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37 家出 [命の樹]

37 家出
10月に入り、日暮れが随分と早く感じられるようになった頃だった。
土曜日は、噂を聞いて遠方からも数人に昼食目当てに数人の客が訪れ、哲夫はようやく片付けを終えたところだった。加奈は哲夫の身体を気遣って、学校の休みの日に店を手伝うようにしていた。
もう、午後2時を回っていた。
「お客さん、増えたわね・・。」
加奈が赤いソファに座ってコーヒーを飲みながら言った。
「ああ・・今くらいが丁度いい。あんまり増えると体が持たない。」
哲夫は少し疲れた様子で言った。
「無理しないでね。」
「ああ・・。大丈夫だよ。・・このところ、毎週、結ちゃんに診て貰っているから・・。」
「そう。」
「ああ、そうだ。・・薔薇の花がね・・、咲きそうなんだ。今年は無理かと思ってたんだけど・・。」
「そう。」
哲夫が何か無理に明るい話題を持ち出そうとしているように感じ、それが身体の不調を隠そうとしているように尾越えて、加奈は、哲夫の言葉の中身が入ってこなかった。
カランカランと音がして、玄関のドアが開いた。
「いらっしゃいませ。」
見ると、サチエが大きな鞄を抱え、ユキエの手を握って立っていた。表情は固い。
「どうしたの、サチエちゃん?」
加奈が訊ねると、サチエはじっと加奈を見つめて言った。
「ここにいさせてください。」
何か強い覚悟を感じさせるような言葉だった。
「ここにって・・お母さんは?」
「もう、お母さんと一緒に居たくないんです。」
サチエはそう言うとぽろぽろと涙を零し始めた。妹のユキエも、サチエが泣くのを見て釣られて泣き始めてしまった。
「まあ・・何があったかは判らないけど・・とにかく、中に入りなさい。さあ・・」
加奈はそう言うと、サチエから大きな鞄を取り、二人を抱きしめるようにして店の中へ入れた。二人はソファにちょこんと座った。
「さあ、これ、飲みなさい・・落ち着くから。」
哲夫は厨房からホットミルクを二人には運んできた。
「お昼は済ませたの?」
加奈の問いに、サチエがこくりと頷いた。
「ここに居てくれるには、おばさんも嬉しいけど・・お母さんが寂しがるでしょ?」
サチエは首を横に振って言った。
「いいの。お母さんなんか、知らない・・。」
加奈と哲夫は顔を見合わせた。そこへ、厨房のドアが開いて与志さんが姿を見せた。
「早生のみかんが取れたから、もってきたよ。」
与志さんは、籠いっぱいのみかんを哲夫に手渡した。
「与志さん、ありがとうございます。・・紅茶、飲んでいきますよね。」
哲夫はそう言うと、店の中にいるサチエとユキエのほうに目配せした。与志さんは、二人の姿を見て、これはただ事ではなさそうだと直感して言った。
「おや、珍しいお客さんがいるじゃないか。・・どうした、二人して。母さんは?」
サチエは口を噤んでいたが、ユキエは素直に答えた。
「新しいお父さんと買い物。・・ケーキを買ってくるって。」
「新しいお父さん?」
与志さんが訊き直すと、サチエが怒ったように言った。
「お父さんじゃない!」
与志さんは、加奈の顔を見て、ゆっくりと席を立ち、厨房へ行った。
「紅茶、できたかい。」
そういうのは口実で、カウンターの前に立つと、加奈と哲夫に囁くような声で言った。
「あの子達のお母さんのところへ行って、事情を聞いておいで。私が相手をしておくから。」
加奈は小さく頷くと、そっと厨房のドアから出て行った。
与志さんは、哲夫から紅茶を受け取り、さっき持ってきたみかんを二つ握って席へ戻った。
「ほら、ばあちゃんが作ったみかんだ。旨いぞ。」
サチエはさっと手を出して、与志からみかんを受け取ってむき始めた。サチエはテーブルに置かれたみかんをじっと見つめたまま、手を出そうとしなかった。
「家を出てきたのかい?」
サチエは小さく頷いた。
「そうかい。そりゃあ、勇気が要っただろうね。妹も連れてきて・・ここまで歩いてきたのかい?」
再び、サチエは小さく頷く。
「サチエちゃんは怒ってるんだね。・・新しいお父さんは嫌な人なのかい?」
「違う・・・嫌いなんじゃない・・・お母さんが・・・。」
「お母さんが何か言ったのかい?」
「ううん・・そうじゃない。お母さん、また、怖い目にあう。きっとまたたくさん血を流して・・。」
サチエは、1年近く前に目の前で起きた事が忘れられないのだった。母が男と一緒にいる姿自体が、サチエに、あの時の恐怖を思い出させているに違いなかった。そう簡単に忘れられるはずも無かった。
「そうかい・・そうかい。」
与志はサチエの頭をなでてやった。僅かな言葉だが、サチエの思いは良く判った。
「でもなあ・・サチエちゃんが家を出てきてもどうしようもないんじゃないのかい?ずっとお母さんの傍に居て、その男の人をお母さんから遠ざけないと駄目だろ?」
「だって、お母さん、大丈夫だって。この人はそんな事は決してしないって言うの。」
「じゃあ、しないんだろ?」
「ううん、判らない。お父さんも私が小さかった頃は優しかったって言ってたし・・ユキエが生まれてから、仕事がうまくいかなくって・・殴ったりするのはお父さんが悪いんじゃないって言ってた。でも、いつもお母さんは泣いてたの。今度もきっとそうなる。きっと・・。」
僅か7歳の幼子ながら、母の身を案じているのが痛いほど判った。確かに、この後、何事もない保証は誰にも出来ないはずであった。
「じゃあ、ばあちゃんが、その男を見てやろうじゃないか。伊達に長く生きちゃいないさ。悪い奴はすぐに判る。お母さんにも説教してやろうじゃないか、なあ、サチエちゃん。」
与志の言葉にサチエは少し安心したようだった。4/23

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