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1.朝日の中で [命の樹]

物語は、5年ほど遡る。

「おはよう。」
二階からゆっくりと階段を降りてきたのは、【命の樹】の奥さん、加奈だった。パジャマ姿でまだ少し眠そうだった。

この店のオーナーである、倉木夫妻は、五十歳になったのを機に、二人とも、会社勤めを辞めて、街場の自宅を処分して、この田舎に移り住んだ。
最初は、1年ほど、貸家を住まいにしていたが、高台のこの地を手に入れて、小さな店を作った。
赤い屋根のログハウス風の建物で、一階は喫茶店、二階には夫婦の居室のほかに二つほど部屋がある。時々、東京や名古屋に住む娘たちが顔を見せる。二人の娘はすでに成人し、それぞれに暮らしている。

店を開いてまだ1年半ほどしかたっていなかった。

主人の哲夫が厨房から声をかけた。
「おはよう。調子はどうだい?」
加奈は、ブラインドを開けながら答えた。
「ええ、元気よ。あなたは?」
「ああ、大丈夫だ。」
少し妙な挨拶だが、これが二人の朝のお決まりの会話だった。

加奈は、玄関に行って新聞を抜き取ると、朝日が差し込んでいる東の窓際の席に座った。
一応、喫茶店なので、白木のテーブルとイスが4セットほどおいてある。一つは西側の窓の下、一つは東側の窓の下。そして、二つのセットは、南に開いた掃き出し窓のところに並んでいた。中央には、大きめの真っ赤なソファセットが置いてある。
加奈は、老眼鏡をかけて、新聞を読み始める。そこへ、哲夫が、トレイに乗せた、朝食を運んでくる。
「ありがと・・・」
小さく呟くと、大きめのコーヒーカップを持ち上げて一口飲んだ。それから、視線をトレイの上に置かされたお皿にやる。
「さあて・・今日のメニューは何ですか?」
加奈の問いかけに、厨房に戻った哲夫が、遠慮がちに答える。
「今日は・・いつもの保育園へ届け物をする日なんで、小さめのパンを焼いてみたんだ。」
「ふーん。」
奥さんがちょっと口をとがらせるような表情をして、目の前の小皿に乗ったパンを見た。
口を尖らせたのには訳がある。
いつもは大抵、何かのサンドイッチが朝食メニューなのだ。
だが、時折、こうして新作のパンが登場する。
だが、哲夫が焼く新作のパンは二回に一回はお世辞にもおいしくないのだった。だが、率直のおいしくないと感想を述べると、哲夫の落胆ぶりは尋常ではなく、しばらく、何もできなくなるほどで、機嫌を取るのに苦労する。
だから、こんな風に新作が出てきたときは、加奈はこの後の展開を想像して、すぐに食べる気になれなかったのだった。
しかし、目の前にはすでに、子供の握りこぶしほどの小さくて丸いパンが二つ乗っている。

加奈がこういう気遣いをしていることを哲夫は気付いているのだろうか?加奈の心の中にはそんな疑問が絶えず湧いている。いや、おそらく何も気づいていないだろう。そういうことには気づかない鈍感さが哲夫の取り柄でもあるのだから。
加奈は、勇気を出して小さなパンを手に取った。
ほんのりと柑橘系の香りがしている。まだ焼いたばかりで温かい。半分に割ると、中から一層強い柑橘の香りが広がった。
「うーん、良い香り。」
この一言で、哲夫は満面の笑みを浮かべた。
加奈が半分に割ったパンをぱくりと頬張る。少し酸味はあるが気になるほどではない。それ以上に、口から鼻に抜ける香りが心地よく、噛んでみると甘さが口に広がる。
「これって・・・オレンジ?・・・じゃなさそうね。」
「ああ・・・この前、与志さんに貰ったみかんジャムを使ったんだ。最初は、ジャムパンにしようかと思ったんだけど・・・小さな子どもたちだから、ジャムをこぼして服を汚したしちゃうかなって思って・・生地に練りこんでみた。」
加奈は哲夫の得意げな顔を見て、にっこりとほほ笑んだ。
「合格!」
加奈の言葉に哲夫は小さくガッツポーズをして見せた。

「いけない、遅刻しちゃう。」
加奈は残りのパンとサラダを搔き込むと、バタバタと二階へあがっていった。
しばらくすると、身支度を整え、すっかり化粧も済ませた加奈が階段から転げ落ちるように降りてきた。
「今日は、午後も授業だから少し遅くなるかも・・・。」
「ああ、わかった。」
加奈は、車で三十分ほどのところにある専門学校の講師をやっていた。
ここへ来る前、介護の仕事に就いていて、多くの資格を持っていたので、知り合いを通じて、講師の口を手に入れたのだった。
「じゃあ、行ってきます。」
玄関を開けて出ていく加奈を哲夫は見送った。
「ああ・・看板、出しといてくれるかい。」
加奈は、哲夫の言葉に、手を挙げて答えた。
そして、高台から下へ降りる石段に足音を響かせて出かけて行った。下の方から、クラクションが一つなった。加奈のいつもの合図だった。

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yakko

お早うございます。
物語の始まりが爽やかで良い感じですね。楽しみです(^_^)
by yakko (2014-03-04 08:39) 

苦楽賢人

yakkoさん、ありがとうございます。
今回、ちょっと自分自身を投影しています。

いや、喫茶店はやってません。
ただの会社員ですから、むしろ、願望を投影しているといったほうがいいでしょうね。
by 苦楽賢人 (2014-03-04 22:00) 

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