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51 故郷のミカン畑 [命の樹]

51.故郷のミカン畑
「ふーん。それで、今は?」
与志さんは、草むらに座り込んで、哲夫に訊いた。
「もう30年以上前に出てきたっきりでしばらく戻っていないんです。電話はしますが・・。」
哲夫は、汗を拭き、与志さんの隣に腰を下ろして、話を続けた。
「みかん畑の世話は祖母の仕事でした。祖母が亡くなり、親父も亡くなって、さすがに母だけでは無理なので、ミカン畑は近所の方にお願いしたはずです。手入れをしていかないと、周囲の方にも迷惑が掛かりますからね。」
「ミカンは手が掛かるからねえ。草を生やしたままじゃ、虫が増えて周りが迷惑するんだよ。病気も出やすいから、農薬も撒かないといけないしね。ほんとに一年中、暇な時はないね。だが、手をかければちゃんと美味しく実ってくれるんだ。」
与志の言葉に、哲夫は、故郷の祖母の姿を思い出していた。
一年中、朝早くから夕方遅くまで、ほとんど畑に居た。曲がった腰を時々伸ばしながら、草を取っていた姿ばかりが浮かんでくる。
「・・ああ、そうだ。良かったら、加奈を手伝わせてやってくれませんか?」
哲夫は、思い出したように言った。
「いやいや、加奈さんに手伝って貰うような仕事じゃないよ。」
与志の答えに、加奈が手を止めて言った。
「実は、私、こっちへ越してきた時、ミカン作りをやってみたいって哲夫さんに言ってたんですよ。でも、素人が簡単にできるもんじゃないからって哲夫さんに反対されて・・・、でも、手伝いしてみたいです。」
与志は加奈の言葉に少し驚いていた。
「まあ・・加奈さんがやってみたいって言うんなら、大歓迎だけどねえ。」
与志は少し戸惑っている。
「午後の少しの時間・・お店が暇になったら、畑に行きます。いいでしょう?」
加奈は、哲夫と与志の両方に了解を取るように言った。
「・・・まあ・・一人で畑に居るのも案外淋しいもんだからね。話し相手がいるだけで違うもんだよ。よし、加奈さんに畑仕事を仕込むとしようかね。・・じゃあ、待ってるよ。」
与志さんは嬉しそうだった。
哲夫は、与志さんを見送った後、再び、倒木を切り始めた。
哲夫は、樹を切りながら、遠くなった故郷のミカン畑を思い出していた。

哲夫は、1960年、瀬戸内の半農半漁の小さな村で生まれた。時代は、戦後復興を遂げ、高度経済成長に踏み出そうとしている頃だったが、瀬戸内の片田舎はまだ戦後とさほど変わらなかった。
哲夫が生まれた頃、父は漁師だった。小さな船をもっている、瀬戸内の周防灘で刺し網漁の漁師だった。だが、哲夫が7歳の夏、大きな台風が村を直撃した。港に避難していた船の多くが、波に浚われてしまった。父の船も、波の藻屑となり、使えなくなってしまった。船を作るのは大金が掛かる。父は、やむなく漁師を辞めることになってしまった。
時代は、高度経済成長の真っただ中。鉄鋼業を始め、多くの工場が働き手を求めていた。哲夫の父も、漁師が続けられなくなったのを機に、近くの鉄工所に勤めた。朝早くから夜遅くまで、父は働いた。たまの休みも、父は自宅に小さな作業場を作って、機械とばかり向き合っていたように記憶している。
もともと、哲夫の実家はこの地を治める庄屋であった。戦前までは、この村のほとんどの土地は哲夫の実家にものだった。しかし、戦後の農地解放で、小作人に土地が分配され、僅かの土地しか残らなかった。それまでは、小作人を使って手広く農作物を作って収入を得ていた一族にとって、大きな痛手だった。それでも、哲夫の曽祖父は、贅沢な暮らしを変えず、大きな借金を作ることになってしまう。父は、婿養子だった。漁師の三男坊だった父は、借金に喘ぐ一族を承知で母と結婚し、小さな船を一つ持ってきて、暮らしを支えたのだった。
ある日、祖父が6反歩ほどの農地の半分をミカン畑にすると言い出した。当時、国策として、「特産地政策」が進められていて、瀬戸内一帯は「ミカン」を特産品とするように、農協が先導して取り組んでいた。祖父は、農協の指導員の口車に乗せられて、大借金をしてミカン畑を作った。
「お前が成人する頃には、ミカンで大儲けできるぞ」と胸を張っていた祖父だったが、小学校の時、「ミカンの大暴落」が起き、儲けるどころか借金がさらに大きくなってしまった。失意のまま、祖父は病に倒れ、あっけなく死んだ。その後、祖母はなんとかミカン畑を守ろうと働いたが、借金は返せないまま、5年後に亡くなった。
父も母も懸命に働いていたにもかかわらず、家計が苦しかったのは、きっとミカンの借金返済が原因だったのだと気付いたのは、哲夫が高校に入ってからだった。
ある日、哲夫が高校から帰宅すると、父が珍しく家に居て、見知らぬ男と話していた。しばらくすると、怒鳴り声が響き、男と父がつかみ合いの喧嘩となった。原因は借金返済の事だった。祖父が、家族に相談なしに、家と土地を借金の担保にしていたため、家と土地は取り上げられ、我が家でありながら、家賃を払う形となった。しかし、それだけでは済まず、結局、借金とミカン畑だけが残ってしまったのだった。
哲夫は、その時、故郷を出る決意をしたのだった。
まだ、若かったからだろう。祖父も祖母も、父も、母も、一体どうしてこんなに愚かなんだと怒りと情けなさとが体の中に充満した。こんなところに居る自分が嫌で嫌で仕方なく、家族とは別の場所で生きたいと願い、遠い、名古屋の大学へ進学したのだった。
今、思えば、なんという親不孝をしたものだと恥ずかしくなる。
しかし、そう思った頃には、もはや、戻れる場所は無くなっていた。
自ら捨てた故郷なのだが、幼い頃の思い出は、幸せに溢れていた。
哲夫が、小学生の頃、秋の休みの日になると、朝から家族総出で、ミカンの収穫作業をした。
自分の仕事は、収穫したみかんを背負子にいっぱいに詰めて、山道を何度も何度も運び下ろすことだった。いい加減くたびれて、寝っ転がった草叢の匂いが何だか懐かしかった。
まだ、幼かった妹は、みんなの仕事を横目に、草摘みをしたり、泥団子を作ったり、畑の中を走り回ったりしていて、哲夫には羨ましかった。
昼時になると、畑の日蔭で、みんなで車座になって、おにぎりとたくあんを摘まんだ。贅沢なおかずがあるはずもなかったが、笑顔に溢れていた。
貧しい暮らしだったが、家族みんなで力を合わせて仕事をして、幸せだった。もう二度と取り戻すことのできない幸せな思い出だった。

命のあるうちに、あの故郷の風景を見ることはないだろう。そう思うと、涙が零れそうになった。寂しさではなく、後悔とも違う、やるせない思いが胸を締め付けた。

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