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7日目①近江八幡から守山まで [琵琶湖てくてく物語]

さて、いよいよ7日目になった。12月5日。季節はもう冬。
ここからは琵琶湖の南半分になる。今回は少し変則的な始まりになった。というのも、前回までのように出発地点に車を置いて電車で戻る形になると、自宅から随分遠くなるためだ。だが、どうすれば良いか、かなり考えた。
自宅を出て、琵琶湖大橋を渡り、「ピエリ守山」駐車場に車を停めた。そこから、草津駅までのバスに乗り、草津駅から近江八幡駅に向かう。そして、前回のゴール地点、長命寺町へ行くという方法だった。
こうすると、ゴールはおのずと「ピエリ守山」ということになる。そこから自宅までなら40分くらいということになる。ピエリ守山前のバス停から草津駅までのバス路線を調べたところ、比較的本数は多そうだった。
自宅を出て、琵琶湖大橋を渡り、ピエリ守山駐車場まで予定通りに移動できた。車を置き、バス停に向かうと、すでにバスの姿が見えていた。駆けだして何とか間に合う事ができ、森山駅まで向かった。
バスの時刻表を見誤ったわけではない。どういう事情かは判らないが、予定よりバスが早かった。久しぶりに思い切り走った。還暦近くになって準備運動もなく走り出すのは、体に悪い。バスの座席に座った後も、暫く、息が上がって苦しかった。
バスは森山駅前に停車し、駅に向かう。予定通りに近江八幡駅まで向かった。
近江八幡に着いて、長命寺町へのバスを探す。前回、バスの下調べを怠ってしまったのは痛かった。さほど大きな駅ではないのだが、なかなか見つからず、ようやく発見して時刻表を見ると、ついさっき出たばかりだと判った。
さて、次のバスを待つかと思ったが、せっかく近江八幡に来たのだから、少し、街並みも見学して目的地の長命寺町へ向かうのも良いかもと思い始めたところで、妻の一言。
「ねえ、歩きましょう。ここでバスを待っていても仕方ないでしょ。」
まるで私の心の中を見透かすような発言。
拒否する必要はないので、歩くことにした。
GoogleMapで調べると、6㎞ほどだと判った。前回の能登川駅からの道程に近く、多分1時間半くらい掛かる。まあ、大丈夫だろう。
近江八幡駅の北口(?)から北西へ進む。「ぶーめらん通り」というらしい。一説には、道が途中に少し曲がっていて、ブーメランのような形状をしているからとか。いや、きっと別の理由があると思うが・・。
CLUB HARIE近江八幡店の前を通過し、直進。ガストの信号(中村町)を左折し、県道2号線に沿って進む。土田町の信号で一度Mapで確認。このまま直進すると、長命寺町方面から離れていくので、この信号を右折する。歩道が整備されていて歩きやすい。
しばらく行くと、前方右側に大きな白い建物が見えた。本願寺八幡別院とあった。門は閉じられていて、中の様子は確認できなかった。そのまま直進すると、急に道幅が狭まった。Mapは合っているので、少し心配しながら進む。
再度、Mapを確認すると、近江八幡市街地は綺麗に碁盤の目になっているのが判る。今いる場所はその一番外側の通りのようだった。道幅が2間あるかないかの狭さ。この道路は、戦国期に豊臣秀次により近江八幡が整備された時のままなのではないかと思える。
前方に極めて珍しい建物が見えた。赤レンガを積み上げた建物。旧中川煉瓦製造所縄縫工場。ちょっと立ち寄ってみた。
敦賀や舞鶴でみる赤レンガ倉庫のミニチュアのようだ。じっくり見るとかなり頑強に見える。大正期のものらしい。近くには、土取場跡やホフマン式窯のあるレンガ工場跡などもある。大正期には大いに賑わった場所なのかもしれない。

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7日目②意外な名所発見 [琵琶湖てくてく物語]

さらに前進すると、八幡堀に出た。
八幡堀巡りの船に、数年前に、家族で乗ったことを思い出した。
その日は、平日だったせいか、ほとんど待たずに乗れた。時代を間違えそうな風景の中、のんびり進む船の上で、船頭さんのガイドを聞きながら、ぼんやりの時間を過ごして思いのほか癒されたのを思い出す。
「何故だか、旅行に行くと、貴方と長女は何かと船とかロープウェイとか日常的ではない乗り物に乗りたがる」と、妻が言ったのも思い出した。
いやいや、旅行というのは非日常を味わうものだろうと反論するが、そんな言葉は聞いていない様子だった。
そんなことをぼんやり思い出しながら、橋を渡り、突き当りを左折し山際の道を進む。
歩道がなく、車両の通りも多いので、一列になって進む。
白壁の蔵が幾つか並んでいた。中心部からはかなり離れていると思うのだが、ここもまだ近江商人の町並のようだ。
直進道路はさらに道幅が狭くなってきて、歩道が無くなったので、山沿いの脇道へ入ることにした。道のうねり具合から、こちらは旧道だろう。小さな鳥居がある。地図で確認すると石段を上がった先に「綾神社」があるらしい。
そのまま道に沿って進む。開けたところから見ると、この辺りには大きな屋敷が点在している。中には、敷地に幾つも家屋が連なっているようなところもある。ここ、船木地区は、室町時代に船木城(船木氏館)が築かれたところのようで、以降も、材木運搬の要衝だったらしい。高島市安曇川町の船木地区も、材木運搬で栄えた場所で、「船木」という地名は、そういう材木運搬・船の運搬業で栄えた地名なのだと思う。
少し進むと、ちょっと変わった(?)お寺を見つけた。
屋根の一部が茅葺の寺。天台宗のお寺で、豊臣秀次が開基したと書かれている。
ざっと400年以上前。その前身のお寺は聖徳太子が八幡山に建てたと伝わっているとの事。船木地区のほぼ中央にあることは、この近江地域の集落の特徴だ。こういう伝承というのは、ほとんどの寺社仏閣に見る事ができる。それは、その寺社仏閣を守る人々の強い意志が脈々と語り継がれてきた証だ。寺はまだ、日本の歴史の中では文献などで証拠を見つけることは可能だが、神社は殆んど神話の世界だ。だからこそ面白い。どうしてそんな話が生まれたのかと思うようなことが山ほどある。きっとそこにはその神話に通じる何か事実が存在したはずだと思うとさらに興味がわく。
さらに進むと、津田という集落に入る。この集落でも、伝承を見つけた。
集落の東側、八幡山の麓に「津田城跡」があった。その脇に建つ顕彰之碑には、この地を治めていた「津田氏」は織田一族の始祖とあった。織田信長の先祖ということになるわけだが、14世とあるので、ざっと400年ほどの時間が経っていることになり、信長自身がどこまで知っていたかは判らないと思うのだが・・。
その集落を抜けると、整備された大きな農地が広がっていた。先回も書いたが、かつては、津田集落から長命寺町までの間には、琵琶湖が内陸まで入り込んでいた場所で、ここも干拓によってできた農地だ。農地の中に真っすぐに道路が伸びている。排水路を越えると、「津田内湖土地改良区」の事務所があった。ようやくこの場所の名前が判った。そこからさらに進むと、近江八幡運動公園を越えて、何とか、長命寺町の入り口に当たる「長命寺橋」に着いた。
さあ、ここが今日の出発地点になる。

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7日目③空腹のピンチ [琵琶湖てくてく物語]

・・だが、もう時間は正午を迎えていた。
朝、ピエリ森山に車を停め、バスとJRで近江八幡駅に着き、ここまで歩いて、3時間ほど経過したことになる。
昼となれば、腹が減る。
実は、この長命寺橋のたもとに、たこ焼き屋の屋台がいつもは開いているのだが・・何と、今日はいないではないか。先月来た時には確かあったような記憶があるのだが・・寒くなって商売にならないのか・・。
困った。今回、昼食を途中で買ってくるはずだったのに、結局、コンビニらしきものがなくて、最後の砦と、ここのたこ焼き屋を当てにしていたのに・・。どっと疲れた。
「チョコレートとバナナがあるけど食べる?」
疲れと脱力感で座り込んでいる私を見て、妻が言う。
「バナナ?」
「ええ、先回、甘いものが食べたいと思ってたから持ってきたの。」
なんと、素晴らしい。
疲れた体に「チョコレートとバナナ」とは、栄養満点、やる気満々のご馳走ではないか。
実のところ、どこかに出かける時、妻は支度に時間が掛かる。化粧に時間が掛かるのではなく、心配症で何かといろいろと持っていこうとして手間取るのだ。一泊程度の旅行でも、大きなカバン満杯の荷物になる。そんなに必要なの?と心の中で思いながら、ぐっとこらえているのが常だ。そんなことを言おうものなら機嫌を損ねてさらに時間が掛かるからだ。
だが、今回は見直した。「チョコレート」だけなら、まあ普通にそうかというくらいだが、「バナナ」とは見上げたものだ。そういう発想にこれまでも助けられたことがしばしばあったような気がする。一つ一つは思い出せないが・・。
「バナナ」について・・・今では、多様なバナナが流通し、店頭でも、年間安定して販売されている。バナナは、低カロリーながらカリウムやビタミン等を多く含み、栄養面では極めて素晴らしい食品である。
私が子どもの頃、病気になると「滋養があるから食べなさい」と祖母が買ってきてくれたことを思い出す。その頃は、1ドル360円の固定相場制だったため、輸入品はおしなべて今の3倍近くになる。100%輸入に頼っている「バナナ」も、今は1房100円くらいから売っているけど、当時は、恐らく3倍以上だったはずで、一方の収入は、今の5分の1程度なので、15倍という事になる。単純に言うと、1房1500円くらいという高価だったはず。それでも、「滋養があるから」と言って買ってきてくれた。祖母の優しさに感謝すべきなのだろう。
ただ、当時のバナナは今と違ってさほどおいしくなかった。
社会科見学で下関のバナナ工場へ行った時、真っ青なバナナが大きなコンテナに入っていて、それを地下にある「室」に入れ蒸気をあてると黄色くなって出てきたのを覚えている。当時はまだ、病害虫の検疫のため、どこか薬品臭かった。皮からちょっと変な匂いがしていたのを思い出した。今は、何れも味と栄養価と熟度を競い合うようになっていて、とっても美味しい。当時は、「遠足のおやつは300円まで」などというルールもあって、「バナナはおやつですか?」という質問をするのが笑い話のようになっていたのだが、おそらく、当時、バナナ1本で300円くらいの価値があったのではないかと思う。
そう言えば、当時は、チョコレートも普通のお菓子とは別にガラスのケースに入って売っていた。今では安売りのコーナー商品になっている「ガーナミルクチョコ」の赤いパッケージがガラスケースの中にそっと置かれていて、子どもは触ってはいけないもののように見えたものだ。原料のカカオも輸入品なので、こちらも相当高価だったということだろう。
土手に座って、バナナとチョコを食べながら、そんな話をした。
空腹が満たされたわけではないが、何とか、午後の道のりを歩くエネルギー補充は出来たような気がした。

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7日目④藤ヶ崎龍神社 [琵琶湖てくてく物語]

さざなみ街道を守山を目指して進む。
歩道が整備されているので歩きやすい。時折、ビワイチの自転車とすれ違う。白鳥川を越えたところに緑地があったので、中に入る。歩道のアスファルトと違って、土の道は膝に優しい。水茎干拓地という場所らしい。
ここから、さざなみ街道は「頭山」の小さな峠を越える。ここには、室町時代に佐々木氏が築城した「水茎岡山城」(砦)があったようだ。岡山は周囲が湖であったため、防御には強い城(砦)に違いない。今はまったく遺構もないそうだ。
峠道に入る前に、Mapを見ると、湖岸沿いに道がある。通り抜けられるか心配だったが、先端に「藤ヶ崎龍神社」というパワースポットがあるというのを見つけたので行くことにして、脇道に逸れた。
山際の細い道を進むと、突然、「藤ヶ崎龍神社」が現れた。
琵琶湖に突き出すような恰好で大きな岩があり、そこに祠と鳥居があった。外宮らしい。二拝二拍手一拝で道中の安全を祈願した。振り返ると内宮がある。大きな岩の割れ目深く空洞があり、中にご神体らしきものがあるようだった。
というのも、内宮に入ろうとしたら、中から怪しげな声が聞こえて来たので、足を踏み入れるのを躊躇った。若い女性が二人いて、一人の女性が特異な服装をして何かを唱えていて、横にいる女性も熱心に手を合わせているのだ。
どういうものかは全く理解できなかったが、二人が占拠しているところに足を踏み入れるのはさすがに申しわけなく、すぐに退散した。
外の看板に、水茎の岡として、万葉集に40首余り読まれている景勝地だと書かれていた。
パワースポットという言葉はいつから広まったのだろう。
私が若い頃、余り耳にしない言葉だったような気がする。1990年バブル前後から、聞き始めたような言葉だと思う。
「神霊鮮かな場所」として、伊勢神宮、熊野大社、鞍馬山、高千穂、富士山等々、日本人は、自然のエネルギーを知り、信仰と結びつけ、そうした場所に社や祠を建ててきた。そういう場所が「パワースポット」と称されるようになったのだが、今や、そういう概念から逸脱したような「パワースポット」が観光資源として生まれ始めていて、ちょっと、勘弁してくださいという様なものもある気がする。
新しいものを否定するつもりは全くないが、そこに強い力を感じる感性があるとは思えない人達がふざけて写真を撮ったり、むやみに傷つけたりする行為をニュースなどで見るとがっかりする。観光雑誌などでも時々節操のない記事を見ることがあり、「え?それってなんでパワースポットなの?」と言いたくなるものもある。
先ほど、藤ヶ崎龍神社の内宮で、何かお祈りの様な儀式をしていた女性二人はどうなのだろうか。そこに霊験あらたかな力を感じての所業であれば良いのだが・・そういう場所を悪利用して、怪しげな宗教を始め、詐欺まがいの事をやろうとする輩もいるのでご注意を。
そんな心配をしながら、藤ヶ崎龍神社を後にする。その先には小さな砂浜と売店のような建物があった。勿論季節外れで閉まっていた。
そこを通り抜けると、ふたたび、さざなみ街道へ入ることになる。
この先は、日野川の河口部に当たり、日野川の水流で運ばれた土砂が堆積してできた地形だと判る。古地図を見ると、日野川は「仁保川」と書かれていた。隣り合うように流れている「家棟川」が古地図には載っていないから、恐らく、「仁保川」は昭和の干拓事業の中で流れが変わって、日野川と家棟川とに分かれたのではないかと推察される。それにしても、昭和の大干拓事業は凄いものだったようだ。琵琶湖の形が大きく変わったのだろう。


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7日目⑤いずれが菖蒲か杜若 [琵琶湖てくてく物語]

日野川を渡った辺りからは、松並木が続いている。白い砂浜も見える。佐波江浜というらしい。近くの集落も佐波江町とあった。古地図には載っていないので、まだ比較的新しい町だろう。古地図では、湖岸近くに、野田村・五條村・野村などが並んでいる。野田や野村は、今は、県道26号がある辺りなので、琵琶湖岸は随分内陸部にあったことが判る。
しばらく、松並木と田んぼの風景が続く。
私たちの後方から、私たちよりも年上の、いわゆる「お婆さん達」が3人が歩いていた。
女三人で姦しいとはよく言ったもので、何か大きな話し声が聞こえたので、振り向いてみて気づいた。軽装なので、恐らく散歩だろうと思っていたら、見る見るうちに近づき、私たちを追い抜いて行った。恐るべし老年パワー。日ごろから脚力を鍛えているに違いない。これなら介護保険サービスを当分使う事はないだろう。感心している場合じゃなかった。今度はお爺さんが同じように凄いスピードで近づき、あっという間に追い抜いて行った。
その方も軽装だったので、近くの方達だろう。佐波江の住民は、皆さん、きっと脚力自慢に違いない。還暦の私たちも、もっと脚力を鍛えなければと反省していたのだが、さらに驚いたことがあった。先ほど私たちを追い抜いて行った「かしまし娘」達が戻ってきたのだ。どこかまで歩いて戻って来た様子だが、何か用事を済ませて来たのではなく、とにかく、この佐波江浜の歩道を行き来してウォーキングをしているようだった。「琵琶湖一周するぞ!」なんて、浮かれた気分で歩く前に「日ごろからこうやって鍛錬すべきだよ」と言われているようで、ちょっと恥ずかしかった。
そんなちょっとブルーな気分で、家棟川を越えた。
おっと、あのブルーの看板は・・ローソンではないか!ちょっと気分が上がり、さきほどの「かしまし娘」のように足運びが早くなる。
さすがに、バナナとチョコでは満腹にはならなかった。そうか、「かしまし娘」達に追い抜かれたのは、きっと、空腹のせいだ!
ローソンは、道路の反対側。目の前まで来て、なかなか道路が渡れない。さざなみ道路は信号がほとんどない。国道8号線に比べて、走る距離は長くなるが、快適に走れるので、車の数は多い。そして、スピードが速い。これは、高島市の湖周道路でも同じ。ほとんどの車は時速70㎞~80㎞で走り抜ける。ここはさらに、道路がカーブしているので、見通しが悪く、ちょっと車が途切れたと思うとすぐに姿を見せる。渡るのは勇気が要る。それでも何とか、道路を渡り、ローソンに飛び込む。
体が冷えているので、絶対、「肉まん」を買おうと思い勇んで入ったのだが、「ただいま加温中」の看板が掛けてあった。うーむ、残念。結局、おにぎりとサンドイッチを買って、店を出た。風は弱くなり、天気も良いので、浜辺に出て食べることにした。とにかく、まずはこの空腹を満たしたい。先ほどと同様に、往来の激しい道路を渡り、浜へ出た。
砂浜に座り、おにぎりとサンドイッチを妻と分けて食べる。
ぼんやりと、この先の行程をMapで確認していて、ちょっと面白い事を発見した。
先ほどのローソンは、野洲菖蒲店だった。その南側には、近江鉄道バスあやめ営業所がある。さらに、その隣には「杜若(かきつばた)神社」があるのだ。
菖蒲とあやめと杜若。菖蒲とあやめは、いずれも同じ「ユリ目アヤメ科アヤメ属」の花ですし、漢字変換すると同じなので、まあ、許せるとして、杜若(かきつばた)は「キジカクシ目アヤメ科アヤメ属」とまったくちがう花だ。その3種が、隣り合う場所に名を連ねているというのはおそらく他にはないことだろう。
杜若神社の謂れを見ると、野洲川上流にある長澤神社のあやめ池から流れ着き広がった場所であったことで名がついたとされていた。だが、地名は菖蒲(あやめ)。名をつけた当時は、菖蒲も杜若も同じだったのか、それともわざとそういう名にしたのか・・ちょっとしたミステリーだ。

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7日目⑥名前とは妙なもの [琵琶湖てくてく物語]

腹を満たして元気になった。ゴールまではあと少しだ。
再び、さざなみ街道の歩道を進むと、前方には有名な(?)マイアミ浜がある。
「昭和25年(1950年)頃、戦後の復興に必死になって働いている人々に、安らぎと保養の場を提供できれば…世界的リゾート地であるアメリカフロリダ州マイアミビーチのように…
というのが命名の由来』(マイアミオートキャンプ場ブログより抜粋)だそうだ。オートキャンプ場とデイキャンプがあり、周辺にもレジャーを愉しむための店もある。琵琶湖のレジャーの基地だと言いたいところだが、実はまだ入ったことはない。理由は、その名前。ここが、「アヤメ浜オートキャンプ場」ならきっと利用した。
何だかいかにも「レジャーを楽しんでください」と言わんばかりの名前にはちょっと気後れしてしまう。戦後復興の最中、日本がどんどんアメリカ化していた時代を象徴するような場所にも思えて仕方がない。デイキャンプやオートキャンプは嫌いではない。むしろ、子供が小さかった頃はのめり込んでいた時期もあったくらいだ。だが、この地名には、どうしても、抵抗感がある。
横目で見ながら、マイアミ浜を通過する。すぐ隣に、「アイリスパーク」があった。
この名前には感動した。もちろん、ここにはアヤメ(花しょうぶ)が植えられているのだが、アイリスは、アヤメや花しょうぶ・杜若などの総称を指す言葉なので、ここの地名としてはぴったりだ。今度、花のある5月に訪れようと思う。マイアミ浜もせめて「アイリス浜」ならもう少し行きやすいのではと思うが・・如何に。
その先には、川のような内湖のような場所があった。Mapを見ると、川のように見えるが、上流部分は緑地公園になっていて、殆んど川ではない状態だ。
古地図をみると、野洲川が分流した一つだとわかる。古地図では、野洲川が堤村の下流で三つに分かれて描かれていた。その一つの名残に違いない。野洲川も氾濫しやすい川だったようで、「堤村」などという地名が残っているくらいだから、昔から治水に苦労した地域なのだと思う。
この先で、さざなみ街道が大きく左にカーブをして南へ向かう。
その先に、「鮎家の郷」があった。私たちが歩いた2020年12月には、まだ営業していた。滋賀県で生まれ育った人には、鮎という魚は身近なものなのかもしれないが、海育ちの私には、好んで食する対象とはならない。そのため、「鮎家の郷」には入ったことがなかった。ちょっと寄り道になるが、この機会に入ってみよう。鮎の立派なオブジェ、入口がなんだか少し寂しさを感じる。土産物が多数並んでいるのだが、どれも値引きされている。店員さんも何だか素っ気ない。これだけ土産物を安売りしているのだから、もうちょっと元気があっても良いのではと思いつつ、一回りして出てきた。(この後、閉店の話を聞いたので納得)
ここの跡地にできた「めんたいパーク」には正直驚いた。
「明太子」だけで、あれだけの事業になるというのが何よりも大きい。おそらく、ネーミングの力が大きいのではないだろうか。「めんたいパーク」・・何、それ?とつい突っ込みたくなってしまうので、行った事のある人は必ず説明する。これが宣伝になって、知らぬうちに人を寄せることに繋がっているはずだ。明太子は、嫌いではない。むしろ、好物と言っていい。だが、魚卵の一つに過ぎないわけで、それほど人を惹きつける魅力があるとも思えないのだが、大いに繁盛している。
愛知県にも何カ所か「めんたいパーク」ができていた。幾つか寄ってみたことはあるし、ついつい買ってきてしまった。悔しいけれど、また、買いに行こうと思わせてくれるところがある。歩いた時は、まだ、めんたいパークはなかったので、素通りすることになった。
小さな水路のような場所を渡る。吉川港の看板。
もうその先は、野洲川の大きな河口になっていて、そこを越えれば、守山市になる。

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7日目⑦フォトスポット [琵琶湖てくてく物語]

野洲川を越え、守山市へ入った。
橋を渡り切ったところに、看板がある。「ビワイチよりみち」と書かれている。隣に「しあわせの丘」の看板もあった。それ以外の案内が見つからず、意味も解らず通り過ぎた。跡で、ここがビワイチのフォトスポットになっている事を知った。
そこから少しのところに、「もりやまフルーツランド」がある。立ち入ったことはない。ナシ・ブドウ・カキ直売所の看板も出ている。今は冬で当然、閉鎖されているに違いない。
それにしても、こういう直売所って、結構、「良いお値段」で販売していると感じるのは私だけだろうか。
産地で「直売」なら、物流費や市場手数料がないのだから、その分お安くても良いのではと思うのだが、スーパーよりも高いと思うことがほとんどだ。
勿論、収穫したての新鮮さは、スーパーでの販売では手に入らないのだから、高価でも当然なのかもしれないが、何だか、割り切れない感じがある。
私は、昔、農産バイヤーをやっていた。
市場流通において手数料や梱包費、輸送量、市場手数料などの中間経費や直接経費が余りにも大きい事には、生産者とともに憤りを感じたことはあった。ただ、遠くの産地から如何に鮮度を保持して消費者に届けようかと生産者や流通業者が協力して作り上げたシステムを一概に問題だとも思わない。
例えば、「さくらんぼ」で考えてみたい。
山形が主産地であるのは皆さんもご存じのはず。
サクランボは、梅雨時期に収穫される果物だが、実は、かなりデリケート。雨に当たらないよう、巨大な雨よけハウス(ゆうに10mを越える高さ)を作り、生育する。
熟度を上げないと酸味が強くて食べられないので、収穫農家は、旬になると毎日収穫に追われる。それからできるだけ短時間のうちに、選別し、小さなパックに綺麗に並べる作業が待っている。綺麗に並べるのは、見栄えを良くするためではない。サクランボは衝撃に弱く、すぐに実割れを起こす。実割れを起こすと、あっという間にカビが発生する。だからきれいに並べることが求められる。
農家は、短い旬のために、収穫からパック詰めまで短時間で行うため、アルバイトも雇っている。包装資材にもこだわり、人件費もかかる。
さらに、それを消費地(都市)へ輸送するには、「冷蔵車」が必須だ。蒸れは大敵。カビに繋がる。強い振動も禁物なので、高級種は「エアサス仕様」のトラックを使う。輸送コストは、他の野菜とはケタ違いになる。
市場でも、冷蔵保管し、小売りまで届ける「冷蔵チェーン」が確立しているところでないと難しいということになる。
これだけの作業にかかる費用を産地・農家は負担することになる。当然、高価な産物になるわけなのだが、市場流通では自分たちで価格は決められない。あくまで、競りで価格は決まる。大量に出荷されれば安くなり、少量なら高騰する。市場手数料はパーセンテージ。より高い価格をつけてもらわないといけない。さらに、農家は見栄えや鮮度を追及することになり、コストアップにつながっていく。
産地の直売では、農家(生産者)自身が価格を決める事ができる。自分で作った産物は、やはり他より良いものだという自負があり、安くは出来ない心情は理解できる。だが、消費者自身が労力と経費を払って買いに来るわけだから、当然、その分少しはお安く手に入って良いのではないかとも思う。
もりやまフルーツランドの直売所が、どういう値段で産物を販売しているかは全く知らず、見当はずれな事を言っているかもしれない。

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7日目⑧モニュメント [琵琶湖てくてく物語]

守山フルーツランドの対面には、松林が続いている。
随分と枯れている松が目立つ。松枯れ病なのか。このままだと、この辺り一帯の松林は早晩消えることになるに違いない。・・と思っていたら、つい先日、再び通った時、すでに大半の松が切り倒されていた。
信号を過ぎると、左手に沼のようなところがあった。さらに、琵琶湖マリオットホテルを過ぎたところにも同じような沼。
地図で確認すると、かつて、野洲川の分流だった場所だと判る。かつて、野洲川は新庄大橋のたもと、笠原町の笠原さくら公園の辺りで分岐し、水俣町にある「びわこ地球市民の森」を流れ、今浜町でさらに二つに分かれて流れていたようだ。マリオットホテルが建つ場所は、その川の中州ということになる。
琵琶湖マリオットホテルの前、第2なぎさ公園に、「BIWAKO」モニュメントがある。私たちが歩いた時は、まだ、なかった。
今は、バイクやビワイチの方達のフォトスポットになっているらしい。先日、テレビで神戸港の様子を見た時、メリケンハーバーに、「BE KOBE」のモニュメントがあった。
全国に同じような「文字型モニュメント」はかなりあるらしい。確かに、そこに行ったという証拠にもなるし、造形の美しさもある。だが、ローマ字表記が多いのが気になる。
せっかくなら、日本語モニュメントを増やしてもらいたい。漢字やひらがなの造形は難しいのかもしれないが、そこを何とかモニュメントにできれば・・等と考えていたら、大阪・梅田には「梅田いす」とも呼ばれる漢字のオブジェがあるらしい。ネットで見ると、なかなか面白い。やはり、大阪らしいと思う。
いよいよゴールが近くなってきた。
第1なぎさ公園のところで、湖岸沿いの道へ入る。第1なぎさ公園は、夏にひまわりを見に来たことがある。なかなか良かった。
湖岸沿いの土手の上の道を歩く。湖岸に建つマンションを見上げつつ、回り込む形で湖岸を進むと、ピエリ守山が見えた。
ピエリ守山に到着。陽が傾いている。
広い駐車場を横切って、車の場所を探す。バスに乗る為に駐車したので、かなり外側の位置に車を停めていた。

さて、歩数は・・36,790歩、25㎞だった。確実に、20㎞以上歩けるようになった。

昼食騒ぎがあった割に、今回は元気だ。いや、昼食の時間が遅かった事で、まだ、空腹になっていないからかもしれない。
さて、次回は、この「ピエリ守山」が出発点になる。
「ねえ、琵琶湖大橋は歩いて渡れないの?」
助手席の妻が呟く。
「いや、歩いて渡れるはずだよ。ほら・・。」
と、琵琶湖大橋を車で渡っていたら、何人も橋を歩いている。
「じゃあ、次は、琵琶湖大橋を歩いて渡りましょう。」
妻は、あっさりと言った。
ということは、次は、堅田に車を停めて歩き始めるということになるが・・。確かに、その方が都合が良いかもしれないと考えつつ、家路を急いだ。

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8日目①琵琶湖大橋を渡る [琵琶湖てくてく物語]

8日目は12月28日に決めた。
仕事納めの翌日、この日なら、まだ、年始の準備をする時間があるはず。
まあ、年始と言っても、娘たちは帰省する予定はないので、夫婦二人の静かな正月になる予定で、さほど大変な事もないのだが、ただ、大掃除だけはやっておきたい。特に、キッチン回りの掃除は手を抜けない。ガスレンジや換気扇、壁、収納棚の汚れは落としてから、正月に備えるのが恒例なのだ。それで、28日と決めた。

今回は、堅田駅が出発点になる。ゴールは、瀬多川にかかる「瀬田の唐橋」の予定だ。
前回、琵琶湖大橋を歩いて渡るという話題になったため、帰りのことも考えて、駅周辺に車を停めたい。平和堂が最寄だったが、琵琶湖大橋に近い「コメリ」に駐車することにした。カード会員で随分買い物をしているので、大目に見ていただきたい。
そこから、まず、琵琶湖大橋を目指す。
コメリからすぐ、琵琶湖大橋の取り付け道路に繋がる信号へ出た。一旦道路を渡り、橋の北側の歩道を進むことにした。琵琶湖大橋の入り口には、「道の駅・琵琶湖 米プラザ」がある。初めて、琵琶湖に来た時にも寄った場所だった。琵琶湖大橋の景観を楽しむには格好の場所である。今回は立ち寄らない。
琵琶湖大橋は全長1400mある。
「ちょっと質問。琵琶湖大橋と関門大橋(関門海峡)はどちらが長いでしょう。」
妻に訊いてみた。
妻は関門海峡の実際を見た事はない。
「そりゃあ、関門海峡の方が広いに決まってるでしょ?なんたって、海だし、海峡っていうんだから。川とは違うでしょ。」
あっさりと答えた。だが、実は、関門海峡大橋は1,068m。かなり短い。
「嘘!絶対、関門海峡の方が長いに決まってる。」と妻は譲らない。
後日、実家に帰った時、下関まで足を延ばして観光がてら、関門海峡大橋を渡った。
海峡をまたぐ橋だけに、高いつり橋で、圧倒される。建造当時は、東洋一のつり橋と言われたものだった。琵琶湖大橋と比べて、確かに大きく見えた。
だが、対岸に目を遣ると、それは明らかだった。
対岸までは1000mもない。向こうを歩く人の姿が肉眼でもはっきりわかるくらいで、実は600mほどしかない。(「越すに越されぬ大井川」と詠まれた大井川の木造橋、蓬莱橋が約900mなので、それよりも狭い海峡幅となる。)
平家滅亡の舞台となった壇之浦は、海峡が最も狭まり、干満差によって複雑で早い潮流で遭難しやすい場所だ。普通でも、船から落ちればまず命の保障はないほどの場所。追い詰められた平家が安徳天皇を抱き入水したという話は少し出来過ぎているように思うが・・。
ここは、琵琶湖だ。
そんなうんちくを話しながら、琵琶湖大橋を渡る。
普段は車で走って、東行きで「琵琶湖周航の歌」のメロディーを聞くことが多い。歩くのは初めてだった。
歩道はかなり広い。半分ほどは上っていくことになり、橋のほぼ中央部にちょっと休憩できるベンチがあった。
欄干から下を覗くと、かなり高い。説明看板に26mあると書かれていた。マンションの9階くらいの高さになる。ここから落ちたら、まず命は助からないだろうと思うと、ちょっと足がすくんだ。
豊橋で住んでいたマンションは14階建てで、我が家は4階だった。下見の時、いくつかの階の部屋を見たが、ベランダに出て落ち着いていられる高さは4階までだった。それ以上だとベランダに出ることはできないと直感していたのを思い出した。

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8日目②南湖を南下 [琵琶湖てくてく物語]

橋の上は風が強い。遮るものが何もないのでどうしようもない。早々に渡り切りたい。
渡り終えると、料金所の横の歩道から外へ出られた。そして、ピエリ守山の駐車場へ。
さて、ここからが本当の出発になる。
琵琶湖大橋東詰の交差点にあるローソンでちゃんと昼食を確保したあと、道路を渡り、湖岸沿いを進む。ヤンマーマリーナを過ぎると、琵琶湖岸になる。先ほどわたって来た琵琶湖大橋の全景が見える。こうやって見ると、やはり、かなり長い橋だということが判る。
ここからはほぼ南に向いて歩くことになる。
真正面から日差しを浴びることになり、ちょっと暑さを感じるほど。師走、晦日前で本当ならかなり寒いはずだが、こうやって歩いていると寒さは余り感じなくなる。人間の体は不思議だ。
対岸が比較的近いので、歩きながら対岸の様子も見ていけるので、飽きずに行けそうだ。
暫くすると、SGホールディングスの陸上競技場があった。佐川急便の特徴あるブルーの色の看板が出ているのですぐに判った。
これはおそらくデマだと思うが、私が名古屋に通勤していた頃、名古屋在住の職場の同僚が「佐川は自己破産した人が多く働いているんだよ。」と少し蔑むような意味を込めて言ったことがあった。
「お前はどれほどの者なんだ」と思いつつ、「へえ」と無意味な相槌を打って聞き流した。
おそらくそういう噂は数多く世の中にあるだろう。
今はSNSでそういうデマカセがまことしやかに流れてくる時代だ。
自分の眼で見て確かめた事すら危ういことなのに、ちょっとした「つぶやき」を真に受けて行動することだけは避けたいものだ。
1970年代のオイルショックの時に、トイレットペーパーが無くなるという話が広がってスーパーに列ができた事があった。
あれは、大阪・千里ニュータウンの一角で起きた珍事を、テレビや新聞がこぞって報道したために、全国に波及してパニックになったのだ。何故、トイレットペーパー?と思うのだが、当時、千里ニュータウンには水洗トイレが完備していた。それまでの汲み取りトイレでは、「チリ紙」が使えたのだが、水洗トイレは「トイレットペーパー」でないと詰まって使えなくなるというのが理由。トイレットペーパーは命綱みたいなものだったのだ。
結局、オイルショックでトイレットペーパーが無くなることはなく、我先にと買い込んだ人々によって、メーカーや販売店が迷惑しただけだった。
あれ以来、「おひとり様〇〇個まで」という制限して販売する方法が定着した。
コロナ禍でも、品薄のマスクや殺菌剤などがこうした方法で販売されたのが記憶に新しい。そして、今、卵の不足で値上がりと同時に数制限が起きている。生鮮品はさすがに買い占めできないが、それでも、幾つかのお店をはしごして、買い求める消費者がいるようだ。
『足るを知る』ということを、昔、祖母が言っていた。
身の丈にあった範囲で、必要なものを手にすれば良いという事をよく言っていた。この歳になって、ようやく、それを実践できている自分が恥ずかしいが・・。
デマ話から脱線した。
歩みは進んでいる。
陸上競技場に隣接して、保養所、さらに美術館が並ぶ。社員の福利厚生にここまで力を入れている企業はそう多くないだろう。
右手に、守山漁港と金毘羅宮。ここらは、もともと内湖だったところを埋め立てて造成された場所のようで、コカ・コーラボトリングを越えたところに、綺麗に並んだ住宅地があった。地図を見ると、造成地の東側には古くからの街がある。町の中心に、光照寺(伊能忠敬が泊ったらしい)があるのがその証。北には蛭子神社もある。

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8日目③湖岸緑地の憂い [琵琶湖てくてく物語]

さらに進むと、レークサイドゴルフコース。
私はゴルフはやらないので全く興味がない。ただ、何度かこの前を通った時、駐車場がいつも満杯なのが気になっていた。今回もたくさん車が並んでいる。だが、通りから見えるコースには人影はない。妻とここを通る時は、「謎だね」というのが口癖になっている。
その先には「木浜北P」の看板。湖岸緑地に隣接した駐車場だ。ちょっと緑地公園に入ってみた。メタセコイヤの並木と芝生で綺麗に整備されていた。バーベキューもできる公園のようだ。大きな外来魚回収ボックスが置かれているところから、ここはバスフィッシングには良いところなのかもしれない。
そう言えば、2023年のゴールデンウィークには、湖岸の緑地公園の有料化実験があった。湖岸緑地のほとんどは無料で利用でき、バーベキューやキャンプも可能だし、トイレも完備している。
シーズンになると、他府県ナンバーの車を多く見かけるようになる。有料化の社会実験は、利用者によるゴミ投棄、直火の焚火とか花火などマナー悪化に対する利用制限と費用負担の在り方を検証するものらしい。NHKのニュースで何度か報道されていたので、その様子は滋賀県民の多くが見たはずだ。緑地の端に隠すように捨てられたバーベキューコンロとか、食器類、残った炭や、PETボトル等々・・有料化し予約制にする事で、利用者にも応分の負担をしてもらうことが必要ということなのだろうが、結局、隣接する無料のエリアが混みあった結果となっていたらしい。
我が家の前にある「萩の浜」も、バーベキューはもとより、キャンプやタープ類などの増設も禁止していて、それを示す大きな看板が立っている。しかし、夏になると、それを無視してデイキャンプに入り込んでいる人を見る。(浜の真正面に住むK氏は夏になると見張のように浜を眺め、こうした輩を発見すると警察へ通報するのでご注意を)そして、ゴミ類を放置したり、自治会のゴミステーション(同じくK氏が鍵をもって管理している)の周りに放り投げていく人もいる。マナーの悪い人は、どれだけ規制しても現れる。どうしたものかと溜息が出る。
今いる、木浜の湖岸緑地もおそらくそういう憂き目にあっているに違いない。
そんなことを考えていると気持ちが沈むので、すっかり忘れて、前へ進もう。
木浜緑地を過ぎると、暫く、田んぼと湖岸の風景が続く。
その先で、時々、モーター付きのパラグライダーを見かけることがあった。湖岸にその基地、MPG琵琶湖というのがあるようだ。そこを過ぎると、再び湖岸緑地が続く。
左手、東側の田んぼの向こうに、ちょっとした森の様なものが見える。
もりやま芦刈園だ。
ここは、毎年6月下旬になると足を運んでいる。芦刈園のアジサイを見るためだ。
何故か、アジサイ園は昔から好きで、愛知にいた時も、あちこちのアジサイ園に足を運んでいた。鎌倉のアジサイ寺にも行ったし、三河・形原のアジサイ寺は毎年のように訪れた。そう言えば、お寺とアジサイという組み合わせは、全国あちこちにあるように思う。
もりやま芦刈園は、規模はそれほど大きくないが、自然に近い地形と種類の多さが特徴だと思う。池を挟んで、白アジサイが山のように広がっているのも圧巻。通路沿いに、とにかく珍しいアジサイが並んでいて、咲く時期も少しずれて来るので、結構長く楽しめる。
こちらに来て、余呉湖畔のアジサイも見に行った。手入れはどうなっているのか、意図的にそうしているのか判らないが、とにかく大きく、背丈以上の高さのものもあった。迫力という点はかなりのものだが、なんだが、伸び放題のものもあって少し残念に感じた。
我が家の庭にも、アジサイが10本ほど植わっている。白、ピンク、ブルー等の色と、ボールのような形状のものや星が飛んでいるようなものなどだ。
梅雨時期が近づくと、アジサイが楽しみになる。

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8日目④烏丸半島 [琵琶湖てくてく物語]

芦刈園を横目に見ながら先へ進むと、いよいよ、草津市に入る。
前方に烏丸半島。「河原の洲の間」(かわらのすのま)で、烏丸なのだと聞いたことがある。京都の烏丸も同じらしい。
その手前にある「道の駅草津グリーンプラザからすま」に立ち寄る。
昼食の時間になっていた。夏は賑わうのだろうか?オフシーズン、年末ということもあって、客はまばら。自動販売機の脇にあるベンチで、朝、琵琶湖大橋東詰のローソンで買ったおにぎりなどを食べた。小休止の後、再出発。
行く手には、草津水生植物公園と滋賀県立琵琶湖博物館がある。
草津水生植物公園には三度ほど行った事がある。初めて訪れた時は、娘たちも一緒だった。入口で「ウーパールーパー」がお出迎え。上の娘が幼かった頃に、一躍人気者になった水生生物だ。これを見ると、なぜか、Jリーグの選手だった北沢を思い出す。おそらくこれもテレビの影響だと思うが・・上の娘は幼い記憶に重ねて、嬉しそうに見ていた。温室の中に入ると、亜熱帯・熱帯の植物が所狭しと植えられている。その先には、大きな花蓮の池。色とりどりの蓮の花が咲いていて美しい。パンフレットで見る「オオバス」は外の池にあった。ここまででも十分特徴的だが、春先になると、一足早いチューリップを楽しむことができる。夏あたりから球根を冷蔵し、一足早く目覚めさせて開花させたものだ。アイスチューリップと聞いた。ちょっと自然の摂理とはずれていて、どうかなと思うこともあるが、まあ、花の少ない時期に目を楽しませてくれるのはありがたい。
隣には、琵琶湖博物館。ここは、妻が、県政モニターをやっていることで毎年無料招待券をいただいているので、年に1回程度訪れる。初めて行った時は、まあ、こんなもんかという感じだったが、その後、大幅リニューアルが成されて、琵琶湖を巡る歴史的な展示が充実した事でぐっと魅力が増している。知らなかった琵琶湖を巡る人々の営みを知ることは、郷土愛をはぐくむには良い教材だと思う。県内の様々なところの展示が集められているので、意外に楽しめる。
今回のてくてく旅は、そういうところによる時間はないので、入口辺りで写真を撮ってすぐに出発した。
博物館の前の信号を過ぎて暫くすると、津田江閘門に着く。
ここは、草津市の水害防止に欠かせぬ場所。実は、琵琶湖の周囲、特に東側は、内湖の干拓でできた土地が多く、川や琵琶湖の水位より低い地域が広がっている。降雨量によって、排水しなければならない地域も多く、排水機能を持った水門は命を守る重要な役目だ。これまで回って来た道程にも、数えきれないほどあった。しかし、琵琶湖周辺の地域は、それ程、危険なところに住んでいる事を忘れてしまうほど穏やかなところである。
水門を過ぎると、琵琶湖側には大樹が並んで湖面が確認できないほどなのだが、反対側の「津田江内湖」が良く見える。ここは、バスフィッシングが盛んな場所らしい。
ここからしばらく、緑地公園が続く道を歩くことになる。
途中途中、緑地に入り込んで歩いてみる。木々が少なく、開けた緑地で足元も良く歩くには良い場所だった。今は冬なので木々の葉も少ないが、春から夏にかけて葉が茂ると、木陰で休むこともできるかもしれない。
さざなみ街道に戻ると、東側に池のような場所が見えた。
平湖という内湖だった。地図を見ると、その隣には、柳平湖がある。初めはもっと広い内湖だったのかもしれない。
先へ進む。ここから暫く、田んぼと湖の間をさざなみ街道が続いているエリアになる。
目の前に、ビニールハウスが並んでいた。
メロン栽培のハウスらしい。そう言えば、さざなみ街道と平行(?)するような形で、「メロン街道」という名の道路があった。何故、「メロン街道」なのか、その時は判らなかったが、ようやく合点がいった。

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8日目⑤急がば回れ [琵琶湖てくてく物語]

そこを過ぎると、目の前に異様な建物が見えた。
広大な土地の中に、円形の建物や傾斜屋根の競技場のような建物、綺麗に整備された庭や植え込みがある。「岡田茂吉研究所」の文字が門に掲げられていた。
岡田茂吉が如何なる人かはまったく知らなかったが、MOAと聞き理解した。
昔、自然農法を推進する団体に「MOA」という名前を聞いたことがあり、農業の手法というよりも、ある種信仰に近い考え方であったのを思い出した。
ネットで検索すると、ここの施設は、異様な宗教法人であることを強く訴えている記事があった。さらに、この宗教法人は、岡田茂吉とはほとんど絶縁状態になっているとも書かれていた。
私自身、そうした新興宗教のようなものには直接触れた事はないので、評論できる資格はないと思っている。ただ、自らを神、あるいは神の申し子と称して、人の弱みに付け込んで私利私欲に走り、大きな財を成しているようなところは、この社会から抹殺してもらいたいと思っている。
ここの「岡田茂吉研究所」がどういう団体かは知らないし、知ろうとも思わない。ただ、これだけの建物と敷地を持つということは、かなりの財力と維持するための費用が必要であり、そのためにどういう事業収入があるのかを想像すると、とても、まっとうなものとは言い難いと思う。この施設があることによって、暮らしを脅かされる人がいるなら、悪としか言いようがないと思うのだが・・。
私の祖母も一時、ある宗教団体の会員になったことがある。義祖父が病に倒れたのがきっかけだった。学びと修行を積むことで家から不幸を追い出せると言い出し、創始者の著作物を買い込み、毎週のように集会へ行き、挙句の果てに孫である私までも巻き込もうとした。見かねた両親が祖母と絶縁し、初めに、誘った知人を訴えたらしい。その後、祖母は改心し、あれだけのめり込んでいた団体を信者だと判ると徹底的に説得して脱会させていた。その団体は今でも存在し、政治の世界でも幅を利かせているのが不思議だ。政教分離をもっと明確にやるべきだと思う。
いや、むしろ、政治と宗教は持ちつ持たれつの関係なのかもしれない。そういう構図を信奉する政治家たちには早く退場してもらいたいものだ。
こういう話は気が滅入るのでこの辺りで止めておきたい。
そこを過ぎると、矢橋帰帆島に入る。
名前の由来は、白い帆を広げた船が琵琶湖に浮かび、矢橋港に近づき帆をたたむ。その情景「矢橋帰帆」が近江八景として名づけられたようだ。
もともとは、矢橋港があった場所を埋め立てて、人工島としたようだ。
「急がば回れ」の諺の語源ともなった場所。室町時代の連歌師・宗長の歌「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋(唐橋)」からきているとか。
それほどに、この矢橋、いや琵琶湖は、水上交通が盛んでありながら、冬の北西風(比叡山からの吹き下ろし、比良山の吹き下ろし等)が強くて、当時の帆船では、転覆の危険性が高かったということらしい。
夏場も、琵琶湖では、朝・夕には強い風が吹く。静かだと思っても、場所によっては高い波も立つ。厄介なのは、海と違って、波の方向がバラバラだということ。海は基本的に波が沖から海岸に向かって寄せる。ぐるりと岸が囲む湖の場合、どこから波が来るかは予測がつかない。
実際、カヌー遊びをしている小生も、家の前の「萩の浜」に波がなくても、少し南の大溝港前で強い横波をうけたり、白髭神社辺りでは比良山周辺の風が巻いて強い波を受けた事もある。普段は凪状態の湖も一度波が立ち始めるとなかなか収まらない。
おそらく、室町時代の帆船を操っていた人々も波を読むのには苦労したに違いないと思う。だからこそ、船が出るのを待っているより、瀬田の唐橋を回る方が確実に京へ向えたのだ。

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