SSブログ

3日目⑦長浜の街 [琵琶湖てくてく物語]

豊公園の長浜城まであと僅かのところまで来た。
いよいよゴールが近い。
カーブを曲がると、長浜城。そしてその右手に「長浜ホテル」が見える。
「あそこに泊ったわよね。」
妻が思い出したように言った。
そう、初めて滋賀県に来た時、あのホテルに宿泊した。
どんなところだったか、妻も私もまったく記憶にない。
まあ、記憶にないということは、それなりに良かったということだろう。
子どもたちが大きくなり手が掛からなくなると、夫婦で旅をした。毎月とまではいかなかったが、季節の度くらいの頻度で旅をした。豊橋に住んでいたので、関東から信州、近畿北陸はほぼ1泊のエリアだった。じゃらんの記録にはかなりの数のホテル・旅館が登録されている。今は、自分で記録しなくてもちゃんと記録されているので便利だ。
だが、妻と私は旅の目的が違う。
私は、その地の名所や旧跡を回るのが目的だが、妻は、温泉と上げ膳据え膳でゆっくり休むのが目的。当然、タイムスケジュールには苦労する。早めに宿に着くことが必須条件。名所旧跡に留まる時間は最小限にならざるを得ない。
長浜に初めて来た時は、黒壁スクエアと竹生島がメインだった。下調べはしていたが、黒壁スクエアでガラス工房の体験に予想以上に時間を費やしてちょっとハードなスケジュールになったことは覚えている。
そんな思い出話をしていると、左手に、立派なホテルがあった。「浜湖月」。本格的な温泉料理旅館のようだ。すぐに、じゃらんで検索すると、クチコミ4.6。全てにおいて満足度が高いようだ。料金プランも、なかなか。ハイクラスのようだ。
ところで、旅行の宿泊場所を選ぶ際、どんな基準や価値観が妥当なのか。ひと時代前は、こんなネット検索でさっと評価や料金、評判など知ることはなかった。だから、旅行会社に足を運び、納得の上で予約した。それでも、がっかりすることも少なくなかった。
妻は最近ほとんどネットのクチコミを基準にしている。[☆]の比較とか、書き込みをじっくり読んで、いくつか気に入ったところを提示してくる。
私は、それほど宿泊場所にはこだわらない。ただ、料金だけは気になる。バリバリに働いていた頃でも、まあ、1泊2食で一人2万円くらいまでが妥当だろうと思っている。それなりのところが見つかる。
一度、函館に旅行した時、1泊朝食付で一人5万円近いところに泊ったことがある。確かに豪華で至れり尽くせりではあったし、料金に見合ったものだとも思った。だが、何か凄い無駄遣いをしているような、背徳感すら感じてしまったのだ。それ以来、余り高級なところは対象にしないことにしている。
それにしても、クチコミ評価を読むと、酷いものも少なくない。勿論、それなりに問題もあったのだろうが、自分で選んだ結果なのだから、悪い書き込みは自虐的にも見えてしまって、なんだかなあ、とも思う時がある。悪評を増やして、仕返しでもしてやったと言わんばかりのものもある。もし、不満があるなら、直接、その場で言えばいいのではないのか。以前、あるホテルで夕食の献立表に書かれた料理が1品足りないことがあった。何かの手違いだったのだろう。仲居さんに言うと、女将がすぐにやってきて謝罪をしてくれた。そんな遣り取りすら想い出の一つになる。旅先での人とのふれあいは至極愉快だ。そういうチャンスを得ず、酷評を書き込むのは如何か・・自分が満足すればそれでよいと思うのだが・・。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

3日目⑧3日目終了 [琵琶湖てくてく物語]

豊公園に到着した。
最初、ここは「ゆたかこうえん」だと思っていたが、正しくは「ほうこうえん」。何故だかしっくりしないのは私だけだろうか・・。
太閤秀吉が初めて城主となった場所である。
今は、梅や桜の花が美しい市民の憩いの場所で、城は昭和に復元されたようで、名古屋城のように内部にはエレベーターもある博物館。歴史的な価値はないだろうが、そこからの景色は素晴らしいと聞いた。
お城は好きだが、こんなふうに復元されたところは余り好きになれない。むしろ、城址のままの方が良かったのではと思うくらいだ。
豊公園の周囲は埋め立てられ、幹線道路が走り、昔の面影を探すのが難しい。
もともと、長浜城は湖に突き出した形で建てられた「水城」で、琵琶湖の水運を手中にしようという秀吉の執念が作らせた城。軍港が隣接し、船を使って大津・京都へ向かうには格好の場所だったに違いない。そういう歴史的な意味合いを今感じることはできないのが残念でならない。
そう言えば、名古屋城は、全面的に建て替え、江戸期の木造にする計画があったがどうなったのだろう。大変な税金が投入されるようだが、そこまでこだわる必要があるのだろうか。「観光資源」としての活用が前面に出過ぎてしまうと興ざめだ。
一方で、地震で甚大な被害を受けた「熊本城」は、歴史的価値を重視して完全復元のために30年を費やして取り組まれている。私が生きているうちに完全な姿は拝めないが、復元のために一生懸命努力している方々には敬意を表したい。同じように大金を使うとしても、未来価値は大きく違ってくると思う。

ようやく、3日目のてくてく旅が終了した。あとは、豊公園から長浜駅へ向かい、JR北陸線で、木之本へ戻るだけ。
次の出発地は、豊公園からと決めた。
長浜駅は目の前。大通りの横断歩道を渡るとすぐに駅西口である。
以前に、長浜市街地をてくてくした時に立ち寄った。「長浜鉄道スクエア」の向かいには「慶雲館」、「長濱浪漫ビール」等もあり、ちょっと風情のある街並みになっていて面白かった。少し足を延ばすと、「黒壁スクエア」もある。長浜市街はてくてくするには格好の場所だと思う。
駅に到着。
長浜駅は、鉄道の歴史の中でかなり重要な場所。明治15年に開業し、米原駅ができるまでの間、北陸地域と関西・東海を繋ぐ場所で、当時の駅舎が、隣地に「長浜鉄道スクエア」という名で資料館として現存している。
もう一つ、えきまちテラス長浜にある「QUONチョコレート」を紹介しておきたい。かなり高級なチョコレートで、手軽に買える様なものではないのだが、ちょっと御縁がある。
「障がい者がショコラティエとして、かっこよく社会の中で育ち輝き続け、チョコレートを手に取る人々にロマンを与え、豊かで明るい未来づくりにこだわっています。」という言葉にいたく感動し、その創業は、なじみのある豊橋市花園商店街にあった小さなパン屋。創業当時、何度か、パンを買いに行った事があったが、時間とともに大きく成長し全国展開するほどになったことにいたく感動した。
さて、本日の結果は、35,444歩。24㎞。
結果的に、3日間で最も短い距離になったのだが、とても長かったように感じた。
雨の中の出発、予定していた昼食が取れなかった事や、湖岸の単調な道程、ちょっと今回はきつかった。特に、雨はてくてく歩くには厳しい。寒さ以上に、精神的ダメージが大きいことを身をもって感じた。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、①長浜から彦根を目指す [琵琶湖てくてく物語]

2020年2月1日、4日目は、長浜・豊公園を出発して、彦根を目指す道程。
9時過ぎに自宅を出て、北回りで長浜へ。豊公園の駐車場に車を停めて出発したのが10時30分。やや遅い出発になった。
天気は少し曇り空。(この季節、こういう天気がほとんど)
湖岸道路の歩道を歩いていくと、前方に「大仏」が見える。
琵琶湖を背にして立っていらっしゃる。ちょっと寄り道(妻がトイレを拝借)。
この大仏は見るからに古いものではない。以前はコンクリート製だったようだが、老朽化し平成になって建て直されたとの事。琵琶湖に向かってではなく、背を向けているのは街を見守っているからだろう。有難いことだ。
そう言えば、マキノ・小荒路にある長善禅寺にある、黄金色に輝く「大観音像」は山に向かって立っている。
「なんで、あんな方向を向いているの?」
小荒路を通るたびに、妻が訊いてくる。
「知らんわ!大仏様に聞いてくれ!」と心の中で呟いている。
以前に、小荒路あたりも散策したが、結局、理由は判らなかった。
長善禅寺には、ありとあらゆる仏像が並んでいて「仏像の見本市」なので、どちらを向いているかはあまり問題ではないのかもしれない。だが、幹線道路から見ると、お尻が見える格好なので、ちょっとおかしい。
前回通った、木之本町にある木之本地蔵院の地蔵像は、寺の奥から街を見下ろす格好で立っている。駅を降りて寺へ向かう参道から山門をくぐると像が目に入る。至極スタンダードな感じ。
シンボルと言える大仏と言えば、鎌倉・高徳院の大仏座像。
門を入ると目に飛び込んでくる。やはり、そういうイメージが強いので、背を向けている像を見るとちょっと驚く。
いろんな仏像・大仏があるものだ。

ここを過ぎると、市街地から離れていく。
長浜新川を越えると暫くは、水田と道路と湖という景色が続く。
湖岸に墓地がある。いつだったか、秋にここを通った時、墓地の周りに彼岸花が群生していた。駐車場に車を入れて彼岸花を見ながら昼食を取ったのを思い出した。彼岸花は今でも好きだ。ちょっと前には、彼岸花の群生があると聞けば探しに行ったくらいだ。(彼岸花の事は以前にも書いたのでこれくらいにしておく)

前方左側に、長浜バイオ大学が見えてきた。
その先には、長浜バイオ大学ドーム。
移住先を探しに滋賀へ来た時、米原ジャンクションから北陸道に入り、トンネルを越えたところで琵琶湖が見えるが、その時、必ずこの「長浜ドーム」が目に入る。周囲の風景とあまりに違和感があり、印象的だった。まだ、入ったことはない。近くで見ると予想以上に大きかった。
ここを過ぎると、米原市に入った。
私の頭の中の地図では、米原市というのは伊吹山の麓というイメージだった。琵琶湖に面しているのを今回歩いてみて初めて知った。GooglMapで調べてみると、伊吹山の山頂は米原市でそこから北の山並も含んでいる。そして、琵琶湖岸までずいぶんいびつな形をしていた。そして、米原市役所は南東のはずれにあるのが判った。
醒ヶ井宿も、ローザンベリー多和田も、伊吹山ゴンドラも、伊吹薬草の里も、米原市。これまで何度か訪れた事のある場所の多くが米原市だったことに気付いた。恐るべし米原市。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、②世継から入江へ [琵琶湖てくてく物語]

しばらく行くと、「道の駅近江母の郷」があった。ここで小休止。
ここは道の駅にしては、静かだ。その理由は、駐車場の位置だと思う。たいていの道の駅は、道路に面して広い駐車場があって、奥に農産物や土産物の直売所などの建物がある。ここは、広い駐車場が建物の奥になっていて、入口の駐車場は狭い。
入口には、「近江母の里文化センター」のモニュメントが立っていることからも、道の駅は後付けなのだろうと推察する。文化センターのため、広い公園(緑地)があり、静かに休憩するにはいい場所だと思う。
入口にある農産物直売所「さざなみ」に入ってみた。
ここで、干し柿を買った。干し柿は滋養豊富な食品と子どもの頃から教えられていたので、疲れた体には良いだろうと買った次第だ。
干し柿は各地の名産品となっているが、米原市では日光地区で「あまんぼう」と呼ばれ、伊吹山から吹き下ろす風で飛び切りのものができるそうだ。
一昨年から、我が家でも、干し柿づくりをしている。高島市今津町周辺は渋柿の産地で、一袋30個程度は言ったものが1000円で売られている。それを購入して、皮を剥き、紐に縛って干す。1年目は1袋にしたが、うまく出来たので、昨年は3袋購入した。それで軒先に吊るしていた。
或る夜、外でごとごと音がした。不審に思ってカーテンを開けると黒い影。すぐに外に出ると、縞々のしっぽの犬くらいの大きさの動物が2匹いた。私たちがテラスに出ると、その2匹も一瞬動きを止めた。数秒間、にらみ合いとなる。
アライグマだった。
器用にテーブルに乗って、天戸枠を使い、干し柿に手を掛けている。
ワーッと叫ぶと、バタバタと逃げて行った。
その後干し柿を見ると、5個ほどへただけが残った状態になっていた。その日から、室内に入れて干すことにしたが、うまく出来なかった。後日談ではあるが、よく見ると、庭にある柿の木の実もかなりの数齧られていた。一度食べ物のありかを知ると何度も寄ってくるらしい。何とか、退治しないといけない。
妻は、アライグマに干し柿を取られたことがよほどショックだったのか、今でも、夜に外で物音がするとカーテンを開けてみる。食い物の恨みは恐ろしい。

話が脱線した。

昼前なのでもう少し進むことにする。
米原市世継集落に入る。
ここは「世継のかなぼう」が有名なところ。「かなぼう」とは、湧水のこと。
地図を見ると、「世継温泉」と書いてある。だが、温泉ではないので入浴施設等はない。「霊仙山からの湧水」とあり、鉄分がひと際多い、鉱冷泉である。集落の中に5カ所あるという看板があるが、今回は寄らずに通過する。
そう言えば、高島市も針江地区では湧水が多く、「かばた」を持つ家も多く、水との共生文化がある。他にも、市内のあちこちに用水路や湧水があるが、あちこちで「茶褐色」の汚れ(付着物)を見ることがある。
特に、冬場に活躍する「融雪設備」の吹き出し箇所は、茶褐色になっている。琵琶湖周辺の湧水は鉄分が多いのが特徴かもしれない。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、③彦根に入る [琵琶湖てくてく物語]

天野川を越えて、朝妻地区へ入る。湖岸が整備されて綺麗だった。
少し北西風が強くなる。
緑地が無くなって、湖岸の岸壁に波が打ち付ける。前方を見ると、歩道が濡れている。どんどん波が高くなっていくようで、時折、打ち付けた波が砕けて風に乗って、水滴が雨のように降ってくる。
冬場に、北西風が強く吹くのは当然だが、高島に住んでいると、北西風は陸地から琵琶湖へ向かうため、波が岸辺に打ち付けることはない。高い波を見ることは少ない。ここはその逆だ。琵琶湖を渡る北西風が波を起こし、岸に打ち付ける。東と西では同じ季節でも感じ方は大いに違う。残念なことに、北西風のせいで、湖面を漂うゴミが岸辺に寄ってきて景観を損ねている。特に、この周辺は遮るものがないので、ゴミが漂い集まってくるのがよく判る。
滋賀県民は、琵琶湖をマザーレイクと呼んで大切にしているようなので、こうしたごみの類は、おそらく観光客が出したものだと思う。
高島にも湖岸に幾つもキャンプ場があり、夏だけでなく年間通じて開いているキャンプ場もある。こうしたところで出るごみが湖面を漂ってくるに違いない。
実際、私の住んでいる地区では、土日キャンプ客が多い時は、月曜日の朝、地区のゴミ集積場に不法投棄が絶えない。分別されていないゴミ、キャンプで使用した調理器具の廃棄、中身が残ったままの飲料のペットや缶類が放置される。道路にもこうした者が転がっていることが少なくない。勿論、大半の観光客・キャンプ客はきちんとごみを処理しているのだと思うが、一部の心ない輩によって、こうした事態を招いている。161バイパスを走っていても、タバコのポイ捨てとか、ゴミの放り投げ等を見かけることはある。マナーの悪い人間が少なからずいるのは明らか。
昔は、若者がと言われてきたが、そんなことはない。先日見かけたのは、シルバーマークを貼った軽トラックの高齢者ドライバー。コンビニで缶ビールを買い込み、軽トラに乗り込むといきなり缶を開けて飲み始め、空き缶をポイとその場に捨てて走り去った。飲酒運転とゴミの不法投棄。おそらく彼には日常的なことなのだろうと思われた。マナー・ルール違反は、世代とは関係ない。つまらない話になってしまった。
風に舞う水しぶきから逃げるように歩みを進める。
入江橋を越える。
ここに「干拓資料館」がある。
古地図を見ると、ここにはかつて「入江湖」という内湖があり、南側の彦根城近くにも「松原湖」という内湖があったことが判る。
「入江湖」はこの入江橋から米原駅までの広い範囲であったようだ。東海道線が大きく湾曲し山側に向かっているのは、鉄道が敷かれた当時、まだ、入江湖があったことを示している。昭和の干拓事業で入江湖は全て埋まり、広大な農地になったという。干拓事業の最中、この「入江湖」周辺には縄文時代から平安時代までの遺跡・遺物が出土したとあり、水辺の恵みで豊かだったことが想像できる。入江湖だったところが判るのは、入江地区をぐるりと取り巻くように流れている水路である。水路の内側が全て干拓されたエリア。低地のため、水路にはあちこちに揚水場(機)が設置されている。
歩いてみて初めて判ることは多い。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、④幻の松原内湖 [琵琶湖てくてく物語]

前方に大きな建物が見えた。
「エクシヴ琵琶湖」だ。この建物は、対岸の高島からも良く見える。
通り過ぎてしばらく行くと信号。県道2号(さざなみ街道)はここからいったん琵琶湖を離れるので、信号から右手の道に入る。
民家の中を進むと、悠々の館(老人ホーム)。さざなみ街道から一本入ると静かだ。小さな漁港を通り過ぎる。前方に山影が見えてきた。
再び、さざなみ街道に戻る辺りで、湖に大きな岩が並んでいる。
「烏帽子岩」。夕日がきれいな景勝地らしい。道路の反対側に「磯崎神社」がある。日本武尊が亡くなった地と伝承されている。日本武尊の伝承は日本各地にあるが、滋賀県では、伊吹山の神を討伐する際、毒に侵され、醒ヶ井の清水で正気を取り戻したのち、この地で亡くなったとされている。
そろそろ昼を過ぎていて、お腹も空いてきた。磯崎を回り、少し行ったところでついに彦根市へ入る。
COCO’Sの看板を見つけたので、入ってみる。
だが、ちょっと予想と違う。中に入ると、右手に大きな建物。看板には「ミシガン州立大学連合日本センター」とある。奥の方に、COCO’Sの建物が見えた。ちょっと気後れしてしまって、そのまま出てきた。
もうちょっと歩いてみる。前方に、セブンイレブンの看板を見つけた。トイレを拝借し、昼食を購入。日差しもあるので、湖岸で食べることにした。
ちょうど、脇道のように湖岸に沿った道がある。
セブンイレブンで買ったおにぎりをもって、湖岸に座って食べる。振り返ると「つるつる」という麺屋さんがあって、客席から見られていた。まあ、いい。
食べ終えて、再び歩きだす。
湖岸沿いの道には、松が植わっていた。北西風が強いところなので、防風・防砂の役割を持っていると思う。
米原市入江地区を歩いているところでも書いたが、この辺りも、昔は「松原内湖」があった場所だ。今いる場所は、琵琶湖と内湖を隔てる砂州だったところだ。
彦根城天守内に公開されている「彦根城郭旧観図」を見ると、今の彦根城の北側と西側にかけては琵琶湖の内湖(松原湖)が広がっていて、その北にある入江湖とも繋がっていたようだ。長浜城から彦根城までの間は内湖で繋がっていたと言ってもおかしくない。
城下町も湿地帯を埋め立てて整備されたようで、彦根はほとんどが中世の計画都市だったと言える。
飛鳥の時代から都市整備と政権は密接な関係にある。平城京・平安京、鎌倉、そして、安土、江戸。新たな時代には新たな都市がそれを担う構図がよく判る。
東京(江戸)開発はその究極なのかもしれないが、全国各地で同じように都市開発が進んだ理由を探るのは、歴史的な研究ポイントかもしれない。
武将は、戦の力ではなく、「都市開発力」の方が重要だったとも思うし、優秀な戦略家や軍司は、土木知識に長けていたのかもしれない。都市開発の視点で歴史を見ていくのも面白いだろう。

歩きながら、そんな話をしていた。
その先には「お浜御殿」があった。道路からはそれが何か判るものではない。ただ、大きな森が続いているだけ。調べてみると、彦根藩11代当主によって造営された屋敷らしい。文化7年というから、江戸末期に近い。お殿様の別荘の一つということか。
そのまままっすぐ進むと、彦根港である。途中で左折し、ふたたび、さざなみ街道へ戻る。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、⑤彦根郊外 [琵琶湖てくてく物語]

遠くに、彦根城が見えた。
彦根城は、毎年訪れている。
初めて行ったのは、「ひこにゃん」というキャラクターがいると知ってからの家族旅行だった。残念ながらその時は逢えず仕舞いだった。
二度目に夫婦で行った時は、平日は、ひこにゃんはお城にはいないと聞いた。残念に思いながら、彦根城の京橋口御門前から延びる「夢京橋キャッスルロード」にはずれにある「四番街スクエア」で土産物など選んでいたら、ひこにゃんが登場すると聞き、すぐに行ってみた。まあ、よくあるご当地キャラクターだろうと思っていたが、意外にも面白い。
進行役のお姉さんとの掛け合いも絶妙で、まったりした間合いと少ない動作で、引き込まれてしまった。妻は、最初から最後までひこにゃんが動くたびに、後をついて歩き、かなりの量の写真を撮っていた。もうすっかり虜になったようだった。
それからは毎年、思いつくと彦根城へ、いや、ひこにゃんに逢いに行くようになった。昨年は、年賀状を送ると返信があって、彦根城の無料券がもらえると聞いて、年賀状を出した。約束通り、返信が届き、4月の桜満開の彦根城へ行った。平日だったので、無理かなと思いつつ、彦根城を散策し、帰ろうと思った時に、博物館前に登場すると聞きさっそく並んだ。ウーム、やはりかわいい。
今、ご当地キャラクターは相当の数に上るだろう。
「くまもん」が大きな経済効果を引き出したことが影響して、全国でご当地キャラクター育成の機運を高めている。
数年前、豊橋市で、キャラクター集合のイベントがあった。豊橋のキャラクターは「とよっきー」赤い顔をした鬼のようなトラクターの様な正体不明のキャラクターだ。お世辞にも可愛いとは言い難い。
全国からたくさんのキャラクターが集まっていたが、その時はさほど関心はなかった。それより、AKBがやってくるということで豊橋運動公園には大勢の観客が居た。
時代の移り変わりの中で、人気アイドルはどんどん世代交代していくが、ご当地キャラクターは長く愛される存在に違いない。
最近は、KHNでも「チコちゃん」が予想以上に人気を博しているようだ。かくいう我が家も毎週録画して楽しんでいる。

さて、当初ゴール地点に設定した地点に到達した。
ここで終了にしても良いのだが、まだ時間は早いので、もう少し進むことにした。
彦根城の手前の信号を右折して、湖岸へ向かう。
CAINZを左に見ながら、道なりに進むと湖岸に出た。交通量が多いのに、ちょっとげんなりしながら、どうにか湖岸を歩く。
CAINZ&Beisiaは余りなじみがない。豊橋に居た頃、隣の蒲郡にあったが、そこまで行くほどの魅力を感じなかった。不慣れなこともあるだろうが、なにか、無駄買いをしそうで足が向かなかった。
そこを過ぎて、湖岸を行く。
芹川にかかる、下芹橋に到着した。
芹川は、彦根城築城に合わせて付け替えられた川で、外堀の役目を担ったと思われる。芹川より北は城下である。川の付け替えという荒業は、現在の日本では難しいだろう。
築城当時、周囲が未開発だった事や、強大な権力で大勢の人躯を確保できたことなどの背景を考えると、まさに、戦国自体から江戸時代初めは、かつてない経済発展の時期だったともいえるのではないだろうか。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、⑥庄堺公園 [琵琶湖てくてく物語]

更に湖岸を進んで、八坂町に入る。
この近くに毎年、5月と11月に訪れる『庄堺公園』がある。
今は冬なので立ち寄ることはない。『庄堺公園』を訪れるのは、バラを見るためだ。ここには、1000株を超えるバラ園がある。さほど広くはないが、よく手入れされていて、多様なバラを愉しむことができる。訪れる時は必ずお弁当を持っていく。季節もいいし、のんびりできる芝生広場もある。無料で利用できるのは何より。このバラ園で必見なのは、クイーンエリザベスというバラだ(たぶん)。特別な品種というわけではなく、園芸店やコメリでも売っている品種だ。だが、このバラ園では、クイーンエリザベスをバラ園の一番外側に植えていて、なおかつ、背を高く生育させている。2mほどもあるバラが、ぐるっと並んでいて、香りも強く、美しい。バラに詳しい人にとってはそれほど価値はないのかもしれないが、一般人には十分すぎる迫力がある。奥の壁にはわせた白いバラも美しい。多様なバラをゆっくり眺めるのは至福のひと時である。

今、自分の家でも庭づくりをしている。
「豊橋に居た頃は、近くに公園が多かったし、花の多い庭もあちこちにあったのに、高島には公園がないね。」
移住した頃、妻が呟いたことがある。田舎町で自然豊かな中に暮らしているためなのか、確かに、公園は少ないし、広い庭のある家でも、意外に花づくりをしている人は少ないように思う。
「じゃあ、バラ園でも作ろうか?」
何気なく言った一言が全ての始まりだった。
隣地を購入して、庭だけで約100坪ほどの敷地にした。果樹・花・バラ・畑などの骨格は出来ているが、まだまだ。
実は、この庄堺公園のバラ園を見て、バラ園にしようと決心した。
今のところ、バラは10種ほどでまだまだ小さい。
果樹も、梅・杏・サクランボ・アーモンド・桃・りんご等を植えたが、あと10年くらいはみすぼらしいままになるかもしれない。草花も植えた。
出来るだけお金をかけないで、自分のできることはやろうと決めたので、中々捗らない。仕事をしながらというのは厳しいと実感している。
妻も手伝っているのだが、やはり、体力的にかなり厳しい。100坪あると、草取りだけでも体力がいる。夏場は熱中症の心配もあって長時間は出来ないし、冬は降雪で作業もままならない。そんなことを言い訳にしながら、のんびりと進めている。
先般、雑誌を見ていたら、「高齢になったら庭もダウンサイジング」という見出しがあった。広い庭を管理するのは時間だけでなく、体力も必要だからだと・・なるほど一理ある。だからと言って、着手したものを放り出すわけにもいかない。以前のような荒地にしておくのももったいない。とにかく、庭らしくしなければならない。
そこで、近々、物置小屋を作ることにした。
素敵な庭の必須アイテムとして、ガーデンハウスを作りたいと思ったからだ。だが、それほどお金は掛けられない。妻にも「小さな物置小屋を作りたい。作業道具や大型品を収納する場所だから」と何とか説得した。
設計と建築は、知り合いの業者に依頼したら、「キットがあるから、自分で作ってみらどうですか?」とも言われた。だが、そのための道具一式をそろえるとなると痛い出費になるし、次にいつ使うかと考えると途轍もなく無駄な買い物になりそうだった。なにより、いつになったら完成するかも判らないので、依頼することに決めた。
その小屋と釣り合いの取れる様な庭造りを完遂するのが今の目標である。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、⑦南彦根駅へ向かう [琵琶湖てくてく物語]

「庭が出来上がるまで生きてるかしら?」
妻は時々嫌味な事を言う。
確かに、還暦を過ぎて始めるにはちょっと時間が足りないのかもしれない。
父が亡くなったのは私の今の歳である。先年亡くなった母は、畑に白菜やダイコンを植えて収穫を楽しみにしながらも突然逝った。元気すぎるほどだったが、あっけなかった。
ふと考えた。今まで気づかなかったが、我が一族で、私が一番年長になっていた。順番で言えば、次は自分の番なんだな。
「いつ死ぬかなんて、誰にも判らない。今日かもしれないし、明日かもしれない。案外、100歳まで生きるかも。そんなことを考えていたら、何もできない。そう思うなら、一緒に作業してくれないかな。」
と心の中で呟きながら、妻の嫌味な言葉を笑顔で聞き流している。
庭づくりの方は、また別の機会に書かせていただきたい。

歩みは真っ直ぐだが、話は道を逸れてしまった。
本論に戻る。
前方に高い建物がある。彦根市立病院だ。屋上にヘリポート。立派なランドマークだ。
さて、ここで迷った。
この先、湖岸を進むか、ここをゴールにするか。
このまま行くと、JRの最寄り駅がどんどん遠ざかる。最寄り駅は、南彦根駅、次は川瀬駅だ。後の行程を考えながら、ここをゴールとするか、もう少し進むか。
結局、この犬上川の畔を本日のゴール(次回の出発地)とした。
さあ、駅に向かおう。
ここから、南彦根駅までは一直線の道。くすのき通りというらしい。
彦根市民病院前を通過し、先般書いた、「庄堺公園」の横を通り、とにかく真っ直ぐに進む。閑静な住宅街が続く。戸賀町西の信号までが住宅地だった。
そこを過ぎると、自動車販売店や携帯ショップ、ピザ屋等の店舗が並び始める。道路も片側2車線になり、駅が近い事を教えてくれる。
だが、ここが、実に長かった。店舗が並ぶ通りは退屈しないのだが、何だか進んでいる気にならない。不思議な感覚だった。久しぶりに見る大きな建物のせいなのか、自分の存在が小さく小さく感じた。
高島に移住して、高層階の建物はほとんど見ていなかったせいもあるかもしれないが、大型のショッピングセンターや高層マンションが立ち並ぶような場所にいると、自分が地の底を這っているような感覚になる。
40年ほど前に、山口の田舎(本当に田舎で山一つ越えてようやく小さな町があるようなところで、バスが1日数本程度、鉄道なんてなかったし、集落に一つあったよろずやがライフラインだった。)から名古屋に出た時、名古屋駅前のビル群を見上げて、とんでもない所に来てしまったという思い出がある。人の多さ、車の多さ、鉄道やバスの多さに圧倒され、自分という存在がとてもちっぽけなものに感じた。
琵琶湖を回ってきた中で、初めてというべき「街」についた感じがした。
彦根城や長浜城、安土城など、見上げるような高さの天守閣は、当時の人々にとっては驚くべき存在だったに違いない。そして、それは、城主への畏怖となり服従せざるを得ない環境を作り出したのではないだろうか。
東京のビル群で働くエリートたちも、そういう大きな存在に身を置くことで自分の力を過信するほどの心理的トリックにおどらされていはしまいか。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

4日目、⑧ゴールの南彦根 [琵琶湖てくてく物語]

いよいよ、南彦根駅に着く。
次の行程のために、近隣の駐車場を探す。やはり、無料というわけにはいかないようだ。とりあえず、西口辺りに停められそうな駐車場を見つけた。次はここに車を停める。
それから、出発地点となる、犬上川、彦根市立病院近隣まで行けるバスを探す。駅まで戻る道のりは結構きつかった。出来れば、ここでは楽をしたい。病院へ向かうバス路線はありそうだった。
さて、今回は・・とスマホで確認。
31,553歩、21㎞。
いやはや、前回よりさらに短い距離になってしまった。
理由は明白だった。自宅を出て、歩き始めるまでのタイムロス。高島の自宅から、長浜までは軽く1時間かかる距離。9時に家を出れば、歩き始めは10時過ぎになり、午前中は2時間も歩けない。午後も早めに切り上げないと日暮れになってしまう。ざっと5時間程度しか歩けないことになるのだ。
計画の段階でのミス。冬は日暮れが早い。そんな単純なことを見落としていた。
それでは、南彦根駅でJRに乗り、長浜駅へ向かう。
電車だとあっという間についてしまう距離。
1日かけて苦労して歩いたことが、とてもか空しく感じられて、電車の中で、終始、無言になってしまった。
そんなことは判っていたはずだし、誰かに自慢するために歩いているわけでもない。褒めてもらおうなんて思っていないが、虚しさが広がっていた。
「あれが彦根城?」
唐突に、妻が口を開く。電車の窓の外に、彦根城が見えていた。
堂々とした威厳を感じるほどの城。
南側に城下町が広がり、北側は、松原内湖を持つ。北(越前)から攻めて来ると、水城で鉄壁の守りを誇り、南(京)から見ると、賑やかな城下とその先には広大な農地。そして、その向こうには、安土の山。これほど理想的な場所があるだろうかと思わせてくれる。
明治の初め、廃藩置県で、彦根県から長浜県、そして犬上県(長浜県)と変更された経緯がある。そして、大津県と合併し滋賀県となり、県庁が大津へ統合された。中世に琵琶湖を囲むように存在した「近江」と現在の滋賀県が重なるのも面白い。
「県民気質」という言葉を聞くことがあるが、そうかなと思うこともしばしばある。私自身、山口県民として生まれたが、やはり、県内でも、周防と長門では随分と風習も違う。知らないことも多い。だいたい、作為的に作られた「都道府県」の縛りは余り大した意味はないように思う。ただ、その地域には独特の文化や風習、言葉が存在し、狭い範囲ならば「〇〇気質」というのはおそらく明確に存在するように思う。
滋賀県に来て、特にそれを感じるようになった。琵琶湖を挟んで東西では随分と経済状況に違いがあるし、近隣市町村とのつながりも違う。高島市に住んでいると、嶺南地域は近い。ここ、彦根に来るには、琵琶湖をぐるりと回って約1時間近く。それに比べて、小浜市なら40分程度、京都だって1時間。距離感が全く違う。そういう中で、本当に「滋賀県民気質」というのが存在するとは思い難い。
彦根駅に着くと、大勢の乗客が降りていく。そして、すぐにたくさん乗ってくる。
米原駅を過ぎると、北陸線。田村駅を過ぎ、長浜駅に着いた。
駅から歩いて駐車場へ向かう。今回もいろいろと考えることが多かった。

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

5日目①南彦根をスタート [琵琶湖てくてく物語]

いよいよ行程の半分に到達する段階。
今シーズンの「てくてく」は今回の5日目で前半終了。次は秋までお休み。
気合を入れて行きましょう!

3月1日、前回の反省を踏まえて、少し早めに家を出て、南回りで彦根へ向かう。
南彦根駅に着くまでの車中は、今まで歩いた道を振り返る会話だった。
10時半に南彦根へ着いた。目当ての駐車場に車を停めて、バス停へ向かう。時刻表を見ると、暫く待たないといけない。
「歩けばいいじゃん。」
妻の一言で、駅から歩き始めた。
前回の出発地点まで、Mapを確認すると約4㎞、1時間ほどかかる。
「まあ、いいか。」と歩き始めた。
スーパーや大型店舗が建ち並ぶ通りを過ぎ、住宅街へ。前回は気付かなかったが、通り沿いの家は新旧混在していた。
古めの家屋は門構えが立派で、樹木も植えられていて、小さいながらもしっかりした庭もある。一方、最近建てられた家は、機能性重視なのだろう。コンクリートで固められた敷地にカーポート、小さな花壇程度になっている。
住宅はその時の時代を残すタイムカプセルだ。
自宅周辺の散歩の時も、そうした時代の痕跡を見つけるのが好きである。
戦前から高度経済成長期までの家は、基本的に日本家屋。屋根には瓦が乗り、しっかりした門柱なども設えられていることが多い。だが、高度経済成長期に入ると、住宅不足が顕著になり、短時間で建設し、コストダウンを図ることが重視された家が多くなる。資材も大きく変わる。
60年代から70年代前半には、木造モルタル系の家や、新建材を貼り付けた家、屋根にはカラーベストが乗っている。マイカー時代を反映し、門柱が亡くなりカーポートが顔になっている。
最近は、エネルギー効率を考えた機能的な家が多くなり、大きなリビングを持つために間口の大きな家が多い様に思う。
ごく最近では、「リノベーション」が盛んで、古い日本家屋を改装し、機能性や熱効率も改善した形で、外見の美しさと室内の快適さの両方を満たしている家が増えているように思う。
住宅事業は総合産業と言われるが、なるほどと思うことが多い。その時代の基準やニーズ・技術などを詰め込み、設計する人や建築主の思いが込められている。
一見、ただの住宅地でも、こうした知識を持ってみていくと、その町の雰囲気は違って見えるし、楽しみでもある。
妻と歩きながら、家を見ながら、建てられた時期や住んでいる人の年代などを想像しながらの会話が弾む。
「私の家は、最初は小さな長屋みたいだったわ。部屋が三つ繋がっていて、一番奥に台所とお風呂。繋がった部屋は夜になると、家族6人の布団でいっぱいになった。狭い狭い家だった。姉の机が廊下に置かれていたの。」
不意に、妻が子どもの頃を思い出す。
「僕の家は、田舎の農家だから、土間があって竈があって、部屋は4つで、田の時に並んでいたかな。子ども部屋を増築したのは妹が生まれたあとだったはず。風呂は外で、水道はなかったから井戸水を汲んで五右衛門ぶろに運んだな。学校から帰ると、水を運ぶのが僕の仕事。」
同い年なのに、都会と田舎では住まいは随分違っていて、暮らし方も違うのが面白い。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

5日目②ウソのような宇曽川 [琵琶湖てくてく物語]

1時間ほど歩いてようやく、前回のゴール、今回の出発点に着いた。
さあ、これからが本番。湖岸を進む。犬上川を越えたところで、左手に滋賀県立大学の建物らしきものが遠景に見える。
信号脇にあったコンビニで昼飯を調達。コンビニの入り口わきに、ベンチが置かれていたので、そこで昼食とした。
ビワイチのサイクリストたちのための、サイクルスタンドもあった。昼食を取り始めたら、ビワイチの二人連れがコンビニへ入り、同じように昼食休憩をするようだった。
ヘルメットとサングラスを取ると、二人とも「外人」さんだった。
そう言えば、自宅の前の湖周道路を走り抜けていくビワイチのサイクリストたちには、いろんな人がいる。若い男女二人とか、家族という方も見るのだが、圧倒的に「ひとり」が多いように思う。
明らかに外国人と判る人も多い。外国からビワイチのために日本に来たとは思い難いが、彼らにはこの琵琶湖はどのように見えているのだろう。
何か機会があれば聞いてみたいと思う。
さて、昼食を終えて、いよいよ午後。これから4時間くらいは歩けるだろうか?
さざなみ街道は少し右にカーブして、湖岸沿いとなり、八坂町を通り抜ける。綺麗に区画された住宅地からして、ここもきっと埋め立て地ではないかと思いながら歩いていると、橋の奥に「矢坂港跡」があった。
Mapを見ると、その先にある「宇曽川」から分岐した水路があり、八坂港跡に続いていた。宇曽川と水路が囲む半円状の土地は紛れもなく干拓のあとに違いない。宇曽川の上流には「野田沼」があるのを見ると確実だと思う。おそらく、松原内湖と同時期、昭和の干拓だと思うが、琵琶湖東岸は、かなりの範囲で干拓・埋め立てされているのが明白だ。
寛永年間の近江国図を見ると、前方に見える荒神山や安土山、近江八幡の奥津山などが島だった様に描かれている。東海道本線より西側は、葦が茂る湿地・沼地だったと思われる。湖岸にある集落はおそらく砂州上に形成された漁村の名残なのかもしれない。
先を急ごうとした時、妻がまた呟いた。
「ねえ、あれって、沖の白石?」
随分前から見えていたのだが、ここでようやく気づいたようだった。
湖岸から西、対岸に目をやると、湖面から二つ岩が飛び出している。
「ああ、沖の白石だね。その向こうが高島だと思うよ。」
安曇川の河口の先をまっすぐ彦根を見た時に見えたはずだが、気づかなかった。こちらからの方がよく見える。
「じゃあ、あれは?」
少し右手を指さす。
「多景島だね。ちょっと見てみようか。」
私たち夫婦は、出かける時必ず小さな双眼鏡を持っている。昔からの習慣だ。二人とも視力は良かったので、展望台とかちょっとした高台などに行くと、周囲の風景に目を凝らして、知っている物がないかを探す癖がある。今回も、リュックサックには双眼鏡がある。立ち止まり、取り出して、ピントを合わせる。小さな双眼鏡で8倍程度。そんなに遠くのものを識別できるものではない。じっと、多景島を見る。
横に長い小さな島。左手に尖がった塔、右手に大きな岩が見える。なんでも、島全体は見塔寺の敷地で、塔は「誓いの御柱」大きな岩は「題目岩」というらしい。
「知り合いに、多景子さんっていう人が居るけど、きっとあの島の名からとったのね。」
「へえ、じゃあ竹生島から竹生(たけお)という人もいるかもね。」
何だか、暢気な会話をしている。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

5日目③荒神山と沼 [琵琶湖てくてく物語]

暢気な会話をしながらも先へ進む。
八坂町南の信号で右へ分岐して、出来るだけ湖岸に近いところを歩く。
須越町内へ入った。宇曽川の河口部、磯田漁港がある。
左前方には荒神山が見えている。
山頂には、荒神山神社や荒神山城跡がある。何でも、奈良時代に行基が三方大荒神を祀ったことで名がついたとされているそうな。
それよりも、山の南側に、県内第2の規模を誇る「前方後円墳」があるのが興味深い。古く弥生時代からこの周辺には大きな集落が存在していた証であり、前方後円墳を作れるほど、豊かな土地であった証拠とも言えることだ。
そして、その麓には曽根沼(内湖)がある。昭和の干拓事業で元の大きさの五分の一まで狭くなったらしい。以前に一度訪れた事があるが、沼の畔は公園になっていて、キャンプをしている様子もあった。静かなところだったのを覚えている。
さらに進むと、松原が続いていた。防風・防砂のために植林されたのだろうか。大きさを見る限り、それほど古くはない。昭和の干拓事業と関係しているかもしれない。
もう少し進むと、墓地があった。湖岸側に、柱が立ち並んでいる。刻まれた文字には、陸軍の文字が並ぶ。戦争で命を落とした方々の墓標だった。
滋賀に来て、こういう墓標をあちこちで見かける。ここに在る墓標よりさらに大きいものも見ることがある。集落単位の墓地の中でも、ひときわ目立つ場所に建っていることが多い様にも思う。私の実家周辺では、そういうものを見た事がなかった。
私の義祖父も、一度だけ、ボルネオに行き戦ったと話してくれたことがある。
義祖父は、「あれは酷い戦いで人間のする事ではない、武器を持たない民間人をたくさん殺した。生き地獄だった。国を守るためと言われ、出兵したがあれはそんなもんじゃない。ただの殺し合いだった。」と苦々しく話した。
私の親の世代は、青春時代を戦争で奪われ、満足な教育も受けず大人になった世代だ。祖母は、子ども4人を抱えて苦労したと聞いた。
あの墓標をどういう気持ちで建てたのか、そしてそれを今の人にどう伝えようとしているのかと考えてしまった。
大津市にある旧陸軍墓地を守る活動をされている人のブログには、「故郷を離れて傷つき亡くなった人たちに、どうか安らかに眠ってほしいという思いがある」という文章を見つけた。また、「戦死者が急増した日露戦争以降、個々の墓石は作らず、合祀されるようになった」ともあった。しかし、それは、旧大津陸軍墓地に限られたことであり、地域の墓地には、立派な墓標が建っている。おそらく、個人が建てたものではなく、地域住民がお金を出し合って作ったものだろう。
戦死した兵士は父母とともに一族の墓に入れず、「陸軍 階級名」をでかでかと入れて「国を守った英雄」のごとき扱いをしているように思えて仕方がない。
途轍もなく大きな墓標には、大尉だとか連隊長だとか、軍を率いて多くの命を犠牲にした「戦犯」に近い人物もいるはずだ。
墓標を作った時代には、おそらく、郷土の誇りとして扱われていたのではないかと思う。それが今も残ることに何か底知れぬ恐ろしさを感じる。戦争で命を落とした人自身に責任があるとは言わない。そこへ向かわせた思想・体制を厳しく断じるべきだと思う。
終戦の日が近づくと、首相をはじめ閣僚が靖国神社を参拝するニュースが報道される。「英霊の御霊を」という言葉が飛び交う。同盟国として、第2次世界大戦で戦ったドイツやイタリアでは、どうなのだろうか?ウクライナ親交を決断したプーチン大統領を英雄と捉えることと通じるのではないだろうか?日本は平和な国と言われるが、果たしてそうだろうか。
少なくとも、今の子どもたちが同じような行動に向かわないよう、祈るばかりだ。
複雑な想いで、墓標の前を通過する。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー