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1.19 伊香の郷 [アスカケ外伝 第3部]

残るは、イカルノミコトであった。
タケルとミヤ姫、ナミヒコ、ヤチヨは、高嶋の郡、勝野の郷から船で、大浦の港を目指した。
湖上は山から吹き下ろす北西風が強くなり、波も高い。なるべく、湖岸に近い辺りを、船で進んでいく。
海津埼までは、モリが、船で伴走して見送ってくれた。
「この先、大浦、菅浦を越えれば、伊香郡(いかのこおり)です。イカルノミコト様はおそらく、御里である、木之本辺りにおいでかと思います。」
そう案内しているのは、ナミヒコが難波津から率いてきた衛士の一人で、一足先に笥飯(けひ)の郷の様子を見て来た、シラキという者だった。
シラキは、鳰の浜に戻り、タケルたちが高嶋郡に向かった事を聞き、勝野で合流した。
「イカルノミコト様はどのような御仁でしょうか?」
タケルが、シラキに訊く。
「イカルノミコト様は、まだ、若き頃に、木之本辺りの沼地を拓かれた御方だと聞きました。そして、その御力は、周囲の郷の者も知る所となり、伊香の郡だけでなく、坂田の郡の者も従うようになったのだと・・。」
鳰の浜や蒲生の郷で聞いた人物とは随分と異なるようだった。
「力で周囲の郷を従わせているとも聞いたのですが?」と、タケルが訊く。
「おそらく、それは、多賀の辺りの者の流言ではないでしょうか?蒲生の郡と坂田、伊香の郡の親交が深くなれば、多賀の地が取り残される事になります。坂田や伊香の郡は、田畑を広げ、皆、豊かな暮らしをしております。蒲生の郡が田畑を広げることになれば、淡海の国で大きな力を持つ事にもなりましょう。そうした事を快く思わぬ者もいるのです。」
シラキが答える。
「一つの国でそのような・・。」と、話を聞いていたミヤ姫が言う。
「淡海の国は、湖で繋がり、湖で隔てられております。他の国とは少し事情が異なるのでしょう。難波津とて、海の向こうの国々とのつながりは、かつてはなかった。それ故、諍いも多くありました。摂政カケル様が西国から来られなければ、いまだに、戦は絶えなかったと思います。」
と、ナミヒコが言う。
目の前に山並みが近づいてきていた。
「あの山を越えたところが、伊香の郡です。船で向かうとなると、大きく南へ回り込むことになり、そこから山裾沿いの道を歩くことになります。山越えの方がはるかに早いとは思いますが、いかがいたしますか?」
シラキが訊く。
「山越えで参りましょう。」と力強く言ったのはヤチヨだった。
船は、菅浦の先から対岸の山の麓へ付けた。郷らしきものはなく、細い道を上る。尾根に出ると、伊香の郡が見渡せた。左手と対面には山並みが続き、右手の先には沼地が広がっている。
日が傾く頃にようやく、山を下り始め、日暮れにようやく郷に入れた。
「旅の者ですが、一夜泊めていただけませんか?」
シラキはそう言って郷の家を訪ね、郷のはずれでようやく宿となる家を見つけてきた。
その家には、老夫婦がいて、温かく迎え入れてくれた。家屋は大きく、板敷の広間の真ん中に囲炉裏がある。高嶋郡の民の暮らしと比べると、遥かに豊かだった。倉もあるようで、夕餉のために、米も不自由ない様子で振舞ってくれた。
「旅の御方とは珍しい。どちらから来られた?」
翁が囲炉裏の火加減を見ながら、穏やかな口調で尋ねる。
「大和より参りました。」と、タケルが答えた。
「ほう、大和とは・・都は賑やかなのでしょうな。」と翁。
「はい。」とミヤ姫が答える。
「都の皇様と摂政様は神のような御方だと聞いておるのだが・・我が地のイカルノミコト様も神のごとき御方でな・・。」
と、翁が話し始めると、夕餉を運んできた媼(おうな)が「自慢話へせぬようにと言われておるでしょうに。」とたしなめるように言った。
「いえ、是非ともお聞きしたい。イカルノミコト様の御噂はここへ来る前、お聞きしておりますが、もっと詳しく知りたいのです。」
と、タケルが促した。
「そうか、そうか。」と翁は機嫌を良くして話し始めた。
「ここらは、大半が葦の茂る沼地で、田畑を作るのは難しい土地であった。だが、イカルノミコト様が田畑にかえて下さったのだ。若き頃、難波津に行かれ、水を治める術を学ばれたと聞いた。・・おお、そうだそうだ。確か、その時、カケル様という御方が導いて下さったとも聞いた。」
翁の話は、紛れもなく摂政カケルが行った草香の江の干拓の事だった。
「それから、周囲の郷にも出向かれ、治水の術を民に教えて来られた。今では、坂田の郡の者も、イカルノミコト様を頼りにしておる。以来、我らは食い物に不自由する事もなく、なにより洪水で命を落とす者もなくなった。この歳まで生きて来られたのはイカルノミコト様のおかげ。我らにはイカルノミコト様こそ神であろう。・・・それにしても、難波津というところは、都よりも素晴らしきところのようだな。」
翁の話に嘘は無いようだった。シラキが言っていたことが証明された。
難波津が褒められたことに気を良くしたナミヒコがつい口を滑らせる。
「実は、私は難波津から参ったナミヒコと申します。こちらは、ヤマト国の皇子、タケル様とミヤ姫様なのです。」
それを聞いて、翁は驚き、囲炉裏の前で転がった。
「これは・・何と、畏れ多い事・・。」
翁はそう言うと、手をつき深く頭を下げる。その様子を見て媼も傍に来て、タケルを前にして突っ伏した。

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