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29 須藤自転車店 [命の樹]

29 須藤自転車店
「こんにちは・・すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
千波は、門から少し身を乗り出して声を掛けたが、返答がない。仕方なく、門扉を開けて中に入った。先ほどの店の裏口からの通路が伸びていて、玄関に繋がっている。
「失礼します。」
千波は少し緊張しながら中へ足を踏み入れた。
健も千波の後に続いた。数歩、歩いたところで、野太い声が響いた。
「誰だ!」
声はすぐ傍で聞こえたが所在が判らない。
辺りを見回すと、玄関の隣、広縁に置かれた椅子に白髪の老人が座って、千波たちを睨んでいた。

「突然に、すみません。」
千波はそういうと深々と頭を下げた。ゆくりと顔を起してその老人を見ると微動だにせず二人を睨んだままだった。
「初めまして・・私、倉木千波といいます。・・岬のところで父が喫茶店をやっているんですが・・あの・・漁師の源治さんに教えていただいて・・伺ったんです。」
老人の表情は一向に変わらない。いや、ますます険しい表情になったように感じた。
「何の用だ!」
老人の言葉に、千波は健を見た。健は千波の後ろに立っていたはずだが、知らぬ間に門の処まで後ずさりしていて、老人には見えない場所に身を隠した状態になっていた。
千波は健を睨みつけ、少し不機嫌な表情を浮かべた。
「あの・・バイクの・・バイクの修理をしていただけないでしょうか?」
千波は健に代わって言った。
「バイクの修理?・・ふん、馬鹿馬鹿しい。・・・帰れ!」
老人はそう言うと、眼を閉じた。取り付く島もない。
そんなやり取りを聞きつけたのか、玄関が開いて、老人の奥さんらしき人が顔を見せた。奥さんは慌てて千波に駆け寄ってきて、手を引っ張って門の外へ連れ出した。そこには権がばつの悪そうな顔をして身を潜めていた。

「ごめんなさいね。」
奥さんはいきなり二人に謝った。
「いえ・・そんな・・。」
「あの人、病気をしてからあんなふうになっちゃってね。・・誰が来ても追い返すのよ。」
「いえ、突然お邪魔してしまって、こちらこそ申しわけありませんでした。源治さんから、こちらならバイクの修理ができるかもってうかがったものですから・・」
「そう・・源治さんから・・・確かに、昔は腕も良くて、結構遠くからも修理の仕事を貰っていたんだけどね。・・あの人、2年ほど前に、脳梗塞を患ってしまってね。体が不自由になったのよ。もう、昔みたいにはできないの。」
「あの・・見てもらうだけでも・・修理はできなくても・・どこが壊れているか・・どうしたら直るかとか教えてくださらないでしょうか?」
奥さんは困った顔をしている。
「なら・・どこか、近くでバイクの修理をしていただけそうな方を紹介してもらえませんか?」
更に奥さんは困った顔をして言った。
「御免なさいね。せっかく、来て貰ったのに。・・あの人、もう誰とも逢おうとしないし、バイクの事は考えたくもないらしいのよ。・・」
竜司が言っていた事は本当だった。

やむなく二人は店に戻ることにした。
千波たちが、店に戻ったのは夕方だった。千波は、これまでの経緯を哲夫に話した。
「残念だったな・・まあ、バイクの修理はまだ何か手があるだろう。・・健君、別に急ぐ旅じゃなかったんだよね。じっくり考えようか。・・・ああ、千波、明日には帰るんだろ?」
「ええ。朝、お母さんに駅まで送ってもらうつもり。」
「そうか・・東京に戻ればまた大変だろうから、とりあえず、のんびりしなさい。」
哲夫はそういうと、厨房で明日の仕込みを始めた。

翌日は、いつもの保育園へパンを届ける日だった。
哲夫は朝早く起きてパンを焼いていた。千波もそれを知って早朝から哲夫を手伝った。パンが焼きあがったころに、与志さんが顔を見せた。
「おや、千波ちゃん、久しぶりじゃないか。元気だったかい?」
いつもの席に与志さんは座って、紅茶を飲みながらそう言った。
「ええ、いつも父がお世話になっています。」
「いやいや、こっちが世話になってるんだよ。こないだも、家の修理もしてもらったし、大雨の日にはここで避難もさせてもらったんだ。近くに住んでもらって助かってるんだよ。」
「そう・・。これからもよろしくお願いします。」
こくりと頭を下げて、千波は焼きあがったパンをもって厨房へ入っていった。
「すっかり大人だねえ。前にあった時はまだ子どもみたいだったけど・・。」
「ええ・・何だか、妻に似てきてるみたいです。」
与志さんは紅茶を飲み、焼きあがったばかりのパンを食べ終わると、畑に戻って行った。

朝食を終えると、加奈は出勤のついでに千波を駅まで送っていった。
「お父さん、体、大事にしてよね。今度はお正月くらいには戻れると思うけど・・。」
玄関先で、千波は振り返って哲夫に言った。少し心配そうな表情なのに健は気づいた。
「ああ・・お正月だな・・待ってるよ。」
哲夫の返事に千波は少し涙ぐんでいるように見えた。
「さあ、行きなさい。電車に遅れるよ。」
哲夫は玄関で千波を見送った。健は、加奈の車まで荷物を運んで行った。
「健君、ここにいる間はしっかり働きなさいよ!」
千波はそう言い残して加奈の車に乗り込んだ。

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