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42 三輪自転車 [命の樹]

42 三輪車
「何か気になる事があったんですか?」
加奈は心配そうな顔で訊いた。
「いや・・先週だったかな・・そこで、てっちゃんが座り込んでいたんだ。配達でくたびれたって言ってさ。顔色も良くなかったんで、心配だったんだが・・。」
哲夫は加奈にそんな事は一言も言っていなかった。今日も特にそんな様子は感じられなかった。
「それでな・・ずいぶん世話になったお礼もと思って、ちょっと良いものを用意してみたんだ・・気に入って貰えるといいんだが・・。」
御主人はそう言って、作業場の奥へ引っ込むと、すぐに、1台の自転車を押して出てきた。
「俺んとこはもともと自転車屋だからな。あれだけ大きな荷物を運ぶんじゃ、大変だろう。どうだい、三輪の電動自転車だ。こいつなら、後ろに大きな荷物も積めるし、楽に運転できる。哲夫さんも喜ぶと思うんだがな・・。」
随分高価な自転車のようだった。サドルも大きめで皮シートのようだった。サドルの後ろには大きな荷台もついていて、パン箱をたくさん積めそうだった。
自転車屋のご主人が言う通り、これなら哲夫の体の負担も小さくて済むに違いなかった。
「ええ・・何だか、良さそうですね。お幾らなんですか?」
「いや代金は要らないさ。礼のつもりだからよ。」
「いえ、そんなわけにはいきませんよ。」
そんな遣り取りをしていると、隣で奥さんが言った。
「じゃあ、パンの代金ということでどう?毎週、おいしいパンを届けてもらっているのに、今まで一度もお代を受け取ってもらっていないのよ。・・自転車はパンのお代。いえ・・自転車のお代をパンで・・まあ、いいでしょう?どっちでも。こんなに主人が動けるようになって、昔みたいに働けるようになったのも、全て、哲夫さんと加奈さんのおかげなのよ。ねえ、ぜひ、受け取って下さい。」
奥さんは笑顔でそう言った。
加奈はありがたく受け取ることにした。少しでも哲夫の負担が減るのであれば、いくら高くても良かったのだが、自転車屋の夫婦の好意に甘えることにした。
自転車屋の夫婦に、深く礼をすると、さっそく、加奈は乗ってみた。
サドルが大きくてすっかり座れる。軽い力ですっと進む。良い具合だった。
加奈は、一旦、店の方へ戻りかけたが、せっかくなので、水上医院へ向かうことにした。すいすいと進む自転車は、水上医院に向う坂道も楽に登れた。これなら哲夫の身体への負担も少なくて済みそうだと思いながら、

水上医院の前に着くと、隣の家の前に郁子が居た。
「あら・・加奈さん・・。」
郁子は娘たちとともに、金原の家に引っ越したのだった。引越の片付けをしていたようだった。
「郁子さん、お元気?もう新しい暮らしには慣れた?」
「ええ、子どもたちもすっかり元気で、誠一さんも優しくしてくれています。」
心から幸せを噛みしめている様な笑顔で郁子は答えた。
「加奈さんはどうしてここへ?・・どこか具合が悪いんですか?」
「いえ・・哲夫さんが・・」
そこまで口に出したが慌てて言い返した。
「いいえ・・元気よ。哲夫さんが保育園へパンを届けた後、ここにもパンを届けに来ているのよ。私も今日は学校もお休みになったんで、ちょっとお散歩のつもりでね。」
「いいですねえ。・・ねえ、加奈さん、是非、一度、お二人で遊びに来てください。サチエもユキエも哲夫さんの事が大好きですから、それに、誠一さんもぜひお礼がしたいって言ってましたから。」
「ええ、ありがとう。でも、それなら、与志さんを誘ってあげて・・一番、お礼をしなくちゃいけないのは、与志さんじゃないかしら?」
「ええ・・与志さんにも、お話はしたんですけど・・」
「そう。与志さんはそういうのは余り好きじゃないかもね。まあ、私も一度話しておくわね。皆で楽しくできればいいものね。」
そんな会話をしていると、哲夫が水上医院の玄関に立って、外に出ようとしているのを見つけた。
手には、薬の入った大きな袋を持っていて、少し、浮かぬ顔をしていた。
加奈は、哲夫の病気を知って郁子が気遣うのを気にして、哲夫が出てくる前に、水上医院へ行くことにした。
「じゃあ。」
加奈は、足早に自転車を押して、水上医院の玄関にたどり着き、すぐに玄関に入った。
「迎えに来たわ。」
待合室には誰も居なかった。
結に挨拶をしようとも思ったが、哲夫の表情を見ると余り良い話が聞けそうにないことは想像できた。
「どうしたんだ?」
哲夫は驚いた表情で加奈を見た。加奈は須藤自転車店での事を哲夫に話した。
「そうか・・じゃあ、ありがたく使わせていただきますかね。」
哲夫はそう言うと、玄関を開けて表に出た。すでに郁子の姿は無かった。
哲夫はしばらく三輪自転車を眺めた後、ひょいと跨ってみた。
「うん、良い感じだ。これなら、パンを運ぶのに苦労しない。じゃあ、戻ろうか。」
哲夫は早速三輪自転車に乗って、水上医院から周遊道路まで出た。後ろを加奈が古い自転車で追いかけるように走った。
「少し、回り道しようか。」
哲夫はそう言うと、周遊道路沿いに整備されているサイクリングロードに入った。
11月になり、朝夕は冷え込む日も多くなっていたが、日中はまだ暖かかった。頬をくすぐる風も気持ち良かった。
加奈は、水上医院での診察結果や最近の体調について気になってはいたが、哲夫が気持ち良く走る姿を見ていると、今は訊かない方が良いと決めた。
湖岸のサイクリングロードは、平日とあって誰の姿も無く、静かだった。
しばらく走って、海岸が大きく回り込んだところで、視界に岬が入ってきて、中腹には、赤い屋根の家が見えた。近くからではなかなか姿は見えないが、こうして少し離れると、かなり目立って建っている。
哲夫は自転車を停め、遠くに見える我が家を感慨深そうに眺めていた。
「ねえ、そろそろ帰りましょう。日暮れになると寒くなるから。」
「ああ、そうしよう。」
二人はゆっくりと家路についた。4/30


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