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30 ぶどうパン [命の樹]

30 ぶどうパン
千波を送り出してから、哲夫は保育園へパンを届ける支度をした。
健は、店の掃除と庭の草取りをしていた。
「健君、ちょっと手伝ってもらえないかな。今日は、保育園にパンを届けるんだが、ちょっといつもより多くなったんだ。運んでもらえると助かるんだが・・。」
哲夫は健にそう頼むと、いつもよりたくさんのパンを積み込んだ自転車を、健に引かせて、保育園に向かった。
「てっちゃんだ!」
いつもの沢山の小さな笑顔が出迎えてくれた。
「今日のパンはぶどうパンです。・・干しぶどうが入ったパンですよ。」
哲夫を囲む園児たちを見ながら、哲夫は言った。哲夫は箱からパンの袋を取り出して見せた、園児たちは興味津々で、パンを見つめている。
「この中で、干しぶどうが大好きなお友達がいると思うんだけど・・誰かな?」
園児たちは顔を見合わせている。すると、誰かが大きな声で言った。
「まさる君!」
名を言われて、真っ赤な顔をしたまさるが、皆に押さえるようにして、少し前に出てきた。園服の胸のところには「たまき まさる」と書かれていた。
「そうか、まさる君、干しぶどうが好きなんだね?」
まさるは小さく頷いた。
「今日のパンに入っている干しぶどうは、まさる君のおじいちゃんから貰ったんだよ。・・まさる君が大好きなんだって言って、保育園へ届けるパンに使ってくれってね。」
哲夫がそう言うと、まさるの周りにいた園児たちが「いいなあ」とまさるを羨ましがった。まさるは少しだけ得意げな表情を浮かべていた。
「まさる君のおじいちゃんは、まさる君の事が大好きなんだね。まさる君も好きかい?」
まさるは、大きく頷いた。
「じゃあ、その気持ちをおじいちゃんに伝えようね。・・そうだ、みんなもパンを食べて、美味しかったら、まさる君にありがとうって言ってあげてね。・・まさる君は、みんなの気持ちをおじいちゃんに伝えてね。」
哲夫はそういうと、保母さんにパンの箱を渡した。園児たちは、綺麗に列を作って順番にパンを受け取った。哲夫はしばらくその様子を眺めていた。
一緒に行った健は目の前で起こっている事が、何か別世界のように感じて、しばらく声も出なかった。
「健君、申し訳ないが、もう少し付き合ってくれ。」
哲夫はそう言って、保育園を後にして、周遊道路沿いを町の方へ戻って行く。途中で、町とは反対側の山手へ上って行った。
「あら・・おじさん。」
坂道の上から、結が声を掛けた。
「やあ、もう準備は終わったかい?」
「いえ・・まだまだ、もうじき開院なのに、何だかいろいろ足りないものがあるんですよ。」
「大変だね・・・あ、これ、差し入れ・・というか。。陣中見舞ってところかな?」
自転車の後ろに積んでいた、パン箱の中から、園児に配ったのと同じパンの袋を取り出して見せた。
「ありがとう・・お昼、まだだったから、助かったわ。・・ねえ、お母さん!おじさんがみえたわ。」
結が、家の中へ声を掛けた。中から、エプロン姿の結の母が出てきた。
「倉木さん、お久しぶりです。いつも、結がお世話になって・・。」
「いえ、世話をしてもらってるのは僕の方ですから。それより、お母さんもこちらで看護師として働かれるって聞きましたけど・・。」
「ええ・・こんな私が役に立てるのかどうか・・。」
「信頼し会える関係なんて・・医師にとっては一番のパートナーでしょう。」
「まあ・・そうでしょうか?・・それならいいんですけど。」
結の母は、笑顔で答えると、哲夫はパンの袋を手渡した。
「ご一緒に、お昼いかがですか?」
結が玄関まで出てきて、哲夫と健を迎えた。病院とは別の隣の建物が住まいのようだった。
「じゃあ、少し、お邪魔します。」
四人で昼食を摂り乍ら、結が開院に至るまでの苦労話を結の母から聞いた。
「ここは、私の親戚の家だったんです。病院を作りたいって言い出して、実家に相談したら、すぐに良いお話だって決まったんですけど・・・結がなかなか大学病院が辞められないって・・いったん白紙になりかけたんです。お金も掛かるし、だいたい、こんなところで成功するかもわからないって・・周りが結構心配していたんですよ。」
「もう・・お母さん、いいじゃない。もうすぐ開院できるんだから・・。」
「そんなこと言ったって・・誰かに苦労話を聞いてもらわなくちゃ・・。」
「もう・・判りました。お母さんには苦労を掛けました。本当にごめんなさい。・・それと・・今日までありがとう。これからもお願いします。」
親子の会話を、哲夫は微笑んで聞いていた。
「でも、本当にお礼を言わなくちゃいけないのは、倉木さんでしょ?」
結の母は、結の言葉に少し涙ぐみながら言った。実は、結が医大へ通っている間、哲夫は加奈と相談して、少しばかりの資金援助をしていたのだった。
入学金や授業料、通学費用などかなり高額なのは想像がついた。結の母は看護師として市民病院で働いていたが、とてもその収入だけでは賄えるものではなかった。結の母が頼みこんできたのではなかった。結自身が哲夫と加奈に相談したのだ。
医師になって必ず返すからという約束で、月々の通学費用を渡していた。哲夫もそれほど余裕があるほうではなかったが、母の事を考え、恥じも覚悟の、切実な頼みを断りきれなかったのだった。

「いえ・・僕は何も・・本当に、結ちゃんはよく頑張ったよ。おめでとう。良かったね。」
「おじさんには随分応援してもらいました。本当にありがとうございました。」
和やかな時間を過ごした。
店に戻る途中、哲夫は、須藤自転車店の前で立ち止まった。
「ここです。昨日ここへ来たんです。」
健は、自転車店の脇の路地をチラリと見た。哲夫は降りたままのシャッターの前に立ち、貼紙をしばらく見つめてから、言った。
「健君、帰り道にもう一軒、寄りたいところがあるんだ。」

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