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60 奇跡 [命の樹]

60 奇跡
園児たちは、パンを食べ終わると、哲夫と加奈のところへやってきて、「ごちそうさまでした」と一様に言ってから、園庭へ走り出していく。
哲夫と加奈は、一人一人の頭を撫でて、「ありがとう」と返答を返した。いつの間にか、これが習慣となっていたのだった。

何人か、園児が続いた後、奈美がやってきた。
奈美はいつになくうれしそうな表情でやってきた。
「ごちそうさまでした」
そう言ってから、奈美は二人の顔をじっと見て少し躊躇いがちに言った。
「ねえ、てっちゃん、今度、お店に行ってもいい?」
「ああ、いつでもおいで。」
哲夫が軽く答えると、「やったあ。」と喜んだ。
「ねえ、奈美ちゃん、何か良いことあったの?」
加奈が訊くと、奈美はちょっと考えてから言った。
「お母さんがね・・目を覚ましたの。」
「え?お母さんって・・。」
「うん、お母さん、食いしん坊だから、目を覚ましたのよ。」
「食いしん坊?」
加奈は、奈美の言っていることが理解できなかった。
奈美は、加奈がおかしな顔をしているので、何か変なことを言ったのかと少し不安げな表情になった。
「そう・・目が覚めたの・・良かったわね。」
「うん。」
そう言うと、奈美は園庭に走り出していった。
奈美の母は、交通事故で意識不明の重体で入院したままだったはずだった。源治からは、医師も意識は回復しないだろうと言っていたと聞いた。
「ねえ、哲夫さん、どういうことかしら?」
「さあ・・でも、きっと奇跡的に回復したってことじゃないかな。」
「そう・・。」
「帰りに港に行って、源治さんに尋ねてみようか?」
「ええ。」

二人は保育園を後にすると、港へ向かった。
もうそろそろ、漁の支度のために、源治は港に出て喜いる時間だった。港に着くと、源治の姿を探した。源治は、船の甲板で、網を積みこむところだった。
「源治さん!」
哲夫が呼ぶと、源治が手を上げて応えた。そして、船の舳先から岸壁に飛び移ると、二人のところへやってきた。
「てっちゃん!元気になったんだな!良かった、心配したぞ!」
「すみません、ご心配をおかけしました。」
「なあに、何もできやしないんだがな。このまま、お前さんのパンが食べられなくなるんじゃないかって、気を揉んだよ。良かった。」
源治は相変わらず元気そうだったが、やはり、いつも以上に嬉しそうだった。
「娘さんが目を覚ましたって・・奈美ちゃんが言ってましたけど。」
加奈が源治に尋ねた。
「おう、そうなんだ。医者は、奇跡だって言ってたよ。まさかなあ・・」
源治はそう言いながら、急に涙ぐんだ。
「そう。良かったですね。」
「ああ・・3週間くらい前だったか。いつも夕方、奈美の奴が、お母さんのところへ行きたいって言い出したんだ。見舞いに行くのは土曜日にしていたんだが、その日は何故か奈美の奴、どうしてもって言ってなあ。普段は、聞き分けのいい子なんだが・・」
「何かあったんでしょうか?」
哲夫が訊く。
「ちょうど、保育園でてっちゃんのパンをもらって帰ってきた日だったんだ。奈美はそれを母親に見せたかったんだろ。でな、奈美が、母親の口元にパンを近づけて、美味しいパンだよって言ったんだ。そしたら、かすかに顔の表情が動いたように見えたんだ。・・すぐに、医者を呼んで診てもらったら、少し反応があるって。」
「そう・・」
「医者が言うには、意識がない状態でも、音とか匂いとかを感じることはあるらしいんだ。・・なんて言ったか・・難しい話は分からないんだが・・生きるための本能ってやつかい?そこはちゃんと働いているらしいんだ。だから、パンの香りに反応したんじゃないかって。」
源治の話は今一つよくわからなかったが、とにかく奇跡的な回復と言っていいらしいようだった。
「奈美ちゃんが、お母さんは食いしん坊だから目を覚ましたって?」
加奈が訊くと、源治は豪快に笑いながら言った。
「え?」
源治はきょとんとした顔をして加奈を見た。そして、
「ほう、そうかい。そうかい。そうだ、きっと、そうに違いない。パンが食べたくって目を覚まそうとしてるんだろ。小さいころから、あいつは食い意地が張ってたからなあ。そうか、奈美がそんなこと、言ってたか。そうか、そうか。」
源治は感心するように答えた。
「奈美ちゃんが、店に来たいって言ってましたけど・・。」
加奈が言うと、源治ははっとした表情を浮かべて答えた。
「おお、そうだ。かあさんのためにパンを持って行こうって言ってたんだ。てっちゃんの焼いたパンが良いって言ってたからな。だが、てっちゃんが入院したって聞いて、奈美はしょんぼりしてたんだ。・・どうだ、引き受けてくれるか?」
哲夫は笑顔で答えた。
「ええ、ぜひ。今度の土曜日、午前中なら、店のパンも焼く予定ですから、一緒にやりましょう。」


61 いのちのパン [命の樹]

61 命のパン
土曜日になって、源治は、奈美と裕を連れて朝早くに店にやってきた。
すでに、哲夫と加奈は店用のパンを焼き始めていた。
「いらっしゃい。」
加奈は、三人を笑顔で迎えた。すでに、店の中の一番大きなテーブルには、パン生地といろんな材料が並べられていた。
「お母さんはどんなパンが好きだったかしら?」
加奈が尋ねると、奈美は元気よく答えた。
「メロンパン!」
「そう。他には?」
今度は裕が答えた。
「チョコパン!」
「そうなの。じゃあ、メロンパンとチョコパンを作りましょう。」
加奈が言うと、奈美が少し遠慮がちに言った。
「ねえ、加奈ちゃん・・やきいものパンは作れる?」
「ええ・・良いわよ。そういうと思ってちゃんと材料はそろってるから。じゃあ、始めましょう。・・さあ、源治さんもやりましょう。」
「ええ?俺もか?」
「大丈夫。できるわ。」
「大丈夫よ、おじいちゃん。」
奈美に言われ、源治は、最初はぎこちなかったが、次第に慣れてきて、ごつい指先を機用に使ってパンを作った。
成型を終えたパンは、哲夫が窯に入れて焼いた。焼き上がる様子を、源治も奈美も裕も、窯の覗き穴から交代で覗き込んでは、次第に膨らみ焼き色がつく様子を楽しんでいた。

哲夫が焼き上がったパンをトレイに乗せて店の中に運んでくると、みんなが取り囲んた。
「ずいぶんたくさんできたな。」
「ええ・・どれも、とっても美味しそうですね。」
源治も哲夫も満足そうだった。
「さあ、お母さんのところへ焼き上がったばかりのいいにおいのパンを届けなくちゃね。」
加奈が言うと、奈美も裕も嬉しそうだった。
すぐに袋に詰めて、源治たちは母の待つ病院へ向かった。
加奈と哲夫は、奇跡を信じて三人を見送った。

源治は軽トラックを飛ばして、病院へ向かった。車の中は香ばしいパンの香りが漂っている。
すぐに、病室に向かう。廊下じゅうに、パンの香りが広がり、入院患者も見舞いの客も、三人の行く方を興味深そうに見ていた。

病室の中には、看護師がいて、意識の回復のための治療が行われていた。
最初に反応があってから、徐々に反応は強くなっていて、時々、目を開けるようになっていた。
「お母さん、大好きなパンを持ってきたよ。」
加奈が母の枕元にパンの袋を置いた。
偶然なのか、それともパンの香りがきっかけになったのか、わからないが、奈美の母親ははっきりと目を開いた。それは、奈美にも裕にも、源治にもはっきりと判る反応だった。
「お母さん、パンだよ。」
幼い、裕が袋の中からパンを取り出して母の口元へ近づけると、わずかに口が開いたように見えた。
「ほら、食べて!」
裕はパンを母の口へ入れようとした。
「うう・・うう・・」
今度は、呻くような声が漏れる。
「裕、奈美、やっぱり母さんは食いしん坊だ・・食べたいってさ・・。」
源治は、目の前の奇跡のような光景に涙を流しながら言うと、二人を抱きしめた。
看護師がすぐに医師を呼びに行った。
廊下には、パンの香りに誘われたのか、患者や見舞い客が何事かと集まっていた。
「道を開けて!」
医師は、慌てて病室に入っていく。その様子を集まった人たちも見守っていた。
医師は、慎重に診察を終えると、落ち着いた声で言った。
「もう意識は随分はっきりしてきました。この様子なら、大丈夫。1週間もすれば、ある程度、話もできるようになるでしょう。奇跡が起きたとしか言えません。」
「ありがとうございます。」
源治は医師の手を取って涙をこぼして言った。
医師は、枕元にあるパンの袋を覗いた。
「おや、美味しそうなパンだ。これがきっとお母さんの命を呼び戻したんだ。お母さんの命のパンだね。一つ戴いていいかな?」
医師がそう言うと、裕がこくりと頷いた。
医師は、ひょいとメロンパンを摘まんだ。そして、奈美と裕の頭を撫でた。
「命のパンだってさ。」
廊下にいた誰かが呟いた。すると、口々に、『命のパン』と言いはじめ、拍手が起こった。外の騒ぎに気付いて、源治が奈美と裕に言った。
「お母さんはまだ食べられそうにないから・・外にいる人たちにあげよう。」
奈美と裕はパンの袋を持って廊下に出ると、見守ってくれていた人たちに配り始めた。
「ありがとう。きっと病気も治るよ。」
「私にもちょうだい。入院してるお父さんにあげるから。」
人々は大事そうにパンを受け取った。あっという間にパンは無くなってしまった。
「ねえ、おじいちゃん、てっちゃん、また焼いてくれるかな?」
「ああ、頼んでおくさ。だが、ちゃんとお礼を言わなきゃな。」
「うん。」
その翌日から、《命の樹》には朝から多くの客が押し寄せた。
「命のパン、ください。」
事の顛末を知らない哲夫と加奈は、一体、何の事かわからず、皆、嬉しそうに買って行ってくれるのに、只々、驚くばかりだった。

2-1 ギター [命の樹]

1. ギター
12月の上旬の事だった。
加奈は、早くに仕事から戻ると、何だか嬉しそうに言った。
「ねえ、今日は少し早目に店を閉めましょうよ。で・・お買い物に行かない?」
加奈はテーブルを拭きながら言った。哲夫も、外の様子を少し見てから、
「ああ、そうだな。」
「じゃあ・・浜松のトコハモールに行かない?」
トコハモールとは郊外型の大型ショッピングセンターだった。100近くのブランド店が入っていて、関東方面の有名なレストランもあるらしい。
すぐに支度をして、加奈の運転で向かった。トコハモールに着いた時には、もう日暮れ近くになっていた。平日ながら、駐車場は混んでいた。地下駐車場に車を停めると、二人はエレベーターで3階へ向かった。広いモール内は、少し湾曲した通路が二つ、中央は3階まで吹き抜けになっていた。洋服店を何店か覗いて、哲夫はコートを、加奈はセーターを買った。
2階に降りて、雑貨店もいくつか覗いて、写真立てやキッチン用品、店で使うスプーンなどを買った。1階には、楽器店があった。学生時代、哲夫は仲間とバンドを組んでいたことがあった。今でも、古いギターが3台ほどあった。会社勤めになってからは、仕事に時間を取られたことを言い訳にして、ギターから遠ざかっていた。それでも、時折、思い出したように爪弾くことはあったが、演奏というにはほど遠いものだった。
楽器店の前を通り過ぎようとした時、若いカップルがギターを見ているのが目に留まった。二人ともまだ学生のようだった。男の子の方は、吊り下げられたギターを食い入るように見つめている。女の子は、そんな男の子を嬉しそうにみているのだった。
「なんだが、昔の私たちみたいね。」
加奈はふっと漏らすように言った。
「ねえ、最近、ギター弾いてないでしょう?」
「ああ、そうだね。もう古くなったし・・・弦だって錆びたままさ。」
そう言って通り過ぎようとした哲夫の横顔を見て、加奈が言った。
「ねえ、ちょっと見てみましょうよ。」
「ええ?・・でも、もう・・」
「良いじゃない、見るくらい。」
二人は店内に入った。
何か懐かしいにおいがする。奥の方からポロンと誰かが試し弾きしている音も聞こえている。ギターはガラスケースの中に大切そうに吊り下げられているものと、通路に置かれているものがあった。
「ええ?こんなにするの?」
加奈は、ショーケースの中のギターに値札を見て驚いていた。哲夫と同年代の店員が近くにやってきて、微笑みながら言った。
「それは僕らの世代には憧れのギターですよ。今でもなかなか手が出ませんけどね。」
それを聞いて、哲夫もショーケースの中を覗いた。
「あれは、Martin。まだ、安い方さ。ビンテージならゼロがもう一つ付くものだってあるんだよ・・・ああ、こっちにはGibsonもあるね。J-45なんか、一度弾いてみたいと思ってたんだけどね・・・みんな、個性があってねえ・・」
哲夫はそう言いながら、ショーケースの中を食い入るように見始めた。加奈は学生時代の哲夫の事を思い出していた。
「J-45なら、そのうち入荷すると思いますよ。ビンテージじゃありませんけど。」
「いや・・もう弾くこともないだろうから・・。」
哲夫はそう言ってショーケースから離れようとした。
「ねえ、いいじゃない。1台買いましょうよ。新しいギターを買えば、弾くかもよ。」
加奈は根拠のない事を平気で言う。もう10年近く、まともにギターに触っていない。指が動くとも思えなかった。今更新しいギターを買っても無駄になるだけだと哲夫は思っていた。
「ブランドの高いギターだけじゃなくて、最近は結構手ごろな価格で良い音を出すのも増えていますから・・ああ・・これなんか良いですよ。」
店員は、そういうとショーケースを開けて1台のギターを取り出した。
「これ、S-yairiです。Kじゃなきゃって言われる方も多いんですがね・・。確かに、そうかもしれませんが・・こいつはなかなか良いんです。」
店員はそう言うと、軽く構えて、音を出した。久しぶりに聞く生ギターの音だった。哲夫の心がざわついた。
「ね?どうです?・・良いでしょう?中音の伸びが良いんです。高音も結構キレのいい音ですよね。僕はこいつが気に入ってるんですよ。・・ほら、MartinやGibsonとかは超有名、いわば人生の成功者、セレブみたいな感じでしょ?・・K-yairiだって、社長や重役になりましたって感じ。でも、こいつは、報われないけど頑張ってる会社員ってところじゃないですか。」
店員は、哲夫にギターを渡した。
哲夫はそっと構えてみた。遥か昔に忘れていた感覚を思い出していた。ポロンとEmを鳴らした。初めてギターに触れて出した音。少し指先が痛かった。何か熱いものがこみ上げてくる。
「ええ・・確かに、良い音です。良いギターだ。でも・・僕には・・もったいない・・」
哲夫はそう言って、ギターを店員に返した。
「ねえ。これ、買いましょうよ。クリスマスも近いし、早目のプレゼントっていうのはどう?」
哲夫が躊躇している理由は加奈にもわかったが、あえて、加奈はそう言った。
「いや・・良いんだ。もったいないよ。」
「じゃあ、いいわ。私が弾くから・・ねえ、これ下さい。」
店員は、二人のやり取りに戸惑いながらも、じっと哲夫を見て、目線で強く勧めているのが判った。
「判りました。じゃあ、いただきます。」
哲夫は仕方なく承諾した。
商品購入のカードなどを記入しているうちに、ギターの調整も終わり、新品のケースに入ったギターを定員が運んできた。店員は満面の笑顔で、哲夫にギターを手渡しながら言った。
「是非、もう一度、始めてみてください。最近、増えているんです。若い頃を思い出してもう一回バンドを組んでみようっていう方がね。よろしかったら、一度、ご連絡ください。」
店員は小さなカードをくれた。カードには、≪OLD FRIEND CLUB 代表 泉谷拓郎≫と書かれていた。裏には、手書きの地図も添えられていた。
「ここの店員ですけど、趣味で、ライブ喫茶みたいなものもやってるんですよ。土日あたりに、50代の連中が集まって、70年代のフォークロックをうたって騒ぎます。気楽な集まりですから、よろしかったら、奥様と一緒にどうぞ。」
哲夫はカードを受け取ると、ポケットにしまいこんだ。

2-2 パスタ [命の樹]

2. パスタ
「ねえ、そろそろ夕食にしましょうよ。」
「そうだね。」
「今日は、このあたりの店でどう?何が食べたい?」
加奈は、既に店を決めているようだったが、わざわざ哲夫に尋ねる癖がある。こういう時に、哲夫が店を決めると、必ず、不満を言うことになるのが判っていて、哲夫はぼんやりと答える。
「ああ・・・僕はなんでも良いよ。・・加奈は何が食べたい?」
「そうね、じゃあ、あそこ。」
加奈が指さしたのは、パスタの専門店だった。
夕食の時間とあって、店の前には数人、待っている様子だった。
「随分、待つかな?」
「ちょっと聞いてくるわ。」
こういう時の加奈は随分と積極的だ。すぐに戻ってきて、「10分くらいだって。」とうれしそうな表情で言う。
「じゃあ・・ギターを車に置いてくるから、席を取っておいて。」
哲夫はそういうと、加奈から車のキーを受け取って、地下の駐車場に向った。
加奈は、店先の列に並んだ。程なくして、哲夫は戻ってくると、、丁度良いタイミングで席に案内された。
「ここ、結構、有名なお店なのよ。東京とか横浜にもあるらしいんだけど、雑誌でも取り上げられていて、一度来てみたかったの。予約しておけばよかったんだけど、平日だし、大丈夫かなって思ってね。」
加奈はどうやら、ここに来るのが目的だったようだ。
「ディナーセットがお得らしいわ。サラダとスープ、デザートに食後のドリンクもついてるのよ。」
下調べはすっかり済んでいるようだった。
加奈はシェフおすすめの「海鮮パスタ」、哲夫は「サラミピザ」のディナーセットを注文した。
「パスタ屋さんなのに、ピザなんて・・・」
加奈が少し不満そうに言うと、
「せっかく、うちには窯があるんだから、今度、ピザを焼いてみようかと思ってね。こういう店のピザって興味あるじゃないか。」
哲夫はそう答えた。
客は随分多く、席は埋まっているのだが、店内はしっかりした吸音設計になっているのか、随分と静かだった。店員も、上品な色合いのコスチュームで、みな一様に長い髪を一つに束ねていて、柔らかい笑みを浮かべている。料理を運ぶ動作も、静かでゆっくりに見えながらも手際が良かった。随分としっかりの教育されているようだった。
「いいお店だね。」と哲夫が言うと、加奈は、「そうね。評判以上かもね。」と答えた。

しばらくすると、料理が運ばれてきた。
哲夫はピザをじっくり観察して、味わって食べた。
加奈は海鮮パスタのエビにてこずっている様子で、「どうして、こういうのって、殻付のままなのかしら?」と小言を言いながらも、完食した。
食後のコーヒーが運ばれてくると、加奈は「ちょっとおトイレ」といって席を立った。
一人残った哲夫が、コーヒーを飲みながら寛いでいると、二つほど隣の席から声がした。
「もう!知らない!」
若い女の子が、立ちあがって叫んだのだった。静かな店内に声が響いて、一斉に客の視線が集まった。
「落ち着けって!」
若い男の子が周囲の客へすまなそうな視線を送りながら、低い声で言ったが、女の子の方はかなり憤慨している様子だった。
「信じられない!」
「良いだろ。ちょっとくらい贅沢しても。」
「贅沢じゃなくて、浪費でしょ?もったいないって思わないわけ?」
「もったいないって・・・」
「もう、付き合いきれないわ!」
女の子の方は、そのまま席を立って、店を出て行こうとした。
ちょうどそこに、トイレから戻ってきた加奈とぶつかった。
「あら・・あなたは・・。」
加奈がそう言うと。女の子の方もすぐに気づいたのか、軽く会釈をしたが、そのまま足早に出て行ってしまった。少し涙ぐんでいる様子だった。
加奈は、席に戻ると、小さな声で哲夫に訊いた。
「何かあった?」
哲夫は、ちらりと二つほど離れた席を見てから、さらに小さな声で答えた。
「何だか、喧嘩したみたいだったよ。」
「ふうん。」
加奈はそう言うと、哲夫の視線の方を見て、驚いた。
「いやだ!彼、うちの卒業生じゃない。・・ええっと・・確か、安藤君だわ。そうか、さっきのは小久保さんね。思い出したわ。そうそう、二人は付き合っているって噂で聞いたことある。」
席に残っている男の子の方は、天井を見上げ、溜息をついているようだった。
「振られちゃったのかな?」
加奈が興味深そうに言った。
「いや、そんな感じじゃなかったな。行違いっていうかんじだったけどね。」
「行き違い?」
「いや・・想像の範囲だけどね。女の子は、なんだか悲しそうだったし、男の子のほうは仕方ないじゃないかって言いたげだったからね。」
「ふうん。」
加奈はコーヒーを飲みながら、一人残された安藤君の方を見た。
彼は、ぼんやりと遠くを見つめ、ため息をついている。彼女を追いかけようとはしていなかった。
「さあ、帰ろうか?」
哲夫が言って席を立った。
「ええ・・。」
会計を済ませていると、彼も帰る様子で席を立ち、出口へやってきた。随分と落胆した様子だった。


2-3 行き違い [命の樹]

3. 行き違い
「ねえ、安藤君でしょ?久しぶりね。」
加奈は、店の出口で彼を待って声を掛けた。
「倉木先生!・・お久しぶりです。」
彼の表情は少し戸惑っている。先ほどの一件を気にしているようだった。
「どうしたの?元気なさそうだけど・・小久保さんと喧嘩?」
加奈は遠慮なしに尋ねる。
「・・さっきの様子、見てらしたんですか?・・ええ、ちょっと行き違いで・・彼女、怒ると手が付けられませんからね。」
彼の答えに、哲夫はくすっと笑った。加奈と同じだと咄嗟に考えたからだった。
加奈も哲夫の反応はどういうことかすぐに判って、ちらりと哲夫を睨んだ。そして、再び、彼の方を見て訊いた。
「いったい、どうしたの?」
「まあ・・その・・」
彼は言葉を濁している。
「加奈、良いじゃないか。立ち入る事じゃないし・・恋人同士ならよくある事じゃないのかい?」
哲夫は彼の様子を察して口をはさんだ。
「あら、どうして?教え子なのよ。それに、小久保さん、泣いていたみたいだったし。可愛い教え子が悲しい思いをしているのをほっておくことはできないわ。」
哲夫の一言は逆効果だった。加奈はこうなると手が付けられない。
「どうして、彼女を泣かせるの?浮気でもした?それなら許さないわよ!さあ、白状しなさい!」
加奈は一度思い込むと後に引かない性格だった。
「いえ・・浮気なんて・・そうじゃないんです。僕はただ、彼女を喜ばせようと思っただけなんです。」
哲夫は彼に同情しながら聞いていた。
「喜ばせようとして、なんで泣いてるの?だいたい、店を出て行ったのに、何で追いかけないの?すぐに追いかけて、謝るべきでしょう!」
モール内の通路には客がたくさん歩いている。その中で、大の大人が怒られている様子は、余りにもみっともない。哲夫は少し強い口調で言った。
「加奈!いい加減にしないか!彼の言い分も訊こう。・・ああ、そうだ、そこの喫茶店に入って・・。」
哲夫は強引に、加奈と彼を、パスタ店の向かいの喫茶店に連れて行った。

「もうすぐ、クリスマスでしょう。それに、イブの日は彼女の誕生日なんです。それで、彼女を喜ばそうと思って、海の見えるお店でディナーの予約をと考えたんです。」
「海の見える店って・・あの・・ラ・メールっていうお店?」
加奈はこういう情報には長けていた。
「ええ、そうです。でも、12月の勤務シフトが判らなくて、ようやく休みが取れることが判ったんで予約したんです。」
安藤は、福祉機器の会社に就職していた。土日祝日も仕事が入るようで、月ごとの勤務シフトはぎりぎりにならないと判らないようだった。彼女は、専門学校を出た後,ヘルパーの仕事に就いていた。
「・・でも、そんな時期じゃ、あそこの予約は難しいでしょう。人気のお店だもの。」
「ええ・・普通の席は予約一杯でした。でも、特別室ならOKだったんです。」
「特別室?」
加奈は興味深そうに訊いた。
「夜景が見える最上階の展望室です。でも、一人5万円でした。・・でも、せっかくだから、そこを予約したんです。彼女も喜んでくれるだろうって思ったんですが・・・。」
「5万円!」
加奈は目を丸くして驚いていた。
「・・・いったいどういう料理が出るの?有名シェフの高級料理に、ビンテージもののワイン?ディナーショーだって行けるわよ。・・・信じられない。そんなのもったいないでしょ?」
「ええ、彼女も同じことを言いました。でも、それくらい贅沢したっていいじゃないですか?」
「いえ、それは贅沢じゃないわ。浪費よ。・・よく考えてごらんなさい、5万円ものお金を稼ぐのにどれくらいきつい仕事をしなきゃいけない?・・ヘルパーの仕事がどれくらいの時給か知ってる?お金が有り余ってる人なら良いんでしょうけど・・・・信じられないわ。」
加奈はあきれた表情で彼を見た。
「彼女も、先生と全く同じことを言いました。」
安藤はうなだれた表情で答えた。
「あのね、安藤君。彼女の事、どこまで判ってる?」
「え?」
安藤はきょとんとした表情をして加奈を見た。
「彼女、お母さんを早くに亡くしているのよ。お父さんも病気がちで、学校に通っていた頃も、あまり具合が良くなくって学校をやめなければならないって何度か相談されたことがあったのよ。」
「お父さんの具合が良くないっていうのは聞いています。病院通いでお金がかかるって・・。」
「そうよ。私も、その時は、奨学金を活用する事を勧めたり、少しでも収入の良いアルバイトを紹介してあげたの。彼女、頑張って、頑張って、卒業したのよ。でも今も、お父さんの事があって、少し時間の融通の利く、契約ヘルパーをしているの。本当はもっと、収入のいい就職口もあるんでしょうけど・・・本当に、彼女はお金に苦労してきたのよ。」
「ええ・・知ってます。だからこそ、贅沢な時間をって思ったんです。・・。」
「それは違うわ。・・もっと堅実に考えてほしいはずよ。・・安藤君だって、学生の頃はそうだったでしょ?・・私、知ってるわよ。本当は東京の大学へ行きたかったけれど、家族の負担が大きいからって、地元の専門学校にしたって。小久保さんから聞いたの。あなたのそんなところが良い、自分と価値観が合うって彼女も言ってたのよ。」
哲夫は加奈が専門学校でどんなふうに仕事をしているのか、これまで余り訊いたことがなかったが、介護技術の講師としてだけではなく、随分、学生たちにも慕われているのだろうと思った。
「安藤君、僕も、5万円というのはちょっとどうかと思うよ。でも、なにか訳があるんじゃないのか?」
哲夫が口を挟んだ。
まだ就職したばかりの若い男が、それほどのお金の価値が判らないとは思えなかった。むしろ、それほどのお金をかけても良いと考えた理由があるに違いないと想像したのだった。
安藤は哲夫の質問にドキッとした表情を浮かべた。

2-4 貸切の空間 [命の樹]

4. 貸切の空間
安藤は、哲夫の質問に、観念したように答えた。
「実は・・その日に、彼女にプロポーズをしようと思っていたんです。」
「まあ・・プロポーズ、そうだったの。」
加奈が驚いて言った。
「気持ちは判るよ。特別な時間を作りたかったんだよね。無理してでも・・判るよ。男ってそういうもんだよね。」
「どうしたら良いんでしょう?」
安藤は、哲夫にアドバイスを求めた。
「さあ・・僕にも分らないさ。・・女性の心の中って複雑だから・・。」
加奈は、「プロポーズ」という言葉に強く囚われているようで、哲夫が呟くように言う言葉は、加奈の耳には入っていなかった。
二人の男を前に、加奈は少し妄想の世界へ入っているような表情をしていた。
「そうねえ・・・プロポーズなら、思いっきりロマンチックにしなきゃね。でも、お金をかければいいってわけじゃないわ。二人にとってそれが如何に素敵な時間かが大事なのよ。・・・」
「お金をかけないで・・って、そんなことできるでしょうか?」
安藤が訊いた。
「できるわよ。・・でも、まずは、その高い高いレストランの予約はキャンセルね。」
「でも・・それじゃあ・・。」
加奈は少し冷めてしまったコーヒーをグイっと飲むと力強く言った。
「私に任せなさい!」
加奈のこの言葉に哲夫は一抹の不安を覚えた。
加奈は今でこそおっとりとした性格だが、若い頃は思い込むととことん突っ走るところがあったのだ。何だか久しぶりにその性格に火が付いたようだった。
「実はね、うちは小さな喫茶店をやっているの。うちの店、あなたたちの貸し切りにするわ。」
加奈は思い切った提案をした。これには哲夫も驚いた。
「え?貸切?でも・・そんな・・。」
「いいのよ、どうせ、それほどお客さんがたくさん来るわけじゃないし、夜は普段は営業していないんだから。」
「いえ、そんな。貸し切りなんて・・。」
安藤も戸惑っているようだった。
「おい、加奈、それはどうかな?ちょっと、安藤君の気持ちも考えた方がいいんじゃ・・」
哲夫も、安藤の心中を察して言葉を添えた。
「大丈夫。お金は要らないわ。」
「いや・・お金の問題じゃなくてさ・・」
「可愛い教え子のためにひと肌脱ごうって言うんでしょ。いいじゃない。」
哲夫はそれ以上何も言えなくなった。
「良いわよね?」
加奈はもう承諾しなければ許さないという勢いで言った。
「お願いします。」
安藤はやむなく承諾した。
既に、加奈の脳裏にはいくつかのアイディアが浮かんでいるようだった。
「じゃあ、小久保さんに、ちゃんと謝って、イブの日の約束を取っておいてね。」
「はい。」
安藤はそう言うと、すぐに喫茶店を出て行った。

安藤と別れて、哲夫と加奈は地下駐車場に行くと、家路についた。
車中、哲夫は加奈に尋ねた。
「いいのかい?何だか、無理矢理って感じだったけど。」
加奈はハンドルを握って前を向いたまま答えた。
「そう?・・・大丈夫よ。」
「妙に、二人に入れ込んでるって感じだけど・・。」
「そうかもね。あの子たちが学生だった頃、二人とも熱心でまじめな学生だったの。今では珍しいくらい、学校とアルバイトで忙しくしていたのよ。特に、小久保さんは何度も相談に乗ったことがあって・・卒業した時は本当に嬉しかったわ。」
そう言えば、加奈も苦学生だった。
親からの仕送りは少なく、奨学金とアルバイトで4年間過ごしていた事を哲夫は思い出していた。そして、大学の同級生の中では、だれよりも勉強熱心で、真面目な学生であった。
要領だけ良くて、4年間、するすると進級し卒業した哲夫を見て、学生時代は、かなりのコンプレックスを抱き、何かと衝突していたのだった。
「だが…僕たちだけで満足させることができるかな?」
「それは無理よ。・・まあ、私が、そこは何とかするわよ。」
「僕も手伝うよ。」
「駄目!今回は、あなたは手出ししないで。絶対、無理することになるんだから。・・普段通りで良いんだからね。」
12月の中旬になると、学校も冬休みに入り、加奈も家にいるようになった。
そんな日の朝、食事を終えた加奈は身支度を整え始めた。
「午前中、ちょっと出かけていい?」
「ああ・・大丈夫だ。このところ、お客も少ないしね。」
「ごめんね・・何かあったらすぐに連絡してよ!」
加奈は、そう言い残すと、足早に出かけていった。
何をするつもりか、哲夫は気になったが、あえて尋ねなかった。
昼過ぎになって、加奈が戻ってきた。
「ねえ、あなた、ギター買ったんだから、イブの日に二人に聴かせる曲を用意しておいてね。」
突然無理な注文をされた。
「今からか?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと練習すれば、昔みたいに弾けるようになるわよ。」
加奈は、何の根拠もない励ましの言葉を口にする。
翌日は、午後になって、加奈はどこかへ出かけて行った。店を出て行く加奈を、石段の上から、哲夫がそっと見ていると、車に乗る前に、カバンの中から手帳を取り出して、何かを確認しているようだった。そして、運転席に座って、どこかへ電話をしているのが見えた。


2-5 準備開始 [命の樹]

5. 準備開始
5日前に、加奈が大きな段ボールを抱えて戻ってきた。
「これで飾り付けをしましょう。ほら、最近流行りのイルミネーション。周りの樹を飾り付けるの。・・ああ、あなたは無理しないでね。手伝いは頼んであるから。」
午後、若い娘たちが3人やってきた。
「先生!何すればいいんですか?」
やってきたのは、加奈の教え子たちのようだった。
どうやら、加奈の企てに巻き込まれた様子だった。娘たちは、わいわい言いながら、イルミネーションを箱から取り出して、飾りつけを始める。
「ねえ、脚立ってあったかしら?」
「ああ・・倉庫にあるはずだよ。取って来ようか?」
「いえ、良いわ。あの子たちにさせるから・・。」
「判るかな?・・いいさ、ちょうど、パンの材料も持ってくるから。」
そう言って、哲夫が倉庫に向かうと、娘たちも付いてきた。
教え子たちは、哲夫を興味深そうに観察した。
「加奈先生のご主人ってどういう方なのか、前々から、興味があったんです。」
若い娘たちは、遠慮なしの言葉を発して、哲夫を評価する。
「もっとおじいさんだって、思ってました。」
「え?もっと若い人だって、聞いてたんだけどね。」
「いい加減にしなさい!」
時折、加奈が教え子たちをたしなめるように言ったが、若い娘たちの会話は留まることはなかった。
哲夫は、飾り付けの様子を見ながら、翌日のパン焼きのための作業を続けた。
奈美の母親の一件以来、哲夫のパンは、《命のパン》と呼ばれるようになっていて、買い求めにやってくる客が増えたのだった。

夕方には、ほとんど作業は終わったようだった。
電源を入れると、夕闇の中で、飾り付けたイルミネーションがきれいに輝き始めた。
一瞬、皆が息を飲んだ。
「わあ、素敵!」
しばらく、みんな、イルミネーションの光に魅せられたようだった。
「ねえ、倉木先生。イブの日って貸切だって言ってたけど、私たちも来ちゃダメ?」
「彼氏とデートじゃないの?」
「先生、彼氏なんていませんよ。だいたい、毎日、宿題ばかりでそんな暇ないんですから!」
「あら、そうなの?」
「ねえ、先生。貸し切りって・・遅い時間ならどう?」
「約束だからねえ・・。」
「じゃあ、さあ、お客じゃなくて、何かエンターテイメントってことでどう?」
意味の分からない提案だった。
おそらく、歌でも歌うつもりかもしれない。
「そうねえ・・じゃあ、クリスマスキャロルでも歌ってもらおうかしら?」
加奈が半分冗談で言うと、「決まり!」と娘たちは盛り上がった。
駐車場からの石段にもイルミネーションが付けられた。

3日前には、大きな貨物トラックが一台やってきた。見覚えのあるアウトドア用品の店のマークがついている。娘たちが幼い頃、家族でキャンプに行ったが、その時に、アウトドア用品の揃え方を丁寧に教えてくれた店だった。
「すみません。ご注文いただいた品をお持ちしました。」
「ご苦労様、お願いします。」
若い配達員は丁寧にお辞儀をすると手際よく荷物を降ろし始めた。
かなりの量の品物がある。次々に段ボールが開かれ、庭に、椅子やテーブル、パティオタープなどを手早く、配置していく。
「おい、加奈、これは、どういうことだい?」
哲夫は、その様子に満足げな加奈に聞いた。
「店の中でも良いかなって思ったんだけどね・・・二人っきりの空間ってなかなか難しいでしょ。どうしても、私たちの存在が気になるっている気がしたのよ。それなら、星空の下の静かな場所を作ろうって思って、ちょっと相談したら、こんなになっちゃった。」
イルミネーションの前に、白いパティオタープが立ち、その中に白いテーブルとイスが置かれている。周囲にはソーラーランタンがいくつも掛けられた。バーベキューコンロや、暖を取るための焚火のできる場所も作られた。
「こんなになっちゃったって・・・。」
「ちょっと大袈裟かなあ・・・。」
「まあ、いいさ。暖かくなったら、テラス喫茶というのもありかもな。だが、寒くないかな?」
「まあ、そこは何とかなるんじゃない?」
「そんなもんかね?」

日が暮れてから、試しに、明かりを点けてみた。
パティオタープの四隅にあるランプの灯りを点けると、周囲は一気に暗闇が深くなる。
哲夫と加奈はテーブルに着いてみた。周囲にはイルミネーションの灯りがちらちらと光り、周囲の音が静まり返るように感じた。まったくの異空間に入ったように感じられた。
「うん、良いかもな。」
「そうでしょ?・・で、ここに料理が並んで・・そうだ、今日はここで夕食にしてみましょう。」
すぐに夕食の支度をして、順番にテーブルに並べた。
「やっぱり、良いわね。ほら、お店の灯りもそんなに気にならないし、意外と寒くないわ。」
「うん・・良いだろう。でも、当日、温かい料理を出さないとねえ。何か、メニューは決めてるの?」
「そうね。お鍋っていうのもちょっと雰囲気とは違うし、オードブルもねえ、気の利いた料理が出せるわけもないし・・どうしようかな・・。」
加奈にはまだアイディアがあるわけでも無さそうだった。
目の前には、カレーが並んでいた。
「温かいスープ・・いや、シチューが良いかな。チーズフォンデュってのはどう?」
哲夫は、カレーを口に運びながら言った。
「そうねえ・・。」
その日にはメニュは決まらないままだった。


2-6 2日前 [命の樹]

6. 2日前
約束の日の二日前、この日は、年内最後の保育園へパンを届ける日だった。
いつものように、パンを保育園に届けた後、哲夫と加奈は水上医院へ行った。パンを届ける日は、哲夫の定期検査の日でもあった。
「あれから発作は起きていませんね?」
白衣を纏った結が、カルテを見乍ら訊いた。
「ええ・・。」
「無理はしていないですね。」
「・・ええ・・特には・・。」
哲夫は、検査の後、点滴のために処置室の奥のベッドに横になっていた。
点滴が終わるまで、加奈が待合室にいると、結が出てきた。
「加奈さん、お店で何かイベントでもあるんですか?」
「え?」
「いえ、この間、大きなトラックが店のほうへ入って行ったみたいだったし・・お店に行った患者さんからも、庭にテントが張ってあったって・・。」
「あら、そうなの。・・ええ・・ちょっと教え子のためにひと肌脱ごうと思ってね。」
加奈はそう前置きすると、一通り、これまでの経緯を話した。

「へえ、良いですねえ。何だか、楽しそう。ねえ、加奈さん、私にもお手伝いできることはありませんか?」
「そう、手伝ってくれる?・・じゃあ、お願いしたいことがあったのよ。」
加奈はそう言って、結の耳元で何やら話した。
「え?・・上手く出来るかしら?」
「きっと、素敵よ。お願い。」
「わかりました。でも、おじさん、無理してるんじゃないですか?ただ見てるっていうのができない性分でしょうから。」
「そうなのよ。どうしたら良いかしらね。」
「それなら、幸一さんにも手伝って貰ったらどうでしょう。力仕事なら、何かできるでしょう?」
「じゃあ、薪作りをやって貰おうかしら。少しずつやってきたんだけど、どうしても力仕事がねえ。」
「それが良いわ。きっと彼も喜んで手伝ってくれるはずです。すぐに話してみますね。」

1時間ほどで、哲夫の点滴が終わると、二人はすぐに店に戻った。
「なあ、加奈。パーティにも使うから、薪をもっと作らないきゃいけないんだけど。」
「ええ・・そうね。外でも使うから、たくさん必要よねえ・・・。」
「ああ。」
「体調はどう?」
「うん、今日は点滴をしたばかりだからね。まだ、余り気分が良くないんだよ。」
水上医院で受ける点滴治療は、新薬の抗がん剤が入っていて、その日は暫く気分が悪いのだった。
「無理しない方が良いわ。」
「そうだなあ・・。」
「少し横なっていた方が良いわ。今日は定休日なんだし・・ね?」
そこへ、幸一が店に顔を出した。
「こんにちは。お手伝いに来ました。」
「え?手伝い?」
「ええ、さっき、結から連絡があって、手伝いが欲しいって、加奈さんから・・。」
「手伝いって?」
哲夫はどうしたものかと考えた。そこへ、加奈が2階から降りてきた。
「あら、幸一さん、もう来てくださったの?哲夫さん、結ちゃんがね、体に負担を減らした方が良いから、何か幸一さんに手伝って貰ったどうかって言ってくれたのよ。」
「そうか。ならば、薪作りをお願いしようか。」
「ええ、力仕事なら大丈夫です。」
「幸一君、チェーンソーは使ったことある?」
「いえ・・。」
「じゃあ、教えるから・・。」
哲夫は幸一を連れて、倉庫に行き、チェーンソーを取り出して一通り、扱い方を教えた。
「薪にする木は、下の道にある倒木なんだ。大きいけど、これを使えば大丈夫。頼むよ。」
「はい。判りました。」
すぐに幸一はチェーンソーを抱えて倉庫を出た。
哲夫は、ふと倉庫の中で昔使っていたアウトドア用品が目に留まった。
哲夫は、倉庫を出ると、すぐに加奈を呼びに行った。
「なあ、加奈。料理の事だけど・・もう、メニューは決まったかい?」
「いえ・・ちょっと悩んでるのよ。・・」
「そうかい。ちょっと見てもらいたいものがあるんだ。」
哲夫はそう言って加奈を倉庫に連れて行った。
「これを使ったらどうかな?」
哲夫が取り出して見せたのは、ダッチオーブンだった。
子どもたちが小さい頃、キャンプの時に何度か使ったもので、焚火で調理ができる。
材料さえしっかり味付けすればある程度美味しく出来るはずだった。それに、寒さ避けにもなる。
「これで、グリルチキンとかどうだろう?クリスマスだし、チキン料理っていうのもいいだろう?」
「そうね。使えそう。じゃあ・・グリルチキンと・・そう、ミネストローネスープにしましょう。きっと温まるわ。あとは少しオードブルを用意して・・。」
「ダッチオーブンは僕がやろうか?」
「いえ、いいわ。それは、安藤君にやってもらうわ。きっとその方が良いわ。」
加奈はそう言うと、ダッチオーブンを運び出していった。
夕方近くになって、幸一が薪作りをひと段落させて、店に顔を見せた。
「哲夫さん、薪は裏の軒下に積み上げておけばいいんですよね。」
哲夫が裏へ回ってみると、随分たくさんの薪が積み上がっていた。
「随分と頑張ったね。」
「ええ・・チェーンソーを使ってみると意外に楽しくて・・。つい夢中になってしまいました。でもこれでもまだ半分くらいです。また、明日も来ますから。」
幸一はそう言って満足そうに帰って行った。

2-7 前日 [命の樹]

7. 前日
前日になった。
哲夫は、いつものようにパンを焼き、店の準備をしていた。
明日は臨時休業にする事にしていたから、いつもより多めにパンを焼いた。
パンだけを買い求めに来る常連客が増えたこともあって、1週間ほど前から臨時休業の案内をして「予約」を取らざるを得ない状態だった。
予約の数は相当あって、今日だけはかなり朝早く起きてパン焼きを始めたのだった。前日には、加奈が心配して、生地づくりから成型までを手伝ってくれた。

「おや、今日は早くからパン焼きを始めたんだねえ。」
早起きの与志さんが、久しぶりにパン焼き窯のある裏手に顔を見せた。
「ええ・・ちょっと明日、臨時休業にすることになったんで少し多めにパンを焼かなくちゃいけなくって・・。」
「臨時休業って・・また、入院かい?」
「いえ・・そうじゃないんです。」
哲夫はそう言うと、明日の貸切りパーティの話をした。
「へえ、何だか楽しそうだねえ。」
「ええ・・もう加奈は張り切っていて、ここ数日飛び回っていましたよ。学生やら、結ちゃんや幸一君まで巻き込んで、準備していて、すっかり、僕の出る幕はないんですよ。」
哲夫の口調から、与志は、哲夫がその準備に余り関わらせてもらっていない事を淋しく感じていることを察した。哲夫は、加奈が与志に病気の事を話している事は知らなかった。与志もあえてそのことを口にはしないようにしていた。
「そうかい。・・まあ、明日は天気も良さそうだし、無事にできるだろうよ。てっちゃんは、とりあえず、何かあった時の保険みたいなもんだろ?・・悠々と構えておいたらどうだい。」
「まあ・・そうですね。」
パンが焼きあがってきた。
「与志さん、どうぞ。」
哲夫はいつものように、紅茶を煎れ、焼き立てのパンを与志に振舞った。
「うん・・相変わらず、美味いねえ。・・そう言えば、てっちゃんのパン、命のパンって呼ばれてるんだってね。」
「止して下さいよ。そんなもんじゃありませんよ。ただ、偶然、そうなっただけです。それに、そんな評判のせいで、随分忙しくなっちゃったんですから・・もう、そろそろ、収まってくれると良いんですけどねえ。」
哲夫はそう言いながらもまんざらでもないようだった。
「人のうわさも・・って言うじゃないか。そのうちに収まるさ。だが、これだけ美味いんだもの、客は増えるんじゃないかな?」
「いやあ・・それは困っちゃうなあ。」
与志は、哲夫の表情を見ながら考えていた。病を押してパンを焼く事がいつまで続けられるのだろうか、体力も気力も尽きる時がいずれ来るだろう。そのことをわかっていて、パンを焼く哲夫の心中を思うと思わず与志は涙ぐんでしまった。
『いや・・これはてっちゃんの命を削って作ったパンなんだよ。だから、命のパンに違いないんだ。』

「あれ?与志さん、どうしたんですか?」
「いや・・今日は煙が寄ってくるみたいだね・・天気が悪くなるんじゃないだろうね?」
与志は、哲夫に涙を見せまいと、すっと立ち上がり空を見上げる。
哲夫も空を見上げた。

そこへ、加奈が身支度を済ませて、顔を見せた。
「おはようございます、与志さん。・・ああ・・ごめんなさい、しばらく、畑の手伝いに行けなくて。」
「なあに・・大丈夫さ。もともと一人でやってたんだ。それにもうほとんど片付いたからね。それより、明日、なんだか楽しいことがあるみたいじゃないか?」
加奈は哲夫を見た。
哲夫は、小さく頷いて、与志さんに話したことを知らせた。
「ええ・・可愛い教え子のために、ちょっとお手伝いをね。」
「そうかい。」
「良かったら、明日の夜、与志さんもおいでください。8時くらいにはたぶん、大騒ぎのクリスマスパーティになってるはずですから。」
「良いのかい?・・じゃあ、ちょっと顔を出してみようかね。ご馳走様。」
与志さんはそう言うと畑に戻って行った。
与志さんを見送りながら、哲夫が加奈に言った。
「おい、加奈、大騒ぎのクリスマスパーティってどういう事だい?」
「二人の貸切の時間が終わったら、クリスマスパーティにするのよ。お手伝いの人もたくさんいるんだし、はい、お開きってわけにはいかないでしょ?ねえ、ピザも欲しいんだけど・・焼いてくれる?」
「ピサ?」
そう言えば、こんなことになったのは、トコハモールのイタリアンレストランに行って、パスタとピザを食べたからだった。あの店に入らなかったら、こんなふうにはなっていない。
「ああ・・判ったよ。準備するよ。」

10時になっていつものように開店すると、パンを買い求める客が訪れ始めた。
「命のパン」の噂が広がってから、喫茶店の客よりもパンを買いに来る客が多くなってしまい、ついに、玄関の横に机を並べて、パンを売るようになっていた。臨時休業の前、予約客は随分多く、入口の石段に列ができてしまうほどだった。
喫茶の客は、哲夫が相手をして、加奈は玄関先でパンを売る。いつもよりかなり多く焼いたはずなのだが、昼前にはほとんど残り少なくなっていた。
「ねえ・・哲夫さん、もう少しパンを用意しないといけないみたいなんだけど・・。」
午後にも買い求めに来る客はいるはずだった。
「ああ・・そうだね。じゃあ、午後にもう一度焼くよ。午前中はもう無理だから。・・下の看板を変えてきてくれないかい?」
「判ったわ。」
加奈は、客が途切れたのを見計らって、石段を下りていって、看板に「午後は3時くらいに焼き上がります。」と書いた。

2-8 秘密 [命の樹]

8. 秘密
「何だか今日は賑やかですね。」
幸一が昨日の薪作りの続きにやってきた。
「悪いね、今日もよろしく頼む。」
厨房の中から、哲夫が手を休める暇もなく言った。
パンは、午前中でほぼ完売となり、ランチ目当ての客も途切れた時間に、追加のパン焼きもあり、結局、4時ころまで随分と忙しい日となってしまっていた。
「何だか、疲れたな・・。」
洗い物を終えたところで、哲夫が呟いた。
加奈は、最後の客の相手をした後で、外の石段辺りの掃除をしに行った。

哲夫は厨房に置かれた丸椅子に腰を下ろそうとしたところで、急に眩暈を覚えた。ふわふわとした感覚が体を包んで、地面が揺れているように思った。そして、そのまま、床に蹲って動けなくなってしまった。

「哲夫さん、終わりました。」
そこへ、幸一が戻ってきた。
返事がないのを不審に思った幸一は、厨房の中を覗いた。そこには蹲ったままの哲夫が居た。
幸一は、すぐに酸素ボンベを哲夫の口元に当て、脈をとる。哲夫はわずかに反応した。
幸一は、哲夫を背負うと2階の部屋へ運び、ベッドに下ろすと、備え付けの医療鞄を開き、強心剤を打った。幸一は一通りの処置を済ますと、結に電話した。
「結、哲夫さんが発作だ。・・・いや、大丈夫だ。・・・・ああ、さっき、強心剤を打ったから・・もうすぐ意識が戻ると思うんだが・・ああ・・判った・また、連絡するから。」
幸一は結と何か約束をしたようだった。

暫くすると、哲夫の意識が戻った。
「大丈夫ですか?何処か、痛みはありませんか?」
幸一が問いかけると、哲夫は少しだけ顔を向けた。
「すまない。」
小さな声で哲夫が言った。
「いえ、それより、気分はどうですか?」
「ああ、良くなってきた。・・・ありがとう。」
「さっき、結に連絡しました。いえ、大事はないだろうと伝えておきましたから。少し、無理された
みたいですね。しばらくは安静にしていないと駄目ですね。」
哲夫は天井を見上げ大きく息をついた。
「明日は、大事な日なんだ。」
ぼそりと哲夫が言う。
「ええ。」
「すまないが、このことは、加奈には内緒にしておいてくれないか。発作が起きたと知れば、加奈が気を揉むだろう。中止にすると言い出すかもしれない。今日まで、随分と、走り回って準備をしてきたんだ。こんなことで迷惑をかけたくない。」
「しかし・・。」
「・・ちょっと疲れたから横になってると言っておいてくれないか?」
「そんなこと・・・・。」
「頼むよ。明日のお客は、加奈の教え子でね、交際している子にプロポーズをするつもりなんだ。」
幸一は、プロポーズという言葉を聞いて、他人事ではない、いずれは、いや、近いうちに自分も結にちゃんとプロポーズをしようと考えていたところだった。
「判りました。結も、きっと哲夫さんは内緒にしてくれっていうはずだと。」
「そうか・・すまない。」
「明日は、僕も結もお手伝いに来ます。少しでも体調に異変を感じたらすぐに言ってくださいよ。」
「ああ・・そうさせてもらうよ。」
哲夫はそう言うと目を閉じて眠った。

幸一が1階に下りてくると、ちょうど、加奈が掃除を終えて玄関から入ってくるところだった。
「あら、幸一さん?哲夫さんは2階?」
「ええ・・ちょっと疲れたから休むって・・。」
「え?大丈夫?発作じゃないの?」
加奈は一気に心配な表情に変わった。
「いえ・・今、診察をしてみましたが・・大事はなさそうです。店が忙しかったんでしょう?睡眠不足もあったみたいです。」
「大丈夫なのよね?」
「ええ・・念のために、栄養剤の注射を打ちました。すぐに眠られたようですから、暫く静かにしておいたほうが良いでしょう。」
加奈は、幸一の説明を吟味するように聞きながら言った。
「そう・・そうよね・・まあ、優秀なお医者様に診てもらってるんだから、大丈夫よね。」
加奈はそう言いながら、それでも、やはり不安げに2階を見上げた。
「明日は、僕も、結も、朝からお手伝いに来ます。何か異変があればすぐに対応できますから、安心してください。それより、準備はもう良いんですか?」
加奈は、幸一にそう問われて、周囲を見回した。
「そうね・・だいたい・・終わったかしらね。」
「明日は楽しみですね。」
「ええ、でも、準備している最中も楽しかったわ。いろんな人が快く引き受けてくださって。」
「今まで、加奈さんや哲夫さんが良い関係を作って来られたからでしょう。」
「そうなのかしらね・・。まあ、哲夫さんは随分変わったわね。いろんな人にお節介をやくなんて昔なら考えられなかったことなのよ。」
「へえ、そうなんですか。でも・・結の事は・・。」
「結ちゃんは特別かもね。実は、あの事件で大怪我をして以来、臆病になっていたというか・・私たちが随分悲しんだり、心配したりしたものだから、他人との関わりを持つのを躊躇うようになったんじゃないかって・・」
「そうだったんですか。」
「・・ああ、そうだ。幸一さん、ちょっと手伝ってくれる?テーブルとソファを動かしたかったの。明日はたくさんの方がみえるはずだから。」
「ええ・・良いですよ。力仕事なら何でもやりますから。」
二人は店内の椅子とテーブル、ソファを移動させて、パーティ会場のようにした。

2-9 当日の朝 [命の樹]

9. 当日の朝
当日、朝早く、安藤が店にやってきた。
「これは・・、こんなに準備してもらって・・・」
安藤は、庭一面に広がったパーティの支度に驚いている。
「ね、貸し切りって言っても、特別な何かがあった方が良いでしょ?」
「ええ・・もう充分です。これならきっと彼女も喜ぶはずです。」
安藤は感激している。
「何言ってるのよお!これは、私たちからのプレゼントなの。本当に大事なのは、これからよ。あなた自身が頑張る番なのよ!」
「え・・これから?」
不安げに言う安藤に向かって、加奈は楽しそうに言った。
「うちはね、もともと、サンドイッチとコーヒーしかない喫茶店なのよ。立派なシェフがいるレストランとは違うの。だから、気の利いたメニューなんかないから、今から、一緒に準備するわよ。」
加奈は妙に張り切っていた。哲夫は、厨房で皿を洗っている。昨夜の発作は何とか大事に至らずにすんだようだった。
そこへ、結と幸一が顔を出した。
「おはようございます。」
「あら、早いわね。」
「ええ、せっかくなんで、何かお手伝いができればって思って。」
結は、そう言いながら、哲夫の様子を気にしている。加奈も結の様子に気づいたようだった。
「じゃあ、せっかくだからお願いしようかしらね。じゃあ、結ちゃんは、まず、哲夫さんの診察をしておいて。今日はいろいろと出番もあるはずから、万全の体調にしておいて貰わなくちゃいけないからね。」
「はい。」
「それで、幸一さんは、哲夫さんを手伝ってもらって良いかしら。・・ピザも焼いてもらいたいし、庭の焚き火の準備もあるのよ。良いかしら?」
「ええ、任せてください。・・ああ、そうだ。夜には親父たちも来たいって言ってたんですけど良いですか?」
「あら、そう。じゃあ8時すぎにどうぞって伝えて・・。」
「判りました。」
朝から加奈は随分テンションが高い。
てきぱきと指示するところはおそらく仕事柄、身に付けたもののようだった。
「じゃあ、安藤君、買出しに行くわよ。哲夫さん、後はお願いします。」
「ああ、判った。・・ピザは、何人分かな?」
哲夫の問いに、加奈は少し考えてから言った。
「できるだけたくさんが良いかな?きっと、夜中には大騒ぎになるだろうから・・。」
加奈は、妙な言葉を残して、安藤を連れて出かけて行った。
哲夫と幸一、結は、安藤を引き連れて意気揚々と出かけていく加奈を見送った。

「できるだけたくさんって、・・・なんだか、ちょっと不安だな。」
哲夫は独り言を言いながら、厨房に入ろうとした。
「おじさん、まずは診察です。」
「ああ、そうだったね。」
哲夫と結は、一旦2階の寝室へ入った。哲夫をベッドに横にして、結は脈を取り、聴診器を当てる。一連の診察はいつもの手順どおりだったが、その最中、結は一言も口を利かなかった。
「どうだい?」
一通り終わってから、少し暢気な言い方で哲夫が訊いた。
すると結は眉間に皺を寄せて、キツイ口調で言った。
「どうだい?じゃないわよ。どうして無理するんですか!昨日は幸一さんが居たから良かったけれど、もし誰も居ないところで倒れてたら・・どうして、自分の命をもっと大切にしないんですか!そんなに、加奈さんや私を泣かせたいんですか!」
結の声は階下にまで響いた。
幸一は驚いたものの、こうなる事は想定済みだった。いや、加奈さんが知るところとなればこの程度では済まないだろうと思っていた。
「済まない・・だが、たくさんの人がパンを買ってくれるんだ。何とかお答えしたいって思って、つい張り切りすぎた。済まなかった。」
神妙な面持ちで哲夫は答える。
「命のパンとか呼ばれてるんでしょ?知ってます。でも・・それって、おじさんの命を削って作ったパンじゃないですか。そんなの駄目です。もう、やめて下さい。」
「しかし・・。」
「ドクターストップです。どうしてもパン焼きをしたいのなら、週に1回とか2回とかにしてください。今みたいに、毎日焼くなんて、駄目です。それと必ず加奈さんと一緒にやるようにして。決して、一人でやらないように。じゃないと許しません。」
結の言葉は、聞き分けのない子どもを諭すように聞こえた。
「判った。これからはそうするよ。もう良いかな?」
哲夫はそう言うとベッドから起き上がった。
「もう・・おじさん、ちゃんと約束してください。」
「ああ、約束するよ。」

階下に下りると、幸一が軍手をつけ、薪を運び始めていた。
「これくらいで足りますか?」
庭のテント脇に設えた、焚き火用コンロにかなりの薪が積み上がっている。
「もう充分だよ。・・待てよ、たくさん人が来るって言ってたよな。・・そうか、ならもう少し大きなコンロを作った方が良いかな?幸一君、済まないが、コンロをもう一つ作ろう。手伝ってくれ。」
哲夫はそう言うと倉庫へ向かった。倉庫の横には煉瓦が積み上げられている。
「いずれは、もう一つ花壇を作るつもりで買ってあったんだ。後で、花壇にもなるように並べよう。」
結も軍手をつけて煉瓦運びを手伝った。哲夫が煉瓦を運ぼうとすると、結が取り上げる。
「おじさんは、そこで指図してくれれば良いから。」
1時間ほどで、煉瓦を積み上げ、そこに薪を井桁に組んでおいた。
「これって、キャンプファイヤーみたいですよね。」
幸一が汗を拭きながら尋ねた。
「ああ、その通り。ここに大きな焚き火を作れば明かりにもなるし暖も取れるだろ?終わったら炭にして上から土を入れれば、花壇になる。良いだろ。」

2-10 予期せぬ客 [命の樹]

10. 予期せぬ来客
外の作業を終えると、ピザの下ごしらえを始めた。
ある程度、ピザの支度が終わって、あとは焼くだけという段階になって、思いがけない客が現れた。
「こんにちは!」
玄関で誰か声がして、哲夫が出てみると、初老の域に入ったばかりの男が3人立っていた。
「今日は、よろしくお願いします。」
そう言って、頭を下げたのは、先日、ギターを買った楽器屋の店員、泉谷だった。
「え?何でしょう?」
哲夫が不思議そうな顔で問い直した。
「あれ?・・奥さん、ちゃんと話してくれてなかったんですか?いやだなあ。ここでパーティがあるから、演奏をしてくれないかって、連絡をいただいたんです。倉木さんも久しぶりに演奏すると聞きましてね。せっかくなんで、仲間にも話して、セッションでもできたらって・・。」
後ろの男たちは、いくつもの大きな機材を抱えている。
《加奈のやつ、これも仕組んでいたのか》
哲夫は心の中で呟いた。
ここまで面子が揃ってしまって、今更、お帰り下さいとは言えない。
「まあ、どうぞ。」
3人を店内に案内した。
「楽しみですね!・・ワクワクしませんか?誰かに聞いてもらえるなんてね。」
男たちは、店内を暫く見回した後、テラスのほうを見てから、「ここが良い」と言って、いくつもの機材を、南側のウッドデッキに運び込むと、手際よく組み立て始め、アンプやスピーカー、マイク、キーボードなどを並べ、立派なステージにしてしまった。
手伝いをしていた幸一や結も、その手際の良さに暫く見とれてしまっていた。

泉谷は、椅子に座って、ギターの調弦をしながら言った。
「こっちは、吉田。そっちは、井上です。僕と同級生でね、昔、学園祭でバンドやったことがあるんですけどね。・・・倉木さん、どんな曲が良いです?・・」
「どんな曲って言われても・・クリスマスパーティですからね・・・。」
哲夫は少し圧倒されながら答えた。
「じゃあ、達郎かな?」
「在り来たりだな・・。」
井上がベースギターをアンプにつないで、調整しながら言った。
吉田は少し気難しい表情を浮かべて、キーボードの位置を直し乍ら言った。
一通り調整が終わると、三人は音を出し始めた。
少し聞いただけだが、とても素人の音ではなかった。
「あの・・皆さん、どこかでライブとか、今でも、やっていらっしゃるんですか?」
哲夫の質問に、泉谷が少し微笑んで答えた。
「いや、私は本当に素人で、趣味程度なんですよ。でも、こいつらは、現役のスタジオミュージシャンでね。まあ、プロっていう領域にいるんでしょうね。今日は、たまたま休みだったんで、声を掛けてみたら、面白そうだって言ってくれてね。」
それを聞いて、吉田が笑った。
「何言ってるんだよ!お前の方が、プロとしては先輩じゃないか!俺たちが今でも飯が食えるのはお前のおかげさ。なのに、さっさと辞めちまってよお。なあ、井上!」
「まあ、いいじゃないか、吉田。昔の事だろ?」
井上がベースを弾きながら、話を続けた。
「倉木さん、泉谷はねえ、凄かったんですよ。学生時代に、レコード会社からも声を掛けられてね。何枚かレコードも出したんだよな、ただね。こいつ、飽きっぽいんですよ。良い処まで行くと、飽きちゃうんですよ。」
なんだか不思議な会話だった。
哲夫とは別世界を生きてきた人達のようだった。
「さあ、倉木さんもギター、用意してください。やりましょう。気楽に!」
泉谷がジャラーンと音を出した。
哲夫は、少し気おくれしていた。こんな人たちと一緒に演奏できるわけがない。
「いや・・僕は・・。」
「俺たちだけじゃ足りないんですよ。ボーカルがね、居ないんです。皆、実は歌が苦手でね。楽器は平気なんだけど、歌がまともじゃないって・・だから、スタジオミュージシャンなんです。」
キーボードを弾きながら、井上が笑いながら言った。
「ギターのコードが押えられて、歌えれば、俺たちよりましですから。」
吉田も笑って言った。
「え?泉谷さんは?」
「ああ、実は僕、喉頭ガンを患ってしまってね。手術で何とか命はとりとめましたが、もう、まともには歌えないんです。」
哲夫は、あっけらかんと病気の事を口にする泉谷に驚いていた。そして、我が身の事を話すべきなのではないかと咄嗟に考えた。
「さあ、早く、やりましょう。時間がもったいない。練習しとかなきゃ。」
泉谷がせかすように言った。
哲夫は振り返って、結と幸一に向かって、小さな声で言った。
「幸一君、結ちゃん、良いかな?もう、あらかた準備は終わってるし、ピザも火を入れるだけだから。」
結は少し迷った。
歌を歌うという事はそれなりに呼吸器に負担を掛ける事になる。急変する引き金になるかもしれないと不安を打ち消せずにいた。
「哲夫さん、無理しないで下さいよ。余り声を張り上げないようにして。」
迷っている結の様子に気づいて、幸一が言った。
結はかすかに微笑みながら、頷いた。

哲夫は腹を決めて、部屋からギターを持ち出した。昼間、加奈の留守の間に、少し練習はしてきた。だが、セッションとなるとまた別だった。
「とりあえず、1曲。・・・簡単なところで・・達郎ですかね。」
井上がベースでリズムを刻み始めた。キーボード、ギターが音を出す。・・哲夫が目を閉じて、そっと歌詞を口ずさむ。懐かしい感覚だった。30年間、忘れていた感覚だった。


2-11 料理 [命の樹]

11. 料理
昼頃になって、加奈が安藤とともに、紙袋をたくさん抱えて戻ってきた。
男たちの練習も熱を帯びていた。
「やってるわね!」
加奈は、この様子を想定していたかのように言いながら、哲夫の様子を伺った。
歌を歌うのは、肺に負担が掛かることは判っていた。無理をさせてしまうことになるのは重々承知していたが、哲夫に今一度、ギターを弾き歌う事を楽しんでもらいたいと考えたのだった。それでもやはり、加奈は心配していた。哲夫の顔色、呼吸、じっと見つめたあと、結と幸一の方へ視線を送る。結が小さく頷くと、大丈夫だということを確認した。
「・・さあ、時間がないわよ。恥ずかしくない演奏をしてよね。」
「あの・・倉木先生、この人たちは?」
大きな紙袋を抱えたまま、安藤が尋ねる。
「今日のパーティの生バンドよ。他にも、素敵なイベントがあるわ。楽しみにしていてね。」
そう言いながら、加奈が厨房に入った。
「加奈さん、もうピザの準備も終わっています。あとは焼くだけです。何かありますか?」
「じゃあ、結ちゃんは例の服に着替えて、リハーサルをしておいてよ。いい?成りきらなきゃだめよ。幸一さんは、バンドはどう?何か楽器は出来るんじゃないの?」
突然言われて、幸一は少しうろたえた。目の前の光景は、いきなり素人が入れるようなレベルではなかったからだった。
それを、キーボードの吉田が聞いていた。
「なあ・・幸一君だっけ?・・君、リズムセクションをやってみてくれないか?」
「え?リズムセクション?」
「ああ。これ、使ってみなよ。」
差し出されたのは小さな四角い箱だった。
「こいつは、カホンっていうんだ。椅子みたいに座って、ここを叩くんだ。こうやって。」
すると、低音のドラムの音が出た。
「端っこを叩くと高い音。強弱をつけて叩けば、それなりにドラムのように聞こえるから。まあ、気楽にやってみてよ。」
幸一は、言われたとおりに叩いてみた。ドンという音やコンという甲高い音も出る。曲にあわせてなんとなく叩き始めると、ベースギターがリズムに乗ってくる。
「その調子だよ!」
次第に、幸一もバンドの一員になったような気持ちになっていた。

「お昼は、そこにあるパンでいいだろ?」
哲夫が練習の手を停めて、厨房の加奈に言った。
加奈は、指でOKと合図して、さあ練習しなさいと言いたげに手を振った。
コーヒーとパンで軽く昼食を摂って、男たちは練習をつづけ、加奈と安藤は料理を作った。
夕方になって、先日、イルミネーションの飾りつけを手伝ってくれた加奈の教え子たちがやってきた。
「先生!みんな来ましたよ。」
「ありがとう。」
加奈が答えると、厨房にいた安藤が驚いたような声を出した。
「あれ、君たちは!」
「あら、安藤先輩、久しぶりです。卒業以来ですよね。倉木先生に今日の事を聞いて、お手伝いさせてもらいました。先輩、頑張って下さいね!」
少し困惑気味な安藤に別の娘が明るく言った。
「大丈夫ですよ、小久保先輩なら、ちゃんと受け止めてくれますよ。」
口々に、安藤を励ますような言葉を言った。
どうやら、手伝いに来ていた娘たちは、安藤の後輩で、以前から知っているようだった。
「着替えは2階を使って。練習も2階がいいかしら。ああ、先客がいるけど、今日の大事なキャストだからね。仲良くやってよ。ここはおじさんたちの雑音がひどいから、さあさあ。」
「はーい!」
「お邪魔しまーす。」
娘たちがどやどやと2階に上がって行った。しばらくすると、2階から美しい歌声が聞こえてきた。

料理も佳境に入ってきたようだった。
「さあ、安藤君、この後は、あれを使うのよ。」
加奈はそう言って庭の方を指さした。
大きめの煉瓦造りの釜戸のように見える場所に、薪とダッチオーブンが置かれていた。
「どう?できそう?」
「ええ・・一度、キャンプで使ったことがあります。あれで、チキンを焼くんですよね。」
「そう・・じゃあ、お願いね。早くしないと間に合わないわよ。」
安藤は、釜戸のところへ行き、ダッチオーブンを抱えて戻ってきた。材料の仕込みを始めるためだった。使ったことがあるとは言うもののどこかぎこちなかった。
「ちょっと休憩しましょう。」
安藤の様子を見ていた哲夫がギターを弾くのをやめて声を掛けた。
「ちょっと、彼を手伝ってきます。・・ああ・・皆さんは適当にやっててください。」
そう言うと、厨房に行き安藤に声を掛け、ダッチオーブンに材料を入れるのを手伝い、さらに、釜戸に薪を丁寧に並べた。幸一も興味深そうに、哲夫と一緒に安藤を手伝った。
「最初は強めに火を起こして、徐々に火が落ちて行くのを待つだけだよ。余熱でしっかり熱が通れば大丈夫さ。さあ、やってみて。」
薪に火が付くまで、安藤も幸一も悪戦苦闘している。哲夫はパン焼きの仕事で、難なく火を起こすことができるようになったが、初めの頃はやはり苦労したものだった。二人が苦労しながら火をつけるのを見乍ら、哲夫はとても楽しかった。
「おや・・にぎやかだねえ。毎度、注文の品をお持ちしました。」
そう言って、庭に入ってきたのは、玉木商店の主人だった。
「加奈さん、飲み物は、これで良いんですか?ビールも酒もなくって、ジュースばっかりですよ。」
軽トラックから、何箱かの飲料を下ろしながら、玉木商店の主人が言うと、加奈が答えた。
「良いのよ、未成年もいるんだし・・・良いじゃない。素面でも楽しく出来るわ。」
「そうですかねえ?」
「ねえ、御主人も後で顔出してくださいよ。」
そう言ったのは、哲夫だった。


2-12 由紀恵登場 [命の樹]

12. 由紀恵登場
日が暮れはじめた。
「さあ、そろそろ、主役が登場よ。みんな、準備は良い?」
加奈はそう言うと、周囲を見渡した。
「ねえ、結ちゃんを呼んできてくれる?」
幸一がすぐに2階へ上がって行く。2階から、メイド服に着替えた結が降りてきた。
「おや・・誰かと思ったよ・・。でも・・あの服、確か・・。」
哲夫が少し冷やかし気味に言うと、少し、結は嫌な顔をした。
「ええ。薔薇の喫茶店で借りてきたの。良いでしょ?私が着ても良かったんだけどね。」
一瞬、哲夫が加奈の顔を見た。加奈はちょっと首をかしげて、何が言いたいのという顔をした。哲夫がすぐに気づいて、視線を逸らした。加奈は少し不機嫌な顔で続けた。
「でもね、私の顔を見ればきっと小久保さんが気を使うでしょ。だから、結ちゃんにメイド役を頼んだのよ。結ちゃん、想像以上よ。やっぱり、似合うわね。」
結は急に少女のように顔を赤らめた。
幸一は、ぽかーんとした顔で、結に見惚れてしまっていた。
「さあ・・いよいよね。」

時間になった。
結は、石段の下で小久保由紀恵が来るのを待っていた。
通りの向こうから、タクシーがやってきて、石段の下で停まると、ドアが開いて、小久保由紀恵が現れた。由紀恵はコートを羽織り、その下には真っ赤なドレスを着ていた。
「いらっしゃいませ。小久保様ですね。さあ、どうぞ。」
メイドに扮した結が丁寧にお辞儀をすると、由紀恵をエスコートして石段をあがってくる。それに合わせるように、石段のイルミネーションが点灯する。
幻想的な雰囲気の中、由紀恵はこれから何が起こるのかと不安そうな面持ちで結の後を歩いてきた。庭が見えるところまで二人が上がってくると、庭の中央に設えたテントに明かりが点いた。
「本日は、あちらの席をご予約いただいております。さあ、どうぞ。」
由紀恵の歩みに合わせるように、ライトが点き足元を照らす。
テントの脇には、俄作りの煉瓦の暖炉の炎が揺らめいて、ぼんやりと影も揺らめいてみえた。
風もなく静かな夕暮れだった。徐々に闇が深くなる。
「少々、お待ちください。」
結がゆっくりと席を離れると、クリスマスキャロルのコーラスが厳かに聞こえてきた。
周囲に明かりがなく、まるでそのコーラスは夜空から降り注ぐように聞こえてくる。由紀恵はこの世を独り占めしたような気分だった。
暗闇の向こうから、小さな灯りが揺れながら近づいてくる。
「由紀恵ちゃん、来てくれてありがとう。」
安藤が、テーブルランタンを持ってきたのだった。
「こんな席・・一体、どうしたのよ・・。」
「うん、ちょっと知り合いに頼んだんだ。今日は、二人きりの貸切だよ。」
「貸し切りって・・高いレストランの予約は駄目だって言ったでしょ?」
「知り合いだっていっただろ。まあいいじゃないか、今日は特別な日にしたかったんだ。」
「でも・・こんな・・・」
由紀恵は戸惑っているようだった。
あまりに異空間で、貸し切りと聞けばなおさらだった。
「お待たせいたしました。」
結が、シャンパンの入ったグラスを運んできた。
「さあ・・とりあえず、乾杯しよう。乾杯!」
グラスに口は付けたものの、由紀恵は、楽しめるような気分ではないようだった。
「由紀恵、ほら見てごらん。」
幸一の言葉が合図となって、庭を取り囲むように仕掛けられたイルミネーションが一斉に輝き始める。
「まあ!」
由紀恵は、その灯りの美しさに一瞬言葉を失った。
ぐるりと庭を取り囲むように仕掛けられたイルミネーションの光が少しずつ点滅を始める。
「素敵・・・」
空に輝く星とイルミネーションに包まれ、まるでそれは銀河の中に居るような気分だった。

「前菜のオードブルでございます。」
今度は、幸一がソムリエの衣装で運んできた。
幸一が店の方へ下がると、暗くした店内で、皆が様子を尋ねる。
「どんな感じ?うまくいきそう?」
加奈が一番心配気に訊いた。
「いえ・・余り、会話らしきものは・・ちょっと・・どうなんでしょう?」
「何よ、役に立たないわね。」
そう言ったのは、結だった。

「こちら、スープでございます。」
今度は結が運んできた。昼間、安藤が加奈に教えられながら、材料を刻み、じっくり煮込んだミネストローネだった。
「良い香り・・。」
由紀恵がスープを飲んだ。
「どう?」
「ええ・・とても美味しいわ。温まる。」
「そうか・・良かった。」
安藤もスープに口をつける。
「うん・・上出来だ。」

結が店に戻ると再び、加奈が訊いた。
「どう?」
「ええ・・良い雰囲気みたいでした。スープでちょっと温まってきた感じでした。」
「そう・・よしよし・・。さあ、いよいよ、メインイベントよ。頑張って!」
テントの様子を加奈も哲夫も、他のみんなも息を殺して見守っている。


2-13 プロポーズ [命の樹]

13. プロポーズ
「じゃあ、そろそろメインディッシュにしよう。」
安藤はそう言って立ちあがると、炎が揺らめく暖炉の傍に行った。
由紀恵は何が始まるのかと安藤を見つめている。
暖炉の脇には、いつの間にか、幸一と哲夫が控えていて、安藤がダッチオーブンを釜戸から持ち上げるのを手伝った。
「さあ・・美味く出来たかな。」
「それは?」
「特製のメインディッシュさ。さあ、開けるよ。」
ダッチオーブンの蓋を開くと、白い湯気が一気に立ち昇った。
ダッチオーブンの中には、グリルチキンが美味しそうにこんがりと焼かれているのが見える。
「わあ・・美味しそうね!」
由紀恵が中を覗き込む。
「これ、僕が作ったんだよ。・・いや、今日の料理は全部、朝からここで作ったんだ。」
安藤は得意そうな顔で言った。
「え?安藤君が、これを全部?」
「ああ、君が喜ぶ顔が見たくってね。」
「私の喜ぶ顔って・・・」
「・・料理なんて初めてだったけど・・野菜を切っている時も、チキンの下味をつけてる時も、薪で火を起こす時も・・ずっと、ずっと、君の喜ぶ顔を思い浮かべてた。何だか、とても幸せだったよ。」
由紀恵は少し涙ぐんでいるように見えた。

「さあ・・今よ・・さあ、言いなさい!」
加奈が店の中で声を出した。安藤には聞こえていないはずだが、皆も同じ気持ちになっていた。

安藤が大きく深呼吸をした。そして、由紀恵の目をじっと見つめて決意したように言った。
「ねえ、由紀恵ちゃん。僕に、ずっとこの幸せをくれないかな。」
由紀恵も、安藤の目を見つめた。だが、すぐには返事がない。
安藤の言葉の意味をもう一度確認したい、そういう目をしている。
安藤はもう一度、ゆっくりと、言葉を選ぶように落ち着いて言い直した。
「君の喜ぶ顔を願って、毎日一生懸命生きていこうと決めたんだ。そう・・ずっと君と一緒に生きていきたいんだ。・・結婚してください。」
安藤は、再び、由紀恵の目をじっと見つめている。
由紀恵は、ぽろぽろと大粒の涙を溢している。
そして、一度目を閉じ大きく深呼吸をしてから、再び安藤の顔を見て、はっきりと言った。
「よろしくお願いします。」
安藤は両手を突き上げてガッツポーズを見せた。

喫茶店の店内から、みんなが固唾を飲んで二人の様子を見ていた。
安藤のガッツポーズを見て、店内にいた皆が一斉に歓声を上げた。
コーラスをやっていた娘の誰かが仕掛けたのか、歓声と同時に、小さな打ち上げ花火が上がった。

「さあ、バンドの出番よ。」
加奈の声に、男たちはテラスに設えたステージに立った。
「ライトON!」
加奈が叫ぶと、庭に建てられた照明灯や店の灯りが一斉に点いた。

ジャラーンと哲夫のギターの音が響いた。

♫道行く人の吐息が星屑に消え 気づいたら君がそっと手をつないだ♫

哲夫が選んだ曲は、桑田佳祐の曲だった。
落ち着いた4ビートのリズムを幸一が刻み、ベースギターがそっと、それを包むように響き、ギターのアルペジオが躍るように鳴る。

♫クリスマスだからいうわけじゃないけど、何か、特別な事を してあげよう ♫

哲夫の声はじんわりと歌詞を語る。
久しぶりに歌う事に不安はあったものの、見事に歌いこなしているように見えた。

♫いつも 照れてるままに 過ぎる You gotta be light. In this holy night 今年の思い出に すべて君がいる ♫

哲夫たちの演奏は、二人の胸に沁みた。
由紀恵はぽろぽろと涙を流している。そして、安藤もそんな由紀恵を見て涙を流している。
曲が終わると、二人は立ち上がって拍手をした。加奈も、結も、手伝いに来た娘たちも拍手をした。
「安藤君、小久保さん、良い日になったかな。これからもずっと、お幸せに。」
哲夫はマイク越しの二人に声を掛けた。
「良かったわね・・安藤君。」
加奈がようやく二人の前に顔を見せた。
「倉木先生!」
由紀恵は驚きを隠せなかった。
「トコハモールで会ったでしょ?あの日、喧嘩したのを知って、安藤君に声を掛けたのよ。」
由紀恵はばつの悪そうな顔をしている。
「ここはね、私の家・・主人がね・・ああ、あのボーカルやった人なんだけど・・喫茶店をやってるから、貸し切りにして安藤君のプロポーズを成功させようってお節介しちゃった。ほら、後輩たちも手伝ってくれてるのよ。」
「先生・・・」
由紀恵は言葉にならない。
「倉木先生、本当にありがとうございました。今日の事は一生忘れません。」
安藤が深々と頭を下げた。
「そう・・良かった。こうやって、誰もが、みんなの中で生きてるのよ。ううん,生かされてるのよ。高いレストランも良いだろうけど・・・こうやっていろんな人の力を借り乍ら、人と繋がって何かをやっていく、そういう生き方が二人には似合ってるんじゃないかしら?」


2-14 パーティ [命の樹]

14. パーティ
貸切の時間は終了した。
「もう良いかい?」
与志さんが顔を見せる。
「与志さん、来てくださったの。じゃあ、ここからはパーティよ!今日はクリスマスイブなんだから、騒ぐわよ!ねえ、哲夫さん、ピザは?」
加奈は上機嫌だった。これまで準備してきたことがすべて報われた、そんなやり遂げたような顔をしている。
「ああ、すぐに焼くよ。・・みんな、パーティの準備、手伝ってくれるかい?」
「イエーイ!」
若い娘たちが良く分からない乗りで返事をした。
次々に、町の人が顔を見せた。
「こんな道を作ったんだな。これなら具合が良い。あの石段だけは勘弁だったんだ。」
そう言って現れたのは、須藤自転車の主人と奥さんだった。
「ちょっと不釣り合いかもしれないけど・・煮物を作ったから持ってきたわ。良いかしら?」
須藤自転車の奥さんが遠慮がちに、差し出すと、哲夫がすぐに一つ摘まみ食いをした。
「わあ、美味しいです。最近こういう料理、食べてなかったから・・良いじゃないですか。」
そう言って、笑顔で迎えた。

次には、ユキエとサチエと母と金原が仲良く手をつないで現れた。
「あれ、郁子さん・・ひょっとして・・。」
加奈が郁子の歩く姿を見て訊いた。
「ええ・・どうやら・・子どもを授かったみたいなんです・・。」
「まあ、素敵。良かったわね。」
「ええ。」
結の母も、玉木商店の主人と一緒に顔を見せた。
「下でもじもじとしてたんでね・・。」
玉木商店の主人はそう言うとすぐに須藤自転車の主人のところへ行った。
「いや・・私なんかがお邪魔していいかしらって・・。」
結の母はまだ少し遠慮がちにしていた。
「お母さん、何してんのよ。さあ、こっち、こっち!」
店の一番奥の席にいた結が手を振って母を呼んだ。すみませんねと言いながら、結の母は奥へ入って行った。

「すいません、良いですか?」
そう言って、石段を押し合いながら登ってきたのは、若い漁師たちだった。
「源治さんに聞いたんです。クリスマスパーティやってるから行ってみろって・・いや、ちょっと、むさい俺たちなんかがどうかって話し合ってたんですけど・・こいつがどうしても行くって言うから。」
そう言って指さされているのは、娘の千波の事をしきりに気にしていた竜司だった。
「いや・・そう言うわけじゃないんですけど・・ほら、このところ、店も休業だったし、哲夫さんの顔、見てなかったんで、元気なのかなって・・・」
余りに慌てて言うのが可笑しくて、加奈も少し意地悪な言い方をした。
「残念ねえ、今日、千波はいないわよ。でも、代わりに、ほら、若い女の子ならいるわよ。あら、ちょうど3人じゃない。どう?アタックしてみれば?」
加奈に言われて、若い漁師たちは、ほう・・という顔をして手伝いに来た女の子たちを見て、お前行ってみろというように、互いに突っつきあっている。
「それにしても、源治さんはどうしたのかしら?」
加奈がふと口にしたとき、イルミネーションで飾られた木々ががさがさと大きな音を立て揺れた。庭にいたみんなは驚いて急に静かになった。
「熊?・・は居ないわよね・・・。」
皆がじっと音のする方を伺っていると、再び、がさがさと音がして、イルミネーションが揺れた。
「メリークリスマス!」
真っ赤なサンタの衣装を居た男が大声を張り上げて庭に乱入した。
背中に白い大きな袋を背負っている。
「誰?」
若い娘たちが互いにくっつき合って怖がっている。
「おや?どうしたんだ?クリスマスパーティだろ!」
サンタの衣装に身を包んだのは、源治だった。
「どうしたって・・こっちが訊きたいぞ。源治!」
少し怒った口調で、与志さんが言った。
「なんだい!クリスマスパーティだって聞いたからよお、サンタが居なくちゃ始まらないだろ?だからこうして、来たんじゃねえか!さっき、孫たちのところへプレゼントを届けてからそのまま来たんだ!かっこいいだろうが!」
源治は真っ赤な顔をして怒ったが、それはまるで、赤鼻のトナカイのような顔に見えた。
皆、源治の言葉で大いに笑った。
「さあ、サンタさんも登場したことだし、クリスマスパーティを始めましょう。」
「加奈!ピザも焼けたよ!さあ、どうぞ!」

泉谷たちが再び演奏を始める。
「おい、てっちゃん、もっと歌ってくれよ。さっき、森の中でじっと聞いてたんだ。沁みたよ!」
サンタの源治は随分前から森の中に潜んでいたようだった。
「やりましょう。哲夫さん!」
泉谷が声を掛ける。
「ピサは僕が焼きますから!」
安藤が、哲夫からエプロンを取り上げて、ステージに哲夫を連れて行く。

唄を歌う者、語りあう者、黙々と食べている者、それぞれは思い思いにパーティを楽しんだ。そして、深夜近くになって、それぞれ、家に戻って行った。
「本当にありがとうございました。今日の御恩は一生忘れません。」
安藤と由紀恵は、帰り際、深々と頭を下げる。
「良いのよ。私も楽しかったわ。幸せになるのよ。どんなことがあっても一緒に乗り越えるのよ。良いわね。」

2-15 パーティの後 [命の樹]

15. パーティの後
店には、幸一と結、そして加奈と哲夫の4人が残った。
「終わりましたね。」
テーブルを拭きながら幸一が呟いた。
「そうね・・。」
加奈が床の掃除をしながら、安堵した声で答えた。
「また、やれると良いですね。」
結は、カウンターに、皿やコップを運びながら言った。

突然、パリンと食器が割れる音が響いて、同時に、ドスンと鈍い音がした。
加奈も結も幸一も真っ先に厨房を見た。
「哲夫さん!」
「おじさん!」
そう叫ぶと同時に、三人は厨房の中へ入った。
そこには哲夫が布巾を持ったまま、倒れていた。
結が駆け寄り、哲夫の頭を持ち上げ、呼吸を確認した。微弱ながら呼吸はしている。
「幸一さん、鞄!」
結の言葉に幸一はすぐに反応して、2階へ駆け上がって行き、鞄を持ってきた。
その間に、結は厨房の隅に置かれている携帯用酸素ボンベを取り出し、哲夫の口元にあてた。
すぐに、強心剤を打ち、様子を見た。
「加奈さん、うちの病院へ行きましょう。」
幸一と結が哲夫を運び、加奈は車を庭に入れ、すぐに水上医院へ向かった。

深夜、水上医院の玄関に車が着く音に、隣家に住む郁子が気づいた。2階のベランダから下を見ると、哲夫が結と幸一に抱えられ病院に入っていく姿がぼんやりと見えた。
すぐに郁子は寝室に戻ると、金原に話した。
「哲夫さんは、何か、重い病気なんじゃないかな?」
金原がベッドの中で言った。
「どうしたら良い?」
郁子はベッドに座り漆黒な表情で訊いた。
「どうしたらって・・他人の僕たちに何ができる?」
「そうよね・・でも、加奈さんには危ないところを助けてもらってるし、哲夫さんの事、あの子たちも随分慕ってるじゃない。何か恩返ししなくちゃ。・・でも・・何ができるのかしら。」
「そうだなあ・・。どんな状態かもわからないし・・それを聞くのも・・場合によってはね・・」
「そうね。深刻な病気なら・・あまり人には知られたくないものね。」
「そうだろ?例えば、余命わずかなんていう病気だったら・・尋ねることさえ辛いよね。」
「そうね。」
「ああ・・今は静かに見守っているしかないのかもな。・・それに、お前はおなかの子をちゃんと産むことが大事だろ・・そうさ、無事に生まれましたって、元気な赤ちゃんを二人に見せに行くのが一番じゃないか?」
「そうね。」
「さあ、寒いから早くベッドに入ったほうが良い。」

特別室のベッドで、哲夫は酸素マスクを着け、心電計を着けた状態で横になっていた。
ベッドのすぐ脇に置かれたソファで、加奈がうとうととしている。
結と幸一は交代で哲夫の容態を診た。二人は診察室で、哲夫の容態について話していた。
「胸の音は悪くないけど・・意識が無くなった事から、やっぱり脳の腫瘍が原因かしら?」
「前に撮った脳画像では確かにそれが一番だと思うんだが・・。」
「でもそれだけじゃないって?」
「ああ、発作の状態がなんだか違和感があるんだ。意識を失った後、しばらくすると何にもなかったように回復するだろ?それに、今日のパーティでも哲夫さんはギターを弾いていた。指が動かなくなるとか、力が入らないとか、そういう周辺症状が出てもおかしくないはずなのに、全くないだろ。何か違う要因があるんじゃないかな?」
「やっぱり、ここの機材だけじゃ無理なのかしら?」
「いや、大学病院でもこことそれほど違う検査ができるわけじゃない。むしろ、僕たちの知識の問題じゃないかな。気づかない事があるはずなんだ。」
「入院していれば24時間様子がモニターできるんだけど・・。」
「ああ、だが、それは哲夫さんも承知してくれないだろ?」
「ええ・・それなら、ここに私も病院を作った意味もないし・・。」

明け方近くになって、哲夫が目を開けたが、自分の状態を認識するまで少し時間が掛かった。
朝日が病室に差し込んで、加奈が身を起こして、哲夫の様子を見た。
「すまなかった・・心配掛けたようだね。」
哲夫が小さくつぶやくように言うと、加奈は哲夫の手を握り、ぽろぽろと涙を零すだけだった。
「おじさん、目が覚めた?」
意識的に明るい声で結が病室に入ってきた。そして、心電計をチェックし、脈を取り、胸の音を聞き、安堵したように深呼吸をした。
「良かった。」
結は、その一言しか言えなかった。幸一もすぐにやってきて、哲夫の様子を見て胸を撫で下ろした。
「加奈さん、実は、パーティの前日も哲夫さんは倒れたんです。内緒にしてくれって頼まれたんです。結にも知らせて、もし、パーティの最中に発作が起きても良いように準備していたんです。すみませんでした。」
加奈は、幸一に打ち明けられて、一度、哲夫を睨みつけるようにしてから、笑顔を見せた。
「そんなところかなって、思ってたのよ。あの時、幸一さんは、妙に大丈夫って念を押すから、きっと哲夫さんに頼まれたんじゃないかって思ってたの。私の事を気遣ってくれたんでしょ?」
結も幸一もすまなそうな顔を見せている。
「いつもそうなのよね。秘密は作らないでって、言ってるのに・・・。」
加奈はふたたび涙を零した。
「しばらくお店は休まなきゃね・・。」
二日ほど哲夫は水上医院に入院した。

2-16 保養 [命の樹]

16. 保養
《命の樹》は年内と年明けは休業することを条件に、結は哲夫の退院を認めた。
帰宅すると、次女の千波が戻って来ていた。
「お正月明けまで居るからね。」
千波はそう言うだけだった。哲夫の病気の事は気掛かりなのだろうけれど、敢えて口にしない。
哲夫は、退院した日は、一日、ベッドで過ごしたが、翌日には普段通り、起き出した。
「もう動いても大丈夫?もう少し休んでいた方がいいんじゃない?」
加奈は、朝早く起きてベッドを出る哲夫を引き留めようとして言ったものの、それが哲夫にとってはむしろ辛い事なのだと思って、さほど強くは言わなかった。
「・・少し体を動かした方が良いんだ。・・辛くなったら横になるから。」
哲夫は朝食の準備のために、厨房に降りていくと、すでに千波が厨房にいた。
「今日からしばらくは私が食事の支度をするわ。お父さんは、ソファに座ってて。」
千波はそういうと、哲夫の背中を押して、店の真ん中にある赤いソファに座らせた。
「はい、新聞よ。・・コーヒー、飲むでしょ?」
千波は哲夫の返事も聞かず、すぐに大きめのカップにコーヒーを注ぎ、持ってきた。そして、また厨房に戻って、朝食作りを始めた。
朝食が出来上がるころには、加奈も着替えを済ませて、店に降りてきた。久しぶりに3人での朝食となった。
「ねえ、お父さん。お餅つきしない?」
突然、千波が言い出した。
「餅つきなんて、やったことないだろ?」
哲夫が言うと、千波が首を横に振った。
「私が幼稚園の時、お餅つきをやったでしょ?覚えてない?」
そう言えば、年の瀬の幼稚園の催事で、園児たちの餅つきというのがあったのを思い出した。長女の時に初めて参加して以来、毎年参加するようになっていたのだった。
「だけど・・道具がないぞ。糯米だってないし・・・。」
「そうよ。それに随分大変な仕事なのよ。」
加奈もあまり乗り気ではないように言った。
「ええーっ、大丈夫よ。道具はきっと与志婆ちゃんのところにあるわよ。糯米はスーパーでも売ってるし・・ねえ、お餅つきやろうよ。」
千波は言い出したら聞かない性格だった。
朝食を終え片づけを済ませると、千波はすぐに与志さんの家に向かった。

与志さんは、千波の話を聞いて、すぐに納屋へ行くと、ハソリや蒸し器、そして杵と臼を見つけた。
「糯米の準備から始めないとね。水に漬けておく時間も必要だし・・とにかく、支度が9割の仕事だよ。搗くのは明日だね。・・良いよ、千波ちゃんのお願いだ、婆ちゃんも一肌脱ぐよ。」
与志さんは、すぐに、どこかへあちこちへ電話をしているようだった。
「助っ人も頼んだから、大丈夫。千波ちゃん、すぐに玉木商店へ行っておいで。糯米は用意してもらったから。それと、てっちゃんには見てればいいからって言っておいで。」
「お婆ちゃん・・。」
与志は小さく頷くと、千波の手を取った。
「加奈さんから聞いたんだ。無理をさせないようにしないとね。さあ、早く言っておいで。」
千波は深々と頭を下げると、すぐに店に戻った。そして、加奈と哲夫に与志さんが支度を手伝ってくれることを報告すると、すぐに玉木商店へ行った。
「お、千波ちゃん。来たな!」
店先にいた主人が手を振った。
「すみません。急に思いついちゃって・・あの、糯米って・・。」
「ああ、あるよ。重いから、配達してやるよ。それより、てっちゃんの具合、良くないのか?」
「いえ・・それは・・・。」
「いや、詮索する気はないんだよ。だけどな、ほら、うちの孫がな、てっちゃんのパンを食べたがってるんだよ。あの日以来、ずっと休業だったからな。」
「すみません。でも、正月明けにはまた営業すると思いますから・・。」
「そうかい。」
そう言いながら、玉木商店の主人は、糯米の入った袋を軽トラックに運び、「さあ、行くよ」と言って、千波を乗せて、店に向かった。

与志は、千波が戻ってからすぐに、ハソリと蒸し器を店に運んできた。
「すみません。取りに行こうと思ったんですよ。」
「いや、良いんだよ。・・もうすぐ、臼と杵と餅板も運んでくるだろうよ。」
そう言っているうちに、庭に上がる坂道を、よいしょ・よいしょと掛け声が響いてきた。
源治と漁師仲間が臼と杵を運び上げてきたのだった。まるで、祭り騒ぎのようだった。中でも一番威勢よく働いているのは、竜司だった。
「おい!竜司!ほら、もっとしっかり持てよ!」
「ちゃんと持ってるよ!」
「良いとこ見せないとな、竜司!」
「うるさいよ!そんなじゃないよ!」
「そんなんじゃって・・どんなんじゃ?」
なんだか、漁師連中は、重い臼を運びながらも、竜司を囃し立てて楽しんでいるようだった。
クリスマスのパーティの椅子やテーブルがそのままになっていた庭が、今度は、餅つき大会の会場となってしまったようだった。
クラクションが鳴って、軽トラックが入ってきた。
ドアを開けて、千波が降りてくると、竜司が急に静かになった。
「あら・・みなさん、ありがとうございます。」
千波が漁師連中に挨拶をすると、誰かが竜司の背を押した。勢いで、竜司が一歩前に出た。
「あら、竜司さん。お久しぶりです。ごめんなさいね、忙しいのに。」
竜司はなんだか顔を真っ赤にして何も言えなくなっている。
「どうしちまったんだ?竜司。」
源治がわざといやらしい言い方で訊いた。
「あ・・いや・・今は、暇なんで、大丈夫です。こんなことならいつでも手伝いますよ。」
竜司が早口で答えた。

「さあ、餅つきの支度を始めるよ。」
与志さんが言った。

2-17 餅つき大会 [命の樹]

17. 餅つき大会
男たちは、源治がリーダーになって、糯米を蒸かすための釜戸の準備を始めた。
先日のパーティで使った焚火用の釜戸を少し修正して、ハソリを置き、蒸し器が何段か積み上がるように設えた。そして、臼と杵を水で洗って、餅板もきれいに拭き掃除をした。
女たちは、与志さんに教わりながら、糯米を洗い,浸漬する。そして、蒸し器を洗い、布巾を用意した。
大体の準備は終わると与志さんが言った。
「餅つきは明日だよ。たくさん搗くから、手伝いもたくさんいるんだ。来れる人間に声かけておくれ。」

翌日、朝食を終えたころ、源治や漁師仲間、玉木商店、須藤自転車、結と幸一、ぞくぞくと人が集まり始めた。
「なんだか、大騒ぎになっちゃったね。」
千波が庭先に集まった人を見て呟く。
「ここは、皆、気持ちの良い人ばかりだね。まあ、今日は皆さんお力を借りて餅つき大会を楽しもう。」
哲夫はそういうと、みんなの前に顔を見せた。
「朝早くから、すみません。なんだか、急にこんなことになっちゃって・・。」
「てっちゃん、元気そうじゃないか!」
「心配したよ、パーティ以来、休業だったから。」
皆が、哲夫のことを心配していた。
「ちょっと疲れが出たみたいで・・お休みをいただきました。年明けにはまた、営業しますから、よろしくお願いします。」
哲夫がそう挨拶すると、誰かが拍手した。
それに連られるように、集まった人がみな拍手をし始めた。
その様子を、郁子は少し不安げな表情で見つめていた。

与志さんが登場すると、いよいよ餅つきの始まりだった。
釜戸に火を起こし、ハソリの水を沸騰させ、糯米を蒸す。蒸し上がった米を臼に投入し、皆でかわるがわる杵で搗く。仕上がると、餅板に広げて、整えていく。
「最初は鏡餅にするからね。」
二臼ほどは鏡餅に仕上げた。
三臼目からは、小さく丸餅にして、皆で食べることになった。
厨房では、哲夫と加奈が、搗き上がったばかり餅を食べるために、餡と大根おろし、ポン酢などを準備した。
火の番をする人、蒸し具合を点検する人、杵で搗く人、餅の手返しをする人、餅を切る人、餅を食べる人、皆が思い思いに、役を交代しながら、餅つきを楽しんでいる。

「ねえ、お父さん!お父さんも搗いてみてよ。」
千波が、哲夫のところに飛んできた。
「いや・・どうかな・・できるかな・・。」
「幼稚園の時、私、嬉しかったの。みんなはお母さんばかりだったでしょ。お父さんが来てるのは私一人。でも、杵を持ってみんなと一緒に餅つきしているお父さんがちょっと格好良くて、みんなから羨ましがられてたのよ。」
確かに、幼稚園の餅つき大会は暮れの平日で、父兄はほとんど母親だった。長女の最初の時に参加したのがきっかけで、毎年当てにされるようになってしまって、その日は仕事を休んで参加するのが習慣となっていた。
そして、哲夫の役割は、園児一人一人が杵を持つのを手伝って一緒に餅をつくことだった。だが、こんな風に、千波の記憶の中に刻まれているとは、哲夫は予想もしていなかった。
「よし、ちょっとやってみますか。」
哲夫は立ち上がって、杵を持った。
「てっちゃん、大丈夫かい?」
源治が茶化すような言い方をした。
「久しぶりですよ。まあ、無理しないようにします。」
そう言って哲夫が杵を振り上げる。
餅を搗くたびに、周囲からよいしょと掛け声が上がる。十回ほど杵を振り上げたが、さすがに、体力的に厳しかった。息が上がる。
「よし、変わりましょう。」
すかさず、幸一が哲夫と交代した。そして、次に、竜司が代わった。
「さあ、竜司、がんばれ!千波ちゃんに良いとこ見せろ!」
源治が手返しの役を代わった。二人の呼吸は絶妙で、若い漁師は力もあり、難なく餅を搗きあげた。

「昔は、こうやって、年の暮れになると、近所で力を合わせて餅つきをやったもんだがねえ。若いもんが減ってしまって・・子どもも少なくなってだんだんやらなくなっちゃったねえ。」
与志さんは、皆が楽しそうに餅をついている姿を眺めながら言った。
「てっちゃん達が、ここへ越してきてくれて、本当に良かったよ。こんな事ができるようになったんだからね。」
「いやあ、こんな事になるなんて思ってもみませんでしたよ。」
「また、やれると良いねえ。」
与志さんは、そう言いながらも、哲夫の病気が嘘だったと思いたかった。
「ええ・・そうですね。また、やれるように頑張らなくちゃ。」

結局、昼過ぎまで、楽しく餅つきが続き、皆、腹いっぱいになるまで食べた。それでも余った餅は皆で分けて持ち帰ることになった。
「また、来年もやろうな!」
「楽しかったよ、久しぶりだった。またやろう。」
皆、口々にそう言って戻っていった。


2-18 大晦日 [命の樹]

18. 大晦日
大晦日の日に、「今年は、年末から少しまとまった休みが取れたから」と言って、長女の美里が戻ってきた。介護の仕事をしている美里は、交代勤務のために、休みが簡単に取れなかった。おそらく、今年は、哲夫と過ごす最後の正月になるかもしれないと考えたのだろう。施設に無理を言って長期休暇をとったようだった。
美里は、千波から、先日の「餅つき大会」の話を聞いて大層悔しがった。
「ねえ、お父さん、千波ばっかり楽しいなんてずるいわ。」
美里は拗ねていた。美里は、もうれっきとした大人なのだが、家に戻ると、いつも幼い子どもに戻るようだった。幼い頃から、「お姉ちゃんでしょ」と言われ、何かと我慢してきた反動かもしれない。大人になってから、甘えん坊になったようだった。
加奈と千波は、おせち料理の準備を始めた。最初は、美里も手伝っていたのだが、どうにも不満そうで、暫くすると、手伝いをやめて、ソファに横になってしまった。

「じゃあ・・門松でも作ろうか?」
「門松?」
「ああ、本当はもっと前に作るものだが・・・良いだろう。やってみよう。」
「そんなの出来るの?」
「いや、自信はないけどねえ。昔、子どもの頃、親父と一緒に作った事があるんだよ。覚えてる範囲で作ってみようと思うんだが・・、美里、手伝ってくれないか?」
美里は、少し考えてから言った。
「無理しないでよ。」
「大丈夫さ。・・じゃあ、やろう。」
哲夫はそう言いながら、倉庫に行った。美里も哲夫についていった。

「土台は・・本当なら盛り土をして、菰巻きをして、中に竹とか松とか入れるんだが・・・。」
暫く、倉庫の中を探していた。
「これにしよう。」
取り出したのは、大きな丸い缶。以前、屋根の塗装の時に、塗装業者が置いていった缶があった。
「それから・・菰だが・・・この筵で良いかな。後は、荒縄・・・。これで良い。」
材料を玄関先に置いて、場所を決める。
「美里、この中に入れる竹と松と梅を採りに行こう。」
哲夫はそう言うと、倉庫の棚から、大きな鉈と鋸を取り出した。
「よし、竹を切りに行こう。与志さんの畑の隣に竹林があるから・・ちょっと、与志さんにも断わっておかないといけないし・・。」
そう言って、庭から下に続く道を降りていく。美里も後に続く。

「与志さん、すみません。」
家の奥から、与志さんが顔を見せた。
「なんだい・・おや、珍しいねえ。美里ちゃん、元気かい?」
「ええ・・お休みが取れたんで帰ってきたんです。」
「ほう、そりゃ、てっちゃん、嬉しいじゃないのかい?」
哲夫はちょっと照れ笑いをした。
「与志さん、竹を分けて欲しいです。」
「竹?・・あの竹かい?」
与志さんはそういうと、畑の向こうの竹林に視線をやった。
「ええ・・門松を作ってみようと思って・・まあ、出来るかどうか・・不安ですけど。」
「門松?自分で作るのかい。・・じゃあ、太い奴を持って行きな。それと、松はうちの樹を切ったら良い。梅もあるから。好きなのを切っておくれ。」
「すみませんね。」
「良いんだよ。昔はみんなそうやって融通したんだ。福を呼ぶものだからね。福を分けるって縁起が良いもんだって言ってねえ。」
「そうなんですか。」
与志さんは、そう言うと、枝振りの良い松を選んで、教えてくれた。
「松にもね、雄と雌があるんだ。門松には雄の枝の真っ直ぐ天に伸びたものを選ぶんだ。」
次に梅の枝を切る。
「昔っからねえ・・桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿って言ってね。梅は切ってやるほど新芽を出して切れに花も着いて実も実るんだ。最近、手入れをしてなかったから、ちょうど良い。ここらの枝をばっさりと切っておくれ。」
太い枝をいくつか切り落として、その中から、花つきが良さそうなところをさらに切り分けた。
「ねえ・・与志さんって、何だか、辞書みたい。何でも知ってるのね。」
美里がちょっと頓珍漢なたとえ方をした。
「美里、それを言うなら生き字引って言うんだ。昔の人はそうやって知恵を引き継いできたんだ。」
哲夫が言うと、与志さんはちょっと哲夫をにらんだ。
「昔の人ってのは寂しいねえ。今でもちゃんと生きてるんだよ。」
「あ・・これは・・・すみません。・・そういう意味じゃ・・。」
「冗談だよ!・・まあ、こんな事、もう教える人も居なくなったと思ってたけど、美里ちゃんに伝える事が出来てよかったよ。いいかい、この婆さんの知恵をちゃんとお前さんの子どもたちにも伝えておくれよ。」
「イヤだわ・・与志さん。まだ私、結婚もしてないのに。」
「いや・・そのうちさ。だが・・すぐじゃないかな?婆さんの予感は当たるもんだがね・・。」
何だか、与志さんが可笑しな事を言って笑った。

「よし、じゃあ、美里、次は竹だ。」
竹林に入り、真っ直ぐに伸びた孟宗竹からで切るだけ真っ直ぐに伸びたものを選んだ。
ゆっくりと鋸を当てて切り出した。静かな竹林の中にゴリゴリと言う音が響いた。哲夫は玉の汗をかき始めていた。
「ねえ、お父さん。私にも切らせて!」
美里は、哲夫から鋸を取り上げて、切り始める。意外に、竹は丈夫でなかなか進まない。
「ほら、あと少し・・よし・・・倒れるぞ。」
めりめりと音を立てて太い孟宗竹が倒れる。それを半分ほどのところで切り、二人で肩に担いで店に戻った。

2-19 年越しの支度 [命の樹]

19. 年越しの支度
店に戻ると、加奈と千波が庭に出て、二人の様子を気にしていた。
美里が傍についているとはいえ、また、発作を起こしはしないかと加奈は心配していたのだった。
二人が、竹を担いで戻ってくる姿を見て、安心したのと同時に、背の低い美里がふうふう言いながら竹を担いでいる姿が滑稽で、加奈も千波も笑い転げた。
「何よ!大変だったんだからね!」
美里は二人が笑い転げている姿にちょっと怒っている。
「そりゃ大変でしょう。普通は、背の低い方が前を歩かないと・・坂だと下のほうが重いんだから・・。」
「え?・・お父さん!どういうこと!」
美里は坂を上がる時、哲夫には、先に行くほうが重いからと言われたのだった。
「え?だましたって事?」
「いや・・お前、力があるから、きっと大丈夫だろうって思ってさ・・あんまりにも重かったから。」
哲夫はとぼけた顔で答えた。
「酷い!!」
そう言いながら、門松の仕上げに入った。切り出した竹は斜めに綺麗にカットして、三本をまとめ、切った面を揃えた。それを中央に置き、周りに土を入れる。そこに、松と梅を飾りつける。
「うん。大体、形はこれで良いだろ。」
「へえ・・それらしく見えるじゃない。」
加奈が、石段を上がった辺りからじっくりと眺めて言った。
「そうだろ?・・でも、もう少し飾りつけがしたいなあ。」
「ねえ、どんな飾りつけが良いの?」
千波が訊く。
「ちょっと待って!ねえ、千波、与志ばあちゃんに訊きに行こう。一緒に来て!」
そう言って、美里は千波を連れて再び、与志の家に行った。

「与志さん!」
声をかけると、与志が家の中から返事をした。
「入っておいで!」
美里と千波は与志の家に入った。
玄関には小さな土間があって、奥に台所があった。与志は台所で大鍋の前に立っていた。
「失礼しまーす。」
二人は靴を脱いで台所に上がった。何か良い匂いがしている。
「与志さん・・。」
「おや、今度は千波ちゃんも一緒かい。・・どうだい、これ?」
与志が大鍋の蓋を取ると、中には黒豆が煮てあった。
「久しぶりに、煮てみたんだ。・・一人の時はこんな事もしなかったんだがねえ。てっちゃんたちにもおすそ分けしてみようかなって思ってね。これは時間と手間が掛かるんだが・・やっぱり自分で作るのが一番なんだ。ほら、ちょっと味見してみな。」
与志はそういうとスプーンに煮豆を何個か拾い上げて二人に差し出した。
「わあ・・美味しい。」
「そうだろ?豆も艶々でふっくらしてるだろ?」
「ええ・・美味しい。」
「あとで持っていくからね。加奈さんにそう言っておくれ。」
「さっき、お母さん、御節の準備をしていて、煮豆をどうしようかって言ってたから、きっと喜びます。ありがとうございます。」
千波が言った。
「それで、何の用かな?」
「大体、門松は出来たんで空けど・・飾り付けが欲しいって・・門松の飾りつけってどういうものか、きっと与志さんなら知ってるんじゃないかって思ったんです。ねえ、教えて下さい。」
美里が神妙な顔で訊いた。与志は嬉しそうな笑顔を見せた。
「門松は福を呼ぶってさっき言っただろ。福を呼ぶにはいろいろあるんだが・・まずは、南天の赤い実を飾り付けるんだ。」
「南天?」
美里が不思議そうな顔をしている。
「ああ、南天は、難を転じるっていう言葉から来てるんだ。」
与志はそう言うと、台所の窓を開けた。
「ほら、あそこに見える赤い実をつけてる機だよ。」
二人は与志が指差す方をみた。
「それから・・そうだね・・千両とか万両の樹を飾ると良い。名前の通り、千両、万両って財産が増えるって言う意味さ。」
「それはどこにあるかしら?」
千波が訊くと、与志は少し考えてから言った。
「さっき、美里ちゃんが竹を切った林の入り口あたりに、膝丈より少し小さくて、黄色い実をつけった可愛い樹が生えてるはずさ。赤いのもあるかもしれないね。よく探して見ると良い。きっとあるから。・・ああ、できれば、スコップで根っこごと掘り出してやりな。そいつは、門松に飾った後、どこか庭に移してやれば、来年もずっと生えるようになるから。」
「はい。」

千波と美里は与志に礼を言うと一度家に戻って。はさみとスコップを持って、再び、畑の方へ下りてきた。与志のいったとおり、竹林に入るところに小さな赤い身を付けた樹が生えていた。黄色い身を付けたものもあった。二人は力を合わせて丁寧に掘り出すと、一度、与志に見せに行き、せんりょうと万両ということを確認した、それから、台所の窓から見た南天の樹を切り、家に戻った。
「難を転じるおまじないの、南天と、財産を増やしてくれる千両と万両よ。」
少しニュアンスは違っているが、そう言いながら二人は、門松の竹の下あたりに丁寧に飾りつけた。
二人が飾り付けの樹を探している間に、加奈は、半紙を折って注連飾りを作っていて、最後に小物上に飾りつけた。
「完成したね。」
「立派なもんじゃない!」
「ええ・・素敵。」
家族で力を合わせて、門松が出来た。初めてだった。
「ねえ、写真を撮りましょう。家族全員で。」
加奈が言うと、哲夫はすぐにカメラを取りだしてきて、セットした。
玄関の前、4人揃って笑顔で写真に納まった。

2-20 除夜 [命の樹]

20. 除夜
日が暮れて、いよいよ、大晦を迎えた。家族四人揃って迎えるのは久しぶりの事だった。おせち料理の準備を終え、年越しそばがテーブルに並んだ。
「ねえ、お父さん、小さい頃みたいに、年明けすぐに初詣に行こうよ。」
千波がそばを啜りながら言った。
「初詣?」
「子どもの頃、いつも行ったじゃない。」
「そうそう・・紅白を見終わったら、急にみんな着替えて・・近くの神明宮だったよね。」
美里も思い出したように言う。
「ねえ、ここだと・・どこの神社に行くの?」
千波が訊くと、加奈が答えた。
「・・近くだと・・ほら、すぐ下にある神社かしらね?」
「あ、そうか。でも、なんだか近すぎるね。・・」
千波はちょっと不満そうに言う。
「そうだな・・、それに、きっと真っ暗だろう。確か、去年・・いや、まだ、今年か。行ってみたけど真っ暗だったし・・夜明けにならないとね・・。」
「そうか・・残念。」
千波はそう言うと、年越しそばを啜る。
どこからか、微かに梵鐘の音が聞こえた。
「ねえ・・聞こえた?」
美里が箸を置いて言った。
「何?」
千波が美里に訊く。
「ほら・・静かにして。鐘の音がしたみたい。」
しばらく、しんと静まると、ゴーンと梵鐘の音が聞こえた。
「ああ、善妙寺で、除夜の鐘を撞いているんだろ?」
「ねえ・・行ってみようよ。」
千波が言うと、美里も行こうと賛同する。
「水上医院の上辺りにあったはずだから・・歩いて行けるだろ。行ってみるか。」
すぐに着替えて、四人揃って出かけることにした。

善明寺までは、石段を下り、通りを通って、玉木商店。須藤自転車の前を通り、周遊道路を横断して、坂道を上る。20分程度の距離だった。

千波と美里が懐中電灯をもって、哲夫と加奈の前を歩く。時折、千波が振り返り、哲夫を気遣う素振りを見せた。石段を下り切ると、神社だったが、哲夫の言った通り、真っ暗でひっそりとしている。通りに出ると、街灯がポツリポツリと灯っていて、ぼんやりと行く先が見える。家々の灯りがぼんやりと灯っている。大晦日というのに、さほど寒さを感じない。
哲夫と加奈の先を歩く、娘たちを見て、哲夫がポツリと言う。
「つい、この間まで、手をつないで歩いてたように思うんだけどなあ。」
それを聞いて、加奈がくすっと笑った。
「なに?手をつないでほしいわけ?」
「いや・・そういうわけじゃないさ。もう、すっかり大人になったんだなあって思ってさ。」
「そうよ。随分前に成人式も終えたんだし・・。」
哲夫は少し寂しげな表情で小さく溜息をついた。
すると、前を歩いていた娘たちが急に足を止めた。
「ねえ、あれ!」
美里が指差した先には、善明寺がある。ちょうど水上医院の上あたり、灯りが点っていた。明かりは山肌に沿うように上に向かって綺麗に並んでいた。
四人は、水上医院の前を通り、石段の前に立った。石段の両脇に明かりが点いている。
「お父さん、登れる?」
千波が少し不安げに訊いた。
「ああ、大丈夫。」
哲夫はそう言うと、一歩ずつ石段を登る。大丈夫と言ったものの、10段ほど上がったところで少し息が上がる。「ふう」と一息つくと、千波と美里が哲夫を挟むようにして手を繋いだ。
「さあ、行こう。」
「おい・・恥ずかしいじゃないか・・。」
「良いじゃない。昔はいつもこうやって初詣に行ったでしょ?」
千波と美里は悪戯っぽい笑顔を見せた。
ゆっくりと石段を登る。
幼かった頃の二人は、いつも、哲夫の腕にぶら下がるようにして石段を登ったものだったが、今は、逆に、哲夫を引っ張るようにするほどになっている。加奈が、後ろから哲夫の背を押した。なんだか、介護されているような恰好で哲夫は石段を登るのだった。
あと、5段ほどのところで、境内の様子が見えてきた。
境内のあちこちに電燈が灯されて、ぼんやりと人影が見える。随分、大勢の人が集まっているようだった。
石段を上がり切ると、本堂の脇にテントが建てられていて、女性たちがしきりに動き回っているのが見えた。
「あら、倉木さん!」
声を掛けてくれたのは、保育園の園長だった。いつもパンを届けている保育園は、善明寺が経営している。園長は、この寺の住職の奥さんだった。
「ご家族揃って、お参りいただくなんて嬉しいわ。」
テントの中では、お参りの人の接待がされていた。小さなテーブルとイスが幾つかあり、すでに何人かが座って、振舞われた甘酒を飲んでいた。
「お世話になってます。」
加奈が頭を下げると、娘たちも揃って頭を下げた。
「ねえ、お父さん、ほら、あれ!」
千波が指差したのは、鐘楼だった。町の人が列を作って、一人ずつ、順番に梵鐘を撞いていた。
「お参りしてから撞かせてもらおう。」
四人揃って本堂で手を合わせた。
本堂の中では、住職が、御本尊の阿弥陀如来の前に座り、静かに経を読んでいる。
「何だか、有難い気持ちが心の中いっぱいになるわね。」


2-21 百八つの鐘 [命の樹]

21. 百八つの鐘
お参りを済ませて、列に並んだ。
「除夜の鐘って幾つ撞くのか知ってるよな?」
哲夫が千波に訊いた。千波は少し考えてから、「数なんて決まってるの?」と答える。こういう事は千波は疎かった。
「やっぱり千波は知らないのね。」
美里が言うと、千波は少し悔しそうな顔をして言った。
「じゃあ、お姉ちゃんは知ってるの?」
「もちろんよ、百八つに決まってるわ。煩悩の数だけ鐘をつくのよ。」
「煩悩って何?」
千波が訊くと、美里は急に困った顔を見せた。
「それは・・ほら・・ええっと・・食べたいとか眠りたいとか・・そういう欲求みたいなものよ。」
「そんなのが、百八個もあるわけないじゃない。せいぜい10個くらいでしょ?」
「そんなことないわよ。」
「そりゃそうよ、お姉ちゃん、昔っから欲の塊だったからね。いつもおやつを自分の方がたくさん採ってたし、私が持ってるものは自分もすぐに欲しがるし・・」
「何言ってるの!何でも欲しがるのは自分でしょ?携帯電話だって・・中学生の時から欲しがってたし・・新しい洋服だって・・妹なんだからお下がりでいいのに・・。」
「お下がりなんて嫌よ。それに体型だって違うんだから・・。」
「どうせ、私は太ってますよ。背も低いしね・・。」
姉妹で頓珍漢な会話をし始めて、哲夫は可笑しくなってしまった。

すると、列の前に並んでいたご婦人が急に振り返って、「姉妹で仲が良い事。」と笑顔を見せた。
「これは・・須藤自転車の・・。」
「あら、倉木さん。いつも、ありがとうございます。」
そう言って、深々と頭を下げた。千波も美里も少しばつの悪そう顔で頭を下げる。
「除夜の鐘は、百八つ。煩悩の数って言われてるけど・・いろいろな意味があるみたいよ。ご住職に伺った話だけどね。」
須藤自転車の奥さんは、穏やかな笑みを浮かべて、千波と美里に話した。
「人間には、眼・耳・舌・身・心の六つの欲の根があって、それぞれに好と悪と平。良い事と悪い事と普通でも言えば良いかしら?その3種があるのよ。これでいくつ?」
「ええっと18ですね。」
千波が答える。
「そう、そしてそれぞれに、浄と染。綺麗と汚いがあって、36種類。それが、前世と今世と来世にそれぞれあるから108になるらしいのよ。」
千波も美里も感心したように須藤自転車の奥さんを見ている。

「何だか、人間はその欲から生まれる前も死んでからも解放されないみたいですね。」
哲夫が言う。
「悪い事ばかりじゃないわよ。その欲があるからこそ、人は必死に生きるんでしょ?」
加奈が悟ったような事を言った。
「お母さん、カッコいい。」
美里が変な褒め方をした。
鐘を撞き終わった人の列に源治がいた。
「欲なんて、108なんてもんじゃないぞ。もっとたくさんあるだろ?俺なんか、欲の塊みたいなもんだからなあ。1回くらいじゃまともにはならないな。」
そう言って笑った。
千波たちの順番が来た。鐘楼には、若いお坊さんが立っていた。
「さあ、鐘に向かって合掌してください。」
千波と美里は並んで合掌した。そのお坊さんは小さな声で、南無阿弥陀仏と経を唱えた。
「さあ、どうぞ。」
撞木(しゅもく)の手綱が差し出された。千波は神妙な面持で受け取ると、ゆっくりと二度ほど引き寄せてから勢い良く撞いた。
「ゴーン。」
全身を包み込む深い鐘の音が夜空に広がっていく。続いて、美里も、加奈も撞いた。
哲夫が鐘の前に立つと、その若いお坊さんが哲夫を止めた。
「さきほどで百七の鐘を撞きました。最後の一つは、年が明けてから撞くのが決まりです。」
そう言うと、その場で少し時を待つことになった。

本堂の読経が終わり、寺の住職が鐘楼へ現れる。
鐘を撞き終わった町の人たちが鐘楼の周りに集まり、手を合わせている。
金襴の袈裟を着けた住職が、鐘楼の階段をゆっくりと登り、梵鐘の前に立ち、再びお経を読み始める。
「さあ、どうぞ。」
若いお坊さんが時計を見乍ら、哲夫に促すように言った。
哲夫はゆっくりと撞木の手綱を引き寄せる。
2度ほど引き直して、体の中にある病の全てを払い除く思いで、全ての思いを込めて一気に撞いた。鐘の音は哲夫の全身に沁みるように響く。
ひときわ大きな鐘の音が響いた。
「良い音でした。この世の災いすべてを払い除くような良い音でした。ありがとうございました。」
住職が、哲夫に向かって、手を合わせ静かに言う。
「こちらこそ、ありがとうございました。」
哲夫は、なぜだか涙が溢れてきた。悲しいわけでも淋しいわけでもない。何か心の中に穏やかなものがじんわりとこみ上げてきて、涙が止まらなかったのだった。
加奈は、哲夫の涙を見てもらい泣きしていた。

甘酒の接待を受けた後、四人は来た時と同じ道をゆっくりと戻って行く。
新しい年を迎えた。

3-1 新年の挨拶 [命の樹]

1. 新年の挨拶
元旦の朝。
おせち料理が並んだテーブルに、哲夫、加奈、美里、千波の顔があった。
「さあ、お屠蘇よ。」
加奈が大事そうにテーブルに運んできた。
「これ、これ、これがなくっちゃ。」
千波が言うと、美里も応えるように言った。
「じゃあ、お父さんから。」
毎年の正月の決まった会話である。
「じゃあ、みんな、おめでとう。こうやって新年が迎えられたのは、何よりの幸せだね。」
哲夫はそう言ってお屠蘇を飲む。
加奈、美里、千波の順に一回り。
これが倉木家の正月行事の始まりだった。
「いただきまあす。」
真っ先におせち料理に手を付けるのは決まって美里だった。
「あ、この黒豆、美味しい!」
「そう?今年はちょっと違うのよ。」
加奈が少し得意げに言った。
「まず、お豆。今年のは玉木商店のご主人がね、とびきり良い豆だよって下さったの。丹波産の大粒の黒大豆でね、問屋さんから分けてもらったんだって。」
「丹波ってどこ?」
美里は余りそういう事は知らなかった。
「丹波って・・たしか・・ええっと・・。」
実は加奈も、余り正しくは知らない様子だった。
「京都の北部よ。山間の静かなところだって。」
千波は、知識はあるが、そうしたものへのこだわりがない。だから、あまり興味の無さそうな言い方をして、黒豆を摘まんだ。
「それとね・・与志さんにちょっと相談したのよ。どうしても皺皺になりがちだったでしょ?何かコツがあるんじゃないかって思ってね。で、それをやってみたの。」
「え?どうやったの?」
美里は興味深そうに訊く。
「浸透圧の変化を使うんじゃないの?」
再び、千波が少し機械的な言い方をした。
それを聞いて、加奈は少しげんなりした表情を浮かべたが、美里が興味深そうな表情を浮かべていたので、美里にだけ教えるように言った。
「口で教えるのはちょっと難しいけど・・煮汁をちょっと工夫するの・・。」
それからひとしきり、おせち料理の話が続いた。
哲夫は、娘と母が料理の話をしている姿をみて、改めて、娘たちの成長を実感していた。


3-2 蒲鉾 [命の樹]

「ねえ、哲夫さん、この蒲鉾、どう?」
加奈がいきなり訊いてきた。
「どうって?まだ、食べてないよ。」
哲夫は、そう言うと、目の前の紅白の蒲鉾をひとつ摘まみ上げた。
「ん?」
箸先から感じる弾力が何だか少し違うように感じた。
「ねえ、食べてみて。」
「うん。」
哲夫は一切れ口に入れる。
「加奈・・・これって・・まさか?」
「判る?そう。山口名産の白銀かまぼこよ。ほら、去年のお正月、お姉さんから、せっかく小田原の高級な蒲鉾を貰ったのに、やっぱり白銀にはかなわないなって言ったじゃない?」
「ああ・・だけど・・白銀ってそこらでは売ってないだろ?・・確か、ネット通販でも手に入らないって言ったじゃないか。」
哲夫はそう言うと、もう一切れ口に入れて満足そうな表情を見せる。
「そうなのよ。でもね、教え子の中に、山口の子が居てね。雑談でそんな話をしたら、びっくりしたの。なんと、その子のお父さんがそこの工場にお勤めだったのよ。」
「へえ・・そんな・・偶然・・があるん・・だな。」
哲夫は二切れ目の蒲鉾を口の中に居れたまま言った。
「でね、わけてもらえないかってお願いしたら、たくさん送ってくださったの。・・・玉木商店や与志さんにも暮れのご挨拶に遣ったのよ。」
「何だか懐かしいなあ・・。」
哲夫はそう言いながら、ふるさとの味を再び確かめた。
とびきり美味しいものかどうか、それは判らない。おそらく、小田原名産の高級蒲鉾の方が世間的には美味しいのかもしれない。しかし、哲夫には、この味が格別なものなのだ。

故郷にいた頃、正月かお盆で一族が集まる様な機会でしか、口にできない代物であり、何より高価だった。貧しかった頃、ある種、憧れの食べ物であった。
哲夫が大学進学で故郷を離れる時、母が作ってくれた料理にも、この「白銀」が入っていた。まさに人生の節目の味とでもいうべきものだった。
加奈は、偶然のように蒲鉾を手に入れたような言い方をしたのだが、実は、かなり伝手を探していたはずだった。小さな工場ながらこだわりを持ち、どこでも手に入るような販売網を持っている会社ではない。手軽に土産物にするような価格でもないはずだった。
「ありがとう、加奈。」
哲夫は、胸が熱くなって、それ以上の言葉が出なかった。
加奈はにっこりとほほ笑んだ。そして、言った。

「さあ、そろそろお雑煮にしましょうよ。」
「ああ、そうだな。」

3-3 お雑煮 [命の樹]

哲夫はすぐに厨房に入り、雑煮の支度をした。

正月の雑煮の支度は、倉木家では、代々、主人の仕事と決まっていた。
哲夫の父も、正月のこの日だけは厨房に立ち、みんなのために毎年雑煮を作ってくれた。大した工夫もない、いたってシンプルな雑煮ではあった。だが、中身や味の問題ではない。父が家族のために、普段はやらない台所仕事をする。それ自体が、とても大事な儀式であった。
父が、厨房に立って、出来上がるまでの間、家族は静かに待っている。それは、祖父も祖母も同じだった。幼かった妹には、理解できるわけもなく、すぐに席を立とうとする。その度に、普段は優しい母が厳しく注意する。
それは、食べ始めてからも同じだった。万一、不味い事があっても、それを口にしてはならない。いや、旨いとか不味いとかだけでなく、とにかく、静かに、きれいに食べ切る事が求められるのだった。決して楽しい時間ではないはずだが、何か、家族で過ごす尊い時間を感じられるのだった。

今の倉木家にはそれほどの厳かな事は求められていない。それほど、家長の権威が落ちたのかもしれないが、一つの行事として、哲夫が作った、素朴な雑煮を食べなければ、正月を迎えた気分にならないのだった。

「ねえ、お父さん、今年のお雑煮のお餅って、この間、皆で搗いたのを使うんでしょ?」
千波が少し得意げに言った。
「ああ、そうだよ。きっと、今年のお雑煮は飛び切り美味しいぞ。」
「千波、ずるいわよ。餅つきするんなら知らせてくれれば良いのに。」
美里は少し不満そうだった。
「だって、お姉ちゃん、仕事だったんでしょ?」
「あ~あ・・学生って良いわねえ。」
「お姉ちゃん、仕事辞めて戻ってきたら?どうせ、結婚・・」
千波がそこまで言った時、美里がきっと睨みつけた。千波は慌てて口を噤んだ。

「さあ、できたぞ。」
哲夫が、お椀に入った雑煮を運んできた。
倉木家の雑煮はいたってシンプルだった。
丸餅に竹輪と白菜が入っているだけで、昆布だしと醤油の軽い味付けだった。
哲夫と加奈が結婚したばかりのころは、味噌仕立てのものや具材たっぷりのものも作ったことはあったが、結局、哲夫の故郷の雑煮に落ち着いたのだった。
千波も美里も、物心ついたころからこの味に親しんでいて、これを食べて始めお正月を迎えた気分になる。
「竹輪を入れるのが良いんだよ。」
哲夫は決まってそう言って、みんなの前にお椀を並べる。
こうして、いつもの年の初めと変わらぬ元旦を迎えたのだった。


3-4 千波の決意 [命の樹]

「ねえ、そろそろ、恒例のやつを始めましょう。」
加奈が唐突に言い出した。
「恒例のやつ?・・ああ、今年の目標か?」
「そう。」
加奈はなんだか楽しそうだった。毎年、それぞれが目標を口にするのは、いつからの習慣だったろう。哲夫は記憶を辿ってみた。確か、二人の娘が受験の年だったように思う。そうして二人とも念願の学校に無事入学した。以来、元旦に目標を発表すると叶うという習慣が生まれたのだった。
娘二人は少し躊躇しているようだった。
「どうしたの?目標はないの?・・じゃあ、私から・・。」
加奈が言いかけたところで、千波が制止するように立ち上がった。
「私から言うね。私、やりたいことが見つかったの。」
何か、切羽詰まったような言い方だった。
「千波は就職するのよね。仕事も決まったわけだし・・それを頑張るんじゃないの?」
加奈が尋ねる。千波は、厳しい就職戦線を乗り超え、昨年、一部上場の企業から内定をもらっていて、そのまま東京で就職する予定だった。
「ごめん。お母さん。私、就職はしない。自分で事業を始めるわ。」
「事業を始めるって・・そんな・・社会経験もないのにできるわけないじゃない!事業には資金だって必要だし、まともに収入もなくて、東京では暮らせないでしょ?いつまでも学生じゃないんだからね!もう仕送りはやめるからね。」
加奈は少しヒステリックな口調で捲し立てた。
さすがに千波も、加奈の厳しい口調に怖気づいたように、ため息をつくと、椅子に座った。
「そう、頭ごなしに駄目だって言わなくても・・一体、千波は何がやりたいんだい?」
哲夫が口をはさんだ。
「もう!哲夫さんは千波に甘いんだから!いつも、そう!」
加奈は哲夫の言葉に憤慨して言った。これ以上哲夫が何か言えば、さらに加奈は態度を硬化するのは判っていた。それを察して、美里が口を出した。
「千波、話の順番が違ってるよ。順番に話さなきゃダメよ。」
千波は、美里の言葉に頷いた。
「ねえ、フェアトレードって知ってる?」
千波は少し落ち着いた声で話し始めた。
「直訳すれば・・公正な取引って意味だけど?確か、ほら・・そうそう・・スターバックスでもフェアトレードコーヒーっていう日があったわよね?」
加奈が確かめるように言った。
「そう・・わざわざ、そう言う日を作ってるのは、普通の取引がアンフェアってことでしょ。アフリカや東南アジア、南アメリカの地域は、日本やアメリカやヨーロッパへ産物を輸出することで国を豊かにしようとしているんだけど・・それがフェアがないの。新興国の中でも、貧富の差があって、貧しい人達はますます貧しくなるばかりなのよ。」
千波は、海外へ何度も旅行している。そして、その眼でおそらく厳しい現実も見てきたのだろう。
「で?そのフェアトレードと千波とどういう関係になるの?」

3-5 フェアトレード [命の樹]

加奈は、千波の言いたい事の大方の予想はついていたが、敢えて尋ねた。
千波は、三人の顔を改めて見て言った。
「私、フェアトレードの仕事をしたいの。」
「そんな簡単にできるようなものじゃないでしょう?」
ようやく話が初めに戻った。
「去年、ヨーロッパを回った時に出来た友達の一人でね、ドイツの女の子が始めたの。アフリカの少数部族が作っている工芸品をネットで販売してるのよ。・・そしたら、オランダとイタリアの友達も、ネットを使って手伝い始めて・・千波も、日本人向けの窓口をやらないかって誘われてたんだ。でも、ちょうど就職も決まったところだったからその時は断ったの。」
千波の選択は至極まともだと加奈は納得して聞いていた。
「先月、メールが届いたの。それにはフォトファイルが添付されていて、開いたら、アフリカの部族の写真だったの。そして、メールには、『千波の財布には、今、幾らのお金が入っていますか?おそらく、そのお金で彼らは1年以上暮らせるはずです』と書かれていたの。」
そこまで聞いて、哲夫が口を開いた。
「確かに、きっと日本は豊かすぎるんだろうね。その中に生きてると自分たちが豊かだってことを忘れてしまう。もともと、資源も何もない国が、戦後、これほど豊かになったのは、もちろん、先人たちが弛まぬ努力をしてきたからだろうが・・一方で、新興国からの卑劣なほどの搾取もあったはずだ。いや、日本だけじゃない。先進国と言われている国々は、少なからず、新興国から富を収奪してきたはずなんだ。」
「だからって、それを千波がやらなければならない道理はないでしょ?」
加奈は、哲夫が余りにも評論家のような口調で話す姿に、苛立ったように言い返した。
「いや・・そうだが・・でも、千波の考えは間違っていない。フェアトレードって言うのは、慈善事業じゃない。一方的に施すわけじゃないんだ。生産と消費が対等な立場で取引を行う。当たり前の事業なんだよ。」
「じゃあ、もっと大きな企業が積極的にやるようにすべきじゃない。・・いや、少なくとも、個人がやる様な事じゃないでしょ?」
「・・確かに、大企業も最近は少しずつ広げてきているさ。でも、企業はやはり利益を求めるのさ。少しでも高品質なものをできるだけ安く買い入れて、高く売って利益を生む事が企業の本質さ。だから、本当の意味でのフェアトレードっていうのは、企業では難しいんだ。」
「そんな難しい事、千波にできるわけないじゃない!」
加奈は食って掛かるように言う。
「いや、そんなことないさ。きっとこれからは、千波たちみたいな若い世代が、新しい価値観で、思いもつかないことをやるはずさ。お父さんは千波のやろうとしていることには賛成だよ。」
哲夫の言葉に千波は笑顔になった。
「もう!・・・あなたはいつも千波に甘いんだから・・。ううん、無責任よ!」
「無責任ってことはないだろ?」
「いいえ、無責任なの。本当に千波の事を大切に考えるなら、もっと堅実な生き方を教えるべきよ!あなたがそんなだから、千波がこんな突拍子もない事を言い出すんでしょ?」
「突拍子もないって・・。」
哲夫と加奈が言い争う様子に、千波はテーブルをバンと叩いて立ちあがった。

3-6 加奈からの条件 [命の樹]

「そう・・判ってる。判ってるのよ。」
千波も、加奈の苛立ちが移ったように、きつい口調で言う。
「・・でも、心がね・・何かやらなくちゃって叫ぶの。」
千波はもう少しで涙を溢しそうな表情になっていた。
「小さなことしかできないかもしれない、でも、私にできることがあるなら、やるべきだって・・。」
千波の言葉は、震えていた。悩みぬいた上での結論に違いなかった。
加奈は千波を睨み付けたままだった。

「お母さん、実は、私、少し前に千波から相談されていたの。その時、私も強く反対したの。」
見かねた美里が、口を開いた。
「もっと現実を考えて、お父さんやお母さんの期待・・いいえ、少しでも安心させてあげてって・・ちゃんと就職して、自分の力で生きていけるって言うところを見せるのが、今は一番じゃないかって・・。」
美里は大学を卒業して、加奈と同じ福祉の道に進んだ。堅実な生き方を美里は選んでいた。加奈は、美里がそう言う道を選んだことを少し誇らしく思っていた。
「それで、千波も一度は考え直したみたいだったんだけど・・でも、やっぱり、自分に嘘をつくことができないって。随分悩んだみたいなのよ。」
「だからって・・」
加奈は眉間に皺を寄せて言った。
美里はさらに続けた。
「千波はいつもそう。自分で選んだことはとことんやる性格よね。話を聞いているうちに、千波にはそう言う生き方もあるんじゃないかって思えてきたのよ。・・ねえ、お母さん、きっと千波なら、ちゃんとやり遂げるわ。信じてあげて。」
加奈は、美里の言葉を聞きながらも、そのまま、千波を見つめていた。
「千波の頑固さは、加奈に似てるからね。きっと大丈夫だよ。」
哲夫も言う。
加奈は、哲夫と美里の顔を見た。表情は硬いままだった。

しばらく、加奈は考え込んだ。
そして、何か確信したように口を開いた。
「それは、東京じゃなきゃできないことなの?」
「え?」
「その仕事って、東京にいなきゃできないような事なの?」
加奈は、少し穏やかな口調に変わっていた。
「ううん・・・・たぶん・・ネットを通じて情報を得られれば、東京じゃなくてもできるとは思うけど・・。まあ、海外に行くこともあるとは思うけど・・・」
千波は、余り確信のある返答はできなかった。


3-7 千波の気遣い [命の樹]


加奈は、千波の返事を聞いてから、改めて、千波の方へ向き直って言った。
「わかったわ。千波の好きにしなさい。でも、一つだけ条件があるの。」
「条件?」
「そう。大学を卒業したら、東京暮らしは止めて、ここへ戻って来なさい。」
「ここ?」
「そう、この家にいれば、とりあえず収入がなくても生きていけるでしょ?家の仕事も手伝うという条件なら、あなたの好きな事をやればいいわ。」
加奈の思わぬ言葉に、千波と美里は驚いて顔を見合わせた。
「ほんとに?」
千波が確かめる。
「ええ・・東京にいたんじゃ、何かと心配だし・・もう、心配するのはたくさんよ。」

それを聞いて、美里が言った。
「お母さん、実は、私、家に戻ってくればいいじゃないって千波に言ったのよ。」

本当に美里と加奈はよく似ている。似ているからだろうか、美里が小さかった頃は、加奈は随分と美里を厳しく育てていた。大喧嘩も幾度もしていた。時には取っ組み合いの喧嘩にもなったことがある。それに比べて、千波はほとんどかなと言い争う事さえなかったと哲夫は記憶している。おそらく、千波は加奈が嫌悪感を覚えるようなことを先に察して避けるような生き方を選んできたのではないだろうか。
母と娘というのは不思議な関係だと哲夫は常々感じていた。今回も、美里の考えは結論的に加奈と同じだったのも、そう言う不思議なつながりではないかと感じられた。

「お父さんの体の事もあるし・・安心じゃないかって・・。まさか、お母さんが同じこと言うなんて・・。」
美里は驚いた表情のまま、加奈に確かめるように言った。
美里が、つい、哲夫の病気の事を口にしたのを加奈は咎めるように答える。
「お父さんの病気は関係ないでしょ?それに、お父さんは随分良くなってるの。心配しなくても良いくらいなんだから。」
美里は少しばつの悪そうな顔をした。

「まあ、千波が戻ってくれば、哲夫さんは一番安心でしょうけど・・。」
加奈はそう言って哲夫の顔を見た。
哲夫は苦笑いをした。
「ありがとう、お母さん・・。」
千波は、今まで溜めてきた思いが一気に噴き出すように、涙を溢していた。
「昔っから、千波は言い出したら聞かない子なんだから。」
毎年の正月の恒例行事が、今年は随分と重たいものとなった。
「もう・・千波の事で疲れちゃったわね・・続きは後にして、初詣に行きましょ。」
加奈が涙を拭いながら立ちあがった。