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8日目⑧ついに唐橋 [琵琶湖てくてく物語]

漕艇場を横目に進む。マクドナルドを過ぎた辺りで、大通りから湖岸へ入る脇道があった。その先は、湖岸公園になっていて、車の騒音から離れて歩けた。
東海道本線の下を抜けると、目の前には、瀬田川大橋。歩道もここまでかと思ったら、さらに瀬田川大橋の下を抜けて小さな橋を渡る。そこには、「唐橋公園」が広がっていた。公園を抜けると、瀬田漁港。瀬田と言えばシジミ。この漁港は、シジミ取りの船がならんでいるはず。滋賀県によると、セタシジミは琵琶湖固有種で、昭和40年ころまでは岸辺にもたくさんいて、子供が水遊びがてら、取って帰って晩御飯のおかずにしていたほどに生息していたらしいが、以降、急速に減少したらしい。
セタシジミだけでなく、アサリとかハゼとか、身近だった水産資源の枯渇という話は頻繁に聞く。何故だか、「昭和30年から40年をピークに」というフレーズも当たり前のようになっている。日本の高度経済成長、海岸の埋め立て・大規模工場・コンビナートといった海岸や湖岸の大きな環境変化によるものは明白だ。私が生まれたのは昭和36年(1961年)。小さな半農半漁の村だったが、前の浜では、アサリが売るほどに採れた。タコやイカ、小魚は子どもでも簡単に捕れるほどいた。だが、今は港の整備・護岸埋め立てなどでほとんど生き物がいない海になった。人間の経済活動が生態系を狂わせ、結果として食料危機を招いている。愚かとしか言いようがない。
再び湖岸沿いの歩道で、終に「瀬田の唐橋」に到達した。
何故「唐橋」か。何度もかけられる中で「唐様」の橋であったからというのが通説になっている。調べてみると、大津京遷都(667年)の時、架けられていたという記述があるようで、もしかしたら歴史上もっとも古い歴史を持つ橋ということになるのかもしれない。その後、幾度も戦乱の舞台となり、焼け落ちて架け替えられた記録もあるようで、一つ一つが時代を変える戦乱でもあったらしい。
「唐橋」になったのは、織田信長の時代らしく、その橋も明智光秀軍によって破壊され、豊臣秀吉によって再建されている。
今の位置に橋が出来たのは豊臣秀吉によるものらしい。
そんなエピソードを知れば、この橋は途轍もなく面白いと思える。知らなければ、ただ交通量の多い渋滞しがちな橋ということで終わってしまうだろう。
本日は、この瀬田の唐橋の中島をゴールとしよう。
さて本日の記録は・・38,595歩、26㎞だった。前回よりやや長い。琵琶湖大橋を渡ったことも距離が伸びた原因だろう。
帰りは、堅田駅まで向かうのだが、まずは、京阪石山坂本線の「唐橋前駅」で乗車。そこから「京阪大津京駅」まで行き、JR湖西線の「大津京駅」で「堅田」まで向かった。
この時、初めて、京阪に乗車した。
電車の事は詳しくないが、広軌道のようで、揺れも少なく快適な電車だった。軒先を掠めるように、民家の中を縫って走る場所もあった。隣接する住宅は窓を開ければ電車が走っている事になるのだが、どんな暮らしをしているのかと想像したくなる。京都や鎌倉で同じような場所に行った事があり、電車が暮らしに密着している風情が、レトロで何だか安らげた。
大津京駅で、JRに乗り換えたが、こちらは、高架化されたこともあり、琵琶湖を眺めながら乗れる点では愉快だった。日ごろ、殆んど自動車を使って外出しているため、電車に乗るのは、非日常体験で少し気持ちがふわふわする。
見知らぬ他人と同じ空間に居て、みな目的地が違い、喜怒哀楽もそれぞれだろう。そういう様々な人を乗せて走る電車という空間だけで、何か物語が生まれてくるような気がした。
唐橋から堅田まで、電車ではほんのわずかの時間だったが、意外に楽しかった。
堅田駅から橋の袂のコメリまで戻って、ようやく本日は終了した。
湖岸沿いの、緑地公園が連なる静かな空間を歩いてきたのとは随分違った体験だった。町並というのはやはりそこに人の営みがあり、人が居るからこそ様々な物語が生まれる。

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