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20 夏の終わり [命の樹]

20 夏の終わり
哲夫が体調を崩した事で、海の家の手伝いは、夏休みを2週残して終了した。
町の皆がたいそう残念がったので、哲夫は、少しだけパンを焼き届ける事だけは続けた。
そんなある日、物置小屋の片付けをしていた哲夫は、懐かしいものを見つけた。
「まだ取って置いたんだなあ・・。」
独り言を言いながら、物置から、釣竿一式を持ち出した。転居の際に、大半のものは処分してきたが、これだけは捨てなかった。
『仕事ばかりで・・趣味もないなんて・・ねえ、釣りでもやってみれば?』
まだ哲夫が若かった頃に、加奈が誕生プレゼントだといって買ってくれたものだった。
「まだ使えるかな?」
南のテラスのロッキングチェアに座って、釣竿を伸ばしてみた。何とか使えそうだった。リールも針も糸も、かなり古くはなっていたが、手慰み程度であれば問題なさそうだった。
「あら、釣竿?・・まだ残ってたのね。」
「ああ、これだけは捨てなかったからね。」
「行ってみる?」
真夏の暑さは残っていたが、夕方の数時間程度なら大丈夫だろうと、加奈も判断して、哲夫とともに行く事にした。集落の通りから用水路沿いの路地を抜けると、小さな港がある。
「おや、もう大丈夫なのかい?」
声を掛けたのは、源治だった。漁師仲間とともに、波止場に網を広げて繕いの作業をしていた。
「ええ・・ご心配をおかけしました。」
哲夫が答えると、加奈も頭を下げた。
「釣りかい?」
「ええ・・そのつもりなんですけど・・餌がなくて・・・。」
「なら、船にあるから出してやるよ。ここらは、小エビかカニを使うんだ。」
源治は船に乗り込んでしばらくするとバケツいっぱいの餌を手渡してくれた。
「元気になったら、今度、船で行こう。なあに、ここらは波もなく穏やかだから心配ない。ここらで釣るよりもっと大物が釣れるはずだ。・・ああ、そうだ、投げ釣りなら、その先の桟橋がいい。今なら、コチとかハゼあたりならすぐに釣れるさ。カニを使えば、チンタあたりも食ってくるかもな。」
哲夫と加奈は、源治が教えてくれた桟橋へ向かった。途中、何人かの漁師に会って、挨拶した。
穏やかな港の風景の中、哲夫は言われたとおりの場所で糸を垂れた。加奈は、隣に座って、文庫本を読み始める。
「ねえ、暑くない?大丈夫?」
時折、加奈が思い出したように哲夫に尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。」
久しぶりの感覚だった。
そう言えば、娘たちがまだ小学生の頃、夏の終わりに、家族で渥美半島に釣りに行った事があった。娘たちは、海水浴をしながら、時々、釣果を確かめるように哲夫のところにやってきて、気が向くと竿を持ったり、連れた魚を覗き込んだりして楽しい時間を過ごした。上の娘は、ラッキーな事にちょうど釣竿を持った時に魚の当たりを感じ、喜んでリールを巻き上げ、10センチほどのチンタを釣り上げたのだった。初めての釣りで、娘にとっては忘れがたい思い出になったはずだ。そう言えば、大学生になってから一度、釣りに行きたいと言い出して、連れて行ったことがあった。それが、最後の釣りだったと記憶している。
今日はさっぱり釣れなかった。
ぴくりともしない。何度か巻き上げてみても、餌もなくなっていなかった。
「今日は、お魚さんはどこかへ旅行でしょうか?」
加奈が冷やかすように言った。日が暮れるまでもうしばらくだった。

「あの・・。」
桟橋の二人のところへ、一人の若い漁師がやってきた。初めて見る顔だった。
「あの・・哲夫さんですよね。」
「ええ・・」
「あの岬の上の赤い屋根の家、あそこの方ですよね。」
何か慎重に訊いてくる。
「ええ、そうですけど。」
「ああ、僕は村上亮太です。ここの漁師です。さっき、源治さんに聞いて、どうしてもお二人にお話したい事があって・・。」
「はい・・なんでしょう・・。」
「僕、高校を出て親父の跡をついで漁師になりました。まだ、2年目で、怒られてばかりなんですけど、この間からようやく一人で漁に出れるようになったんです。知ってますか?漁に出るのって、夜なんです。昼間は魚も目が利いてなかなか獲れないから、夜、明かりを点して魚を集めて獲るんです。」
「はあ・・そうなんですか。・・じゃあ、こんな時間が釣りも駄目ですね。」
「いえ、投げ釣りはまた違います。多分、もうじき釣れ始めるでしょう。夕間詰めっていって、潮も今から動きますし、日暮れ近くになると魚も元気になりますから・・」
「そうなんですか・・。」
哲夫は、何だか、恥ずかしい思いをしていた。そう言えばそんなことを何処かで聞いたことがあった。
「・・実は、漁に出て初めて判ったんですけど、船に乗ると目線はほとんど水平線と同じなんです。今、自分がどこにいるか判らなくなる。源治さんほどになれば判るんでしょうけど・・。判らなくなるとすごく不安になります。このまま、港に戻れなくなるんじゃないかって。」
「そうなんですか?」
加奈が興味を持って身を乗り出した。
「ええ、今でも時々不安になる事があります。でも、先日気づいたんです。目線を上げると、小さな明かりが見えるんです。そう、まだ朝の4時頃だったと思います。真っ暗な中でぼんやりと明かりが見えて、それが、あの赤い屋根のあるところだって気づきました。そのすぐ下には港がある。そう思うと、何だか、とっても安心したんです。それで、赤い屋根のお宅の方へ、お礼を言いたくて。」
「お礼なんて・・。」
加奈は驚いて返答した。
「きっと漁師のみんなも、そう思っているはずです。でも、随分、朝早くから明かりが点いているんですね。」
「ああ、多分、パン焼きの日でしょう。ちょうど4時ごろに起きますから。毎日じゃないんですよ。」
「そうですか・・でも、明かりが見えるっていうのは安心です。これからも宜しくお願いします。」
若い漁師はそう言って頭を下げて去っていった。

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