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3日目②余呉川に沿って [琵琶湖てくてく物語]

次第に雨が小降りになって来た。
余呉川は、西柳野区のはずれで二手に分かれる。
右手は、西野放水路として直進して、西野水道を通じて琵琶湖へ注がれる。本流である余呉川はここで左に湾曲し、山本山の麓に沿うようにして琵琶湖へ続く。
西野水道は、元は西野隧道と書かれている。調べてみると、江戸期1836年から10年近くの歳月をかけて、手掘りで硬い岩盤を掘削して作られたと知った。余呉川の度重なる氾濫で、西野地区は壊滅的な被害を受けており、充満寺住職西野恵荘が発案し、彦根藩の協力も得て完成させたとあった。今回はそちらには行かず、余呉川に沿って琵琶湖に出る。
しばらく行くと、トンネルが見えた。片山隧道とある。
左側にはガードレール付きの歩道があった。2カ所でトンネルの恐怖を味わったので、ここに入る時の勇気が必要だった。だが、車が通らず、静かな中を歩く事ができた。さすがに、正月2日は車の通りが少ない。ラッキーだった。
トンネルを抜けると、琵琶湖岸だ。前方、湖の中ほどに竹生島が見える。その先で、ちょっと寄り道をした。
湖岸のさざなみ街道よりも一つ山側に住宅地があったからだ。脇道のような形になっているが、恐らく、こちらがもともと湖岸道路だったと思われる。
通り沿いに民家が立ち並び、神社や寺もある。直ぐに、片山漁港に着いた。漁港をまたぐようにさざなみ街道があるのを見る限り、やはり、ここがもともとの湖岸道路だろうと推察された。浄明寺前のT字路。そのまま直進すると、山本山の西側に沿って行き、再び余呉川に出会う。次第に湖岸からは離れてしまうので、ここで、右折してふたたび、さざなみ街道へ戻ることにする。真っすぐ進むと、ちょっと妙な道になっていた。さざなみ街道に合流するのではなく、平行に道が続いていた。そのまま進むと、ちょっとした駐車場がある。看板には「早崎尾上片山園地」とあった。
狭い通路から公園の中に入る。その先には「野田沼」は広がっていた。訪れる人は殆んど居ないのか、ちょっと荒れている。真冬だからかもしれない。沼の周りには幾つか鮒釣りの足場の様なものも残っている。季節になれば、多くの釣り人が集うのかもしれない。
公園を抜けて、先を急ぐ。
湖北町尾上という地区に入る。
ここには、葛籠尾崎湖底遺跡資料館がある。100年ほど前に、漁師の網に引っかかった「土器」をきっかけに調査が始まり、湖底に縄文期から平安期までの土器が見つかり、大きな遺跡であることが確認されたようだ。中には水深700mの深い場所からも見つかったようで、単純に、琵琶湖の水位変化だけでは解明できないようだ。もしかしたら、平安後期の内陸地震が関係しているかもしれない。もともと、軟弱な地盤の上にあった集落が、琵琶湖で起きた津波や、液状化などで琵琶湖側へ引きずり込まれたのではないか・・などと考えると、この遺跡の謎解明は、今の我々にとっても「防災」の面でも重要なのかもしれない・・などと考えてしまった。
それよりも、この尾上地区は不思議な街並みだ。
集落を分断するように、水路があり、水路沿いに道路、そして民家が建ち並んでいる。水路は比較的大きな石垣が組んであり、同じような石垣を湖岸でも見たので、おそらく、水路から琵琶湖側は、何らかの意図をもって埋め立てた場所ではないかと思う。中世には、「尾上城(砦)」があったそうなので、もしかしたらこの一角全体が城だったのかもと思う。
ここに在る「小江神社」は、垂仁天皇の皇女倭姫命勅命を奉じ野州郡江頭の地を舟出され、湖上を北に向かい、「小江浦」に上陸し休息したとされている場所で、神代の時代から、ここらに集落があったのは確かだろう。
いろんな想像を巡らせてくれる不思議な場所だった。

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