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1.20 イカルノミコト [アスカケ外伝 第3部]

翌朝、朝餉の席に翁の姿がなかった。
「翁殿はどちらに?」
朝餉の席に翁の姿が見えない。媼は「用事で出ております」とだけ答え、朝餉の膳を頭より高く抱えてそろりそろりと運んでくる。見かねて、ヤチヨとミヤ姫が媼を手伝うと、媼が「もったいない事で」と恐縮している。
何とか、朝餉を終えると、家の外が妙に騒がしい。
「何でしょう?」
と、ヤチヨが戸を開けて外に出ると、家の周りに多くの民が集まっていた。その人々の間を掻き分けるようにして、麻布の野良着姿の大男が進み出てきた。顔も腕も膝も泥だらけになっている。
「こちらに皇子タケル様がおいでになるとお聞きしまかり越しました。」
響き渡るような堂々とした声で戸口から呼びかけた。周囲の民から「おお」という声が上がる。少し遅れて、翁も姿を見せた。
「まだ、朝餉の最中ではないでしょうか?今、様子を見て参ります。」
翁がそう言って家の中に入る。囲炉裏端に居たタケルは、イカルノミコトの声を聞き、立ち上がると、戸口に出た。
「すみません。騒ぎになったようですね。」
タケルは、翁に声を掛けて外に出た。すぐにミヤ姫もナミヒコも出た。
「おお・・タケル様じゃ・・。」
家を取り囲んでいた民が、タケルの姿に、いきなりひれ伏してしまった。
イカルノミコトは、タケルの前に進み出て、跪き、挨拶をする。
「私はイカルノミコト。今朝、翁から知らせを貰い、参じました。実は、今朝早く、近くの者から水路を猪に壊されたと訴えがあり、修理に手間取ってしまい、このような格好となりました。お赦し下さい。」
イカルノミコトは丁寧にあいさつをする。全身泥だらけの訳は判った。
「ミコト様自らが修理をされたのですか?」
タケルは挨拶の前に訊いた。
「はい。これが私の為すべきこと・・私のアスカケなのですから。」
と、イカルノミコトが笑いながら答えた。
「アスカケ?・・あなたは、アスカケをご存じなのですか?」
タケルは驚いた。アスカケは、春日の杜の子らが学ぶ初めの言葉である。
イカルノミコトはゆっくりと立ち上がり、笑顔のままで答える。
「タケル様、それにしても大きくなられましたな。私が難波津に居た頃にお生まれになり、アスカ様は常にあなたを抱きかかえられておられました。よく泣く赤子でしたからな・・。」
タケルは驚いてばかりだった。
「まあ、後ほど、館にお越しください。ゆっくりとお話いたしましょう。まだ、少し修理すべきところが残っております。申し訳ありません。」
イカルノミコトはそう言って、翁の家を後にした。集まった民も、イカルノミコトに呼ばれてついて行った。
タケルたちは支度を整え、翁と媼に十分に礼をして、館へ向かった。郷道を歩きながら、田畑の様子も観察した。至る所に水路が巡らされている。川の水を引き入れるためではなく、湿地にたまる水を抜くためだと一目でわかった。それは、郷道から東の山の麓近くまで、実に細かく設えられている。
「この技術は、是非、タダヒコ様にもお教えしたいものですね。」
ナミヒコが、その風景を眺めながら呟く。
イカルノミコトの館は、郷の真ん中あたりにあり、郷道から館まで参道のような作りになっていた。入口に、イカルノミコトの姿があった。
タケルたちはイカルノミコトの案内で館に入った。豪勢なつくりではない。至って質素であるが、ただ、広々としている。これなら郷の者、皆が入れるのではないかと思えるほどだった。
「この館は郷の皆が使うところなのです。私の居家はこちらです。」
そう言って連れて行かれたのは、館の裏手だった。小さな家があった。
「ヤマトの皇子をお迎えするには少し失礼とは存じますが、こちらの方が落ち着きますので。」
イカルノミコトは小さな家の扉を開け、中にタケルたちを迎え入れた。板敷の間に、鹿の毛皮が敷かれ、真ん中に囲炉裏がある。早くに火が入れられたのか、部屋の中は充分に温かい。
「さあ、どうぞ。」
皆が座ると、イカルノミコトが、囲炉裏の火の様子を見る。火箸を持つ手にふと目が留まる。両手の指が三本ずつしかない。視線を感じたのか、イカルノミコトが、さっと手を広げ、タケルに見せた。
「このように指がありません。でも、充分に仕事をしてくれます。」
と、にこやかに言った。
「もう、タケル様ならお判りでしょう。そう、私は難波津にいた”念ず者”だったのです。肉が腐る病で、郷を追われ、難波津のはずれに居りました。」
イカルノミコトの言葉にどう返してよいか判らなかった。
「私は、アスカ様にお救いいただいた者の一人です。指は落ちてしまいましたが命は助かりました。そして、カケル様から声を掛けていただき、開削の仕事をしました。その時、私には名がありませんでしたので、カケル様からイカルという名をいただいたのです。」
イカルノミコトの話で全ての疑問が解けたようだった。
アスカケの話の中で、難波津の開削の話は幾度も聞いた。念ず者や肉が腐る病のくだりは、幼心に深く刻まれていた。
父カケル、母アスカの数知れぬ偉業の中でも、タケルには、二人の優しさ、心の深さを知ることのできる話だった。
「なんと不思議な御縁なのでしょう。」
アスカケの話を知るヤチヨが、感動して涙を溢していた。

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