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9 おじさん [命の樹]


水上医師が≪おじさん≫と呼んだのには理由があった。
まだ、水上医師が高校生の時、暴漢に襲われたところを、哲夫が偶然通りかかって救ったことがあったからだった。

18年ほど前の夏の日の出来事だった。
哲夫はまだ名古屋の製造メーカーで開発部のリーダーになったばかりだった。終電で帰宅するのが常だったが、その日はいつもより早く帰宅できた。それでももう午後9時を回っていた。
駅から自宅までは自転車だった。自宅のマンションが遠くに見える辺りまで来た時、悲鳴のようなものが聞こえた気がした。自転車を停めて、聞き耳を立ててみた。空耳か?と思ったが、念のため辺りを観察してみた。
右前方に小さな神社があった。神社に上がる石段の脇に、ピンク色の自転車が倒れていて、学生のカバンらしきものが転がっていた。もしやと思い、近づいてみると、再び悲鳴が聞こえた。こんどは空耳ではない。
声は神社の横の土手の下から聞こえたようだった。近くに街灯はなく、月明かりでぼんやり様子が見える程度だった。慎重に声のする方に近づいてみた。草むらの中に人影が見えた。目を凝らしてみると、男が誰かに馬乗りになっているように見えた。
「何してる!」
哲夫が声を掛けると、一瞬人影はびくっと動きを止めた。
「た・・す・・け・・て・・」
口を押えられているのか、とぎれとぎれに漏れるような声がした。
「止めなさい!こら!やめろ!」
哲夫は暴漢だと確信して怒鳴った。
哲夫の声に、男が立ち上がり、フーフーと肩で息をしながら、哲夫の方を向いて、鬼のような形相で睨み付けた。手にはキラリと光るものが握られている。
男はじりじりと哲夫に近づいてくる。次の瞬間、ドスンと男は哲夫に体当たりをした。左脇腹に鈍い痛みが走る。哲夫は男の腰に手を回し、ベルトを強く掴んだ。男は身を離そうともがこうとしたが、哲夫はがっちりとベルトを掴んで離さない。
「さあ・・はやく・・逃げるんだ!・・どこでもいい、近くの家に飛び込むんだ!」
女子高生らしい女の子は哲夫の声にはっと気づいて、身を起こした。
哲夫が男と揉み合っている様子を見て、女の子は「わあ」と声を上げて駆け出した。
男は、追いかけようと再び身をよじる。その度に脇腹が強く痛む。哲夫は意識が徐々に朦朧とし始めていた。そのうち、女の子が飛び込んだ家から数人の家人が飛び出してきた。周囲の家からも何事かと出てきた。
哲夫はついに気を失って倒れ込んだ。その隙に、男が逃げようとしたが、周囲は既に多くの人が取り囲んでいた。
「すぐに、警察が来る。もう逃げられんぞ!諦めろ!」
男は為すすべなく取り押さえられた。パトカーのサイレンが響いている。
「怪我をしてる!救急車を!」と誰かが叫んだ。
哲夫の腹部にはナイフが突き刺さったままだった。真っ赤な血が流れている。

哲夫が目を覚ますと、病院のベッドの上だった。脇には加奈が座ったまま眠っていた。
身を起こそうとしたら、腹部に激痛が走った。
「いてて・・」
その声に加奈は目を覚ました。
「気がついた?」
「ああ・・。」
加奈は哲夫の返事を確認すると、ナースコールを押した。すぐに医師と看護師がやって来た。医師は、哲夫の顔や目を診察して「もう大丈夫でしょう」といって帰っていった。看護師が腹部のガーゼを交換した。
ふと見ると、加奈がぽろぽろと泣いている。
「どうしたんだ?」
「どうしたじゃないわよ!無茶するんだから!死ぬところだったのよ!」
「そんな、大げさだなあ・・・。」
その会話を聞いて、看護師が言った。
「いえ・・大げさじゃありませんよ。三日間もこん睡状態だったんですから。」
「三日?・・・そんなに?」
「先生は、最初、覚悟してくださいなんておっしゃったんだから・・・。」
加奈はまだ涙が止まらなかった。
哲夫は「心配かけてごめんな?」というのが精一杯だった。

意識が戻った事を聞いて、すぐに警察がやってきて、事件の様子をしつこく尋ねてきた。おそらく、証拠固めをしているのだろう。発見した時のこと、男がどのように向ってきたのか、ナイフはどのように持っていたとか、よく覚えていないことも尋ねられた。ようやく一通りの質問が終わったところで、哲夫が訪ねた。
「女の子は無事だったんでしょうか?」
「ええ・・幸いにも・・無傷でした。」
哲夫は安堵した。
薄明かりの中、遠くに逃げ去る女の子の後ろ姿はぼんやり覚えていたが、無事だったかどうか、気になっていたのだった。警察が帰ると、哲夫は少し眠った。

午後、加奈が子どもたちを連れてやってきた。
「お父さん、大丈夫?」
上の娘の名は、美里(みさと)といい小学6年生だった。下の娘は千波(ちなみ)で3年生になる。二人の娘は神妙な顔で訊いた。
「ああ・・大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて。」
そう答えると、二人の娘は哲夫に抱きつくようにしてわあわあと泣いた。
事件の事は加奈から聞いていたのだろうが、意識が戻るまでは会わせない方がいいだろうと、加奈は二人に留守番をさせていたのだった。二人は、随分と心細かったに違いなかった。哲夫は二人を抱きしめ、何度も何度も謝った。

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