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59 芳江先生 [命の樹]

59 芳江先生
園児たちは、椅子に行儀よく座り、サツマイモパンを頬張っていた。あちこちから、園児の「おいしい」という声が響いている。
哲夫はこの光景を眺めているのが好きだった。
子どもたちの、美味しそうな笑顔は、命に溢れ、希望に満ちている。そのためのわずかなきっかけを作り出せていることが嬉しかった。
そして、そんな哲夫の笑顔を見ている時間は、加奈にとって大きな幸せを感じられる時間でもあった。

「あの・・」
加奈の傍に来て、芳江先生が声を掛けた。
芳江先生は、この保育園では最も長く勤めていて、もう30代半ばだった。今春からは副園長として、忙しくしていた。以前、サチエの担任だったこともあり、哲夫がパンを届け始める時、園長への橋渡しをお願いした先生であった。
「先日、母がお店に伺ったようなんですが・・。」
そう言われて、加奈は、すぐにその女性を思い出した。
「ああ・・確か、長野からいらしたって・・。芳江先生のお母様だったの?」
「ええ、母はお店で加奈さんとお話しできて楽しかったって言ってました。ありがとうございました。でも、何だか加奈さんが急に涙ぐまれて厨房に入られてしまったって・・何か、母が失礼な事を言ったんじゃないかって・・ちょっと気にしていたんです。」
「いえ、キノコのお話を教えていただいて、私も楽しかったんですよ。でも、お父様の思い出話をお聞きしているうちに、つい涙ぐんでしまって・・お母様、随分御苦労なさったようで・・」
「そうでしたか。・・・。」
「お母様には、いつでもおいで下さいって、お伝えください。また、長野のお話をお聞かせいただきたいですって。」
加奈がそう言うと、その先生は少し寂しそうな顔をした。
「はい。・・でも、母はもうこちらには来れないと思います。」
「え?どうして。」
「今回、こちらに来たのは、大学病院で検査を受けるためだったんです。体調がすぐれないって言って、近くの病院で診察を受けたら、精密検査が必要だろうっていうことになって・・結局、大きな癌が見つかってしまって・・そのまま、長野に戻って一人暮らしも難しいだろうからって、こっちで入院することにしたんです。」
「そんな・・。でも・・治療すれば、良くなられるんじゃないの?」
「ええ・・なんとかそう期待しているんですが・・なにぶん、高齢で大きな手術には耐えられそうもなくて・・抗がん剤の治療だけはしてるんですけど・・。」
「きっと良くなられるわよ。」
「でも・・母は、父もお爺さんもお婆さんも送って自分の役目は終わった、だから、もう心残りはないって言って・・・なんだかさっぱりした表情で、治療もあまり・・。私はショックで、泣いてばかりいたんですが、むしろ、母に慰められてしまう始末で・・。」
「そう・・。」
加奈は、自分の事のように、話を聞いていた。
「母は、加奈さんとお話したこと、本当に嬉しそうでした。自分の思い出話を誰かに聞いてもらえるっていうのが嬉しかったみたいです。本当にありがとうございました。」
「そうなの・・少しはお役に立てたのかしらね。」
「ええ・・本当にありがとうございました。」
その先生は、頭を下げた。
加奈は、喫茶店での、その女性との会話を思い出していた。
それほどあっさりと死を受け入れられるものだろうか。哲夫は、自分自身納得する生き方がしたいと仕事を辞め、転居もして、今ここにいる。そして、毎日、もがきながら生きている。芳江先生の母も、娘の負担を考えて平静を装っているが、きっと毎日もがきながら生きているに違いない。
「お母様は、長野の山の話を楽しそうに話してくださったわ。一人暮らしだけど、淋しくない。山に入れば、いつもお父様やお爺さまが傍にいるように感じられるって・・。」
加奈が言うと、芳江先生は目を伏せて小さな声で言った。
「ええ・・母はあそこに戻りたいんだろうって判ってるんです。でも・・病身のままじゃ・・。」
「そうね・・。」
「実は私も迷っているんです。このまま、病院に閉じ込めるようにしていて、良いんだろうかって。残り少ない時間なら、母の満足する生き方を選んでもらったほうが良いんじゃないかって・・」
加奈も、哲夫の病気が見つかった時、入院して治療する事を真っ先に考えた。だが、哲夫の場合は、入院治療で快方する見込みはなかったのだった。一縷の望みでもあるなら、やはり、入院し治療に専念できるほうが良いのだろう。
「お母様自身が選ばれる道を尊重してあげるしかないのかしらね・・」
加奈はそういうほかなかった。
「なあ、加奈、そろそろ帰ろうか。」
深刻な表情で話している二人のところへ哲夫がやってきた。
「おや?どうしたんだ、なんだか深刻そうな顔しているけど・・何かあった?」
加奈は返答に困った。芳江の母の病気の事で悩んでいるのだと伝えて、哲夫はどう答えるのか、哲夫も随分悩んで出した答えだっただけに、加奈は知らせたくないと思っていた。
「いえ・・ちょっと、女同士の秘密のお話ですから・・。」
隣にいた芳江が、妙に元気よく答えた。芳江自身もあまり他人には知られたくな様子だった。
「ええ・・そうよ。内緒の話よ。・・・もう、何でもすぐに首を突っ込んでくるんだから・・おせっかいも大概にしてよね。」
「なんだい!・・ちょっと心配しただけだろ?嫌な感じだな。」
哲夫はちょっと不満そうな表情を見せた。
「哲夫さん、体、大事にしてくださいね。子どもたちは、皆、楽しみにしているんです。また、来週も、美味しいパン、お願いしますね。」
芳江は優しく言うと、園児のところへ戻って行った。
「また来週も・・か・・。」
哲夫は少しさびしそうな表情でつぶやいた。加奈は、そう言う、哲夫の後姿を見つめていた。

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