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5 奈美 [命の樹]


哲夫は、その頃の事を思い出すと、涙が零れそうになるのだった。
「ええ・・サチエちゃんはもう小学校に入りましたし、ユキエちゃんは保育園です。郁子さんは近くの工場に就職できて、ちゃんと暮らしているみたいです。時々、お母さんも一緒に、遊びに来ますよ。」
「そうかい・・それなら安心だが・・・。」
与志さんは、湖を眺めながら静かに言った。
「与志さん、ゆっくりしていってね。」
そう言うと、哲夫は、焼きあがったパンを届ける箱に詰め直すために厨房に入っていった。
与志さんは満足そうな顔で、残りのパンを口に運び、紅茶を飲んでいた。

哲夫は、厨房でちょうどパンが収まるサイズの紙袋にひとつひとつ包み込んで、平箱に移していた。その間には、客は一人も現れなかった。支度が終わると、箱を抱えて店を出た。
そして、石段を降りると、看板を裏返した。
≪しばらく不在ですが、じきに戻ります。よろしければ、店の中でお待ちください。≫
看板にはそう書かれていた。何と不用心な事かと思うが、滅多に客の来ない店にはちょうど良いのだった。

哲夫は、自転車の後ろに箱を載せて紐で縛ると、がたつきはないか何度か確認して、ゆっくりと出発した。保育園まではほんのわずか、鳥居を抜け、街並みを過ごし、門まで出ると左に曲がる。周遊道路を少し行くと、保育園が見えてくる。
園庭には子どもたちの遊ぶ元気な声が溢れている。
哲夫の自転車が近づくと、誰かが見つけて叫んだ。
「てっちゃんが来たよ!」
その声に、園児たちが一斉に集まってくる。
「てっちゃん、今日は何パン?」
「ジャムパン?」
「アンパン?」
口々に訪ねてくる。その声の中に、聞きなれた声が聞こえた。
「てっちゃん!」
ユキエだった。あの頃よりずいぶん大きくなっていた。

パンの入った箱を持って、園の中に入ると、園児たちはまっすぐに列を作った。
哲夫が箱を開けて一つ一つ園児に手渡す。いつの間にかそういう習慣になっていた。小さなパンを紙袋に入れたのはこの為だった。
哲夫の前に、小さなもみじのような手が広がる。
「はい」
そう言って、紙袋を一つ乗せると「ありがとう」と言って、小さな手が紙袋を大事そうに包み込む。みんなに行き渡ると、先生が声を掛ける。
「さあ、席についてね・・・いい、じゃあ、手を合わせてください。」
その声に園児たちは一斉に「いただきます。」と大きな声を上げる。そうして紙袋を開けてパンを食べ始める。哲夫の最も幸せな瞬間だった。
ふと見ると、ユキエと同じ組の女の子が一人、隅の方に座っていて、紙袋を開けようとしないのに気付いた。見慣れない女の子だった。その様子をユキエが気付いた。
「あの子、奈美ちゃん。ちょっと前にお友達になったの。」
最近編入したようだった。哲夫がそっと近づいて、訊いた。
「奈美・・ちゃんっていうのかな?」
その子は驚いた表情で哲夫を見て、こくりとうなずいた。
「奈美ちゃんは・・パンは嫌いだった?」
奈美は首を横に振った。
「じゃあどうして食べないの?」
その問いに、奈美はもじもじして答えられないような表情をしている。
「おいしいよ、食べてみて?」
奈美はこくりとうなずいて、紙袋を開けたが、じっと覗きこんだままだった。そうしているところへ、ユキエがやってきて言った。
「ねえ・・てっちゃん、お姉ちゃんの分も貰っていい?」
「ああ・・たくさん持ってきてから、もってお帰り。」
「お母さんにも良い?」
「ああ、いいさ。」
哲夫がそう答えると、じっと袋の中を覗きこんでいた奈美が驚いたように顔を上げた。
「え?貰ってもいいの?」
その問いに、哲夫は優しく答えた。
「ああ・・たくさん持ってきてるから・・・奈美ちゃんは幾つ欲しい?」
奈美は、手を広げ、思い出すようにして指を折った。
「三つ・・・裕くんとおじいちゃんとおばあちゃんの分・・・。」
「え?お父さんとお母さんの分は?」
哲夫が訊くと、奈美は俯いた。
そのやり取りを見ていた保育園の先生が哲夫に耳打ちした。
「奈美ちゃんのご両親・・少し前に交通事故に遭われて・・お父様は亡くなってしまって・・お母様もまだ入院中なんです。今、近くのお爺様のお宅に・・・」
哲夫は、言葉を失った。その様子に、先生が、
「さあ・・美奈ちゃん、はい、三つ。カバンにしまっておいてね。」
「ありがとう・・。」
奈美はそう言うと、満面の笑みを浮かべ、手にしたパンを大事そうにカバンにしまいこむと、席に戻って満足そうにパンを食べ始めた。

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