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6日目⑧6日目終了 [琵琶湖てくてく物語]

長命寺町から近江八幡駅までのバスはなかなか快適だった。
駅に到着したところで、歩数計を見ると、32,249歩、22㎞だった。
能登川駅から出発地点までの距離を差し引くと、実質16㎞ぐらいしか進んでいないことになる。駅から田んぼの中の道を歩き、奥津島の山道を歩いたため、随分歩いた気分になっていたが、現実はこんなものだ。
次からはもっと前進できるように工夫しないといけないと思いつつ、近江八幡駅からJRに乗った。
近江八幡は魅力的な街だ。移住前にも家族で旅行したし、移住後も、年に2回以上は訪れている。古い町並み、八幡堀巡り、水郷巡り、日牟禮八幡宮、ラコリーナ近江八幡、ヴォーリズ建築、観光資源が豊富だからだけでなく、そこに新しい力を感じる事ができる。
不思議なのは、大中湖干拓が大規模に進められたにもかかわらず、内湖の一つである西の湖が残ったことだ。おかげで、信長が城を安土山に建てた理由がよく判るわけなのだが・。
そういう意味で、近江八幡は、最も近江らしい場所なのだと思う。琵琶湖と共生し、琵琶湖の恵みを巧みに利用した暮らしがそこにある。
駅を出ると、すぐに安土駅。近くに沙沙貴神社がある。
ここは、全国の佐々木源氏ゆかりの人たちがお参りする神社だそうだ。
実は、母の実家は「佐々木」姓。ゆかりがあると言えばそうなのだが、まだ、お参りしたことはない。ただ、言い伝えとして、私の実家「白井」一族は、承久の乱の際に上皇側につき、敗れたあと、山口(周防)の島に流刑となったということが判っている。同じ時、佐々木一族も上皇側につき敗走しているので、かなり近親の一族だったのは明らか。白井本家の跡継ぎが病死したため、絶えることを危惧した曽祖父が、娘の嫁ぎ先の佐々木一族から娘を養子とし、さらに、村上水軍の末裔であった「村上」一族からも男子を養子として迎え、婚姻したのだと祖母から聞いたことがある。それほどまでに本家は絶やしてはならぬという封建的な田舎町に生まれた私には、かなり責任が大きかった。
いまでは、妹が白井家を継いでいるので、私自身が白井を名乗る必要は無くなったのだが、まあ、今時、そんな一族繁栄みたいな話はどうでもいいように思うのだが、何か、自分という存在を確認するには、好都合な情報である。
実は、この話は、父が菩提寺探しをしている時に判ったことだった。
我が家には地所内に墓地があった。大きな墓が二つ並び、墓石はかなり古かった。傍らには、さらに古い墓石が並んでいて、墓地の広さはかなりのものだった。先にも書いたように、私の父と母は養子縁組である。したがって、墓に入っている人達の事はほとんど知らなかった。墓石に刻まれた人名もほとんど判らない状態だった。大きな墓石の周囲に並ぶ小さな墓石を見ると、現在の文字ではないのは明らかだった。
父は、何故だか、そういう状態を解消しなければと考え、集落にあった寺を尋ねた。そこで発見したのが、菩提寺が全く別のところにあったということ。そして、その寺を探し当て、過去帳から一族の名を見つけた。奇遇にも、その寺の住職は父の同級生だったこともあり、丁寧に調べ上げてくれた。その寺自身も、白井一族とともに京都から移ったことも判り、その寺を我が一族が庇護してきた記録も見つかったようだった。
父は、自慢げにそんな一族にまつわる話をしていたが、それからわずかの間に、癌で命を落とした。まるで、自分が墓に入るための準備をしていたようだと今になって思う事がある。
そんなことを考えている間に、能登川駅に到着した。
駐車場で車に乗り込み、自宅へと向かった。

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