに回っていて、真っ暗になっていた。次回は2月の予定なので、寒さもひとしおだろう。ここは無理をせず、残りの半分に留めておくことにして、計画を変更した。

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