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30 ぶどうパン [命の樹]

30 ぶどうパン
千波を送り出してから、哲夫は保育園へパンを届ける支度をした。
健は、店の掃除と庭の草取りをしていた。
「健君、ちょっと手伝ってもらえないかな。今日は、保育園にパンを届けるんだが、ちょっといつもより多くなったんだ。運んでもらえると助かるんだが・・。」
哲夫は健にそう頼むと、いつもよりたくさんのパンを積み込んだ自転車を、健に引かせて、保育園に向かった。
「てっちゃんだ!」
いつもの沢山の小さな笑顔が出迎えてくれた。
「今日のパンはぶどうパンです。・・干しぶどうが入ったパンですよ。」
哲夫を囲む園児たちを見ながら、哲夫は言った。哲夫は箱からパンの袋を取り出して見せた、園児たちは興味津々で、パンを見つめている。
「この中で、干しぶどうが大好きなお友達がいると思うんだけど・・誰かな?」
園児たちは顔を見合わせている。すると、誰かが大きな声で言った。
「まさる君!」
名を言われて、真っ赤な顔をしたまさるが、皆に押さえるようにして、少し前に出てきた。園服の胸のところには「たまき まさる」と書かれていた。
「そうか、まさる君、干しぶどうが好きなんだね?」
まさるは小さく頷いた。
「今日のパンに入っている干しぶどうは、まさる君のおじいちゃんから貰ったんだよ。・・まさる君が大好きなんだって言って、保育園へ届けるパンに使ってくれってね。」
哲夫がそう言うと、まさるの周りにいた園児たちが「いいなあ」とまさるを羨ましがった。まさるは少しだけ得意げな表情を浮かべていた。
「まさる君のおじいちゃんは、まさる君の事が大好きなんだね。まさる君も好きかい?」
まさるは、大きく頷いた。
「じゃあ、その気持ちをおじいちゃんに伝えようね。・・そうだ、みんなもパンを食べて、美味しかったら、まさる君にありがとうって言ってあげてね。・・まさる君は、みんなの気持ちをおじいちゃんに伝えてね。」
哲夫はそういうと、保母さんにパンの箱を渡した。園児たちは、綺麗に列を作って順番にパンを受け取った。哲夫はしばらくその様子を眺めていた。
一緒に行った健は目の前で起こっている事が、何か別世界のように感じて、しばらく声も出なかった。
「健君、申し訳ないが、もう少し付き合ってくれ。」
哲夫はそう言って、保育園を後にして、周遊道路沿いを町の方へ戻って行く。途中で、町とは反対側の山手へ上って行った。
「あら・・おじさん。」
坂道の上から、結が声を掛けた。
「やあ、もう準備は終わったかい?」
「いえ・・まだまだ、もうじき開院なのに、何だかいろいろ足りないものがあるんですよ。」
「大変だね・・・あ、これ、差し入れ・・というか。。陣中見舞ってところかな?」
自転車の後ろに積んでいた、パン箱の中から、園児に配ったのと同じパンの袋を取り出して見せた。
「ありがとう・・お昼、まだだったから、助かったわ。・・ねえ、お母さん!おじさんがみえたわ。」
結が、家の中へ声を掛けた。中から、エプロン姿の結の母が出てきた。
「倉木さん、お久しぶりです。いつも、結がお世話になって・・。」
「いえ、世話をしてもらってるのは僕の方ですから。それより、お母さんもこちらで看護師として働かれるって聞きましたけど・・。」
「ええ・・こんな私が役に立てるのかどうか・・。」
「信頼し会える関係なんて・・医師にとっては一番のパートナーでしょう。」
「まあ・・そうでしょうか?・・それならいいんですけど。」
結の母は、笑顔で答えると、哲夫はパンの袋を手渡した。
「ご一緒に、お昼いかがですか?」
結が玄関まで出てきて、哲夫と健を迎えた。病院とは別の隣の建物が住まいのようだった。
「じゃあ、少し、お邪魔します。」
四人で昼食を摂り乍ら、結が開院に至るまでの苦労話を結の母から聞いた。
「ここは、私の親戚の家だったんです。病院を作りたいって言い出して、実家に相談したら、すぐに良いお話だって決まったんですけど・・・結がなかなか大学病院が辞められないって・・いったん白紙になりかけたんです。お金も掛かるし、だいたい、こんなところで成功するかもわからないって・・周りが結構心配していたんですよ。」
「もう・・お母さん、いいじゃない。もうすぐ開院できるんだから・・。」
「そんなこと言ったって・・誰かに苦労話を聞いてもらわなくちゃ・・。」
「もう・・判りました。お母さんには苦労を掛けました。本当にごめんなさい。・・それと・・今日までありがとう。これからもお願いします。」
親子の会話を、哲夫は微笑んで聞いていた。
「でも、本当にお礼を言わなくちゃいけないのは、倉木さんでしょ?」
結の母は、結の言葉に少し涙ぐみながら言った。実は、結が医大へ通っている間、哲夫は加奈と相談して、少しばかりの資金援助をしていたのだった。
入学金や授業料、通学費用などかなり高額なのは想像がついた。結の母は看護師として市民病院で働いていたが、とてもその収入だけでは賄えるものではなかった。結の母が頼みこんできたのではなかった。結自身が哲夫と加奈に相談したのだ。
医師になって必ず返すからという約束で、月々の通学費用を渡していた。哲夫もそれほど余裕があるほうではなかったが、母の事を考え、恥じも覚悟の、切実な頼みを断りきれなかったのだった。

「いえ・・僕は何も・・本当に、結ちゃんはよく頑張ったよ。おめでとう。良かったね。」
「おじさんには随分応援してもらいました。本当にありがとうございました。」
和やかな時間を過ごした。
店に戻る途中、哲夫は、須藤自転車店の前で立ち止まった。
「ここです。昨日ここへ来たんです。」
健は、自転車店の脇の路地をチラリと見た。哲夫は降りたままのシャッターの前に立ち、貼紙をしばらく見つめてから、言った。
「健君、帰り道にもう一軒、寄りたいところがあるんだ。」

31 玉木商店の話 [命の樹]

31 玉木商店の話
須藤自転車店から、5,6軒となりには、玉木商店があった。
「こんにちは・・ご主人、いらっしゃいますか?」
哲夫が声を掛けると、店の奥から、店主が顔を見せた。
「おや、てっちゃん。・・あれ?何か注文品があったっけ?」
「いえ・・ちょっと、コーヒー豆が少なくなったんで注文しておこうかと思って。」
「そうかい。・・ああ、それなら丁度良い。何日か前に、売込みがあったんだ。何でも、新しい豆を試してもらいたいってさ。ちょっと待ってて。」
店主はそういうとまた店の奥へ入ってしばらくして、包みを一つ抱えてきた。
「味を見て欲しいそうだ。で、良かったら使ってくれって。俺にはコーヒーの味なんかわからないからどうしようかと思ってたんだ。てっちゃん、店で使ってみてくれないか。で、良ければ、次から注文してくれよ。」
そう言われても、店にはほとんど客は来ない。まあ自分で試してみるのが精一杯というのが正直なところだった。だが、店主の頼みを断る理由もない。
「ええ・・良いですよ。御代は?」
「いや、サンプルだからってさ。」
「ありがとうございます。」
哲夫はその包みを受け取りながら、店主に尋ねた。
「あの・・そこの須藤自転車屋さんの事で少し伺いたいんですが・・。」
そう言うと。店主はチラッとそちらの方角を見て、大きな溜息をついた。
「ああ・・徳さんか・・残念だよ。病気になっちまって・・店を閉めちまってさ。」
「徳さんって言うんですか・・。どんな方なんです?」
「徳さんは俺の同級生で、小さい頃からあいつは頭が良くて、優しくて、何でも誰よりも上手くやって、みんなの人気者だったんだ。」
健は店主の話を聞いてとても同じ人物とは思えなかった。
「だが、親父を早くに亡くして、高校を出ると、すぐに自転車屋を継いだんだ。徳さんなら、大学にもいけただろうし、もっと夢もあったに違いないんだが・・まあ、おふくろさんの事もあって、自分で決めたんだけどな・・」
「バイクの修理をしていたって聞いたんですが・・。」
「ああそうだよ。奥さんと知り合ったのもバイクが縁だった。いや、奥さんと知り合ってから、バイク修理の勉強を始めたんだ。元々器用でさ、すぐにこの辺りじゃ腕のいい修理屋だって評判になってなあ。結構、お客も多かったよ。」
「病気って?」
「ああ、この歳になればさあ・・ほら・・確か、脳梗塞だったかな。今じゃ、半身不随だそうだ。病気の後、一歩も家から出ていないらしい。会いに行っても帰れって怒るらしい。まあ、みっともない姿を曝したくないっていう気持ちも判らないでもないがなあ。」
「そうですか・・・。」
「だがな、不憫なのは奥さんだ。四六時中、一緒にいるんだ。大変だろうよ。」
「そうでしょうね。」
哲夫は、加奈の顔を思い浮かべていた。自分もそのうちに動けなくなるだろう。そうなった時、加奈はどんな気持ちになるだろうか。いや、自分が死んだ後はどうだろうかと考えていた。
「昔は、奥さんと二人で、この辺りをバイクで走り回っていたんだぜ。大きなバイクが二つ並んで走る姿は格好良かったなあ。あの頃、奥さんも幸せそうだったなあ。・・それが今じゃ・・。いや、何とかしてやりたいが、こればかりはなあ・・。」
「ご子息は?」
「ああ、一人息子がいた。親に似て頭が良かった。大学も医学部に行ったんだ。今、確か、大学病院で医者をしてるって、奥さんから聞いたことがあるな。ただ、最近は見てないな。おそらく、親父が病気になったことも知らせてないんじゃないかな。知ってれば、すぐにも戻ってくるに決まってる。」
「どうしてですか?」
「徳さん、子どもが産まれてから、バイクにサイドカーってのを付けたんだ。息子が幼い頃はサイドカーに乗せて、あちこち走り回っていたんだ。中学校くらいまでは、バイクの修理も一緒にやってたんだ。あいつは親父が大好きだったし、徳さんも随分かわいがってたんだよ。」
「じゃあ、何故、知らせていないんでしょう?心配掛けたくないってことでしょうか?」
「いや、そうじゃないだろ。カッコいい親父でいたいんじゃないかなあ。何でも知っていて、何でもできる、スーパーマンみたいな親父のままでいたいんじゃないかな?」
「でも・・」
「ああ、そうさ、。徳さんは昔からそういうところがあった。いや、周囲がそうしたのかもしれない。優等生で何でもできる格好いい徳さん、みんなそんなふうに見ていたから。だから、引きこもって出てこなくなったんだろ。」
哲夫はそこまで聞いて、健に言った。
「健君、今からバイクを取りに行ってくれないか。もう一度、徳さんに頼んでみよう。」
「でも・・昨日の様子じゃ、無理ですよ。」
「まあ、駄目で元々さ。さあ、急いで。」
哲夫に言われて、渋々、健はバイクを取りに行った。その間に、哲夫は再び、結の病院へ行った。

「結ちゃん、すまない、一つ頼み事があるんだ。」
哲夫は病院に着くや否やそう切り出した。結は、ほぼ出来上がった診察室の中で、診察の器材の点検をしていた。
「どうしたんですか?」
「君の働いていた大学病院に、須藤っていう名の先生はいなかったかい?」
「須藤?・・須藤・・どこかで聞いたことあるけど・・・。」
「忙しいところで申し訳ないんだが、ちょっと調べてみてもらえないかな。・・おそらく、そこにある自転車屋の息子さんだと思うんだ。知らせたいことがあってね。」
「そう、・・・判りました。ひょっとしたら、すぐにわかるかもしれません。」
「じゃあ、頼んだよ。須藤自転車店の息子さんなら、連絡を取ってくれないかな。すぐにも会って話したいことがあるから。」
「はい。・・あ、おじさん・・あの・・。」
結の問いかけに、哲夫はポケットに手を入れて、銀色の酸素ボンベを取り出して見せた。
「ありがとう。」
哲夫は、結の病院を後にして、哲夫は須藤自転車屋へ向った。通りを健が重そうにバイクを押してくるのが見えた。4/15

32 徳さんと奥さん [命の樹]

32 .徳さんと奥さん 健の案内で、脇道から玄関へ回った。 「すみません。須藤さん、いらっしゃいませんか?」 今日は、広縁には主人の姿は見えなかった。しばらくして、玄関が開き、奥さんが顔を見せた。 「お待たせしました。・・どちらさんでしょうか?」 哲夫は深々と頭を下げ、挨拶した。 「その先の岬の上で、命の樹という喫茶店をやっている、倉木哲夫と申します。昨日、娘が不躾なお願いに参り、お詫びに伺いました。申しわけありませんでした。」 「ああ、あのお嬢さんの・・いえ、こちらこそ・・主人が無碍にお断りしてしまって・・。」 「いえ、こちらこそ、事情も知らずに無遠慮なことを申して、本当に申しわけありませんでした。これはお詫びの品といってはなんですが・・・今日、私が焼いたパンなんです。週に一度、保育園に届けていまして、意外と評判がいいんです。」 哲夫はそう言うと、紙袋を奥さんに手渡した。そこへ「何の用だ!」と野太い声が響いた。広縁の椅子に、ご主人が座って睨んでいた。 「お騒がせしてすみません。お詫びに伺ったんです。」 「ふん、別に詫びなどいらん。帰れ。」 ご主人はそういうと哲夫を睨み付けた。 「いえ・・お詫びもなんですが・・実は、お願いがありまして・・。」 「修理なら無理だぞ!知ってるだろう、もう帰れ!」 「ええ・・修理していただくのは無理なのは判っています。ですから、修理のための工具をお借りできないかと思いまして。」 御主人は眉間しわを寄せて答えた。 「なんだ、自分たちで修理しようってのか。・・馬鹿馬鹿しい・・素人には無理だ。」 「そうかもしれません。でもやってみなくちゃ判りません。」 「そう簡単にできるわけがない。」 ご主人は、じっと目を閉じ、吐き捨てるように言った。 哲夫は一息おいてから言った。 「私の父は修理工でした。独学で旋盤や溶接も覚えたそうです。子どもの頃、いつも父は自分が建てた小屋で、壊れたバイクやエンジンを修理してました。とにかく、スパナを握って、機械に触れて、油に塗れて、そうして一つ一つ修理して・・とても、幸せそうでした。」 「親父さんは今は?」 御主人は目を閉じたまま尋ねた。 「還暦を前に他界しました。病気でした。」 「そうか。」 「末期のがんで、もう安静にしなければいけないのに、いくら止めても、毎日、小屋に行って修理の仕事をしてました。できなくなるなら死んだ方がましだなんて言って、お袋を困らせました。そんな父は小屋でスチールブラシを握ったまま息絶えていたんです。」 「・・・」 御主人は、何か、思うことがあるのか、小さくため息をついた。 「・・・そんな父から、私も、修理の手ほどきを受けました。子どもの頃の事ですから、どこまで覚えているかはわかりませんが、もう一度、思い出してやってみようと思うんです。」 哲夫の言葉を聞いて、ご主人はしばらく考えているようだった。 「おい、修理場を開けてやれ!・・どっちみち、捨ててしまうんだ。好きに使えばいいさ。」 御主人はそう言うと、再び目を閉じてしまった。奥さんは少し微笑んだように見えた。 「さあ、どうぞ。主人の樹が変わらないうちにね。」 奥さんはそういうとまっすぐに修理場の裏口を開けた。 「健君、バイクを!」 健は走って表に出た。哲夫は、奥さんに続いて修理場へ入る。ガラス戸を引き開けて、シャッターを上げた。2年近く使っていないにもかかわらず、シャッターは静かに開いた。 外から光が差し込むと、修理場の中が明るくなった。哲夫は明るくなった修理場を見て驚いた。ご主人はそうと几帳面な性格なのか、工具がきれいに壁や棚に置かれている。そして、一つ一つがきれいに磨かれていた。哲夫は気付いた。 「これは・・奥さんですね?」 奥さんはこくりと頷くと、 「ええ・・若い頃から工具の始末は私の仕事でしたから。欲しいものがすぐに出せるようにこうやってきれいに並べて・・・。」 「今でも、工具を磨いているんでしょう?」 「ええ・・もう、使うことはないと判っていても、習慣なのよ。こうして工具を磨いていると落ち着くのね。」 その言葉は、もう一度、御主人がバイク修理をする日が来るのではないかと僅かな望みを捨てきれないでいる事が滲んでいた。 「思うように使ってください。きっと工具たちも使ってもらえれば喜ぶはずですから。」 そう言うと、奥さんは近くにあったスパナを持つとじっと見つめたのだった。 「哲夫さん!あれ!」 健が修理場の奥を指さした。そこには、大型バイクが置かれていた。サイドカーが付いていた。 「あれは?」 「ああ・・あれは、私たちの宝物です。もうかなり古いものですけど、いろんな思い出が詰まっています。・・実は私、若い頃、じゃじゃ馬でね。親が止めるのも訊かず、女だてらに免許を取って、全国をバイク旅していたんです。」 奥さんは少しほほをお赤らめていて、おそらく、青春時代の記憶を辿っているようだった。 「ちょうど、そこの周遊道路の交差点で、スリップ事故を起こしてしまって、バイクが故障したんです。困っていると、あの人、自転車屋から出てきて、とりあえず、うちへ運ぼうっていってくれたんです。」 何だか、今のご主人からは想像がつかないと健は感じていた。 「まだ、自転車屋を継いだばかりだったようでした。困っている私を見て、あの人、自分が修理してやるって言ったんです。」 「修理してくれたんですか?」 哲夫が訊いた。 「・・とりあえず3日くれ、その間、うちに居ればいいからって、私も別に行くところもないし、バイクが修理できなければどうしようもないしね、そのまま居る羽目になりました。」4/16

33 健の修行 [命の樹]

33、健の修行
「それで、そのまま、結婚?」
健がとんでもない質問をした。
「まさか、あの人、いろんな本を集めて勉強して2週間で修理してくれました。その後、一度、私は長野の実家へ戻ったんです。・・で、それからちょくちょく遊びに来るようになって・・そしたら、哲夫さんもバイクの免許を取っていて、ある日、あのバイクで長野の実家まで来たんです。嫁にきてくれってね。」
奥さんは、そういうと修理場の奥にある大型バイクを懐かしそうな目でみつめた。
「もう40年近く前の話です。その後、二人でツーリングしました。子どもができてからはなかなか行けませんでしたが、ある日、サイドカーをつけたんです。それに息子を乗せてね。」
「なんだかすごいですね。バイクはお二人の絆なんですね。」
哲夫が言うと、奥さんは急に涙ぐんでしまった。
「すみません。何だか急に昔の事を思い出してしまって・・・。」
奥さんは、御主人がもう一度この修理場で元気に仕事をすることを願っている。何とか、ならないものかと哲夫は考えた。しかし、妙案があるわけではなかった。

哲夫は、健に言った。
「さあ、健君、バイクを。」
健はバイクを中に入れた。センタースタンドを立てたが、不安定なほど車体が傷んでいた。

「まずは、どこが壊れているかをはっきりさせよう。とりあえず、少しでも走れて、浜松まで行ければ、あとは本格的な修理をしてもらえばいいからね。」
哲夫がしゃがみこんでバイクを覗こうとした時、パッと四方からライトが照らした。
まるで、手術台のように明るく、エンジンもマフラーも影ひとつないほどに明るく照らされた。
奥さんが、ライトのスイッチを入れてくれたのだった。奥さんはにこりと笑って出て行った。

「スポークが何本か折れてるようだ。それとハンドルも曲がってる。マフラーも凹んでしまってるなあ。まあ、こいつらはなんとかなるだろう。それより、エンジンがかかるかどうかだ。健君、セルを回してみて。」
健はキーを回し、セルスターターのスイッチを押した。
キュルキュルキュルとセルモーターが回る音がした。その後、ゴトゴトと何かがぶつかるような音がして、少し焦げ臭いにおいが立ち込めた。エンジンはかからなかった。
「もう一度。」
哲夫の声に、健がセルスターターのスイッチに手をかけた時だった。
「止めとけ!」
御主人の声が響いた。
出口のところに、車いすに座った御主人が居た。奥さんがゆっくりと車椅子を押して修理場へ入ってきた。
「駄目だ、それ以上セルを回すと修理もできないくらいになっちまう。」
御主人はバイクに近づくとマフラーに顔を近づけ、匂いを嗅いでいる。
「やっぱりな・・おい、健といったか。お前、バイクの手入れはしていたのか?」
健はびっくりして答えられなかった。
「乗りっぱなしか!まったく、近ごろの若い奴は・・こいつはオイル切れでエンジンが焼け付く寸前だぞ。・・こんなになるまでほっておいて、修理もくそもないだろ。」
「いや・・壊れたのは大雨で倒れた樹に潰されたからで・・。」
「そりゃ偶然だな。天気が良くて、スピードを出して走っていたなら、おそらく突然エンジンが止まって転倒して放り出されていたはずだ。そうなりゃ、即死だな。・・いや、待てよ。おまえ、どんなふうに倒れた?」
健はその時の事を思い出しながら話した。
「周遊道路を走っていたら、急に大雨が降ってきて、どこかに雨宿りしようと、通りに入ってみたものの、どこに行っていいかわからず、そのまま、岬の砂利道に入り込んだんです。」
「それから?」
「・・ああ、そうだ、神社の前を過ぎた時、がくんとスピードが出なくなって、・・それから・・スロットルをグイってひねったら、急にコントロールが利かなくなって倒れたんです。勢いで、道脇の草むらに放り出されて、バイクが横倒しになって、そしたら、上から樹が倒れてきたんです。」
「そうだろ?じゃあ、お前はバイクに救われたんだな。直前で不調になっていなければ、倒れてきた樹にお前が下敷きになっていたはずだ。」
御主人はそう言いながら、まだ動く右手で、傷ついたバイクを労わるようにさすっている。
「なあ、倉木さん。こいつを儂に預けてもらえないか?」
御主人の言葉に哲夫も健も驚いた。ご主人は返事も聞かずにつづけた。
「このバイクは、こいつの命恩人だ。丁寧に直してやらなくちゃ申し訳ない。浜松まで運んだって、そんなにきれいに直しちゃくれないさ。ここでじっくり時間をかけて修理してやろう。だが、儂は手が不自由だ。だから、こいつに教え込んで、直させようと思うんだが・・。」
「ええ・・私は構いません。ただ、健君自陣がどうか。」
健は哲夫の顔を見た。そして、御主人の顔も見た。これは大変な状態になったなとは思ったが、逃げられる状況でもなかった。
「ええ・・良いです。先を急ぐわけじゃありませんから・・。」
何だか、他人事のような返事をした。
「おい、お前、覚悟はあるのか?儂が教えるんだ。中途半端な事じゃ許さない。逃げ出すこともゆるさんぞ。良いんだな。」
御主人の言葉はかなり重かった。健もその意味を十分分かったような気がした。
「はい!よろしくお願いします。」
健は神妙に答えた。
「よし、引き受けた。・・和さん。今日から若い従業員が一人、住み込みで働くことになったから、世話は頼む。食事と布団は用意してやってくれ。給料は、バイクの修理代と差引でチャラだな。」
「はい。」
車椅子の後ろで、奥さんは嬉し涙を流しながら返事をした。
「じゃあ、、健!まずは、着替えだ。油塗れになるんだからな。そこに、作業着があるから着替えて来い!和さん、出してやってくれ。・・儂も着替えるぞ。」
哲夫は「それじゃあよろしくお願いします。」と言って須藤自転車を後にした。4/17

34 巡り合い [命の樹]

34.巡り合い
夕方、加奈が仕事から戻ると、健が須藤自転車で修行することになったいきさつを話した。
「それじゃあ、また、寂しくなるかしら?」
加奈は少し意地悪気味に尋ねた。
「なんてことないさ、もともと、一人でやってきたんだからな。」
哲夫は少し強がるように答えた。

翌日からはまた普段の暮らしになった。朝、加奈は、コーヒーとサンドイッチを食べると、バタバタと支度をして、車のクラクションを1回鳴らして出かけていく。
一度、昼間に、健が油まみれの作業着でやってきて、置いてあった荷物鞄を持って行った。
「もうひどいんですよ。すぐ怒るし、何かとぶつぶつ言うんですよ。」
口をとがらせているものの、何だかとても嬉しそうな口ぶりだった事に、哲夫は安心した。

1週間が過ぎて、再び、保育園にパンを届ける日が来た。同時に、結の病院がオープンする日だった。哲夫は、早朝からパンを焼き、保育園の分と結のお祝いの分とを袋に入れる作業をしていた。今日は、加奈も仕事を休んで、哲夫を手伝った。
今日は少し早くに保育園にパンを届けた。加奈は初めて訪れる。てっちゃんと呼ばれるのを見て、加奈も嬉しくなって、しばらく、園児たちと一緒に遊んだ。
「あなた、ずるいわ。こんなに楽しい事、独り占めしていたなんて。」
加奈は保育園を後にするとき、そう呟いた。
「また、来れると良いね。」
哲夫は答えた。それから、結の病院のオープニングセレモニーに列席した。病院のオープンは、スーパーや飲食店とは違って、客を呼び込むなどなく、地元の自治会長や老人会の会長、大学病院の同僚や、設計士、建築士などが来賓となり、親族も並んだ。何人かの挨拶があり、結が最後にお礼の挨拶をした。
「本日はお忙しい中、ありがとうございます。この地で皆様のお役に立てるよう頑張ります。ささやかですが、この後、パーティもご用意させていただいておりますので、ごゆっくりお寛ぎください。」

パーティには、哲夫が朝焼いたパンも並んだ。
「このパンは、岬の喫茶店、命の樹のオーナー、倉木様がご用意してくださいました。私共、水上医院にとって、御恩のある方で、私の命の恩人でもある方なんです。ぜひ、みなさんも足をお運びください。」
結は、パーティの出席者に心を込めて紹介してくれた。哲夫は少し面はゆい心地だった。
「おめでとう。いよいよだね。」
「ええ・・おじさん、約束ですよ。週1回はここへ来て診察を受けてくださいね。」
「ああ、そうするよ。・・少しでも長く生きていたいからね。こんなに幸せな時間を少しでも長く楽しみたいって心から思っているんだ。」
加奈は、哲夫の言葉に何か不安を感じた。もしかして、体調が良くないのではないか、いや、取り越し苦労だろう、加奈は自分にそう言い聞かせていた。

帰り際に、須藤自転車に寄ってみた。修理場の中から、「そうじゃないだろ!もう一度やってみろ!」と主人の声が響いた。そっと中を覗くと、健がオイル容器の中に手を入れて何かを磨いているようだった。ぶつぶつと何か言っているようだが、聞こえなかった。
後ろからそっと声が聞こえた。
「倉木さん・・。」
須藤自転車の奥さんだった。
「奥さん、すみません。ちょっと様子をと思ったんですが・・あ、こっちは妻の加奈です。」
加奈は頭を下げた。
「倉木さん、あなたにはお礼を言わなくちゃって思っていたんです。」
「お礼?」
「ええ・・あの人、健ちゃんが来てから昔みたいに元気になって、最近は、リハビリも始めたんです。完全には戻らないでしょうけど、やる気というか気力が出てきたみたいで・・何よりも、毎日、とても幸せそうで・・・。本当にありがとうございました。」
「いやあ・・しかし、御主人のあの怒り方は半端じゃないですね。」
「ええ・・でも、健ちゃんは、どんなに怒られても、逃げない、まっすぐ向かっていくんです。教え買いがあるって言ってます。・・まあ、お店の後をついではくれないでしょうけど、しばらくはこうやっていられるだけで幸せです。本当に良い人を連れてきてくださいました。」
「いや、そんな。・・健君が困っていたから・・何とかならないかって思っただけですから・・。」
加奈が言う。
「きっと巡り合わせですよ。・・健ちゃんも偶然ここへ来た、そして事故にあった時、哲夫さんが通りかかった。・・人ってそういう巡り合わせで生かされているんですよね。」
「そうそう、源治さんや玉木屋のご主人も、須藤さんの事を心配してました。昔から、徳さんは皆の憧れみたいだったそうです。元気な顔を見せてほしいって・・。」
「ええ、きっとそのうちに。」
奥さんは1週間前にあった時とは別人のように、柔らかく幸せな表情を浮かべていた。
「あ、これ。ご主人と健君にも食べてもらって下さい。今日は保育園と水上医院開院祝いで、ずいぶんたくさん焼いたんです。」
そう言って、哲夫は紙袋を渡した。
「会って行かないんですか?」
「今日は止めておきます。何だか、熱がこもった修行中みたいですから。」
哲夫と加奈は、健が元気にやっていることを確認できて、安心して店に戻ることにした。

夕食のとき、加奈が思い出したように言った。
「ねえ、お客さん、増えるかしら?」
「どうして?」
「結ちゃんも宣伝してくれてるし、知り合いも増えたじゃない。あなた一人で大丈夫かしら?」
「そんなに世の中甘くないだろ?だいたい、こんな目立たないところに喫茶店があるなんて変だよ。」
「何言ってるの、自分で決めたんでしょ。ここは見晴らしが良いし、客もきっと来てくれるって・・。」
「そうだっけ?」4/18


35 漁師仲間 [命の樹]

35 漁師仲間
翌日は、少しゆっくりした朝だった。昨日、たくさんのパンを焼いたので多少疲れもあった。「無理しないでね」と加奈は出勤前の一言を残して出かけていった。
片付けを終えて、テラスの椅子でコーヒーを飲みながらのんびりしていると、足音と声が徐々に近づいてくるのに気づいた。
「やあ、今日は客としてきたよ。」
源治だった。漁師仲間を何人か引き連れている。後ろの方には見た顔もあった。哲夫は慌てて立ち上がって、皆を出迎えた。
「いらっしゃいませ。」
源治はひとしきり店の中を見回してから言った。
「加奈さんは?」
「ああ、もう仕事に出かけました。」
「なんだい、皆を加奈さんに引き合わせようと思ったんだが・・てっちゃんの奥さん、そりゃあ、綺麗なんだよって話してたんだが・・残念だなあ。」
「そりゃ、すいません。こんなむさくるしい出迎えで・・。」
源治と同じ歳くらいの男が二人、それと随分若い男が二人。ひとりは、亮太だった。
哲夫はグラスを運びながら、挨拶した。
「今朝、漁から戻って浜でひとしきりこの店の事が話しに出たんだ。・・てっちゃん、屋根に大きなライトつけたんだな。」
「ええ・・そう、見えましたか?」
「ああ、今までよりも随分はっきり見えるようになった。夜中、点いてるんだな。」
「亮太君が教えてくれたんです。この店の明かりは灯台みたいだって。でも、朝早くパンを焼く日しかなかったでしょう。だから、屋根の上に大きな明かりを一年中つけようと思ったんですよ。」
「おい、亮太、おまえか。・・灯台ねえ・・」
源治に言われて、少し気弱な亮太はどぎまぎしていた。
「いつもは家に戻って朝飯だが、たまには、ここでと話がまとまったんだ。・・何ができるんだい?」
源治に問われ、哲夫はちょっと戸惑った。今まで、ほとんど客らしい客は来ていなかった。それに、漁師が5人。腹も減ってるだろうし、満足できるものなど出来るわけもない。
「一応、メニューはあるんですけど・・。」
哲夫はテーブルの上のメニューを見せた。メニューには、コーヒー・ジュース・ミルク、それと「お任せサンドイッチ」「きまぐれパン」とだけ書かれていた。
源治はメニューを見て首をかしげた。
「なんだい、こりゃあ。」
「すみません。喫茶店って言ってもまあ気まぐれでやってるようなものなんで・・。加奈が居れば、それなりの料理は作れるんですが・・」
哲夫はそこまで言ってひらめいた。
「そうだ、源治さん。源治さんに是非食べてもらいたいものがあったんです。ちょっと時間かかりますけど・・良いですか?」
「ああ、構わないさ。」
「じゃあ、少し待っててください。ああ、そうだ、飲み物は?」
「コーヒーで良いよ。なあ?」
源治が言うと皆が頷いた。
哲夫は、急いでコーヒーを煎れて、朝少し焼いたパンを籠に持ってテーブルに運んだ。
男たちは、コーヒーを飲み、籠のパンを思い思いにつまんでいる。
哲夫は厨房に入って、冷凍庫から食材を取り出して調理を始めた。15分ほどで出来上がった。
「さあ、お待たせしました。」
大皿に、幾つものサンドイッチが並んでいた。
「これ、以前に源治さんにいただいた魚を使ったんです。どうぞ。」
最初に源治が手にとってぱくりと口に入れた。
「ほう・・いけるな。さあ、みんなも食べてみろ。」
次々に手を伸ばして食べた。
亮太が言った。
「これ、キスですか?」
「ええ、キスのフライをサンドイッチにしたんです。いただいた時は刺身と天婦羅にしたんですが、加奈がサンドイッチにも使えるんじゃないっていうので、衣を着けて冷凍しておいたんです。」
「美味しいです。」
「良かった。せっかくたくさんいただいたんで、何とか美味しく食べたくてね。」
他の男たちも、大皿のサンドイッチをつまんで満足そうに食べた。
もう一人の若い漁師が、少しそわそわしている様子で、源治に突付かれた。若い漁師は、竜司だった。
「あの・・千波さんは?」
「おや、千波の事、知ってるんですか?・・ああ、そう、君か、千波をうちまで送ってくれたのは、ありがとう。千波も感謝していたよ。・・千波は東京へ戻ったんだ。」
竜司はがっかりした顔をした。
「残念だったな、竜司。愛しの君は居ないってさ。」
源治が冷やかすように言った。
「何言ってるんだよ、源さん。そんなんじゃないさ。それに、こんな漁師と大学でのお嬢様じゃ釣りあわないし、嫁になんか来てくれっこないじゃないか。」
「なんだい、嫁に欲しいってのか?相手にもされないに決まってらあ!」
一層、源治は竜司を冷やかした。だが、哲夫は言った。
「いや・・どうかな。千波は強い男が好きみたいだよ。周りに居る男は頼りなくて駄目だっていうんだが・・一生懸命生きている人が良いらしい。命をかけて何かに打ち込んでいる・・そういう人が隙だって言ってたよ。・・・だから、竜司君だって・・。」
「そ・・そうですか?・・」
「おい、てっちゃん。そしたら、こんな奴がお前の息子って事になるんだぜ?良いのかい?」
哲夫は腕組みをしてじっと竜司を見た。
「うん、良いじゃないですか?強くて逞しくて優しそうだし・・だが・・漁の腕はどうなんです?」
それを訊いて、竜司が頭を抱えた。
「おい、竜司、てっちゃんに認めてもらえるように、もうちょっと頑張んないとな。」
店の中は笑い声で溢れていた。
その日を境に、毎日のように、漁師仲間が入れ替わりやってくるようになり、町の人もパンを目当てにやってきた。次第に、<命の樹>は喫茶店らしくなっていた。4/21

36 健と徳さん [命の樹]

36 健と徳さん
秋の気配を感じられるようになった頃、哲夫がいつものように保育園にパンを届けて店に戻ろうと通りを自転車で走っていると、後ろからバイクの音が響いてきた。
振り返ると、サイドカーを付けた大型バイクを、健が運転し、サイドカーには須藤自転車の主人が座っているのが見えた。
「哲夫さん!今、帰りですか?」
健が元気な声で呼びかけた。
「後で、店に行っても良いですか?」
「ああ、今、戻るところだから。どこか行くんですか?」
哲夫はサイドカーに座っているご主人に訊いた。
「ああ、足りない部品があるんで、ちょっと浜松まで行ってくる。こいつを連れて行かないと勉強にならないからな。」
「何言ってるんですか!俺がいなきゃ、外出できないでしょう。俺が連れて行くんでしょう?」
「うるさい!さあ、行くぞ!」
ご主人は杖で健を小突いた。
「あ・・ひとつ、頼んでいいかな?」
哲夫は急に思いついたことがあった。
「浜松に行く途中にある、クリスピーっていうドーナッツ屋によってもらえないかな。そこでドーナッツを4つほど買ってきてもらいたいんだけど。」
「ええ・・いいですよ。知ってますよ、そこのドーナッツ、旨いんですよね。」
健が答えた。
「加奈の好物なんだ。次いでで甘えてしまって申し訳ない。」
「いえ、・・良いですよね、徳さん。」
「ああ、家の奴にも買ってきてやるかな。」
ご主人は少し微笑んでいるように見えた。
「じゃあ・・あとで。」
バイクはエンジン音を響かせて浜松へ向って走り去った。
夕方近くになって、バイクの音が聞こえ、健と須藤自転車の主人がやって来た。
「大丈夫ですか?」
玄関を開けて、健が主人の手を取るようにして入ってきた。
「・・いや・・あの階段はなかなか骨が折れる。地元の婆さんたちには堪えるだろうな・・・。」
歩けなかったはずのご主人が、杖を手にしっかりと歩いて入ってきた。
健は、主人を店の中央に置かれた真っ赤なソファに座らせてから、手にした箱を哲夫に渡した。
「これ、頼まれていたドーナツです。・・ああ、徳さん、コーヒーとサンドイッチでいいですか?」
健が主人に訊くと、「ああ」と主人は答えた。
「じゃあ・・哲夫さん、コーヒーとサンドイッチ2つ、お願いします。」
厨房から哲夫が「はい」と答え、すぐにサンドイッチを作り始めた。

「なかなか良い所じゃないか。静かでのんびりできる。」
須藤自転車の主人は庭を眺めながら言った。
哲夫が、コーヒーとサンドイッチを運んできて、二人の前に並べながら訊いた。
「ミックスサンドにしました。中のレタスとトマトは与志さんに分けていただいたものです。さあ、どうぞ。」
「いやあ、コリャ旨そうだ。」
健はサンドイッチを手に取るとぱくっと食べた。
「修理のほうはどうですか?」
哲夫が訊くと、コーヒーを飲みながら主人が嬉しそうに答えた。
「ああ、もう少しだな。今日買ってきた部品を取り付けたら、完成だ。前よりも良くなったはずだ。こいつも、何とか仕事を覚えたようだしな。」
「そうですか。健君、良かったな。」
健は、サンドイッチを口一杯に頬張っていて、それをコーヒーで流し込んでから返事をした。
「ええ・・助かりました。・・東京へ戻ったら、バイク修理の仕事をしようと決めました。せっかく覚えたんですから、役立てないと申し訳ないです。・・で、いつか自分の店を持とうと思います。」
「そう、良かった。」
「あの日、哲夫さんに助けてもらって本当に感謝してるんです。」
「いや、そうじゃない。一番感謝しなくちゃいけないのは、須藤さんだろ?熱心に教えてもらったんだから。それと奥さんにもね。」
「はい、感謝してます。きっと恩返しできるよう、一生懸命働きます。」
健は、最初に会った時と比べて、随分成長したようだった。
「ゆっくりしていってください。」
哲夫はそう言うと厨房に戻った。
二人はソファに座って、買ってきた部品の話を続けている。時々、ご主人が健の頭を小突いている。傍目には親子のように見えた。
1時間ほどして二人は帰っていった。
「また、寄らせてもらうよ。・・哲夫さん、あんたには本当に感謝しとるよ。あいつが来たお陰で、わしももう一度修理屋をやってみようと決心することができた。まだ身体は満足には動かないが、リハビリもやっとるし、まあ、出来る事からやっていけばいいだろ。ほんとにありがとう。」
帰り際に須藤自転車の主人はそういい残した。

それから、三日後の朝には、健が再び<命の樹>に顔を出し、これから東京へ戻ると挨拶をした。
朝早くやって来たのは、加奈が出勤する前にきちんと挨拶をしようと考えたからだった。
「頑張ってね。また、遊びに来てよね。」
加奈はそう言って別れを惜しんだ。
「浜にも顔を出して挨拶しておくと良い。源治さんにも世話になったし、きっと喜ぶだろう。」
哲夫はそう言って、焼きたてのパンを一袋手渡した。
丁度、与志さんも来ていて、畑で取れたみかんを一袋、土産にと健に渡した。
健は何度も何度も頭を下げ、玄関を出て行った。健のバイクの音が次第に遠ざかっていく。

それからしばらくは静かな日々だった。
口伝いで評判が広がったのか、毎日、数人の客が訪れるようになっていた。哲夫は喫茶店のマスターの姿がようやくしっくりするようになっていた。4/22

37 家出 [命の樹]

37 家出
10月に入り、日暮れが随分と早く感じられるようになった頃だった。
土曜日は、噂を聞いて遠方からも数人に昼食目当てに数人の客が訪れ、哲夫はようやく片付けを終えたところだった。加奈は哲夫の身体を気遣って、学校の休みの日に店を手伝うようにしていた。
もう、午後2時を回っていた。
「お客さん、増えたわね・・。」
加奈が赤いソファに座ってコーヒーを飲みながら言った。
「ああ・・今くらいが丁度いい。あんまり増えると体が持たない。」
哲夫は少し疲れた様子で言った。
「無理しないでね。」
「ああ・・。大丈夫だよ。・・このところ、毎週、結ちゃんに診て貰っているから・・。」
「そう。」
「ああ、そうだ。・・薔薇の花がね・・、咲きそうなんだ。今年は無理かと思ってたんだけど・・。」
「そう。」
哲夫が何か無理に明るい話題を持ち出そうとしているように感じ、それが身体の不調を隠そうとしているように尾越えて、加奈は、哲夫の言葉の中身が入ってこなかった。
カランカランと音がして、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃいませ。」
見ると、サチエが大きな鞄を抱え、ユキエの手を握って立っていた。表情は固い。
「どうしたの、サチエちゃん?」
加奈が訊ねると、サチエはじっと加奈を見つめて言った。
「ここにいさせてください。」
何か強い覚悟を感じさせるような言葉だった。
「ここにって・・お母さんは?」
「もう、お母さんと一緒に居たくないんです。」
サチエはそう言うとぽろぽろと涙を零し始めた。妹のユキエも、サチエが泣くのを見て釣られて泣き始めてしまった。
「まあ・・何があったかは判らないけど・・とにかく、中に入りなさい。さあ・・」
加奈はそう言うと、サチエから大きな鞄を取り、二人を抱きしめるようにして店の中へ入れた。二人はソファにちょこんと座った。
「さあ、これ、飲みなさい・・落ち着くから。」
哲夫は厨房からホットミルクを二人には運んできた。
「お昼は済ませたの?」
加奈の問いに、サチエがこくりと頷いた。
「ここに居てくれるには、おばさんも嬉しいけど・・お母さんが寂しがるでしょ?」
サチエは首を横に振って言った。
「いいの。お母さんなんか、知らない・・。」
加奈と哲夫は顔を見合わせた。そこへ、厨房のドアが開いて与志さんが姿を見せた。
「早生のみかんが取れたから、もってきたよ。」
与志さんは、籠いっぱいのみかんを哲夫に手渡した。
「与志さん、ありがとうございます。・・紅茶、飲んでいきますよね。」
哲夫はそう言うと、店の中にいるサチエとユキエのほうに目配せした。与志さんは、二人の姿を見て、これはただ事ではなさそうだと直感して言った。
「おや、珍しいお客さんがいるじゃないか。・・どうした、二人して。母さんは?」
サチエは口を噤んでいたが、ユキエは素直に答えた。
「新しいお父さんと買い物。・・ケーキを買ってくるって。」
「新しいお父さん?」
与志さんが訊き直すと、サチエが怒ったように言った。
「お父さんじゃない!」
与志さんは、加奈の顔を見て、ゆっくりと席を立ち、厨房へ行った。
「紅茶、できたかい。」
そういうのは口実で、カウンターの前に立つと、加奈と哲夫に囁くような声で言った。
「あの子達のお母さんのところへ行って、事情を聞いておいで。私が相手をしておくから。」
加奈は小さく頷くと、そっと厨房のドアから出て行った。
与志さんは、哲夫から紅茶を受け取り、さっき持ってきたみかんを二つ握って席へ戻った。
「ほら、ばあちゃんが作ったみかんだ。旨いぞ。」
サチエはさっと手を出して、与志からみかんを受け取ってむき始めた。サチエはテーブルに置かれたみかんをじっと見つめたまま、手を出そうとしなかった。
「家を出てきたのかい?」
サチエは小さく頷いた。
「そうかい。そりゃあ、勇気が要っただろうね。妹も連れてきて・・ここまで歩いてきたのかい?」
再び、サチエは小さく頷く。
「サチエちゃんは怒ってるんだね。・・新しいお父さんは嫌な人なのかい?」
「違う・・・嫌いなんじゃない・・・お母さんが・・・。」
「お母さんが何か言ったのかい?」
「ううん・・そうじゃない。お母さん、また、怖い目にあう。きっとまたたくさん血を流して・・。」
サチエは、1年近く前に目の前で起きた事が忘れられないのだった。母が男と一緒にいる姿自体が、サチエに、あの時の恐怖を思い出させているに違いなかった。そう簡単に忘れられるはずも無かった。
「そうかい・・そうかい。」
与志はサチエの頭をなでてやった。僅かな言葉だが、サチエの思いは良く判った。
「でもなあ・・サチエちゃんが家を出てきてもどうしようもないんじゃないのかい?ずっとお母さんの傍に居て、その男の人をお母さんから遠ざけないと駄目だろ?」
「だって、お母さん、大丈夫だって。この人はそんな事は決してしないって言うの。」
「じゃあ、しないんだろ?」
「ううん、判らない。お父さんも私が小さかった頃は優しかったって言ってたし・・ユキエが生まれてから、仕事がうまくいかなくって・・殴ったりするのはお父さんが悪いんじゃないって言ってた。でも、いつもお母さんは泣いてたの。今度もきっとそうなる。きっと・・。」
僅か7歳の幼子ながら、母の身を案じているのが痛いほど判った。確かに、この後、何事もない保証は誰にも出来ないはずであった。
「じゃあ、ばあちゃんが、その男を見てやろうじゃないか。伊達に長く生きちゃいないさ。悪い奴はすぐに判る。お母さんにも説教してやろうじゃないか、なあ、サチエちゃん。」
与志の言葉にサチエは少し安心したようだった。4/23

38 与志さんの説教 [命の樹]

38 与志さんの説教
加奈は車を出してすぐに、サチエたちのアパートへ向った。アパートの階段の下に、サチエの母とその「新しいお父さん」が立っていた。買い物から戻ってみると、部屋には二人の子どもの姿がなく、探している様子だった。
「郁子さん、倉木です。」
車から降りると、すぐに加奈が声を掛けた。
「ああ・・加奈さん・・サチエたちを見ませんでしたか?」
相当うろたえているようだった。
「二人は、今、うちに居ます。大きな鞄を抱えてきて、しばらく置いてほしいって言って。」
「どうして・・そんな・・ご迷惑をおかけして本当にすみません。すぐに迎えに行きます。」
「いえ、迷惑なんて・・・でも、サチエちゃん、相当の覚悟みたいですよ。一体、何があったんです?」
「それ・・僕のせいなんです。」
郁子の隣に建っていた男が済まなそうに言った。
「加奈さん、こちらは、私が働いている工場の専務さん。金原誠一さんです。・・誠一さん、こちらは、前にお話しした喫茶店の奥様で加奈さんです。」
加奈は小さく会釈して話をつづける。
「とにかく、このまま預かるってわけにもいかないでしょ。すぐにウチヘ行きましょう。」
三人は、《命の樹》へ向かった。

「あ・・加奈が戻ってきたみたいです。」
哲夫は、外の様子を見に行き、三人が階段を上ってくるのを確認すると、すぐに店に戻った。
「じゃあ、サチエちゃん、この与志さんに任せてくれるね?良い子だから、2階へあがっておとなしく待ってるんだよ。とっちめてやったら、呼ぶから。」
サチエはユキエと手をつないで、階段を上って行った。
玄関が開き、加奈が、郁子と金原を連れて入ってきた。
「サチエ!ユキエ!」
郁子が少しヒステリックな声で二人の名を呼んだ。
「まあ、落ち着きなさい。二人は上に居る。まあ、少し、事情を聞かせてくれないかい。」
与志さんが、郁子に言う。
郁子と金原は先程までサチエたちが座っていたテーブル席に着いた。哲夫は、コーヒーを煎れて二人の前に置いた。
「さあ、どこから話そうかね。・・まず、あんただ。何者だい?」
そう問われて、金原は、習慣で儒ケットのポケットから名刺入れを取り出し、1枚の名刺を差し出してから、深々と頭を下げて言った。
「金原工業の金原誠一です。」
与志さんは名刺をつまむとじっと見つめた。
「ほう・・これは随分と偉いお方のようだが・・どういう関係・・ってみりゃ判るね。」
郁子が話し始めた。
「私が働いている工場の専務さんです。何とか就職でき、仕事も覚えました。体の事もあって、事務の仕事に代えていただいて、何かと専務さんとご相談することも多くて・・。」
「いや、郁子さんが入社されてからすぐに事務が足りなくなったので、配置転換したんです。簿記ができるって聞きましたので、助かってます。テキパキと仕事をこなせるし、頭もいいし、・・・」
「まあ、そんな馴れ初めみたいな話はいいさ。で、結婚するって覚悟なのかい?」
与志さんは敢えて、覚悟という言葉を使った。
「いや・・覚悟というか、僕から申し込んだんです。」
金原が答えた。
「金原工業の専務となれば、相当の資産もある。その気になれば結婚相手に不自由しないだろう。・・それが何で、子持ち女にプロポーズなんだ?見たところ、歳もそれなりだろう?」
与志の言う通り、金原誠一は、もう40歳は過ぎているようだった。ところどころに白髪も見える。
「実は、若い頃、結婚していました。ですが、なかなか、子どもに恵まれなくて、会長・・いや、父と母が随分と気を揉みまして、妻に厳しく当たるようになってしまって、妻は精神的に不安定になって、離婚せざるを得なくなったんです。」
「そんな男がプロポーズ?冗談だろ・・女を一人不幸にした男が、また同じことを繰り返そうって。」
与志さんは少しキツイ口調で言った。
「ですから、それ以来、結婚なんかしないと決心していました。」
「それがどうして?・・会社の跡継ぎがほしいってのなら、養子でも貰えばいいだろ?」
「跡継ぎとか・・そういうんじゃないんです。彼女と親しくなって、子ども達の話を聞いたり、写真を見たりしているうちに、家庭を・・いや、親になりたいって思うようになったんです。」
「なら、なおさら、だろ?」
与志の問いかけに、金原は少し考えてから答えた。
「私には子どもをつくる能力がないんです。結婚して子どもができなかったので、随分、病院にも通いました。子どもの時の病気のせいだとわかったんです。・・ですから、自分の子どもを持つことは諦めていました。でも、あの子達の笑顔を見てから・・どうしても、あの子たちの親になりたいという願望が強くなって・・私のエゴだという事は重々承知しています。」
他人に話したく無い事に違いなかった。
育子が金原の背中を優しく摩りながら言った。
「金原さんのエゴなんかじゃありません。・・私だって、子どもたちにもっと楽なくらしをさせてやりたい、お父さんを作ってやりたい・・そう思ったんです。それで、今日、子どもたちに会わせたんです。・・でも・・・。」
「あんたたちの考えは良く判ったよ。互いに真剣に考えての結論だという事も判った。だが、結果はどうだい?サチエちゃんは妹を連れて、ここへ逃げ込んだ。あの顔は尋常じゃない。あんたたち以上の覚悟だろう。幼い子どもが、心を痛めて・・どうしようもなく、ここへ逃げてきた。郁子さん、どうだい?」
郁子は困惑した表情を浮かべていた。
「そんなに・・金原さんを嫌っているのでしょうか?今日初めて会ったんですよ。お昼は楽しく食べてました。・・ユキエなんかは、金原さんの膝に乗って遊んでいました。・・サチエは余り近づきませんでしたが・・、どうしてそんなに嫌うんでしょう。」
「お母さんが判らないなら、どうしようもないねえ。」
「どうしたらいいんでしょう?」
郁子は涙ぐんでいる。4/24


39 約束 [命の樹]

39 約束
「サチエちゃんはね、私にこう言ったんだ。・・嫌いなんじゃない、お母さんがまた怖い目にあうってね。わかるかい?あの子はあんたの事を心底心配しているんだ。」
「怖い目にあうって・・まさか?」
「そうだよ。あの事件の事があの子の心の中に深い傷を作ってるんだろう。恐ろしい光景を見ているんだ、自分じゃ気づかないくらいに、大きな棘が刺さったまんまなんじゃないかな。」
「そんな・・。」
「それだけじゃない。あんたは、暴力を受けるたびに、サチエに言ったそうじゃないか。お父さんが暴力を振るうのはお父さんのせいじゃないって、本当は優しい人なんだって。」
「そんな時もあったかも・・。」
「それが傷を深くしたんだ。・・優しくみえる人だって、いつ、あの男のように暴力を振るうようになるか判らない。あんたが、金原さんの事を優しい人だとか決して暴力は振るわないとか・・そんなふうに言えば言うほど、また、お母さんは怖い目にあうんだと思い込む。たぶん、今日、あんたが金原さんと子どもたちを遭わせた時もそう言ったんじゃないかい?」
育子はその時の様子を思い出して、深くうな垂れた。
「あの子には、あんたが男の人と一緒に居るだけで恐怖心が湧いて来るんだ。優しい人だからって言葉に一層恐怖が高まったんだろ。」
与志は天井を見上げながら、吐き出すように言った。
「じゃあ・・サチエの傷が癒えるまでは・・。」
「ああ・・。・・金原さんは、あの事件の事は知ってるのかい?」
与志が金原に尋ねた。
「ええ、郁子さんから、前のご主人の事は聞きました。刺されて瀕死の重傷だった事も・・。そのためにも、郁子さんも子どもたちにも幸せになってもらいたい。自分に出来る事があるならと・・。しかし、私が居る事でサチエちゃんが傷ついているなんて考えもしなかった。・・」
「そりゃ、無理もないだろう。人の心の中なんて、そうそう判るもんじゃない。きっと、本人も気づいていないだろう。」
じっと三人の話を聞いていた加奈が言った。
「与志さん・・どうしたらいいんでしょう?このまま、サチエちゃんは心の傷を抱えたまま大人になるしかないの?それじゃあ、あんまりよ。何とか、できないかしら。」
与志さんは、加奈と哲夫の顔を見た。
「あの子は、どうしてここに来たんだろうね?」
「ここしか行く当てがなかったって事じゃないんですか?ここにしばらく居ましたから。」
哲夫が答えた。
「・・そうか・・そうだね・・ここに来たんだ。・・なあ、てっちゃん、子どもたちをすぐに呼んで来ておくれ。」
与志に言われて、哲夫は2階へ上がっていった。サチエとユキエは、哲夫に連れられてゆっくりと顔を見せた。
「サチエちゃん、ユキエちゃん、ここにお座り。」
与志さんが手招きをして、二人を横に座らせた。
サチエは、育子の顔も、金原の顔も見ようとはせず、じっと俯いたままだった。ユキエはきょとんとした表情をしている。
「さあて・・サチエちゃん。今まで、じっくり話をしてたんだがね・・・ばあちゃん、すっかり困っちゃったよ。」
サチエが与志の顔を見た。
「ばあちゃんは、悪い奴かどうかすぐに判る。じっくり、この人を見たんだが、どうにも悪いところが見つからないんだ。見つかったらとっちめてやって、お母さんに近づくなって言ってやろうと思ってたんだが・・どうにも、見つからないんだよ。」
与志の言葉にサチエが困惑した表情を浮かべている。
「悪いところが見つからなかったのは、今まで二人だけだったんだよ。一人は死んだじいちゃん、そしてもう一人は、てっちゃんだったんだが・・この人も見つからないんだ。」
「てっちゃんと同じってこと?」
「ああ、そうさ。この人はてっちゃんと一緒さ。でもね、判らない事もある。もしかしたら、ばあちゃんの目が曇ってるかもしれない。だからね、ばあちゃんはサチエちゃんと約束をしようと思うんだ。」
「約束?」
「ああ、約束。・・これから、もし、この人がちょっとでもお母さんやサチエちゃんたちに悪い事をしたら、すぐにばあちゃんに知らせて欲しいんだ。そしたらすぐにばあちゃんが助けに行く。見抜けなかったばあちゃんの責任だ。絶対、あんたたちを守ってあげる。そう約束したいんだ。」
それを聞いて、哲夫も言った。
「サチエちゃん、てっちゃんも約束する。いつでもここへ来ればいい。きっと守ってあげるよ。」
加奈も言った。
「わたしも守ってあげるからね。」
「さあ、どうかな?約束してくれるかな?」
サチエは少し戸惑っているようだが、こくりと頷いた。
「良い子だ。じゃあ、もう一つ約束しよう。この人はね、お母さんもサチエちゃんもユキエちゃんもみんなを大事にしたい、幸せにしたいって言ってくれてるんだ。だからね、サチエちゃんもこの人をちゃんと見てあげて欲しいんだ。この人は、あんたたちのお父さんになって幸せになりたいって心の中から願ってるんだ。それを信じてあげて欲しいんだ。できるかな?」
サチエは、少し不安な表情を浮かべて、厨房に居る哲夫の方を見た。哲夫は微笑んで頷いた。
「・・約束・・だよね・・。」
「ああ、約束だ。ここに居るみんなの約束だ。」
「うん・・約束する。」
サチエの返事に、与志さんはサチエの手を握った。郁子は涙を零しながら、サチエとユキエを抱きしめた。その後ろから、金原が育子の肩を抱いた。哲夫と加奈もつられて涙ぐんでいた。
「ああ、そうだ。もうひとつあった。」
「?」
「ケーキ。せっかく金原さんが買ってきてくれたんだ。仲良く食べなさい。」
テーブルの上には箱に入ったケーキが置かれていた。蓋を開けると、サチエの大好物のモンブランと、ユキエの好物のイチゴのショートケーキが入っていた。
「じゃあ、苦いコーヒー二つと、てっちゃんのスペシャルジュース二つ、与志さんには、ゴールデンティにしましょうかね?」
哲夫が少しおどけて言った。4/25

40 心の形 [命の樹]

40 心の形
.四人は、ケーキを食べ終わると、哲夫や加奈、与志に深々と頭を下げて、アパートへ戻って行った。
「与志さん、ありがとうございました。」
四人を見送りながら、加奈が言うと、与志は満面の笑顔で答えた。
「いや、礼を言うのは私の方だよ。こんな偏屈婆さんが、ちょっとでも、人様の役に立てるって思わせてくれたんだ。」
「そんな、偏屈なんて・・。」
「こんな岬のはずれに独り暮らししてるんだ、偏屈じゃなのは当然だろ?」
「うまくいくでしょうか?」
「サチエちゃん次第だろうが・・あの子は利口な子だ。きっとうまくいくだろう。」
与志はそう信じたいと心から思っていた。加奈も同様だった。
「まだまだ頑張らないとねえ。サチエと約束したんだ。あの子たちが幸せになるまで見守ってるってな。まだ、まだ、くたばるわけにはいかないね。なんだか、まだ、生きてても良いって神様に許してもらったようだね。」
与志の言葉を聞いて、哲夫は、サチエとの約束をいつまで守れるのだろうかと考えていた。
「てっちゃんも、約束したんだからな!」
与志の言葉には、何か、特別な意味があるように哲夫は感じた。
「ええ・・そうですね。頑張らないと・・。」
哲夫はそう答えるのが精いっぱいだった。
「ねえ、与志さん、今日は夕ご飯、ご一緒しませんか?」
加奈は夕食に与志を誘った。与志は少し考えてから答えた。
「いや、やめとくよ。こんな良い事があったんだ。早く、爺さんにも話してやりたいんだ。普段は、写真を見てもあまり話すこともないんだけどね、今日は楽しい話ができそうだ。じゃあ、帰るよ。」
与志はそう言って、《命の樹》を後にした。
哲夫は、与志さんの後ろ姿を見ながら、自分が死んだあと、加奈はあんなふうに強く生きてくれるのだろうかと考えていた。病気が判ってから、自分が死んだ後のことについてじっくり話し合ったことがなかった。いや、その話題を避けてきた。しかし、その日は着実に近づいている。

夕飯のとき、加奈がふと口にした。
「ねえ、心ってどんな形だと思う?」
加奈の唐突な質問はいつもの事だが、さすがにこれには驚いた。
「こころ?・・心って・・やっぱりハート型なんじゃないの?」
「何、言ってるの。それじゃあ、そのまんまじゃないの。あのね、心ってね、生まれた時は、まんまるでね、マシュマロみたいにとっても柔らかいんだって。」
どこで仕入れたのか、時々、加奈は面白い事を教えてくれる。若い時からそうだった。だが、大抵、どこか足りない処があって、つじつまが合わなくなるのだった。だが、下手に突っ込むと機嫌が悪くなるので、大抵の場合、気になる事はあっても哲夫は気にしないようにしていた。
「その柔らかいまん丸なこころはね、傷ついたり、凹んだり、壊れたりするのよ。」
確かに、凹むとか傷つくとか壊れるとか、そういうふうに表現する、と哲夫は関心して聞いていた。
「でもね、それを修復する力もあるんだって。」
「また、下のように丸くなるってことかい?」
「いいえ・・単純じゃないの。丸くなろうとするんだけど・・大きな傷や凹みは元に戻らない。それでも何とかしようとして、その部分が固くなるんだって・・・。でね・・たくさんそういう事があると心が固くなってしまうんだって。」
「じゃあ、悲しいことや悔しいことがたくさん会った人の心は固くなってしまうって事?それじゃあ、あんまりだろ?」
哲夫は少し呆れて訊き返した。加奈は答えに窮した様だった。
「固くなるんじゃなくて、表面は少し厚くなるじゃないのかな・・。ほら、怪我をして直った時、表面が少し暑くなってるように・・・。だから、小さな傷なら表面は少し厚くなって強くなる。辛い事があっても簡単には削れたり凹んだりしなくなるんじゃないかな。」
「そうね・・。」
「でも、サチエちゃんのようにあんまり深い傷だと簡単には埋まらない。そのまま傷口が開いたままになっちゃう事もある。そんな時は、誰かがそっと塞いであげなくちゃいけない。そのままだと、心が壊れちゃうからね。」
「きっと、お母さんや金原さんが塞いでくれるわよね。」
「ああ、きっと。」
哲夫はそう答えながら考えた。自分が死んだ時、きっと加奈の心には深い傷が付くだろう。その傷は誰がふさいでくれるんだろう。深すぎて、加奈の心が壊れてしまったりしないだろうかと思っていた。

それから、2週間ほど過ぎた日、郁子が金原と一緒に、《命の樹》にやってきた。
「その節はありがとうございました。」
金原が頭を下げた。
「いえ・・私は何も・・お礼なら与志さんに・・。」
哲夫が言うと、郁子が答えた。
「先程、与志さんのお宅にはご挨拶に伺いました。・・実は、引っ越すことにしたんです。」
「引っ越す?」
「ええ・・あれから、サチエも次第に誠一さんと話すようになってくれて・・毎晩、夕食を一緒に過ごすようになったんです。でも、夜には自宅へ戻って・・。そしたら、ユキエが誠一さんの後を追うようになってしまって・・もうすっかり、お父さんと思ってくれているみたいで・・・。」
「そんなに・・。」
「ええ、私も驚いています。それを見ていて、サチエが言ってくれたんです。一緒に住んだ方が良いって・・毎晩帰るのは寂しいでしょうって・・それで、彼の家に住むことにしたんです。」
「そうですか・・良かった。でも、寂しくなるな。」
哲夫が言うと育子が微笑みながら言った。
「大丈夫です。引越先はすぐ近くです。・・先日できた水上医院の隣なんですよ。もともと、あそこに金原さんの実家があって、少し改装して住めるようにしてくださったんです。あそこなら、サチエも転校しなくて済みますし、ユキエも保育園に通えます。そう、倉木さんのパンもいただけます。」
「そう・・それなら、時々、お邪魔しようかな。僕も、サチエちゃんやユキエちゃんの顔が見れるのは嬉しいですから。」
「是非、いらしてください。」
二人は幸せそうな様子で帰っていった。4/28

41 息子 [命の樹]

41 息子
<命の樹>を取り巻くように立っている木の葉が赤く色づきはじめる季節になった。
「木曜日は学校の講義がなくなったから、これからはお休みにして、あなたを手伝うわね。」
加奈がそう言って、初めての木曜日が来た。保育園へパンを届ける日である。
哲夫は朝早くから起きだして、パンを焼き、小袋に詰める作業をしていた。加奈もいつもよりも早く起きて哲夫を手伝った。木曜日は<命の樹>は定休日になっていた。
「じゃあ、行こうか。」
「ねえ、私の車で行く?そんなにたくさんの荷物があるんだし、寒くなってきたし・・。」
「いや・・保育園の前は車が停められないし・・自転車を押していけば大したことないさ。運動も必要だろ?・・ああ、そうだ。帰りには水上医院へ行くんだ。パンを届けるついでに診察も・・・」
哲夫がそういうので、加奈も哲夫の引く自転車を後ろから押しながら歩いてついて行った。
「わあ・・てっちゃんだ!パンが来たよ!」
いつもの笑顔が迎えてくれた。
「あなた、ずるいわ。こんな楽しい事、今まで独り占めしていたのね。」
加奈は、子どもたちに囲まれ、何とも幸せそうな哲夫を見て、そう言った。
「独り占めって・・べつに・・そういうわけじゃあ。」
「嘘よ!これから、私も一緒に来るわね。」
加奈はそういうと、パンの入った箱を抱えて、子ども達の輪の中に入って行った。
「ええ・・今日のパンは、くるみとみかんのパンです。」
哲夫は子どもたちを前に少し得意げに言った。
「それと、今日のパンは、ここにいる加奈さんが手伝ってくれたんです。加奈さんは僕の奥さんです。これから毎週、一緒にパンを運んでくれます。仲良くしてください。」
哲夫は子どものような口調で、楽しそうに話した。子どもたちは無邪気に「はーい」と答える。
「それとね・・パンに入っているみかんは、あの岬に住んでる、与志さんという人が育ててくれたんです。」
哲夫が言うと、一人の子どもが答える。
「ぼく、よしさん知ってるよ。」
「ぼくも!」
そこにいた園児たちはつられるように皆が、与志さんを知っていると答えたのだった。
哲夫が意外な顔をしていると、保母さんが横から言った。
「与志さんは、最近、みかんを届けてくださるようになったんです。子どもたちもすっかり慣れて、与志さんがいらっしゃると、哲夫さんの時みたいに大騒ぎになるですよ。」

しばらく、子ども達の楽しく時間を過ごした後、哲夫と加奈は保育園を後にした。
「これから、水上医院に行って診察を受けるけど・・どうする?」
哲夫が訊くと、加奈は少し考えてから「私は先に戻ってるわ。」と言った。
「じゃあ、これを須藤自転車に届けてくれないかな。毎週、保育園の帰りに届けてるんだ。奥さんが気に入ってくださってるんだ。」
「ええ、良いわ。」
哲夫は周遊道路から山手に上がる坂道を自転車を押しながら進んだ。加奈は、後姿を見送った後、町の通りへ向かった。
加奈は、「須藤自転車店」に着くと、店先から声を掛けた。
中から、30代の男性が顔を見せた。
「あの・・倉木と申しますが・・パンをお届けに参りました。あの・・奥様は?」
加奈が訊くと、その男性が笑顔で答えた。
「倉木さん・・ああ・・哲夫さんの奥様ですね。その節はお世話になりました。息子の幸一と申します。・・結ちゃん・・あ・・いや、水上先生から連絡があって、ご主人から親父の話を聞きました。驚いて戻ってきたんですよ。・・本当にありがとうございました。」
出てきたのは、須藤自転車の一人息子の幸一だった。
幸一は、結と同じ医大の出身で、しばらく僻地医療で遠方に行っていた。最近になって、大学病院に戻ってきて、結からの連絡を受けたようだった。
「親父が病気で倒れた事は全く知らなかったんです。まあ、あんまり連絡してなかった僕が悪いんですが・・親父も僕にはみっともない姿を見せたくなかったんでしょう。お袋にも連絡するなといっていたようです。・・哲夫さんから様子を聞いて・・なんでも健君がバイク修理の修行をしているから、それが終わったら顔を見せて欲しいって言われていたんです。」
「そうなんですか・・。」
加奈は哲夫がそんな事をしていたのは全く知らなかった。
「戻ってきた時、親父はかなり回復していました。本当にありがとうございました。」
「いえ・・私は何も知りませんでした。でも元気になられて良かったです。」
「それで・・こっちへ戻ってこようと決めたんです。ここからなら、何とか、大学病院にも通えますし、親父のリハビリにも連れて行くことができますから・・。いずれは、自分の病院も持ちたいので・・。」
「そう・・それはお父さんたちも心強いでしょうね。」
「本当は、バイク屋を継ぐべきなんでしょうが、どうにも、苦手なんですよ。小さい頃は手伝っていたはずなんですけどねえ。」
そんな話をしていると、奥さんが出てきた。
「あら・・加奈さん、その節はお世話になりました。」
奥さんは、以前にも増して幸せそうな笑顔で挨拶をした。
「いえ・こちらこそ。・・ああ、これ、哲夫さんから・・。」
そう言って加奈がパンの包みを差し出すと、奥さんは両手でありがたそうに受け取った。
少し遅れて、ご主人が顔を見せた。
「おや、珍しいね。今日は加奈さんが配達かい?・・こいつ、息子の幸一だ。戻ってくるんだそうだ。」
リハビリも進んでいるようで、一見すると病気だったこともわからないほどに回復しているようだった。ご主人も以前よりも柔らかな表情で話した。
「ええ・・木曜日が仕事休みになったんで、一緒に配達なんです。哲夫さんは今、水上医院へ。」
「やっぱり、どこか、悪いのかい?」
「いえ・・パンを届けに行ってます。」
加奈は戸惑いながら答えた。
「そうかい?それなら良いんだがな・・・。」
ご主人は少し心配そうな表情で呟いた。4/29

42 三輪自転車 [命の樹]

42 三輪車
「何か気になる事があったんですか?」
加奈は心配そうな顔で訊いた。
「いや・・先週だったかな・・そこで、てっちゃんが座り込んでいたんだ。配達でくたびれたって言ってさ。顔色も良くなかったんで、心配だったんだが・・。」
哲夫は加奈にそんな事は一言も言っていなかった。今日も特にそんな様子は感じられなかった。
「それでな・・ずいぶん世話になったお礼もと思って、ちょっと良いものを用意してみたんだ・・気に入って貰えるといいんだが・・。」
御主人はそう言って、作業場の奥へ引っ込むと、すぐに、1台の自転車を押して出てきた。
「俺んとこはもともと自転車屋だからな。あれだけ大きな荷物を運ぶんじゃ、大変だろう。どうだい、三輪の電動自転車だ。こいつなら、後ろに大きな荷物も積めるし、楽に運転できる。哲夫さんも喜ぶと思うんだがな・・。」
随分高価な自転車のようだった。サドルも大きめで皮シートのようだった。サドルの後ろには大きな荷台もついていて、パン箱をたくさん積めそうだった。
自転車屋のご主人が言う通り、これなら哲夫の体の負担も小さくて済むに違いなかった。
「ええ・・何だか、良さそうですね。お幾らなんですか?」
「いや代金は要らないさ。礼のつもりだからよ。」
「いえ、そんなわけにはいきませんよ。」
そんな遣り取りをしていると、隣で奥さんが言った。
「じゃあ、パンの代金ということでどう?毎週、おいしいパンを届けてもらっているのに、今まで一度もお代を受け取ってもらっていないのよ。・・自転車はパンのお代。いえ・・自転車のお代をパンで・・まあ、いいでしょう?どっちでも。こんなに主人が動けるようになって、昔みたいに働けるようになったのも、全て、哲夫さんと加奈さんのおかげなのよ。ねえ、ぜひ、受け取って下さい。」
奥さんは笑顔でそう言った。
加奈はありがたく受け取ることにした。少しでも哲夫の負担が減るのであれば、いくら高くても良かったのだが、自転車屋の夫婦の好意に甘えることにした。
自転車屋の夫婦に、深く礼をすると、さっそく、加奈は乗ってみた。
サドルが大きくてすっかり座れる。軽い力ですっと進む。良い具合だった。
加奈は、一旦、店の方へ戻りかけたが、せっかくなので、水上医院へ向かうことにした。すいすいと進む自転車は、水上医院に向う坂道も楽に登れた。これなら哲夫の身体への負担も少なくて済みそうだと思いながら、

水上医院の前に着くと、隣の家の前に郁子が居た。
「あら・・加奈さん・・。」
郁子は娘たちとともに、金原の家に引っ越したのだった。引越の片付けをしていたようだった。
「郁子さん、お元気?もう新しい暮らしには慣れた?」
「ええ、子どもたちもすっかり元気で、誠一さんも優しくしてくれています。」
心から幸せを噛みしめている様な笑顔で郁子は答えた。
「加奈さんはどうしてここへ?・・どこか具合が悪いんですか?」
「いえ・・哲夫さんが・・」
そこまで口に出したが慌てて言い返した。
「いいえ・・元気よ。哲夫さんが保育園へパンを届けた後、ここにもパンを届けに来ているのよ。私も今日は学校もお休みになったんで、ちょっとお散歩のつもりでね。」
「いいですねえ。・・ねえ、加奈さん、是非、一度、お二人で遊びに来てください。サチエもユキエも哲夫さんの事が大好きですから、それに、誠一さんもぜひお礼がしたいって言ってましたから。」
「ええ、ありがとう。でも、それなら、与志さんを誘ってあげて・・一番、お礼をしなくちゃいけないのは、与志さんじゃないかしら?」
「ええ・・与志さんにも、お話はしたんですけど・・」
「そう。与志さんはそういうのは余り好きじゃないかもね。まあ、私も一度話しておくわね。皆で楽しくできればいいものね。」
そんな会話をしていると、哲夫が水上医院の玄関に立って、外に出ようとしているのを見つけた。
手には、薬の入った大きな袋を持っていて、少し、浮かぬ顔をしていた。
加奈は、哲夫の病気を知って郁子が気遣うのを気にして、哲夫が出てくる前に、水上医院へ行くことにした。
「じゃあ。」
加奈は、足早に自転車を押して、水上医院の玄関にたどり着き、すぐに玄関に入った。
「迎えに来たわ。」
待合室には誰も居なかった。
結に挨拶をしようとも思ったが、哲夫の表情を見ると余り良い話が聞けそうにないことは想像できた。
「どうしたんだ?」
哲夫は驚いた表情で加奈を見た。加奈は須藤自転車店での事を哲夫に話した。
「そうか・・じゃあ、ありがたく使わせていただきますかね。」
哲夫はそう言うと、玄関を開けて表に出た。すでに郁子の姿は無かった。
哲夫はしばらく三輪自転車を眺めた後、ひょいと跨ってみた。
「うん、良い感じだ。これなら、パンを運ぶのに苦労しない。じゃあ、戻ろうか。」
哲夫は早速三輪自転車に乗って、水上医院から周遊道路まで出た。後ろを加奈が古い自転車で追いかけるように走った。
「少し、回り道しようか。」
哲夫はそう言うと、周遊道路沿いに整備されているサイクリングロードに入った。
11月になり、朝夕は冷え込む日も多くなっていたが、日中はまだ暖かかった。頬をくすぐる風も気持ち良かった。
加奈は、水上医院での診察結果や最近の体調について気になってはいたが、哲夫が気持ち良く走る姿を見ていると、今は訊かない方が良いと決めた。
湖岸のサイクリングロードは、平日とあって誰の姿も無く、静かだった。
しばらく走って、海岸が大きく回り込んだところで、視界に岬が入ってきて、中腹には、赤い屋根の家が見えた。近くからではなかなか姿は見えないが、こうして少し離れると、かなり目立って建っている。
哲夫は自転車を停め、遠くに見える我が家を感慨深そうに眺めていた。
「ねえ、そろそろ帰りましょう。日暮れになると寒くなるから。」
「ああ、そうしよう。」
二人はゆっくりと家路についた。4/30


43 薔薇の花 [命の樹]

43 薔薇の花
春に『薔薇の庭の喫茶店』で貰った、薔薇の苗は、初夏には花をつける事はなかったが、夏の暑さにも負けず、ぐんぐんと育っていた。夏の間は、「身体に障るから駄目よ」と加奈に厳しく言われていたため、庭仕事はほとんどしていなかった。
暑さの和らいできた10月に入って、久しぶりに、哲夫は庭仕事をした。
テラスの両脇に植えた薔薇の苗は、背丈ほどまで枝を伸ばしていた。もらった時に「丈夫に育つ」とは聞いていたが、これほど成長が早いとは思わなかった。
哲夫は、倉庫に入って、薔薇の気を支える支柱になる物を探したが、手ごろなものが見つからなかったので、与志さんに訊いてみることにした。
店は営業中の看板を出していたが、お客はなかった。最近は、平日でも数人の客が訪れるようになっていたので、インターホンからの呼出用子機を持ち歩くのが恒だった。
与志さんは、下の畑で、早生みかんの収穫作業の真っ最中だった。
「与志さん、お忙しい処、すみません。」
「ああ、てっちゃん。・・今年は、天候も良くて大玉になったから、手間がかかっちゃってね。」
与志さんは手を止めて、汗を拭きながら、笑顔で言った。
畑の脇には、20kgコンテナに蜜柑色に熟れた美味しそうなみかんがたくさん入れられ、積上げられていた。
「薔薇の枝が伸びてきたんで、支柱を作ろうと思うんですが、良いものがなくて・・・何か、使えそうなものはないか探してるんです。」
「それなら・・うちの納屋に行けば、それなりに使えるものがあるかもしれないけどね・・。」
「そうですか・・何か良いものあるでしょうか?」
「まあ、枝を支えるんなら、太めの針金とか・・どうだい?」
「ああ、いいですね。ありますか?」
「きっと、あると思うんだけどね。」
与志さんは、少し都合の悪そうな表情をしている。
「・・もうじき、これを農協が集めに来るんで、待ってなきゃならないんだよ。・・悪いんだが、てっちゃん、家へ行って勝手に探してみてよ。大抵は使わないものばかりだから、他にも欲しいものがあったら使っていいよ。いつものパンと紅茶のお礼だ。・・ああ、ついでに、納屋の入口の蝶番が緩くなってるから、修理しておいてくれないかい。」
与志の言葉どおりに、哲夫は与志の家の納屋へ行った。
入口の蝶番は、かなりがたついていたが、螺子を締める程度ですぐに修理できた。
納屋に入ると様々な道具が置かれていた。哲夫はその中から、少しさびているが使えそうな太い針金を見つけた。
「これにしよう。」

再び、みかん畑に戻って、与志さんに尋ねた。
すでに、畑に積まれていたミカンガいっぱい詰まっていた、20kgコンテナはすっかり無くなっていて、同量の空のコンテナが積まれていた。
「蝶番はガタついていたんで、修理しておきました。もう大丈夫ですよ。」
「ありがとね。」
「・・ああ、この針金、戴いても良いですか?」
「ああ、好きにしていいさ。」
「ありがとうございます。助かります。」
哲夫は、針金を抱えて戻りかけたが、ちょっと気になる事があって振り返って訊いた。
「みかんの収穫って一人で全部やってるんですか?」
「ああ・・もう10年以上、一人でやってるよ。このごろは、体力も落ちたのか、なかなか進まなくてね・・もうあと数年で仕舞いにしなくちゃいけないだろうがね。」
「そんな・・」
哲夫は、初めて聞く与志の弱気な言葉に驚きながら返答した。
「・・ああ、そうだ、てっちゃん、あんた、このみかん畑を引き受けてくれないかい?」
与志さんは、冗談交じりに哲夫に言った。しかし、哲夫は、困ったような表情をした。
「いや・・それは・・。」
「そんなに難しいもんじゃないさ。2,3年、やれば一人前にできるようになるし、農協の人だって、丁寧に教えてくれるはずさ。どうだい?やってみないかい?」
「いや・・・。」
哲夫は言葉が出なかった。
「・・私が動けるうちに、教え込んでやるからさ。」
与志さんの言葉は、だんだん、真剣味を帯びてくるようだった。
「いや・・それは・・・。」
哲夫はいよいよ返答に困った。
「そうだよねえ・・ちっとも儲けにならないしね。こんなにおいしいのにさ、昔はこれだけの畑でも十分暮らしていけたんだよ。」
哲夫は、故郷にいた頃、祖父や祖母が同じような事を言っていたのを思い出していた。
「まあ、いいさ。まだまだ動けるうちは、頑張らなくちゃね。さあ、もう一仕事だ!」
与志さんはそう言うと、籠を抱えて立ちあがった。
「すみません。」
哲夫はそう言うのがやっとだった。
本当なら、与志さんの思いを汲んで、引き受けるべきなのだろう。しかし、今の哲夫には、そんな約束はできなかった。冗談交じりとは言っても、広いミカン畑はいずれは放置される運命にちがいない。そう考えると、自分が不甲斐なくて仕方なかった。

店に戻ると、薔薇の手入れを続けた。
もらった針金をテラスの庇(ひさし)の支柱に止めたあと、伸びた薔薇の枝を針金に固定した。このまま、伸び続ければ、何年かするとテラスには、真っ赤な薔薇のアーチが掛かるに違いない。その風景を見ることはないだろうが、加奈へのプレゼントになるに違いない。
満足そうに見ていると、伸びた薔薇の枝に小さな蕾を見つけた。
通常なら10月には薔薇の開花があるはずだが、浜名湖周辺は、年間気温が高いために、開花期が少し遅いのだった。この分なら、あと一か月ほどで大きな薔薇の花が咲くかもしれない。
「加奈にはもう少し内緒にしておこう。」
相変わらず、客はなかった。


44 岬の道 [命の樹]

44.岬の道
哲夫は、後始末をしながら、ふと、須藤自転車の事を思い出した。
「立派な三輪車を貰ったんだ。何かお礼をしなくちゃいけないな。そう言えば・・」
そう呟くと、玄関の前から、石段に向かって歩いていった。
「やっぱり、これだけの段差は難しいか・・。」
哲夫は以前に、須藤自転車の主人と健がここへやってきた時、石段を登ってくるのが大変だったという言葉を思い出していたのだった。
「何とかしなくちゃな。そのうち、俺も登れなくなるかもしれないしな。」
哲夫は、何か良い方法はないかと、ぶらぶらと庭を歩いていて、ふと思いついた。
「確か、この家を建てる時、トラックが入っていたよな・・・どこかに道があったんだ。」
そう言って、庭の周囲を探してみた。
「きっと、ここだな・・・。」
哲夫はそう言うと、いったん、店の玄関に戻ってから,≪準備中≫の札をかけ、倉庫へ向かった。
哲夫は倉庫から草刈機を持ち出してきた。そして、先ほどの場所へ行くと、草刈機のエンジンをかけて、目の前の草を刈り始めた。
ブーンという音とともに、夏の間に背丈ほどまで伸びた草が次々に刈られていく。時折、大きな石が転がっていて、少しずつ、脇へどかしてから、斜面を下って行った。
道らしき場所は、石段がある場所とは反対側の東斜面をゆっくりと下る形で、与志さんのミカン畑の脇の道へ繋がっているようだった。ざっと草を刈ると、道全体が見えてきた。上から見た時の想像通り、与志さんのミカン畑の脇、農協のトラックが入ってくる道と繋がっていた。さらに、繋がっている場所には、自動車を5台くらい停められる空地もあり、草を刈った。
「これなら、ここを駐車場にして店に上がってきてもらう事もできそうだ。」
哲夫は満足そうな顔で言った。
「おや、てっちゃん、どうしたんだい?」
与志さんは、草刈機の音を聞いて、畑からやってきた。
「石段がきついかなと思って・・こっち側に確か車が入れる道があったように思ったんで、草を刈っていたんですよ。そしたらここへ出てきたんです。」
「ああ、そうかい。工事の車が入れるようにしたいって頼まれてね、ついでに、細かった道を広げてもらったんだ。おかげで、農協のトラックもここまで入ってくれるようになって、助かったんだよ。」
「そうだったんですか・・。」
哲夫は草刈機を下ろした。
「昔は、背負子にみかんを詰めて、神社の前まで運んだんだ。この先の岬の先あたりにも、たくさんミカン畑があってね、長い長い石ころ道を、何度も何度もを運んだんだ。きつかったよ。」
「へえ・・この先にもまだ道があるんですか?」
「ああ、だがしばらく人が入っていないからね。あちこち崩れているんじゃないかねえ。昔は、この岬をぐるりを一周出来たんだよ。・・そうそう、ちょうどその先に寝、小さな祠があるんだよ。謂れは知らないが、ずいぶん古いものなんだ。子どもの頃、肝試しってやったことあるだろ?ここらじゃ、皆、この道を肝試しに使ったんだ。」
与志さんはそう言うと、くすっと笑った。
「どうしたんです?」
「いやね・・あの、源治のことさ。今じゃ、良い爺さんだが。あれが子どもの頃はたいそう臆病者だったんだ。夏の祭りの後には必ず肝試しがあるんだ。祭りの最中は、騒いでいた源治だったが、いざ始まるとね、腹が痛いだの、頭が痛いだの言って、逃げようとする。いよいよ、逃げられなくて、私と一緒に行くことになったんだ。」
哲夫は自分のことを言われているようだった。哲夫も、子どもの頃は随分と臆病だった。だが、それを知られたくなくて、わざと粋がって見せていたのを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。
「わたしゃ、よく知った道だし、何も怖くなんかない。小さな提灯をぶら下げて、ずんずん、ずんずん、先に歩いていってやったんだ。気が付くと、源治の姿はなくて、戻ってみたら、そのあたりで座り込んで泣いてるんだ。」
幼い頃は、何かと女子の方が気が強い。哲夫も、年上の女子にはよく泣かされた。
「そっと近づいて行ってね、わあっ、て脅かしてやったら、おしっこ漏らして、オイオイ泣きながら逃げ帰って行ったんだよ。・・今からは想像できないだろうがね・・・。」
与志さんは、昔を懐かしむように目を細めて話した。
「何だか意地悪ですね?」
「そうかい?まあ、あいつは普通の時は、ガキ大将気取って女の子をいじめてたからね。」
「何だか、想像できますね・・。」
「懐かしいねえ・・あの頃は、子どもたちが山の中を走り回って楽しかったねえ。」
与志の言葉は、少し寂しそうだった
「今は、もう大人もここへは入らなくなったんですね・・。」
「ああ・・・まあ、仕方ないさ。」
哲夫は、岬の先端に伸びている道をじっと見つめた。
「ちょっと行ってみます。」
「そうかい、気を付けるんだよ。あまり、端っこを歩かない方が良いよ。」
「はい、気を付けます。」

哲夫は、草刈機をその場に残し、与志と別れて、細い道の先、祠のあたりに向かうことにした。

途中、樹が茂り、道に迷いそうな場所もあった。山から落ちてきた岩石もいくつも転がっていた。
山側にも海側にも、木々が枝を伸ばし、風景は全く見えなかった。少し登坂をあがり、右にカーブしたところで、急に視界が開け、5メートル四方の広場に出た。
湖からの風が強く吹き付けるその場所に、小さな祠が、湖に向かって建っていた。祠の中には、小さなお地蔵様が鎮座していた。昔に誰かが供えたのか、お椀が一つ置かれていた。

岬といってもそれほど高くはなく、海までは5メートルほどしかないのだが、足元が断崖のような岩場になっていて、随分と高く感じられる。
遠くまで見渡せる場所は、まるで別世界に紛れ込んだようだった。
「いい場所だな・・。」
哲夫はそう言うと、座り込んで湖を眺めた。
そのうち、意識がぼんやりとし始めてきた。夢中で歩いてきたせいか、随分体が怠く感じられた。
哲夫は、ポケットから携帯の酸素ボンベを取り出して、口に当て、少し休もうと体を横たえた。

45 異変 [命の樹]

45 異変
夕方になって、加奈は仕事を終えて、帰宅した。店のドアには《準備中》の札が掛けられていた。
「おかしいわね、普段ならまだやってるはずなのに・・。」
加奈はそう呟きながらドアを開けた。
「哲夫さん?居るの?」
返事はなかった。二階に上がってみたがやはり姿はなかった。
「自転車はあったから・・出掛けていないはずなんだけど・・。」
加奈は独り言を言いながら、着替えを済ませて、再び、店に降りてきた。
ふと、庭に目をやると、東側の木立の一カ所に、背まで伸びていた草むらが無くなっているのに、気付いた。サンダルを履いて、庭に出て、その場所に向かった。
草が綺麗に刈られていて、通路が出来上がっていた。
「まさか・・これ、哲夫さんが?」
そう言いながら、通路を降りていくと、隅の方に、草刈機が放置されていた。加奈は胸騒ぎがした。
槙の樹の垣根の向こうに、人影が見えた。
「哲夫さん!」
加奈が声を掛けると、畑の中から、与志さんが顔を見せた。
「おや、加奈さん・・どうしたんだい?」
「あっ・・与志さん・・いえ、哲夫さんの姿が見えなくて・・。」
加奈は、与志さんが余計な心配をしないよう、意識して落ち着いて答えた。
「てっちゃんなら、随分前に、岬の先端に通じる道の方へ行ったはずだけどね・・・もう、戻ってると思ったけど・・・。まだ、戻ってないのかい。」
「そうですか。」
「途中、道が崩れているかもしれないから、気を付けて行くように言ったんだが・・・・。」
与志さんは心配な表情を浮かべて言った。
「大丈夫だと思うんですけどね。あの人、結構、気ままな人だから・・・たぶん、ぼんやり、湖でも眺めてるのかもしれません。すぐに戻るでしょう。」
「そうだね。」
加奈は与志に礼をして、意識的に、ゆっくりと店に戻る事にした。慌てて、哲夫を探しに行くようなことをしたら、与志に余計な心配をかけてしまう。
だが、庭に入ってから、すぐに店に戻り、慌てて、結に電話した。
「結ちゃん?・・ごめんね、突然。哲夫さんの姿が見えなくて・・さっき、与志さんから、哲夫さんが岬の先端に向かったって聞いたの。・・なんだか・・心配で・・・。」
電話の向こうで、結が答えた。
「わかりました。私もすぐに行きますから。」

加奈は電話を切ってから、メモ用紙に、置手紙をして店を出た。
加奈は、急ぎ足で、斜面の通路を降りると、与志さんの姿のない事を確認して、岬の先へ通じる道を急いだ。

岬の先端までの道には、哲夫が通った痕跡があちこちにあった。長く伸びた草を払い、大きな石を道の脇にどけて、通りやすくなっていた。
加奈は、心臓の鼓動が高まるのを感じながら、次第に、心の中に湧き上がる、不吉な想像を必死に抑えようとしていた。

結もすぐに《命の樹》に、須藤幸一と一緒に姿を見せた。テーブルに置かれた置手紙を読むと、加奈の後を追うように道を急ぐ。庭を降りたところには、幸いにも、与志の姿はなかった。
「さあ、急ごう。」
幸一は大きな鞄を抱えて、結の前を歩いた。幸一は、ここの生まれで、幼い頃に何度か、この道を歩いた事があった。

そのころ、哲夫は、夢の中に居た。
なぜか、空を飛んでいて、足元には、岬が見えた。赤い屋根の自分の店を見下ろしているのだった。
「あ・・加奈が戻ってきたな・・なんだか、慌ててるようだが・・どうしたんだろう・・。」
哲夫は、風に流される凧のように、ふらふらと岬の上空を舞いながら、足元の景色をのんびりと眺めている。
「あれ・・結もやってきたな・・・何があったんだろう。」
相変わらず、のんびりと、自分とは関係のない世界の事のように眺めている。

「哲夫さん!哲夫さん!、しっかりして!」
急に、強い口調で耳元で声がして、上空から引き戻された。
哲夫はふっと気がつき、うっすらと目を開いた。
目の前には、加奈がいる。
加奈は涙を浮かべ必死の形相で、哲夫の体を揺すり、呼びかけている。何だか、ぼんやりした意識の中で、体はずっしりと重く、起き上がる事が出来なかった。
加奈は、脇に転がっていた携帯用酸素ボンベを哲夫の口に当てたが、中身は空っぽのようだった。
哲夫は、反射的にすうっと吸い込んだが、酸素は出ておらず、そのまま再び目を閉じた。
加奈は哲夫の胸に耳を当てて、心臓の音を確かめた。どくんどくんと音は聞こえるが、とても頼りなかった。
「哲夫さん!哲夫さん!」
加奈は必死に呼びかける。そのたびに、哲夫は眉間に皺を寄せて反応する。呼吸が弱くなってきていた。
「駄目よ!哲夫さん!しっかり!駄目よ!」
加奈はもう涙で顔をくしゃくしゃにしている。
ようやく、結が幸一と一緒に現れた。
「結ちゃん!・・哲夫さんが!・・・」
結は、幸一が抱えていた大きな鞄から聴診器を取り出し、哲夫の胸に当てた。
「大丈夫。加奈さん、落ち着いて。大丈夫だから。」
結は、加奈を落ち着かせるために、低い声で言った。だが、結の表情は険しいままだった。
「幸一さん、注射の準備をしてください。」
幸一が鞄の中から、注射器と薬を取り出しセットすると、結は、すぐに哲夫に注射した。
「今、強心剤を打ちました。これで少しでも心臓の鼓動が戻れば良いんですけど・・。」
三人は、哲夫の様子を固唾を飲んで見守った。


46 優しさの勘違い [命の樹]

46. 優しさの勘違い
徐々に日暮れが近づいてきていた。
「やっぱり、このままじゃいけない。家に帰りましょう。ねえ、幸一さん、おじさんを背負える?」
「ああ・・大丈夫だろう。」
幸一が哲夫を背負うと、一瞬、驚いた表情をした。
身長は、哲夫も幸一も変わらないはずなのだが、哲夫は見た目以上に軽かった。だが、幸一はそのことを口にしなかった。
三人は哲夫を連れて、今、来た道を戻っていく。

《命の樹》にあがる道のところで、与志さんと出くわした。
「おや・・どうしたんだ?哲夫さん、怪我でもしたのか?」
与志さんが心配そうに訊ねたので、加奈は咄嗟に答えた。
「いえ・・ちょっと足を痛めたみたいです。・・その先で、動けなくなって、そのまま居眠りしたようなんです。」
加奈の言葉は、つじつまの合わないものだった。
「すまなかったねえ、用心しろっていったんだけどねえ。」
与志さんは、自分が哲夫に道を教えたことを詫びるような表情で言った。
「大丈夫です。すみません、ご心配をおかけしてしまって。」
幸一もこれ以上ここに留まれば、哲夫の病気が与志にもばれてしまう。そう考えると、無感情な声で切り出した。。
「さあ、行きますよ。痛みが出る前に治療しなくちゃいけませんから。」
幸一は、哲夫を背負ったまま、すぐに坂を上った。
「与志さん、本当に、たいした事ありませんから・・」
加奈と結は与志に頭を下げた。

店に戻ると、すぐに2階の寝室に哲夫を運んだ。
結は、すぐに、哲夫に酸素マスクを着け、点滴を始めた。
寝室には心拍を計測するための機材が置かれていて、幸一が準備をした。二人は手早く全てを終えると、結は、再び、哲夫の胸に聴診器を当てて音を聴く。
しばらく、目を閉じて、具合をじっと感じ取ろうとしていた。
加奈は、不安な顔つきで、その様子をじっと見つめている。
「・・・良かった、すいぶん落ち着いているみたいです。・・」
結は加奈に微かな笑顔で言った。加奈は胸をなでおろした。
「点滴で1時間くらいゆっくり眠れれば、きっと気がつくでしょう。少し、寝かせてあげましょう。」
結は、そう言うと部屋を出て行った。
加奈は少し、哲夫の様子を見た後、階下へ降りて行った。

結と幸一は、椅子にかけていた。
「結ちゃん、幸一さん、ありがとうございました。もう、駄目かって・・」
加奈は、そこまで口にして、首を横に振った。
「加奈さん、駄目ですよ。そんなふうに思っちゃ。おじさんが悲しむわ・・。」
「そうですよ。」
幸一も慰めるように言った。
「そうね・・ごめんなさい。お医者様が二人もいらっしゃるんですものね。・・ねえ、食事していくでしょ。簡単なものしか作れないけど・・」
「あ、私、手伝いますから。」
結も立ちあがって、加奈とともに厨房に入った。厨房の隅には、結が持ってきた携帯用酸素ボンベの箱が置かれていて、結は何気なく中を開いてみた。使用したものは、上部の蓋の封印が切られるようになっていて、一見して使用したものがすぐに判った。もう半分くらいが使用済みになっていた。
「おじさん、これまでも随分使っているみたい・・・でも、一度も連絡は・・。」
加奈は、大鍋にお湯を沸かしながら、大きなため息をついた。
結はそれ以上何も言えず、加奈の横でパスタを取り出して量り、加奈に渡した。

三人は、加奈が作ったパスタを無言で食べた。結も幸一も、加奈の気持ちを考えると話題にすべきことが浮かばなかったからだった。
加奈が口を開いた。
「どうして、あの人はそうなのかしら。みんながどんなに心配しているか、何もわかっていないんだから。」
悲しみと悔しさと憤りと、何かいろんな感情が混ざった言い方だった。
幸一が言う。
「心配を掛けたくないって思っているんでしょう。」
これに結が反応した。
「心配かけたくないって・・結局、今日だってこんなふうに大騒ぎになっているじゃない。そんなの身勝手よ。」
加奈の気持ちを代弁するような言葉だった。
「いや・・自分は大丈夫だって思ってもらいたいんだろう。男ならそう言うところあるよ。」
「え?じゃあ、あなたもそうなの?そんなの、ちっとも優しくないわ。」
「優しくないって・・じゃあ、いつもいつも心配かけていた方が良いのかい?」
「そうじゃないわ。なんでも隠さず正直に言ってほしいのよ。で、なきゃ、一緒に生きている意味がないじゃない!」
「そんな、全部が全部知っておくべきとは限らないだろ?」
二人の会話は、哲夫の事ではなくなってきていた。
加奈は二人の会話を聞いて、二人の間が親密になっていることを直感した。
「じゃあ、あなたも隠し事があるのね?」
「いや・・僕はそんな隠すようなことはないさ。・・昔からそうだ。君の方が隠し事が多いんじゃないかな?」
「そんな・・・。」
急に結は口ごもってしまった。結の心の中に秘めた思いを幸一に見抜かれたように感じたからだった。
「ねえ、二人は付き合ってるのよね?」
加奈が二人の言い合いに入った。
「えっ!?」
結と幸一は顔を見合わせ、黙ってしまった。

47 医師の顔 [命の樹]

47 医師の顔
「別に隠すようなことじゃないでしょ?良いじゃない。お医者様同士って・・お仕事でも互いに助け合えるでしょ?」
加奈の言葉に、結は観念したように言った。
「ええ・・少し前・・いえ、開院してから、いろいろと相談に乗ってもらっていて・・幸一さんも、こっちへ帰ってくるって決めて・・・おじさんが落ち着いたら、お話ししようと思っていたんです。」
結は、秘めた思いを加奈が知っていることを承知の上で言った。
「そう。良かったわね。…結婚も考えているんでしょ?」
「まだ、そこまでは・・・私、一度失敗してますから。」
「失敗なんて・・あなたが悪かったわけじゃないでしょ?」
「でも・・やっぱり、幸一さんは須藤のお家の長男ですし・・私みたいなのは、釣り合わないというか・・やっぱり初婚同士が良いと思うんですよ。」
「結ちゃんも意外と古風なのね。」
加奈と結のやり取りをじっと聞いている幸一に向かって、加奈が視線を送った。
幸一は、何か言いたげな表情だったが、何も言わなかった。すると、加奈が、母親が子供を諭すような口調で言った。
「ほら・・何、黙ってるの?今でしょ?」
幸一は何のことかわからず、ポカンとした顔で加奈を見ている。
「ああ、まったく。鈍いのね。どうして、ここで結婚しようって言わないの?」
幸一は漸く意味が判って、慌てて言った。
「いえ・・それは・・やっぱり・・、結さんの気持ちが大事ですから。・・・・無理に求めるものでもないでしょう?結さんの言ってることも一理あるっていうか・・。」
幸一の言葉に、加奈はがっくりした顔をして、結を見た。
「どうして、男ってのはこうなのかしらね。何だか、幸一さんは、哲夫さんによく似てるわねえ。鈍感というか、優しさって言うのを勘違いしてるっていうか・・。そのくせ、妙な時に優しかったりして・・ね。」
結は、複雑な表情をして加奈を見た。
「結ちゃん、あなた、やっぱり苦労するわ。こういう人が一番厄介なのよ。哲夫さんを見ていればわかるでしょ?・・いつも、自分のやりたいようにやって、自由奔放っていうの。そのくせ、遠くから見守ってくれてて、困った時には頼りになる。でもちっともそんなことわかってないのよ。」
そう言われて、結は苦笑した。幸一は情けない顔をしている。
「・・でも、大丈夫。きっと幸せになれるわ。早く一緒になりなさい。」
加奈はそう言い放つと、席を立って、皿を片付け、厨房に行った。
幸一と結は、互いに見つめあい、言葉にこそしなかったが、結婚の決意を固めたようだった。

「そろそろ、おじさんの様子を診てきます。」
結はそう言うと2階へ上がり、じきに降りてきた。
「まだ眠っているようですが、呼吸も心拍も安定しているようですから、もう大丈夫でしょう。」
「ありがとう。・・ホントにありがとう。」
加奈は結の手を取って礼を言った。
「いえ、恩返しのつもりですから。」
「幸一さんも、本当にありがとうございました。」
加奈は深々と頭を下げた。
「やめてください。僕も恩返しのつもりですから。」
加奈は顔を上げて不思議そうな目で幸一を見た。
「いや・・ほら、親父の事では哲夫さんにも奥さんにもお世話になりましたから。それに、故郷に戻る決意もできましたし、おかげで、こうやって結さんにも会えましたから。・・僕の人生を大きく動かして下さったんです。だから、恩返しです。」
幸一は、晴れやかな笑顔でそう言った。
「そろそろ帰ります。明日の午後には動けるようになるはずですから。明日は午後休診にしておきます。必ず、検査に来てくださいね。」
結はそう言うと、幸一とともに帰って行った。

幸一は、店を出て、石段を下りながら結に言った。
「哲夫さん、随分痩せてたよ。」
「そうね・・。」
「・・やっぱり、かなり進行しているようだね。」
結も、哲夫の胸に聴診器を当てた時、肋骨が浮き出ているのを見て、予想以上に病状が進行しているのは判っていた。
「しかし、不思議だよね。あれだけの状態なら、普通なら激痛で耐えられない事もあるはずなんだが。」
「ええ・・・そうなのよ。体力が落ちている以外は余り変化がない・・と言うか、食欲もあるようだし、手足もしびれたりしていない様なの。」
「他への転移は?」
「おそらく、もう全身に転移している段階だと思うんだけど、・・、本格的な全身検査はしていないの。」
幸一は、石段を下りながら、じっと考えていた。そして、下に降り着いた時に言った。
「これは、あくまで仮定の話だが・・痛みを感じないって言うことは、脳への転移が進んでいるってことはないだろうか?」
「・・そうかもしれない・・私、専門じゃないから・・判らないけど・・」
「あんまり聞いたことはないんだが、まれに、脳への転移で神経中枢が麻痺すると、痛みを感じないケースはあるんだ。」
「それって・・。」
「ああ、痛みは感じないのは、大量のモルヒネを用いなくて済むからね。でも、自分の病状が判断できない。それに、予想もしないような異常行動とか・・・厄介なことには変わりないさ。」
「おじさんがそうだとすると・・普通に暮らすなんて無理ね。」
結は険しい顔でじっと足元を見ている。
「君の病院には、MRIを入れたんだよね。」
「ええ・・」
「明日、脳の検査を・・いや、全身の検査をしよう。もし、脳への転移があれば、治療方法を変えなくちゃいけない。」
二人は先程の結婚話などとっくに忘れ、医師の顔になっていて、足早に帰って行った。

48 腕の中で [命の樹]

48 腕の中で
二人が帰ってから、加奈は一度、哲夫の様子を見に行き、まだ寝ていることを確認して、片づけと入浴を済ませて、静かにベッドに入った。
「すまなかったね。」
哲夫は意識が回復していて、加奈の耳元で、小さな声で言った。
「あら・・目が覚めたの?」
「ああ、僕はまだ生きてるんだね。」
「もう、心配かけて!あれほど無理はしないでって言ったでしょう。」
加奈は、ベッドの中で哲夫の腕を掴んで、子どもように泣いた。
「すまなかった。本当に、すまなかった。」
哲夫は何度も何度も謝った。

加奈は哲夫の腕の中で少しずつ気持ちが落ち着いてきて、泣くのを止めた。
「不思議な夢を見たんだ。」
哲夫は囁くような声で言った。加奈は少し顔を動かして哲夫を見た。
「空を飛んでいた。・・いや、飛んでいるというより、、空に浮かんでいるみたいだった。足元に、うちの赤い屋根が見えてね。加奈が仕事から戻ってきた。しばらくすると、庭に走り出て・・与志さんに会った。また家へ戻って、今度は随分慌てて岬の方へ向かったんだ。・・その先にね、僕が横になって寝ていた。」
加奈は驚いた。哲夫の夢は、夕方の様子とぴったり合っていた。
「しばらくすると、結ちゃんが・・幸一君と一緒にやってきたんだ。何だか、二人は良い感じだよね。」
「もう止めて!」
「どうしたんだい?夢の話さ・・。」
「でも、それって・・。」
「やっぱりそうか。僕が見たのは夢じゃないんだ。僕はその時きっともう死にかけていたんだろ。臨死体験っていうのだろうね。」
加奈は想像したくなかった。哲夫の死はいずれ近いうちに訪れるだろう、しかし、まだその覚悟は十分にはできていない。いや、病気が見つかった時、受け入れたはずだったが、日が経つにつれて、認めたくない気持ちが強くなっているのだった。
「哲夫さん・・・一日でも長く一緒にいて・・お願い・・・。」
再び、加奈は子どものように泣き始めた。
「ごめん。もう止めよう。なんとか、繋いでもらった命だからね。大事にしないと。」
哲夫は、加奈の体に手を回した。加奈はそのまま、哲夫の腕に抱かれて、朝まで眠った。

翌日、哲夫が目覚めたのはもう10時を回っていた。加奈はいつも通りに起床し、今日の授業を休講にする連絡をして、朝食の用意を済ませていた。
「お早う、目が覚めた?」
加奈が寝室の哲夫を起こしに来た。
「ああ・・随分、楽になったよ。」
「朝食、食べる?」
「加奈が作ってくれるのかい?」
「そうよ。昔はそうだったでしょ?」
哲夫は、パジャマを着替えて、加奈に支えられながら、階段を一段ずつゆっくりと降りた。
「ふう・・まだ普通には動けないね・・。」
「仕方ないでしょ?昨日の事を考えれば、動くことだって不思議なくらいなんだから。」
朝日が差し込む窓際の席に、二人は座った。
朝食は、何時も哲夫が作るのと同じ、卵のサンドイッチとサラダとコーヒーだった。
「サンドイッチのパンがなかったから・・・・朝、コンビニで買ってきたの。どうかしら?」
哲夫は、パンをじっくり見てから、一口食べた。
「うん。やっぱり、売ってるパンは少し甘いね。せっかくの卵焼きの味を損ねてしまうみたいだ。でも美味しいよ。」
「何それ?褒めてるのか貶してるのか、わかんないじゃない。」
「いや、美味しいって。」
久しぶりに、二人は笑顔で会話ができたようだった。
「ねえ、午後には、診察に来るようにって結ちゃんが・・行けそう?」
「ああ、大丈夫だけど・・医院までは車で送ってくれるかい?」
朝食を済ませると、加奈は車を取りに行った。昨日、哲夫が整備した道を通って庭に車を入れた。
「良い具合だわ。」
車のドアを開けて、加奈が出てきた。
哲夫は、ゆっくりと玄関を開けて出てくると、テラスの前で立ち止まった。そして、加奈を呼んだ。
「ほら・・。」
哲夫がそっと指さした。
「あら、薔薇の蕾?」
「ああ・・蕾が付いているんだ。春には咲かなかったけど、今度はきっと咲くよ。」
「赤い薔薇だったわね。」
「ああ、蕾でこんなに大きいから・・きっと、随分大きな花が咲くよ。」
「楽しみね。」
「いつか、きっとこのテラスは赤い薔薇でいっぱいになる。毎年、春と秋に二度。香りも楽しみだね。」
哲夫はそう言うと、無意識に薔薇の弦に手を伸ばした。古い弦には大きな棘があった。指先にざっくりと棘が刺さり、真っ赤な血が噴き出した。
「大変!」
加奈は慌てた。哲夫は、加奈の声に驚いて自分の指を見て初めて怪我に気付いた。
「大丈夫だ・・大したことはない。」
すぐに手当てをした。
「痛くないの?」
「ああ・・それほど・・痛みはないね。」
「そう・・?」
加奈は、哲夫を乗せて、水上医院へ向かった。
水上医院には、結と幸一が待っていた。
哲夫は、結と加奈に支えられるようにして、病院の中に入って行った。


49 検査 [命の樹]

49 検査
診察室に入ると、哲夫はすぐにベッドに横になった。僅かの距離のはずだが、随分と疲れている。ベッドの脇で、結が脈を取りながら言う。
「念のため、今日は、全身の検査をさせてください。」
既に幸一はMRIの準備を済ませていた。病院の一番奥の部屋、哲夫はストレッチャーで移動し、すぐに検査が始まった。
加奈は待合室のソファに腰掛けて、じっと待っている。そこへ、結の母が顔を見せた。
「加奈さん・・大丈夫?疲れていない?」
結の母は、哲夫の病気の事を結から聞いていたが、面と向って、その事を話題にした事はなかった。
「ええ・・私は大丈夫です。」
「無理しないでね。・・私、仕事柄、多くの患者さんのご家族の苦労も見ていたから、加奈さんがどうして居るのか心配なのよ。お手伝い出来る事があれば、何でも言ってくださいね。」
結の母は、加奈の手を取り、労わるように言った。
「ありがとうございます。結さんが近くに病院を開いてくださったので、随分、心強いんです。それに、幸一さんまで・・本当にありがとうございます。」
検査室の中は、低い機械音が響いていて、結と幸一はモニター画面を食い入るように見ている。
「内臓はそれほどでもなさそうだね。」
「ええ・・肺の癌も思ったより進行していない、いえ、以前より少し小さくなっているような感じ・・。」
「投薬の効果か・・。」
ゆっくりと、MRI装置が動き、頭部の方を撮影し始めた。
「頚部も浸蝕は見られないね。」
「これ・・。」
頭部の画像が開き始めて、加奈が指差した。
「ああ・・やはり、予想したとおりだ。」
検査が終了した。哲夫はベッドに横たわったまま、結と幸一を待っていた。加奈も哲夫の横の丸椅子に座って、じっと待っている。ほんの数分の事なのだが、二人には随分長い時間に感じられた。
「お待たせしました。」
結が椅子に座り、診察机の上のモニターのスイッチを入れると、目の前に、MRI画像が何枚も開かれた。幸一は、結の後ろに立っていた。
「おじさん・・正直に結果をお話します。」
結は、一度眼を閉じ、どういう順序で話をするかを考えているようだった。
「まず、肺の癌細胞は余り大きくなっていませんでした。むしろ進行を止めているようで、ずいぶんと良い結果でした。他の臓器への転移も心配していましたが、今のところ、危険な状態なものは見つかりませんでした。」
結の説明に、加奈は力が抜けていくように安堵した。だが、哲夫の表情は固いままだった。
「だが、悪い結果もあるんだろ?」
哲夫が結に訊いた。
「ええ・・残念ながら・・・。実は・・」
結はそこまで言って、幸一を見た。
「そこからは僕が専門ですから説明します。哲夫さんの頭部の深い所に、癌が見つかりました。脳幹という部分です。心臓や肺などの体の機能を調整する、太い神経中枢部分なんです。」
「やっぱり・・そうか・・。」
哲夫は観念したような表情で呟いた。加奈は両目に涙を浮かべている。
幸一はわざと無機質な言い方をしている。
「手術で取り除く事は不可能です。哲夫さん、最近、痛みを感じないということはありませんか?」
加奈は、出掛けの怪我を思い出した。
「ええ・・どこかにぶつかって鈍い感覚はあるんだけど・・痛いっていうのは・・今朝もほら・・。」
そう言って、哲夫が指の傷を見せた。
幸一はそれを見て、確認するように言った。
「間違いなさそうですね。・・おそらく、癌に侵された部分が傷みを感じる神経の根元のようです。この部分だけなら、癌の痛みを感じなくなります。まあ、見方によっては、幸運かもしれませんが。」
「でも。この先、その癌が広がればどうなる?」
哲夫は、加奈が知りたい事を代弁するように訊いた。
「突然、呼吸が止まったり、心臓も・・何が起こるか判りません。痛みを感じることは体の危険信号ですから、すぐに何らかの対処もできます。でも、それがない分、予測不能です。一層、危険になったとも言えます。」
加奈は呆然として涙を零している。悲しむというより、絶望という言葉が似合っている。
その様子を見て、結が言った。
「加奈さん、大丈夫。一番厄介だった、肺の癌巣は小さくなっているんです。だから・・おじさんは・・そんなに突然には・・。」
結は、加奈を慰めようと言葉を繕いながら言いかけたが、結局、自分も強い悲しみがこみ上げてしまって、それ以上、言葉にならなかった。すぐに、幸一が言った。
「最悪の事態は考えておくべきですが、まずは、体力をつけることが一番でしょう。とりあえず、数日、ここへ入院して、体調を整えましょう。投薬も少し増やしましょう。大学病院に有効な新薬を手配しますから。僕も結も、医師として、出来る事は全てやります。」
哲夫は幸一の言葉に少し力を貰ったようだった。
その日から、水上医院に入院する事になった。
小さな医院だが、哲夫の事を想定して、1部屋だけ、最新の設備を備えた病室が作られていた。
結の治療が効果を上げ、哲夫は、驚くほど元気になり、ほんの三日ほどで退院した。しかし、哲夫は、店に戻ってもすぐには動けなかった。今まで何気なくやっていたはずなのに、病状を聞かされてから、不安が付きまとい、何かをやろうという気持ちにはならなかった。加奈も、そんな哲夫の様子を見ていて、哲夫の気持ちが痛いほどわかって、何も言えず、悶々とした日が数日続いた。

「ねえ・・薔薇が咲いている。すごい、大きな花ね。」
朝食の時、ふとテラスを見た加奈が喜ぶように言って、窓を開けた。
「良い香り・・きっと春にはもっともっと花が付くわよね。」
加奈が言うと、哲夫はしばらく薔薇の花を見つめたあと、自分に言い聞かせるように言った。
「いかん・・いつまでもこのままじゃだめだね。死を恐れて、自分らしく生きられないなら、ここへ来た意味がない。加奈には、本当にすまないと思うが、明日から、店を開けるよ。僕は命を使い切りたい。良いだろ?」
加奈も頷いた。


50 薪づくり [命の樹]

50 薪作り
哲夫の決断を結に伝えると、すぐに結は診察にやってきた。
結は慎重に診察をし、熟考した上で、「今の状態なら大丈夫でしょう。薬の効果も出ているようです。だけど、無理だけはしないでください。」と許可した。
二人は店を再開することにした。
久しぶりに、哲夫は、朝早く起き、パンを焼こうとして、薪が減ってしまっていることに気付いた。
建築端材をすべて、薪にしてもらって、窯の横の壁一面に軒下一杯まで、積み上げていた。一日に使う量は大したことはなく、僅かずつ減ったために、哲夫も気づかずにいた。
「そろそろ、どこかで調達しないといけないな・・・。」
しかし、今時、薪を買う場所があるだろうか。薪の手配のことは、まったく考えていなかったのだ。
ふと、夏の豪雨の際の倒木の事を思い出した。確か、あの後も、そのままにしていた。このあたりには、自分たちと与志さんしか住んでいない。町役場も、倒木の処理などしていないはずだった。
仮に誰かが持って行ったとしても、これだけの森に囲まれているのだから、森の中から、間伐をして切り出す事もできるかもしれない。しかし、それだけの体力があるだろうか。いや、それ以前に、そんなことを加奈が許してくれるかどうか心配になっていた。
朝食の時、加奈を前に哲夫は少し迷いながら切り出した。
「あのさ・・薪がね、かなり減ってるんだ。」
「え?あんなに積み上げてあったじゃない。」
「保育園のパン焼きで、かなり使ってるからね。本格的な冬の前に、何とかしないと、暖炉もつかうだろうし・・・どこかで調達しなくちゃいけないんだが・・・。」
「そんな・・どこか、調達先あるの?」
加奈はサンドイッチを食べながら訊いた。
「いや・・そんなに都合よく薪が買える時代じゃないと思うんだよね。」
「じゃあ、どうするの?」
哲夫は少し間をおいて答えた。
「ちょっと考えたんだが・・ここの森から調達できないかなって。」
「自分で切ってくるってこと?」
「ああ・・道具はあるんだ。チェーンソーも斧もある。」
「そんなに簡単かしら?」
「ああ・・夏の豪雨の時の倒木がね・・あのままになってるはずなんだ。まずはあそこからって・・。」
「無理しない方が良いんじゃないかしら・・あの時だって・・。」
「わかってるさ。でも、無くなっちゃうと困るよ。なあ、毎日、少しづつでいいんだ。保育園のパンを焼く時以外は、使う量も大したことないし。そう、毎日20本くらいずつで十分だと思うんだが。」
加奈はすぐに返事をせず、まずは、コーヒーを飲んで、自分を落ち着かせてから言った。
「わかったわ。私も手伝うわ。だけど、私が休みの間だけにして。もし無理をしそうになったら、すぐに止めるからね。」
食事の後、開店までの時間に、哲夫は、加奈と一緒に、例の倒木を見に行くことにした。
「こんなに大きかったかな?」
倒木は、ゆうに10m以上あり、太さも50センチほどだった。適当な大きさに切断しても、そのままでは運べそうにない。この場所で、ある程度小さくする必要があった。
「これ一本でしばらく大丈夫そうだな。・・だが、まずは、手ごろな大きさにここで切っていくしかないかな。」
「大丈夫?体、辛くない?私は何を手伝う?」
「じゃあ・・その鉈(なた)で、小さな枝を切り落としてくれるかい?・・小さな枝も焚き付けに使えるから、ひとまとめにしておいて。」
「わかったわ。」
加奈は、鉈を手に取ると、ちょっと振ってみた。
「ねえ・・こんなので切れるの?」
「切るというよりも叩く感じさ。鉈の刃の重さで切り落とすって言う感じかな。まあ、やってみて。」
哲夫はそう言うと、マスクとメガネをかけて、チェーンソーのエンジンをかけた。
森の中に、ブーンというエンジン音が響いている。太い幹にチェーンソーの刃を充てると、キーンという甲高い音が響き、切り屑があたりに散った。時間が経っているからか、意外軽く切断することができた。窯に入れるちょうどいい大きさに揃えて、順番に切り始めた。
加奈は、言われた通り鉈を枝の根元に打ち込む。意外と簡単に枝は落ちた。倒れてからしばらく放置されていたことで、樹が乾燥し割れやすくなっていた。
加奈は、鉈を一振りするたびに、哲夫の様子を伺った。
エンジン音が森の中に響き渡っているのだが、不思議に、五月蠅いという感覚はなく、例えるなら、大きな滝の側にいるような感覚だった。
何本が切り出したところで、エンジンを停めると、急に誰かの声がした。
「おや、てっちゃん、加奈さんも、一体、どうしたんだい?」
顔を見せたのは与志さんだった。
「おはようございます。朝早くから、済みません。うるさかったですか?・・・こいつを薪にしようと思いましてね。」
哲夫は、マスクを取ってあいさつした。
「そうかい。薪か・・そう言えば、昔は、みんなこの山から、間伐した木や下草、落ち葉なんかを集めて、薪にしたもんだよ。だから、昔の森は、どこもかしこも、公園みたいに綺麗だったさ。最近は、山に入る人もいないから、こんな大きな樹が平気で倒れてしまうんだ。」
「そうなんですね・・・。」
「加奈さんも一緒とは・・・おや、鉈かい。今時、そんな道具、使えるのかい?」
加奈は何故だか顔を紅潮させていて、弾むような声で答えた。
「ええ・・何だか、楽しくって。気持ち良く切り落とせると爽快なんです!」
「ほお、そりゃ、良かった。・・まあ、余り、根を詰めない方が良いよ。のんびりやるのがコツだよ。」
「与志さんはこれから?」
哲夫が訊いた。
「ああ、向こうの畑のミカンの収穫をしに行くところだ。午後には、農協が集めに来てくれるんだ。それまでに、できるだけ穫っておかなきゃいけないんだよ。」
「そう言えば、哲夫さんの家、ミカンを作っていたわよね。」
加奈が言った。哲夫は少しばつの悪そうな顔をして言った。
「実は、生家はミカンを作っていたんです。子どもの頃にはよく手伝わされました。」
しばらく、実家の事は考えたことがなかった。特に、病気が見つかってからは、今どうすればいいかばかり考えていて、昔の事をゆっくり思い出すことなどなかったのだった。

51 故郷のミカン畑 [命の樹]

51.故郷のミカン畑
「ふーん。それで、今は?」
与志さんは、草むらに座り込んで、哲夫に訊いた。
「もう30年以上前に出てきたっきりでしばらく戻っていないんです。電話はしますが・・。」
哲夫は、汗を拭き、与志さんの隣に腰を下ろして、話を続けた。
「みかん畑の世話は祖母の仕事でした。祖母が亡くなり、親父も亡くなって、さすがに母だけでは無理なので、ミカン畑は近所の方にお願いしたはずです。手入れをしていかないと、周囲の方にも迷惑が掛かりますからね。」
「ミカンは手が掛かるからねえ。草を生やしたままじゃ、虫が増えて周りが迷惑するんだよ。病気も出やすいから、農薬も撒かないといけないしね。ほんとに一年中、暇な時はないね。だが、手をかければちゃんと美味しく実ってくれるんだ。」
与志の言葉に、哲夫は、故郷の祖母の姿を思い出していた。
一年中、朝早くから夕方遅くまで、ほとんど畑に居た。曲がった腰を時々伸ばしながら、草を取っていた姿ばかりが浮かんでくる。
「・・ああ、そうだ。良かったら、加奈を手伝わせてやってくれませんか?」
哲夫は、思い出したように言った。
「いやいや、加奈さんに手伝って貰うような仕事じゃないよ。」
与志の答えに、加奈が手を止めて言った。
「実は、私、こっちへ越してきた時、ミカン作りをやってみたいって哲夫さんに言ってたんですよ。でも、素人が簡単にできるもんじゃないからって哲夫さんに反対されて・・・、でも、手伝いしてみたいです。」
与志は加奈の言葉に少し驚いていた。
「まあ・・加奈さんがやってみたいって言うんなら、大歓迎だけどねえ。」
与志は少し戸惑っている。
「午後の少しの時間・・お店が暇になったら、畑に行きます。いいでしょう?」
加奈は、哲夫と与志の両方に了解を取るように言った。
「・・・まあ・・一人で畑に居るのも案外淋しいもんだからね。話し相手がいるだけで違うもんだよ。よし、加奈さんに畑仕事を仕込むとしようかね。・・じゃあ、待ってるよ。」
与志さんは嬉しそうだった。
哲夫は、与志さんを見送った後、再び、倒木を切り始めた。
哲夫は、樹を切りながら、遠くなった故郷のミカン畑を思い出していた。

哲夫は、1960年、瀬戸内の半農半漁の小さな村で生まれた。時代は、戦後復興を遂げ、高度経済成長に踏み出そうとしている頃だったが、瀬戸内の片田舎はまだ戦後とさほど変わらなかった。
哲夫が生まれた頃、父は漁師だった。小さな船をもっている、瀬戸内の周防灘で刺し網漁の漁師だった。だが、哲夫が7歳の夏、大きな台風が村を直撃した。港に避難していた船の多くが、波に浚われてしまった。父の船も、波の藻屑となり、使えなくなってしまった。船を作るのは大金が掛かる。父は、やむなく漁師を辞めることになってしまった。
時代は、高度経済成長の真っただ中。鉄鋼業を始め、多くの工場が働き手を求めていた。哲夫の父も、漁師が続けられなくなったのを機に、近くの鉄工所に勤めた。朝早くから夜遅くまで、父は働いた。たまの休みも、父は自宅に小さな作業場を作って、機械とばかり向き合っていたように記憶している。
もともと、哲夫の実家はこの地を治める庄屋であった。戦前までは、この村のほとんどの土地は哲夫の実家にものだった。しかし、戦後の農地解放で、小作人に土地が分配され、僅かの土地しか残らなかった。それまでは、小作人を使って手広く農作物を作って収入を得ていた一族にとって、大きな痛手だった。それでも、哲夫の曽祖父は、贅沢な暮らしを変えず、大きな借金を作ることになってしまう。父は、婿養子だった。漁師の三男坊だった父は、借金に喘ぐ一族を承知で母と結婚し、小さな船を一つ持ってきて、暮らしを支えたのだった。
ある日、祖父が6反歩ほどの農地の半分をミカン畑にすると言い出した。当時、国策として、「特産地政策」が進められていて、瀬戸内一帯は「ミカン」を特産品とするように、農協が先導して取り組んでいた。祖父は、農協の指導員の口車に乗せられて、大借金をしてミカン畑を作った。
「お前が成人する頃には、ミカンで大儲けできるぞ」と胸を張っていた祖父だったが、小学校の時、「ミカンの大暴落」が起き、儲けるどころか借金がさらに大きくなってしまった。失意のまま、祖父は病に倒れ、あっけなく死んだ。その後、祖母はなんとかミカン畑を守ろうと働いたが、借金は返せないまま、5年後に亡くなった。
父も母も懸命に働いていたにもかかわらず、家計が苦しかったのは、きっとミカンの借金返済が原因だったのだと気付いたのは、哲夫が高校に入ってからだった。
ある日、哲夫が高校から帰宅すると、父が珍しく家に居て、見知らぬ男と話していた。しばらくすると、怒鳴り声が響き、男と父がつかみ合いの喧嘩となった。原因は借金返済の事だった。祖父が、家族に相談なしに、家と土地を借金の担保にしていたため、家と土地は取り上げられ、我が家でありながら、家賃を払う形となった。しかし、それだけでは済まず、結局、借金とミカン畑だけが残ってしまったのだった。
哲夫は、その時、故郷を出る決意をしたのだった。
まだ、若かったからだろう。祖父も祖母も、父も、母も、一体どうしてこんなに愚かなんだと怒りと情けなさとが体の中に充満した。こんなところに居る自分が嫌で嫌で仕方なく、家族とは別の場所で生きたいと願い、遠い、名古屋の大学へ進学したのだった。
今、思えば、なんという親不孝をしたものだと恥ずかしくなる。
しかし、そう思った頃には、もはや、戻れる場所は無くなっていた。
自ら捨てた故郷なのだが、幼い頃の思い出は、幸せに溢れていた。
哲夫が、小学生の頃、秋の休みの日になると、朝から家族総出で、ミカンの収穫作業をした。
自分の仕事は、収穫したみかんを背負子にいっぱいに詰めて、山道を何度も何度も運び下ろすことだった。いい加減くたびれて、寝っ転がった草叢の匂いが何だか懐かしかった。
まだ、幼かった妹は、みんなの仕事を横目に、草摘みをしたり、泥団子を作ったり、畑の中を走り回ったりしていて、哲夫には羨ましかった。
昼時になると、畑の日蔭で、みんなで車座になって、おにぎりとたくあんを摘まんだ。贅沢なおかずがあるはずもなかったが、笑顔に溢れていた。
貧しい暮らしだったが、家族みんなで力を合わせて仕事をして、幸せだった。もう二度と取り戻すことのできない幸せな思い出だった。

命のあるうちに、あの故郷の風景を見ることはないだろう。そう思うと、涙が零れそうになった。寂しさではなく、後悔とも違う、やるせない思いが胸を締め付けた。

52 キノコの話① [命の樹]

52 きのこの話①
「ねえ、これ、何かしら?」
加奈が枝打ちの作業の手を止めて、哲夫に訊いた。哲夫は加奈の声がしたような気がして作業を止め、
周囲を見まわすと、倒木の裏側にしゃがみこんで、加奈が何かをじっと見ている。
「きのこ・・よね?食べられるのかな?」
哲夫はチェーンソーを下ろして、加奈のところへ行った。視線の先には小さなきのこらしい塊がある。
「ああ・・きのこだね。・・・たぶん、クリタケじゃないかな?」
「クリタケ?」
「広葉樹林の中とか倒木に生えるんだ。・・」
「へえ、食べても大丈夫?」
哲夫は少し考えた。

幼い頃、秋になると、幾度も、祖父と裏山でキノコを採ったことがあった。
祖父は、キノコ採りの名人だった。
松茸も何度か採ったことがある。羊歯の生える山の急斜面を祖父は迷うことなく分け入って、アカマツ林に辿り着くと、落ちた松葉をそっと掻き分けるようにして松茸を見つけた。数時間で腰籠一杯の松茸を採るのだった。
《この場所は、お前と儂の秘密だぞ。誰かに話しちゃだめだぞ。良いか、お前の親父にも秘密だ。》
祖父は松茸を見つけると、毎回、得意げに言った。
誰かに話そうとしても、その場所がどこなのか、表現できるものではなかった。
ただ、子ども乍ら,祖父と二人の秘密の場所というのはドキドキするものである。何だか、急に大人扱いされたようでうれしかった。

そんな祖父が、山に入るたびに口癖のように言っていたのを思い出した。
《キノコはな、素人判断すると、死ぬことになるぞ》
キノコはよく似ていて、猛毒のものと無害なものとの区別はそう簡単ではない。クリタケにも、何種類か似ているものはあり、間違えば、命を落としかねないのだった。
哲夫は祖父から教え込まれた甲斐もあって、子どもながらにキノコの見分けができるようになっていた。祖父は借金の事もあり、人付き合いが嫌いだった。だから、哲夫が中学生の頃には、近所の人が哲夫の家にこっそりキノコを持ち込んできては、祖父に代わって、見分けを依頼されるようになっていた。その度に、「物知りだねえ」と褒められた。
しかし、あれから数十年経っている。自分の目利きに自信はなかった。
「止めといた方が良いだろ。もし違ったら大変なことになる。」
「そう・・・」
加奈は残念そうだった。
「持って帰って調べてみよう。判らなかったら、与志さんに訊いてみるのも良いだろう。」
哲夫は、以前に与志さんからキノコをもらったことがあったのを思い出していた。
「そうね。」
加奈は嬉しそうに、クリタケらしきキノコを根っこから採り、持ってきていたビニール袋に丁寧に入れた。
「ここの森にはもっとたくさんのキノコがあるんでしょうね。」
そう言うと、朝日が差し込む森を眺めている。
「さあ、そろそろ戻ろうか。開店の準備をしなきゃ。」
哲夫は、切り出した倒木の小片をいくつか抱えた。
加奈も切り落とした枝を持てるだけ持って店に戻った。開店してもすぐには客は来ない。哲夫は、窯の横で持ち帰った倒木を割り、薪にした。一回で持ち帰った量は、ほぼ3日分使うほどだった。
加奈は、持ち帰ったキノコを袋から取り出してカウンターに置くと、パソコンで調べ始めた。
「ふうん、やっぱりクリタケみたいだけど・・。」
加奈は哲夫の言葉を今一つ信用していないところがあった。
「でも・・決め手がないわねえ。・・見た目は確かにクリタケみたいなんだけど・・クリタケなら、炊き込みごはんとかソテーとか、使い道もあるみたいね。パスタもいいかもね。」
パン焼き窯に火を入れて、哲夫が厨房に戻ってみると、加奈は、まだクリタケらしきキノコをじっと睨みつけるようにしていた。
「おい、おい、開店準備は?」
「ごめんなさい!」
加奈はそう言うと、表に出て行って営業中の看板を出した。

昼近くになって、10人ほどが来店し、サンドイッチとコーヒーの注文を受けた。
「へえ、面白い!メニューがサンドイッチだけなんだ。やっぱり本当なんだね。」
若いカップルの女性がメニューを見乍ら言った。
「な、そうだろ?・・でもさ、旨いらしいんだよ、これが。・・それと、マスターの気まぐれらしいんだが、運が良ければ、焼きたてのパンもあるってさ。」
「ふうん。」
若い女性は店内を見回して、焼き立てパンを探しているようだった。

どこでどんなふうに口コミが広がっているのか、こんなふうに呟くカップルが増えているのだった。

「あのお・・今日は、焼き立てパンはないんですか?」
東の窓際に座っていた、少し年配の女性客が加奈に尋ねた。
「すみません。主人の気まぐれなんですよ。今日は作ってるのかしら・・・ちょっと待ってください。訊いてみます。」
加奈は、いったん、厨房から裏口に出て、哲夫に小声で訊く。
「あと10分ほどでできるから・・今日は、ミカンパンだよ。」
哲夫の答えをもって加奈が先ほどの客のところへ戻って伝えた。
「じゃあ、待ちます。・・娘から聞いて、一度食べてみたいって思っていたんです。」
「娘さんが・・。」
「ええ、この近くの保育園の保母をしていますの。・・毎週、持ってきてくださっているってお聞きして、ぜひ、いただきたいと思ってきたんです。良かったわ。」
「ありがとうございます。保育園には私もお届けにいったんです。皆、喜んでくれて、笑顔と元気をもらっています。」
「そう・・。」

53 キノコの話② [命の樹]

53 きのこの話2
「あの・・お近くにお住まいですか?」
「いえ・・昨日、長野から娘に会いに参りました。・・いつも電話ばかりで、なかなか娘が顔を見せないものですから・・雪が降る前に一度と思って来たんです。娘が仕事に出たので、話に聞いていた喫茶店に行ってみようっと思ったんです。」
「そうなんですか。ありがとうございます。ぜひ、ごゆっくりしていってくださいね。」
その女性はふとカウンターの上に置かれていたキノコに気付いた。
「あれは?」
女性が、加奈に尋ねる。
「・・今朝、ちょっと見つけたものです。クリタケじゃないかって主人は言うんですけど・・。」
「ちょっと拝見させてもらっても良いかしら?」
加奈はキノコを女性に手渡した。
その女性は、キノコを手に取ると、襞の中を指触り、匂いを嗅ぎ、色具合を丹念に見た後、言った。
「ええ、これはクリタケね。それもかなり上等で、きっと美味しいはずよ。」
そう言いながら、加奈に返した。
「本当ですか?お分かりになるんですか?」
「ええ・・秋には、必ず、裏山へキノコ採りに行くんですよ。」
「キノコがお好きなんですね。」
「いえ、そうじゃないんです。主人に教えられたんです。それが習慣になってしまって・・」
「ご主人に?」
「もともと、私、生まれは名古屋で、農家の暮らしがどんなものか全く判らないまま、嫁いだんです。最初の頃は、嫁としてしっかりしなきゃって、家事も農家の仕事も頑張りました。」
「農家のお仕事って力仕事も多いんでしょう?」
「ええ・・体力にはかなり自信はあったんですけどね・・でも、やっぱり慣れない仕事で、無理は続きませんでした。半年ほどで、気持ちも体も限界になってしまっていて、倒れてしまったんです。数日寝込んでしまって・・・気持ちは沈むばかりで・・・もう、ここには居られないなんて思い始めた時でした。主人が、山へ行こうって言ってくれたんです。疲れ果てた私を気遣ってくれたんでしょう。」
その女性は、キノコを見つめ乍ら、懐かしい時代を思い出しているようだった。
「体調が戻るまでは、山道を宛てもなく歩くだけでした。周囲の様子にも全く目も向けず、じっと、足下ばかり見て歩いていたようです。ある日、ふと、足元に小さなキノコを見つけたんです。なんだか、日陰で健気に生えているようで・・とても可愛く思えたんです。その周囲を見ると、いろんなキノコがたくさん生えていたんです。その日は、主人に教えられるまま、目の前のキノコを採って家に帰ると、お舅さんがとても、喜んでくれました。」
加奈は笑顔で女性の話に聞き入っていた。
「持ち帰ったキノコは、とても珍しいものだったようです。すぐに、お鍋にしていただきました。お舅さんが、私に、キノコ採りの才能があると随分褒めてくださいました。落ち込んでいた私を励まそうとされたんだと思いますけど・・・・それから、しばらくは、そうやって山へ入ってきのこ採りばかり。気持ちも晴れてきて、自分のペースで頑張ればいいんだって思えるようになったんです。」
「素敵なご家族・・優しいご主人なんですね。」
「ええ・・それから山へ行くたび、いろんなキノコを教わりました。毒のあるものとないものの見分け方とか・・料理の方法なんかもね。」
その女性は嬉しそうに話す。
「・・じゃあ、今でもご主人と山へ?」
「いえ、主人は、10年ほど前に、他界しました。」
「そんな・・。」
「突然でした。しばらくは、何も手に着かず、ただただ、泣いておりました。そんな時、お舅さんが山へ誘ってくれたんです。無心になってキノコを採りました。籠一杯に採っているうちに、何だか、主人が一緒に居てくれるように感じて、気持ちも落ち着きました。・・・・」
加奈は、その女性の話を聞いているうちに、ぽろぽろと涙が零れてきてしまった
「そのあと、舅も姑も他界し、今は、一人暮らしなんです。」
加奈は、ふっと、いずれ来るだろう自分の姿を想像した。
「おひとりで・・淋しく・・。」
そう言いかけて、やめた。女性は、笑顔で話を続けた。
「りんご畑はさすがに独りでやるには難しくて・・、大半は、近くの親戚の方にお願いしました。」
ちょっと女性は話を停めて、遠くを見た。
「少しだけ、ほんの少しだけ家の前にあるりんごの世話が日課かしら。春には真っ白な花をつけるんですよ。とっても綺麗。娘が小さい頃は、古いりんごの樹の枝にブランコなんか作ったりしてね。花選り、実選り、秋には収穫、冬になると枝切りもあって、毎日結構忙しいのよ。・・でもね、どんなに忙しくても、今でも、秋になると山へ行きたくなるんです。キノコを探していると、主人やお舅さんと一緒にいるような気がして。だから、淋しくないわ。・・・」
加奈はすっかり涙に頬を濡らしてしまっていた。
「ごめんなさい。・・・。」
加奈は涙を拭うと、厨房へ引っ込んでしまった。
入れ替わりに、哲夫が、焼き立てパンを運んできた。
「すみません。お待たせしました。幾つでもお召し上がりください。」
「あの・・奥様、随分悲しそうでしたけど・・私、何かつらい事でも思い出させてしまったのかしら?」
「いえ・・そんな・・・この頃、涙もろくなっているんでしょう。気になさらず・・ゆっくりして行ってください。」
哲夫はそう答えると、すぐに、厨房へ戻った。
厨房の奥には、蹲って、涙を拭っている加奈がいる。加奈がなぜ涙を流しているか、哲夫にはすぐに判った。
近い将来、自分はいなくなる。加奈は、独りでここで過ごす時間を想像して悲しくなったのだろうと考えると、どう声を掛けていいかわからなかった。
だが、昼食時間の忙しさで、互いに会話を交わさずに済んだ。
ひとしきりの賑わいが終わり、客が帰ると店の中は静かになった。
哲夫は洗い物をしていた。加奈は店内の掃除をしながら言った。
「もう、お客さんも途切れてきたようね。私、与志さんの手伝いに行ってくるわ。」
哲夫が返事をするもなく、加奈は店を出て行った。

54 ミカンの収穫 [命の樹]

54 ミカンの収穫
「加奈さん、こっちだよ。」
与志さんが、店の裏口に出てきた加奈を見つけて、ミカン畑を取り囲む槇の木の隙間から、声を掛けた。加奈は、、与志に泣きはらした顔を見られないよう、タオルで顔を拭いた。
「今、行きます。すみません、遅くなって。今日に限って、お客さんが多くって・・。」

ミカン畑に入ると、与志が、腰籠と鋏と軍手を手渡してくれた。
「いいかい、ミカンを摘むときはそっと左手で実を包むんだ。そして、成り口の枝に鋏を入れる。」
与志は、口にした言葉通りに手を動かす。ポロリと実が取れた。
「それから、これ。少し飛び出している枝を綺麗に切り落とすんだ。」
パチンという音とともに、ヘタの上に僅かに飛び出した枝を綺麗に切り落とした。
「こうすると、籠に入れた時、ミカンが傷つかないんだ。・・さあ、やってみな。」
与志に言われた通り、加奈はそっと身を包むようにして支えて、鋏を入れた。コロンと手の中で転がって、ヘタを上にして飛び出した枝を切り取った。
「これで良いのかしら?」
「ああ、上等だよ。だが、そんなに上品にやってたんじゃ、日が暮れる。手早くやらないとね。」
そう言いながら、与志さんはすでに籠の中に10個ほどのミカンを摘んでいた。
「いいかい、樹の外側になっている実から摘むんだよ。色目が良くて、つやつやしたのを選んでね。」
与志さんはそう言うと、次の樹に取り掛かった。

加奈は目の前の背丈ほどの樹に取り掛かった。
はじめのうちは、おっかなびっくりだった加奈も、10分ほどで慣れてきた。腰籠がいっぱいになって、通路に積みあがっているコンテナに移し、また、切り始めた。
ただ黙々と、単調に見える作業だが、どの実を摘むか、どういうふうに鋏を入れるか、一回ずつ考えながら集中して作業をした。やっている時は何だか余計な事を考えずにいられた。
畑の中には、加奈と与志の鋏の尾をとが響いていた。

1時間ほどが過ぎた頃、与志さんが加奈のところへ戻ってきた。
「そろそろ休憩にしよう。」
声を掛けらえ、加奈はハッとと現実に戻ったような気持ちになった。随分、熱中していたのだった。
「おや、随分、綺麗に摘んだねえ。」
与志さんに言われて、目の前を見ると、大きな樹が5本ほど、きれいに実が付いていなかった。
「大したもんだよ。初めてにしては上出来、上出来。さあ、少し休もう。」
与志さんはそう言うと、畑の通路に積まれたコンテナの脇に行き、殻のコンテナをひっくり返して、椅子と机にした。
そして、水筒と小さな籠を開けた。中には、お菓子が入っていた。
「さあ、どうぞ。」
コップにお茶を注いて、加奈に差し出した。加奈はそれを受け取り、一口飲んだ。
「作業はどうだい?」
「ええ・・とても大変だけど、楽しいです。何だか、夢中でやりました。」
「そうかい・・まあ、初めてだしねえ・・それに、あとどれくらい残っているかなんて関係ないだろうからね。」
そう言われて、加奈は楽しいといった自分が恥ずかしくなった。
与志はこれを生業としている。一年中、一人で畑仕事をするのだ。どれほどの畑を作っているのか知らないが、全てを自分の責任でやり通すのは並大抵の事ではないはずだった。
「すみません。はしゃいでしまって・・遊びじゃないんですよね・・。」
「いや・・良いんだよ。私も一年のうちでミカンの収穫だけは楽しいんだ。自分の苦労がすべて報われるって言う感じがね・・それで、最後の畑の最後の1個まで取り終えると、なんとも爽快な気分になるんだよ。」
「あとどれくらいあるんですか?」
「温州はここが最後だ。・・年が明けたら、青島と甘夏と八朔、ああ、あとネーブルが少しあるんだけどね・・まあ、それは大したことはない。少しばかり遅れた方が味も乗って美味しくなるから・・ただ、温州だけはいけない。採り損ねるとそのまま畑の肥やしにするしかないんだ。」
「ええっ?じゃあ、急がないと・・。」
「良いんだよ。今日は、加奈さんが手伝ってくれたおかげで随分捗ったしね。」

お茶を飲み、お菓子を食べ、ミカンに囲まれている時間は、与志にとって至福の時なのだろう。
「ねえ、与志さんはミカン農家に嫁いできたんですか?」
加奈はふと気になって尋ねてみた。
与志さんは、柔らかな表情を浮かべて、思い出話を始めた。
「爺さんは町の役場に勤めていたんだよ。私も学校を出て、役場に勤めてね。そこで知り合って、結婚したんよ。」
加奈は、与志のなれそめを聞くのは初めてだった。
「じゃあ、ミカンを作り始めたのはどうして?」
「ちょうど、国が特産地政策とかいうやつを始めていてね。町役場でも、このあたり一帯をミカンの産地にしようって決めて、爺さんが旗振り役をすることになったんだ。だが、このあたりの農家はなかなか動こうとしなかった。だから、爺さんは、この岬の土地を買って、畑にするって言いだしたんだよ。」
「随分大変だったんじゃ・・」
「ああ・・荒地同然の場所だったんだよ。それを、二人で力を合わせて、樹を切り倒し、草を刈り、ゴロゴロと転がっている岩をどかして、とにかく、畑にすることだけ考えて、朝から晩まで働いた。最初のうちは、役場も少しは手伝う素振りを見せたけどね・・。ようやく畑ができて、みかんを植えたんだ、そしたら、町一番の上等品のミカンが取れたんだ。爺さんは得意満面だったよ。」
「ご苦労が報われたんですね・・。」
「ああ・・だが・・失ったものもあるよ。ミカンが取れるまではほとんど収入はなくってね、借金もしていたし、今日食べるものにも困るくらいに、貧しかった。だから、子どもをもつことは諦めたんだ。とても育てていける自信がなかった。..」
与志さんは少し寂しそうな表情をした。

55 加奈の告白 [命の樹]

55.加奈の告白
「なあ、加奈さん・・前に一度、てっちゃんにも言ったんだが・・。」
与志さんは少し躊躇いがちに言った。
「もう私も年だ・・。いずれ、私も動けなくなる日が来るだろう。その時、このミカン畑の世話を頼みたいんだよ。どうだろうね?」
加奈は驚いた。
「哲夫さんはなんて言いました?」
「いや・・無理そうな表情で・・はっきりとは返事はしなかったんだが・・。」
「そうですか。・・」
加奈は、哲夫が答えに困った姿を思い浮かべて、胸が苦しくなった。
「今朝、知ったんだが、てっちゃんの実家もミカンを作ってたそうじゃないか・・なら、きっと、すぐに一人前にみかんが作れるようになるよ。きっと大丈夫だ。どうだろうね、やってくれないかい?」
「いえ・・やっぱり・・無理です。・・。」
加奈はそう言うしかなかった。
「ミカン畑は爺さんと私の生きた証なんだよ。何とか、残していきたいんだ。」
与志は、懇願するように言った。
「いや、全部じゃなくていいんだ。この畑だけで良いんだ。店のすぐ下で都合も良いだろ?どうだい、やってみてくれないかい?」
与志の願いも充分に理解できた。できるものなら、与志の願いを叶えてあげたい。いや、僅かでも、哲夫の命が長らえることがあるのならば、ミカン畑を二人でやるのは加奈にとっても夢のようなことなのだ。しかし、今の状態ではそんな約束などできないのは明らかだった。
「ごめんなさい。」
加奈はそう言って、顔を伏せて泣き出してしまった。
与志は驚いて言った。
「・・まあ、そんなに泣いてしまうなんて・・・・そんなに無理な事だったのかい・・すまない・・ごめんよ・・。」
「いえ・・良いんです。私の方こそ、ごめんなさい。与志さんの気持ちは十分に判るんです。でも、どうしても無理なんです。」
加奈の答えに、与志は、ミカン畑の仕事がいやとかそういうわけではなく、何かもっと別の理由があるように感じた。
「何か、言えない様な訳があるのかい?」
加奈は、与志に訊かれて、もう隠しておけない気持ちになっていた。いずれ、近いうちに判る時が来る。いつまでも隠せるものではないはずだと思い至った。
加奈は顔を上げ、気持ちを落ち着かせて、ゆっくりと言った。
「与志さん・・与志さんには、お話しておくべきでしょうね。」
そう前置きしてから、加奈は、哲夫の病気の事を話し始めた。
「哲夫さんは、末期の癌なんです。そんなに長くは生きられないんです。」
「そんな・・あんなに元気そうじゃないか・今朝だって・・・嘘だろ?」
与志はすぐには信じられない様子だった。加奈は首を振った。
「先日も・・そう、あの岬のところで倒れていて・・。」
与志はその時の事を思い出していた。
「そんなに悪いのなら、入院した方が良いんじゃないのかい?」
「いえ・・もう、治療もできない段階なんです。病気が見つかって、哲夫さんはすぐに会社を辞めました。自分らしくのんびり生きたいからってこの町へ越してきたんです。でも、ただじっと死を待っているようではいけないって思い始めて、店を始めるといいだしたんです。体力的にどこまでできるか判らないけど、最後まで生き切りたいって・・。」
与志は複雑な表情を浮かべて言った。
「そうだったのかい。・・私は最初、どんな道楽者がここの土地が欲しいって言ってるのか、いい加減な気持ちなら売るつもりもなかったんだが、あんたたちと会って、何だか、真面目に生きているのが判ったから売る事にしたんだ。、まさかそんな事情があるなんて考えもしなかったんだけどね。」
「最初からお話しておけばよかったのかもしれませんが・・でも、哲夫さんはみんなに心配を掛けるのは嫌だって言って。だから、誰にもお話ししなかったんです。」
「まあ・・そうかも知れないねえ。気を遣わせるっていうのはやっぱり嫌だよね。」
「だから、この畑を預かるなんて無理なんです。きっと、来年の秋までも・・」
加奈は、言葉を詰まらせた。それ以上は口にしたくなかった。
与志さんは深く溜息をついてから、ゆっくりと空を見上げた。
「不条理だねえ・・どうしてそんなことがあるんだろうねえ・・。」
そう言って、与志さんは加奈の肩に手を置いてから、労わる様な声で言った。
「あんたは一人でそんな思いを抱えてきたんだね。辛かっただろう。」
加奈は、堪えきれず、与志の腕にすがって声をあげて泣いた。
与志は、加奈の背を撫で、気持ちを落ち着かせようとした。そして、優しい声で言った。
「でもね・・加奈さん、ものは考えようさ。うちの爺さんは、突然だった。寝るまで普段と全く変わらず、どこも悪くなったのに・・・朝にはもう逝っちまってたんだ。看取ることも、できなかったんだ。後悔したよ。こんなことなら、あれもしてやりたかった、あんなこともさせてやれば良かったって、いくら悔やんでもどうしようもなかった。今、こうやって畑の仕事に精を出してるのは、せめてもの償いのつもりでもあるんだよ。」
加奈は与志の顔を見た。与志は涙を流している。
「それにね・・てっちゃんもきっと同じ思いだろうよ。生きてる間に、加奈さんのために何ができるか、必死で考えてるはずさ。」
加奈は少し訝しげな顔で与志を見た。
「いろんな人の世話を焼いて、いっぱい知り合いを作って・・そうさ、保育園にだってパンを届けてる。そうやって、人の絆をいっぱい作ってる。きっと、加奈さんが独りになっても淋しくないようにって思ってやってるんじゃないのかね?」
「そう・・でしょうか?」
「命を生き切るってのは、自分の欲のために生きるんじゃないよ。加奈さん、あんただってそうだろ?自分のためよりも、てっちゃんのために何ができるかって考えて、生きてるだろ?そうやって、誰かの事を考え、支え、時には支えられて生きるっていうのが何よりの幸せさ。てっちゃんがこの先どうなるのか、誰にもわかりゃしないんだ。ただ、病気が見つかって、少し早く逝くかもしれないが、今は生きてる。だから、一日一日を大事に生きるんだ。私に、何ができるわけじゃないが、苦しくなったら、いつでも、私のところへおいで。私の前で思いっきり泣くと良いさ・・。」
加奈は救われたような気持だった。

56 焼き芋パン [命の樹]

56 焼き芋パン
加奈は、翌日も仕事が午前中で終わったので、与志さんのミカン畑の手伝いに行った。
「保育園の子どもたちが、てっちゃんのことを心配しているようなんだ。毎週楽しみにしていたパンも食べられなくなるんじゃないかって・・。」
与志さんは、収穫したみかんを保育園に差し入れに行っている。一度に持っていける量は限られているので、ほぼ毎週のように保育園に行っているようだった。
「そう・・でも・・」
早朝のパン焼き仕事は哲夫の体調を考えると、まだ無理だろうと考えていた。
「そうだね・・・今は、無理しないほうが良いだろうね。」
「ええ・・。」
加奈は、日暮れまでミカンの収穫を手伝った。帰り際に、与志は加奈に紙袋を一つ渡した。
「今日の仕事のお礼だよ。うちの畑で掘ったんだ。」
袋の中身は、見事なサツマイモだった。
加奈が、店に戻ると、哲夫はもう店を閉めて、夕飯の支度を終えていた。
「これ、与志さんから戴いたの。今日の仕事のお礼だって。」
「お、これは美味しそうだね。・・今日はもう支度をしちゃったから、明日、天ぷらにでもしよう。さあ、夕食にしよう。」
夕食をとりながら、加奈は与志に聞いた話を伝えようかどうか迷っていて、つい無言になってしまっていた。
「どうしたんだい?何かあったのか?」
哲夫は、加奈の様子が気になって訊いた。
「いえ・・何でもないわ・・ごめんなさい。ちょっと、学校でね・・。」
「そうか・・なら、良いんだが・・。」
加奈は大抵のことは夕食のときに哲夫に話している。特に、迷っているような事があると、特に哲夫の解決策のアドバイスをもらうつもりもないにもかかわらず、長々と話して、自分で解決策を見つけるところがあった。だから、こうやって口を開かないときは、自分自身の抱えている問題ではないことくらい、哲夫には判っていた。哲夫に話せない事、それは病気と関係していることに違いなかった。哲夫もそのことは判っていて、あえて訊こうとはしない。それは、哲夫の病気が見つかってから自然に二人の間の約束のようなものになっていた。

「なあ、加奈。明日、久しぶりに保育園にパンを届けようと思うんだ。もう、随分、お休みしてるから、子どもたちも淋しがっているんじゃないかな。いや、久しぶりに、元気な子供たちの顔を見たいんだ。」
哲夫は食事を食べ終えて、食器を洗いながら言った。
加奈は、口籠っていた事を見抜かれたような気がした。
「無理しないで・・・。」
加奈はそれ以外口にできなかった。
「ああ、大丈夫さ。昔みたいに朝早くじゃなくて、保育園に届ける時間に焼きあがれば良いようにすれば、普段通りに起きればできるだろ?仕込みは今日のうちにやれば良いし。」
「じゃあ、私も手伝うわ。」
「お、久しぶりに加奈先生の出番ですね?」
哲夫は、パン焼きを加奈に教わったのだった。
夕食の片づけを早々に終えて、厨房でパン作りを始めた。
「どんなパンにするの?」
加奈が訊くと、哲夫は少し考えてから、カウンターの上に置かれた紙袋を見て言った。
「サツマイモを使おう。・・スイートポテトパン・・いや、焼き芋パン、なんてどうかな?」
「焼き芋パン?」
「ああ、成型するときに、焼き芋を中に入れるんだ。」
「じゃあ、少し生焼けくらいにしておかないとね。パン焼きの熱でぐちゃぐちゃになるかも。」
「そうか・・まあ、今日は、パン生地だけにしておこう。」
二人は、粉を篩にかけて、生地づくりを始めた。

翌日、夜明けとともに二人は目覚め、昨日仕込んだパン生地を切り、オーブンで半分ほど焼いたサツマイモを生地で包み込んだ。一通り、作業が終わると、哲夫が裏口に行き、焼き窯に火を入れた。
ちょうど与志さんが、朝の仕事の支度に、ミカン畑に来ていた。
煙が立ち上るの見つけると、与志さんはパン焼き窯のところへ顔を出した。
「おや・・今日はパンを焼くのかい?」
「おはようございます。ええ、久しぶりに、保育園に届けようと思って。」
哲夫は窯の火加減を見乍ら答えた。
「ふうん、そうかい。」
与志さんはそう言うと、ベンチに腰掛けた。
「ちょっと待っててください。」
哲夫はそう言うと、裏口を開けて、加奈を呼び、紅茶を入れるように言った。しばらくして、加奈が紅茶とコーヒーを運んできた。
「おはようございます、与志さん。」
「おや、これは珍しい。今日は、加奈さんも一緒かい?」
「ええ、久しぶりにパン焼きの手伝いをしてみようと思って・・。あ、これ、与志さんの紅茶です。」
加奈は、紅茶をテーブルに並べながら、与志に、昨日の会話の事は哲夫には伝えていないことをそっと耳打ちした。与志は小さく頷いた。
「そうそう、与志さんに頂いたサツマイモを使ったパンなんですよ。」
「へえ、そりゃ、きっと美味いだろうねえ。焼けたら、おくれよ。」
「もちろんですよ。」
哲夫が火加減を調整しながら、笑顔で答えた。加奈が厨房に戻って、成型したパンを運んできた。哲夫が受け取り、一つ一つ丁寧に窯の中へ入れた。
「じゃあ、できるまで、もう一仕事してくるよ。」
与志さんはそう言って、畑に戻って行った。
じきに、パンの焼ける匂いが当たりに漂い始めた。
「子どもたち、喜んでくれるかな?」
「きっと大喜びよ。」

57 見舞い [命の樹]

57 見舞い
パンが焼きあがるまで、哲夫と加奈は窯の横のベンチに座って、湖を眺めていた。
「ここって気持ちいいわね。ちょっと寒いけど。」
「ああ・・これは想像なんだが、ここの景色は、与志さんの思い出の場所じゃないかって思うんだ。店を建てる前、ここに小屋があったろ?きっと、ここから与志さんとご主人もこうやって湖を眺めてたんじゃないかって思うんだ。」
「そうかもね。」
「だから、こうやってベンチを置いて与志さんがいつでも来れるようにしたんだ。パンを焼いてると、与志さんは必ずここに来てくれるんだ。」
「へえ・・そうだったんだ。」
加奈は会話をしながら、与志さんとご主人が並んで湖を眺めている様子を想像していた。どんな話をしたのだろう、与志さんはここに来てその時のことを思い出したりするのだろうか、淋しく感じたりしないのだろうか、いろいろと考えているうちに、自分もいつかそんな風に思いだす日が来る事に思い当たって、少し気持ちが重くなってしまっていた。
「加奈、もう焼き上がるころだ。」
哲夫が窯を覗き、一つ一つ丁寧に取り出した。ほのかに焼き芋の香りが漂った。
「試食してみよう。熱いから気を付けて。」
哲夫は焼き上がったばかりの、焼き芋パンをそっと加奈に差し出した。加奈は一口食べてみた。
「あ・・熱い!・・うん、美味しい。」
「そう?」
哲夫も一口食べてみた。口の中にサツマイモの甘みが広がる。そのあと、サクサクとしたパンの感触が心地良い。
「うん、合格だな。思ったより甘くなったな。」
「与志さんのお芋が甘いのね。すごい、これならきっと子どもたちも大喜びね。」
哲夫と加奈は焼き上がったパンをトレイに並べていると、下の道路で車のエンジン音がした。
見下ろすと、軽トラックが入ってくるのが見えた。車は下の駐車スペースに止まると、誰かが、庭に新しく作った坂道を上ってくるのが見えた。
「誰だろう?加奈、見てきてくれるかい?」
加奈はすぐに、裏口から庭へ回った。
坂道をあがってきたのは、玉木商店の主人で、大きな段ボールを抱えていた。
「おはようございます。」
加奈が声をかけると、玉木商店の主人が丸っこい顔ににっこりと笑顔を浮かべて頭を下げた。
「てっちゃん、元気になったかい?」
「え?ああ、ちょっとお休みしていました。」
加奈はどう答えたものか戸惑った
「・・水上医院へ入院してたって噂だったから・・どうかと思っていたんだが・・今朝、煙突から煙が上ってるのが見えたんで、来てみたんだ。」
「入院?」
「おや?ちがったか。いや、金原さんの奥さんがね、てっちゃんが水上医院へ担ぎ込まれたのを見てたらしいんだよ。そのあと、しばらく喫茶店がお休みだったし・・与志さんの話じゃ、足を痛めたとか・・よくわかんないが、まあ、パン焼きが始まったみたいだったんでね。」
玉木商店の主人は、早口でそう言った。
金原の奥さんというのは、サチエの母郁子の事だった。水上医院の隣に住んでいるから偶然見かけたに違いなかった。
狭い街だから、秘密にしようとしてもすぐに噂は広がる。
「ええ・・大したことはなかったんですけど・・大事を取ってしばらく入院したんです。もうすっかり良くなりました。それで、今日は保育園にパンを届けるんです。」
加奈は、病気の事は曖昧にして答えた。
「そりゃあ、みんな喜ぶなあ。・・ああ、そうだ、これ。見舞いの品なんだが・・。」
そう言うと、玉木商店の主人は、抱えていた段ボールを開いて見せた。中には、パン作りの材料やコーヒー豆がたくさん詰まっていた。
「これって?」
「いや、再開したんなら、いろいろと材料がいるだろ?問屋の連中も心配してたから、見舞いの品を届けてくれって頼まれてね。・・ああ、今回は代金はいらないよ。皆の気持ちだからな。」
「ちょっと待ってください。哲夫さんを呼んできますから・・。」
加奈は余りの事に哲夫を呼びに行った。
哲夫は、最初のパンが焼きあがったのを取り出していた。加奈が玉木商店の主人の事を話すと哲夫はすぐに庭にやってきた。
「すみません。ご心配をおかけして・・。」
「おお、てっちゃん。なんだ、元気そうじゃないか。良かった。安心したよ。」
玉木商店の主人はそう言うと、哲夫の肩をたたいた。
「ほら、どうだ?良いだろ。」
哲夫は段ボール箱の中を覗いた。
「こんなにたくさん、良いんですか?」
「ああ、みんなが持って行ってくれって頼まれたものばかりだ。どうやら、問屋連中も、この店の噂があちこちで聞かれるようになって、随分喜んでるようなんだ。」
「でも・・こんなにも・・」
「なあに、気にすることはないさ。そうそう、珈琲屋の営業の奴なんか、この店の珈琲は美味しいって噂になってるみたいでな、引き合いが増えたんだって、それで出世したらしい。だから、随分、心配していたよ。ぜひ持って行ってくれって、また、新しい商品を持ってきたよ。」
「ありがとうございます。本当に皆さんには感謝しきれないほどで・・ありがとうございます。」
哲夫は涙ぐんでいる。
「いいんだよ。また、注文してくれよ。うちも商売繁盛なんだからな。」
「はい。・・ああ、これ、今日、保育園に持っていくパンです。今、焼きあがったんで、持って帰ってください。」
「おお、美味そうだ。ありがとな。」
玉木商店の主人は笑顔で受け取り、来た道を戻って行った。

58 保育園の子どもたち [命の樹]

58 保育園の子どもたち
哲夫と加奈は、続けてパンを焼き、焼き上がったパンはいつものように小さな紙袋に一つ一つ包んだ。そして、配達用の箱に綺麗に並べた。今までは一人でやっていた仕事だったが、加奈が手伝ったことで、随分、早く終わった。
「じゃあ、届けに行こう。」
「車、出そうか?」
「いや、せっかく電動自転車をもらったんだ。自転車で行こう。」
「大丈夫かしら・・。」
「大丈夫。昨夜はしっかり眠れたし、パン焼きも加奈が手伝ってくれたおかげで楽にできた。それに、玉木のご主人の話しぶりだと、街の人も心配してくれてるようだから、元気な姿も見せなきゃ。」
「そう・・わかったわ。」
自転車を庭まで持ち込んで、箱を後ろの荷台に括り付けて、坂道をゆっくりと降りた。
「与志さんのところへ寄って行こう。」
畑の間の道を抜けると、与志の家があった。与志はまだどこかのミカン畑にいるようだった。玄関にパンの入った紙袋を置いた。
そこからゆっくりと山道を下って行く。薪にしている倒木の脇を通る。もう半分ほどになっていた。
神社の前を抜けて、街の通りに出た。
もう晩秋、いや、初冬に入って、西からの風が強く吹くころになっていた。
「ねえ、寒くない?」
後ろを走る加奈が訊く。
「大丈夫。」
哲夫が片手を上げて応える。
玉木商店の前を通ると、ご主人が店先に居た。
「ありがとうございました。これから保育園に行きます。」
哲夫が元気よく言うと、玉木商店の主人も手を振って応えた。その先には、須藤自転車がある。
「ちょっと寄って行こう。」
哲夫はまた寄り道をした。須藤自転車のご主人も修理場の中にいた。奥さんが通りに出てきた。
「元気になったのね。」
「すみません。なんだか、ご心配をおかけしたようで。これ、お詫びです。与志さんにいただいたサツマイモで作ってみたんです。」
哲夫はそう言うと、パンの入った紙袋を渡した。
「まあ、ありがとう。久しぶりねえ・・うれしいわ。ずっと待ってたのよ。」
奥さんは嬉しそうに受け取った。
「どうだい、自転車の調子は?」
修理の手を止めて、ご主人も店先に顔を見せた。
「ええ、ありがとうございます。本当に助かりました。これなら遠くまで配達できそうですよ。」
「おいおい、無理するなよ。まあ、調子が悪くなったらいつでも修理してやるからな。」
須藤自転車のご主人も嬉しそうだった。

哲夫と加奈は、保育園に向かった。ちょうど、子どもたちは外遊びをしているところだった。
「あ、てっちゃんだ。」
誰かが声を上げると、園児たちは、皆、門のところまで走ってきた。
「あ、加奈ちゃんもいるよ。」
無邪気な声が聞こえてきた。自転車を止めて、パンの入った箱を抱えて園内に入ると、哲夫と加奈の周りに子どもたちが集まってきた。久しぶりの感覚だった。
「さあ、みんな、ちゃんと並んでよ。」
保育園の先生の声が響くと、みんな行儀よく並んだ。
「みんな、ごめんね。ちょっとお休みしちゃって。」
哲夫が言うと、ユキエが心配そうな表情を浮かべて、口を開いた。
「もう元気になったの?」
ユキエは、母の郁子から哲夫が入院したようだと真っ先に聞いたのだろう。誰よりも心配していた様子だった。
「ああ、もう大丈夫、元気になったよ。心配かけてごめんね。」
子どもたちの無垢な瞳がじっと哲夫を見つめている。哲夫はそれ以上の言葉が出てこなかった。
「さあ、今日のパンはなんでしょう?」
加奈が哲夫に代わって子どもたちの相手になった。箱からパンを一つ取り出して、みんなの前に開いて見せた。子どもたちは穴が開くほどパンを見つめ、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「おいも?」
「焼き芋のにおいがする。」
「そうだ、やきいもだ。やきいもパンだ!」
子どもたちは、やきいも、やきいもと言い出した。
「正解!今日は、みんなも知ってる、与志おばあちゃんが育てたサツマイモを使ったパンです。美味しいわよ!?」
「わーい!」
子どもたちは大声を上げて喜んだ。
「さあ、配るから列を作ってください!」
再び、保育園の先生が号令をかけると、みんな二列に並んで、パンを受け取った。いつもなら、そのまま、部屋に入って自分の椅子でパンを食べるのだが、今日は少し様子が違った。
パンを受け取った子から順番に哲夫と加奈の前に並び始めた。
園児全員がきれいに並び終わると、先生が「はい、どうぞ。」と合図した。
すると、
「てつおさん、かなさん、いつも、いつも、おいしいパンを、ありがとう。これからもずっとげんきでいてください。いただきます。」
と一斉に声を揃えて、言ったのだった。
哲夫が休んでいた間に、きっと園児たちは淋しかったに違いない。保育園の先生が子どもたちの気持ちを受け止め、感謝の気持ちを伝えればきっと元気になるからと園児たちに話し、園児たちも一生懸命に練習をしたのだろう。
「こちらこそ・・ありがとう・・本当に、ありがとう。・・これからもパンを作るね。・・」
哲夫はもう顔をぐしゃぐしゃにして涙を流していた。加奈も、哲夫の後ろで涙を流していた。


59 芳江先生 [命の樹]

59 芳江先生
園児たちは、椅子に行儀よく座り、サツマイモパンを頬張っていた。あちこちから、園児の「おいしい」という声が響いている。
哲夫はこの光景を眺めているのが好きだった。
子どもたちの、美味しそうな笑顔は、命に溢れ、希望に満ちている。そのためのわずかなきっかけを作り出せていることが嬉しかった。
そして、そんな哲夫の笑顔を見ている時間は、加奈にとって大きな幸せを感じられる時間でもあった。

「あの・・」
加奈の傍に来て、芳江先生が声を掛けた。
芳江先生は、この保育園では最も長く勤めていて、もう30代半ばだった。今春からは副園長として、忙しくしていた。以前、サチエの担任だったこともあり、哲夫がパンを届け始める時、園長への橋渡しをお願いした先生であった。
「先日、母がお店に伺ったようなんですが・・。」
そう言われて、加奈は、すぐにその女性を思い出した。
「ああ・・確か、長野からいらしたって・・。芳江先生のお母様だったの?」
「ええ、母はお店で加奈さんとお話しできて楽しかったって言ってました。ありがとうございました。でも、何だか加奈さんが急に涙ぐまれて厨房に入られてしまったって・・何か、母が失礼な事を言ったんじゃないかって・・ちょっと気にしていたんです。」
「いえ、キノコのお話を教えていただいて、私も楽しかったんですよ。でも、お父様の思い出話をお聞きしているうちに、つい涙ぐんでしまって・・お母様、随分御苦労なさったようで・・」
「そうでしたか。・・・。」
「お母様には、いつでもおいで下さいって、お伝えください。また、長野のお話をお聞かせいただきたいですって。」
加奈がそう言うと、その先生は少し寂しそうな顔をした。
「はい。・・でも、母はもうこちらには来れないと思います。」
「え?どうして。」
「今回、こちらに来たのは、大学病院で検査を受けるためだったんです。体調がすぐれないって言って、近くの病院で診察を受けたら、精密検査が必要だろうっていうことになって・・結局、大きな癌が見つかってしまって・・そのまま、長野に戻って一人暮らしも難しいだろうからって、こっちで入院することにしたんです。」
「そんな・・。でも・・治療すれば、良くなられるんじゃないの?」
「ええ・・なんとかそう期待しているんですが・・なにぶん、高齢で大きな手術には耐えられそうもなくて・・抗がん剤の治療だけはしてるんですけど・・。」
「きっと良くなられるわよ。」
「でも・・母は、父もお爺さんもお婆さんも送って自分の役目は終わった、だから、もう心残りはないって言って・・・なんだかさっぱりした表情で、治療もあまり・・。私はショックで、泣いてばかりいたんですが、むしろ、母に慰められてしまう始末で・・。」
「そう・・。」
加奈は、自分の事のように、話を聞いていた。
「母は、加奈さんとお話したこと、本当に嬉しそうでした。自分の思い出話を誰かに聞いてもらえるっていうのが嬉しかったみたいです。本当にありがとうございました。」
「そうなの・・少しはお役に立てたのかしらね。」
「ええ・・本当にありがとうございました。」
その先生は、頭を下げた。
加奈は、喫茶店での、その女性との会話を思い出していた。
それほどあっさりと死を受け入れられるものだろうか。哲夫は、自分自身納得する生き方がしたいと仕事を辞め、転居もして、今ここにいる。そして、毎日、もがきながら生きている。芳江先生の母も、娘の負担を考えて平静を装っているが、きっと毎日もがきながら生きているに違いない。
「お母様は、長野の山の話を楽しそうに話してくださったわ。一人暮らしだけど、淋しくない。山に入れば、いつもお父様やお爺さまが傍にいるように感じられるって・・。」
加奈が言うと、芳江先生は目を伏せて小さな声で言った。
「ええ・・母はあそこに戻りたいんだろうって判ってるんです。でも・・病身のままじゃ・・。」
「そうね・・。」
「実は私も迷っているんです。このまま、病院に閉じ込めるようにしていて、良いんだろうかって。残り少ない時間なら、母の満足する生き方を選んでもらったほうが良いんじゃないかって・・」
加奈も、哲夫の病気が見つかった時、入院して治療する事を真っ先に考えた。だが、哲夫の場合は、入院治療で快方する見込みはなかったのだった。一縷の望みでもあるなら、やはり、入院し治療に専念できるほうが良いのだろう。
「お母様自身が選ばれる道を尊重してあげるしかないのかしらね・・」
加奈はそういうほかなかった。
「なあ、加奈、そろそろ帰ろうか。」
深刻な表情で話している二人のところへ哲夫がやってきた。
「おや?どうしたんだ、なんだか深刻そうな顔しているけど・・何かあった?」
加奈は返答に困った。芳江の母の病気の事で悩んでいるのだと伝えて、哲夫はどう答えるのか、哲夫も随分悩んで出した答えだっただけに、加奈は知らせたくないと思っていた。
「いえ・・ちょっと、女同士の秘密のお話ですから・・。」
隣にいた芳江が、妙に元気よく答えた。芳江自身もあまり他人には知られたくな様子だった。
「ええ・・そうよ。内緒の話よ。・・・もう、何でもすぐに首を突っ込んでくるんだから・・おせっかいも大概にしてよね。」
「なんだい!・・ちょっと心配しただけだろ?嫌な感じだな。」
哲夫はちょっと不満そうな表情を見せた。
「哲夫さん、体、大事にしてくださいね。子どもたちは、皆、楽しみにしているんです。また、来週も、美味しいパン、お願いしますね。」
芳江は優しく言うと、園児のところへ戻って行った。
「また来週も・・か・・。」
哲夫は少しさびしそうな表情でつぶやいた。加奈は、そう言う、哲夫の後姿を見つめていた。