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5日目③荒神山と沼 [琵琶湖てくてく物語]

暢気な会話をしながらも先へ進む。
八坂町南の信号で右へ分岐して、出来るだけ湖岸に近いところを歩く。
須越町内へ入った。宇曽川の河口部、磯田漁港がある。
左前方には荒神山が見えている。
山頂には、荒神山神社や荒神山城跡がある。何でも、奈良時代に行基が三方大荒神を祀ったことで名がついたとされているそうな。
それよりも、山の南側に、県内第2の規模を誇る「前方後円墳」があるのが興味深い。古く弥生時代からこの周辺には大きな集落が存在していた証であり、前方後円墳を作れるほど、豊かな土地であった証拠とも言えることだ。
そして、その麓には曽根沼(内湖)がある。昭和の干拓事業で元の大きさの五分の一まで狭くなったらしい。以前に一度訪れた事があるが、沼の畔は公園になっていて、キャンプをしている様子もあった。静かなところだったのを覚えている。
さらに進むと、松原が続いていた。防風・防砂のために植林されたのだろうか。大きさを見る限り、それほど古くはない。昭和の干拓事業と関係しているかもしれない。
もう少し進むと、墓地があった。湖岸側に、柱が立ち並んでいる。刻まれた文字には、陸軍の文字が並ぶ。戦争で命を落とした方々の墓標だった。
滋賀に来て、こういう墓標をあちこちで見かける。ここに在る墓標よりさらに大きいものも見ることがある。集落単位の墓地の中でも、ひときわ目立つ場所に建っていることが多い様にも思う。私の実家周辺では、そういうものを見た事がなかった。
私の義祖父も、一度だけ、ボルネオに行き戦ったと話してくれたことがある。
義祖父は、「あれは酷い戦いで人間のする事ではない、武器を持たない民間人をたくさん殺した。生き地獄だった。国を守るためと言われ、出兵したがあれはそんなもんじゃない。ただの殺し合いだった。」と苦々しく話した。
私の親の世代は、青春時代を戦争で奪われ、満足な教育も受けず大人になった世代だ。祖母は、子ども4人を抱えて苦労したと聞いた。
あの墓標をどういう気持ちで建てたのか、そしてそれを今の人にどう伝えようとしているのかと考えてしまった。
大津市にある旧陸軍墓地を守る活動をされている人のブログには、「故郷を離れて傷つき亡くなった人たちに、どうか安らかに眠ってほしいという思いがある」という文章を見つけた。また、「戦死者が急増した日露戦争以降、個々の墓石は作らず、合祀されるようになった」ともあった。しかし、それは、旧大津陸軍墓地に限られたことであり、地域の墓地には、立派な墓標が建っている。おそらく、個人が建てたものではなく、地域住民がお金を出し合って作ったものだろう。
戦死した兵士は父母とともに一族の墓に入れず、「陸軍 階級名」をでかでかと入れて「国を守った英雄」のごとき扱いをしているように思えて仕方がない。
途轍もなく大きな墓標には、大尉だとか連隊長だとか、軍を率いて多くの命を犠牲にした「戦犯」に近い人物もいるはずだ。
墓標を作った時代には、おそらく、郷土の誇りとして扱われていたのではないかと思う。それが今も残ることに何か底知れぬ恐ろしさを感じる。戦争で命を落とした人自身に責任があるとは言わない。そこへ向かわせた思想・体制を厳しく断じるべきだと思う。
終戦の日が近づくと、首相をはじめ閣僚が靖国神社を参拝するニュースが報道される。「英霊の御霊を」という言葉が飛び交う。同盟国として、第2次世界大戦で戦ったドイツやイタリアでは、どうなのだろうか?ウクライナ親交を決断したプーチン大統領を英雄と捉えることと通じるのではないだろうか?日本は平和な国と言われるが、果たしてそうだろうか。
少なくとも、今の子どもたちが同じような行動に向かわないよう、祈るばかりだ。
複雑な想いで、墓標の前を通過する。

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