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2.常連の与志さん [命の樹]

パン焼き窯は、厨房の勝手口を出たところに造られていた。
レンガを積み上げたしっかりした造りで、薪を使うタイプだった。
一度にたくさんは焼けないが、じっくりじっくり焼き上げる、そのゆったりした時間が哲夫は好きだった。不慣れなうちは火加減が判らず,随分だめにしてしまった事もある。天候にも左右される。真夏は地獄のような暑さだし、雨が降ればほとんど焼けない。それでも、そういった天候に左右されたのんびりした暮らしが好きだったのだ。

今日は、天気も良かった。火を入れて落ち着いたところで、すでに成型を終えたパンを窯の中へゆっくりと入れた。窯の横にあるベンチに座り、顔を上げると、朝日が湖を照らしてキラキラと輝く風景が広がっていた。ふーっと息を吐き遠くを眺めた。
パンが焼きあがるまで、こうしてのんびりと景色を眺めていると、決まって、来客がある。

その客は、玄関からはやって来ない。
パン焼き窯のある垣根の隙間から現れる。
がさがさと藪が動くと、ちょうど人ひとり通れるほどの垣根の隙間から、姉さん被りに野良着姿の女性が顔を見せた。
「やあ、おはようございます。与志さん。」
「ああ。おはようさん。」
与志さんは、70を超える老婆だった。
いつも朝早くから畑に出ていて、パンを焼いているときに限って、こうやって現れるのだった。おそらく、パンの焼ける匂いに誘われて来るに違いなかった。
与志さんはめったに店の中には入らない。
野良着で店を汚すのが嫌だということもあるが、パン焼き窯の裏手は、与志さんの畑を見下ろせる絶好の場所であり、その風景をじっくり楽しめるベンチが気に入っていたからだった。与志さんは、10年以上前にご主人に先立たれ、一人暮らしだった。喫茶【命の樹】が建っている土地はもともと与志さんのものだった。畑仕事用に小さな小屋を建てていたのだが、事情があって手放さざるを得なくなって、地元の不動産会社を通じて、倉木夫妻が買ったのだった。
与志さんの家は、畑を挟んですぐ下にある。だから、与志さんは畑仕事をしながら、気が向くと、こうやってパン焼き窯の横にあるベンチに来るのだった。
「今日も湖は静かだねえ。」

与志さんのいつもの言葉を聞くと、哲夫は決まって同じことを考えた。
きっとここからの眺めはご主人と一緒に眺めていたに違いない。そして、ここへ来るのは、少し寂しさを感じた時なんじゃないか。

「与志さん、ちょうど良かった。今日は与志さんに貰ったジャムで新作を作ったんだ。試食してみてくれますか?」
「ああ・・」
「ちょっと待っててくださいね。・・・ええっと・・・紅茶で良かったよね。」
哲夫はそういうと、厨房に戻ってすぐに、与志さん専用のカップに紅茶を入れてもってきた。
ベンチの前には小さなテーブルがある。ほとんど与志さん専用みたいなものだった。
哲夫はテーブルに紅茶のカップを置き、すぐにパン焼き窯を覗いた。
「うん・・いい具合に焼けてる。」
そういって、ゆっくりとパンを取り出し、小皿にパンを二つほど載せてテーブルに置いた。
「さあ、どうぞ。」
与志さんは、すでに紅茶に口をつけていた。そして、焼きあがったばかりのパンをしばらく眺めた後、ゆっくりと二つに割った。与志さんは、そっと鼻を近づけて言った。
「ほう・・みかんジャムを使ったんだね。」
哲夫は少し複雑な表情で答える。
「ええ・・・生地に練りこんでみたんです。どうかな?」
与志さんはぱくりと口に入れ、ゆっくり噛みしめるように味わっている。少し眉間に皺を寄せたが、すぐににこりと笑って言った。
「うん・・いいねえ・・・。」
「そう?良い?実は加奈も旨いって言ってくれたんだよね・・・。」
哲夫は得意そうな顔つきに変わった。
それを見て、与志さんは少し意地悪な表情で言った。
「やっぱり、私の作ったジャムは最高だね。」
「ええ?・・」
哲夫が少し落胆したような表情を見せたところで、与志さんは大笑いして、「いや、パンは最高だよ」と言った。哲夫も笑った。

「ねえ、与志さん。また今度、違うジャムもくださいな。」
「そうかい?・・そうだね、もうすぐ、梅の実の収穫に入るから、今度は、梅ジャムを作ってみようかね。」
「梅ジャムか・・・どんな味になるかな?」
哲夫はちょっとパンには合わないかもなと考えた。
「大丈夫さ、私が作るジャムなんだよ。きっと旨いに決まってる。」
与志さんは嬉しそうに答えた。
「これ、保育園に届けるんですよ。」
「そうかい・・きっと、みんな喜ぶだろう・・・。そういえば、あの子はどうしてる?」
「ああ・・・サチエちゃん?・・」
「ああ、それと妹のユキエちゃん・・・ちゃんと、暮らしてるんだろうね?」
「ええ・・サチエちゃんは今春には小学校に入りましたし、ユキエちゃんも保育園です。なんとか、親子三人暮らしているみたいで・・時々、店にも来てくれますよ。」
哲夫は思い出していた。


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