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10日目④和邇 [琵琶湖てくてく物語]

和邇という地名、初めて見たときどう読むのか判らなかったので、すぐに調べてみた。
「わに」と読むらしい。「わに」って、あの爬虫類の?それとも、神話に出てくる「サメ類」の総称の「鰐」?いずれも、琵琶湖とは無関係な生き物だ。別の理由があるに違いない。それで、もう少し調べてみると、古代豪族の「和邇氏」と関係があると分かった。「和爾氏」は、大和盆地の北東部を勢力圏にした豪族だが、その一族がこの地を治めたことでこの名があるということだった。
琵琶湖西岸、特に、堅田以北の地は、今ではかなり寂しい状況にあるが、大和成立のころには、琵琶湖の水運により大いに発展していたようだ。それにしても、1000年以上にわたり、地名として残っていることは驚くべきことだと思う。
地名といえば、小学生の時、担任の先生が日本史について楽しく教えてくださり、友達と、近くの古墳や遺跡を巡ることが好きになった(今でも好きだが)。
そのころ、自分の家の地名にも興味がわいて、図書館で古地図を開いてみて驚いた。その地図には、我が家の地所に「城尾」という字名がついていた。どうにも気になって、小学生のくせに、郷土の古代史を研究されている方を訪ねて訊いてみた。
その方がおっしゃるには「城尾」というのは、紛れもなく城の外れを示していて、研究資料を見せてもらうと、地所の外れに井桁マークが付けられていた。これは何かと訊くと、「狼煙場」の跡だということだった。大和朝廷が成立したあと、西の玄関口である、九州・博多の防人から、大和へ外敵来襲などを知らせるための仕組みとして、瀬戸内の各所に狼煙場があったという。我が家の地所はその狼煙場の一つだったと知った。「城尾」という地名があったことから、狼煙場だけでなく、おそらく「砦」のようなものもあったに違いない。そう思うと、なんだかわくわくしたのを覚えている。子供のころに聞いた話なので、おそらく、大きな間違いかもしれない。だが、そういう話を聞くと、がぜん興味が湧き、自分で調べてみたくなる、好奇心に火が付くという経験になったし、それ以降、勉強するのが好きになった。
まあ、私の子供のころの話はどうでもいいのだが、こういう「難読地名」というのは、たいていの場合、故事や過去の記憶が刻まれている。そして、そこには何かしらの「わくわく」が見つかる。
和邇川を越えるために、いったん、上流側へ向かうが行き止まり。少し戻ると、細い道がある。道のうねり方を見ると、おそらく昔の街道ではないかと思う。今宿自治会の看板が目に入る。確か、古地図で「今宿村」の地名を見た。古地図では、かなり琵琶湖岸にあったはずだが、やはり、和邇川が運んだ土砂が堆積した地域だと思われる。
少し行くと、すぐに小さな橋があった。そこを渡ると、また、風景が変わった。少し回り道になるが、和邇川に沿って湖岸まで出た。広場のような場所。おそらく、夏場には駐車場になるはず。ところどころに白線の跡が残っていた。ちょっと戻って、路地のようなところを歩く。寂れた建物が並んでいるが、冬場で休業中になっているだけかもしれない。
和邇浜水泳場は、なんだかそれらしくない。ちょっと、マキノあたりに似ている。
ここからしばらく、旧街道のような道を進んでいく。時々、近江地域固有の弁柄塗の家屋がある。ただ、どういうわけか、高さ1mから1.3mくらいのところまで、格子模様のタイル張りの家が並んでいた。本来なら、焼き板か漆喰の壁になるところがタイル張りになっているのだ。
タイル張りは、昭和の住宅の特性だった。台所やお風呂などの水回りには、タイルが貼られて、白い目地で埋まっていた。私が子供のころ、我が家の台所も、竈を撤去して、プロパンガスのコンロと、細かい細工模様の流しを置き、土間をコンクリートで固めた。風呂も外にあった五右衛門風呂は、家の中に入り、タイル張りの浴槽になった。昭和40年代はタイル加工の全盛期だったと思う。この地域の家も、そのころ建てられたか、そのころの大工や左官が施工したと思う。なんだか、懐かしさを感じる通りだった。

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