SSブログ
アスカケ外伝 第3部 ブログトップ
前の30件 | -

第1章 淡海国 1.1山城のムロヤ [アスカケ外伝 第3部]

難波津へ戻ったタケルたち。季節は夏の終わりを迎えていた。
皇アスカと摂政カケルが難波津に居られると聞き、諸国から次々に国主や頭領たちが献上品を持ち、集まってきた。そして、皇子タケルが東国で成した話を、アスカとカケルのアスカケの物語と比べながら、大いに喜び、そして讃えた。
そんな日々がひと月ほど過ぎた頃、ついに離宮が完成した。離宮は、いずれ皇位を譲った後に、アスカとカケルが過ごすための住まいとして、摂津比古や難波比古、そして、タケルたちが建てたものだった。
真新しい離宮の柱や床には、紀の国の材木が使われ、和泉の職人たちが丹精込めて作り上げた。大きさこそ難波津宮の半分ほどしかないが、細かい細工が施され、質素な中に豪華さを隠しているような素晴らしいものだった。
そこに、山城の国のムロヤが現れた。ムロヤは離宮完成を祝いに来たのではなかった。
「カケル様、やはり、出雲の国で異変が起きております。そのことで、ご相談がございます。」
ムロヤは、神妙な面持ちで皇アスカと摂政カケルに対面した。離宮の大広間には、皇アスカと摂政カケル、そしてタケルとミヤ姫が居た。
「出雲で異変とはいかなるものなのですか?」
摂政カケルが尋ねる。
「はい、出雲はご承知の通り神の国と呼ばれ、ヤマト国に匹敵するほど安寧な国でございました。しかし、数年前から、争乱が絶えぬようになりました。」
ムロヤが答えると、摂政カケルが言う。
「その事は、数年前の年儀の会でも聞きました。出雲国の東、伯耆の庄を武力で治めようとしている者がいると・・だが、それは出雲国で解決すべき事と決着したはずでは?」
「私もそう考え、しばらく様子を見ておりました。しかし、それは日増しに勢力を増し、丹波,若狭、そして越の国をもざわつき始めております。このままでは、ヤマトにも障りが出るのではと・・・。」
「淡海の国は如何ですか?」とカケル。
「まだ、平静を保っているといったところでしょうか・・。淡海は、越の国や若狭など北国と、山城、大和、難波津を繋ぐ要衝。脅かされると一気にヤマトにも戦火が届きかねません。」
ムロヤは、苦悩するような顔つきで言った。摂政カケルも考え込んだ。
「あの・・ムロヤ様、トキオはどうしていますか?」
タケルが尋ねる。ムロヤはタケルの顔を見つめ、言葉を選ぶように言った。
「トキオ殿は、但馬、伯耆を経て、出雲へ向かうと言って出かけました。すでに二年ほど経ちましたが、伯耆の国に入ったという知らせを最後に、行方知れずとなっております。」
「行方知れず・・ですか?」
タケルは驚いた。
トキオは、タケルに敗けぬほどの弓の名手であり、何事にも慎重だった。ムロヤは、行方知れずといったが、おそらく、戦に巻き込まれ命を落としたと考えているのだと容易に想像できた。だが、タケルは、トキオが戦の中で命を落としたとは考えたくなかった。幼い頃からともに過ごし、競い合うように弓や剣の鍛錬をしてきた。兄弟以上に深い絆がある。
「ムロヤ殿、この先、戦を避けて通れぬのであれば、すぐにも大軍を率いて、伯耆の庄へ向かうことになるのだが・・・ここへ相談に来られたのには、もっと深い訳があるのでしょう?」
摂政カケルが訊く。
ムロヤは、小さく頷き身を乗り出して答えた。
「今すぐ大軍を率いて向かうというのは愚策だと考えておりました。何より、伯耆ではさほど大きな戦が起きている様子ではないのです。」
「戦をせずに・・出雲国の多くの郷を我が物としているというのですか?」
カケルが訊く。
「それも少し・・小さな戦は起きておりますが、すぐに静まるようなのです。そして、そうした郷は、出雲国を離れ、伯耆の庄の主に従う様子。八百万の神を敬い奉じる出雲の民が、心変わりするように伯耆の主に従うというのが余りにも不可思議なのです。・・まるで呪術のごとく・・。」
ムロヤの話をそこまで聞いて、皇アスカが口を開いた。
「まるで、昔のヤマトのようですね。」
「皇様もそう思われますか?・・私は、難波津の皆様からしか聞き及んでおらぬのですが・・アスカケの話を不意に思い出しておりました。」
ムロヤが応えるように言った。
「では、出雲国になにか悪しき者が生まれたという事でしょうか?」
今度はタケルが訊いた。それを聞き、摂政カケルが訊き返した。
「タケル、悪しき、正しきは、何をもって決まるのだ?」
「民を守り、国の安寧を守ることこそ、正しき事だと思います。」
「では、伯耆の国の主も正しき者かもしれぬな。だが、その者がヤマトを攻めれば悪しき者であろう。物事は、それほど単純ではない。特に此度は、出雲国の事。我らが善悪を定める事は出来ないでしょう。」
摂政カケルはそう言って天井を見上げ、しばらく黙り込み、ふいにタケルを見つめ言った。
「タケルよ、今一度、旅に出るのだ。今、出雲で起きている事を見定めて来るのだ。出来るだけ、多くの地を巡り、真実を見つけてきてもらいたい。」

nice!(0)  コメント(0) 

1.2 巨椋池 [アスカケ外伝 第3部]

タケルとミヤ姫は、都へは戻らず、大伴のムロヤとともに、山城の国へ向かうことになった。
タケルたちが旅に出ると聞き、ヤチヨが面会を求めてきた。
「どうしました?」
タケルは、離宮の広間でヤチヨと対面して訊いた。ヤチヨの横には、初めてみる顔があった。
「出雲に向けて、騒乱を見極めに行かれると聞きました。危うい旅というのは承知しております。どうか、私たちもお連れ下さい。」
ヤチヨと、隣にいる男が頭を下げる。
「しかし、ヤチヨ殿にはここでの仕事があるでしょう?」
タケルはそう言いながら、ヤチヨの隣にいる男の事が気になっていた。その様子を男も察知した。
「申し遅れました。私は、ナミヒコと申します。衛士長・・いや、今は難波津の頭領、難波比古様の弟です。兄の跡を継ぎ、衛士長をしております。」
言葉通り、衛士としては申し分ないがっちりとした体つきをしている。
「あなたも共に行くつもりですか?」
タケルが訊く。
「はい。昨夜、ヤチヨ殿から相談を受け、すぐに、頭領にも話しました。兄も随分と心配しており、タケル様とミヤ姫様をお守りする役に任じられました。その間は、衛士長の職は暫く兄が兼ねることとなりました。」
すでに話は決まっているようだった。
「判りました。共に参りましょう。」

数日後には、タケル、ミヤ姫、ヤチヨ、ナミヒコの四人は、ムロヤとともに先ずは山城の国の都に向かった。
難波津から船で川を上り、ほどなく、巨椋池に着く。巨椋池の岸辺には、幾つもの郷が見え、たくさんの船が着いていた。しかし、不思議と静かだった。難波津でこれほど船が居れば、多くの人夫達が荷を運び、活気づいているはず。タケルは、周囲を注意深く見定めている。その様子にムロヤは気付いて、声を掛ける。
「いかがされましたか?」
「いや・・巨椋池の周囲には、幾つもの郷があるようですが・・何やら妙に静かで・・少し不思議な気持ちなのです。」とタケルは答える。
「そう?」と、ミヤ姫はそう言うとタケルと同じように周囲を見回す。ヤチヨとナミヒコも周囲に目を向けた。
「本当に、人影も少ないようですね。」とミヤ姫。
「気づかれましたか。・・・そうなのです。この地は、難波津に集まる荷を更に淡海や越の国まで運ぶための、いわば、二つ目の港なのです。また、これより北にある越から、淡海を下ってきた産物を、難波津へ運ぶのです。淡海も難波津も大きな船で運べますが、川を行くには小舟に積み替えねばなりません。それは我ら、巨椋池の周囲に住む者の生業なのです。」
ムロヤは答える。
「それが静かという事は・・。」とタケル。
「はい。近頃は、さっぱり荷物が動かなくなったのです。」
ムロヤは哀し気な表情で答える。
「近頃、難波津に、越の国の産物が届かなくなったのはそういう事だったのですね。北の海の産物は、どれも立派で、中津海とはまた違う美味しさがありました。徐々に、入らなくなったので、不思議に思っておりました。」
ヤチヨが言う。
「長引けば、皆の暮らしが立ち行かなくなり・・いずれは・・。」
とタケルが訊く。
「はい。国の安寧を脅かすのは、戦だけではありません。今は、諸国が繋がってともに栄えることが大事。どこかで不穏な動きがあれば、このように暮らしが厳しくなる。それが続けば、大きな諍いが生まれるのです。」
ムロヤの言葉は、タケルには新鮮だった。
これまで、戦を止めることに奔走してきたのだが、本質的な部分に気付いていなかったように思えた。
「私の郷の熱田も、同じでした。美濃や飛騨、信濃あたりまで、知多や伊勢の産物を届けるために多くの船が行き交い、活気がありましたが、小さな諍いをきっかけに生業が成り立たなくなり、そうした者が悪しき道へ進み、郷が荒れました。」
ミヤ姫が言うと、タケルが続けた。
「ここより北、淡海や越の国がどうなっているか、この目で見て参ります。そして、伯耆へ向かい、国主を名乗る者に遭わねばなりません。」
タケルの言葉を聞き、ムロヤが溜息をついた。
「その事でお話しておかねばならぬことがございます。まずは館へ参りましょう。」
タケルたち一行は、ムロヤの案内で、巨椋池の北に広がる向島という郷へ向かった。向島は、北を流れる宇治川の中州にできた地で、数多くの水路が張り巡らされている。タケルたちの船は、その一つに入って行った。暫く行くと、土を高く持った土地に館が建っていた。館は高床式になっていて、その下に船が入ることができる仕掛けになっていた。

しばらくすると、タケルたちの後を追うように、小舟が五隻ほど、巨椋池を上ってきた。それらの小舟には屈強な男が数人ずつ乗っていて、タケルたちが館へ入るのをじっと睨んでいるようだった。そして、その船は、郷の近くの葦の茂みに隠れるように入っていった。

nice!(0)  コメント(0) 

1.3 アキヒコノミコト [アスカケ外伝 第3部]

ムロヤの館の広間で、夕餉を摂りながら、今後の事を話し合うことにした。
「先程の事ですが・・」とムロヤが切り出した。
「実は、伯耆の庄の主の事で、少し気掛かりなことがあるのです。確証はないので、あくまで私の・・ひとつの見方として、お聞きください。」
ムロヤは、少し勿体つけるような言い回しをして話を始めた。
「以前、年儀の会でお話した、出雲の国の不穏な動きは覚えておられましょうか?」
「ええ・・確か、出雲の東、伯耆の庄を鋼を持った者達が武力で治めようとしていると・・」
「はい。そのため、トキオ殿には、丹波を抜けて、伯耆へ様子を探りに行っていただいたのです。」
「その時から消息が判らぬといわれましたが・・」
「はい。実はその頃から、伯耆の庄の動きに変化があったのです。伯耆の庄に強き者が現れ、鋼を持った部族を退けたというのです。そして、その者が、今、出雲国を脅かしているのだと・・これは、若狭から来た者に聞いたのですが、伯耆の庄の強き者の名は、トキヒコノミコトと名乗っているようなのです。」
「トキヒコノミコト・・ですか。」
と、タケルは呟くように言って、はっとしてムロヤの顔を見た。
そして、
「まさか・・」と口にすると、ムロヤが小さく頷いた。
「ええ・・トキヒコノミコトとは、トキオ殿ではないかと・。」
「しかし・・そんな・・。」
タケルは思いもつかない事に驚き、どのようにしたら、あのトキオがそのような邪な事を成したのか、想像に絶えなかった。
「もし、そうなら、すぐに会いに行きます。」
と、タケルが言うと、ムロヤは首を横に振った。
「直接、会いに行くことを私も考えました。しかし、もし、トキオ殿であったとしても、名を変え、何も連絡してこないというが腑に落ちません。よほどの理由があるのではないかと・・。」
ムロヤが言うことは十分理解できた。
「その訳を知るためには、周囲の国々の事を正しく知ることが必要なのではないかと考えたのです。」
「わかりました。もしも、トキオであれば、何か訳があるに違いありません。それを確かめて参りましょう。」
「お願いできますか?」
「はい。」
その日はその館で休むことになった。
夜中、皆が寝静まった頃、後を追ってきた船が館に近づいてくる。それを見計らったように、館から出てくる者がいた。
次の日、タケルたち一行は巨椋池を上り、淡海に向かうことにした。淡海までの案内には、ミワという女性がついた。
「ミワ様は、淡海の国、志賀の郡(しかのこおり)の主、ナオリ様が、難波津や山城との絆を深めるため、ここへ遣したのですが、近頃になって、荷が滞るようになり、淡海の国で何か異変が起きているのではないかと心配しており、一度、鳰の浜へ戻りたいと申しておりましたので、タケル様達の案内役を担っていただくことしました。」
ムロヤは、ミワとともに、二人の大柄な船頭をつけてくれた。
館を出た船は、水路を伝って、北を流れる宇治川へ出た。そこから、淡海までは曲がりくねった川を上っていく。しばらくは、緩やかな流れで順調に進んでいった。徐々に、色づいた山が近づいてくる。しかし、流れは穏やかなまま。山と山の間に幅広い川が流れている。季節はすでに秋だった。
「ここは、天ケ瀬と呼ばれる地です。これより先は、宇治川から瀬多の川と名を変え、淡海の国へ入ります。」
谷筋はやや広がり、広い河原がある。
「このまま進んでも、鳰の浜へ着く前に日が暮れてしまいます。瀬多の川を暗闇で進むのは危のうございます。今日はここで休みましょう。今夜は河原にて眠ることになります。」
ミワがそう言って船頭に船を止めさせた。岸に着け、河原に降りる。
「この時期、夜は冷えます。火を絶やさぬように致しましょう。」
船頭は、すぐに船を出し川で漁を始めた。
ミワとヤチヨが、河原にある大岩を見つけ、身を休める場所と竈を作った。
タケルたちは、河原に落ちている枯れ木を集め薪を作った。火が起こされる頃には日が傾き始めている。山間は早く陽が陰る。徐々に冷えてきた。
船頭が取った魚をヤチヨが手早く捌き、串にさして焼き、食した。遠くに、同じように、河原のあちこちに、焚火の光が見える。
翌朝は靄が掛かる川を上ることになった。しばらく行くと、両側の山肌が遠のき、徐々に開けてきた。川はゆっくりと流れている。そして再び山が迫り、川幅が狭くなり、流れが強くなる。
「ここらは岩場や瀬が多く、難儀な場所です。」
船頭がそう言って、巧みに船を操り前へ進める。ただでさえ、早い流れを上るのは難しいのだが、さらに岩を避けて進むため、船頭の額には玉の汗が流れている。そこを抜けると、急に流れが穏やかになった。目の前の川幅が急に広がる。
「ここはもう淡海の湖です。」
ミワが言う。タケルたちは、目の前に広がる湖に心を奪われた。さざ波と葦の原、そして水面に浮かぶ多くの水鳥。まるで、時の流れが止まったような静けさだった。
「鳰の浜は左手です。まもなく着きます。」
遠く湖岸に背の高い館が見えた。船は滑るように走り、館を目指す。

nice!(1)  コメント(0) 

1.4 鳰の浜 [アスカケ外伝 第3部]

鳰の浜に建ち並ぶ館は、皆、奇妙なつくりをしていた。湖畔に石が組まれていて、その上に建っている。更に、その土台となっている石には船が入れるほどの間口の通路があった。巨椋池のムロヤの館に似ているが、さらにその規模が大きく、積まれた石も大きかった。
船はゆっくりと、館の下に開かれた通路に入っていく。奥まで着くと、そこから階段で上がっていく。階段というより梯子に近く、船の位置からはかなり高くまで登らなくてはいけなかった。ようやく昇り切ったところに、ミワの父ナオリが待っていた。
「このようなところにヤマトの皇子タケル様においでくださるとは、何と有難い事。さあ、どうぞ、こちらへ。」
ナオリはそう言って、湖から見えた高い館へ案内した。郡主の館にしては質素で、隣りの館とさほど変わらない。
「此度は、淡海の国や越の国を視察されるとお聞きしておりますが・・。」
外の風景に見惚れているタケルたちに、淡海の国、志賀郡(しかのこおり)の主ナオリが切り出した。
「実のところ、出雲の国の異変を知り、その事実を見極めるために参りました。古来より、出雲は神々を敬う穏やかな国、そこでの異変とは俄かには、信じがたく、起きている事を具に見て参りたいのです。」
タケルが答える。
「それは我らも同じです。淡海は、産物を行き来させることを生業として暮らしている者が多く、このままでは、淡海も乱れてしまいます。」
ナオリが言う。

この頃の淡海の国、琵琶湖は今よりもずっと水量が多く、湖東地域は、伊吹山の麓を除いて、大半が葦の原と沼地であった。安土山や八幡山は湖に浮かぶ島であった。湖西地域も、比叡山の麓辺りまで水辺となっていて、その北の地域もほとんどが葦の原だった。琵琶湖の周囲では、もっとも北の大浦や菅浦といった郷の他には、鳰の浜同様に石積みで陸地を広げた海津があった。琵琶湖は、春から夏にかけて人の背丈以上に水嵩が増え、人々は、湖畔に暮らすことができず、山際に郷を作るか、鳰の浜のように大きな石組をして土地を広げるほかないのであった。

「淡海の国は、その名の通り、淡海の湖が全てなのです。湖の低地はほとんどが葦の原が広がる沼地です。魚は捕れますが、米は作れません。」
ナオリが続けた。
「これほどに水があるのに、米が作れないとは・・」
とタケルが言う。
「淡海の湖には、四方から多くの川が流れ込んでおります。しかし、流れ出るのは瀬多の川のみ。毎年のように、背丈ほどまでに水が増えて、田を作ろうとしても無理なのです。湖の周囲の平地はほとんどが葦の原の広がる沼地になっております。」
ミワの説明を聞き、目の前の美しい景色が少し違って見えた。
「それほどまでに水嵩が変わるのですか?」
そう言ったのは、ナミヒコだった。
海の水位が変化する事は難波津に居て知っていたが、池や湖がそれほど変わるとは思っていなかった。まして、これほど大きい湖である。多少の雨や雪解け水でも変わるとは思えなかった。
「湖から流れ出る、瀬多の川は、名の通り、岩場や瀬が多く、川幅も狭いため、一旦水が増え始めると、突然のごとく、濁流となり、両岸を削り、削られた岩が流れを塞ぎ、さらに岩場が増える有り様なのです。」
話を聞いて、皆、船から上がるあの高い梯子を思い出した。
「多い時は背丈を越えるほどになります。」
「それであの梯子のような・・」とタケルが言うと、
「はい。山裾に住む者も居りますが、水運が多くなり、このようなところに住み始め、水嵩が増える事も考え、このような館を設えました。」
と、ナオリが答えた。
「開削はできないのですか?」
タケルは、アスカケの話の中で、カケルたちが難波津の開削によって草香の江の干拓を進めた話を思い出して、ナオリに訊いた。
「古くから、勢多の川を開削し、流れを増やせば、きっと水嵩が下がると言われております。そうすれば、沼地を水田に替えられるでしょう。しかし、瀬多の水量が増えれば、下流にある、巨椋池の水嵩も増え、大きな害となると申す者もおり、手を付けずにおります。」
ナオリは苦しげな顔で答える。
「父様、タケル様には、正しい事を知っておいていただいた方が良いのではありませんか?」
ミワが父ナオリに促すように言った。
「開削に関して、何かあるのですか?」
タケルが訊くと、ナオリは少し重い口調で答えた。
「湖の東、蒲生という郷がございます。蒲の原に覆われ大半は沼地。ここの生まれのタダヒコという者が、これまで盛んに開削を進言をしておるのです。そうすれば、近江は豊かな国になるはずだと・・。」
「なるほど・・理はありますね。」
「しかし、蒲生の北、坂田郡(さかたごおり)は、淡海の国では珍しく水田が広がっており、その財を以て、周囲の郷を従えております。タダヒコの言う通りに、開削を進めれば、水嵩が下がり、水田は広がるでしょう。しかし、今、水田を持っている坂田郡では、今度は水不足となるかもしれぬというのです。そのことを懸念し、開削に反対しておるのです。」
ナオリが言う。
「なるほど、開削が全てではないという事ですか。」
タケルが答える。

nice!(0)  コメント(0) 

1.5 叡山の麓 [アスカケ外伝 第3部]

「水不足になどなりません。水田が広がれば、坂田郡の支配から離れようと考える郷がきっと増えるはずです。それゆえ、坂田郡の主イカルノミコト様は反対されておるのです。それに・・、開削を勧めようとされるタダヒコ様を敵のごとく思われ、策略を巡らし、常に、小さな諍いが絶えぬのです。」
ミワが何か強い憤りを抑えて言う。
さざ波の淡海の湖にも、それゆえに生まれる争いがある事を知り、タケルは哀しく思っていた。
「まあ、その話は、ゆっくりと・・此度、皇子が来られると聞き、淡海の産物を集めました。存分にお楽しみいただきたい。」
ナオリはそう言うと、侍女を呼び、料理を運ばせた。
目を輝かせたのは、ヤチヨだった。ヤチヨは、難波津でも西国や南国から届く産物に興味を持ち、一度都に戻ってからも、その熱意は変わらず、再び、難波津へ行ったのだった。
「まあ、良い香り!」
運ばれてくる大皿や碗の中を覗き込み、目を輝かせている。
「これは・・シジミのようですが・・随分と小さいですね。」
ヤチヨが言うと、ミワが笑顔で答える。
「それは、良いお出汁が摂れるのです。お召し上がりください。」
ヤチヨは誰よりも先に口をつける。
「本当!これほど深い味なのですね・・。これは?」
ヤチヨは目の前の食材を一つ一つ吟味するように、箸で摘まみ、じっと見てから、香を嗅ぎ、口に入れていく。
ミヤ姫も、タケルも、すっかり呆れて見ている。ナミヒコは、ただ笑顔で見守っている。
それからしばらく、ヤチヨとミワが、淡海の食材の談義をはじめてしまい、ほかの皆はただ黙って聞くことになった。

宴が終わり、部屋に戻ったタケルは、ミヤ姫やヤチヨ、ナミヒコとこれからの相談をした。
「一刻も早く、越の国から若狭、丹波を見て伯耆へ向かうべきだと思うのですが・・」と、タケルが重い口調で切り出す。
ミヤ姫たちはタケルが何を考えているのかはおおかた予想がついた。
「淡海の国の難儀を知り、そのままにはしておけぬとお考えですね。」
と、ナミヒコが答える。
「そうなのです。しかし、そう容易く片付く問題ではないでしょう。」
と、タケルが言うと、ナミヒコが答える。
「タケル様はもうお気づきの事と思いますが・・難波津を出てから、我らとともに参っている者達が居ります。」
「やはりそうでしたか。」
タケルが答える。
「はい。皇様の勅命にて、衛士隊を連れて参りました。」
「皇様の勅命ですか?」
と、ミヤ姫が訊き返す。
「はい。この先は、戦の地であるかもしれず、ヤマトを継ぐ者が巻き込まれ命を落とすようなことがあってはならぬ、ましてや、姫を連れていることが懸念されると申されておられました。しかし、その事をきっとタケル様は快くは思われぬかもしれぬ故、気付かれぬようにとも申されましたが・・。」
母としての気遣いに、ミヤ姫は涙が零れた。
「しかし、タケル様に気付かれぬわけはないと思っておりました。」
ナミヒコは、ばつの悪そうな顔で言う。
「私も初めは気付きませんでした。天ケ瀬で初めて我らを追ってくる者があると気付きましたが、何者かまでは判りませんでした。」
タケルが答えた。
「実のところ、守り役ではありますが、私の独断で、淡海や越、若狭、丹波などの生まれの衛士を集めております。」
「この先の事情には詳しいということですか?」
「はい。タケル様は、東国に行かれた際にも、目の前の難儀を見過ごされずに尽力されたと聞きました。此度も、淡海や越で難儀を見れば、きっと足止めされ尽力なさるのではないかと。それで、タケル様の眼や足の代わりに動ける者が必要になるだろうと考えておりました。その者達を先に行かせて、様子を探らせては如何でしょうか。」
ナミヒコの提案に、ミヤ姫やヤチヨは同意した。
「いずれ、冬が参ります。これより北は雪深い地です。冬となれば向かう事もままなりません。これから、越や若狭を回るとしても、いずれかの地で足止めされるはずです。それならば、禍根を残さぬよう、この地の難儀を解決された方がよろしいでしょう。」
ナミヒコは、常に先を考えている。
「しかし、此度の事は長年の問題のようです。水害を防ぐ手立ては、勢多の開削こそ有効だと思いますが、山城や難波津の水害に繋がりかねません。そして、干上がる地が出るのも至極当然のことでしょう。両方を立てる手立てが今は判りません。」
タケルが言う。ナミヒコも、それには応えられないでいた。
「タダヒコ様やイカルノミコト様にお会いになれば、何か策が見いだせるかもしれません。・・いえ・・それよりも、お二人が知恵を出し合えば、道が開けるのではないでしょうか?」
ミヤ姫が言った。
「そうですね。まずは、お二人に話を聞きましょう。」
タケルの言葉に、皆が同意した。


nice!(0)  コメント(0) 

1.6 蒲生の郷 [アスカケ外伝 第3部]

「ナミヒコ殿、その事をムロヤ様へのお知らせ願えますか。」
「承知しました。」
ナミヒコはそう返事をすると、すぐに外へ出て行った。
館から外を見ると、ナミヒコを囲むように男たちが集まっていて、何か指示しているようだった。しばらくすると、暗闇の中を一人の男が駆けだしていく。おそらく、山城のムロヤへの使者だろうと思われた。そして、残った男たちも幾つかの船に分かれて乗り、湖へ漕ぎ出していった。
タケルは、翌朝、ナオリとミワと対面し、淡海の国の難儀を少しでも助ける事は出来ないかと考えている事を伝え、蒲生の郷へ向かうと話した。
「有難き事。ミワに案内させましょう。」
ナオリはそう言って、ミワが蒲生の郷まで案内することになった。
船で館を出て、対岸に向かう。
鳰の浜から東の対岸まではさほど遠くない。すぐに葦の原が見えてくる。秋になり、半ば枯れている葦の原に近づくと、容易には対岸に近づくことはできないことが判る。水田にはできないといった理由がよく分かった。暫く、船は葦の原の縁を進む。すると葦の原が切れているところに行き当たった。
「ここから中へ入りましょう。」
ミワが言うと、船頭が器用に船を回す。船の幅に葦の原が切れて水路のようになっている。進んでいくといくつか水路が分岐しているのが判った。
「この水路は、タダヒコ様がお作りなったのです。」
ミワは何か自慢気に言う。
突然、視界が開ける。葦の原を抜けると、内湖のようなところに出た。内湖の湖岸には、石組みのある人家が並んでいるのが見えた。
船着き場に着くと、ミワが真っ先に船を降り、郷の者に何かを尋ねている。ミワが礼を言って船に戻ってくる。
「タダヒコ様は、少し北に居られるようです。」
そう言って、船を内湖の北へ向けた。しばらくすると、前方に、船に乗った男たちの姿が見えた。男たちは、葦を刈り取って船に積んでいる。
「タダヒコ様!」
突然、ミワが大声で叫ぶと、船の端の方で、大鎌を振って葦を刈り取っていた男が顔を上げ、笑顔で手を振った。そして、ミワと同じような大声で返事が返ってきた。
「もうすぐ仕事が終わる。郷で待ってろ!」
ミワへの言葉遣いがぞんざいなのは、それは二人が只ならぬ仲であることを物語っていると、ミヤ姫とヤチヨはすぐに気付いた。
「はい!」
ミワの返事は、まるで少女のようだった。
タケルたちは先程の船着き場へ戻り、タダヒコの帰りを待つことにした。
その間に、タケルたちは郷の様子を見て回った。先ほど、タダヒコたちが刈り取っていた葦が、集落のあちこちに積まれている。そして、一角では、それを使って、屋根を葺いている。家屋の裏には小さな水田があった。だが、集落の大きさに比べてそれはかなり狭い。おそらく、ここの米だけでは不足しているに違いなかった。
山手の方に目を遣ると、あちこちを削った跡がある。足元を見ると、その土を盛ったものだとも判った。おそらく、沼地に土を運び、少しでも高くして水害から身を守っているに違いない。その作業は、相当の労力を要する事だと理解できる。しかし、行き交う人の顔には、笑顔が見える。
「やあ、待たせたな。」
近づいてくる船から、大きな声が響いた。タダヒコの声だった。ミワに向けて呼びかけているのは間違いない。船が着くと、タダヒコが船から跳びはねるようにして岸に上がる。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
タダヒコはミワに近付き、両手でミワの顔を挟み込むようにして顔を近づけてみせた。まるで、子どもをあやしているように見えた。
「止めて!もう子供じゃないんです!」
ミワはそう言いながらも笑顔を浮かべている。
「おや、この方たちは?」とタダヒコが訊く。
ミワが、これまでの経緯を一通り説明すると、タダヒコは「ふむ」と一言言ってから、タケルの前に傅いて、改めてあいさつした。
「私は、蒲生の郡主の役を授かったタダヒコと申します。このように汚れた格好で拝謁する不始末、どうか、お許しください。」
「タダヒコ様、それほど畏まらず。ミワ殿への挨拶と同様で結構です。」
タケルはそう言って、タダヒコを立たせた。
それから、ナオリから聞いた「瀬多の開削」について訊ねた。
「ナオリ様が申される通りです。淡海の湖岸に住む者にとって開削は悲願です。勿論、容易い事とは思っておりません。しかし、この先、皆が安堵して暮らすには必要な事なのです。」
タダヒコの言葉に何一つ曇りはない。
「この地は、皆様が土を盛って作られたようですね。」
と、タケルが訊く。
「はい。以前はここらも葦の原でした。それを刈り取り、石組をして、土を少しずつ運び、なんとか暮らせるようになりました。しかし、これでもなお、長雨の後には、膝辺りまで浸水してしまいます。開削ができ、水が引けば、ここらは広い水田にできるはずなのです。」
タダヒコの言葉には悔しさが感じられた。

nice!(0)  コメント(0) 

1.7 水郷 [アスカケ外伝 第3部]

「坂田郡(さかたごおり)のイカルノミコト様は、開削に反対されているようですが・・。」
タケルが訊くと、タダヒコが眉を顰め、少し重い口ぶりで答えた。
「そう伺っておりますが・・・私には真意が判りません。・・坂田郡の多くの郷でも、水害に遭い、苦労しているはずなのです。」
「何かほかにも理由がありそうですね。」
とタケルが訊くと、タダヒコが答える。
「坂田郡の全ての郷を従え、いずれは、淡海の国主になる野望を持っているという者もおりますが、イカルノミコト様は、そのような邪な心を持つ御方ではありません。」
それを聞いて、ミワが少し苛立った口調で言う。
「タダヒコ様は、人が良すぎます。これまで、幾度、イカルノミコト様に嫌がらせをされてきたか・・水運の荷捌きでは、鳰の浜の者達は相当不満を持っているのです。」
ミワの言葉で、淡海には、水害の問題だけではなく、もっと別の問題があるのだということをタケルは感じた。
「タダヒコ様、この辺りを案内してもらえませんか?」
「判りました。ところで・・皆様は馬には乗れますか?」
タミヒコが尋ねる。タケルもミヤ姫もヤチヨも、春日の杜で幼い頃、乗馬の訓練はしていたので、即座に「はい」と答えた。だが、ナミヒコは、経験がな区困惑した表情を浮かべていた。それを見て、ヤチヨが言った。
「私の後ろに乗って下さい。大丈夫です。」
タダヒコは、馬を使って、蒲生の郷の周辺を案内する事にした。
郷から東へ向かうと、徐々に高くなっている。その先には、郷が見えた。
「あの辺りは、高台になっていて、水害からは免れていますが、水が足りず、水田には向きません。それゆえ、畑が広く作られております。」
さらに東へ向かうと、大きな川に着く。
「ここより先は、多賀の神の地です。神々の森ゆえみだりに立ち入らぬよう定められております。」
タダヒコが言うのを聞いて、一行は川向こうを見る。深い森が広がっていて、人を入れぬ雰囲気が感じられた。
ふと見ると、ミヤ姫がじっと川を見つめている。
「どうしました?」
タケルが訊くと、
「この風景、どこかで見た事があるような気がするのです・・。」
と、ミヤ姫が答えた。
「ここへ来るのは初めてでしょう?」と、ヤチヨが訊く。
「ええ・・ここへは初めてです。でも・・川の流れと森・・ああ、思い出しました。・・ヤチヨ様、ほら、よくご覧ください。」
と、ミヤ姫がヤチヨに言う。
「えっ?・・私も知っていると?」
ヤチヨはそう言って、目の前の風景を眺めながら、記憶を辿る。
「あっ、そうです。あそこに似ている・・。」
ヤチヨも記憶しているようだった。
「タケル様もご存じのはずです。」と、今度は、ヤチヨがタケルに問う。
「目の前に神の森、そして、大きな川と畑、そして、湖・・」とタケルが言葉を発しながら、記憶を辿る。
「ああ・・そうか・・・春日の杜に似ている・・。」
タケルが言うと、
「そうでしょう?・・あの杜には、大きな畑と水田があったでしょう。そして、そのための水路がたくさん・・。」
と、ミヤ姫が嬉しそうに言った。
「じゃあ、ここも水路を作ればどうかしら?」
とヤチヨが言うと、タダヒコが少し残念そうに言った。
「我らも水路をと考えた事はあります。しかし、山からの流れは全て、反対の斜面から大川へ注いでおります。幾つかの泉はありますが、とても水量が足りません。・・それよりも、あの沼地を干拓できればと・・。」
そこは、山裾に広がる台地の上、確かに、いくつか泉は湧いているが、広い台地を潤すほどの水量はないのは明らかだった。
「春日の杜には、泉すらありません。ですから、遠くから水を引いているのです。きっと、ここも・・いや、ここならすぐにでも出来るはずです。」
ミヤ姫が言うと、タケルがさらに続けた。
「あの川の上流を丹念に調べましょう。」
一行は、台地の縁に沿うように、馬で回ってみた。
台地を削るように川は流れている。裾の方は、川面までははかなりの段差はあり、水を引くには無理があった。ゆっくりと進む。
山手に入るにしたがって、川面と台地の差がなくなってきている。
「この辺りから、水路を作りましょう。この縁に沿うようにして行けば、かなりの水量を送ることができるはずです。」
タケルが説明すると、タダヒコは川面と台地、そして、その先を交互に見ながら、水路を頭に描いている。
「なるほど・・ここからならばできるかもしれません。しかし、まだ、川面が低い。かなり深く掘り込まねばなりません。」
それを聞いていたナミヒコが口を開く。
ナミヒコは、ヤチヨの馬の後ろに乗っていたせいか、少し、顔色が悪い。それでも何とか気持ちを踏ん張っているようにも見えた。
「川面を引き上げればどうでしょう。」

nice!(1)  コメント(0) 

1.8 水を上げる [アスカケ外伝 第3部]

「川面を引き上げる?」
ヤチヨが少し驚いて訊いた。
「はい。難波津の傍にある、草香の江はかつて何度も洪水となり、人が住める場所ではなかったと聞きました。それを、摂政カケル様たちは、水路を開削して水を抜かれ、干拓が進み、難波津は豊かになりました。」
「それこそ、私が鳰の浜のナオリ様に進言してきた事。水が減れば、あの島の周囲はきっと良い水田に変わります。水害に悩まれされずに済みます。」
タダヒコが言うと、ナミヒコは制するように言った。
「その一方で、草香の江の北側の地で、古くからの水田を作っていた郷は、水不足となり、随分苦労することになりました。草香の江の水こそ、その郷の命綱だったのです。・・すぐに、摂政カケル様はその地へ出向き、様子を確認されました。そのうえで、近くを流れる川から水路を引けないかと考えられたのです。」
「それで、上手くいったのですか?」
と、タダヒコが訊く。
「いえ・・水路を作ってもなかなかうまくはいきませんでした。しかし、大雨が降った日、水路に水が流れたのです。川の水嵩が増えれば、水路に水は流れることを確信された、カケル様は、ソラヒコ様と相談されました。」
「ソラヒコ様?」
タケルは、難波津を初めて訪れた時出会っていた。だが、開削の中で父カケルに仕えた者とは聞いていたが、それ以上の事は知らなかった。
「ソラヒコ様は、川面を上げるために、大きな堤を作り、水を堰き止めればよいのではと考えられたのです。すぐに工事を始めました。それで、予想通り、水を引くことができたのです。」
ナミヒコの説明はよくわかった。
「そんなに都合の良い場所などあるのでしょうか?」
と、タダヒコが訊く。
「あそこをご覧ください。」
ナミヒコはそう言って、川の先を指さした。
そこは、川幅が少し狭く、川の中ほどに大岩が幾つか並んでいる。
「あれを土台にして川の半分辺りまで伸びる高い堤を作りましょう。その水を、水路に繋いではどうでしょう。」
タダヒコは、じっとナミヒコの指さす辺りを見ながら、想像している。
「うむ、堤が出来れば、あるいは出来るかもしれません。ですが・・」
タダヒコは、同意しながらも難色を示す。
「それは、相当大掛かりな仕事になるでしょう。たくさんの人夫が必要になる。蒲生の郡には、それほど多くの者はおりません。少ない人数では、何年掛かるか・・それに、また雪解けと長雨で水嵩が上がれば、堤を作るどころではなくなります。・・」
タダヒコが悔しそうに答えた。
「タケル様、是非、難波津へ遣いを出してください。水路開削に詳しい者を呼びましょう。」
「それが良い。石工も必要になるでしょう。杭にする木材も必要になる。紀の国の時同様、西国にも力を貸してもらうようにしてはどうでしょう。」
「そんなことができるのでしょうか?」とタダヒコは半信半疑だった。
「きっとうまくいきます。それが、ヤマト国なのです。困っている者があれば、助け合う。それは、国同士でも同様。争う事より助け合う事こそ、人の道だと、常々、皇様も摂政様も申されております。」
タケルの言葉に、タダヒコは大いに感動し、我が郷の事だけを考えてきた自分を恥じた。
すぐに、難波津へ向けて遣いが出された。
それからも、タケルたち一行は、タダヒコの案内で、郷のあちこちを見て回った。それぞれの郷の長からも話を聞き、小さな普請には、ともに汗を流した。水路を引くことについても、細かく説明し、それぞれの郷に同意を取り付けた。
一通り回った後、タケルたちはタダヒコと、水路作りだけでなく、道普請や干拓についてもじっくりと相談した。
「タケル様・・一つ伺いたいことがございます。」
数日経ったある日、タダヒコがタケルに訊いた。
「我らの郷の事に、これほど御尽力いただくことはまことにありがたい事です。しかし、我らには、お返しするものがありません。タケル様や・・いや、ヤマト国にとっても何の利はないのではないですか?それなのに、なぜにこれほどまで・・。」
それを聞いてタケルが答える。
「ヤマトの利とは何でしょう?・・例えば、水田を広げ米作りを増やし、都へ献上させることでしょうか?・・・そんなもののために、わざわざこの地を選ぶ必要はありません。都の周りもまだまだ開ける場所はある。そこに広い水田を作れば済む事。・・そんなことを皇様は望んでは居られません。」
「では、なにをお望みなのでしょう?」と、タダヒコ。
「皇様も摂政様も・・、もちろん私も、すべては民の暮らし、諸国に暮らす全ての民が安寧な暮らしができる世を作ることなのです。それは、ヤマト国すべての願いであると私は思います。・・いや、この地の民も同じでしょう。そのために、長様たちは腐心されて居られるのではないですか?」
タケルの言葉を聞き、ヤマトとはなんという素晴らしき国なのだと、タダヒコは思った。自分も蒲生の郷の民のために、全身全霊をかけて働いてきたつもりであったが、全ての民というほど広い視野はなかった。淡海の国のことすら考えていなかったように感じていた。

nice!(0)  コメント(0) 

1.9 難波津から [アスカケ外伝 第3部]

 一週間が過ぎた頃、「鳰の浜に難波津から多くの人がやってきた」と、報せが届いた。
 タケルたちは、まだ、タダヒコとともに蒲生の郷にいた。まもなくして、蒲生の郷の沖合に、無数の船が姿を見せた。タダヒコが、先導して、内湖に船を入れる。
「これはどうした事か!」
蒲生の郷の民は、船着き場で感嘆の声を上げた。
次々に着く船には、筋骨隆々の男達だけでなく、女達も数多く乗っていた。一気に郷の頭数が倍以上に膨れたようだった。
「タケル様!タケル様は、いずこに居られる?」
 最後に着いた船から声が響く。随分、年配の男がタケルを探している。それを聞いてタケルは船着き場に走った。
「これは・・ソラヒコ様・・よくおいでくださいました。」
ソラヒコは、かつて、《念ず者》と呼ばれ、肉が腐る病に侵されていたところを、アスカの治療で完治し、草香の江の水路開削では先頭に立って仕事をした。そして、その後、水門の守役として難波津で働いていた。
「開削をされるとお聞きし、私でもお役に立てるのではと参りました。」
ソラヒコは柔らかな笑みを浮かべて答える。よく見ると、ソラヒコを取り巻くように、若い男達が控えている。難波津で、ソラヒコから土木工事の技を学んでいる、いわゆる弟子の様な者達だった。
「この者達は、この地で自分の力を試してみたいと申すので、連れて参りました。・・役に立てれば良いのですが・・。そんな話をしておりましたら、女子どもが、海のような池があるのだと言って、淡海に行くならお連れ下さい等というものですから、何かの役に立つのではと思いまして・。」
ソラヒコは変わらぬ笑みを浮かべている。
それにしても、驚くほどの人数である。
「難波比古様もご命令されたようですね。」
タケルが訊く。やって来た者の中には、他にも、衛士や商いをする者たちもいた。この機会に、難波津と淡海の絆を強める事を、難波比古は考えたのだとタケルは思った。
「さて、これからどうされる?」
と、ソラヒコが訊く。タダヒコが来て、ソラヒコを館へ案内する。

「ほう・・開削ではなく、水路ですか。」
一通りの話を聞いて、ソラヒコが言った。
「それは良いお考え。・・瀬多の川を上って参りましたが、あの川を開削するのは難儀なことです。湖近くを開削したところで、下流の・・稲津という郷あたりで、二つの川の流れがぶつかり、堰き止められ、結局、洪水は避けられぬ事でしょう。」
ソラヒコの説明を聞いて、タダヒコは少し納得したようだった。
「それよりも良い方法は、水路を作ることです。」
ソラヒコが続ける。
「水路は、ため池と同様、大水の際には、一時的に水を溜める力を持ちます。これまで水の無かった地に、縦横無数の水路を巡らせることで、湖に入る水量をゆっくりとすれば、一気に水嵩が増える事を和らげるはず。その上、水路に石組みをして、土地を上げてやれば、大水の時にも被害は小さくなるでしょう。すぐにも、水路を巡らす場所を見に行きましょう。」
タダヒコは、タケルたちやソラヒコを連れて、台地へ向かった。
船着き場に居た大勢の男達も、山裾の台地へ向かう。それはまるで、大軍が進むようであった。
「ここですか。」
ソラヒコが周囲を見渡す。低木の林と、切り開かれた農地、南には低い山並みがあり、北側に川が流れている。
「良いところですね。」
更に一行は台地の縁を進み、先日、タケルたちと見た水路の取入れ口にすべき地点に着いた。
「なるほど・・あの岩は格好の場所にある。あれを使えば、堤もできましょう。・・ただ、そのための石材をどこから切り出すか・・見たところ、この周囲に大きな岩山はなさそうでしたが・・。」
ソラヒコが言うと、タダヒコは腕組みをして考え、やにわに振り返ると、水辺近くの山を指さした。
「我らは、岸辺の石組みには、あの山から岩を切り出しております。この地からは、やや遠くなりますが、良き石が採れます。」
「良いでしょう。・・タケル様、我らにお任せください。三年もすれば、きっとこの地は素晴らしきところとなるでしょう。難波比古様からも思う存分に働いてまいれとお言葉をいただいております。」
ソラヒコは自信満々に言う。
「お任せいたしました。ソラヒコ様に差配いただけば間違いないでしょう。ナミヒコ様、ソラヒコ様を信じ力を尽くしてください。」
タケルが言うと、タダヒコは強く頷いた。
その日から、水路作りが始まった。ソラヒコが男たちを使って、川に築く堤の大きさを決め、そこを当てに、水路を通す場所を決めていく。荒縄と棒を使い、少しずつ、場所を決めると、すぐに開削作業が始まる。同時に、採石場から、岩が切り出され、次々に運ばれる。
タケルは、ソラヒコの差配を受けて、民とともに仕事をした。
水路を開く作業場所近くには、寝泊まりできる掘立小屋が作られ、郷の者と難波津から来た者が、ともに生活し、朝から日暮れまで働いた。手が足らぬ田畑の作業には、難波津から来た女達だ手伝い、一時的に、蒲生の郷は人口が増え賑やかになった。それを知った鳰の浜や山背国からも、人が集まるようになった。

nice!(0)  コメント(0) 

1.10 禁断の地 [アスカケ外伝 第3部]

工事が始まると、ミヤ姫、ヤチヨは、タケルたちとは別行動を取っていた。
鳰の浜の夜、淡海の産物の話を聞いて、ミヤ姫も興味を持ち、ミワに頼んで、船を手配してもらい、淡海の湖の各所を回ることにした。
瀬多の川では、初めてきた夜に味わった、シジミ取りの様子を見て回り、漁師に倣って、シジミ取りもやってみた。それから、西岸を北へ向かい、和邇浜では、エビ漁を見た。葦を使って編んだ大きな籠を水中に沈め、エビが集まる所を見計らって引き上げる。ぴちぴちと跳ねるエビに歓喜した。
「これより北は止めておきましょう。」とミワが言う。
「どうして?もっと、淡海の食材を知り、大和や難波津に広めましょう。」
ヤチヨが言うと、ミワが答えた。
「この先は、禁断の地なのです。」
「禁断の地?」とミヤ姫が訊く。
「祖父から伝え聞いた話です。かの地は、大和の礎となった郷。むやみに足を踏み入れてはならぬといわれております。」
と、ミワが前置きして話し始めた。

かの地とは、現在の湖西地域にあたり、高島郡(たかしまこおり)と呼ばれる場所である。南側のはずれは、湖畔まで山がせり出していて、主要な陸路はなく、北側も深い山が並んでいて、隣国の若狭へ行くにも、峠を幾つも越えなければ辿り着けないほど、隔離された”陸の孤島”であった。 平地は僅かにあるが、大半は葦の原と沼地が広がっていた。 まだ、ヤマト国ができる遥か昔、日本海を制し、大きな勢力を誇った越の国が、淡海の水運に目をつけ、西海への足掛かりとして、淡海を制するために、一族を送り、山裾を切り拓き、作り上げた郷となったのだった。

「遥か古代の特別な紋様を使っているとも聞きました。・・そんな所ですから、むやみに足を踏み入れてはいけない、禁断の地であると教えられています。」
ミワの言葉を、ミヤ姫もヤチヨも神妙な顔をして聞いている。
禁断の地は、大和にも在った。
子どもの頃、春日の杜の、更に奥、命あるものが踏み入れてはならぬ場所があると教えられてきた。それは、亡くなった者達を弔う場所であり、黄泉の国への入り口であると信じられていた。
「高嶋郡の中心は、水尾の郷。その長は、ホツマ様と申されます。異形な服装に身を包み、素顔を見せぬ恐ろしき人だと聞いております。」
ミヤ姫もヤチヨも、タケルと共に行動したことで、様々な人と出会ってきた。鬼のような形相をした者、異国の者、中には病に侵され肉が溶けているような形相をした者、たいていの者に怖気づくようなことはない。
「何より、かの地は、皇の郷と言われているのです。」
ミワの言葉は唐突だった。今の皇はアスカであり、皇族、葛城王の娘である。そして、紛れもなく大和・葛城山の麓が、皇の郷のはずだった。
「今の皇様の数代前の皇様の郷だと伝承されているのです。」
そんな話しは聞いた事もなかった。ただ、大和争乱の引き金になったのは、皇位継承であり、大和の豪族の中には、血縁の者を皇としようと暗躍したことは確かである。だが、それよりはるか昔のこととなると、確かなことなど何一つ判らないに違いなかった。
「ホツマ様は、今でも、皇の郷である事を誇りとされ、淡海の国の郷とは親交を結ぼうとされません。」
ミヤ姫もヤチヨも、ホツマという人物を何故か哀れに感じ、その郷の民の暮らしが心配でならなかった。
「ミワ様、参りましょう。かの地がどんなところか気になるのです。」
ミヤ姫は、諦めきれず、ミワに懇願する。
それを聞いたヤチヨは、驚き反対した。
「ミヤ姫様の身に何かあれば、タケル様に申し訳が立ちません。・・いえ、皇様が悲しまれます。ここは、お慎み下さい。」
しかし、諦めきれないミヤ姫が反論する。
「私は、尾張からずっとタケル様とともに参りました。タケル様は、諸国の皆さまと絆を結ぶことにずっと腐心されてきました。此度、私も御力になりたいのです。・・禁断の地とされている郷とも縁を結ぶ事ができれば、きっとタケル様の助けとなりましょう。」
「しかし・・ミヤ姫様が、その様な危ない場所に行かれるのをタケル様もきっとお止めになるはずです。」
ヤチヨも譲らない。
「大丈夫です。危うくなればきっとタケル様がお救い下さいます。」
ミヤ姫はそう言うと、そっと手鏡を取り出した。
ミワは、ミヤ姫の思いに負け、仕方なく承知した。
ミワは船頭に命じて、小松の浜から船を出し、一旦沖合に向かい、大きく回り込んで、浜が見える所まで来た。
「あの浜の向こうを流れる川を上ると、水尾と呼ばれる郷があります。そこに、高嶋郡の主が住んでいると聞いています。」
徐々に浜に近づいて行く。皆が浜の方に気を取られている中、突然、周囲を多くの舟に囲まれてしまった。
「何者か!」
小舟から、厳しい声がする。
乗っている男達は、ヤマトや山城の民とは全く装いの違う衣服を身に纏っていて、長く伸ばした頭髪を旋毛辺りで結い上げ、特別な文様が入った布を巻いていた。そして、顔には目だけを出した格好で、白い布を掛けている。
船頭は必至に沖合に逃げようと船を操るが、数が多すぎる。どちらに逃げても囲まれてしまい、身動きできなくなった。

nice!(0)  コメント(0) 

1.11 囚われの身 [アスカケ外伝 第3部]

「ここは禁断の地と知って入ったのか!」
男の口調は厳しい。「大和より参りました!長様にお会いしたい!」
ミヤ姫が立ち上がり、男たちに向かって叫ぶ。その時、船が大きく揺れた。ミヤ姫は体勢を崩しよろけ、そのまま、湖水へ落ちてしまった。慌てたヤチヨが身を乗り出して手を差し伸べると、船は大きく傾き、ヤチヨも湖水へ落ちてしまった。
「ミヤ姫様!ヤチヨ様!」
ミワが叫ぶ。だが、必死にもがく二人の体は徐々に沈んでいき、見えなくなってしまった。
「ミワ様。逃げましょう!」
船頭が、ミワの肩を掴んで押さえつける。
二人が落ちた事に気を取られていた男達の隙を縫って、ミワを乗せた船は一気に沖合に漕ぎ出した。男たちは追ってこない様子だった。ミヤ姫たちは、すぐに男たちの手によって救い上げられ、船に乗せられた。二人とも気を失っていた。
二人を乗せた船は、静かに浜に近付いていく。
白砂の浜を横切り、河口に入り、上流へ進んでいく。川が大きく湾曲したところに、小さな船着き場があった。
ミヤ姫たちはそこで男たちに担がれて、山の麓にある大きな社の前まで運ばれた。
男たちは全く無言で、社の前でミヤ姫たちを降ろすと、姿を消した。
しばらくすると、社の入り口に別の男たちが現れた。現れた男たちも、顔を布で覆い、頭に独特の紋様のある布を巻いている。顔を覆った布の下から、白い髭が覘いていて、老齢だと判った。
入口からしばらく石段を上ると、大和の都の宮殿に似た大屋根を持つ建物がある。その前まで来ると、再び、男達は、何も言わず、ミヤ姫たちを降ろすと、石段を降りて行った。
社の前に残されたミヤ姫たちは、そこでようやく目を覚ました。
「ここは?」と、初めに口を開いたのはミヤ姫だった。それに気づいて目を覚ましたのはヤチヨだった。
「ミヤ姫様、御無事でしたか?」
「はい。でも、少し寒い。」
ヤチヨは周囲を探る。社の建物が幾つも並んでいる。だが人影はない。
「どうしよう・・・寒さでミヤ姫様に大事がなければ良いのだが・・」
ヤチヨ自身も全身ずぶぬれで、ガタガタと震えている。だが、自分の事よりも姫の事を第一に考えていた。
暫くすると、脇に立つ小さな社から男が一人出てきた。
その男も先ほどの男達と同様の服装をしている。ヤチヨは助けを求めようと口を開こうとするが、その男の眼光は鋭く、助けるどころか命を奪うつもりではないかと思うほどだった。
男はミヤ姫とヤチヨの周囲をゆっくりと歩きながら、品定めをしているようだった。そして、何も言わず、再び、社の中に消えた。同時に、若い男たちが現れ、二人に猿轡をして、荒縄で縛り上げ、再び、担ぎ上げて石段を下りていく。
そして、二人は、郷のはずれの小さな古い住居に入れられた。
荒縄は解かれ、自由に動けるようになったが、出口は固く閉ざされた。土間は、屋根の煙抜きの穴からの差し込む、僅かな光だけとなった。
ミヤ姫もヤチヨも、寒さに震えている。
薄暗い中、ぼんやりと視界に囲炉裏が見えた。ヤチヨが立ち上がり、土間の周囲を探り、薪になるものを集めてきた。そして、囲炉裏に入れると火をつける。僅かだが家の中に温もりが広がった。
「さあ、ミヤ姫様、こちらに。」
ヤチヨはミヤ姫を囲炉裏の傍に座らせた。囲炉裏の火が灯りになり、家の中の様子が判るようになった。所々傷みは在るものの、最近まで浸かっていた様子が判る。部屋の隅には、厨房らしきものもあり、壺には米が入っている。ヤチヨはそれを使って、粥を作った。
「あの男たちの装束は如何なるものなのでしょう?」
ミヤ姫が、粥を啜りながら、独り言のように呟く。
「異様な紋様がありました。気を失ってしっかりとは見ておりませんが、顔を隠す布をつけていたような・・・あれは、神職なのでしょうか?」
と、ヤチヨが答えるように言った。
「おそらく大和の神職とは違うでしょう。もしや、兵なのではないでしょうか?我らが沖合から近づくのを見張っていて、気付かれぬように取り囲んだところを見ると・・かなり訓練されているようにも思いますが・・。」
ミヤ姫は、そう言うと、そっと立ち上がり、戸口に近付く。建付けの悪い戸口には隙間がある。ミヤ姫は隙間から覗き込み、外の様子を探る。
「・・外に、同じ格好をした男たちが座っています。・・おそらく、見張りなのでしょう。弓や剣を持っておりました。やはり、兵なのでしょう。」
外の様子から、ここから抜け出すのは難しいと二人は悟った。
「暫くは様子を見ましょう。水の中から救い出されたのです。すぐに命を奪うつもりはないのでしょう。少し、休みましょう。」
ミヤ姫はそう言うと、土間に筵を広げ、横になる。ヤチヨは、囲炉裏の火が絶えないよう、ありったけの薪を積み、ミヤ姫の横で眠ることにした。
外の男達も、姫たちが入っている家が静かになったのを見て、少しずつ減って行った。

nice!(0)  コメント(0) 

1.12 山越えの道 [アスカケ外伝 第3部]

そのころ、鳰の浜では大騒ぎになっていた。
ミワが浜に戻り、一部始終をナオリに話した。ナオリは禁断の地へ踏み入ったミワに激怒した。
そして、すぐに、蒲生の郷にいるタケル達に知らされた。
「一大事です!ミヤ姫様とヤチヨ様が、高嶋郡の郷に行かれて、戻られぬそうです。」」
ナオリからの知らせを受けた、タダヒコが水路作りの現場にいたタケルの許へ走ってきた。
「どういうことですか?」
石組みの作業の手を止め、タケルはタダヒコから、経緯を聞き、すぐに高嶋郡に向かった。
「浜から向かうのは危険です。郷に入るには、小松浜から、山越えが良いでしょう。」
タダヒコはそう言うと、蒲生の郷から船で琵琶湖を横切り、小松の浜へ向かった。そこには、すでにナオリが大勢の兵を連れて到着していた。
如何に、ミヤ姫とヤチヨが囚われているとしても、この兵とともに、高嶋郡に向かえば、戦となる。だが、ナオリは、娘の失態を取り戻そうと躍起になっていて、戦も辞さない姿勢だった。
「ミヤ姫のわがままから起きた事。このうえ、このような大勢の兵で向かえば大きな戦になり、禍根を残しましょう。どうか、ここは私にお任せいただけませんか?」
タケルは、ナオリが率いてきた兵の前で説得する。
「しかし・・かの地は容易には入れません。これだけの兵を以ても難しいかもしれません。どうされるおつもりですか?」
ナオリが訊く。タケルに妙案があるわけではなかった。
「私は、ヤマト国の皇子です。ホツマ様が皇を敬っておられるなら、何か道はありましょう。とにかく、姫の許へ参ります。」
それを聞き、ナオリは、小松浜に住む男を二人を連れて来た。
「山越えで参られるなら、この者達に案内させましょう。」
二人は、山猟師の双子の兄弟で、名をトシカ、キシカといった。
二人の案内で、タケルとナミヒコは、小松浜から川沿いに山に入る。行く手に滝が見える。
「あれは、楊梅の滝と呼ばれています。前後に幾つも滝はありますが、あれが一番美しい。」
先を行く、トシカが説明する。そこから、崖伝いに登り、細い山道をしばらく行くと尾根に出た。大きな岩に登り、キシカが様子を探る。そこからは尾根伝いに進む。
「ここを越えれば、後は下りです。一休みしましょう。」
尾根道の一角に腰を下ろす。眼下に青い湖が広がっている。小松浜に留まった船が小さく見えた。左手に目を遣ると、湖まで山が迫った辺りの中腹に砦の様な建物が見える。
「あれは?」とタケルが訊くと、弟キシカが「見張台です。」と答えた。
「あそこは、高嶋郡の見張台、南から船が来ていないか、絶えず見張っています。そのすぐ下に、砦があり、船が近づくのを見つけると、男たちが出て行きます。姫様たちもきっとそうした事なのでしょう。」
と、兄トシカが続けた。
「山を越えて郷に入る者はめったにありませんから、見つかることはあります。このまま、山を越えて、鹿ヶ瀬の郷へ出ましょう。大丈夫です。鹿ヶ瀬には、山猟師の仲間が居ります。日が暮れぬうちに着けるでしょう。」
トシカはそう言うと立ち上がり、先へ進んだ。トシカの言う通り、山を下ると、谷あいの集落に入った。
タケルは、集落に入り、驚いた。
集落の家屋は、地面を深く掘り、立てた柱に茅を拭いたものばかりが建ち並んでいるからだった。昔話で聞いたことのある家の作りなのだ。いずれも小さく、屋根が傷んでいるところも多かった。
「さあ、こちらで今日は休みましょう。」
トシカが案内した家には誰も居なかった。
「ここらはもう僅かのものしか住んでおりません。空き家も多く、我らのような山猟師が休むにはちょうど良いのです。」
トシカはそう言うと、家の隅から薪になるような木を出してきて火をつけた。煙が立ち上り、家の中が温かくなる。すると、キシカが、火に鍋をかけ水を張る。暫くすると湯が沸き、トシカは背負ってきた袋の中から干し肉を数枚取り出し鍋に入れる。更に、稗も放り込み、煮込み始めた。
戸口で音がして、毛皮を着た男が入ってきた。手には、すでに捌いた、兎肉を持っている。その男は何も言わず、火の前に座ると、串にさして火床の隅に突き刺した。
「おい、何も言わず、入ってくるやつがあるか!」
キシカが少し強い口調で言う。
「すみません。こいつは元来無口で・・我らはほとんど山の中で暮らしておりますので、挨拶も知らぬ有様なのです。・・おい、何か言えよ。」
キシカは、タケル達にそう詫びながら、入ってきた男を小突く。男はちらりとタケルたちを見て、少し頭を下げた。そして、くぐもった声で言った。
「おれはイチ。・・昨日、郷に行ったら、おなごが捕まっているのを見た。・・あんたらは、それを探しに来たんだろ?」
それを聞いて、キシカは、ぼんやり火を見つめているイチに詰め寄るようにして尋ねた。
「本当か?どこだ?その方は、きっと大和の姫様たちだ。この御方は、大和の皇子タケル様と、難波津から参られたナミヒコ様だ。さあ詳しく話せ!」

nice!(0)  コメント(0) 

1.13 姫の居場所 [アスカケ外伝 第3部]

イチの話から、ミヤ姫たちは無事で、水尾の郷のはずれにある沼地の傍、勝野の集落に囚われている事が判った。そこは、兵たちが寝泊まりする、いわゆる宿舎のような場所で、昼夜交替で見張が立っている事も判った。
鹿ヶ瀬からそこへ向かうには、水尾の郷を抜ける道を通るか、再び山越えをするしかない。山越えするとしても、その途中には花崗岩の岩肌が剥き出しになっている場所を通ることになり、見張台からも近く、発見される可能性が高かった。
「明日、勝野へ、猪と鹿を届ける約束だ。それに隠れて行けば良い。」
イチがぼそりと言う。
翌朝、小屋の前には荷車が置かれ、大きな鹿と猪が積まれていて、大きな筵が掛けてあった。タケルは、その中に隠れる事にした。
「ナミヒコ様、二人の無事を知らせてください。」
「タケル様、きっとご無事で!」
タケルに言われ、ナミヒコは、トシカの案内で再び、小松浜に戻ることになった。
イチとキシカは荷車を引いて、水尾の郷へ向かう道を進む。荷台に隠れているタケルは、隙間から外の様子を探る。鹿ヶ瀬の郷から、しばらくは、山道を下っていく。僅かに田畑らしきものが見え、その先には川が流れていた。鹿ヶ瀬の隣の高台に、井黒と呼ばれる郷があり、その中を進むとようやく平地に出た。その先の山裾に水尾の郷がある。山裾の高台が拓かれ、大きな社が見えた。道は、そのすぐ前を通っている。荷車がちょうど、社の前まで来た時、社の前に立つ兵に止められた。
「何処へ行く?」と、兵は強い口調だった。
「勝野の郷へ鹿と猪を届けに参ります。」
イチが答える。
「そっちは見慣れぬ顔だが・・」と兵がキシカを睨む。
「マタギ仲間のキシカです。鹿が取れず、キシカに分けてもらいました。それで、共に運んでいるのです。」
イチが言うと、兵が筵に手を掛け、少し持ち上げてちらりと中を見る。鹿の足と猪の足を確認すると、
「判った。行け!」と兵が離れて行った。
水尾の郷の中へ入る。人の姿が全く見えない。家も、鹿ヶ瀬の小屋とたいして違わない作りで、やはり、ところどころ、崩れているところがある。大きな社と比べると、余りにも貧しい郷だと感じられた。
山裾の道を進んでいくと、勝野の郷が見えてきた。沼から一段高い場所に郷が作られている。こちらも同じような掘立小屋ばかりが建っている。郷の入り口には、大きな門が作られていて、兵が二人立っていた。
「鹿と猪を運んで参りました。」
イチが言うと、兵は門を開け中に入れてくれた。イチは、郷のはずれにある倉へ向かう。途中で一度荷車を止め、囁くような声で言った。
「あの家です。」と視線を送る。
茅を葺いた屋根の一部が腐っている家があり、細い煙が立ち上っている。家の前には男が二人立っていて、恐らく見張であろうと思われた。
そして、再びゆっくりと進み、倉に着く。高床になった倉の階段には暢気な顔をした男が一人、座って、剣を拭いている。
「鹿肉と猪肉を持ってきました。」
イチが言うと、男は階段に座ったまま、指で招くような恰好をした。荷車には全く視線を送ろうともしなかった。イチとキシカは、筵を持ち上げ、男から見えないように荷車にかけ、タケルをすぐに床下へ隠れさせた。それから、ゆっくりと鹿肉を運び始めた。
タケルは、床下に飛び込み、周囲の様子を探りながら、先ほどの小屋へ向かった。案外、郷の中に兵は少なかった。
ミヤ姫たちが囚われている小屋の裏側へ辿り着き、地面まで届く茅の脆くなっている場所を探して、そこに手を入れる。そして、少し隙間を作って、中を見た。
囲炉裏の傍に、ミヤ姫とヤチヨの姿があった。二人とも比較的元気に見えた。タケルは、足物の石を拾って、隙間から中へ投げ入れる。ころころと転がる音に、ヤチヨが気付いて、タケルのいる方向を見た。そして、ヤチヨは静かに立ち上がると、隙間を覗いた。
「タケル様!」と小さな声で言った。それを聞いて、ミヤ姫も来た。
「今、ここから出すから、少し待っていてくれ。」
タケルはそう言うと、背にしていた弓を取り出し、矢に細工をして強くひき放つ。高く舞い上がった矢が甲高い音を立てて飛んでいく。その音に、郷にいた兵たちが驚き、皆外へ出てきた。矢が放つ音は、山に反射して響き渡り、何処から聞こえてくるのかすぐには判別できない。
タケルは、まったく逆の方向に二本目の矢を放った。山手を見ていた男たちは、逆方向から響く音に慌て始め、小屋に戻ると、剣や弓を持って集まってきた。小屋の見張りをしていた男も驚き、その場を離れた。
それを見計らって、タケルは小屋の戸口の方へ回り、戸板を蹴破り、中へ入った。
「タケル様!」
ミヤ姫が駆け寄る。
「無事でよかった。」
タケルがミヤ姫を抱き締め、ヤチヨの方を見て、強く頷いた。ヤチヨも涙を流している。
「さあ、ここを出ましょう。」
タケルがそう言って、戸口を出ようとすると、大勢の男達が剣を構えて、小屋の前に待っていた。矢の音に翻弄された男達が異変を察して戻ってきたのだった。

nice!(0)  コメント(0) 

1.14 勝野の郷 [アスカケ外伝 第3部]

「何者だ!」
華美な甲冑に身を包んだ兵長と思われる大男が、叫ぶように言った。
すでに、狭い戸口の前に大勢の男達が剣を構えている。
タケルひとりであれば、この男たちを蹴散らす事は容易いように思えたが、ミヤ姫とヤチヨが居る。彼女たち二人を守りながらというのはやはり危ういとタケルは考えた。しかし、このままではここを出る事は出来ない。
「タケル様。」
背後でミヤ姫が呼ぶ。ちらりと見ると、ミヤ姫は手鏡を握り締めている。そして、目を閉じ念を込める。白い光が漏れ始め、それに呼応して、タケルの腰の剣が光り始めた。
タケルはそのままゆっくりと戸口の外へ出た。居並ぶ兵たちは、剣をタケルに突き出し、威嚇する。ブルっと体を震わせると、見る見るうちに、獣人に変身した。身の丈も倍くらいに大きくなり、剣を抜くと、青白い光を放っている。
「バ・・化け物!」
剣を突き出していた兵たちが、思わず腰を抜かす。中には恐れおののき逃げ出す者もいる。
タケルが、一歩前に出ると、兵たちは、大きく飛びのき、遠巻きにして様子を見ている。
獣人タケルが大きく剣を振りかざし、地面に突き立てた。すると、周囲に地響きが起き、立っていられなくなって兵は座りこんでしまった。
地面に突き立てた剣を抜き、大きく振り払うと、突風が巻き起こり、兵たちは吹き飛ばされた。周囲の家もなぎ倒された。甲冑に身を包んだ兵長も、辺りを転がっていく。
兵隊にはもはや戦意は無くなっている。それどころか、周囲の兵はことごとく気を失ってしまっていた。それを確認すると、タケルは元の姿に戻った。
「さあ、参りましょう。」
タケルは何事も無かったかのように、勝野の郷を出て行く。集落のはずれの倉庫から、その様子を見ていたキシカとイチは慌てて荷車を押して、タケルたちの後を追った。
勝野の郷を出ると、見張台から狼煙が上がっているのが見えた。
「おそらく、水尾の郷に何かを知らせるためでしょう。」
タケルたちの後をついてきていたキシカが言う。
タケルたちは湖を見た。沖合に船が多数見える。暫くすると、それが、ナミヒコやナオリが乗った船だと判った。浜へまっすぐに向っている。ふと見ると、左手の河口から船が出て行くのが見えた。おそらく、先ほどの狼煙を合図に、水尾の兵が繰り出してきたのだろう。
「このままでは、湖上で戦いが始まってしまう。止めねば!」
タケルはそう言うと、一目散に浜に走り出した。ナミヒコたちの船がいよいよ売浜に近付いた時、河口から出てきた船が追いつき、矢を放ってきた。
幸い、ナミヒコたちの船には届かなかった。だが、それも時間の問題。互いの船がどんどん近づいていく。
遅れて、ミヤ姫たちが浜に着いた。
「ミヤ姫、今一度、あの力を!」とタケルが叫ぶ。ミヤ姫もすぐに鏡を取り出し念じる。光が広がり、タケルの剣を光らせる。
再び、タケルの体が獣人に変わっていく。タケルは弓を取り出し、矢を二本番えて、強く引き放つ。二つの矢は絡まるようにして、ブーンという、風を切り裂くような音を放って、鋭い速さで飛び、先頭の船で矢を構える兵の弓を打ち抜き、大きく爆ぜた。
そして、タケルはさらに同じように矢を二本番えて放つ。今度は、敵の船の胴体辺りを直撃し、大穴を開けた。慌てた兵たちが、次々に湖へ飛び込んでいく。
慌てている兵たちの様子を見て、タケルは、身を縮め、浜から大きく跳ねる。そして、兵の乗る船へ飛び移った。
兵たちは、獣人タケルの姿を見て、恐れおののき、次々に湖へ飛び込んでいく。反転して逃げようとする船に、タケルはさらに飛び移る。
あっという間に、兵隊は皆、湖の中で辛うじて浮かんでいる。それを確認すると、タケルは元の姿に戻った。
「さあ、皆さん、兵たちを救いあげてください。」
ナミヒコがタケルの言葉を聞き、船を動かし、兵たちに手を差し伸べる。そして、船を浜へ着けると兵たちは、ナオリ達の手で縛り上げられた。
「怪我人はありませんね。」
タケルは、皆の無事を確認すると、急に倒れてしまった。
「タケル様!」
ミヤ姫が慌てて駆け寄る。
「どこか休めるところを!」
二度続けて獣人に変身した事でタケルの身に大きな負担が生じていた。タケルはすぐに、イチたちが持ってきていた荷車に乗せられて、勝野の郷へ運ばれた。気を失っていた、勝野の兵たちは、獣人タケルの姿に、すっかり戦意を喪失していて、ナミヒコたちが郷に入っても抵抗せず、すんなりと受け入れた。
タケルの体は、奥の倉に運ばれ横にされた。そして、ミヤ姫が傍に座り、タケルの手を取り、鏡を胸に当て念じる。淡い黄色い光が二人を包む。すっかり血の気がなくなって真っ白になっているタケルの体に、徐々に赤みが差してきた。そして、呼吸もしっかりするようになった。
「もう大丈夫です。しばらくすれば目を覚まされます。」
ミヤ姫はそう言うと、そのまま、タケルの胸に顔を埋めて眠った。ミヤ姫にとっても、その力を使う事は体に大きな負担がかかっていた。

nice!(1)  コメント(0) 

1.15 終焉の郷 [アスカケ外伝 第3部]

二人が眠っている間に、ナオリとナミヒコは、水尾の郷にいるホツマへの対応を相談していた。すでに、勝野の郷の兵との戦いは、ホツマへ知らされているに違いない。いきり立つホツマが大軍を率いて勝野へ現れるに違いないと考えていた。
「おい、ホツマ様は大軍を率いてここへ来ると思うか?」
ナオリは、縛り上げられ座らされている兵長に向かって強い口調で尋ねる。兵長は押し黙ったまま俯いている。隣にいる気の弱そうな兵にも同じように訊く。その兵は今にも泣きだしそうだった。タケルの獣人の姿を間近に見て、まだ震えが止まらない様子で、頼りになる話は聞けそうに無かった。
「どうしましょう?」
と、ナミヒコがナオリに訊く。これといった答えは出ない。
見かねて、イチが口を挟んだ。
「この郷には恐れるほどの兵は居ない。」
「どういうことだ?」とナミヒコ。
「俺はマタギであちこちの山を渡り歩いている。今は、鹿ヶ瀬から比良の山辺りを歩いているが、少し前は、この郷から水尾、さらに北まで歩いていたが、どこの山も荒れている。人が入らぬからだ。」
イチが続ける。
「おそらく、高嶋郡にはそれ程多くの者は住んでおらぬ。まあ、せいぜい二百というところだろう。鹿ヶ瀬当たりには僅かしかおらぬし、みな年寄りばかりだ。兵になる若い者は居らぬ。大半は、ここにいる者達だろう。」
イチはそこまで言って、兵長を睨む。兵長は、渋い顔をして押し黙っていたが、おそらくイチの言う通りなのだろうと判った。
「そう言えば、子どもや女子の姿を見た事が見なかったな。何度か、この郷近くに来たことはあったが、山中から郷を見下ろした時、若いおなごや子の姿はみておらぬ。」
そう言ったのはキシカだった。
「いったい、この郷はどうなっているのだ?」
驚き、ナオリは兵長に詰め寄る。ついに、兵長が口を開く。
「その者達の言う通りだ。もう、この郷は終わっているのだ。」
それを聞いて、他の兵たちが涙を溢し始め、中には呻くような声さえ出す者もいた。
その時、タケルが身を起こした。続いて、ミヤ姫も起き上がった。
「タケル様、もう宜しいのですか?」
そう言ってヤチヨが近づき、用意していた薬をミヤ姫に渡す。タケルとミヤ姫は交互にヤチヨの用意した薬を飲んだ。
「心配かけました。もう大丈夫です。皆、無事ですか?」
タケルが皆を見渡し、落ち着いた様子なのを確認して座り直した。
「話を少し聞いていました。」
タケルは、縛り上げられた兵たちに向き合い、じっと目を見て言った。
「郷が終わっているとはどういうことか、詳しく教えて下さい。さあ、皆さんの縄を解いて上げてください。」
タケルが優しい声で兵長に訊ねる。
兵長は縄を解かれるとタケルの前に跪いて話し始める。
「私は、モリと申します。ここ、高嶋郡は、皇の郷と言われてきたため、近衛兵長という肩書となっておりますが、ただの衛士に過ぎません。これまでの無礼をお許しください。」
モリは、驚くほど礼儀正しかった。
「郷が終わっているとはどういう事でしょう。」と、タケルが改めて訊く。
「高嶋郡にはかつては大きな郷が幾つもあり、住む者もゆうに千人は超えておったと聞きました。越の国や若狭とも盛んに交易をしており、もちろん、鳰の浜や大浦、菅浦などとも行き来しておりました。しかし、ホツマ様が来られてからは一変しました。」
「ホツマ様が来られたとは?ホツマ様はこちらの方ではないのですか?」
驚いたナオリが訊く。
「正しく言えば、今のホツマ様という事です。遥か昔、確かにここはオホド王がお生まれになり、すぐに、越の国主となられ、さらに大和の皇にまでなられました。いわば、大和が生まれた地、それを伝え続けるために、水尾の郷の社を守る者、ホツマ様が居られるようになりました。そして、二十年ごとに社を建て替え、ホツマ様も代わられるのが掟となっております。」
「ということは、ホツマ様というのは人の名ではないという事ですか?」
と、タケルが訊く。
「人の名ではありますが・・・誰かと問われれば、私も存じ上げません。素顔も知らぬのです。」
モリの話を聞き、皆が沈黙した。いにしえからの言い伝えを頑なに守るため、作られた郷の掟なのだろう。そしてそれを守ってきた民。その象徴として存在するホツマという人物。穢れのない郷である。自らの中にも、そうした思いが少なからずある事を、皆、感じていた。
「ですが・・郷が終わっているというのは・・」と改めてタケルが訊く。
「ホツマ様は郷の暮らしについても厳しく定められました。作物は全て、社に納め、皆で分け合う事。衣服や住居、仕事、そして一日の暮らし方までが掟として定められ、それを犯す事は死に値すると・・。そのために、若い者、元気な者は、山を越え、郷から逃げ出していきました。逃げ出せぬ年老いた者だけが残っている次第なのです。」
「モリ様やここにいる兵たちは?」とミヤ姫が訊く。
「私は、母が動けぬ身ゆえ、捨て置く事もできずここに残ると決めました。兵の多くはそういう者なのです。」
モリはそう言うと、兵たちを見る。皆、俯いてしまっていた。
「中には、誤って、この地に足を踏み入れ、囚われた者もおります。姫様たちを捕らえたのも、侵入するものは捕らえ、郷に仕える者とせよとのホツマ様の御命令なのです。申しわけありませんでした。」

nice!(0)  コメント(0) 

1.16 ホツマ [アスカケ外伝 第3部]

「よく判りました。・・明日、朝、社へ参りましょう。ホツマ様にお会いしなければなりません。この郷をいにしえの掟から解放せねばなりません。そして、それは大和の皇子である私の為すべきことです。」
翌朝、タケルたちは、勝野の郷に居た兵たちすべてを連れて、水尾の社へ向かった。社を守る兵は殆んど居なかった。
モリの案内で社の境内へ入ると、何か異様なものを感じた。
「タケル様・・ここは・・。」
と、ミヤ姫は言って、胸元から鏡を取り出した。赤い光がぼんやりと浮かんでいる。
「私も何か妖気のようなものを感じる。」
タケルは剣の柄に手を当てる。剣からも同じように赤い光がぼんやりと浮かんでいた。
門をくぐり、参道を入る。鬱蒼と茂る森の向こうに社が見えた。ふと、空を見上げると、徐々に黒い雲が集まってきていた。
石段を上ると、社があった。
社殿の廊下には、数人の男が立ち並んでいた。皆、顔に布をかけ素顔を見せていない。
その中央には、頭の先からつま先までを覆う不思議な紋様があしらわれた衣服を纏い、頭には鹿の頭骨を被り、顔は木で彫られた仮面をつけた男が立っている。それがホツマであることは容易に判った。
「モリよ、これはどうした事か!」
声を発したのは、居並ぶ男の一番端に立っていた男のようだった。ただ、その声は、人のものとは思えぬ甲高いものだった。
モリは傅いて、顔を伏せ、その男に返答する。
「大和から皇子タケル様が参られました。」
モリの言葉に、声を発した男が厳しい口調で訊いた。
「大和の皇子であるという証拠は!」
タケルは一歩前に進み出て、腰に携えた剣を外し、両手で持ち上げながら差し出すと、堂々たる声で答えた。
「これは皇アスカ様から戴いた剣。これをご覧いただきたい。」
剣の鞘には細かい刺繍細工と幾つかの宝玉が埋め込まれ、中央部分には皇家の紋様が施されていた。そして、その紋様は、ホツマと思しき人物が身につけている衣服の中央にも同じものがあった。いにしえから神器とともに伝えられてきた紋様である。ただ、剣からは赤い光がぼんやりと漏れている。
訊いた男は、剣に近付くことなく、顔をそむける。
中央にいた男が一歩前に出る。
「おお・・それは確かに皇家に伝わる紋章・・」
ホツマらしき人物は、そう声を発すると、その場に傅いた。居並ぶ男たちも慌てて傅く。
「長きにわたりこの郷を守り、ついに、我が代で皇子様をお迎え出来ようとは・・至福の限りでございます。さあ、こちらへお入りください。」
社の扉が開かれ、タケルとミヤ姫、ヤチヨ、ナミヒコが通された。
社の中は薄暗く、空気が淀んでいる。
広い板敷きの間の一番奥には、大きな祭壇があった。上座にタケルとミヤ姫が座り、対面する形でホツマが座った。
ホツマは、頭の被り物を取り、仮面を外した。白髪と白い髭、顔に刻まれた皺から、相当の高齢であることが判る。
ホツマは恭しく頭を下げてから話を始めた。
「私はホツマと申します。この地は、大和の大君オホド王の御生誕の地なれば、大和の礎。オホド王の偉業を讃え、今に伝えるため、この地を守って参りました。この地に皇家から皇子を迎えることができ・・」
そこまで話した時、タケルが制止して訊いた。
「オホド大王は、そのために、この地を閉ざすよう命じられたのですか?」
ホツマは驚いて顔を上げる。そして答えた。
「閉ざすとは心外なこと。高貴な、この地を穢されぬようにしておるだけでございます。」
「他の郷は穢れて居るのですか?」
「オホドの大君の偉業を讃えることなく、争いを繰り返しておるではありませんか?これこそが穢れ。この地には争いがございません。すべては、オホドの大君の思し召し。」
「ホツマ様は、ほかの地を見られたことはございますか?」
「いえ、私は社を守ることが掟ゆえ、見知らぬ事でございます。」
「では、高嶋の郷の様子は?」
「皆より聞き及んでおります。」
「では、民は郷の暮らしをどう思っておるかも判っておられますか?」
「民は、社に尽くすのが掟。郷の民は、それを望んでおり、日々励んでおります。これほど名誉なことはありません。」
タケルは大きく溜息をついた。
信念というべきか、執着というべきか、このような者に何を話せば良いのかと悩んだ。
「皇子タケル様、オホド大君の御霊代(みたましろ)に御挨拶いただきたく存じます。」
ホツマが立ち上がり、奥の祭壇に向かう。タケルが祭壇に身を向けると、ゆっくりと祭壇の扉が開かれる。
薄明かりの中、桐の箱の上に置かれた握りこぶしほどの石が見える。

nice!(0)  コメント(0) 

1.17 翡翠 [アスカケ外伝 第3部]

「オホドの大君の御霊代、翡翠石でございます。」
タケルが立ち上がり、祭壇に近づくと、腰の剣が小刻みに震え、ぼんやりと光り出した。それに呼応するように、目の前の翡翠石が淡い緑色の光を発し始めた。
「これは・・オホドの大君が喜んでおられるようじゃ!」
ホツマが歓喜の声を上げる。
しかし、タケルには、その石がタケルを恐れているように感じられた。更に一歩近づくと、翡翠石の光が強くなる。剣から漏れる光も一層強くなる。後ろにいたミヤ姫の鏡からも光が漏れ始める。
「この御霊石はいつからここに置かれているのですか?」
タケルがホツマに訊く。
「オホドの大君が崩御された時、大和から届いたものにございます。大君の御傍に長く置かれていて、寵愛されていたともお聞きいたしました。翡翠は越の国の山々が生み出す宝ゆえ、オホドの大君の御霊代として御祀りした次第です。」
タケルは剣を抜いた。剣から発する光はさらに強くなっていく。
タケルが石に剣を翳すと、光が赤く色を変え、石から発する光と交わった瞬間、タケルの目の前に物の怪が見えた。
それは、大きな真赤な口を開き、人を喰らう魔物のようだった。魔物の体には、皇家の紋章と似た紋様がある。
「タケル様、何をなされる!」
タケルが剣を翡翠石に向けたのを見て、ホツマが立ち上がる。
「この石は、御霊代などではない!怪しき物の怪の類です。」
「何を・・何を言うか!・・・」
ホツマが、聞いた事の無いほど荒々しい声を上げ、床に跪いた。
「ううう・・・・」
今度は、地の底から響くような唸り声になり、ゆっくりと立ち上がる。
目から鈍く赤い光を発し、口が大きく裂け、物の怪に変わっている。
「こやつを止めよ!」
物の怪になったホツマが叫ぶ。
すると、何処からか、顔を特有の紋様の入った布で覆った男たちが現れ、タケルを取り囲み、ぐるぐると回る。そのうちに、翡翠石から黒い糸のようなものがニョロニョロと伸びてきて、タケルを囲む男達に絡み、徐々に大きくなる。振り返ると、ミヤ姫やヤチヨ達も、怪しげな男たちに囲まれていて、やはり黒い糸のようなものが包もうとしている。
「タケル様!」
ナミヒコが叫ぶ。
ナミヒコの口から白い光が吸い出され、黒い糸に吸い取られている。精気が吸い取られているのだった。
「ええい!」
タケルが、ナミヒコに取り付く糸を剣で払う。ナミヒコはその場に倒れる。
ミヤ姫は、ヤチヨを抱きかかえ、鏡を握り締めている。鏡から発する光が、ミヤ姫とヤチヨの周りに広がり、黒い糸が迫るのを食い止めている。
「タケル様!!」
ミヤ姫が声の限りに叫ぶ。
すると、タケルの剣から激しい光が発し、社の三方の戸板を吹き飛ばした。
外に控えていた、モリや兵たち、イチ達は何事かと社の中の様子を見た。
タケルが剣を構え、黒い塊と闘っている。
光がタケルの体を覆う。タケルはぶるっと体を震わせると、手足と背中がもこもこと膨らみ、濃い毛が伸び始め、見る見るうちに、獣人へと変化した。
黒い糸の様なものが、さらに広がり、社の外にいた兵達を襲おうとし始める。糸に触れた兵はその場に倒れると、ゆっくり立ち上がり、剣を持ち、タケルたちに向かってくる。目が赤く光っている。
気が付いたばかりのナミヒコは驚き、腰の剣を抜く。
「いけません。」
ミヤ姫が叫ぶ。
「物の怪に憑依されているだけです。殺めてはなりません。」
ミヤ姫の言葉に、ナミヒコは仕方なく、襲ってくる兵を剣で払うしかない。次々に、兵たちが物の怪に憑依され、ついに、周囲に居た者は、皆、物の怪の手下となってしまった。
「タケル様!」
ミヤ姫も鏡を強く握り念を込める。ミヤ姫の鏡の光がタケルの背を押す。
「グルルル―。」
タケルは、剣を大きく振りかぶり、黒い糸を切り裂く。糸は霧となり消えていく。幾度も幾度も、タケルは剣を振り下ろし、糸を切り裂く。徐々に、糸が小さくなると、憑依されていた者がその場にバタバタと倒れ始めた。
タケルは、ホツマと対峙している。
「おのれ!化け物め!」
ホツマは、完全に物の怪に憑依されてしまっている。
両手を大きく伸ばすと、指の先から黒い糸が勢いよく飛び出し、タケルに迫る。口からも黒い糸を吐く。
タケルは、ホツマの後ろに置かれた翡翠石から黒い糸が出て、ホツマの背中を貫いているのを見つけた。
「やはり、あの石を砕かねば収まらぬようだ。」
タケルは剣を高く翳す。黒雲が集まり、ゴロゴロと雷雲となる。一度二度、光が走る。次の瞬間、高く掲げた剣の上に、稲妻が落ちた。
ドーンという轟音とともに、社は吹き飛び、祭壇も跡かたなく飛び散る。それでも、台の上に置かれた翡翠石がそのまま残っていた。

nice!(1)  コメント(0) 

1.18 解放 [アスカケ外伝 第3部]

タケルは高く飛び上がると、剣を構えて、翡翠石を叩く。
ゴーンという音とともに、翡翠石が砕け散る。
その瞬間、タケルの目の前に、都の風景が広がった。

大きな宮殿の広間、玉座が置かれている。おそらく、王の間なのだろう。
だが、玉座に王の姿はない。王は、玉座の前に横たわっている。辺りは血の海。周囲には何人もの男が同じように血を流し倒れている。
「これはオホド王の最期か。」
走り去る男達の姿がある。権力を手にしながら、反対勢力による暗殺があったのだとすぐに判った。
血の海から、男が一人立ち上がる。深手を追ってはいるものの何とか一命は取り留めたようだった。その男は横たわる王の屍に近付き、短剣を取り出し、王の眼をくり抜いた。そして、懐から翡翠石を取り出し、石の穴の中へその目を押し込んだ。そして、よろよろと玉座の後ろに身を潜めた。

「これが怨念を集めたという事か?」
はっと我に返ったタケルの目の前に、小さな粒になった翡翠石が飛び散る。周囲にいたヤチヨ達やホツマ達は、その波動で建物の外へ吹き飛ばされた。
辺りが静まると、社の中には、タケルとミヤ姫だけになっていた。板敷の間には砕け散った翡翠の粒が散らばっている。
よく見ると、棚の真ん中には、蠢くような黒い塊があった。
ようやく気付いた者達が少しずつ社の中を覗き見る。ホツマも起き上がる。
タケルはまだ剣を構えている。
剣はぼんやりと赤い光をまとっていた。
「物の怪の正体。御霊代の翡翠の石の中に詰まっていたものです。」
ふらふらとホツマが、社に上がってきて、黒い塊に近寄ろうとする。
タケルが手を翳す。
「まだ妖力を持っております。近寄ると再び憑依されます。」
見る見るうちに、黒い塊は少しずつ形を変え、塊から細い糸のようなものが伸び始め、祭壇の中に広がっていく。
「翡翠石という殻を失い、新たな殻を求めているに違いない。」
タケルは、黒い塊の様子を見ながら、皆に言う。
「この郷の者は、このような物の怪をオホド王と信じ守ってきたのです。そのために、掟で縛られ、苦しい暮らしをしていたのです。これは、オホド王ではない。おそらく、オホド王が都に居られた頃、都に蠢く悪しき者たちが生み出した物の怪でしょう。愚かなことです。」
黒い塊は再び広がりはじめる。
タケルは、黒い塊の芯にこそ、物の怪の本体があると考え、その時をうかがっている。
剣の赤い光が徐々に強くなってきた。細い糸のようなものが剣の光に触れると霧のようになって消えていく。
「ここか!」
タケルは、黒い塊の中心に目のようなものを見つけ、剣先を素早く走らせ貫いた。社を包み込むほどに広がった黒い糸全てに光が走り、霧になって消えていく。空を舞っていた男たちは、黒い霧となってきえ去った。
剣の先には、小さな干からびた肉片が突き刺さっていた。
いったい何が起きていたのか、周囲に居た者は物の怪に憑依されてしまっていて判らずにいた。
タケルは、皆に、剣の先に突き刺さっている肉片を見せて、
「おそらく、これはオホド王の亡骸の欠片。オホド王に仕えていた者が、王の御霊を留めるため、邪気を払う力がある翡翠石の中に埋め込んだに違いありません。だが、それが物の怪を集める事になった。懇ろに供養してください。」
そう言って、肉片を渡した。
ホツマは両手でそれを受け取ると、その場に座り込んでしまった。
肉片に触れた時、オホド王の御霊に触れたような感覚が走り、これまで自分が守ってきた事の罪の重さを強く感じたのだった。
「すぐに、郷を、いにしえの悪しき掟から解放してください。」
タケルが言うと、ホツマが涙を流し、悔い改めた表情で頷いた。
「そして、これからは、鳰の浜や蒲生の郷とも親交を進め、高嶋郡を再び、活気あふれる良きところに導いてください。」
そう言って、懐から小さな袋を取り出した。
摂政カケルから渡された袋には、黒水晶の玉が入っていた。
「これは、ヤマト国の皇アスカ様が念を込められた玉です。民の安寧を祈願され、悪しき者を退散する力を持っております。これからは、これを祭壇に置き、安寧な暮らしができる郷づくりに励んでいただきたい。」
しかし、ホツマは手を伸ばさない。
「それはもはや私の為すべきことではありません。これからは、もっと若き者達が思うようにすべきでしょう。おお、そうだ、モリ、モリは居るか?」
ホツマがモリを呼ぶ。
社の下に控えていたモリが驚いて社に入ってくる。
「モリよ。そなたは、母を守るため郷に残る優しき者だ。そなたの様な者がこの郷を率いていくべきだ。頼む。これより先、高嶋郡の長として働いてはくれまいか?」
力なく座り込むホツマが涙を流しながら、モリの手を取る。
タケルもモリの顔を見る。社の外にいる兵たちもモリに注目している。
モリは、周囲をぐるりと見渡し、一つ深呼吸をして答える。
「命を賭けて、皆が安寧に暮らせる郷を作りましょう。ホツマ様、皆様も御力をお貸しください。」

nice!(0)  コメント(0) 

1.19 伊香の郷 [アスカケ外伝 第3部]

残るは、イカルノミコトであった。
タケルとミヤ姫、ナミヒコ、ヤチヨは、高嶋の郡、勝野の郷から船で、大浦の港を目指した。
湖上は山から吹き下ろす北西風が強くなり、波も高い。なるべく、湖岸に近い辺りを、船で進んでいく。
海津埼までは、モリが、船で伴走して見送ってくれた。
「この先、大浦、菅浦を越えれば、伊香郡(いかのこおり)です。イカルノミコト様はおそらく、御里である、木之本辺りにおいでかと思います。」
そう案内しているのは、ナミヒコが難波津から率いてきた衛士の一人で、一足先に笥飯(けひ)の郷の様子を見て来た、シラキという者だった。
シラキは、鳰の浜に戻り、タケルたちが高嶋郡に向かった事を聞き、勝野で合流した。
「イカルノミコト様はどのような御仁でしょうか?」
タケルが、シラキに訊く。
「イカルノミコト様は、まだ、若き頃に、木之本辺りの沼地を拓かれた御方だと聞きました。そして、その御力は、周囲の郷の者も知る所となり、伊香の郡だけでなく、坂田の郡の者も従うようになったのだと・・。」
鳰の浜や蒲生の郷で聞いた人物とは随分と異なるようだった。
「力で周囲の郷を従わせているとも聞いたのですが?」と、タケルが訊く。
「おそらく、それは、多賀の辺りの者の流言ではないでしょうか?蒲生の郡と坂田、伊香の郡の親交が深くなれば、多賀の地が取り残される事になります。坂田や伊香の郡は、田畑を広げ、皆、豊かな暮らしをしております。蒲生の郡が田畑を広げることになれば、淡海の国で大きな力を持つ事にもなりましょう。そうした事を快く思わぬ者もいるのです。」
シラキが答える。
「一つの国でそのような・・。」と、話を聞いていたミヤ姫が言う。
「淡海の国は、湖で繋がり、湖で隔てられております。他の国とは少し事情が異なるのでしょう。難波津とて、海の向こうの国々とのつながりは、かつてはなかった。それ故、諍いも多くありました。摂政カケル様が西国から来られなければ、いまだに、戦は絶えなかったと思います。」
と、ナミヒコが言う。
目の前に山並みが近づいてきていた。
「あの山を越えたところが、伊香の郡です。船で向かうとなると、大きく南へ回り込むことになり、そこから山裾沿いの道を歩くことになります。山越えの方がはるかに早いとは思いますが、いかがいたしますか?」
シラキが訊く。
「山越えで参りましょう。」と力強く言ったのはヤチヨだった。
船は、菅浦の先から対岸の山の麓へ付けた。郷らしきものはなく、細い道を上る。尾根に出ると、伊香の郡が見渡せた。左手と対面には山並みが続き、右手の先には沼地が広がっている。
日が傾く頃にようやく、山を下り始め、日暮れにようやく郷に入れた。
「旅の者ですが、一夜泊めていただけませんか?」
シラキはそう言って郷の家を訪ね、郷のはずれでようやく宿となる家を見つけてきた。
その家には、老夫婦がいて、温かく迎え入れてくれた。家屋は大きく、板敷の広間の真ん中に囲炉裏がある。高嶋郡の民の暮らしと比べると、遥かに豊かだった。倉もあるようで、夕餉のために、米も不自由ない様子で振舞ってくれた。
「旅の御方とは珍しい。どちらから来られた?」
翁が囲炉裏の火加減を見ながら、穏やかな口調で尋ねる。
「大和より参りました。」と、タケルが答えた。
「ほう、大和とは・・都は賑やかなのでしょうな。」と翁。
「はい。」とミヤ姫が答える。
「都の皇様と摂政様は神のような御方だと聞いておるのだが・・我が地のイカルノミコト様も神のごとき御方でな・・。」
と、翁が話し始めると、夕餉を運んできた媼(おうな)が「自慢話へせぬようにと言われておるでしょうに。」とたしなめるように言った。
「いえ、是非ともお聞きしたい。イカルノミコト様の御噂はここへ来る前、お聞きしておりますが、もっと詳しく知りたいのです。」
と、タケルが促した。
「そうか、そうか。」と翁は機嫌を良くして話し始めた。
「ここらは、大半が葦の茂る沼地で、田畑を作るのは難しい土地であった。だが、イカルノミコト様が田畑にかえて下さったのだ。若き頃、難波津に行かれ、水を治める術を学ばれたと聞いた。・・おお、そうだそうだ。確か、その時、カケル様という御方が導いて下さったとも聞いた。」
翁の話は、紛れもなく摂政カケルが行った草香の江の干拓の事だった。
「それから、周囲の郷にも出向かれ、治水の術を民に教えて来られた。今では、坂田の郡の者も、イカルノミコト様を頼りにしておる。以来、我らは食い物に不自由する事もなく、なにより洪水で命を落とす者もなくなった。この歳まで生きて来られたのはイカルノミコト様のおかげ。我らにはイカルノミコト様こそ神であろう。・・・それにしても、難波津というところは、都よりも素晴らしきところのようだな。」
翁の話に嘘は無いようだった。シラキが言っていたことが証明された。
難波津が褒められたことに気を良くしたナミヒコがつい口を滑らせる。
「実は、私は難波津から参ったナミヒコと申します。こちらは、ヤマト国の皇子、タケル様とミヤ姫様なのです。」
それを聞いて、翁は驚き、囲炉裏の前で転がった。
「これは・・何と、畏れ多い事・・。」
翁はそう言うと、手をつき深く頭を下げる。その様子を見て媼も傍に来て、タケルを前にして突っ伏した。

nice!(1)  コメント(0) 

1.20 イカルノミコト [アスカケ外伝 第3部]

翌朝、朝餉の席に翁の姿がなかった。
「翁殿はどちらに?」
朝餉の席に翁の姿が見えない。媼は「用事で出ております」とだけ答え、朝餉の膳を頭より高く抱えてそろりそろりと運んでくる。見かねて、ヤチヨとミヤ姫が媼を手伝うと、媼が「もったいない事で」と恐縮している。
何とか、朝餉を終えると、家の外が妙に騒がしい。
「何でしょう?」
と、ヤチヨが戸を開けて外に出ると、家の周りに多くの民が集まっていた。その人々の間を掻き分けるようにして、麻布の野良着姿の大男が進み出てきた。顔も腕も膝も泥だらけになっている。
「こちらに皇子タケル様がおいでになるとお聞きしまかり越しました。」
響き渡るような堂々とした声で戸口から呼びかけた。周囲の民から「おお」という声が上がる。少し遅れて、翁も姿を見せた。
「まだ、朝餉の最中ではないでしょうか?今、様子を見て参ります。」
翁がそう言って家の中に入る。囲炉裏端に居たタケルは、イカルノミコトの声を聞き、立ち上がると、戸口に出た。
「すみません。騒ぎになったようですね。」
タケルは、翁に声を掛けて外に出た。すぐにミヤ姫もナミヒコも出た。
「おお・・タケル様じゃ・・。」
家を取り囲んでいた民が、タケルの姿に、いきなりひれ伏してしまった。
イカルノミコトは、タケルの前に進み出て、跪き、挨拶をする。
「私はイカルノミコト。今朝、翁から知らせを貰い、参じました。実は、今朝早く、近くの者から水路を猪に壊されたと訴えがあり、修理に手間取ってしまい、このような格好となりました。お赦し下さい。」
イカルノミコトは丁寧にあいさつをする。全身泥だらけの訳は判った。
「ミコト様自らが修理をされたのですか?」
タケルは挨拶の前に訊いた。
「はい。これが私の為すべきこと・・私のアスカケなのですから。」
と、イカルノミコトが笑いながら答えた。
「アスカケ?・・あなたは、アスカケをご存じなのですか?」
タケルは驚いた。アスカケは、春日の杜の子らが学ぶ初めの言葉である。
イカルノミコトはゆっくりと立ち上がり、笑顔のままで答える。
「タケル様、それにしても大きくなられましたな。私が難波津に居た頃にお生まれになり、アスカ様は常にあなたを抱きかかえられておられました。よく泣く赤子でしたからな・・。」
タケルは驚いてばかりだった。
「まあ、後ほど、館にお越しください。ゆっくりとお話いたしましょう。まだ、少し修理すべきところが残っております。申し訳ありません。」
イカルノミコトはそう言って、翁の家を後にした。集まった民も、イカルノミコトに呼ばれてついて行った。
タケルたちは支度を整え、翁と媼に十分に礼をして、館へ向かった。郷道を歩きながら、田畑の様子も観察した。至る所に水路が巡らされている。川の水を引き入れるためではなく、湿地にたまる水を抜くためだと一目でわかった。それは、郷道から東の山の麓近くまで、実に細かく設えられている。
「この技術は、是非、タダヒコ様にもお教えしたいものですね。」
ナミヒコが、その風景を眺めながら呟く。
イカルノミコトの館は、郷の真ん中あたりにあり、郷道から館まで参道のような作りになっていた。入口に、イカルノミコトの姿があった。
タケルたちはイカルノミコトの案内で館に入った。豪勢なつくりではない。至って質素であるが、ただ、広々としている。これなら郷の者、皆が入れるのではないかと思えるほどだった。
「この館は郷の皆が使うところなのです。私の居家はこちらです。」
そう言って連れて行かれたのは、館の裏手だった。小さな家があった。
「ヤマトの皇子をお迎えするには少し失礼とは存じますが、こちらの方が落ち着きますので。」
イカルノミコトは小さな家の扉を開け、中にタケルたちを迎え入れた。板敷の間に、鹿の毛皮が敷かれ、真ん中に囲炉裏がある。早くに火が入れられたのか、部屋の中は充分に温かい。
「さあ、どうぞ。」
皆が座ると、イカルノミコトが、囲炉裏の火の様子を見る。火箸を持つ手にふと目が留まる。両手の指が三本ずつしかない。視線を感じたのか、イカルノミコトが、さっと手を広げ、タケルに見せた。
「このように指がありません。でも、充分に仕事をしてくれます。」
と、にこやかに言った。
「もう、タケル様ならお判りでしょう。そう、私は難波津にいた”念ず者”だったのです。肉が腐る病で、郷を追われ、難波津のはずれに居りました。」
イカルノミコトの言葉にどう返してよいか判らなかった。
「私は、アスカ様にお救いいただいた者の一人です。指は落ちてしまいましたが命は助かりました。そして、カケル様から声を掛けていただき、開削の仕事をしました。その時、私には名がありませんでしたので、カケル様からイカルという名をいただいたのです。」
イカルノミコトの話で全ての疑問が解けたようだった。
アスカケの話の中で、難波津の開削の話は幾度も聞いた。念ず者や肉が腐る病のくだりは、幼心に深く刻まれていた。
父カケル、母アスカの数知れぬ偉業の中でも、タケルには、二人の優しさ、心の深さを知ることのできる話だった。
「なんと不思議な御縁なのでしょう。」
アスカケの話を知るヤチヨが、感動して涙を溢していた。

nice!(0)  コメント(0) 

1.21 アスカケの力 [アスカケ外伝 第3部]

「此度、なぜ、このようなところへ参られたのでしょうか?」
イカルノミコトが訊く。
タケルは、出雲国の怪しげな動きについて、イカルノミコトに話した。
「八百万の神を祀る出雲国に不穏な動きとは、忌々しき事ですね。実のところ、近頃、越の国でも不穏な動きを感じております。この先、大きな戦でも起きないかと心配しておったところです。」
イカルノミコトは神妙な顔で言った。
「伯耆の国の事は何か、ご存じありませんか?」
タケルが訊く。
「ふむ・・伯耆の国は、古くから出雲国に従い、安寧な国であったと聞き及んでおります。だが、国主が倒れ、バラバラになった郷を纏めようとしている者がいると聞きました。」
イカルノミコトは知っている限りの話をした。
「纏めようとしている?・・その者の名は?」
タケルが思わず訊いた。
「いや、そこまでは・・ただ、その者が現れてから、越の国が何かと騒がしくなりました。」
越の国と伯耆の国では、間に、多くの国があり、直接的な繋がりはないはずだった。
「越の国は、出雲国と特別な縁がございます。オホド王の時、王の妹君が、出雲へ御輿入れなされました。以来、二つの国は、多くの者が互いに嫁を取り、縁を深くしていきました。領国はいわば双子のような国なのです。」
「なるほど・・。」
と、ナミヒコが頷く。
「八百万の神を祀る出雲国は、それ以前から周囲の国から敬われる立場にあり、臣下のごとく従っておりました。東の越の国も、若狭や丹波辺りまでを属国としておりました。結果として、両国に挟まれた国は全て属国とみなされておりました。」
「属国ですか・・。」と、タケル。
「その一つ、伯耆の国が離反する事態となったわけですから、騒がしくなるのは当たり前の事のことです。」
イカルノミコトの話で、タケルは、日本海に面した国々の事情がようやく呑み込めてきた。
伯耆の国を纏め、出雲や越の支配を排除しようとしている者が、トキオであれば、理解できる。一刻も早く、伯耆の国へ向かいたいと思っていた。
話が一区切りついたところを察して、ナミヒコがイカルノミコトに訊いた。
「一つ伺いたい。何故、イカルノミコト様はこの地であれほどの仕事をされているのでしょう。ここが故郷であるなら、病とはいえ、追われた身としては、これほど尽くすこともないでしょう。」
ナミヒコが訊く。
「そうかもしれません。確かに、ここは私が生まれ、病を嫌われ、追い出された・・悲しい思いでの多い場所です。再び戻ろうとは思っておりませんでした。」
イカルノミコトの言葉は至極もっともだった。
「私は、難波津でアスカ様やタケル様から、自ら為すべきことを見つけるアスカケという旅の話を聞きました。まだ十五ほどの子どもが、遥か九重の地から、大変な苦難を乗り越え、難波津まで来られた話を聞いているうちに、郷を追われ難波津に辿り着いたのが私のアスカケの旅の始まりだったのではないかと思ったのです。」
タケルやヤチヨは、春日の杜でカケルやアスカから話を聞き、大きな希望を抱き育った。思えば、安寧な暮らしの中で聞くアスカケはどこか遠い夢語のようにも聞こえていた。だが、イカルノミコトには、実に生々しく、自らの置かれた境遇を憂うのではなく、力にするほどの話しであったのだと思っていた。
「難波津で学んだことを生かすのが私のアスカケ。そう考えた時、故郷の事を思い出しました。この地は昔から水害に悩まされ、父や母も飢えに耐えながら働き、それでも水に勝てず命を落としました。私が難波津で学んだことを生かすには、やはり、この地しかなかったのです。」
イカルノミコトは少し目を潤ませて答える。
「しかし、イカルノミコト様がそうお思いになっても、郷の者達はすんなりとは受け入れてはくれなかったのではないですか?」
今度は、ヤチヨが訊いた。
「はい。辿り着いたものの、頼る者など居りません。初めは、郷のはずれの森の中で暮らしておりました。・そこで、あの翁夫婦に逢ったのです。」
「あの翁夫婦とは、我らがお泊めいただいた・・あの・・」とナミヒコ。
「はい。まだ、翁と呼ぶほどのお歳ではありませんでした。水害で息子たちを亡くされたばかりで、私の事を息子のように可愛がって下さいました。私がやろうとしている事を真剣に聞いて下さり、郷の者達を説得下さいました。・・もちろん、初めのうちは上手くいきませんでした。しかし、徐々に、水田にできる土地が増えてくると、皆が手伝ってくれるようになり、今のような広い田畑となったのです。」
イカルノミコトは、昔の想い出を楽しそうに語った。
「あの翁は私の恩人・・いや、救いの神なのです。」
イカルノミコトの言葉を聞き、ミヤ姫が言った。
「では、この郷には神が二人いらっしゃるのですね。」
「二人?」とイカルノミコトが訊く。
「ええ、あの翁様は、今の郷の暮らしと命を守ったのはイカルノミコト様で、郷の神であると申されておりました。」
ミヤ姫が言う。
「いや・・私は神などではない。私の為すべきことをしただけの事。」
イカルノミコトの言葉を聞き、タケルは、父カケルの事を思い出していた。自分の為すべきことをするだけというのは、父カケルの口癖だった。

nice!(0)  コメント(0) 

1.22 縁は繋ぐ [アスカケ外伝 第3部]

「もう一つ、お聞きしたいことがあります。」
今度はタケルが訊いた。
「水害を防ぐため、瀬多川の開削を進めようとしておる者が居られるのを知っていますか?」
「ええ・それはきっと、蒲生の郷タダヒコ様でございましょう。鳰の浜のナオリ様も同じ考えだと存じております。」とイカルノミコトが返答する。
「イカルノミコト様はいかがお考えですか?」
タケルが続けて訊く。イカルノミコトは少し考えてから答えた。
「開削ができるのならば有難い事。しかし、そのためには途轍もなく大きな労力が必要になりましょう。一年やそこらでは進まぬ大工事。そのうちに、大水でも出れば元も子もない。それよりも、ほかに手をつけるべきことがあると考えております。」
「タダヒコ様やナオリ様は、イカルノミコト様が反対し、妨害していると考えておられましたが・・・・」とタケルが言うと、ナミヒコが更に加えた。
「特に、タダヒコ様には、執拗な嫌がらせをされているとも言われておりましたが・・。」
「何という事。私にはそのような邪な考えなどありません。それに、それほど暇でもない。坂田の郡や伊香の郡で、やるべきことが沢山あるのです。おそらく、それは、誰かの流言をタダヒコ様やナオリ様がお聞きになっての事でしょう。嫌がらせというのも、きっと、そういう者達の仕業でしょう。」
イカルノミコトは怒る事もなく平然と答えた。
「何かを為す時、多くの者はまず反対します。皆、毎日の暮らしが大きく変わる事を恐れているからです。そして、強く反発し妨害しようとする者も少なからず現れます。これは世の常。しかし、反対する者の中にも少しずつ、賛同し協力してくれる者が現れます。そういう者達とともに、まずは動けばよいのです。」
”念ず者”と呼ばれた頃の酷い仕打ちを越えてきたイカルノミコトの言葉は、どこか達観している。
「まあ、実は、それをお教え下さったのは、カケル様なのですが・・。」
イカルノミコトはにこやかに話す。
「イカルノミコト様、今、蒲生の郷では大工事が始まっております。山手の高い土地に水路を引いているのです。それは、田畑を作る為だけではなく、暴れる川を治めるため。一気に湖に流れ込む水を山の高みで一時的に留めれば、水害を抑えられるのではないかと思うのです。」
タケルが説明すると、イカルノミコトは少し考えてから言った。
「ならば、山手に大きな池を幾つも作るとより効果も大きいでしょう。ここ、伊香の郷には、沼地は広がっておりますが大きな水害は少ない。実は、この先の山の向こうに、大きな池があるからなのです。」
「そうなのですか・・。」とナミヒコ。
「水害の多くは、湖の水嵩が上がるからではないのです。湖に流れ込む川に大水が一気に下ると、土手を壊し、あらぬところから水が入ってくる。それを防ぐために土手を高くしたところで、水の力ですぐに壊れてしまいます。水の力をどこかで弱めてやらねばなりません。大池を作ればその役割を果たしてくれます。」
水で苦労してきたイカルノミコトははっきりとした答えを持っていた。
「イカルノミコト様、是非、タダヒコ様と会っていただきたい。お二人が力を合わせれば、淡海はもっともっと豊かで穏やかな国となるはずです。」
タケルは、イカルノミコトの手を取り言った。
「是非にも。私も、タダヒコ様の御力を知りたいと思っておりました。」
タケルたちは、イカルノミコトとともに、蒲生の郷へ向かうことになった。すでに、季節は冬。
空を見上げると渡り鳥の群れが飛んでいる。湖畔には、コハクチョウの姿も見える。
「この辺りはとても水田にはできません。それで、蓮を作れまいかと思っておるのです。」
湖岸近くを船で進みながら、イカルノミコトが言う。
「蓮ですか?」とヤチヨが興味を示した。
ヤチヨは、大和に居た頃から蓮に興味があった。
都の近くにも沼地が広がっている。ある時、渡来人が、蓮の種を持ち込み、育て始めていた。夏に美しい花を咲かせるだけでなく、秋には泥の中から見事なレンコンを掘りだしていた。それは食材として絶品だということをヤチヨは知っていた。
「ヤチヨ様は、蓮をご存じなのですか?」
イカルノミコトが訊く。
「はい。難波津の市で手に入れ、食しましたが、絶品でした。いつか、淡海の湖が育んだ蓮根を食してみたいと思います。」
ヤチヨの目が輝いている。
「ほう・・それ程に良いものですか・・。ならば、急いで作りましょう。」
イカルノミコトも嬉しそうに答える。
暫くすると、島が見えてきた。前方から近寄る船がある。
「ナミヒコ様!タダヒコ様は、あの島に居られるようです。」
一足先に出発して、タダヒコの居場所を探していたシラキだった。二艘の船は、島へ向かう。そこは、石切り場にしている場所だった。大勢の男達が働いている。その中にタダヒコが居た。
「タダヒコ様!」
タケルが叫ぶと、タダヒコが顔を上げ、すぐに船着き場にやってくる。
「これは、タケル様。このようなところまでお越しになるとは・・。」
タダヒコは額の汗をぬぐいながら、笑顔で挨拶した。

nice!(0)  コメント(0) 

1.23 対面 [アスカケ外伝 第3部]

「ここは?」とタケルが訊く。
「水路の工事は順調ですので、私は、郷の方に掛かっておりました。石積みを広げ、山の水路とつなぐ工事を始めたのです。・・山の石切り場は遠いので、近くから切り出せないものかと・・ちょうど良い所が見つかり、数日前から作業に掛かりました。船で運べば、大きいものも容易です。これなら、水害に強い郷を作れます。」
タダヒコは上機嫌で答える。ふと、タケルの横にいる男に目を遣る。
「そちらは?」
「お初に、お目にかかります。イカルノミコトにございます。」
イカルノミコトが深々と頭を下げる。
タダヒコは驚いた。瀬多の開削に反対し、これまで何度も嫌がらせをされていた相手だと思い込んでいる。
タダヒコは、どう返答すればよいか判らず、小さく頭を下げる。
「やはり、タダヒコ様は私の事を疑っておられるようですね。」
イカルノミコトはにこやかな笑顔を見せながら言った。
困った表情を浮かべたままのタダヒコを見て、タケルが助け舟を出す。
「タダヒコ様、イカルノミコト様は貴方が思っているような御仁ではありません。おそらく、全ては、流言。その大元は当りがついております。是非、そのあたりについてゆっくりとお話ししましょう。」
タケルの言葉を聞き、タダヒコもようやく表情が緩んだ。
「それでは、ここの仕事のきりを着けますゆえ、先に、我が館へ行かれると良いでしょう。夕刻には戻ります。」
タダヒコはそう言うと、再び、石切り場へ戻って行った。
タケルたちは、夕刻まで、山手で進んでいる水路工事の現場を見て回った。
「これ程の人をどうされたのですか?」
イカルノミコトは、水路工事に掛かっている人の多さに驚いている。工事を進めているところには、俄かに郷ができていて、人夫だけでなく、女達もたくさん働いている。
「初めに難波津から、指南を受けるために職人を呼びました。それからは、難波津だけでなく、紀伊の国や西国からも、仕事を求めて多くの人が集まってきたのです。」
「西国からも?」
「ええ、ヤマト国を支える多くの国は、難波津に館を持ち、諸国から知恵や技術を得ようとしております。此度の水路作りの話は、特に、伊予や讃岐、九重の者には良い機会になったようです。ここで技術を学び、自国で役立てようと思う若者が集まったようですね。」
「うーむ。」
イカルノミコトは唸った。
これまで、自分の郷の事は、居るだけの者で何とかしてきた。だが、やはり、大きな工事はできず諦める事も多かった。だが、他国の力を借りる事が出来れば、もっと大きな仕事もできる。そんなふうに考えては来なかった自らを恥ずかしいと感じていた。
夕刻になり、タダヒコが館へ戻ってきた。
「粗末なところですがご容赦ください。」
タダヒコは野良着から着替えて、広間で接見した。
「タケル様、此度はまことにありがとうございました。素晴らしき御仁をご紹介いただき、予想以上に仕事は進んでおります。人手も多く集まり助かっております。これなら、瀬多川を開削するよりも、遥かに良い結果となりましょう。」
タダヒコは満足な表情でタケルに礼を言った。
「いや、礼を申されるのであれば、ソラヒコ様にすべきでしょう。」
と、タケルが言った。
「ソラヒコ様?・・今、ソラヒコ様と申されましたか?・・それは、難波津のソラヒコ様のことですか?」
と、驚いた表情でイカルノミコトが言う。
「ああ、そうでしたね。イカルノミコト様は、ソラヒコ様とともに、難波津の開削をされていたのでしたね。」
と、タケルが答える。
「なんですと?・・イカルノミコト様は、ソラヒコ様とともに、難波津に居られたのか?」
今度は、タダヒコが驚いて訊いた。
そこに、ソラヒコが顔を出した。
「おや、其方はイカルではないか!こんなところで何をしておる?確か、郷へ戻ると言っておったではないか。そなたのアスカケは叶ったのか?」
ソラヒコが、何も知らずに訊く。
「何とした事か!このような縁があったとは!」
タダヒコもイカルノミコトも互いに顔を見合わせて笑った。
それから、夕餉を共にしながら夜遅くまで、イカルノミコトとタダヒコは、心のままに語りあった。
それは、まるで竹馬の友が、なににも遠慮することなく、昔話や今の郷の様子、そして、淡海の国の未来、難波津や都の事など、互いに知ることの全てを、熱く熱く語った。
「ヤマトとは、国にあらず。全ては人の縁。善き哉。」
濁酒に酔ったソラヒコが、二人の様子を見ながら呟いた。
「淡海はもう大丈夫ですね。」
タケルがソラヒコに訊く。ソラヒコはすでに眠っていた。

nice!(0)  コメント(0) 

1.24 多賀の社 [アスカケ外伝 第3部]

すっかり意気投合した、タダヒコとイカルノミコトは、翌朝、タケルたちを前に約束した。
「これよりのち、我らは、淡海の民のため、全身全霊で働きます。この地を今よりもずっと豊かで安らかな地にして参ります。」
力強い言葉だった。
「それは、素晴らしい事です。鳰の浜のナオリ様や、高島郡のモリ様とも、ぜひ合力されるよう願います。」
「はい。」
タケルの言葉を受け、二人は力強く返答をした。
「ですが、一つだけ、気掛かりな事があります。」
タケルが言おうとしている事は二人にもすぐに判った。
「多賀の事ですね。」
と、タダヒコが答える。
「明日にも、多賀へ向かいたいと思います。多賀は、いにしえから、淡海の守り神を祀る尊き郷、我らの思いは、きっと神々も讃えて下さるに違いありません。」
イカルノミコトの言葉を聞き、タケルも同行することにした。ミヤ姫たちは、少しでも工事が進むようにと、皆の手伝いをする事にし残った。
すぐに、蒲生の郷のあちこちから、多賀の神々へ捧げる供物が用意され、荷車に山と積み出発する。
タケルたちは、馬を遣い、水路の工事の様子も確認しながら、多賀へ入る。
川を渡ると、深い森が広がっていて、その中を縫うように道が続く。冬を迎えた森の中は、落葉が深く積もっている。鳥の声だけが響く。暫く、山道を登ると、急に森が開け、多賀の郷へ入った。
静かな郷だった。
「あの山の頂きに、この地を守る神が宿る磐座があります。山は神域ゆえ立ち入る事を禁じられております。」
タダヒコが、山頂を見上げて言った。
社は低い山の懐ともいうべき場所にあった。石段を数段上るとすぐに社の境内に入る。大きな杉が競うように並んでいる。
タケルたちが境内に入ると、白い衣装に身を包んだ巫女たちが出迎える。
「多賀の神へ献上品を持参しました。」
タダヒコが言うと、男衆が現れて、荷車を検分して中へ運んだ。
「こちらへ。」と、若い巫女がタケルたちを案内する。社の中へ案内されると、そこには、年配の巫女が座っていた。
「巫女長様にございます。」
先ほどの若い巫女はそう紹介すると、部屋を出て行った。巫女長は目を閉じじっと黙ったまま座っている。タケルたちは、巫女長の前に座り、深々と頭を下げる。
「謹んで申し上げます。蒲生の郷、タダヒコでございます。此度、伊香の郡、イカルノミコトとともに、国作りに励む所存でございます。多賀の神におかれましては、我らの願いを叶えていただきたく参内いたしました。」
巫女長は何も答えない。
「こちらは、ヤマト国の皇子タケル様とミヤ姫であられます。淡海の国作りに助勢いただいております。御挨拶に参られました。」
タダヒコがタケルを紹介した。すると、巫女長は目を開き、タケルたちを厳しい目で睨んだ。そして、大きく深呼吸をすると、徐に立ち上がった。
「高嶋郡のいにしえの悪霊を退治されたようじゃな。」
不思議なことに、対岸での出来事を既に巫女長は知っていた。
「タケル様は、恐ろしき力をお持ちのようじゃ。その力を邪なことに使う事、罷りならぬ。それを破れば、八百万の神の怒りにふれよう。」
「はい。心しております。」と、タケルが答えた。
「この先、其方は西に向かい、大きな苦難に直面し、命さえ危うい目に逢うであろう。恐ろしき大きな敵が近づいておる。心せよ。おのれの力のみに頼らず、多くの者の力を集めねばならぬ。過信するなかれ。」
巫女長の言葉は、天から聞こえてくるようだった。巫女長はそう言うと、再び座り、目を閉じた。
「巫女長様はお疲れのようでございます。こちらへどうぞ。」
気付かぬうちに、若き巫女が傍に居て、皆を、脇にある館へ案内した。
そこには、多賀の郡の十人ほどの郷長達が集まっていて、タケルたちを歓迎した。
「数日前に、巫女長様が、ヤマトの皇子がこの地へ参られると仰いましたので、皆、こうして、集まっておりました。」
郷長の一人が言う。
ここへ向かう事をあらかじめ伝えてはいないはずだった。
「どうしてそれを?ここへ参ることは昨夜決めたばかり・・。」
と、タケルが不思議に思って訊いた。
「巫女長様は、磐座の神代(かみしろ)で在られます。磐座の神は、高き山の上から、下界で起こる事、全てをご存じなのでございます。」
別の郷長が答える。
父カケルのアスカケの話でも、九重・高千穂の郷に未来を予言する巫女が居た事は知っていたが、そうした者が本当にいるとは思っていなかった。
「一つ、伺いたいことがございます。此度、蒲生の郡タダヒコ様と、伊香の郡イカルノミコト様が手を結び、淡海の地を豊かにするため、助け合うことを誓われました。皆様はいかがお考えですか?」
タケルは率直に郷長達に考えを聞いた。
「それは善き話。是非とも、多賀の郡も加えていただきたい。」
十人程の郷長たちは、皆、同じ考えのようだった。
一夜を、多賀の郷長達と過ごし、タケルやタダヒコ、イカルノミコトはしっかりと多賀の郷長達の思いを受け止めた。

nice!(0)  コメント(0) 

1.25 怪しき者 [アスカケ外伝 第3部]

翌朝には、多賀の郷を後にして、蒲生へ戻ることにした。
森を抜けたところで、川向こうに黒い煙が上がっているのが見えた。
「あれは?」と、イカルノミコトが指差す。
「水路作りを行っている当りかと・・・何か燃えているようです。急ぎ戻ります。」
タダヒコは慌てて、馬を蹴り、走り出した。イカルノミコトもタケルも、タダヒコに続いた。川を越え、山裾を登っていくと、小屋から大きな炎が上がっている。一つだけではない。水路作りの者が寝泊まりするために、急ごしらえされた小屋が、幾つも燃えている。
皆、必死に消そうとしていた。
「どうしたのだ!」と、タダヒコが馬上から叫ぶ。
「おお、タダヒコ様じゃ!」
水路作りの人夫達が、タダヒコを見て、申し訳なさそうな目をして言う。
目の前の小屋の炎は空を焦がすほどに立ち昇っている。皆、手に桶を持ち、水をかけているが、なかなか収まらない。
タダヒコも馬を飛び降り、皆に加わる。すぐに、イカルノミコトやタケルも追いつき、必死に、火を消そうとした。まだ、水路は完成していない。山手の地にある水は限られていた。為す統べなく、ほとんどの小屋が焼け落ちてしまった。
燻ぶる火、立ち昇る煙、疲れ果てた様子で皆辺りに座り込んだ。
「今朝方、ミヤ姫様とヤチヨ様が居られた小屋辺りから、火の手が上がり、あっという間に広がってしまいました。」
真っ黒な顔をしたナミヒコが、タケルに無念な表情で告げる。
「二人は無事なのか?」とタケルが訊く。
「はい・・ですが、ヤチヨ様がお怪我をされて、下の郷へ。」
「怪我?まさか、火にまかれたのですか?」
「いえ・・。火付けをした男を捕らえようとしてお怪我を・・。」
「火付け?」とタダヒコが訊く。
「はい。そのようです。まだ、陽が上らぬ内のことでした。ヤチヨ様が、朝餉の支度にと起きて来られた時、小屋の裏に人影を見つけて、不審に思い声を掛けたところ、その場で、火の手が上がったとのことです。」
ナミヒコが答える。
「それで?」とタダヒコ。
「その男がヤチヨ様に気付き、短剣で切り付け逃げたようです。」
「怪我の具合はどうなのです?命に関わるほどのことは?」
イカルノミコトが心配して訊く。
「ミヤ姫様が今、下の郷でヤチヨ様についておられます。ミヤ姫様からは、心配ないと言われておりますが・・・。」
ナミヒコは、そうは言ったものの、心配そうなそぶりを隠せなかった。
「ミヤ姫がついておるのなら心配いりません。大丈夫です。」
タケルはナミヒコを宥めるように言った。

その頃、ヤチヨは人夫達に担がれて、下の郷へ着いていた。肩から背中にかけて切り付けられ、なかなか、出血が止まらない。
「そこへ寝かせてください。」
ミヤ姫はそう言うと、家の中に運びばれたヤチヨを、板敷の上にうつ伏せにして、横たえる。
「お湯と綺麗な布をすぐに用意してください。」
山手で火が上がったのに気付いた郷の者達は、すでに怪我人が運ばれてくる事を予想して待っていた。
ミヤ姫は、用意された湯と布で、ヤチヨの傷を拭い、とにかく止血を急いだ。傷は肩から背中に大きく切れていたが、深くはない。だが、ここへ運ばれるまでに大量の出血があり、ヤチヨは意識を失っている。
「皇様、タケル様、お力をお貸しください。」
ミヤ姫は、懐から鏡を取り出し、強く握り祈る。
鏡は黄色い光を発し、あっという間に、ヤチヨとミヤ姫を包み込んだ。ミヤ姫は、傷口にそっと手を当てる。
徐々に出血が収まり、傷口が塞いでいく。だが、ヤチヨは目を覚まさない。光が徐々に小さくなると、ミヤ姫もその場に倒れてしまっていた。

「火付けとは・・。」
イカルノミコトが、焼け落ちた小屋の様子を見ながら嘆くように言った。
「以前にも、幾度か、ボヤ騒ぎがありました。実は、それはイカルノミコト様の仕業と言う流言を信じておりました。恥ずかしい限りです。」
タダヒコが言う。
「実は、私も、幾度か大事な水路を壊され、蒲生の郷の者の仕業という流言を信じておりました。だが、真実ではなかった。」
と、イカルノミコトが言う。
「その男を捕らえればそうすればすべてが判るでしょうが、今は、まずここを片付け、皆様が休める場所を作らねば・・。」
タダヒコが、人夫達に命じて、小屋の片づけと立て直しを始めた。
「では、その男は私が探しましょう。・・蒲生でも、多賀でも、伊香でもない者となれば、後は、安土辺りの郷の者しかありません。逃げたとしても、そう遠くには行っておらぬはずですから。」
そう言った、イカルノミコトを、タケルは止めた。
「いや、安土の郷の者とは限りません。ここにいる大半のものは難波津や西国から参った者ばかりです。そこに紛れているとすれば、私にも責任があります。皆を集めていただきたい。」

nice!(0)  コメント(0) 

1-26 恨みを晴らす [アスカケ外伝 第3部]

火事場の片づけを始めていた者が、広場に集められた。
「この中から火付けをした者を探すというのですか?」
イカルノミコトは半信半疑でタケルに訊いた。
「蒲生の郷の御方は、タダヒコ様のもとへお集まりください。」
タケルが言うと、タダヒコの許に半分ほどの民が集まった。
タダヒコは、集まった者たちの顔をじっくり見ながら、火付けをした者が紛れていないか検分する。そして、タダヒコは小さく首を横に振る。蒲生の郷の者の中には紛れていないようだった。
それを見て、タケルは小さく頷き、口を開く。
「小屋は焼け落ちてしまいました。しかし、落ち込むことはありません。また、作れば良い。皆の力を合わせれば、これほどの事など、何の事もないでしょう。」
それを聞き、ソラヒコが皆を鼓舞するように答える。
「ああ、そうだ。水路作りの石を運ぶより、家づくりの方が楽に違いない。ほんの三日もあれば元に戻る。やれるな?」
それを聞いて、ヤマトのものたちが声を上げた。
「我ら、ヤマトの者は、皇様と摂政様が紡いだ、アスカケの絆で結ばれております。ここ、淡海の国でも、その力をしっかり発揮致しましょう。」
そう言うと、タケルは、集まった者達ひとり一人をじっくり見て、懐からゆっくりと青い布切れを取り出して、右手で高く掲げた。
それを見て、ナミヒコが懐から同じ青い布を取り出して掲げる。
ソラヒコも掲げた。それから、次々に、集まった者達が、同じ青い布を取り出し、高く掲げた。
イカルノミコトやタダヒコ、蒲生の郷の民の前に、様々な大きさの藍色の布が広がる。それを見て、皆、目を見開いた。
「それは?」と、タダヒコが言う。
「これは、ヤマトの絆を示す布。アスカケが紡いだ藍染の布です。藍色の布を身につけることがヤマトの民の証と、いつの間にか皆に広がりました。」
タダヒコの傍に居た、石大工の男が小声で言った。
「絆の藍色の布か。・・素晴らしい。」
イカルノミコトも感服した様子だった。
「おや?お前、証はどうした?」
居並ぶ人の中で、声が響いた。周囲の者達も反応して、そちらを見る。
男が三人、手に何も持たずにいる。すぐに、周囲の者達が取り囲む。
「お前、何処から来た?」と、別の男が詰問する。
三人の男は、何も答えず、取り囲む男達を睨み返す。それに気づいて、ナミヒコが男たちを掻き分けて、駆け寄る。
「重ねて訊く。お前たちは何処から来た?正直に答えよ。」
「俺たちは・・あ・・安土の者だ。」
三人の男のうち、最も年配に見える男が答えた。
それを聞いて、蒲生の郷の民の中から、男が一人、前に出た。
「何、安土だと?顔を見せろ!・・・俺は、つい先ごろまで、安土に居たんだが、お前のような者は見たことはないぞ!」
「ちっ!ばれたか。」と、男は嘯いた。
「ならば、お前たちが火をつけたのか!」
ナミヒコはそう言うと同時に、腰の剣を抜き、男たちに迫る。
ナミヒコの顔は怒りに満ちている。ナミヒコの剣を見て、三人の男の中の一人が、懐に忍ばせていた短剣をさっと抜き、構える。その短剣の柄には、赤い血糊が残っている。明らかにヤチヨを傷つけた者に違いなかった。
「許せぬ!」
ナミヒコは怒り心頭、剣を高く振りかぶった。
「いかん!」
タケルは、高く飛び上がり、半身になって、二人の間に割って入った。
キーンという音が辺りに響いた。
タケルはナミヒコの振り下ろす剣を自らの剣の鞘で受け止めた。
「殺めては、駄目です。」
タケルが言うと同時に、ドスンという音がした。
短剣を持った男が、目を瞑ったまま、突進し、タケルに体当たりをしたのだった。
「うっ。」
タケルが小さく呻き声を漏らす。
短剣を持った男は、タケルの体に弾かれて、そこらに転がる。短剣は、タケルの脇腹を突き刺していた。つーっと赤い血が流れ、膝辺りからぽたぽたと地面を染めていく。
「ナミヒコ様、落ち着いて下さい。この者を切って、ヤチヨの恨みを晴らしたとしても、次の恨みを生むだけです。恨みは続き、いずれ取り返しのつかないことになり・・」
タケルは、そう言いながら、片膝をつき、脇腹に刺さったままの短剣を押さえた。
ナミヒコは驚き、剣を落とすと、タケルの体を支える。周囲に居た者が、男たちを取り押さえ、縄で縛り上げた。
「タケル様、しっかりしてください。」
タダヒコが声を掛ける。
タケルは、両足を踏ん張り、何とか姿勢を保った。わき腹にはまだ短剣が刺さっている。
「その者達を殺してはなりません。何故、このような事をしたのか、聞くのです。きっと、やむを得ぬ訳があるはずです。良いですね。」
タケルはそう言うと、その場に倒れ込んでしまった。


nice!(2)  コメント(0) 

1-27 手当て [アスカケ外伝 第3部]

「ミヤ姫様は、いずこだ!?」
ナミヒコが叫ぶ。
ナミヒコは、ミヤ姫の鏡の力を知っている。一刻も早く、あの力を使って、タケルの傷を癒さなければならない。
「それが・・ヤチヨ様の傍に居られますが、ミヤ姫様も気を失われたままなのです。」
郷から戻ってきた女人が答える。
「それでは、タケル様の御命が危うい。どうすれば良い?」
ナミヒコは、狼狽え、周囲の者に当たる。
横たわるタケルの体から、真赤な血が流れだしている。タケルの体が次第に力を失い、呼吸も弱くなってきていた。取り巻く者達もどうしてよいか判らない様子である。
「これはいかん。すぐに手当てじゃ!」
そう言って、多賀の巫女長が現れた。
「そなたらを見送った後、皇子の身に予期せぬ事が起きると神のお告げがあったのじゃ。・・ふむ・・このままでは、命の灯が費える。・・まずは、血止めじゃ。カズサよ、すぐに手当てを。」
巫女長が言うと、伴をしてきた巫女の一人が進み出て、タケルの服を脱がし、傷口が見えるようにした。短剣は予想以上に深く刺さっていた。
カズサが、傷の具合をじっと見つめる。
「どうすれば良い?」
ナミヒコが、巫女カズサに訊く。
「白き灰と布もたくさん用意してください。お湯も必要です。急いで!」
皆、すぐに、灰と布を集めてきた。だが、火を消し止めるために水は使い切っていて、綺麗な水はほとんどなくなっていた。
「タダヒコ様!水がない・・湯が作れません。」
民が集まってきて、情けなく言う。
「焼け落ちた家の中には、きっと甕があるはずです。それを探して、消し炭を沈めて下さい。使えるはずです。」
強い口調で、巫女カズサが言う。
周囲に居た者たちは、焼け落ちた家を探し回った。カズサの言った通り大きな甕が見つかり、言われた通りに消し炭を入れ濾過して湯を沸かした。
「これから、傷口を抑えながら、ゆっくりと剣を抜きます。すこし、血が飛び散るかもしれません。」
そう言うと、傷口に手を当てながら、ゆっくりと剣を引き抜いた。ピュッと血が出たが、すぐに手で押さえる。
「お湯をください。」
傷口に湯をかける。辺りに真赤な血に染まった湯が流れる。
「灰を下さい。たくさん振ってください。」
タダヒコが、灰袋を抱え上げて、タケルの腰辺りに振りかける。
「布を下さい。」
カズサは、手際よく手当てをしていく。脇腹辺りにきつく白い布が巻かれる。ジワリと血が染み出して来るが、すぐに止まったようだった。
だが、手当をしている間にも、タケルの呼吸はだんだん弱くなっていて、かすかに感じるほどになっていった。
「タケル様!しっかりしてください!」
皆、祈る思いでいた。

タケルは、蒲生の郷の空高くにいた。
正しく言えば、タケルの魂が体を離れ、宙を待っていた。
周囲には、ハクチョウの群れが飛んでいる。そして、正面には白い雪を被った伊吹山が見え、足元には琵琶湖が広がっていた。
タケルの魂は、風に乗るように、ひゅーっと南へ飛んでいく。
あっという間に、大和の都に着いた。
懐かしい風景が広がっている。大路を抜けて、宮殿の門をくぐる。女官たちが働いている様子が判った。
館の中に入ると、玉座の間に、皇アスカがいて、うとうととしていた。
ふわっとタケルの魂がアスカの横に近づくと、ふいに、アスカの首飾りがキラキラと光り始め、アスカが目を覚ました。
「タケル。そこにいるのね。」
アスカは驚く様子もなく、呟く。
タケルは何か答えようとするが、魂だけで実態がなく、何も言えない。
「貴方のいるべきところへ帰りなさい。まだまだ、為すべきことがあるはずです。」
アスカは厳しい口調で言うと、首飾りを握り締める。強い光が発し、タケルの魂は弾き飛ばされた。

ハッと、タケルは、目を開いた。
「おお、気が付かれましたぞ!」
傍に居たタダヒコが声を上げる。
タケルは、にわか仕立ての小屋の中に横たわっている。脇には、イカルノミコトや巫女長たちが居た。
「私は・・。」とタケルが言うと、
「一晩眠っておられました。傷は、多賀のカズサが手当てをしました。」
タダヒコは安堵した様子で答えた。そこに、カズサが入ってくる。
「もう、気が付かれましたか。」
手には、器を抱えている。
「それならば、これをお飲みください。傷が早く癒える薬湯です。」
タケルは、少しずつ口に含んだ。じんわりと、薬湯が、体の中に沁み込んでいくのが判る。そして、それは、どこかで懐かしい味がした。

nice!(1)  コメント(0) 

1-28 回復 [アスカケ外伝 第3部]

「これは?」とタケル。
「お気づきですか?難波津の薬事所で、アスカ様から教わった薬湯です。タケル様は幼い頃は体が弱く、アスカ様が特別に煎じておられました。」
巫女長がにこやかな表情で答えた。
「難波津?」とタケル。
「私は、まだ若い頃、多賀一族の娘として、父から、難波津で薬草を学んでくるよう命じられ、薬事所に参りました。そのころ、アスカ様は、多くの女人とともに、薬草作りや薬湯などを作られて居られました。」
「何という御縁であろう。」とタダヒコが言う。
「だが、今は、多賀の巫女長とはどういうことですか?」
イカルノミコトが訊く。
「父が病となり、郷に戻りました。父の病を治すために、伊吹の麓に薬草園を開きました。実は、アスカ様も、一度、薬草園に来られたことがございます。ですが、結局、父の病は治せぬまま、世を去りました。私には兄が居ります故、父の跡を継ぎ、多賀の神職を務めるはずでしたが、その兄も、同じ病で亡くなり、巫女長として、多賀の社を守ると決めたのです。」
周囲の者は巫女長の話に聞き入っていた。
「あの・・カズサという巫女様は?」とタダヒコが訊く。
「カズサ?」とタケルも訊く。
「タケル様、その傷の手当てをした巫女様にございます。手際よく皆に指示をしておりました。先ほど、薬湯を持ってきたものです。」
とタダヒコが答えると、タケルは、皆の後ろに目立たぬように控えていたカズサを見つけ、手招きした。
「貴方のおかげで命を繋ぐことができました。ありがとうございます。」
タケルは丁寧に礼を言った。
「いえ、私は、為すべきことをしたまでで、ございます。」
カズサは小さく答えた。
「カズサは私の娘なのです。幼い頃から、薬草園の手伝いをし、今は、巫女の傍ら、多賀の薬師として郷を回って、民の病いを治療しておるのです。」
そう言えば、顔立ちが巫女長に似ていた。
そこまで聞いて、ふと、ナミヒコが思い出したように言った。
「そういえば、難波津の薬事所は、多賀の薬草を重用されておりました。難波津では作れぬ薬草があるとも聞きました。」
「ええ、アスカ様がこちらに来られた時、伊吹の御山で見つけられた珍しい薬草です。幾種類もございます。我ら、多賀のものは、それで難波津から米を手に入れ暮らしております。ただ、その事は、周囲の者に知られてはならぬとの掟がございます。薬草園の場所も、限られた者の身が知るところ。」
巫女長が言うと、周囲に居た者は、皆、顔を見合わせた。
「良いんですか?そんな話をされて・・。」とタダヒコが気遣う。
「はい。これもきっと、八百万の神の御導きでしょう。」
巫女長は笑って言った。
そこに、ミヤ姫が入ってきた。
「タケル様!」
ミヤ姫は、横たわるタケルにしがみつき声を上げて泣いた。ひとしきり泣いた後で、ミヤ姫はタケルの手を握り言った。
「ごめんなさい。私がお傍に居れば、このような事には・・。」
「いや、姫はヤチヨ殿の命を救ったのです。それで良いのです。」
タケルも優しく手を握り返し、労わるように言った。
「春になれば、傷も癒え、お元気になられるでしょう。それまではどこか善き場所で過ごされるように。」
脇に控えていたカズサが言う。
タケルが横たわる場所は、俄作りの小屋だった。これでは、淡海の冬の寒さに耐えられない。タケル達は、春までタダヒコの館で過ごすことになった。

捕らえた男達の始末については、イカルノミコトに任されることになった。まずは正体をつきとめなくてはならない。拷問して吐かせれば良いという者もあったが、イカルノミコトは、男達を船に乗せ、湖に浮かぶ小島へ連れて行った。そこは、郷のある岸からは遠く離れ、逃亡は出来ぬ場所にあり、岩場ばかりで、雨露をしのぐ小屋の一つも無かった。
「そなたらの命を奪うのは容易い事。だが、そなたらがしたことは、淡海の国やヤマト国を敵に回したと同じ事。ヤマトとの戦となれば、そなたらの国の多くの民が命を奪われるやもしれぬ。事の重大さを悔い、本当の事を話すまではここで生きるが良かろう。」
イカルノミコトはそう言って、僅かな水と食糧を残して、三人の男を小島に置き去りにした。
三日ほどが経ち、様子を見に行くと、男たちは憔悴しきった様子で岩にもたれかかり動け無い状態になっていた。船が近づくと、男たちは涙を流し許しを請い縋った。
男たちは、越の国の者で、国造に命じられ、淡海国の様子を探っていたと白状した。
越の国はオホド王の治世から時を経て、次第に衰退しており、頼みとする出雲国も不穏な様相となり、近隣諸国からの侵略を恐れているのだとも話した。淡海国がヤマト国と深く繋がる事を阻止するため、火をつけたとも話した。
「愚かなことを。自ら敵を作っただけではないか。」
イカルノミコトは吐き捨てるように言った。
「その者たちを解き放す。この先、越の国に災いが起こるとすれば、そなた達が招いたことだ。罪の意識に苛まれ、苦しみ、生きることになるであろう。」
男たちは、淡海の北の外れ、越の国境まで連れて行かれ、放された。うっすらと雪化粧をしている峠を男たちは下って行った。

nice!(0)  コメント(0) 

1-29 春を待つ [アスカケ外伝 第3部]

年が明ける頃になると、カズサの作る薬湯が効いたのか、タケルは徐々に体力を戻し、ミヤ姫の助けで何とか歩けるようになっていた。ヤチヨは、ミヤ姫の力ですぐに回復していて、カズサとともにタケルの体力が少しでも早く回復するよう、食事作りに精を出していた。
伊吹の山は真っ白に雪化粧をしている。
「この冬は雪が多くなりそうです。」
タケルに薬湯を届けに来たカズサが伊吹の山を見ながら言った。カズサは、多賀の巫女長に命じられ、タケルの許に残り、薬湯作りをしていた。
「薬草園は冬には雪で閉ざされるのですか?」
と、タケルが薬湯を口にしながら訊いた。
「はい。薬草園はあの御山の麓ですから、多い時は背丈ほどまで雪が覆います。しかし、そういう年は、春の芽吹きが見事なんです。きっと長く雪に閉じ込められているうちに、草木はしっかり根を張るのでしょう。置かれた場所で生き延びる術を知っております。」
まだ若い娘なのだが、何か深い悲しみを知っているような、特別な雰囲気を持っている。
「父様はどうされておられるのでしょう。」
と、タケルが訊くと、ふっと寂しげな顔を見せる。
「私は父の顔を知りません。私がまだ幼子だった頃に、大和争乱の中で、命を落としたのだと、母から聞きました。」
ここで、大和争乱の言葉を聞くとは思っても居なかった。
戦というのは、終わったとしても、その後も、長く人の心に深い傷を残してしまうものだ。なのになぜ人は戦をするのだろう。この先、そうしたことが起きぬよう、タケルは改めて心に誓った。
イカルノミコトは、タケルの回復の様子を確認すると、冬の間に水路の修復を急ぎたいと、郷に戻った。
「越の国への道は、すでに雪に閉ざされております。春までゆっくりとここで養生されるが良いでしょう。」
タダヒコは、そう言って、水路作りと郷の水害対策の仕事に戻った。
タケルの許にも、ヤマトの国の年儀の会が開かれるという報せが届いた。
「タケル様の傷の事は、難波津や都でも承知されておられるようです。しっかり養生するようにと、皇様や摂政様から、言伝がございました。」
ナミヒコは、ヤチヨの具合が良くなったのを見て、一度、難波津へ報告のために戻っていた。そこで、年儀の会が開かれることを聞き、急ぎ戻ってきたのだった。
「淡海の国は、国造が定まっておりませんが、誰か参内できないかと、難波比古様から打診がございました。」
ナミヒコが、タケルに相談をした。
「皆様で、相談されたほうが宜しいでのではないでしょうか。」
タケルの言葉をナミヒコは、タダヒコやイカルノミコト、ナオリ、そして多賀の巫女長にも伝えた。すぐに皆が集まり相談をし、此度は、ナオリが出席することになった。
タケルは次第に動けるようになり、ミヤ姫とともに、多賀の社に参内し、八百万の神へ祈りを捧げた後、水路作りを視察したり、蒲生の郷の石切り場を見たりしながら、春を待った。
暫くすると、年儀の会へ出かけたナオリからの使者が来た。年儀の会に出席した諸侯がタケルの怪我を知り、皆、見舞いへ行くと言い出し、皇アスカと摂政カケルの行幸の形で何とかまとまったという事だった。
皇を迎えるとなれば相応の支度が必要になる。タダヒコ、イカルノミコト、多賀の巫女長、高島のモリ達は知恵を出し、琵琶湖に浮かぶ大嶋で迎える事とした。
この時代、琵琶湖の水位はずいぶん高く、現在の近江八幡や彦根辺りは大半が湖の中か湿地であり、大小、幾つもの島があった。
多くの島は、殆んどが漁民であった。もっとも大きな島、この地では大嶋と呼ばれる島は、周囲に葦の湿地が広がっていて、島民は皆、葦を刈る仕事に従事し、かつては淡海国の都として栄えていた。
タケルを伴い、タダヒコやイカルノミコトは島の下見に訪れた。
「刈り取った葦は、屋根を葺いたり、日除け簾にしたり、薪代わりにしたり、田に入れて肥料とすれば立派な米がとれるのです。そうそう、漁具としても重宝しております。何より、葦の原には、魚も多く棲み、それを狙って水鳥も集まるので、獲物には事欠きません。本当に葦は役に立ちます。」
冬枯れの葦を総出で刈り取り、束にして立てかける作業をしている島民がタケルに説明する。都でも、葦を使っていたが、ここの葦は背丈も大きく立派であった。
「葦の根は薬にも用いられるのです。難波津の薬事所で学びました。」
タケルに同行した、カズサが付け加えた。
島に近付くと、大きな館が見えてきた。
「かつてこの一帯の島々を治めていた長の館です。水害にて、一族の跡を継ぐ者が亡くなり、今は、島の皆が集まりに使うために、時々、手入れをしております。少し手を入れれば、皇様をお迎えする事も出来ましょう。ここで春まで養生されても良いように支度をいたしましょう。」
と、タダヒコが説明する。
山を背にした、大きな館には、倉や家屋が幾つも建ち並んでいる。タダヒコが言う通り、綺麗に維持されている。
タダヒコは島の者達を集めて、タケルたちを紹介し、皇の行幸を話すと、島民が、皆、歓喜に沸いた。


nice!(0)  コメント(0) 

1-30 淡海行幸 [アスカケ外伝 第3部]

年儀の会からの使者が来て、ひと月ほど後に、皇アスカ、摂政カケルが、タケルと縁の深い、紀の国、和泉、摂津、東国の主だった人物を連れて、淡海に入った。瀬多を上り、湖上にはたくさんの船が列をなして進んだ。
岸辺の郷の者は、皇アスカの顔を一目見ようと、船を出して、その列に加わり進んだ。遠く、蒲生の郷の山から見ると、まるで、湖を行く水鳥の大きな群れのようにさえ見えた。
大嶋の港では、島の民がこぞって出迎え、一行は館に入った。
館の大広間に入った一行を前に、タケルが挨拶をする。大広間の奥の御簾の中から、皇アスカが見守っている。
「此度、このようなこととなり、皆様には大変ご心配をおかけしました。淡海の皆様の御力で何とか命を取り留めることができました。ヤマト国の皆様には、ぜひとも、この淡海国と、深き縁を結び、安寧な世を作れるようご尽力いただきたく思います。」
「うむ。ご苦労でした。しっかり養生して下さい。もはや、淡海の国は、ヤマトの国々とは縁を結んだと同然。この先、伴に歩んで参りましょう。」
摂政カケルがタケルを労い、皆に挨拶をした。
タダヒコのもてなしで、宴が始まる。イカルノミコトや多賀の巫女長などのように、若い頃、難波津に縁のあった者たちが、淡海国のあちこちから集まり、久しぶりの再会を喜んだ。初めて会う者たちは、互いの国の様子や暮らしぶり、産物自慢などで話の花を咲かせた。
体の具合を気遣い、タケルはミヤ姫と伴に早くに部屋へ戻った。暫くして、皇アスカが、タケルの部屋を訪れた。アスカが部屋に入ると、ミヤ姫が床に手をつき深々と頭を下げ、涙ながらに言った。
「私が御側に居りながら、まことに申しわけございません。」
「謝る事ではありません。これは定めなのでしょう。」
アスカは笑顔を見せ答えてから、横になっているタケルの横に座り、そっと手を伸ばしてタケルの傷跡辺りに当てた。
「さあ、貴女も。」
と言うと、ミヤ姫の手を取る。アスカの首飾りが淡い光を放つと、ミヤ姫の鏡が呼応するように光始めた。二つの光が溶け合うようにタケルの体を包む。暫く穏やかな時が流れた。
翌日から、摂政カケルと皇アスカの一行は、淡海の国の郷を巡り、暮らしぶりや産物などを見聞して回った。
暖かい風が吹き始めた頃、伊香の郷に、男がひとり現れた。
「イカルノミコト様に是非お会いしたい。」
男はイカルノミコトの館の前でそう言うとバタリと倒れてしまった。それを聞いたイカルノミコトはすぐに館に戻った。
男は館の脇にある蔵の土間に寝かされていた。
イカルノミコトが蔵に入る前に、家人の男が言う。
「どこから来た者か、得体の知れぬ者です。お気をつけ下さい。」
毛皮に身を包んでいるものの、髪の毛や髭が伸び、手や足には凍傷の跡が残り、とてもまともな暮らしをしていた者とは思えなかった。
「私に会いたいと申すのはお前か?」
倉の入り口の戸が開き、光が差し込む。薄暗い蔵の土間、筵に横たわる男が声を聞き体を起こす。酷い身なりだが、眼光は鋭い。
「越の国が兵を起こしました。西へ向け進軍するとの事。」
声に聞き覚えはあった。
「お前、確か、蒲生の郷で悪さをした者だな。」
イカルノミコトが言う。
「はい。私はあの時イカルノミコト様に言われた事を心に刻み、命をお助けいただいた御恩に報いるためだけに生きて参りました。どうか・・お聞き届けいただきたいと存じます。」
「どこで生きて居ったのだ?」とイカルノミコトが訊く。
「峠で放たれ、山を下りました。ですが、もはや、越の国へ戻る事は叶わぬと考え、愛発(あらち)の郷に隠れ住んでおりました。かの地は、淡海と越の境、越に不穏な動きがあれば、いち早くお伝えできるのではと考えておりました。」
「それで・・。」
「はい、越の国が挙兵し、春を待ち、西へ向かうとの事。すでに若狭の国の郷へも兵を集めるようとの命令が出ております。淡海国にも禍いが及ぶのではと思い、お知らせに参りました。」
男は、イカルノミコトの足元で切々と話した。
それを聞き、イカルノミコトは訝しげな顔をして呟く。
「なぜ、越の国は西へ向け挙兵した?若狭も、丹後、但馬は越の国の支配下にあり、その先は出雲国の支配下のはず。何処と戦をするつもり・・・そうか、伯耆の国との戦という事か?」
イカルノミコトは、タケルが淡海国へ来た理由を、以前に聞いていた事を思い出した。
「何という事だ。一刻も早く、タケル様にお知らせせねば。・・お前、名は何という?」
「はい。クジと申します。」
「そうか、クジよ、よく知らせてくれた。ゆっくり休むが良い。・・そう言えば、ほかの者は如何した?」
「はい。一人は、角鹿の郡、笥飯(けひ)の郷へ入りました。もう一人は、挙兵を止めるため、越の王が居られる足羽山へ向かいました。王に逢うのは無理でも、何か手立てを考えたいと申しておりました。」
「そうか・・・判った。・・おい、誰か、この者を手厚く手当してやってくれぬか。身なりも整えてやってくれ。それと、すぐに、タケル様の許へ遣いを出すのだ。急げ。」

nice!(0)  コメント(0) 
前の30件 | - アスカケ外伝 第3部 ブログトップ