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25 結と哲夫 [命の樹]

25 結と哲夫
明け方になって、哲夫は目を覚ました。
すでに酸素マスクも点滴も片付けられていて、哲夫は、自分の身に起きた事を知らないまま、むくりを起き上がった。全身がだるかった。カーテンを通して朝日が差し込み始めていて、部屋の中はぼんやりと明るくなっていた。隣のベッドで加奈が静かに寝息を立てていた。
昼前に戻ってきたが、余りに疲れてしまっていて、少し眠るつもりでベッドに入ったところまでは覚えている。その後、誰かが呼ぶ声がしたような記憶がぼんやりと残っている。パジャマに着替えているところをみると、眠っている間に、着替えをしてもらったに違いない。
哲夫はベッドから起き上がり、静かにドアを開けて階下へ降りて行った。
階段下に、見慣れないヒールが二つ並んでいた。一つは、おそらく千波。もう一つは長女の美里ではなさそうだった。美里はヒールのある靴を履かない主義だったからだ。
厨房を見ると、夕食の片付けが中途半端な状態で残っていて、ワインの瓶とグラス、それに小皿が何枚か、流しに置かれていた。
勝手口から外へ出た。既に朝日が差していた。
椅子に座り、ぼんやりと景色を眺めていると、がたがたと音がして、勝手口が開いた。
「おじさん・・・」
顔を見せたのは、結だった。
哲夫は振り返って、やはり・・という顔をした。
「昨日は、大変だったのかな・・。」
「ええ・・でも、千波ちゃんが気付いて、すぐに酸素マスクを・・。」
「そうか・・すまなかったね。迷惑をかけたようだ・・。」
「迷惑なんて・・いつでも、おじさんのためなら駆けつけます。・・でも、おじさん、無茶なことはしないでください。普通じゃないんですよ。」
「ああ・・判っているんだが・・なんだか、病気の事、忘れそうなくらい、毎日が楽しくてね。ここへ来て本当に良かったよ。なんだか、自分がみんなに生かされているって、本当にありがたい気持ちで毎日暮らせるんだ。」
「だからって・・。」
「いや、すまない。これからは気を付けるよ。」
「本当に・・おじさんが居なくなるなんて・・考えたくないんです。医師のくせに・・いや、医師だからこそ、一日でも長く普通に暮らしていてもらいたいんです。」
「すまなかった、本当にすまなかった。」
「わたし・・いつまでも・・おじさんのお傍に居たいんです。・・」
結はそう言うと、哲夫に縋って泣いた。
結の言葉には、一人の女性として哲夫を愛していると言えない、一線を超えられない、精一杯の想いが詰まっていた。
しばらく哲夫は結の肩を抱いていた。

湖の方から、漁船のエンジン音が響いていた。一隻の船がライトを点滅させているのが見えた。
哲夫は結の肩を抱いた手を放し、立ち上がって、手を振った。
「きっと、源治さんの船だ。」
結も湖のほうを見た。朝日に照らされて湖面がきらきらと輝いている。
「浜の漁師の方がね、この家は灯台みたいに目印なんだってさ。うちの明かりが見えるとホッとするらしいんだ。・・ね、いいだろう。そんなふうに、ちょっと、みんなの役に立てるなんてさ。」
結は黙って哲夫の姿を見ていた。
「結ちゃん、昨日のお詫びに、パンを焼こうと思うんだが・・良いかな?」
「無理しないでください。・・」
「君も手伝ってくれないかい?」
「はい、手伝います。」
結はそういうと一旦、家の中に戻って行った。しばらくすると、着替えを済ませてやってきた。白いTシャツにジーンズ、小さなエプロンを着けていた。哲夫は、厨房にいて、冷凍してあったパン生地を取り出して、解凍していた。
「どんなパンを焼くんです?」
「手の込んだものは、今からじゃ、無理だから食パンにしよう。朝食のサンドイッチ用にするんだ。・・生地が解けるまで、窯の火を準備しよう。」
そう言うと、勝手口から結と一緒に外へ出た。窯の横に積み上げてある薪を取り出して小さく割り、釜口へ入れて火をつける。
「釜全体を暖めて、炭火になってから成型した生地を入れるんだ。」
結は、初めて哲夫の手伝いをした。
窯の火加減を見ながら、厨房で解凍したパン生地を食パン型に入れ、少し発酵させてから窯に入れる。医者になってから、哲夫の家に足を運んだことは数えるほどになっていて、ここへ転居してからは今度が二度目だった。
昔の会社員だった哲夫とは別人のように、体を動かし、いきいきしているように見えた。確かに、病人であることを忘れてしまってもおかしくないと結も感じていた。そしてこんな姿をすぐ傍で見ていたいと願っていた。
哲夫は、出会った時の17歳だった結は、まだ少女の面影を残していて、自分の子どもように見ていたのだが、今、こうして傍にいる結は、すでに立派な女性となっていて、娘として扱いことはどこか違うようで、戸惑っていた。
パンの焼きあがるのを待つ間に、哲夫はコーヒーを煎れてきた。
「はい。どうぞ。」
結は哲夫からコーヒーカップを受け取った。
「昨日の事は、あの・・健さんには知らせていませんから。」
「そう・・ありがとう。それでいい。・・余計な気を使わせちゃうからね・・。」
「ええ。」
「おじさん、私の病院がもうすぐ開院するんです。そしたら、週に1回、検査に来て下さい。」
「ああ、判った。・・そうだ・・保育園にパンを届けるから、その後に行く事にするよ。検査で行くなんてみんなが聞いたら驚くだろうから、パンの注文を届けるという事でいいかな?」
「ええ・・私もおじさんのパン、毎週1回食べられるのは楽しみ。ぜひ、そうしてください。・・でも、無理してパン作りしないでくださいよ。」
「ああ・・判ってるよ。・・そろそろ、焼きあがるから、みんなを起こしてきてくれないか?」
「はい。」
結は勝手口から家の中へ戻って行った。

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