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12 決断 [命の樹]


哲夫はすぐに仕事を辞めた。いつ倒れるか判らない状態では重要なプロジェクトを受け持つ事等できないと考えたからだった。会社側は、哲夫の突然の辞表提出に、会長までやってきて慰留を求めてきた。だが哲夫は、訳を言わず、一身上の都合とだけ答えた。
娘たちは既に成人していた。
上の娘、美里は大学を卒業して、名古屋で就職し、2年目を迎え、ようやく責任ある仕事に就いたばかりだった。
下の娘、千波は東京の大学に入学し、あと1年で卒業というところだった。就職先も決まっていて、そのまま東京暮らしをすることになっていた。
哲夫は、娘たちには、病気の事は伝えない事にした。それぞれの人生を精一杯生きる事が望みだと、加奈も説得して、いよいよの時には知らせてくれと頼んでいたのだった。もちろん、結にも同じことを頼んだ。

そうして、哲夫は加奈とじっくり相談し、浜名湖畔の古い借家に転居することに決めた。今までは通勤の都合を考え、街中の高層マンションに住んでいたのだが、もう少しゆったりとした場所で残りの時間をゆっくりと過ごしたいと考えたからだった。

突然の退職と転居の知らせに、当然ながら、二人の娘は驚いた。
上の娘は仕事の休みを使って、転居する日に戻ってきた。
「いったいどういう事?仕事も辞めて、転居するって?一体何、訳が判らない。それに私たちにだって一言相談してくれたっていいじゃない。このマンションは私の育った場所、実家なのよ。転居したら、どこへ戻ればいいわけ?勝手なことしないでよ!」
美里はまくし立てるように哲夫と加奈に言った。
「あなたはお姉ちゃんなんだからしっかりしなきゃ。」と言われ続けて育ったせいで、美里はきつい性格だった。おかしい事はおかしいと言い、納得出来ない事はとことん追求する。仕事ではかなりリーダーシップも取れるために認められているようだが、父や母にも同様の厳しさを求めてくるのだった。少し、加奈の性格に近い、いや、加奈にそっくりだなあと哲夫は常々感じていたが、今回の件では、想定以上の勢いで、「とにかく認めない」の一点張りで、哲夫は閉口した。
「そろそろ、のんびり暮らしてみたかったのよ。あなたたちにも手が掛からなくなったし。」
加奈がそう言っても聞き入れようとしない。
「私が納得できるように説明してよ!」
「納得って・・・ただ、のんびり暮らしたくなったの・・それ以外にないわよ。」
「訳わからない!また来るから」
と言って、結局納得しないままに帰っていった。

翌日には妹の千波が、東京から戻ってきた。
千波は玄関を開けるや否や、大きな声で言った。
「超びっくり!でも、今度の家って庭が有るんでしょ?良かったね、お父さん。前から、庭弄りをやってみたいって言ってたもんね。お姉ちゃん、随分、怒ってたでしょ!まあ、無理ないけどね。・・でも、お母さんも、のんびり暮らせるほうが良いよねえ。」
妹のほうは気楽なものだった。
昔から、自由奔放という言葉がぴったりで、やりたいと思った事はすぐにでもやってしまう、そのための苦労など考えもしない。そして、必ずやってしまうという不思議な生き方をしている。どちらかというと哲夫に似ているのではないかと加奈は思っていた。
「ああ・・疲れた・・ねえ、冷たいジュースある?」
そう言いながら、大きなカバンをどさっと置くと、キッチンへ行った。冷蔵庫を開け、缶ジュースを取り出してごくごくと飲み始めた。
「ふう・・生き返ったみたい。」
そう言うと、キッチンのカウンターに白い薬袋が置かれているのを見つけた。
「何?お父さんの名前が書いてあるけど・・どこか悪いの?」
加奈は驚いて、薬袋を取り上げようとした。しかし、千波は一層不審がって懐に抱えたまま、トイレに駆け込んだ。そして、すぐにスマホを取り出して、薬名を調べ始めた。しばらく、静かになった。
ゆっくりとドアを開けて、千波は出てきた。帰ってきた時の威勢の良さはなくなっていて、随分と戸惑った表情だった。
「ねえ・・お母さん・・・お父さん、癌なの?」
千波は、小さな声でそう言うと頼りない目で加奈を見つめた。加奈は、小さく頷いた。
「お父さん、知ってるの?」
加奈はふたたび小さく頷いた。
「どうして・・・お父さんが・・・」
千波はそれ以上言葉が続かず、キッチンの床に座り込んでしまった。
「あなたたちには内緒にしようって決めてたんだけどね・・。」
「内緒って!そんなの、いやよ!」
隣の部屋で引越しの荷造りをしていた哲夫が、二人の会話を耳にして、やってきた。
「すまんな・・無用な心配を掛けたくなかったんだ。」
父の言葉は何か他人事のように聞こえた。
「心配かけたくないって・・そんな・・・ちゃんと診てもらったの?」
「ああ・・結・・いや、水上先生に診察してもらったんだ。」
「治るの?」
哲夫は小さく首を横に振った。
「もう末期なんだって・・手術も難しくてね・・だから、残された時間をお母さんと一緒に静かに暮らしたいって思ったんだ。すまんな。」
もう千波は哲夫の言葉が耳に入らず、ぼろぼろと涙をこぼして泣いた。加奈もそれを見て泣いた。
美里には、千波が伝えた。すぐに、美里は目を真っ赤にして再び戻ってきた。
加奈と美里と千波は、顔を合わせるや否や、抱き合ってわあわあと泣いた。

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