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34 巡り合い [命の樹]

34.巡り合い
夕方、加奈が仕事から戻ると、健が須藤自転車で修行することになったいきさつを話した。
「それじゃあ、また、寂しくなるかしら?」
加奈は少し意地悪気味に尋ねた。
「なんてことないさ、もともと、一人でやってきたんだからな。」
哲夫は少し強がるように答えた。

翌日からはまた普段の暮らしになった。朝、加奈は、コーヒーとサンドイッチを食べると、バタバタと支度をして、車のクラクションを1回鳴らして出かけていく。
一度、昼間に、健が油まみれの作業着でやってきて、置いてあった荷物鞄を持って行った。
「もうひどいんですよ。すぐ怒るし、何かとぶつぶつ言うんですよ。」
口をとがらせているものの、何だかとても嬉しそうな口ぶりだった事に、哲夫は安心した。

1週間が過ぎて、再び、保育園にパンを届ける日が来た。同時に、結の病院がオープンする日だった。哲夫は、早朝からパンを焼き、保育園の分と結のお祝いの分とを袋に入れる作業をしていた。今日は、加奈も仕事を休んで、哲夫を手伝った。
今日は少し早くに保育園にパンを届けた。加奈は初めて訪れる。てっちゃんと呼ばれるのを見て、加奈も嬉しくなって、しばらく、園児たちと一緒に遊んだ。
「あなた、ずるいわ。こんなに楽しい事、独り占めしていたなんて。」
加奈は保育園を後にするとき、そう呟いた。
「また、来れると良いね。」
哲夫は答えた。それから、結の病院のオープニングセレモニーに列席した。病院のオープンは、スーパーや飲食店とは違って、客を呼び込むなどなく、地元の自治会長や老人会の会長、大学病院の同僚や、設計士、建築士などが来賓となり、親族も並んだ。何人かの挨拶があり、結が最後にお礼の挨拶をした。
「本日はお忙しい中、ありがとうございます。この地で皆様のお役に立てるよう頑張ります。ささやかですが、この後、パーティもご用意させていただいておりますので、ごゆっくりお寛ぎください。」

パーティには、哲夫が朝焼いたパンも並んだ。
「このパンは、岬の喫茶店、命の樹のオーナー、倉木様がご用意してくださいました。私共、水上医院にとって、御恩のある方で、私の命の恩人でもある方なんです。ぜひ、みなさんも足をお運びください。」
結は、パーティの出席者に心を込めて紹介してくれた。哲夫は少し面はゆい心地だった。
「おめでとう。いよいよだね。」
「ええ・・おじさん、約束ですよ。週1回はここへ来て診察を受けてくださいね。」
「ああ、そうするよ。・・少しでも長く生きていたいからね。こんなに幸せな時間を少しでも長く楽しみたいって心から思っているんだ。」
加奈は、哲夫の言葉に何か不安を感じた。もしかして、体調が良くないのではないか、いや、取り越し苦労だろう、加奈は自分にそう言い聞かせていた。

帰り際に、須藤自転車に寄ってみた。修理場の中から、「そうじゃないだろ!もう一度やってみろ!」と主人の声が響いた。そっと中を覗くと、健がオイル容器の中に手を入れて何かを磨いているようだった。ぶつぶつと何か言っているようだが、聞こえなかった。
後ろからそっと声が聞こえた。
「倉木さん・・。」
須藤自転車の奥さんだった。
「奥さん、すみません。ちょっと様子をと思ったんですが・・あ、こっちは妻の加奈です。」
加奈は頭を下げた。
「倉木さん、あなたにはお礼を言わなくちゃって思っていたんです。」
「お礼?」
「ええ・・あの人、健ちゃんが来てから昔みたいに元気になって、最近は、リハビリも始めたんです。完全には戻らないでしょうけど、やる気というか気力が出てきたみたいで・・何よりも、毎日、とても幸せそうで・・・。本当にありがとうございました。」
「いやあ・・しかし、御主人のあの怒り方は半端じゃないですね。」
「ええ・・でも、健ちゃんは、どんなに怒られても、逃げない、まっすぐ向かっていくんです。教え買いがあるって言ってます。・・まあ、お店の後をついではくれないでしょうけど、しばらくはこうやっていられるだけで幸せです。本当に良い人を連れてきてくださいました。」
「いや、そんな。・・健君が困っていたから・・何とかならないかって思っただけですから・・。」
加奈が言う。
「きっと巡り合わせですよ。・・健ちゃんも偶然ここへ来た、そして事故にあった時、哲夫さんが通りかかった。・・人ってそういう巡り合わせで生かされているんですよね。」
「そうそう、源治さんや玉木屋のご主人も、須藤さんの事を心配してました。昔から、徳さんは皆の憧れみたいだったそうです。元気な顔を見せてほしいって・・。」
「ええ、きっとそのうちに。」
奥さんは1週間前にあった時とは別人のように、柔らかく幸せな表情を浮かべていた。
「あ、これ。ご主人と健君にも食べてもらって下さい。今日は保育園と水上医院開院祝いで、ずいぶんたくさん焼いたんです。」
そう言って、哲夫は紙袋を渡した。
「会って行かないんですか?」
「今日は止めておきます。何だか、熱がこもった修行中みたいですから。」
哲夫と加奈は、健が元気にやっていることを確認できて、安心して店に戻ることにした。

夕食のとき、加奈が思い出したように言った。
「ねえ、お客さん、増えるかしら?」
「どうして?」
「結ちゃんも宣伝してくれてるし、知り合いも増えたじゃない。あなた一人で大丈夫かしら?」
「そんなに世の中甘くないだろ?だいたい、こんな目立たないところに喫茶店があるなんて変だよ。」
「何言ってるの、自分で決めたんでしょ。ここは見晴らしが良いし、客もきっと来てくれるって・・。」
「そうだっけ?」4/18


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