SSブログ

6日目、②栗見新田 [琵琶湖てくてく物語]

出発してすぐ、「栗見新田」という集落になる。
その名前から、干拓後にできた新田だと思っていたが、干拓前の古地図にもすでに記されていた。ということは、江戸期から明治にかけて整備された圃場(田んぼ)なのだろう。
古地図を丹念に見ると、干拓前にここら一帯に広がっていた「大中湖」の西のはずれ、さすが伸びているところに小さな内湖があり、そこを丸く埋め立てた土地が二つ描かれ「栗見新田」と記載されていた。湿地帯を使った浮島の様な土地があったのかもしれない。集落の歪な地形がその名残なのだろう。
さらに、その先は「栗見出在家町」。
調べてみると、彦根藩が最後に行なった新田開発で出来た村だったそうで、土地が低いため何度も水害にあったとの事。家屋の周囲は石垣で守られていた。
おそらく、今まで歩いてきたところにあった町(村)は、みな同じような苦労をしてきた地域なのだろう。
そこを過ぎ、大同川に掛かる水車橋を渡る。
橋の上から見ると、その先の大中農地が広がっていた。橋からかなり下っていく感じで、水面よりも低い感じがする。やはり、かつてここに大きな内湖があったことが想像できる。
先に進もう。
ファミリーマートが見えたので小休止。
トイレを借りる。やはりただでトイレを借りるのは気が引けるので、タバコ1箱を買って出てきた。意外に小心者で律儀なのだよ。
そこから、いよいよ、山道に入ることになる。
ここは、伊崎山と奥津山の間の低い場所。峠と呼ぶほどではない。
古地図では「奥之島」「伊崎島」と描かれていたところだ。
島と言っても、砂州と葦原で陸続きで、周囲には、幾つもの村が描かれていた。この奥之島を古地図で見ると、幾つもの集落が書かれている。琵琶湖と内湖を巧みに使って豊かな暮らしがあったのかもしれない。
トンネルのように道路を覆う樹木の間を抜けると、堀切港だ。
琵琶湖唯一の有人島、沖島へ向かう連絡船が停泊していた。ちょっと寄り道して、港を覗いてみる。不思議なほどたくさんの車が停まっている。よく見ると、全ての駐車場に名前が書かれていた。沖島の住民がここへ車を停めているのだろう。沖島には車は必要ないし、入れない。だが、ここから近江八幡へ向かうには車は必需品に違いない。
今回、琵琶湖てくてくの際に、この港を知り、後日、沖島へ渡ることにした。チケットを買って、船を待っていると、消防車と救急車がサイレンを鳴らしながら港へ到着。降りた救急士たちは、素早く、港に停泊していた「消防救急艇」に乗り込んで、サイレンを鳴らして出発して行った。
まるで映画のワンシーンを見ているような感じがしたのを思い出した。
今、盛んに「空飛ぶ車」の開発が進んでいる。大阪万博では商業運航する予定らしい。
NHK「舞い上がれ」では、一足早く、離島を結ぶ有効な移動手段として描かれていた。「空飛ぶ車」という名前にはいまだに違和感を抱くが、(車と行ってもタイヤがないよね)ヘリコプターより手軽に飛べるのであれば、過疎地や離島には大いに有効に違いない。
ただ、安全性という点が心配なのだが、技術の進歩で私たちが抱く不安を払拭してくれるほどの安全な移動手段にいずれはなるのだろう。私自身は、その頃まで生きているとは思えないのが残念だが。
堀切港を横目に見ながら、いよいよ奥津山の道に入った。

nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント